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千葉工業大学(ちばこうぎょうだいがく、英語: Chiba Institute of Technology)は、千葉県習志野市津田沼2丁目17番1号に本部を置く日本私立大学である。1942年に設置された。大学の略称は「千葉工大(ちばこうだい)」または「工大(こうだい)」、英称では「CIT」または「ChibaTech」。

千葉工業大学
千葉工業大学
千葉工業大学
大学設置/創立 1942年
学校種別 私立
設置者 学校法人千葉工業大学
本部所在地 千葉県習志野市津田沼2丁目17番1号
北緯35度41分21.15秒 東経140度1分16.81秒 / 北緯35.6892083度 東経140.0213361度 / 35.6892083; 140.0213361座標: 北緯35度41分21.15秒 東経140度1分16.81秒 / 北緯35.6892083度 東経140.0213361度 / 35.6892083; 140.0213361
キャンパス 津田沼(千葉県習志野市)
新習志野(千葉県習志野市)
学部 工学部
創造工学部
先進工学部
情報科学部
社会システム科学部
研究科 工学研究科
情報科学研究科
社会システム科学研究科
ウェブサイト 千葉工業大学公式サイト
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目次

概観編集

大学全体編集

 
第一期生入学式記念写真
(1942年6月8日、玉川学園内にて撮影)
 
大学の沿革マップ
 
千葉工業大学(JR中央総武線路を挟んで)

本学が誕生するきっかけは、明治から、大正昭和と日本の教育政策教育活動に携わってきた澤柳政太郎小原國芳を中心とする人々らの体験とそれに基づく研究から生まれたものだった。明治以降の教育は富国強兵スローガンのもと明治政府主導による近代化西洋化)とそれを達成する為の教育政策が中心だった。そして帝国大学海軍兵学校陸軍士官学校をはじめとする官学エリート校が順次作られ、欧米に軽んじられない強力な国家を作る為、西洋を模倣しながら西洋の進んだ思想学問技術などを導入し、中央集権的な国づくりが進められていった。この西洋化の波による変化は教育界にも大きな影響を与え、江戸時代までの自由主義的な教育から西洋式の教育システム(人づくり)に改められ、その過程で様々な問題が生じた。創立関係者らは国土も小さく、資源もない日本がこれから国際社会でやっていく為には「人づくり(教育)」が重要だと考えていた[1]。しかし、当時の日本の社会的風潮と教育に、創立関係者たちは問題を感じていた[2]

こういう当時の日本の社会的風潮のもと、行われていた官学をはじめとする既存のエリート教育〔具体的には、自由教育を排した中央集権的で創造性の欠片もない無機的な教育[3]や学生生徒個人の個性人格などを考慮せず、一律の座学とペーパーテストによる優劣だけで人物の評価をしてしまう(「ハンモックナンバー#ハンモックナンバーの問題と解決に向けた動き」の記事も参照のこと)、均一的で単純[4]な教育方法〕では、本当に国家社会を担うべき人材は育たないとの危機感から、計画されたものであり[5]、これまでの中世ヨーロッパ的な教師中心の押し付け的な教育活動(旧教育)ではなく、新教育を代表とする学ぶ側の生徒の自主性・主体的な学びを良しとする教育活動[6]のもと世界一教育立国建設実現を目指していた文部官僚の澤柳政太郎の遺志を引き継いだ教育学者の小原國芳らによって、世界文化貢献を視野に日本第一、世界第一の教育拠点(小原の言葉では「総本山」)を目指し、1929年(昭和4年)頃から設立の計画が始められた。

本学の大きな特徴は、新教育を軸に全人的教育を目指すというもの(小原國芳#全人教育と小原の教育理念)で、これは当時の東京大学(当時の東京帝国大学)を代表とする日本のそれまでの既存の大学教育(西欧から輸入されてきた中世ヨーロッパ的な「教師が一方的に、生徒に対し、特定の科目だけを、一律に教え込む」という旧来の教育活動)とはコンセプトが大きく異なっていた。

計画当初、小原ら関係者は滝川事件などの経験から国立教育の限界[7]を感じ、自由と多様性がある私学こそ国家を支える人材を養成するのに相応しい環境であるとし「明治維新大業私学が成した[8]」と私学教育の重要性を説いた。当初「玉川塾工業大学」として玉川学園が経営するプライベート大学として計画された[9]が、当時の日本の社会的風潮(全体主義軍国主義)に反した、教育理念(個人尊重の教育理念や自由主義など)を掲げていたこともあり、軍部(主に陸軍上層部をはじめとするエリート階層の人々)をはじめとする旧来の教育を生業とする人々の反発・圧力も強く、設立は困難を極めた。

