国鉄キハ10系気動車(こくてつキハ10けいきどうしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1953年昭和28年)に開発した一般用気動車のグループである[1][注 1]1957年昭和32年)までに728両が製造された。

国鉄キハ10系気動車
キハ10 18(加悦SL広場の保存車)
基本情報
運用者 日本国有鉄道
製造所 日本車輌製造川崎車輛日立製作所汽車製造新潟鐵工所近畿車輛帝國車輛工業東急車輛製造富士重工業輸送機工業飯野重工業
製造年 1953年 - 1957年
製造数 728両
廃車 1984年
主要諸元
軌間 1,067 mm
最高速度 95 km/h
全長 20,000 mm
全幅 2,738 mm
全高 3,710 mm
床面高さ 1,250 mm
台車 DT19、TR49
動力伝達方式 液体式
機関 DMH17C
機関出力 180 PS
制動装置 DA1A自動空気ブレーキ
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「キハ10系」という呼称は国鉄制式の系列呼称ではなく、同一設計思想に基づいて製造され、後に国鉄によって形式称号の改正が実施された際に10番台の形式名を付与された一連の形式群を趣味的・便宜的に総称したものである。キハ17形が量産グループ最多両数形式であったことから、キハ17系とも呼ばれることがある[2][注 2]

10系気動車に含まれる車両は、広義には、1952年昭和27年)から1953年(昭和28年)にかけ試作された電気式気動車キハ4400044100・44200形の改造車、1953年(昭和28年)に試作された液体式気動車キハ44500形/キハ15形を含む狭幅車体の気動車グループ全体が包括されるが、ここでは、説明の都合上、次表に掲げた新造形式およびその改造車を含む狭義のキハ10系について取り扱うこととする。キハ44000系およびキハ44500/キハ15形、そしてその改造車群については当該各記事を参照されたい。

概要 編集

第二次世界大戦後の国鉄ではキハ41500形キハ42500形などのディーゼル動車の運転が開始されていたが、これらは単車運転が前提で総括制御が不可能な機械式気動車であり、輸送量の多い線区で使用するには総括制御対応の気動車が必要とされた[3]。1952年(昭和27年)から1953年(昭和28年)にかけて電気式のキハ4400044100・44200形が、1953年(昭和28年)には液体式のキハ44500形がそれぞれ試作された結果、重量や価格、動力伝達効率などの面から液体式が有利であるとの結論が出された[4]

これら試作車の試験結果を反映した液体式ディーゼル動車の量産車として、1953年(昭和28年)10月に登場したのがキハ45000形である[3]。キハ45000形は前面貫通形、片側2扉、片運転台のエンジン1基搭載車であり、運転台の数や便所の有無、エンジン搭載数などによる派生形式と合わせ、1957年(昭和32年)までに9形式728両が製造され、全国各地に投入された[3]。趣味誌では前述のキハ44000形キハ44100・44200形やキハ15形など、試作車改造グループから転用された郵便荷物などの合造車をも併せ、車体幅の狭い初期の一般形気動車を広義(後述)に「10台形式気動車」と呼び始めたことなどから、1980年代末を境に10系の呼称が広まり、定着していった。

国鉄の気動車技術者であった石井幸孝JR九州初代社長)は、「当時の気動車には系列の概念もなく、本来は『キハ17形』以外の何物でもないのである。」と断った上で、「キハ17形のグループについて最も両数の多い形式を代表して『キハ17系』と呼称してよいだろう。」としつつも、「『キハ10系』と呼ぶこともある。」と記している[2]。また、本グループが製造されていた時点での気動車は、2・3等合造車や2エンジン車など、一部に準急列車での使用を考慮した形式はあるものの、基本的には普通列車用として製造されており、「一般形」などの分類が登場するのは後年のことである[2]

国鉄の量産形気動車としては初めて液体式変速機を実用化し、複数車両の総括制御を容易としたことで、日本におけるその後の気動車普及の途を拓いた。一般形気動車の現代に至る運用形態の基本は、本系列を以って確立されたといえる。また、車両の電気系統・編成回路・動力機器の構成も、多くが以降の一般形内燃動車両開発の基本として受け継がれたことから、日本の鉄道技術史上における重要な系列であるといえる。

生産当初は当時の日本国内の主要鉄道車両メーカーのほとんどが参画したが、以後4年間の増備期間を通じて生産を受注したのは戦前以来の中堅メーカーである新潟鐵工所帝国車輌と、戦後後発メーカーである東急車輌製造の計3社で、これらのメーカーは中途増備から参画した富士重工業(現・SUBARU)と共に1960年代まで国鉄気動車の増備に多く携わった。最終増備となる1956(昭和31)年度のキハ45000形増備では、国鉄向け車両について貨車鋼体化客車などの納入実績しかない輸送機工業飯野重工業が参加したのが特異な事例である。

形式一覧 編集

キハ10系新造形式一覧(付:派生形式一覧)
形式 旧形式 車体
形状
便所 製造
初年
製造
両数
派生形式 備考
キハ17形 キハ
45000
片運転台 1953年 402 キユニ17形
キニ17形
1 - 205は
全クロスシート
キハ16形 キハ
45500
片運転台 1954年 99 キハユニ18形
キユニ18形
 
キハ10形 キハ
48100
両運転台 1955年 70 -  
キハ11形 キハ
48000
両運転台 1955年 74 キユニ11形 101 - 111は
寒地向け
キハ12形 キハ
48200
両運転台 1956年 22 - 酷寒地向け
キハ18形 キハ
46000
運転台
なし
1954年 31 キハニ15形 1 - 15は
全クロスシート
キロハ18形 キロハ
47000
運転台
なし
1954年 8 キハユ15形
キユニ15形
キニ15形
2・3等合造車
洗面所付
キハ50形 キハ
44600
片運転台 1954年 2 キハユニ17形 2個エンジン車
試作車
キハ51形 キハ
44700
片運転台 1956年 20 キニ55形 2個エンジン車
  キハユニ
48000
非貫通
片運転台
計画のみ (14)   郵便荷物3等合造車
  キユニ
48100
両運転台 計画のみ (7)   郵便荷物合造車
※旧形式は1957年4月の称号改正以前の形式。( )内は計画数。

車両概説 編集

 
キハ17系開発の際に参考としたバッド社のRDC

1953年昭和28年)に液体式試作気動車として開発されたキハ44500形の実績を基に開発され、車体の大きさや性能もほとんど同一である。従って車体断面は標準的な電車客車より小さく、軽量化が徹底されていた。総括制御により最大10両編成での運転が可能となっている[4]。キハ44500形は電気式試作車同様に80系電車に類似した前面非貫通2枚窓の「湘南顔」であったが、この量産車キハ45000系では貫通型となった。

全車貫通構造を標準化したこと、車体中央部両壁面に排気管を通した屋上排気方式を採用した点は、アメリカ合衆国バッド社1949年から量産化していた気動車「RDC」(Rail Diesel Car)の影響とも指摘されている[5]。RDCは車体全長85 ft(25,908 mm)のステンレス車で、デトロイトディーゼル2ストローク275HPディーゼル機関2基とアリソン・トランスミッション製液体変速機を搭載した総括制御車であり、1962年までに約400両が南北アメリカからサウジアラビアまで世界各地に供給された[5]

車体 編集

 
外板色(軽快色)や検査標記、前照灯など、外観を東急車輛製造での新製当時(1956年)に近く復元されたキハ48036(キハ48000→キハ11)の正面。貫通路下の密着自動連結器の黒色塗装が落とされ、形状がわかりやすくなっている。尾灯周りの赤色は赤色後尾標識[注 3]。現車は佐久間レールパーク保存車。2009年撮影

鋼板および鋼板プレス材により構成された軽量構造である。設計全般には、当時の車両火災などへの考慮から、難燃・不燃材料などが多く取り入れられている。

車体幅は2,603 mm、車体長は19,500 mm、連結面間の全長は20,000 mmでキハ44500形を踏襲しているが、高さは通風器の変更でレール面から通風器までの高さが20 mm高い3,710 mmとなり、屋根上面高さも3,500 mmとなった[6]。当時の電車や客車では全幅2,800 mmが一般的であったが、車体重量を可能な限り軽量化するため、また当時の車両限界が第1縮小車両限界ではレール面上965 mmまでの幅が2,642 mmであったことから、ステップを設ける関係で車体断面が小さく設計されている[7]

最大の特徴は、正面貫通式運転台を採用したことである。運用にフレキシビリティを持たせるためで、以後の国鉄気動車は特急形も含めほとんどがこれを踏襲し、結果、1両単位での自由な増解結が可能となり、車両運用上多大な利便性を有することになった。貫通扉は内開き戸で、開口幅は600 mm、運転室前面窓は幅610 mm × 高さ610 mm、乗務員扉は落とし窓付きの内開き戸で、幅は500 mmである[8]

