アーセナル・フットボール・クラブArsenal Football Clubイギリス英語発音: [ˈɑːsənl ˈfutˌbɔːl klʌb])は、イングランドの首都ロンドン北部をホームタウンとする、イングランドプロサッカーリーグ(プレミアリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。クラブカラーは

アーセナルFC
原語表記 Arsenal Football Club
愛称 ガナーズ(The Gunners)
クラブカラー     赤(レッド)・    白(ホワイト)
創設年 1886年
所属リーグ プレミアリーグ
ホームタウン ロンドン
ホームスタジアム Emirates-stadionin etupuoli.jpgエミレーツ・スタジアム
収容人数 60,260
運営法人 アーセナル・ホールディングス
代表者 スコットランドの旗 チップス・ケズウィック
監督 スペインの旗 ミケル・アルテタ
公式サイト 公式サイト
ホームカラー
アウェイカラー
サードカラー
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

概要編集

現在のホームスタジアムはロンドンエミレーツ・スタジアム(収容人数60,260人)。プレミアリーグに所属し、同リーグにおいて3回の優勝記録を持つ(フットボールリーグ時代を含めると13回)。2003-2004シーズンには無敗優勝を達成したイングランド屈指の強豪である。1886年に軍需工場の労働者のクラブとして創設されたため、チームのエンブレムは大砲のマークを持つ。「ガナーズ(Gunners)」の愛称で知られ[1]、サポーターは「グーナー(Gooner)」と呼ばれる。

クラブのモットーは「勝利は調和の中から生まれる(ラテン語: Victoria Concordia Crescit)」。1949年から使用されたクレストに初めて登場する。現行のクレストは2002年から使用されており、大砲の上にサンセリフ体でチーム名が書かれている。

歴史編集

創成期(1886年-1920年)編集

 
1888年のアーセナルの選手達
 
創立当時の1888年に用いられたアーセナルのロゴ

1886年、ロンドン南東部ウーリッジ地区にあった王立兵器廠(ロイヤル・アーセナル)の労働者がダイアル・スクエア(Dial Square)のチーム名で結成した。1886年12月11日に初めての試合をイースタン・ワンダラーズと行い、6-0で勝利。しばらくしてロイヤル・アーセナル(Royal Arsenal)と名称を変更し、1891年、プロ化を果たすとともにウーリッジ・アーセナル(Woolwich Arsenal)へと改称した。

1893年にフットボールリーグ2部に加盟すると、1904年に1部へ昇格。しかし地理的要因により集客力が悪かった影響で、1910年に破産状態に陥り、ヘンリー・ノリス英語版に買収された。ノリスは2部に降格後の1913年、チームをロンドン北部のハイベリー地区にあったアーセナル・スタジアムに移転させると、翌年(1914年)、名称から「ウーリッジ」が外され、現在の名称となった。

1919年に5位でシーズンを終えるも、近隣のライバルであるトッテナム・ホットスパーを差し置いて1部昇格を果たす。これが現在まで続く両チームの激しいライバル関係の端緒となったという見方もある。

ハーバート・チャップマンの時代(1925年-1940年)編集

1925年、ハーバート・チャップマンが監督に就任する。チャップマンによる革新的な戦術やトレーニング法の導入、アレックス・ジェームス英語版クリフ・バスティン英語版といったスター選手の獲得が、1930年代にアーセナルがイングランドサッカーを支配する礎となった。チャップマンの下で1929-30に初のFAカップ優勝、1930-31に初のフットボールリーグ優勝を果たす。

スタジアム最寄りの地下鉄の駅名を「ギレスピー・ロード」から「アーセナル」へと変更させたのもチャップマンの手腕によるものと言われている[2]。ロンドンの地下鉄の中でサッカークラブのチーム名が駅名となっているのはアーセナルだけである。

夜間の試合のためにハイベリーのウェストスタンドに投光照明器を採用したのもチャップマンがリーグで初めてであったが、イングランドサッカー協会はその使用を50年代まで認めなかった。