しかしながら、橋田邦彦文部大臣をはじめ、皆川治広東京市教育局長、小西重直京都帝国大学総長、本多光太郎東北帝国大学総長、平賀譲東京帝国大学総長、八木秀次東京工業大学学長、西田幾多郎京都帝国大学名誉教授、波多野精一同教授などの教育界関係者はじめ、政治家の東郷実森コンツェルン森矗昶森曉親子、東京川崎財閥川崎守之助をはじめとする財政界の支援を受けていた。また、数は少なかったものの、皇族で、陸軍大将の東久邇宮稔彦王を筆頭に、大日本帝国海軍では永野修身元帥海軍大将財部彪海軍大将、山梨勝之進海軍大将などが、大日本帝国陸軍では菱刈隆陸軍大将土肥原賢二陸軍大将などの軍関係者も小原の考えに共感し、長年に渡って小原を支援していた。

特に、激しい反対・抵抗勢力がいる中で、大学設立計画が成功したのは東久邇宮稔彦王・永野修身海軍元帥の働きかけと、橋田邦彦文部大臣の尽力が寛大だったと言われている。大学設立申請の途中(近衛文麿内閣時)で、文部省(現:文部科学省)の指導によって準官立大学といえる国策大学に発展して、太平洋戦争大東亜戦争)中の1942年5月15日東条英機内閣時)に「興亞工業大學」の名称で玉川学園内に設立された[10]

大学設立の際には東京帝国大学東京工業大学から全面的な支援を受けたが、不足していた実験設備や実験機器などは東大・東工大の取り計らいにより共同利用するなどして対処した。

太平洋戦争終結後の1946年(昭和21年)には千葉県君津町(現・君津市)へと移転し、校名を「千葉工業大学」と改称[11]。一時は千葉大学芝浦学園早稲田大学中央大学法政大学等との合併も検討されたが[12]1950年(昭和25年)に同県津田沼町(現・習志野市)の津田沼校地へ移転し現在に至る。

日本の私立理工系大学としては藤原工業大学(後の慶應義塾大学理工学部)に続き、国内で2番目に古い歴史を持ち、現存する私立理工系大学としては最古の歴史を有する[10][13]

なお、国公立の理工系大学を含めても東京工業大学に次ぐ歴史を持つ[注 1]

設置科は3学部11学科、大学院3研究科修士課程8専攻・博士後期課程3専攻で、学生数は約1万名[14]。また津田沼駅前にある津田沼キャンパスと新習志野キャンパス、および東京スカイツリーキャンパスの3つのキャンパスを有する[15]

2018年度の志願者数は78,905人で日本の私立大学[16]の中で第10位である。

教育および研究編集

大学全般編集

  • 本学の基礎は、教養教育においては小西重直博士、小原國芳博士、本間俊平によって、工学教育においては本多光太郎博士、八木秀次博士によって築かれた(千葉工業大学五十年史刊行委員会 『千葉工業大学五十年史』 千葉工業大学、1992年を参照の事)。


研究活動の特徴編集

  • 2003年には全国初の「学校法人直轄の研究所」として「未来ロボット技術研究センター」を設置している。同じように2009年には「惑星探査研究センター」を、2015年には「人工知能・ソフトウェア技術研究センター」を、2016年には「国際金融研究センター」と「次世代海洋資源研究センター」を設置した。

教務システムの特徴編集

  • 2005年より、多機能ICカード型の学生証を導入している。
  • 2007年より、NTTドコモの端末が当時の芝園校舎全教室(翌年からは津田沼校舎も)に設置され、全授業でICカードによる出欠確認システムの運用が開始されたが、2015年度をもって使用終了し、端末も2016年度後期までに撤去された。
  • 2016年より、入学時に貸与されるiPadminiにインストールされているアプリを用いた出席システムの運用が開始された。

組織編集

学部・学科編集

大学院編集

廃止された学科編集

(旧制大学)
(新制大学)
  • 工学部
    • 機械工学科(1950-2003・機械サイエンス学科に改組)
    • 金属工学科(1950-2003・機械サイエンス学科に改組)
    • 工業経営学科(1950-2001・社会システム科学部に改組)
    • 電気工学科(1953-2003・電気電子情報学科に改組)
    • 電子工学科(1961-2003・電気電子情報学科に改組)
    • 工業化学科(1961-2003・生命環境科学科に改組)
    • 土木工学科(1963-2003・建築都市環境学科に改組)
    • 建築学科(1963-2003・建築都市環境学科に改組)
    • 精密機械工学科(1966-2003・機械サイエンス学科に改組)
    • 工業デザイン学科(1988-2003・デザイン科学科に改組)
    • 情報工学科(1988-2001・工学部から情報科学部に改組)
    • 情報ネットワーク学科(1997-2001・工学部から情報科学部に改組)
    • プロジェクトマネジメント学科(1988-2001・工学部から社会システム科学部に改組)
(工学部再編前)