側面レイアウトは中・長距離客車列車の置き換えを想定した2扉構成で、先行して製造された電気式気動車キハ44100形に近い。側面形状は車体両端にステップ付の客用ドアを配置し、扉幅はキハ45000形と同じく850 mm、レール面上からステップまでの高さも970 mmとされた[6]。床面高さは1,250 mmであり、ステップの設置により地方線区で一般的な高さ760 mmのプラットホームから不具合なく乗降可能なようにされた[7]。扉下部には明かり窓が設置され、ドア開状態の時はステップのフットライトが点灯する[6]

客室側窓は1953年製のキハ44000形2次車と同様、上段をH断面ゴム(Hゴム)支持固定、下段を上昇式とした、いわゆる「バス窓」である。窓下には補強帯(ウインドウ・シル)を備えた古い形態を残す。車体中央部壁の面に排気管を立ち上げる屋上排気方式を標準とした[注 4]。雨樋はキハ44000系と異なり前頭部も縦樋が露出しており、初期車は前頭部の縦樋が車体隅にあったが、キハ45100以降の増備車では側面に移動している[9]

落成当時の塗色は青3号(腰板、幕板)と黄かっ色2号(窓周り)の塗り分け(旧一般色)であったが、1959年以降は朱色4号(腰板、幕板)とクリーム4号(窓周り)の塗り分け(新一般色)、1976年以降は残っていたものが朱色5号の1色塗り(首都圏色)となった。朱色5号の1色塗りは1975年(昭和50年)2月に相模線のキハ10 61で試験採用されたのが始まりで、40系が登場した1977年(昭和52年)に正式採用されて日本全国に拡大した[10]

一時的にはクリーム2号赤2号の帯を窓下に入れた準急色となった車両があり、急行かすが」や準急「日光」の増結車両などで運用された実績がある。また、赤11号(窓周り)とクリーム4号の急行色となった車両もあり、1970年(昭和45年)時点でキハ51 19(当時盛岡機関区所属)による花輪線の運用が存在した[11]

内装 編集

 
車内

ベニヤ板に耐火塗料を塗布した簡易なもので、照明は白熱灯であり、キロハ18形の一部を除き扇風機は設置されていなかった。

客用扉は、長編成化に伴う保安性向上と地方線区向け車両としてのコストダウンとの両立を考慮、開扉は乗客の手動により、閉じるときにのみ自動で動作する半自動ドアとされた。これに応じて専用に新型の小型ドアエンジン・TK5型を装備している。このドア閉動作は運転台からの総括制御により、編成全体で動作した。

座席はクロスシートを基調とし、シートピッチは1,430 mmを確保した[8]。当初の昭和28年度製造グループでは、機械式気動車や電気式・液体式試作気動車同様に背ずりが800 mmと低い簡易なタイプで全クロスシートであった。

1954年昭和29年)途中からの製造車(キハ45000形ではキハ45205→キハ17 206以降)では、ラッシュ時等の混雑緩和のため車端部のクロスシートがロングシートに変更された[9]。背ずりは背中合わせの乗客と頭がぶつかるのを防ぐため1,100 mmに高くなり[9]、同時に肘掛けが省略された。初期形の一部にはドア付近のクロスシートを撤去して立席を広げたものがあった。

それでも地方線区の普通列車用であるため、背ずりも軽量化のために中板がなく、枠が詰め物を囲うだけの簡易な構造とされ、背中合わせに座った客の動きが互いに伝わってくるという、極めて粗末な代物であった。布団上掛けは同時代のバス同様にビニール張りであったが不評で、後にモケット張りに改められた。室内幅が狭いことからゆとりも少なく、台車構造の欠陥(後述)も伴って乗り心地は良くなかった。

便所設置車は専用の500 L水タンクを客室内に置いている。両運転台のキハ11・12形ではスペース節減のため、便所を運転台助士席側直後に半分めり込ませたようなレイアウトを採り、かつ、便器をトイレ内の対角線に沿って配置している(これは他にあまり例のない手法である)。もっとも、キロハ18形については二等客室にシートピッチの広い固定クロスシート(間隔1,850 mm)を配置し、便所の他に独立した洗面所も設けている。

なお、キハ10系は運転席周りの前後スペースが窮屈で移動しにくかったため、特にその初期に見られた準急列車快速列車運用では、タブレット閉塞区間の通過駅で運転台側(進行方向左側)が通過ホームとなる場合、二人乗務した運転助士がタブレット授受に難渋を強いられたという。この問題を避けるため、気動車不足であった1950年代末期の気動車準急列車には、運転席後方にゆとりを持たせ乗務員がタブレット授受をしやすい準急形の55系を手配して先頭に連結、中間車は格下の10系で間に合わせるという、竜頭蛇尾な混成編成も関西本線などで見られた。

暖房装置 編集

 
床下の温気暖房器。車体左右に1基ずつ合計2基を装備する。佐久間レールパーク保存車・キハ48036

暖房装置は当初は戦前の機械式気動車以来の方式で走行エンジンの排気ガス熱交換器(ヒートエクスチェンジャー)に導き車内空気を熱する排気暖房であったが、全長20 m級のキハ45000系では効率が悪く、特に極寒地の北海道では能力的に問題視された[12]。このため、1954年(昭和29年)以降の増備車では軽油燃料による独立した温気暖房装置(温風式、いわゆる石油ファンヒーターの一種)を搭載することになった[12][注 5]

各種比較の結果、三國商工ドイツヴェバスト(Webasto)社からバス用温気暖房器の技術を導入して国産化した「三國ヴェバスト式」(ウエバストとも)、または類似設計で五光製作所が製造した「五光式」(ゴコーヒーター)の2種類が採用され、1960年代前半にキハ22形温水暖房が採用されるまでの標準方式となった[12]

また、当初は運転台周囲の暖房装備も不十分で、運転士の作業環境に難があり、後年改良が図られている。

主要機器 編集

機関装置 編集

 
DMH17機関。佐久間レールパーク保存車・キハ48036

機関はキハ44500形と同様のDMH17B形ディーゼル機関(160PS/1,500rpm)を1台搭載した[13]。液体変速機は同じくキハ44500形で採用の振興造機製TC2が、後に新潟コンバーター製DF115も用いられた[13]

エンジンと変速機は車体床下に吊り下げられた機関台枠に搭載されており、ここから取り出された動力は、プロペラシャフトユニバーサルジョイント)、ギアボックスと一体化の上で台車のトランサム(横梁)に2本の平行リンクで結合して支持される、ベベルギアと平ギアによる逆転機、およびこれと一体化された平ギアによる最終減速機を経て、台車の車体中央寄り1軸を駆動する構造であった。

この基本構成、特に逆転機の支持機構は戦前の日本において気動車開発で最先端を走っていた日本車輌製造本店が1920年代末期に考案し、国鉄ではキハ36900形で初採用したものである。

これはその簡潔にして合理的な構造ゆえに、日本の気動車における駆動システムの標準方式として国鉄・私鉄を問わず広く普及し、1960年代末に2軸駆動のために逆転機を最終減速機と分離した新系列気動車が誕生するまでの、日本で製作されたボギー台車を装着する機械式気動車と液体式気動車のほぼ全てに採用され、21世紀に入ってもなおその一部が引き続き使用され続けている。もっとも、その反面構造上の制約から2軸駆動が困難という問題があり、本系列でも1台車1軸駆動が踏襲されている。エンジン出力が不十分であった戦前には、粘着力増加のためボルスタ位置を動軸側にずらして動軸の荷重を増やした偏心台車の採用例が私鉄で存在したが、国鉄制式気動車では導入されていない。

ブレーキ、自動扉開閉に利用される圧縮空気は、1エンジン仕様各車は機械式キハ42000形以来のC600形直列3気筒空気圧縮機で、エンジン側面に装備され、ベルト駆動される。2エンジン仕様のキハ44600・44700はエンジン1台あたりの負担を下げるため、キハ41000形に用いられていた、C600形から1気筒を減じたC400形直列2気筒空気圧縮機を装備して、2台並列作動させる方式を採っている。

台車 編集

 
台車に架装された逆転器の2本リンク部分と、遠隔操作で逆転機を切り替えを可能とするエアシリンダ。キハ48036
 
TR49形台車。佐久間レールパーク保存車・キハ48036

本系列の台車は、キハ44500形で採用された軸距2,000 mmのDT19・TR49台車が引き続き採用された[13]。これらは、電気式のキハ44000系用として開発されたDT18を祖とする、鋼板をプレスした部材を溶接して組み立てられた台車枠とゴムブロックを枕ばねに用いた軽量台車であった。

軸ばねはヤジロベエ式に中央で釣り合いを取る下天秤ウィングばね構造で、これは汽車会社京阪電気鉄道南海電気鉄道向けに納入した高速電車用新型台車で先行採用して実績を積んでいた方式であった。これに対し、ゴムブロックによる枕ばねは当時の自動車[注 6]や鉄道車両でゴムばねの採用例が生じていたことに影響を受けての採用であり、いわば時流に乗ったかたちとなった[注 7]