また、リーグにおいて選手の背番号制を初めて導入したのもチャップマンである[2]。このように、アーセナルだけでなくサッカーの近代化に大きな貢献をしたチャップマンは、1934年に肺炎で急逝した。その死後ジョー・ショー英語版、続いてジョージ・アリソン英語版が監督を引き継ぎ、2人の下でアーセナルはチャップマン時代の1932-33、1933-34を含めたリーグ3連覇、2回のリーグ優勝(1934-35、1937-38)と2回のFAカップ優勝を果たした。しかし、1939年9月の第二次世界大戦の勃発と共にリーグは中断を余儀なくされた。

戦後初のダブル、フェアーズカップ(1947年-1980年)編集

 
1949年から2002年にかけて用いられていたエンブレム

第二次世界大戦後、アリソンの後を継いだトム・ウィタカー英語版の下でも1947-48、1952-53の2回のリーグ優勝、1949-50のFAカップ優勝を成し遂げるが、その後チームは低迷し、50年代はメジャーなタイトルを獲得することなく終わる。

1966年、クラブのフィジオセラピストだったバーティー・ミー英語版が予想外に監督へ抜擢されると、2度のリーグカップ準優勝を経て、1969-70にクラブ史上初のヨーロッパでのタイトルとなるインターシティーズ・フェアーズカップを獲得。更に1970-71にはリーグ優勝とFAカップ優勝のダブルを達成した。しかしダブルを達成したメンバーが徐々にチームを離れていくと、1970年代はタイトル獲得の一歩手前で足踏みするシーズンが続く。リーグ2位(1972-73)、3度のFAカップ準優勝(1971-72、1977-78、1979-80)、UEFAカップウィナーズカップ準優勝(1979-80)がこの間の成績で、獲得したタイトルは1978-79のFAカップ優勝のみである。マンチェスター・ユナイテッドを終了間際のゴールにより3-2で破ったこの試合は、アーセナルの歴史における名勝負の一つに数えられている。

ジョージ・グラハムの時代(1986年-1995年)編集

1986年に就任したジョージ・グラハムは元アーセナルの選手であり、クラブに第3の黄金期をもたらした。就任1年目の1986-87に初のリーグカップ優勝。1988-89のリーグ優勝はシーズン最終節で優勝を争っていたリヴァプールをその本拠地アンフィールドでロスタイムに下すという劇的なものだった。これは最も有名なアーセナルの試合の一つである。

1990-91に1敗のみでリーグ優勝、1992-93にFAカップとリーグカップを獲得、1993-94にカップ・ウィナーズ・カップを獲得。しかし、選手獲得の際にリベートを受け取っていたことが明らかとなって、1995年にグラハムは解雇された。後任はブルース・リオッホ英語版が務めたが、彼も1シーズンで退任した。

アーセン・ベンゲルの就任と無敗優勝(1996年-2005年)編集

 
2003-04シーズン、プレミアリーグ優勝の黄金トロフィーを受け取るキャプテンのパトリック・ヴィエラ

1990年代後半から2000年代にかけてのクラブの成功は、1996年に就任したアーセン・ベンゲルの手腕によるところが大きい。ベンゲルは新たな戦術、トレーニング法を導入すると同時に、イングランド人を補完する形で外国人選手を獲得した。食事制限や禁酒の徹底、外国人選手の登用などがプレミアリーグ全体にもたらしたインパクトは大きく、多くのチームや監督がベンゲルの影響を受けたと言われている。アーセナルは伝統的にフィジカルを前面に押し出した守備的な戦い方で知られており、1990年代後半は「フェイマス4」と呼ばれた4バック(トニー・アダムスナイジェル・ウィンターバーンリー・ディクソンマーティン・キーオン)とゴールキーパーデビッド・シーマンを擁して堅固な守備を誇った。また、他チームのサポーターや攻撃的サッカーを好む一般のマスコミからは「1-0のアーセナル」「退屈で守備的サッカーを展開するチーム」などと揶揄された。しかし、ベンゲル就任後はこの伝統の守備的なチームカラーから一転、海外の選手を積極的に補強し、華麗なパスワークを武器にした圧倒的な攻撃力を誇るチームへと生まれ変わった。