沿革編集

年表編集

年  月日 沿革
1929年 4月 小原國芳成城学園から分離し、町田財団法人玉川学園を設立。幼稚部初等部中等部を設置する。
6月 永野修身海軍兵学校長が学園視察に来訪。最高学府である大学設置構想を説明する。
1939年 9月 大学設置に向けて中等部の上に専門部(玉川塾)を設置し、森矗昶の協力を得て産学連携による実践教育を開始
1940年 9月 東久邇宮が学園視察に訪れ、大学設置の構想が本格化する
1941年 6月 「玉川塾工業大学」設置許可申請を文部省(現・文部科学省)に行うが受理されず
12月8日 太平洋戦争開戦
興亞工業大學設置許可申請文部省(橋田邦彦文部相)受理[注 3]
1942年 5月15日 東京府町田町(現東京都町田市)の玉川学園内に「興亞工業大学」の名称で国策大学として創立(予科3年・本科3年)
小原國芳が理事、東郷実が理事長、小西重直が学長、本多光太郎などが顧問に就任
5月24日 成城中学早稲田中学で第1回入学試験を実施
6月8日 開校式を実施する。航空工学科(50名)・冶金学科(50名)・機械学科(60名)の160名が入学[注 4]
1943年 7月 小原國芳が理事・学監を辞任。森曉が2代目理事長に就任
1944年 4月 玉川学園内から予科・財団本部が、皇居近くの東京市麹町区紀尾井町上智学院(上智大学)内に移転する
9月 神奈川県川崎市大師河原日本冶金川崎製造所構内に学部(本科)仮校舎の使用許可を取得する
10月 東京工業大学学長の八木秀次が正式に相談役に就任
1945年 4月13日 東京空襲によって麹町本部・予科校舎が全焼する
5月25日 東京空襲の余波で川崎学部校舎も罹災する
9月 東久邇宮内閣によって太平洋戦争(第二次世界大戦)が終結
君津の旧海軍施設の借用認可を申請、東京残留学生の授業を東京工業大学に委託
戦災による実験設備の損失から学生東大東工大東北大などに預け、卒業研究を開始
11月11日 君津の旧海軍第2航空廠八重原工員養成所設等の施設(君津校舎)の設営管理を開始
1946年 3月30日 東京から千葉県君津町に移転、教員・学生の意見一致のもと校名を「千葉工業大学」に改称
12月4日 玉川学園側との会談の結果、小原國芳から寄贈された土地・建物を清算し不動産を所有しない大学となる
1947年 2月7日 君津校舎のうち寮、食堂、図書館などを含む3/4が漏電による火災で延焼する
3月 公職追放の影響を受けて2代目理事長の森曉、学長の小西重直などが大学を去る
9月30 第1回卒業式が行われる
1948年 4月 田中航空機器製作所津田沼工場の施設を学部校舎・寮として使用する為に文部省に認可申請
予科寮を旧君津海軍病院施設に移転する
12月 千葉大学(当時設立準備中)への統合案が出るが教員・学生が反対し回避される
1949年 4月 新制大学となる
11月26日 PPA創立
1950年 鐵道第2聯隊跡地(現・津田沼校舎)を取得し、大学機能を移転する
1953年 11月 校歌制定。電気工学科を増設。
1954年 10月7日 大久保の旧軍施設(旧陸軍習志野学校)を取得
1955年 電気工学科第2部を増設。
1961年 3月10日 電子工学科工業化学科を増設
1962年 8月 千種校地を取得
12月20日 土木工学科建築学科を増設
1964年 4月1日 日本私立大学協会常務理事校となる
1965年 8月11日 大学院修士課程(工業化学科、金属工学科)を設置
8月11日 飯岡研修センターを開設
1967年 3月31日 千種寮が完成
1968年 千葉市千種校地に電子計算センター完成
1972年 千種校地に硬式野球場・武道館完成
1986年 芝園校舎(現・新習志野校舎)が完成
1987年 茜浜運動施設(茜浜校地)完成
1988年 工学部第一部情報工学科、工業デザイン学科を新設
1989年 大学院工学研究科博士課程(金属工学専攻・工業化学専攻)
修士課程(機械工学専攻・電気工学専攻・電子工学専攻・建築学専攻)を増設
1990年 第2部電子工学科・情報工学科・建築学科を増設。
大学院工学研究科博士課程(土木工学専攻)修士課程(精密機械工学専攻)を増設
1991年 第1部既設学科(金属工学科を除く)の定員を増加
大学院工学研究科博士課程(機械工学専攻・電気・電子工学専攻)を増設。
1992年 大学院工学研究科博士課程(建築学専攻・精密機械工学専攻)
修士課程(情報工学専攻・工業デザイン学専攻)を増設。
1994年 大学院工学研究科博士課程(情報工学専攻・工業デザイン学専攻)を増設
1995年 大学院工学研究科修士課程(経営工学専攻)を増設。
1997年 第1部情報ネットワーク学科・プロジェクトマネジメント学科を増設。
1999年 工学部に社会人対象教育を充実するために昼夜開講制を導入
ハイテクリサーチセンター開設。
2001年 工学部を改組し、情報科学部・社会システム科学部を新設して3学部制に移行
3学部全学科に昼夜開講制を導入。
2002年 鯨生態観測衛星「観太くん」の打ち上げに成功
2003年 工学部9学科を5学科に改変しフレックス制を導入
(機械サイエンス学科・電気電子情報工学科・生命環境科学科・建築都市環境学科・デザイン科学科の5学科)
未来ロボットセンターを開設
日本の大学としては初めてとなる完全直収型光ファイバー(FTTD)LANを構築
大学としては世界初となる「非接触型手のひら静脈認証技術」および「多機能ICカード」を大学内諸施設へ導入
2004年 大学院工学研究科11専攻を3研究科(工学研究科・情報科学研究科・社会システム科学研究科)7専攻に改組。
2005年 文部科学省特色ある大学教育支援プログラムに採択、現代的教育ニーズ取組支援プログラムに選定される
2006年 工学部に未来ロボディクス学科を新設
4月 御宿研修センター開設
R&Iによる格付けフォローアップ調査の結果「AA-(ダブルA・マイナス)」を維持
2008年 フレックス制を廃止し、全学部学科とも昼間部に移行。
2009年 4月 社会システム科学部に金融・経営リスク科学科を、また、大学院工学研究科に未来ロボティクス専攻を設置。
惑星探査研究センターを開設。
2012年 5月22日 東京スカイツリーイーストタワーに東京スカイツリータウンキャンパスを開設
2014年 2月23日 東京スカイツリータウン(R)キャンパスAreaII開設
4月 新学生寮(桑蓬寮・椿寮)完成
2015年 3月3日 キャンパス内に千葉銀行と共同で、千葉工大ひまわり保育園を設置
4月1日 人工知能・ソフトウェア技術研究センター STAIR Labを設立
2016年 4月 国際金融研究センター(GiFr)、次世代海洋資源研究センター(ORCeNG)を設立