ゴムばねは金属ばねと比べた場合、一般に軽量である。また、圧縮されるとばね定数が上がる非線形特性を持ち、自己減衰作用も高く[注 8]、振動周期も短いなど、一般の金属ばねと異なった特徴を備える。しかし、これらの特性は枕ばねよりはむしろ軸ばねへの採用に適したものであり、自動車でのゴムばねはサスペンションスプリングとしては普及せず、コンプライアンスブッシュとして進化していった。実際、乗り心地を支配する枕ばねにゴムブロックを用いたこれらの台車では、DT19・TR49の設計時に金属ばねとの違和感を低減するため、軸ばねの容量を大きくするなどの対策を講じたが、過積載時の安全率を見込む必要からむやみにばね定数を下げることも出来ず、いずれも乗り心地はやや硬めで、低速域、特に制動時に速い上下動を伴うものとなり、貧弱な座席ともども評判は芳しいものではなかった。

このためか、キハ10系の一部ではキハ55系3次車以降やキハ20系中期車以降に標準採用されたウィングばね式DT22・TR51に交換された車両が存在するが、大半はDT19・TR49装備のまま廃車まで使用された。最後まで営業運転に用いられていた茨城交通の車両も台車はDT19・TR49のままであったが、レジンシューが採用されたため、制動時の振動問題についてはやや改善されていた。

ブレーキ・制御機器 編集

ブレーキはキハ44000形以降のシステムを踏襲し、電車用(Aブレーキ)や客車用(AVブレーキ)として一般的であったA動作弁(鉄道省により1929年制式採用)を使用する元空気溜管式自動空気ブレーキを気動車用とした、DAブレーキ(運転台付きの車両はDA1、運転台無しの車両はDA2)が採用された。客車用AVブレーキをベースに勾配線区での運転を考慮してブレーキ弁の「保ち」操作が可能になっている[14]

1932年から国鉄機械式気動車で標準的に使用されてきた直通ブレーキ・自動空気ブレーキ兼用のGPSブレーキでは3両編成が上限であったが、このブレーキと総括制御システムの併用により客車列車に近い長大編成(開発時点では最大10両編成想定)での運転が可能になった。ブレーキ制御弁はM23弁、三動弁もA動作弁と機器の各構成要素は電車用Aブレーキと同一であり、A動作弁そのものは1931年のキハニ36450形でGA1(ブレーキ制御弁は釣り合い機構を省略したG-1-A制御弁)として採用実績がある。

ブレーキシリンダについては従来同様の車体装架式であるが、電気式44000形以降の流れを汲み、ロッドを介し1シリンダで1台車を制動する1両2シリンダ仕様とした。1949年昭和24年)設計の80系湘南形電車等と軌を一にした保安性配慮の改善である。また、編成各車に搭載の空気圧縮機の負荷分担を均等にするため、アンローダ弁を一斉制御する機能が付加されている。本系列で確立されたこれらの基本仕様は、以後、空気ばね台車装備(台車装架シリンダ仕様)の車両を除くDMH17系エンジン搭載の国鉄液体式気動車のほとんどに踏襲された。

主幹制御器は、新開発のMC19形を装備する。エンジンの燃料噴射量および液体変速機の動作を電磁弁で遠隔制御する基本は、キハ44500形向けに開発されたMC18形から踏襲し、新たに装備した自動扉の扱いに対応する電磁弁回路を追加したものである[15]。以後、国鉄末期までの多くの気動車で標準採用された。

連結器は小型密着自動連結器が採用された[15]。従来の機械式気動車では軽量化のため簡易構造の連結器が使用されたが、キハ45000系では最長10両編成とされたため、連結器強度は従来より大きい25 tとされた[15]。連結時の隙間が小さいため衝動が少なく、かつ従来の並形自動連結器との連結も可能である[16]ジャンパ連結器は制御・ブレーキ指令用のKE53×2本とされた[15]

新製形式 編集

キハ10系の量産新製グループは片運転台車の比率が非常に高く、運転台のない中間車も比較的多く存在する点が挙げられる。開発時は総括制御機能を活かし、従前の客車列車編成をも置き換えられる長編成を想定していたことによる。実際に運用すると、機動性確保の面から運転台を減らし過ぎた車種構成は得策でないと判断され、遅れて両運転台車が新たに製造された。後続の一般型気動車の多くはこの経験により、機動性の高い両運転台車に重点を置いて増備されることが通例となった。

1953年の計画時点では、三等座席と郵便室・荷物室の合造車である片運転台車「キハユニ48000形」や、両運転台の郵便荷物合造車「キユニ48100形」も企画され、特にキハユニは車端の荷物室側を非貫通構造にする予定であったが、旅客車両の気動車化を優先するコスト配分方針から、これらの新製は取りやめられた[17]。このため、当面の郵便・荷物輸送は気動車投入路線に一部残存させた蒸気機関車牽引列車に集約することで対処し、後年、電気式気動車改造車など初期試作車の改造や、大型車体の新車投入で捻出されたキハ10系量産グループ自体の改造などで、合造気動車を充足している。

キハ17形(キハ45000形) 編集

便所付き片運転台車で、1953年から1957年にかけて402両が製造された[18]。本系列の基幹形式で、北海道を含む日本各地に配置・運用された。

初期車は全座席がボックス式クロスシートであったが、1954年製の206以降は、乗客の乗降の円滑化を図るため、客用扉付近のクロスシートがロングシートに変更されるとともに、シートの背ずりが高く改良された。また、1956年製の321 - については、車体強度の向上が図られた関係で、トイレの窓がHゴムによる固定式となり、トイレおよび水タンク室の補強帯(シル・ヘッダー)が省略され、客室幅が12mm広げられた。客室の拡幅に関する設計変更は、同時期に製造されていた他形式でも行われている。

形式間改造については、11両がキユニ17形に、5両がキニ17形に改造された。老朽廃車については1973年から始まり、1981年までに全車が除籍された。

キハ16形(キハ45500形) 編集

 
キハ45500形

便所なし片運転台車で、1954年から翌年にかけて99両が製造され、日本各地に配置・運用された。車内は全車がキハ17 206 - と同様の、客用扉付近にロングシートを配した背ずりの高いタイプとなっている。定員は106名(座席82人、立席24人)である。

形式間改造については、8両がキハユニ18形に改造され、そのうち6両がキユニ18形に再改造されている。廃車は1974年から始まり、1980年までに全車が除籍された。うち4両が島原鉄道に譲渡されたが、キハ17形と同じく1986年までに全廃されている。

キハ10形(キハ48100形) 編集

便所なし両運転台車で、1955年から1957年にかけて70両が製造され、北海道を除く日本各地に配置・運用された。定員は92人(座席76人、立席16人)である。

老朽廃車は1975年から始まり、1981年までに全車が除籍された。形式間改造車はない。

キハ11形(キハ48000形) 編集

便所付き両運転台車で、1955年から1957年にかけて74両が製造された。このうち48016 - 48026の11両は、寒地向けの耐寒耐雪装備で北海道に新製配置されており、1957年の改番の際は100番台(101 - 111)に区分された[19]。定員は88人(座席74人、立席14人)である。外観上の特徴として、客用扉下部の明かり窓が無いことがあげられる。これは、この後北海道用として造られたキハ12、キハ21、キハ22、キハユニ25の各形式にも引き継がれている。

100番台は道北など酷寒地での液体式気動車運用の試金石となり、冬期の積雪時でも液体式変速機のトルク増大能力と小型スノープラウによる軽排雪能力によって気動車運行が可能であることを立証した。しかし、耐寒性が不十分であり、耐寒耐雪性能を強化したキハ12形が後を追って製造されたため、程なく道外(五能線、芸備線)に転用された。

形式間改造としては、1965年(昭和40年)度に2両、1968年(昭和43年)に1両の計3両がキユニ11形に改造されている。老朽廃車は1975年(昭和50年)から始まり、1980年(昭和55年)までに全車が除籍された。

キハ12形(キハ48200形) 編集

酷寒地向けの便所付き両運転台車で、キハ11形100番台の耐寒性能不足に対処する目的で1956年に22両が製造され、全車が北海道内で使用された。定員は、基本的な車体構造が同じキハ11形と同一である。キハ11形100番台との主な相違は、側窓が二重構造となったことで、従来の客室通常窓を外窓とし、それより内側に木製枠の二段内窓を装備した。下段内窓は、二重窓の不要な季節には幕板内に収納できる構造である。

またキハ11形100番台では、乗務員室とその後部に食い込んだ便所の暖房につき、客室側から温気暖房の温風を台枠下経由で配管して送風していたが、管の屈曲による抵抗や保温の悪さから、特に乗務員室が暖まりにくく、運転士から改善が要望された。このためデッキ床面を75mmかさ上げし、台枠と床面の間に高さ50mmの広幅送気ダクトを通すよう変更、暖房の送気効率を上げた[20]

当初は、デッキ部の仕切り壁は設置されていなかったが、後年の改造により設置された。

老朽廃車は1976年から始まり、1980年までに全車が除籍された。形式間改造車は存在しない。

浅田次郎の小説『鉄道員(ぽっぽや)』に本形式の続番となるキハ12 23を名乗る車両が登場する[注 9]。この小説の映画化に際し、撮影用にキハ40形気動車を改造し、本形式に似せた外観にしている。