ベンゲルは1997-98シーズンにクラブ史上2度目となるリーグ優勝とFAカップ優勝のダブルを達成し、更に2001-02シーズンにも3度目のダブルを果たす。2001-02のリーグ優勝は敵地マンチェスター・ユナイテッドの本拠地オールド・トラフォードで決めたものである。1999-00にUEFAカップ準優勝、2002-03と2004-05にFAカップ優勝。特に、2003-04シーズンはシーズンを通じて一度も負けることなくプレミアリーグ優勝(無敗優勝)を果たし、このチームは「インヴィンシブルズThe Invincibles,無敵のチーム)」として讃えられた。無敗優勝はイングランドではプレストン・ノースエンド以来115年ぶりの快挙であり、優勝は最大のライバルトッテナムの当時の本拠地ホワイト・ハート・レーンで決定づけた。その後も49戦無敗を続け、この記録は未だに破られていない。なお、カップ戦を含めた無敗は2007年4月9日から同年11月24日にかけての28試合である。2005-06にはクラブ史上初めてUEFAチャンピオンズリーグ決勝に進出したが、バルセロナに破れて惜しくも初優勝を逃した。

アーセナルはベンゲル指揮下の16シーズン中、8シーズンでリーグ優勝及び2位の座を獲得しており、チームはフットボールリーグに代わって1993年に設立されたプレミアリーグで優勝を果たした6クラブ(マンチェスター・ユナイテッドチェルシーマンチェスター・シティブラックバーン・ローヴァーズレスター)のうちの一つとなった。

エミレーツへの移転と無冠の時代(2000年代後半)編集

2006年6月、93年間使用したハイベリーに別れを告げ、エミレーツ・スタジアムへ移転した。こけら落しアヤックスを招いて行われたデニス・ベルカンプの引退試合であった。

この時期のクラブ経営陣はエミレーツ・スタジアム建設に関わる負債の返済のために、チームの主力級の選手に対してチェルシーマンチェスター・ユナイテッドといった他のビッグクラブで主力級の選手が得ているほどの高額な年俸の支払いを認めなかった上、たとえタイトルに恵まれない状況下でもトップレベルの実力と経験のある選手の獲得のために資金を投入しようとはしなかったため、タイトル獲得やより高い報酬を求めてクラブを去る主力選手が後を絶たなかった。このような理由でクラブを離れた選手には、ロビン・ファン・ペルシーセスク・ファブレガスアシュリー・コールサミル・ナスリエマニュエル・アデバヨールガエル・クリシーパトリック・ヴィエラアレクサンドル・フレブマチュー・フラミニらがいた。

2004-05にジョゼ・モウリーニョが監督に就任したチェルシーに得失点差で及ばずリーグ優勝を逃して以降、10シーズン以上もの間リーグで優勝できず、チェルシーやマンチェスター・ユナイテッド等の後塵を拝する形で次第に優勝争いから遠ざかる状況が常態化するようになっていった。またFAカップも2004-05の優勝以降、9年間タイトルに恵まれなかったほか、UEFAチャンピオンズリーグでは2005-06大会の決勝でバルセロナに破れて以来決勝の舞台には立てておらず、中には決勝トーナメント一回戦で敗退する年すらあった。

このように2000年代中頃から2010年代初頭はクラブ史における低迷期とも言える時期であったが、同時に世代交代の時期でもあった。ティエリ・アンリ、ベルカンプ、ヴィエラ、ロベール・ピレスソル・キャンベルフレドリック・ユングベリヌワンコ・カヌローレン・エタメ・マイヤーといった黄金時代を支えた選手達が去る中でクラブは急速に世代交代を進めていき、チームの中心はセスク・ファブレガス、ファン・ペルシー、トマーシュ・ロシツキーアンドレイ・アルシャビントーマス・フェルマーレンバカリ・サニャコロ・トゥーレウィリアム・ギャラス、ナスリ、アデバヨール、フラミニといった選手が占めるようになっていった。若手を中心としたチームはポテンシャルを感じさせるプレーを度々見せたものの、精神面やパフォーマンスに安定を欠いていたためか内紛が多く、先述のように主力選手が他のビッグクラブへと去ることも多かった。しかしこの間もセオ・ウォルコットアーロン・ラムジージャック・ウィルシャーローラン・コシールニーなどはチームに留まり続け、その後のチームの屋台骨を支える選手として成長していった。

2011年以後の補強の成功により、チームの戦力は徐々に充実していった。2011-12シーズンはセスク・ファブレガスが退団したが、ミケル・アルテタヨッシ・ベナユンらを補強した。2011年にブレーメンから移籍して来たペア・メルテザッカーは、1年目は怪我に苦しんだものの、2012-13にはコシールニーとの息の合ったコンビネーションを見せた。この2012-13シーズンはファン・ペルシーが退団したものの、マラガから加入したサンティ・カソルラが加入直後からチームにフィットしてチームの躍進を支えたほか、モンペリエからオリヴィエ・ジルーが加入して47試合に出場し17ゴールを記録した。