基礎データ編集

所在地編集

  • 大学本部(津田沼キャンパス本号館・〒275-0016 千葉県習志野市津田沼2-17-1)
  • 津田沼校地(津田沼キャンパス・千葉県習志野市津田沼
  • 芝園校地(新習志野キャンパス・千葉県習志野市芝園
  • 茜浜校地(茜浜運動施設・桑蓬寮・椿寮・千葉県習志野市茜浜
  • 千種校地(千種寮・千葉県千葉市花見川区千種町)

象徴編集

逍遙歌
桑蓬の歌
1946年(昭和21年)学生作詞、 学生作曲。
たれ邯鄲の夢に酔ひ
1946年(昭和21年)松藤淳 作詞、山口猛 作曲。
あゝ狂瀾の
?年(昭和?年)作詞、? 作曲。
饗宴の賦
?年(昭和?年)逍遙歌。? 作詞、? 作曲。
スクールカラー
紫紺色でDICカラーガイドのDIC256が指定されている。
モニュメント「永久の環」(芝園校舎)
メビウスの帯無限の記号「∞」をモチーフにしたアルミ製のモニュメント。
東日本大震災後の修復工事の際に撤去された。

所有施設編集

附属の研究所編集

千葉工業大学工学研究所編集

1970年から1975年にかけて設置されていた、社会貢献産学連携に主眼を置いた研究所。

学校法人直轄の研究所編集

未来ロボット技術研究センター編集

2003年(平成15年)6月1日から、morph3の研究開発チームは科学技術振興機構北野共生システムプロジェクトから千葉工業大学・未来ロボット技術研究センター(fuRo)に移籍。「人とロボットの共生」をテーマに未来のロボット技術に関する研究を行っている。

惑星探査研究センター編集

2009年(平成21年)4月から、松井孝典東京大学新領域創成科学研究科教授を所長に「惑星探査研究センター」を学内に開設した。センターではロボットによる宇宙探査を視野に入れ、研究を実施している。