キハ18形(キハ46000形) 編集

便所なし中間車で、運転台を装備していない。1953年から1954年にかけて31両が製造された。多客期には北海道に渡るなど、日本各地で使用された。キハ17形と同様、1953年度製造車(1 - 15)はオールボックスシートであったが、1954年度製造車(16 - 31)は客用扉付近をロングシートとしており、定員と窓割りが異なる。外観上も1954年度製造車は戸袋窓が設けられており、1953年度製造車とは異なる。

編成運転を前提に製造された形式であったが、運転台を持たないため、運転台装備車と連結しなければ自走での入換作業すらできず、機動性に乏しいという欠点があった。以後の国鉄では、優等車もしくは特急形を除いて、気動車の中間車は新製されなかった。

運用上の制約の多い中間車ではあったが、形式間改造はキハニ15形への1両のみであり、老朽廃車は1974年から1979年にかけて行われた。

キロハ18形(キロハ47000形) 編集

一般形気動車としては唯一の優等車(二・三等合造)で、便所・洗面所付きの中間車である。1954年に1次車(1 - 5)、1956年に2次車(6 - 8)の計8両が製造された。2次車は、二等室に扇風機を設置したため、その取付け部が屋根上に張り出している。定員は、二等32人・三等62人(座席44人、立席18人)である。

1次車の5両は千葉地区向けに投入されたが、短期間で他線区へ転用された。2次車の3両は当初関西本線準急列車向けに増備されたもので、扇風機装備は長距離優等客への配慮である。当初は2基エンジンのキハ50・51・55と編成を組み、名阪間(名古屋 - 湊町間)の都市間連絡準急として運用された。

二・三等合造車であることから、当初は各地の準急列車に起用されることも多かったが、幅の狭い小型車体で二等室も固定クロスシートであるなど居住性(と台車枕ばねに起因する乗り心地)が悪く、優等列車での使用には基本的に無理があったため、準急形気動車キハ55系の本格的な二・三等合造車キロハ25形が登場すると準急運用から外され、1961年にキハユ15形へ6両、キニ15形へ2両が改造されて形式消滅した。キハユ15形については、5両がキユニ15形に再改造されている。

キハ50形(キハ44600形) 編集

便所なしの片運転台車で、定員は110人(座席92人、立席18人)である。勾配線区向けの強力(エンジン2基搭載)形気動車の試作として1954年に2両が製造されたものである。

キハ45000形よりも後に計画・設計された形式であるが、液体式気動車の試作車であるキハ44500形(キハ15形)の続番となるキハ44600形とされた。また1957年4月の国鉄気動車の形式称号改正までの短期間であったが、キハ44700形(キハ51形)、キハ44800形(キハ55形)とエンジン2基搭載の量産車にも44000番台の形式番号が与えられていた。

台車はキハ45000系のDT19を仕様変更したDT19Aを搭載した[21]。エンジン1基搭載の気動車は急勾配区間では出力不足で十分な走行性能を得られないため、DMH17B形エンジンを2基搭載、各台車の内側軸を駆動することで総出力320PSの2軸駆動としている。しかし、本系列で標準の縦形直列8気筒のエンジンと液体式変速機、ラジエーター、推進軸、逆転機を2セット、そのまま車体中心線直下にタンデムに並べて装架したことから床下スペースが不足し、これを補うため最大長22,000mm、台車中心間も通常型気動車に比して2m長い15,700mm[22]という長大な車体となった。車体断面はキハ45000形をそのまま踏襲したため、極端に細長い外見となっている。

勾配路線での走行性能は確保されたものの、規格外の長大な台車中心間隔から、分岐器の通過時に両台車の内側車輪がともに誤転換防止用のディテクター・バーを跨ぎ越してしまうタイミングがあって、これが原因で分岐器通過中の誤転換から脱線事故へつながる危険があった。そのため、本形式は特に分岐器の改修を実施しディテクター・バーを延長することで対処した関西本線などに運転線区が限定されることとなった。

もっとも、エンジン2基搭載の強力車としては計画通りの性能を発揮し、量産車であり推進軸や逆転器回り、それに冷却装置の設計変更で車体長短縮を実現した、キハ44700形以降の開発に貴重なデータを提供した。また10系気動車の中でも最初から温気暖房装置装備で新製された初めての形式である。

1961年にエンジン・変速機・推進軸・逆転器を1セット下ろしてキハユニ17形に改造、形式消滅となった。

キハ51形(キハ44700形) 編集

キハ50形の試用実績に基づいて製作された強力形気動車の量産型で、1955年から1956年にかけて20両が製造された便所付きの片運転台車である。キハ50形では車体が長すぎて運用に支障を生じたことから、床下機器配置が見直され、プロペラシャフトの短縮、ラジエーターの小型化などの措置が行われている。この結果、最大長は20,600mm、台車中心間は14,300mmに縮められ、運用線区の制約がなくなった[23]。定員は92人(座席80人、立席12人)で、便所が設置された。

1950年代後半には、準急形であるキハ55系の開発・製造が需要に間に合わなかったことから、出力の余裕を買われて関西本線などで準急列車に用いられたこともあったが、主に本州内の勾配路線(御殿場線など)で普通列車に運用された。1965年には4両がキニ55形に改造された。1エンジン車の他形式とは異なり、非力なキハ40系ではその運用を代替できなかったことから廃車が遅れ、キハ58系が普通列車に転用されるようになった1980年から1981年にかけて除籍された。

製造年・製造会社別一覧 編集

製造
年度
形式 日車 川車 日立 汽車 日車支店 新潟 近車 帝車 東急 富士重 輸送機 飯野
1953 キハ
17
1 - 16
101 - 114
17 - 30
115 - 127
201 - 205
31 - 42
163 - 173
189 - 195
43 - 54
128 - 136
55 - 66
147 - 153
196 - 200
67 - 78
137 - 146
79 - 88
174 - 179
89 - 94
154 - 162
95 - 100
180 - 188
 
キハ
18
  1 - 5 6 - 10   11 - 15  
1954 キハ
16
  1 - 35   36 - 65 66 - 69  
キハ
17
  206 - 215  
キハ
18
  16 - 31  
キハ
50
  1・2  
キロハ
18
  1 - 5  
1955 キハ
10
  35 - 37   1 - 11
15 - 34
38 - 40
12 - 14  
キハ
11
  1 - 16  
キハ
16
  78 - 87   88 - 99 70 - 77  
キハ
17
247 - 258   259 - 270   216 - 229 291 - 310 230 - 237 238 - 246
271 - 290
311 - 320  
キハ
51
  1・2
4・5
 
1956 キハ
10
  41 - 70  
キハ
11
  101 - 111   34 - 47
54 - 58
17 - 33 48 - 53
59 - 63
 
キハ
12
  1 - 22  
キハ
17
  355 - 364   332 - 354 321 - 331
365 - 382
383 - 392 393 - 402
キハ
51
  3
6 - 20
 
キロハ
18
  6 - 8  

郵便・荷物車への改造車 編集

本系列の気動車は、非電化ローカル線無煙化(蒸気機関車の淘汰)を促進し、速度向上やフリークエントサービスを実現、1950年代における国鉄の近代化に貢献した。特に無煙化と速度向上の効果は大きく、日本各地の鉄道沿線から気動車導入の要望が続出し、本系列の導入計画路線を巡って政治贈賄事件も起こったという逸話もある。

しかしキハ10系は、軽量化の要求から車体寸法が小さく居住性に難があったため、後継形式のキハ20系が普通の客車と変わらない車体寸法で製造されるようになると、早々に陳腐化した存在となった。そこで、余剰となった本系列気動車の郵便車荷物車、あるいは、これらとの合造車への改造が多数実施されている。形式としては、次の11形式があげられる。

キハユ15形 編集

1961年にキロハ18形を改造した二等郵便合造車である。種車の便所・洗面台部分を運転室に改造し、旧一等室部分を郵便室とした。郵便室部分の側面には幅1,000mmの荷扱い用扉が設置され、側窓も1か所を残して埋め込まれた。前面は101系電車に似た3枚窓の非貫通構造となった。郵便室の荷重は5tである。

多度津工場で6両が改造されたが、運用上の問題から1963年から1964年にかけて5両がキユニ15形に再改造されている。残った4は関西本線・和歌山線などで使用されたが1978年に廃車され、形式消滅した。

キロハ18 1 - 3・6 - 8 → キハユ15 1 - 6

キハユニ17形 編集

1961年にキハ50形を改造した二等郵便荷物合造車である。改造の際に2基搭載していたエンジンのうち1基を取り外し、車体の前半分を運転台側から荷物室、郵便室として、従来の客用扉を埋め込みそれぞれに幅1,000mmの片引戸を設けている。郵便室、荷物室の荷重は、各3tである。改造後も車体短縮は実施されず台車中心間もそのままであった。

名古屋工場で2両が改造され、越後線ほかの郵便荷物輸送改善を目的として新潟地区に配置された。2は1964年6月16日に発生した新潟地震の際に、落下した陸橋の下敷きとなり大破、廃車となった。残った1はのち厚狭機関区に転じ、美祢線ほかで運用されたが、1980年に廃車され、形式消滅した。