無冠時代の終焉とベンゲル退任(2011年-2018年)編集

エミレーツ・スタジアム建設に関わる負債の減少から緊縮財政が終わると、経済的理由による主力の放出は治まり、高額な移籍金のかかる選手の獲得にも乗り出せるようになる。

2013年9月2日にアーセナルは当時のクラブ史上最高の移籍金5000万ユーロでレアル・マドリードからメスト・エジルを獲得した。エジルはカソルラらと息の合ったコンビネーションを構築し、2年連続でUEFAチーム・オブ・ザ・イヤーに選出されるほどの卓越したパフォーマンスを披露した。このような補強の成功と戦力の増強が奏功し、チームは5月17日のFAカップ決勝にてハル・シティに逆転勝利を収めて優勝を果たし、アーセナルは9シーズンぶりにタイトル獲得の喜びをファンと分かち合った[3]

翌年の2014-15シーズンにはバルセロナからでチリ代表アレクシス・サンチェスを、ニースから2014 FIFAワールドカップで脚光を浴びたコロンビア代表ダビド・オスピナを、ニューカッスル・ユナイテッドからフランス代表マテュー・ドゥビュシーなど6名を獲得するなど、積極的な補強を行った。シーズン最初のコミュニティーシールドでは前季リーグ王者のマンチェスター・シティと対戦し3-0で勝利を収め、このシーズン最初のタイトルを獲得した。リーグも例年よりも安定した戦績を積み3位となったほか、FAカップでは決勝でアストン・ヴィラに4-0での勝利を収め、2年連続でカップを制した。この優勝によりアーセナルのFAカップにおける優勝回数は12回となり、アーセナルはマンチェスター・ユナイテッドを単独で上回る歴代最多優勝チームとなった[4]

2015年7月30日、同じくロンドンを本拠地とするライバルのチェルシーからペトル・チェフを獲得。8月2日にはコミュニティーシールドでそのチェルシーと対戦して1-0で勝利し、同大会の通算タイトル獲得数を14に伸ばした。この2015-16シーズンは前半戦(19節)終了時点でリーグ首位に立っていたものの、最終的にレスターに抜かれ、2004-05以来の2位でシーズンを終えた。

2016-17シーズンは、ボルシアMGからグラニト・ジャカバレンシアからシュコドラン・ムスタフィデポルティーボ・ラ・コルーニャからルーカス・ペレスを獲得した[5]。開幕戦こそリヴァプールに敗れたものの、チェルシーに勝利するなど調子が上向きであった。しかしエジルが不調に陥り、サンチェスの個の力に依存するようになると徐々に順位を落とし、最終的には5位でシーズンを終え、チャンピオンズリーグ出場権を19シーズンぶりに逃した。同年のチャンピオンズリーグでもベスト16でバイエルンに2戦合計2-10で大敗し姿を消した。しかしFAカップでは決勝でチェルシーに2-1で勝ち、再び史上最多となる13回目の優勝を飾り無冠を免れた。

2017-18シーズンは、夏の移籍市場でセアド・コラシナツアレクサンドル・ラカゼットを獲得した[6]ほか、長年に渡って維持してきたCL出場権を逃したことでフロント陣の大刷新が図られ、フィットネスコーチとしてAFLのチームからオーストラリア代表リヴァプールで働いていたオーストラリア人ダレン・バージェスを引き抜いた。彼はアーセナルでは、メディカル、フィットネス、心理学、そしてパフォーマンス分析を任され、更にスポーツにおける法律関連の業務を取り扱う企業のディレクター職兼自転車ロードレースのチーム「チームスカイ」で法律顧問を務める弁護士ハス・ファミーを契約交渉担当として引き抜いた。2017年11月20日には約10年間ドルトムントに在籍し敏腕スカウトとして注目されていたスヴェン・ミスリンタットをスカウトとしては異例の移籍金を支払う形でスカウト部門の責任者として引き抜いた。同年11月28日、約15年間FCバルセロナのFDを務めていたラウル・サンレヒが2018年2月1日からサッカー部門責任者として就任することを発表した。トップチームのコーチにクラブOBのレーマンが就任した。入れ替わる形で約8年間に渡って交渉責任者を務めていたディック・ロウや約25年間に渡ってチーフスカウトを務めてきたスティーブ・ローリーが退任した。冬の市場ではオーバメヤンサンチェスとトレードする形でムヒタリアンなど、ミスリンタットが古巣でスカウトした選手を立て続けに獲得した。しかし、スタッフ陣の大刷新も実らず、6位でシーズンを終え2季連続でCL出場権を逃したことで、2018年4月20日、22年間指揮したアーセン・ベンゲルの今季限りでの退任が発表された。