人工知能・ソフトウェア技術研究センター編集

2015年に米澤明憲を所長に迎え、学内に設立された研究所の一つ。センターでは幼児の言語獲得や学習過程の解明などを目標として研究をしている。

国際金融研究センター編集

2016年に学内に設立された研究所の一つ。国際的な金融システムの創造や創出などを目的に研究をおこなっている。

次世代海洋資源研究センター編集

2016年に学内に設立された研究所の一つ。日本の次世代を担う海洋資源の調査や、新たな関連産業の創出・発展を目的とした研究がなされている。

研究編集

中島「橘花」プロジェクト編集

同大教授で海軍航空技術廠所属の中口博海軍技術大尉を中心に、中島飛行機内で開発が進められた大日本帝国海軍の双発ジェット戦闘攻撃機。日本初の純国産ジェット機でもある。

鯨生態観測衛星「観太くん」編集

この取り組みは謎が多い鯨の生態を、衛星を使って宇宙から解明することを目的に立ち上げられた試みである[17]。このプロジェクトは、学生達が人工衛星の設計、制作に携わる日本で初めてのケースとなった[要出典]。また、衛星は学内の学科の域を超えて電気・電子分野、土木分野、機械工学分野、工業デザイン分野、建築分野などの学生が参加して開発された[要出典]。鯨生態観測衛星「観太くん」は、2002年12月14日種子島宇宙センターからH-IIAロケット4号機で打ち上げられ、予定の軌道上に乗った[18]。「観太くん」から送られてきた観測情報は、学内外で研究に役立てられている[19]

レスキューロボット・原発調査ロボット編集

東日本大震災後に福島第一原子力発電所へ最初に投入された国産ロボット「Quince」は、千葉工業大学と東北大学の共同開発である[20][21]。また、千葉工業大学は遠隔操縦ロボット「SAKURA」を原子力緊急事態支援センターで試験運用したり、NEDOのプロジェクトによる「櫻壱號」の開発も行っている[22]

流星観測カメラシステム「メテオ」+流星観測衛星「S-CUBE」プロジェクト編集

NASAと協力して行われた流星観測プロジェクト。

はやぶさ2プロジェクト編集

JAXAと協力して行われてる観測プロジェクト。

水星探査プロジェクト編集

宇宙航空研究開発機構 (JAXA) や欧州宇宙機関 (ESA) と協力した水星探査計画。

教育編集

採択されているプログラム編集

特色ある大学教育支援プログラム編集

2005年文部科学省が選定する「特色ある大学教育支援プログラム」に、『マルチメディア教材による教育・学習支援(副題:シミュレータをベースにした理工学教育 e-Learning)』が採択された[要出典]。情報インフラの整備、学生の授業評価や国内外の教育機関による第3者評価などを行い、シミュレータをベースにしたマルチメディア教材の作成と、それらを補助教材とする教育による教育効果が評価され採択された[要出典][23]

学生生活編集

サークル活動編集

以下の学生を主体とした自治組織によりサークルの運営・企画などが行われている(2013年(平成25年)12月現在)。

体育会
  • 33サークル(29部、2同好会、2愛好会)が所属する。
  • 例年「体育会誌」が発行されている。
文化会
  • 35サークル(30部、4同好会、1愛好会)が所属する。
  • 2012年(平成24年度)より「文化会誌」が発行されるようになった。

イベント編集

文化の祭典
毎年5月下旬に文化系サークルを中心に学生の企画・運営で開催される文化祭。
スポーツフェスティバル
毎年10月中旬に体育会を中心に学生の企画・運営で開催されるスポーツイベント。自由参加で体育会(部活)に所属していない学生も参加できる。卓球やサッカーなど球技が主体。
津田沼祭
毎年11月下旬に津田沼祭実行委員会・学友会執行委員会を中心に学生の企画・運営で開催される学園祭。1970年代頃からキャンパスが立地する地域との交流促進のため、当地の地名を取って「津田沼祭」と呼称するようになった。

大学関係者と組織編集

大学関係者組織編集

  • 千葉工業大学同窓会 - 学生・卒業生・教職員による同窓会[24]
  • 千葉工業大学PPA - 保護者・教職員による後援会組織[25]

大学関係者一覧編集

施設編集

キャンパス編集

津田沼キャンパス編集

 
津田沼キャンパス正門
2006年からのキャンパス再開発5か年計画によって、2008年に新1号棟が完成した。2010年に学生ホールが、2011年に新2号棟が完成した。2013年に、新1号棟を2号館、新二号棟を1号館、学生ホールを3号館と名称変更した。