キハ50 1・2 → キハユニ17 1・2

キハユニ18形 編集

1966年から1967年にかけてキハ16形を改造した二等郵便荷物合造車である。車体の前半分を運転台側から荷物室、郵便室として従来の客用扉を埋め込み、それぞれに幅1,000mmの片引戸を設けている。郵便室の荷重は1t、荷物室の荷重は3tである。

新津(現・総合車両製作所新津事業所)・郡山(現・郡山総合車両センター)・土崎(現・秋田総合車両センター)・後藤(現・後藤総合車両所)・幡生(現・下関総合車両所)の各工場で8両が改造され、各地に配置された。うち6両が1969年から1972年にかけてキユニ18形に改造されている。残った2両(3・6)は、それぞれ1975年と1979年に廃車されている。

キハ16 32・49・50・77・85・38・39・66 → キハユニ18 1 - 8

キハニ15形 編集

1964年にキハ18形を改造した二等荷物合造車である。種車は中間車であるため、種車の切妻車体のまま貫通型の運転台を設置し、前位寄り半室を荷重5tの荷物室とした。荷物室には、幅1,000mmの荷扱い用片引戸が設置されている。

高砂工場の改造で、当初は和歌山機関区に配置されたがすぐに新潟運転所へ移り、1978年に廃車となった。

キハ18 21 → キハニ15 1

キユニ11形 編集

キハ11形を改造した郵便荷物合造車で、1965年度に2両が小倉工場で、1967年度に1両が幡生工場で改造された。1965年度改造の1, 2は0番台の、1967年度改造の3は100番台の改造車で、本系列の改造車では唯一の両運転台型である。

どちらのタイプも基本的な車体形状は変わらず、従来の客用扉はすべて埋め込まれ、車体の前位寄りを郵便室、後位寄りを荷物室とし、郵便室には幅1,000mmの片引き戸を、荷物室には幅2,000mmの両引戸を設けている。

1・2は当初は千葉気動車区に配属されたが、房総地区各線の電化により1が岡山気動車区、2が豊岡機関区に転属後、1980年に廃車。3については、広島機関区に配置され1981年に廃車されている。

キハ11 30・44・107 → キユニ11 1 - 3

キユニ15形 編集

1962年度にキハユ15形を再改造した郵便荷物合造車で、多度津工場で5両が改造された。従来の二等室を荷物室としたもので、荷物室には幅2,000mmの両引戸を設けているが、従来の客用扉も存置されている。高松運転所に配置されていたが、1978年から1981年にかけて廃車された。

キハユ15 2・1・3 - 5 → キユニ15 1 - 5

キユニ17形 編集

キハ17形を改造した郵便荷物合造車で、1966年 - 1970年にかけて11両が改造された。改造時期により、1・2(0番台)と、11 - 19(10番台)に大別される。

0番台は、1966年に多度津工場で改造されたもので、前位に荷重3tの郵便室、後位に荷重4tの荷物室を設けており、郵便室は幅1200mmの両引戸、荷物室には幅2000mmの両引戸を設けている。後位の客室扉は存置され、事務室が設けられている。落成後は四国に配置されたが、後に1が北海道に転じて耐寒設備を装備している。

10番台は、1967年から1970年に多度津工場および幡生工場で改造されたもので、後位の事務室を縮小して荷物室の荷重を5tとしている。基本的構造は0番台と同じであるが、後位客用扉は埋め込まれ、幅700mmの開き戸となっている。また1970年改造の19は、郵便室幕板に採光窓を設置している。

廃車は、1977年から始まり1982年廃車の19をもって消滅した。

キユニ18形 編集

 
キユニ18 1(1982年頃、岡山駅)

キハユニ18形を再改造した郵便荷物合造車で、幡生工場で6両が改造された。改造時期により形態が異なる。

1969年に改造された1・2は、車体の前位を荷重4tの郵便室に、後位を荷重5tの荷物室に改造しており、旧荷物室の扉は、郵便室用の幅1,200mmの両引戸に改められ、荷物室用には幅1,800mmの両引戸が設置されるとともに、後位に便所と事務室を新設している。

1971 - 1972年に改造された3 - 6は、1・2とは設備の配置が逆になっており、前位が荷物室、後位が郵便室となった。事務室についても運転台直後に移されている。荷扱扉は荷物室が幅1,800mmの両引戸、郵便室は幅1,200mmの両引戸で、郵便室の幕板に採光窓が2つ設けられている。

改造後は1・2が米子機関区、3が遠軽機関区、4 - 6が岡山気動車区に配置されていたが、廃車まで移動することなく1979年 - 1981年に廃車された。

キニ15形 編集

 
キニ15 1(1980年頃、高松駅)

1961年にキロハ18形を改造した荷物車で、多度津工場で2両が改造された。運転台の形状は、キハユ15形と同様であるが、本形式の運転台はキハユ15形とは反対側の旧三等室側に設けられている。そのため、後位側車端には便所と客用扉が残っている。荷物室用の扉としては、幅2,000mmの両引戸が2か所に設けられ、荷重は11tである。

改造後は高松運転所に配置され、廃車まで異動することなく1が1981年、2が1979年に廃車となっている。

キロハ18 4・5 → キニ15 1・2

キニ17形 編集

 
キニ17 4(1982年頃)

キハ17形を改造した荷物車で、多度津工場で1966年に4両、1967年に1両の計5両が改造された。後位側車端には便所と客用扉が残され、荷物室用の扉としては、幅2,000mmの両引戸が2か所に設けられており、荷重は11tである。

改造後は高松運転所に配置され、廃車まで異動することなく1982年に廃車となっている。

キハ17 61・58・86・87・55 → キニ17 1 - 5

キニ55形 編集

 
キニ55 4

キハ51形を改造した荷物車で、多度津工場で1965年に4両が改造された。従来の客用扉はすべて埋め込まれ、幅2,000mmの両引戸が2か所設けられた。車体が長い分、荷物用扉間の窓がキニ17形より1個多い3個となっており、荷重も1t多い12tである。

改造後は水戸機関区に配置され、常磐線の荷物列車として使用された。前年に1エンジンのキニ16形が就役していたが、高密度ダイヤの常磐線での運用は出力不足による加速力不足が問題となった。このため代替車として2エンジンのキハ51形を種車にした本形式が充当されたものである。本形式は、キハ10系としては最も遅くまで使用され、廃車は1984年であった。

キハ51 2・4・10・13 → キニ55 1 - 4

改造工事 編集

DMH17Bの出力向上 編集

DMH17Bの機関は当初は160 PSであったが、1957年登場のキハ55形0番台量産車より予燃焼室の噴射口を4つから3つに変更して170 PSに向上、続いて燃料噴射ポンプのプランジャ径拡大で出力を180 PSに向上したDMH17Cに改良されることになった[24]。キハ10系でも1959年度以降に出力を180 PSに出力する工事が施工された[24]

DT22・TR51台車への交換 編集

1959年にキハ55系でDT19系台車とDT22系台車の比較試験を行ったところ、DT22系の乗り心地が優れていることが判明した[24]。優等列車用のキハ55系ではDT19系台車を使用していた初期車がDT22台車に交換されたほか、普通列車用のキハ10系でも少数の車両でDT22系への交換が実施された[24]

キハ10系では1963年に改造のキハニ15 1や1964年度施工のキハ17 179をはじめ、少なくとも31両の施工が判明している[24]

近代化改造 編集

キハ55系以降の車体幅が広い気動車に比べてキハ10系は車体幅が狭く、座席や車内灯などの接客設備に格差が見られるようになったほか、扇風機がないなどサービス上の問題点があった[25]。これを受けてキハ10系の近代化改造が1965年度に計画され、大宮・名古屋・高砂・多度津・小倉の国鉄各工場で1両ずつの計5両が改造された[25]。対象車はキハ11 36、キハ16 58、キハ17 243・317・330の5両である[26]

改造内容は内張りと天井板の貼り替え、床材の貼り替え、トイレの内張りと床鋼板の貼り替え、窓カーテンの交換、座面の交換と背ずりのモケット化、室内照明の白熱灯から蛍光灯への交換、扇風機の設置などである[25]

蛍光灯と扇風機の設置 編集

サービス向上の観点から、近代化改造とは別に蛍光灯と扇風機を設置する工事が1960年代後半頃より一部車両で施工されている[25]。蛍光灯は直管形のほか白熱灯の台座を使用した環形も存在した[25]。扇風機の設置で近代化改造車と同様に扇風機設置部が屋根上に突出するスタイルとなり、設置数は1両あたり4個または7個であった[25]

前照灯シールドビーム化 編集

運転保安度向上のため、前照灯を白熱灯からシールドビームへ交換する工事が1973年度より順次実施された。当初は優等列車用形式が優先されたが、後にキハ10系など普通列車用形式でも施工されている[27]