ウナイ・エメリ監督就任(2018年-2019年)編集

2018年5月23日、ウナイ・エメリがアーセナルの22年ぶりの新監督として就任することが発表された[7][8]。新加入選手はドルトムントからソクラティス・パパスタソプーロスサンプドリアからルーカス・トレイラなど合わせて5名ほどとなっており刷新と言うほどにはならなかったが、監督交代などもあり昨季に続きスタッフ陣の刷新が行われ、昨季キャプテンを務めシーズン終了後に現役引退したメルテザッカーがアーセナルアカデミーの監督に就任したほか、同じくOBのユングベリが同アカデミーのヘッドコーチに就任した。しかし昨季コーチに就任したOBのレーマンは退団することが決まった。また同年12月1日付けで、約10年に渡りアーセナルのCEOを務めてきたイヴァン・ガジディスがACミランのCEOに就任することが発表された。後任としてラウル・サンレヒがフットボール部門のヘッドに、ヴィナイ・ヴェンカテシャムがマネージングディレクターに就任することになった。また、冬の移籍市場ではセビージャで指揮をとっていた時の教え子であるデニス・スアレスを、バルセロナから買い取りオプション付きでレンタルした[9]。2019年4月1日のプレミアリーグ第32節ニューカッスル戦で2-0と勝利しリーグ戦ホーム10連勝を記録した。ホーム10連勝は21年ぶりのこととなった。だがアウェーでの戦績が昨シーズンよりは改善したものの依然として悪く(7勝4分け8敗でリーグ8位)、エクトル・ベジェリンなど負傷による長期離脱者も例年通り連発し、5位でシーズンを終えた。ELでは監督エメリがセビージャ時代に3連覇を成し遂げており、戦力的にも優勝候補筆頭だったが、決勝でライバル、チェルシーFCに1-4で大敗し準優勝。結果3季連続でCL出場権を逃すことになった。

2019年7月9日、ブラジル代表のジェネラルコーディネーターを務めいたOBのエドゥが新たな役職テクニカルディレクターに就任することが発表された[10]。夏の移籍市場では例年通り厳しい予算制限の中、リールで昨シーズンブレイクしたニコラ・ペペをクラブ史上最高額となる8000万ユーロで獲得し、レアル・マドリードからダニ・セバージョスをレンタルで獲得。さらに、最終日に宿敵チェルシーからダヴィド・ルイスを獲得した他、セルティックからキーラン・ティアニーの獲得した。一方で、ペトル・チェフが引退し、アーロン・ラムジーユヴェントスに、主将のローラン・コシールニーボルドーに、アレックス・イウォビエヴァートンに移籍した。11月29日に、成績不振によりウナイ・エメリが解任され、フレドリック・ユングベリが暫定監督に就任した[11]

ミケル・アルテタ監督就任(2019年-)編集

2019年12月20日、マンチェスター・シティFCグアルディオラのアシスタントコーチを務めていたクラブOBのミケル・アルテタが3年半契約で監督として正式就任することが発表された[12]。2020年3月10日、2月27日にELで対戦したオリンピアコスFCオーナーであるエヴァンゲロス・マリナキスが世界的に流行してた2019新型コロナウイルスに感染していることを自身のSNSで公表した[13]。翌3月11日、この試合後に複数の選手がマリナキス氏と濃厚接触をしていたことから感染者との接触日から14日間は自宅待機という政府の方針に従い当該選手と近くに座っていた4人のスタッフが3月12日まで自宅待機となり、延期でこの日に組まれていたマンチェスター・シティFC戦が再び延期となった[14]。さらに翌日の3月12日、監督のミケル・アルテタが2019新型コロナウイルスに感染したことが判明し、ファーストチームの選手全員とコーチ陣を含むかなり多くのアーセナル関係者がアルテタとの最後の接触日から14日間の自宅待機となった[15]プレミアリーグ公式は、数時間前に今後の試合は予定通り試合を行う旨の発表をしていたが、このアルテタの感染の発表を受けて3月13日の午前に緊急のクラブ会議を行った[16]。その後も他のプレミアリーグチームの選手やスタッフから感染者や感染の疑いがある人物が続出し、3月13日にプレミアリーグは4月4日までイングランドのプロチームの試合全てを一時中断する決定をしたことを発表した[17]