新習志野キャンパス編集

 
新習志野キャンパス正門
  • 所在地:千葉県習志野市芝園
  • 使用学年:1・2年
  • 使用学部:全学部
  • 使用研究科:stub
  • 使用附属施設:クラフトハウス
  • 交通アクセス
    • 鉄道:JR東日本京葉線新習志野駅下車、南口より徒歩6分[26]
    • バス:京成バス「千葉工業大学入口」停留所下車、徒歩3分[26]
幕張新都心に隣接している。千葉工業大学では、「環境と人にやさしいキャンパス」と標榜している。2013年4月に、芝園キャンパスから新習志野キャンパスに名称変更した。

東京スカイツリータウンキャンパス編集

東京スカイツリーソラマチ8階に設けられたサテライトキャンパス。レスキューロボットや超巨大ロボティックスクリーンなどが展示されている。

運動施設編集

茜浜校地(運動場)編集

  • 所在地:千葉県習志野市茜浜
  • 交通アクセス
    • 鉄道:JR東日本京葉線新習志野駅下車徒歩20分
    • バス:京成バス(習志野市ハッピーバス)「海浜公園」停留所下車すぐ[27]
新習志野(芝園)キャンパスの南方に存在し[26]、野球場、サッカー場などがある。1987年に設置された[28]

編集

男子寮の名称は「桑蓬」と称する。この名称は中国の故事「桑蓬之志」に由来。

桑蓬寮(そうほうりょう)
新習志野キャンパス傍にある男子寮で[26]、2014年に完成[28]
椿寮(つばきりょう)
新習志野キャンパス傍にある女子寮で[26]、2014年に完成[28]

対外関係編集

他大学・高専との協定(国内)編集

包括提携校編集

大学
高等専門学校

単位互換協定校編集

四年制大学
短期大学

連携大学院編集

高等学校との協定編集

その他編集

海外学術交流(大学/機関)編集

文部科学省資料[29]による。

アジア地域
アフリカ地域
ヨーロッパ地域
アメリカ地域


留学プログラム編集

語学研修

  • グアム大学(英語)
  • コンピエーニュ工科大学(フランス語)
  • ハルビン工業大学(中国語)

短期留学

  • ハルビン工業大学(中国)
  • パシフィック大学(アメリカ)
  • コロラド大学ボルダー校(アメリカ)

長期留学

  • ハルビン工業大学(中国)
  • スウェーデン王立工科大学(スウェーデン)
  • コンピエーニュ工科大学(フランス)
  • ペンシルベニア州立大学(アメリカ)

産官学間での連携編集

千葉工業大学では、企業、研究機関及び自治体、地域組織と連携して共同研究を行っている。

主な連携団体(判明分)

企業との連携編集

自治体との連携(協定)編集

千葉県

研究・教育機関との連携(協定)編集

工大の煉瓦門(文化財)編集

現在千葉工業大学が使用している通用門は、かつて同敷地内にあった鐵道聯隊が使用していた営門を残したもので、銀杏並木がならぶ通用門は国土の歴史的景観に寄与しているとして、1998年登録有形文化財に登録された[34][35]。一般には「工大の煉瓦(れんが)門」[34][35]、または「工大の赤煉瓦(あかれんが)門」[36]と呼ばれている。

メディア編集

撮影協力・製作協力編集

事件・不祥事等編集

  • 2012年に千葉工業大学側の報告によって経済産業省からの研究費使用に関して不正のあったことが発覚した[37]。具体的な不正の内容としては、千葉工業大学の研究者が物品などを購入していないにも関わらず、取引業者より購入したとする偽装工作を行い、同研究費から業者に物品購入代金として金を支払っていたというのが一点[37]、もう一点は千葉工業大学の研究者が同研究費を私的目的に使用し、その金の流れを取引業者に研究目的のための物品購入であったことを偽装工作させるなどした[37]、というものであった。これら千葉工業大学の不正に関し経済産業省は、交付した研究費の返還、一定期間研究費交付停止、などの処分を行った[37]
  • 2017年1月10日に大学教員が学生の成績情報などの個人情報をメールに添付し外部の複数の人物に送信してしまう事件が発生した[38]。流出した情報は、学生の氏名や学籍番号、成績などであったという[38]