試験 編集

空気ばね台車試験 編集

空気ばねを使用した台車の設計資料とすることを目的として、1956年3月26日から4月2日にかけてキハ48102を試験車とした現車試験が東北貨物線浦和駅 - 川口駅間で実施された[27][28]。DT19系台車の軸ばねを空気ばねとする改造が汽車製造砂町工場で実施され、3月26日から28日にかけては荷重10 tの積車試験、3月30・31日と4月2日には空車試験が行われた[27]。試験終了後は従来仕様に復元された[27]

試験成績は汽車製造と鉄道総合技術研究所で取りまとめられるとされ、試験結果からは金属ばねと比較して空気ばねは空車・積車の重量差の大きい電車、気動車、貨車への応用で長所が発揮できるとされた[27]

後日、同様に軸ばねを空気ばね化した汽車会社製KS-50が試作され、京阪電気鉄道の特急車1700系1759号に装着された[28]。柔らかいコイルばねによる枕ばねとオイルダンパの組み合わせで成功し、さらにその枕ばねをロックして試験走行したところ、著しく乗り心地が低下したことから、枕ばねが乗り心地を支配することが判明した。

運用 編集

キハ10系は北海道から九州まで広範囲に配置され、無煙化を推進した。キハ20系など大型車体の車両が増備されるとキハ10系とも混用されるようになり、車体幅と高さの異なる凹凸編成も各地で見られた[29]

1977年からのキハ40系増備によりキハ10系は順次置き換えられ、旅客車は1981年度に、郵便荷物車も1982年度に全廃となり、国鉄からは消滅した[30]

北海道地区 編集

北海道では1955年よりキハ48000形(後のキハ11形)キハ48000 - 48015が旭川・稚内に[31]、耐寒強化車キハ48016 - 48026(後のキハ11形100番台)が函館に新製配置された[32]。1956年からは側窓を二重窓としたキハ48200形(後のキハ12形)が投入されている[32]

このグループが製作されたことで、1956年(昭和31年)には旭川駅から宗谷本線北見線(後の天北線)経由で日本最北端の稚内駅にまで至る気動車運行が開始された。もっとも当初は気動車不足で、名寄駅以南では気動車2両で増結オ級客車1両を牽引し、難所の塩狩峠越え区間では9600形蒸気機関車補機に連結して山越えするような運用実態もあったという。

東北地区 編集

東北では五能線米坂線只見線などで運用された。

関東地区 編集

房総地区は気動車化のモデル線区とされ、キハ45000系が多数投入された[17]。1954年12月には千葉気動車区が開設されている[33]。後にキハ20系キハ35系も投入され、電化前の房総地区は「気動車王国」とも称された[34]。投入初期には快速「房総の休日号」などの運用も存在した[35]

北関東では常磐線水戸線真岡線両毛線などに投入された。1955年からは常磐線の上野 - 水戸間快速「つくばね」「ときわ」にも投入され、1958年のキハ55系準急「ときわ」への格上げ後も当初はキハ51形やキロハ18形が混用された[36]

東京近郊の川越線八高線相模線などにもキハ10系が投入されたが、通勤利用の増加によりキハ35系への置き換えが進行した[37]五日市線も1957年に拝島駅で接続している八高線との共通運用でキハ10形が転入したが、1961年に電化されたため短期間の運用であった[38]。1975年に相模線のキハ10で朱色5号の1色塗りが試行され、東京近郊で初採用されたことから「首都圏色」と通称されるようになった。

首都圏で最後までキハ10系旅客車が残ったのは、真岡線と久留里線であった[30]

房総地区 編集

房総地区では電気式試作車キハ44000形が1952年10月より運用を開始し、翌1953年には液体式試作車キハ44500形も投入された。液体式量産車キハ45000系(キハ10系)の房総地区初配置は1953年12月に木更津支区に配置されたキハ45041・45053が最初となった[17]

当初はキハ45000形の2両編成で運行を開始したが、増備が進んだ1954年時点ではキハ45000形 + キハ46000形 + キハ45000形の3両編成を基本に3両編成または2両編成を増結した5両・6両編成の組成があった[39]。同年11月には館山駅勝浦駅で1両単位の増解結を行う運用も設定されたが、当時は両運転台車が存在せず、片運転台車・非運転台車の連結面最後部側に後尾標識を取り付けて単行または2両編成で運行し、終端駅で機関区の転車台を用いて方向転換したと推定されている[33]

1954年12月25日には千葉気動車区が開設され、10月開設の奈良気動車区に次ぐ2番目の気動車区となった[33]。1955年3月15日現在の配置はキハ45000形32両、キハ45500形7両、キハ46000形19両であった[40]。このほか、キロハ47000形キロハ47000 - 47004の5両も新製後の短期間配置されていた[40]が、これは国鉄が本来企図したものではなく、千葉県庁千葉市役所からの「気動車への二等車連結」との強い要望に対処したものであるという。

当時の地方自治体首長議員、官公庁の幹部職員は、出張利用する路線に二等車連結列車の運転があるだけで、三等の二倍近い金額の二等運賃を支給される、という硬直的規定があり、実際には三等車に乗車しながら二等運賃の支給を受け差額を手にする、という横領まがいの行為が横行していた。「出汁に使われただけ」のキロハ18形の二等席は始終空席で、もっぱら出張や業務移動で乗車した国鉄職員が車掌に「顔パス」を効かせてくつろいでいることが多いような状態であった(1950年代の鉄道趣味者による旅行記には、キロハ18形に限らず、普通列車・準急列車の空席だらけの二等車で、三等乗車証しか持っていないはずの一般国鉄職員が制服姿で乗車しているというモラルに欠けた光景が、記録者の慨嘆混じりにしばしば描写されている)[注 10]。千葉地区のキロハ47000形は成田山初詣輸送終了後に優等列車運用のある他の地区(関西本線日光線常磐線など)に転用されている[41]

1968年3月28日の成田線千葉 - 成田間電化を皮切りに、内房線(旧房総西線)、外房線(旧房総東線)、東金線、成田線、総武本線が順次電化されて気動車の両数も減少し、1975年3月10日改正で千葉気動車区は廃止された[42]。最後まで残ったキハ16形3両、キハ17形8両は木更津支区へ転属して久留里線で使用されたが、1980年8月までに全廃となった[42]

甲信越地区 編集

小海線は急勾配路線であるが、当初は1エンジンのキハ10・11形が投入された[29]。2エンジン車はキハ52形で初投入され、後にキハ51形も少数使用された[29]

新潟地区では1953年にキハ45000形32両が初配置され、越後線などで使用された[43]

中部地区 編集

中部地区では御殿場線二俣線中央西線などに投入された。御殿場線は勾配路線であったためキハ51形が多数配置され、1968年の電化まで運用された[44]

関西地区 編集

関西地区では関西本線草津線和歌山線紀勢本線山陰本線福知山線篠山線播但線宮津線などで使用された。キハ45000形トップナンバーを含むキハ45000 - 45002の3両は1953年10月の原宿駅宮廷ホームでの展示会[45]後に四国の高松機関区に仮配置され、香川県で開催された四国国体の観客向けにデモンストレーション運転を行った後に梅小路機関区へ正式配置された[17]

関西本線では準急「かすが」にキハ50形、キハ51形が投入され、車体幅の広い準急用キハ55系の投入まで使用された[45]。当時は東海道本線もまだ米原 - 京都間が非電化であり、一方近畿日本鉄道近鉄特急名阪特急)は大阪線名古屋線軌間が異なり伊勢中川駅での乗り換えを要していたことから、関西本線準急列車が競合他線と比べ最も速い所要時間で結んでいた。

福知山線篠山口駅から分岐して福住駅までを結んでいた篠山線は1972年2月29日限りで廃止となり、最終日のお別れ列車にはキハ17系が使用された。2016年2月28日には市民グループがプラレールで再現したキハ17系の篠山線お別れ列車を廃線跡に走らせるイベント[46]が旧八上駅付近の直線区間(通称「八上ストレート」)で実施され、約5000本のレールを使用した延長約1 kmの線路を走行した[47]

中国地区 編集

中国地区では伯備線呉線山陰本線三江線山口線などに投入された。

九州地区 編集

九州では電気式試作車のキハ44100・44200形鹿児島本線に投入されたが、キハ45000系は佐賀地区が初投入となった[48]。九州北部では鹿児島本線や筑豊本線筑肥線などで使用された。南九州では肥薩線指宿枕崎線などで使用された。

私鉄向け同系車 編集

キハ45000系が量産された1953年から1957年にかけての時期には、私鉄各社が気動車の新造を再開していたが、さまざまな事情から本系列の設計を採用した私鉄向け気動車は少ない。

編成運転が前提の前面貫通型、全長20 m級かつ狭幅車体、下段上昇・上段Hゴムのバス窓、総括制御が前提のTC-2液体変速機とDA-1系自動空気ブレーキ、枕ばねゴムブロックのDT19系台車を採用、というキハ10系類型車に該当する要件をほぼ満たす私鉄自社発注車は、南薩鉄道(後の鹿児島交通)のキハ300形のみとなる[49]

南薩鉄道キハ300形 編集

 
鹿児島交通キハ300形(加世田駅、1980年)