ユニフォーム編集

ユニフォームは伝統的に赤地に白い袖を特徴としている。これはクラブが結成された1886年にノッティンガム・フォレストから贈られたシャツがきっかけとなって定着したものである[18]。結成当初の選手であるフレッド・ビアズリーとモリス・ベイツは以前フォレストでプレーした経験があり、用具のなかったチームを助けてもらえないかとフォレストに頼んだ。それを受けて濃い赤のシャツとボールが贈られたのである。1933年、より鮮やかな赤色と白い袖に変更したのは当時の監督ハーバート・チャップマンである。白い袖を取り入れた背景には、白いシャツの上に赤いシャツを着たファンをハイベリーで見かけたという説や、ゴルフ仲間のトム・ウェブスターが似たような服を着ていたからという2つの説がある。

 
 
 
 
 
 
設立当初のユニフォーム
 
 
 
 
 
 
1933年のユニフォーム

アーセナルのような赤地に白袖のデザインを取り入れたユニフォームはその後欧州各地に伝わり、ACスパルタ・プラハや、ハイバーニアンFCSCブラガなどのクラブがこのスタイルを採用した。そのために後者には "Os Arsenalistas" というニックネームがついている。

選手は毎試合同じ袖(長袖か半袖のどちらか)のユニフォームを皆揃って着るように決まっている。どちらを着て試合に出るかを決めるのはキャプテンの役目であり、この習慣は90年代初期のトニー・アダムスから始まった。

ダービーマッチ編集

 
2012年11月に行われたノース・ロンドン・ダービー。アーセナルはトッテナムに5-2で勝利した。

同じ北ロンドンに本拠を構えるクラブ同士としてトッテナム・ホットスパーとは激しいライバル関係にあり、サポーター同士のいがみ合いが強く両者の間には争いごとが絶えない。それをよく象徴するのがかつて同クラブから移籍してきたソル・キャンベルに対してトッテナムファンがユダと呼んだという出来事である。両チームの対戦は「ノース・ロンドン・ダービー」と呼ばれ、マンチェスター・ダービーマージーサイド・ダービーと並び、リーグの三大ダービーの一つに数えられている。 他にも、近年上位を争っているチェルシーとの対戦は「ビッグロンドン・ダービー」と呼ばれる。また、同じく長い歴史と伝統を持っているマンチェスター・ユナイテッドとも互いに強いライバル意識を持っていると言われている。