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 理工学部を持つ旧帝国大学はどれも数に含めず、対象を「現存する単体の理工系大学」に限定した場合。1929年に国立の東京工業大学が設置され、1942年に私立の興亞工業大學(千葉工業大学の前身)が設立された。東工大と同時に昇格した大阪工業大学(1929年設立)は、1933年に大阪帝国大学に吸収されたため数に含めない。日本最初の私立理工系大学である藤原工業大学(1939年設立)も、1944年に慶應義塾大学に併合されて同大学の工学部となったため数に含めない。これら以外の現在存在する国立:私立の理工系単科大学は全て戦後に設立されたものである
  2. ^ 設置が計画されたが戦時のため、機械学科に変更された。戦後に生産工学、経営工学分野を扱った学科として早稲田大学に次き2番目に設置された
  3. ^ 日本人東洋人)を代表してクリスチャンで、教育家小原國芳が大学設立趣意書を提出(アジア解放を望んだ日本国民の自発性を尊重すると共に、再起と誡めの契約を結ぶ)
  4. ^ 急な開校指令だったこともあり全ての建物が完成していなかったため、講義を屋外で行う

出典編集

  1. ^ 小原國芳の言葉「国を造るのは、結局『人』である。その国に住む一人一人の人間がどういう『人』であるかが、その国の価値と、将来とを決めるのである。その国の青年を見れば、その国の将来がわかるという。まさに、国を造るときに最も重要なのは『人』である。だから『教育立国』でなければならない。教育が『人』をつくり、『人』が、国をつくり世界をつくる。『教育』は、人生の最も重要な仕事の一つである」
  2. ^ 西洋化の過程で入ってきた強い階級主義的意識、権威主義的意識のもとエリートたる人物の多くが社会の中で威張り散らしたり、学閥派閥を作っては争ってばかり(小原は、当時の日本の社会全体が「人」の問題で混沌としていた様子を述べている)で、人格人心に問題がある人物が多くエリート校から輩出されていた事実(特に創立関係者たちも各エリート校の出身者であり、学歴差別(例:西田幾多郎)を受けたり、学会や教え子から迫害(例:八木秀次)を受けたり、その実情を体験していた)、社会全体が出世主義的な風潮が強く、教員保護者までもが、教育現場に口出しをし、自分の教え子、自分の子供を出世させようとする押しつけがあること(小原は、特に、大臣の妻が一番手ごわく、自分が大臣になった気分で口出ししてくると述べている)、そして、良い点数を取る→出世街道(エリートコース)という社会的傾向から、学生生徒の多くもテストの点を取ることばかりに集中してしまい(小原の言葉では「点取り虫」「棒暗記」「一夜漬け」などのキーワードが出てくる)、教育の本質的なことが疎かにされ、教育の本質的な意義が見失われていたことなど(なぜ学ぶのか?など、その本質的な意味を考えずに、ただ点取り合戦をしている教育現場の惨状を見て危機感を感じ、次のようなことを全国の教師に呼びかけ続けた。「生徒は実践活動の中で問題にぶつかり、それを乗り越え、成長していくのです。責任感、根気強さ、計画性などの資質は、実践の中で強く培われるのです。…そこからのみ、生きた血のにじみ出るような知識が生まれてきます。創意、工夫、発明、アイデアを忘れた詰込み教育、試験勉強、棒暗記教育を絶対に、日本から駆逐する勇気を、日本の全教師に要望します(山崎亮太郎著「今、蘇る全人教育 小原國芳」2001年、205頁)」)
  3. ^ 江戸期までの教育は東洋的な精神のもと、多様性に富んだ創造的な自由主義教育が中心だったが、明治期を迎えると明治政府主導のもと西欧文明を起源とする一律特化の国家主義的な教育に性質が変わっていった(詳細は日本教育史を参照)。小原國芳著「全人教育論(玉川大学出版部発行)」では政府が国家統制を計るために初等教育において国家神道以外の江戸時代までの神仏を畏敬する心を育てる教育(多様な宗教観を育む教育)の一切を廃止したことを批判しており、ガリレオ・ガリレイの言葉『神なき知育は知恵ある悪魔をつくることなり(神仏を畏敬する心を教えず、知識や技術だけ教えれば、将来的に大きな災いを起こす人物が生まれてくる)』を用いて厳しく批判していた。
  4. ^ 学生生徒を大きな教室に集め、一律に同じような授業をし、同じような知識や思想、技術を持った人間を育てるやり方(小原國芳 『教育と我が生涯 小原國芳』 南日本新聞社より)
  5. ^ ちなみに小原國芳著「全人教育論(玉川大学出版部発行)」では、単純に「字」の読み書きを教えたり「計算」の仕方を教えたり「専門知識」や「スポーツ」の仕方ばかりを教える学校があるが、それは本当の意味での人を育てる教育ではないと書かれており、それらの学校をヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチの言葉を用い「綴り方学校」と区別し呼び、本当に国家や社会を担う創造的な人間を育てる教育ではないと論じている。
  6. ^ 幕末の日本で見られた教育(松下村塾など)であり、20世紀初頭の欧米のイートンカレッジなどで新しく試みられるようになってきた教育活動
  7. ^ 官立大学は公的な教育機関であるため、平等な教育活動しかできず、学生生徒個人の個性を尊重した独創的な教育活動を展開することが困難で、当たり障りのない平均的な人間(金太郎飴のように切っても切っても同じような人材)しか育てられないという教育環境の問題、そして何より、官立大学は政府(国家)から資金を貰って運営されていることもあり、国家や政府の意に反する研究や発言をすると思想弾圧や言論弾圧を受け、学問の自由や大学の自治が妨害されるなどを関係者は痛いほど経験していた。
  8. ^ 小原國芳は私学教育の代表例として広瀬淡窓の咸宜園、吉田松陰の松下村塾、細井平洲興譲館などの例をよく挙げているが、それら私学の先哲者たちの教育精神を忘れない為に、玉川学園内には咸宜園松下村塾の模築が建てられている。
  9. ^ 玉川学園大学部として計画した記述もあるが、姉妹校として計画したという記述もある
  10. ^ a b 玉川学園の歴史-興亜工業大学」玉川学園、(2013年6月5日)、2018年8月7日閲覧。
  11. ^ 昭和21年文部省告示第35号(『官報』第5771号、昭和21年4月13日、p.61
  12. ^ 『千葉工業大学五十年史』 1992年、87-88頁
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  17. ^ 林友直「鯨生態観測衛星(観太くん)プロジェクトについて」『瀬戸内海』第31号、2002年、 32-34頁。<--(特集)森林と海-連鎖への回帰-リモートセンシングの利用と海域生態系-->
  18. ^ 林友直、岡本良夫、横山幸嗣、細川繁、冨田秀穂、升本喜就「鯨生態観測衛星システムとその応用」『電子情報通信学会技術研究報告(SANE, 宇宙・航行エレクトロニクス)』第105巻第102号、2005年5月、 13-20頁。
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  20. ^ “廃炉に挑むロボット”. 四国新聞: p. 4. (2015年1月4日) 
  21. ^ 廃炉に挑むロボット 待ち受ける最難関任務”. 2014年版新年動画. 47NEWS. 2015年2月17日閲覧。
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  23. ^ 特色ある大学教育支援プログラム-特色GP&現代GP-教育・研究活動
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  27. ^ 習志野市ホームページ & https://www.city.narashino.lg.jp/shisetu/koenshiseki/akanehamaryokuti.html.
  28. ^ a b c 入学案内 2015, p. 22.
  29. ^ 大学等間交流協定締結状況 日本側機関別一覧(千葉工業大学) - 文部科学省
  30. ^ 住宅床下点検ロボット開発
  31. ^ 高齢者在宅健康管理・支援システムを共同開発(2009.09.08)
  32. ^ (2009.02.09)
  33. ^ 習志野市産学官連携プラットホーム
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  36. ^ 津田沼キャンパス”. キャンパス案内. 千葉工業大学. 2015年2月17日閲覧。
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  38. ^ a b Security NEXT (2017年1月27日). “成績情報含むファイルを学外に誤送信 - 千葉工業大”. 2017年2月18日閲覧。