南薩鉄道(1964年に鹿児島交通に社名変更)のキハ300形は国鉄キハ10系の同型車で、1954年8月に川崎車輛でキハ301 - 303の3両が製造された[50]。トイレなしの両運転台車という点はキハ48100(キハ10)形に類似するが、キハ300形の竣工はキハ48100形第1陣(1955年10月)よりも早いことから、キハ45500(キハ16)形をベースに両運転台化したような設計となった[50]。このため車体長がキハ48100形よりも30mm短くなっているほか、窓配置もピッチが一部異なっていた[50]

エンジンは国鉄車と異なり三菱重工業DH2L-P(出力180PS/1,600rpm)が搭載された[50]過給器付きで、本来は三菱製アンダーフロアバス用の機関を転用したものであった。液体変速機は新潟コンバータDB115を搭載した[51]。台車はDT19・TR49で国鉄仕様と同等であったが、車体前面は幌枠が無く貫通扉両脇に手すりが設置された[51]

1968年には鉄道車両で一般的なDMH17Cエンジンに換装され、同時期に液体変速機も振興造機TC2に変更された[51]。塗装は登場時は国鉄旧一般色に類似した黄褐色と青色のツートンであったが、1964年から1965年にかけてオレンジに紺色帯の塗装に変更され、キハ100形も含めて鹿児島交通の標準色となった[51]

登場時より鹿児島本線伊集院駅 - 西鹿児島駅(現・鹿児島中央駅)への直通乗り入れ運転にも充当されており、1965年には国鉄型ATSを搭載した(鹿児島交通線内は最後までATS未設置であった)[51]。1984年3月の枕崎線廃線まで使用され、廃線後は3両全車が解体された[51]

準類型車 編集

島原鉄道が1953年に導入したキハ4500形は、日本車輌製造帝國車輛工業でキハ4501 - 4503・4505(4504は忌み番として欠番)の4両が製造された[52]。同年製造のキハ45000(キハ17)形と同様のDMH17BエンジンにTC2液体変速機で総括制御対応、DT19・TR49台車を導入したが、車体外観は前世代のキハ44500形を両運転台化したものに近く、窓配置d1(1)D8D(1)1d(d:乗務員扉、D:客用扉、(1):戸袋窓)で妻面は非貫通2枚窓の「湘南顔」であった[52]。ブレーキもDA-1Aではなく機械式気動車用のGP-Sであった[52]

大分交通が1956年と1960年に国東線耶馬渓線用に導入したキハ600形は、側窓や車内設備がキハ10系に類似するものの前面非貫通の18m級車体であり、液体式ながら総括制御はできなかった[53]。キハ601・602は1956年日本車輌製造製で動力台車はND208、従台車はND208Aを装備し、動力台車は台車中心を動軸に偏らせて動軸重を増やす偏心台車であった[54]。キハ603・604は1960年新潟鐵工所製で、動力台車はND208B、従台車はND208Cである[54]。キハ603・604は耶馬渓線廃止後に紀州鉄道へ譲渡された。

譲渡車両 編集

1980年代以降は国鉄で廃車となった車両の一部が両運転台車を中心に地方私鉄にも譲渡されており、キハ10形12両、キハ11形5両、キハ17形4両が転出している。

津軽鉄道 編集

津軽鉄道には1975年にキハ11形2両(キハ11 11・32)が譲渡され、キハ2400形キハ24025・20426となった[55]。入線時に新潟鐵工所でトイレの撤去、側窓のアルミサッシ化と塗装変更が実施されている[55]

キハ24025(国鉄時代の旧番号キハ11 31)は廃車後、車体部分を解体され、台枠以下がカラオケボックスの基礎として使われた。キハ24026(国鉄時代の旧番号キハ11 32)は、2006年(平成18年)12月まで津軽中里駅側線に保管されていたが、後に解体された。

南部縦貫鉄道 編集

 
南部縦貫鉄道キハ104(旧七戸駅にて動態保存)

南部縦貫鉄道には1980年にキハ10形1両(キハ10 45)が譲渡され、キハ10形キハ104となった[55]。台車は国鉄時代にDT22・TR51に交換されている[55]

朝夕の通学時間帯に運用されたが、利用客が減少すると燃費の悪さなどから稼働機会は減少した[56]。南部縦貫鉄道は1997年に休止、2002年に廃止となったが、廃止後も旧七戸駅レールバスのキハ101・102とともに動態保存されている[56]

茨城交通 編集

 
旧国鉄塗装が復刻された茨城交通キハ11 1とキハ11 2。手前の車両が「旧一般色」、奥の車両が「新一般色」

茨城交通(現・ひたちなか海浜鉄道)には1980年にキハ11形3両(キハ11 19・25・26)が譲渡され、キハ11形キハ111 - 113となった[57]。入線後しばらくは首都圏色で使用されたが、クリームに青のツートン塗装を経て白地に赤・青ストライプの茨城交通バス塗装に変更されている[58]。トイレは閉鎖され、後に撤去された。

1990年には鹿島臨海鉄道2000形譲受車のキハ20形が導入されたのに伴って運用が減少し、1995年のキハ3710形新製投入によりキハ11形は1995年に通常運用を離脱した[58]。1995年には111が黄褐色と青の国鉄旧一般色に、1996年には112が朱色とクリームの国鉄一般色に塗装変更された[58]

キハ113(旧番号キハ48036→キハ11 26)は1995年の廃車後JR東海に譲渡され、キハ48036として佐久間レールパークリニア・鉄道館に収蔵・展示された[58]。キハ111(国鉄時代の旧番号キハ11 19)は1997年の廃車後、阿字ヶ浦駅海水浴客の更衣室として使われた後に解体され、カットボディが映画『鉄道員』撮影用セットに使用された[58]。キハ112(旧番号キハ48035→キハ11 25)は2004年まで営業運転に使用されたのち、キハ11 25として鉄道博物館に収蔵・展示されている[58]

筑波鉄道 編集

1979年に関東鉄道から分離された筑波鉄道にはキハ10形1両(キハ10 47)が譲渡され、キハ820形キハ821となった[59]。分離元の関東鉄道では1977年にキハ10系の譲受車を新製車体に更新したキハ310形が導入されたが、筑波鉄道ではキハ10系の車体がそのまま使用された[59]。塗装は筑波鉄道標準色となり、貫通幌を撤去して幌枠横に手すりが設置された[59]

1987年の筑波線廃止まで使用され、4月の路線廃止とともに廃車された[59]

鹿島臨海鉄道 編集

鹿島臨海鉄道には1978年にキハ10形2両(キハ10 11・36)が譲渡され、キハ1000形1001・1002となった[59]成田空港へのジェット燃料暫定輸送(パイプライン完成まで)に対する見返りとして旅客営業を開始した鹿島臨港線向けで、国鉄鹿島線に乗り入れて鹿島神宮駅 - 北鹿島駅(貨物駅) - 鹿島港南駅間で運用された[60]

パイプラインの完成した1983年には鹿島臨港線の旅客輸送が廃止となり、キハ1000形も1984年に廃車となった。廃車後にキハ1001は千葉県佐原市(2006年の合併後は香取市)の釣り堀で休憩所として使用されていた[60]

加悦鉄道 編集

加悦鉄道には1980年にキハ10形1両(キハ10 18)が譲渡された[60]。1985年の加悦鉄道廃止とともに廃車となったが、加悦SL広場に保存された。加悦SL広場は2020年3月末で閉園しており、キハ10形は2020年時点でも解体されず残されている[61]

水島臨海鉄道 編集

 
水島臨海鉄道キハ35形354(元キハ10 5)

水島臨海鉄道には1976年から1980年にかけてにキハ10形7両(キハ10 3・7・4・5・53・58・60)が譲渡され、キハ35形351 - 357となった[61]。キハ35形により在来の旅客車が全て置き換えられたが、国鉄キハ20形の入線により1987年から1989年にかけて全廃されている[62]

島原鉄道 編集

島原鉄道には1975年にキハ16形4両(キハ16 16・18・21・76)が譲受され、キハ16形1601 - 1603・1605となった[62]。島原鉄道では末尾4を忌み番としており、キハ1604は欠番である[62]。キハ16形の譲渡車は関東鉄道の車体更新車を除くと島原鉄道の4両のみであった[62]

1979年にはキハ17形4両(キハ17 30・34・35・91)が譲渡され、キハ17形キハ1701 - 1703・1705となった。キハ16形と同様に末尾4の1704は欠番である[62]

1981年にはキハ1702・1703が半室郵便車のキハユ17形キハユ1702・1703に改造されたが、1984年2月のダイヤ改正で島原鉄道の郵便荷物輸送が廃止され、この2両は1984年12月に廃車となった[63]

残るキハ16・17形も国鉄キハ20系譲受車の入線により1987年までに全廃されている[63]

関東鉄道(車体更新車) 編集

 
関東鉄道キハ310形キハ313(1978年)
 
冷房化、機関換装、方向幕設置後のキハ315(2020年)

関東鉄道では1976年から1978年にかけて国鉄よりキハ16・17形を譲受し、走行機器を流用の上で新製車体に換装してキハ310形キハ311 - 318として入線した[63]