エピソード編集

  • 1927年1月22日に行われたシェフィールド・ユナイテッド戦は、イングランドで初めてラジオで中継されたリーグ戦だった。また、1937年9月16日に行われたアーセナルのファーストチームとリザーブチームのエキシビションマッチは、サッカーの歴史上初めてテレビで中継された試合である。
  • 2014年1月、世界最大の会計事務所である『デロイト』が公表したデロイト・フットボール・マネー・リーグによると、2012-13シーズンのアーセナルのクラブ収入は2億8430万ユーロであり、世界第8位である。プレミアリーグではマンチェスター・ユナイテッドマンチェスター・シティチェルシーに次ぐ第4位である[19]
  • ワールドカップドイツ大会に、当時17歳の若さで、セオ・ウォルコットが選出された。イングランド国内外でサプライズ招集として注目を浴びたが、試合出場の機会は無かった。
  • 就任当初は足りないところを外国人で補強するという方針を公言していたベンゲル監督だったが、その後はフランスやアフリカなど自身と同じフランス語圏系の選手が大半を占めるようになり、彼らはベンゲルを含めて「フレンチ・コネクション」と呼ばれた。結果的にイングランド人選手の活躍の場が少ない状況が続き、特に2006-07シーズン開始時には、ピッチ上にイングランド人選手が全くいない試合が多くあったため、イングランド国内において外国人偏重チームと批判されることが多かった。この理由についてベンゲルはアーセナルが若手有望株を多く登用する方針であることを指摘した上で、「だがイングランドの若手選手を獲得しようとすると、他の国の選手に比べて値段が高い。そうなれば法律的に15歳から17歳の移籍金のかからない国の有望な若手選手に目を向けることが多くなるのは自然なことだ」とコメントしている。その後は、ホームグロウン制度[20]を満たす外国人選手の獲得は続いているものの、アカデミー出身のジャック・ウィルシャーキーラン・ギブスアレックス・イウォビに加えて、アーロン・ラムジーオックスレイド=チェンバレンなどの国内選手の台頭も見られるようになった。彼らは先述の「フレンチ・コネクション」に代わって「ブリティッシュ・コア」と呼ばれた。
  • 国家による労働法・雇用法の違いを利用し、18歳未満の選手を無償で獲得する手法には各方面から批判が上がるが、法律上は問題はないのでむしろ各クラブのモラルの問題と見る声もある。その例として、2003年、16歳にしてFIFA U-17ワールドカップで得点王とMVPを獲得したセスク・ファブレガスは、アーセナルに17歳で移籍した[21]
  • バッキンガム宮殿におけるエリザベス2世主催のお茶会にサッカークラブとして初めて招待された。エミレーツ・スタジアムの落成式には女王が臨席する予定であったが、体調を崩していたため、夫のエディンバラ公フィリップが代理出席した。
  • 1968年5月に来日し、当時のサッカー日本代表と3試合を行ったことがある[22]。結果はアーセナルの3勝[22]釜本邦茂が出場している。
  • 地元密着のための方策の一つとして、毎年ロンドン市と共同で子供向けに外国語学習教材を製作し配布している。教材には現役選手も多数登場するのが恒例。ちなみに2009年より川崎フロンターレが毎年製作している算数ドリルは、この教材に範を取って作られた[23]
  • 審判のマイク・ディーンとの相性の悪さは有名である。2015年時点で、2005年以降で他の審判員が担当した場合のアーセナルの勝率が62.31%なの対し、ディーン主審の場合は25.37%まで下がるというデータがある。ディーンは度々、アーセナルに不利な不可解なジャッジを行い物議を醸している。2012年2月のノース・ロンドン・ダービーにおいて、ディーンはトッテナムのゴールに喜ぶような仕草を見せ話題となった。2015年にはチェルシーとのダービーマッチにおいて一連の乱闘騒ぎがあったが、チェルシーのジエゴ・コスタの挑発行為や暴力行為が引き金となったにも関わらずアーセナルのガブリエウのみが退場となった。これに激怒したアーセナルサポーターは、同氏が二度とアーセナル戦で笛を吹かないよう署名運動を行った。また2017年12月のウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン戦において、ディーンはカラム・チェンバースのハンドを取り相手にPKを与えた。この判定に激怒したベンゲルは、審判団の控室に乗り込んで主審を罵倒するなどした。FAは、この行為についてベンゲルに3試合のベンチ入り禁止と4万ポンドの罰金の処分を科した。しかし後日、ディーンはこの判定が誤りであったことを認めた。