参考文献編集

  • 千葉工業大学PPA・千葉工業大学同窓会「千葉工業大学校歌・寮歌・応援歌集」
  • 小原國芳編『全人』No.113 玉川学園出版部、1942
  • 千葉工業大学二十五年史刊行委員会『千葉工業大学二十五年史』千葉工業大学、1967
  • 小原國芳『教育と我が生涯 小原國芳』南日本新聞社 編、玉川大学出版部、1977年11月。ISBN 978-4472028724
  • 玉川学園五十年史編纂委員会『玉川学園50年史』玉川学園、1980年。
  • 日本冶金工業『日本冶金工業六十年史』日本冶金工業、1985年11月。ASIN B000J6OBRI
  • 千葉工業大学五十年史刊行委員会『千葉工業大学五十年史』千葉工業大学、1992年。
  • 戸高一成『[証言録]海軍反省会』PHP研究所、2009年8月。ISBN 978-4569709703
  • 千葉工業大学70年史刊行委員会『千葉工業大学70年のあゆみ』千葉工業大学、2012年。
  • 興亜工業大学”. 玉川学園について. 玉川大学・玉川学園 (2013年6月5日). 2015年2月16日閲覧。
  • 入学案内2015”. デジタル図書館. 千葉工業大学. 2015年2月17日閲覧。

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関連項目編集

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