西村晃

日本の俳優 (1923-1997)

西村 晃にしむら こう[2][3][注釈 1]1923年大正12年〉1月25日[2][1][4][5] - 1997年平成9年〉4月15日[5])は、日本の俳優声優。北海道札幌市出身。

にしむら こう
西村 晃
西村 晃
主婦と生活社『主婦と生活』4月号(1965)より
本名 西村 晃[1]
生年月日 (1923-01-25) 1923年1月25日
没年月日 (1997-04-15) 1997年4月15日(74歳没)
出生地 日本の旗 日本・北海道札幌市
死没地 日本の旗 日本・東京都国分寺市東元町
身長 157 cm
血液型 B型
職業 俳優声優
ジャンル 映画テレビドラマ
活動期間 1946年 - 1997年
配偶者 あり(西村則子)
著名な家族 西村真琴(父)
主な作品
テレビドラマ
映画
受賞
ブルーリボン賞
助演男優賞
1964年赤い殺意
その他の賞
毎日映画コンクール
男優主演賞/男優演技賞
1964年『赤い殺意』
1982年『マタギ』
1987年 紫綬褒章
1994年 勲四等旭日小綬章
テンプレートを表示

来歴・人物

編集

日本初でありかつ東洋初でもあるロボットとされる「學天則」を製作した北海道帝国大学教授・西村真琴の次男。後に映画『帝都物語』では父・真琴役を演じた。

戦前の学生時代より、新し物好きの父より与えられたローラースケートを始め、日本のローラースケーターのパイオニアの一人として藤山一郎らと並ぶ知名度を既に得ていた。

父が北海道帝国大学教授を退官し大阪毎日新聞に論説委員として入社したため、大阪府豊中市へ転居。1940年日本大学専門部芸術科に入学。大学在学中より舞台で活動していたが、太平洋戦争の激化とともに1943年の学徒動員で兵役にとられ、第十四期海軍飛行予備学生となり、土浦海軍航空隊にて二ヶ月間の士官教育を受けた。同期の友人に、裏千家15代家元の千玄室がいる。ある時、上官から特攻志願者を募る旨を通達されると、千に「自分は行きたくない」ともらしたが、二人とも徳島海軍航空隊白菊特攻隊員に配属された。この時の戦友は千と2人しか生き残っていない。串良基地から3回、沖縄へ向けて飛び立ったが、出撃機不良で基地に引き返し、その後終戦を迎えている[6]

復員してからは本格的に演劇活動を再開し、1946年に東京芸術劇場の第一期生となる。翌1947年に退団して東京青年劇場を結成。1951年、新協劇団の準劇団員となり、1954年には岡田英次木村功らと劇団青俳を立ち上げた。

新劇俳優として活動する中、1951年に佐分利信監督作『風雪二十年』で映画デビューしてからは、映画やテレビドラマでも活躍。1954年から製作再開した日活と本数契約を結んだ。日活プログラムピクチャーでは悪役や敵役が多かった[2]。映画では『赤い殺意』での演技が認められ、数々の賞を受賞。また、アニメや洋画の吹き替え等声優としても活躍した。

1982年12月16日より『水戸黄門』で東野英治郎の後任として2代目水戸光圀役に就き初主役となる[2]。1983年5月10日の収録から東野同様に悪役で売ってきた西村は、どこかとぼけた喜劇的要素を活かし、それまでの代名詞だった月形龍之介や東野に比して若々しいイメージから「シティボーイ黄門」と呼ばれ、上品な振る舞いや風格で親しまれ、お茶の間の人気者となる。だが、1992年の第21部放送直後、長年連れ添った則子夫人が亡くなったショックで光圀役を降板、同年9月25日収録の最後の立ち回りのシーンでは涙目になっていた(光圀役として足掛け9年間、出演回数は283回であった)。後任は佐野浅夫

1995年11月に食道癌の手術を受け、この時は元気に退院した。1997年3月にスペシャルドラマ『黄落』の収録の時も元気だったが、同年4月14日夜に自宅で急性心不全を起こし、翌日4月15日午前6時半に死去[7]。74歳没。葬儀は密葬で行い、葬儀委員長は生前の約束で千玄室が務めた。死後、同年に放送された特別ドラマが最後の出演作品となった。