キハ311・312は1977年に大栄車輌で、キハ313 - 316は1977年に新潟鐵工所で、キハ317・318は1979年に新潟鐵工所で更新施工された[64]。車体は両開き3扉の通勤型となり、前面は貫通型で上部に前照灯2灯を配していた[64]。台車はキハ318が種車時代にDT22系に交換されており、他の車両はDT19系のままであったが、1983年にはキハ318以外の7両もDT22系台車に交換された[64]

1996年にはキハ2100形の増備により311・312の2両が廃車となった[64]。残る6両は1998年より機関をDMH17BからDMF13HZに換装、1999年からは冷房化改造された[64]

1992年6月2日に取手駅で発生した衝突事故以降は貫通路を乗客が通り抜け可能なよう幌枠・貫通幌が設置されたほか、機関換装時には前照灯を前面窓下部に移設して旧前照灯部分に行先表示幕が設置された[64]。このほか客用扉のステンレス大窓化や前面スカート設置改造も行われている[64]

2019年にはキハ313・314が廃車となったが、残る4両は2020年9月時点でも平日ラッシュ時用として引き続き在籍している[64]

保存車両 編集

キハ10系の動態および静態保存車一覧
番号 所在地 備考
南部縦貫鉄道
キハ104
青森県上北郡七戸町字笊田
旧南部縦貫鉄道七戸駅跡
旧番号キハ10 45。唯一の動態保存車。
キハ11 25 埼玉県さいたま市大宮区大成町3丁目47
鉄道博物館
国鉄から茨城交通に譲渡されキハ112として使用されていた。2004年に茨城交通で廃車後、復元され保存されている。当初は動態保存車両として、イベント時にエンジンがかけられることがあったが、2017年3月18日以降は静態保存とされている。
鹿島臨海鉄道
キハ1001
千葉県香取市佐原ロ
佐原つり堀センター →個人(原則非公開)[65]
2023年11月から個人(原則非公開)が所有権を有する
キハ48036 愛知県名古屋市港区金城ふ頭3丁目2-2
リニア・鉄道館
国鉄(キハ11 26)から茨城交通に譲渡されキハ113として使用されていた。1995年に登場時の塗装に戻されてさよなら運転ののち廃車となり、番号を登場当時の番号に戻して佐久間レールパークに保存された。佐久間レールパーク閉園後に移設されている。
キハ10 18 京都府与謝郡与謝野町字滝941-2
加悦SL広場
1980年に加悦鉄道に譲渡後、同鉄道廃止まで使用された。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 1974年発行の交友社 日本国有鉄道工作局・車両設計事務所『100年の国鉄車両(3)』 p.434によれば「一般形液体式ディーゼル動車」に分類されている。
  2. ^ 降旗道雄著 誠文堂新光社「国鉄気動車ガイドブック」昭和47年12月第1版p7では「キハ」なしの「17系」、昭和時代の鉄道趣味誌での記述、鉄道模型の商品名や広告にも「17系」や「国鉄17系気動車」という表現が見られる。一方、キハ17形が形式消滅した平成に入ってからのレイルマガジンでは、本形式のグループを「キハ10系」、電気式や液体式試作車からの改造車を含め、狭幅車体の気動車群を「10台形式気動車」と呼んでいる。
  3. ^ この標識は、上半分を下に折り畳むと腰板または窓周りと同色になる。尾灯の補助として地方路線にATSの無かった1960年代以前は気動車や客車に広く標準装備されたが、1965年(昭和40年)7月に国鉄内部の「運転取扱基準規程」の改正によって以後の使用が停止された。このため、白黒写真から大まかな撮影年代を判定する目安となる部品にもなる。
  4. ^ 従来の床下排気式に比して排気効率が向上し、乗降客や客室の排出ガスによる汚染問題が解決された。
  5. ^ 排気ガスの代わりに軽油バーナーで車内空気を加熱して送風、バーナーの燃焼排気ガスは車外に排出する。強力な熱源を専用に備えるため、ハイ・カロリーで安定した暖房が可能となる。1950年代当時はバス用としてもこの種の車載式独立暖房装置が普及し始めた時期で、その応用でもあった。国鉄気動車は鉄道省時代の41000形ガソリンカー開発時点で、大型自動車との部品互換性を考慮して各種の車載電装は直流24 V電源を標準とし、液体式気動車の総括制御システム開発に際しては制御電源をも直流24 Vとした。このため、やはり24V電源で作動する大型バス向けの機器類を転用しやすかった。
  6. ^ 1950年代前期は金属スプリングの補助使用が主に広まり始めた。ゴムスプリングに基本依存するBMC・ミニ(圧縮方向に働くラバーコーン)やマツダ・R360クーペ(ねじり方向に弾性を用いるナイトハルト式トーションラバースプリング)などの出現は、10系気動車より後、1950年代後期以降である。
  7. ^ もっとも、これは最初の採用例となったDT18がボルスタ付近の直下にカルダン継手が置かれる直角カルダン駆動方式を採用しており、通常のコイルばねや重ね板ばねとリンク機構を組み合わせるタイプの揺れ枕機構を設置するスペースを確保出来なかったことに対する窮余の策として、やむなく採用されたものであった。つまり、駆動システムが異なり揺れ枕設置スペースを確保できた本系列では、それと同じ方式を踏襲する必然性は低かった。
  8. ^ このためダンパーが不要となる。
  9. ^ 小説内の記述ではキハ12形を1952年(昭和27年)製と説明、さらに北海道旅客鉄道(JR北海道)に継承されたと設定。
  10. ^ 以上は西尾源太郎(1950年代当時国鉄運転局職員。証言は『国鉄の気動車1950』(2007年、電気車研究会))ほかの回想による。

出典 編集

  1. ^ ネコ・パブリッシング『公式パンフレットに見る 国鉄名車輛』p.158
  2. ^ a b c 石井幸孝「キハ17系誕生当時の国鉄気動車開発」『鉄道ピクトリアル』2020年12月号、p.11
  3. ^ a b c 平石大貴「キハ17系ディーゼル動車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2020年12月号、p.52
  4. ^ a b 平石大貴「キハ17系ディーゼル動車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2020年12月号、p.60
  5. ^ a b 湯口徹『日本の内燃動車』成山堂書店、2013年、pp.102-103
  6. ^ a b c 平石大貴「キハ17系ディーゼル動車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2020年12月号、p.61
  7. ^ a b レイルロード『国鉄キハ10 Vol.1』p.89
  8. ^ a b 平石大貴「キハ17系ディーゼル動車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2020年12月号、p.62
  9. ^ a b c 平石大貴「キハ17系ディーゼル動車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2020年12月号、p.65
  10. ^ 石井幸孝「キハ17系誕生当時の国鉄気動車開発」『鉄道ピクトリアル』2020年12月号、p.17
  11. ^ 岡田誠一「キハ10系 車両のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』1997年5月号、p.22
  12. ^ a b c 平石大貴「キハ17系ディーゼル動車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2020年12月号、p.67
  13. ^ a b c 平石大貴「キハ17系ディーゼル動車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2020年12月号、p.63
  14. ^ 平石大貴「キハ17系ディーゼル動車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2020年12月号、p.56
  15. ^ a b c d 平石大貴「キハ17系ディーゼル動車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2020年12月号、p.64
  16. ^ 岡田誠一「キハ10系 車両のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』1997年5月号、p.14
  17. ^ a b c d 白土貞夫「房総気動車王国の興亡 ―キハ17系の活躍を中心に―」『鉄道ピクトリアル』2020年12月号、p.94
  18. ^ 平石大貴「キハ17系ディーゼル動車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2020年12月号、p.69
  19. ^ 平石大貴「キハ17系ディーゼル動車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2020年12月号、p.70
  20. ^ 「交通技術」1957年10月増刊「鉄道技術の進展 1956-1957」p35
  21. ^ 平石大貴「キハ17系ディーゼル動車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2020年12月号、p.72
  22. ^ 平石大貴「キハ17系ディーゼル動車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2020年12月号、p.71
  23. ^ 平石大貴「キハ17系ディーゼル動車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2020年12月号、p.73
  24. ^ a b c d e 平石大貴「キハ17系ディーゼル動車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2020年12月号、p.86
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  36. ^ 「1950〜60年代 キハ17系活躍の頃」『鉄道ピクトリアル』2020年12月号、p.27
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  65. ^ キハ10を次の世代へとつなぐための第一歩にご支援をお願いいたします!”. 保存鉄道組合総連合会. 2024年2月28日閲覧。

参考文献 編集

  • 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』No.637 特集「キハ10系」(1997年5月)
  • 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』No.980 特集「思い出のキハ17系」(2020年12月)
    • 服部朗宏「私鉄のキハ17系概観〔前編〕」pp.134-154
  • 服部朗宏「私鉄のキハ17系概観〔後編〕」『鉄道ピクトリアル』2021年1月号(No.981)、電気車研究会、pp.142-147
  • レイルロード『国鉄キハ10 Vol.1』(車輌アルバム・3)1989年

関連項目 編集