エピソード

編集
  • 俳優養成所の舞台芸術学院の特別講師を務めたことがあり、市村正親が卒業後、俳優修行の一環として西村の付き人をしていた時期がある(1970年から73年ごろの約3年間)。市村は、西村本人と周りに集まってくる名優たち(三國連太郎小沢昭一ら)を見て「一流の役者の振る舞いや言動を知った」という。西村は市村を「いっちゃん」と呼んでいた。
  • いずみたくが作ったざれ歌を歌っていた(人間バンザイ。1970年発売。作詞は山上路夫)。一時期ラジオで流されたが放送禁止になってしまい、あまり知られていない。「自民の先生がするときは、無理やり通そとなさいます、はあーなさいます」にはじまる政党編(1番)と、「数学の先生がするときは、角度かんがえなさいます〜」などの学校の先生編(2番)があった。
  • 炎立つ』の第1部では『水戸黄門』で共演していた里見浩太朗とも共演した。撮影中の休憩時間、里見が西村に対して「ご隠居、江刺は初めてですか?」と声をかける場面があったという。なお、里見は同作がNHKドラマ初出演となったのに対し、西村は最後の大河ドラマ出演作となった。
  • 『水戸黄門』以前は悪役イメージが強かった。グロテスクなメイクを施した怪奇映画出演なども少なくないが、『吸血髑髏船』で共演した岡田真澄のDVD用インタビューによると、西村はこの種の企画や役どころが根っから大好きで、撮影時はいつも大乗りだったという。
  • 『水戸黄門』出演時代、TBSテレビ「クイズまるごと大集合」特番で『クイズ100人に聞きました』の「日本のプロ野球12球団の外国人選手全員に聞きました。嫌いな日本の食べ物は何?」との問いに、西村は真顔で「玉子焼き!」と答え、このコーナーの司会者ビートたけしや他の出演者を笑わせる天然エピソードがあった(結果は不正解)。

受賞歴

編集

出演作品

編集

映画

編集
 
悪い奴ほどよく眠る』(1960年)

テレビドラマ

編集

テレビアニメ

編集

劇場アニメ

編集

吹き替え

編集

俳優

編集

洋画

編集

ラジオドラマ

編集

ラジオ番組

編集

ナレーション

編集

舞台

編集

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ 資料によっては、読みを「にしむら あきら」としている[4]

出典

編集
  1. ^ a b 「新桜オールスタァ名鑑」『芸能画報』3月号、サン出版社、1958年。 
  2. ^ a b c d 東宝特撮映画全史 1983, p. 532, 「怪獣・SF映画俳優名鑑」
  3. ^ a b c d e f ゴジラ大百科 1993, p. 126, 構成・文 岩田雅幸「決定保存版 怪獣映画の名優名鑑」
  4. ^ a b 「に-の-は」『タレント名鑑』《NO2》芸能春秋社、1963年、74頁。 
  5. ^ a b c 野村宏平、冬門稔弐「1月25日」『ゴジラ365日』洋泉社映画秘宝COLLECTION〉、2016年11月23日、31頁。ISBN 978-4-8003-1074-3 
  6. ^ “特攻の地・鹿屋と沖縄振興に生涯を懸けた「税調のドン」【解説委員室から】”. 毎日経済新聞. (2023年4月11日). https://www.jiji.com/sp/v8?id=202304kaisetsuiin057 2024年10月23日閲覧。 
  7. ^ 水戸黄門役で人気の西村晃さん死去 - ウェイバックマシン(1997年7月14日アーカイブ分)
  8. ^ a b c 東宝特撮映画全史 1983, pp. 536–537, 「主要特撮作品配役リスト」
  9. ^ わんわん忠臣蔵 - メディア芸術データベース
  10. ^ ジャックと豆の木 - メディア芸術データベース
  11. ^ ルパン三世 ルパンVS複製人間”. 2022年5月11日閲覧。
  12. ^ 「演劇」『左翼文化年報 1958年版』星光社、1958年、246頁。 
  13. ^ 「人形劇団プーク」『新劇便覧』テアトロ、1965年、444頁。 
  14. ^ 芸能学会(編)『芸能』6月号、芸能発行所、1967年、60頁。 

参考文献

編集
  • 『東宝特撮映画全史』監修 田中友幸東宝出版事業室、1983年12月10日。ISBN 4-924609-00-5 
  • 『ENCYCLOPEDIA OF GODZILLA ゴジラ大百科 [メカゴジラ編]』監修 田中友幸、責任編集 川北紘一Gakken〈Gakken MOOK〉、1993年12月10日。 

外部リンク

編集