タイトル編集

国内タイトル編集

国際タイトル編集

親善大会(非公式大会)編集

  • バークレイズ・アジアトロフィー:1回
    • 2015

スタジアム編集

 
エミレーツ・スタジアムのグラウンド
 
旧本拠地であるハイベリー

現所属メンバー編集

2019-20シーズン 基本フォーメーション
2020年1月31日現在
No. Pos. 選手名
1   GK ベルント・レノ
2   DF エクトル・ベジェリン
3   DF キーラン・ティアニー ( )
5   DF ソクラティス・パパスタソプーロス
8   MF ダニ・セバージョス
9   FW アレクサンドル・ラカゼット ( )
10   MF メスト・エジル ( )
11   MF ルーカス・トレイラ ( )
14   FW ピエール=エメリク・オーバメヤン ( ) ( )  
15   MF エインズリー・メイトランド=ナイルズ
16   DF ロブ・ホールディング
17   DF セドリック・ソアレス ( )
19   FW ニコラ・ペペ ( )
No. Pos. 選手名
20   DF シュコドラン・ムスタフィ ( )
21   DF カラム・チャンバース
22   DF パブロ・マリ
23   DF ダヴィド・ルイス ( )
24   FW リース・ネルソン ( ) ☆
26   GK エミリアーノ・マルティネス
28   MF ジョー・ウィロック
29   MF マテオ・ゲンドゥージ ( ) ☆
30   FW エディ・エンケティア ( ) ☆
31   DF セアド・コラシナツ ( )
33   GK マット・メイシー
34   MF グラニト・ジャカ ( )
35   FW ガブリエウ・マルティネッリ ( ) ☆
77   MF ブカヨ・サカ ( ) ☆

※括弧内の国旗はその他の保有国籍を、★はホーム・グロウン選手、☆はU-21登録選手を示す。

監督

ローン移籍編集

in
No. Pos. 選手名
8   MF ダニ・セバージョス (レアル・マドリード)
17   DF セドリック・ソアレス (サウサンプトンFC)
No. Pos. 選手名
22   DF パブロ・マリ (CRフラメンゴ)
out
No. Pos. 選手名
4   MF モハメド・エルネニー (ベシクタシュJK)
7   MF ヘンリク・ムヒタリアン (ASローマ)
27   DF コンスタンティノス・マヴロパノス (1.FCニュルンベルク)
No. Pos. 選手名
32   MF エミール・スミス・ロウ (ハダースフィールド・タウンFC)
--   DF ウィリアン・サリバ (ASサンテティエンヌ)

加入内定選手編集

No. Pos. 選手名
--   DF ウィリアン・サリバ (ASサンテティエンヌ)

リザーブ・アカデミー編集

2019-2020シーズンのスポンサー編集

Arsenal.comのOUR PARTNERSページを参考[24]
ヨーロッパやアメリカの企業はもちろん、中東やアジアの企業も名を連ねる。

LEAD PARTNERS編集

OFFICIAL PARTNERS編集

REGIONAL PARTNERS

歴代胸スポンサー編集

  •   日本ビクター
    • 82/83〜98/99シーズンまでのスポンサー。胸には「JVC」と書かれていた。アーセナル史上初の胸スポンサーであった。
  •   セガ
    • 99/00〜01/02シーズンまでのスポンサー。胸には「SEGA」または「Dreamcast」と書かれていた。
  •   O2
    • 02/03〜05/06シーズンまでのスポンサー。ハイベリー時代最後のスポンサーで、03/04シーズンのインビンシブルズを達成した時のスポンサーであった。

歴代所属メンバー編集

歴代出場試合数記録編集

順位 選手名 所属期間 試合数
1   デヴィッド・オレアリー 1975-1993 722
2   トニー・アダムス 1983–2002 669
3   ジョージ・アームストロング 1961-1977 621
4   リー・ディクソン 1988-2002 619
5   ナイジェル・ウィンターバーン 1986–2000 584
6   デビッド・シーマン 1990-2003 564
7   パット・ライス 1967-1980 528
8  ピーター・ストーリー 1962-1977 501
9   ジョン・ラドフォード 1962–1976 481
10   ピーター・シンプソン 1964–1978 477

歴代総得点数記録編集

順位 選手名 所属期間 得点数
1   ティエリ・アンリ 1999-2007, 2012 228
2   イアン・ライト 1991-1998 185
3   クリフ・バスティン 1929-1946 178
4   ジョン・ラドフォード 1962–1976 149
5   ジミー・ブライン 1923–1931 139
5   テッド・ドレイク 1934–1945 139
7   ダグ・リッシュマン 1948–1956 137
8   ロビン・ファン・ペルシ 2004-2012 132
9   ジョー・ハルム 1926–1938 125
10   デイヴィッド・ジャック 1928-1934 124

脚注編集

[脚注の使い方]
  1. ^ チーム名のアーセナル(Arsenal、兵器廠)に由来する。
  2. ^ a b No.253 チューブ駅「アーセナル」の話”. サッカーの話をしよう 大住良之オフィシャルアーカイブサイト (1999年2月10日). 2013年5月8日閲覧。
  3. ^ アーセナル 9季ぶりのタイトル獲得!FA杯決勝で逆転勝利スポーツニッポン 2014年5月18日 同日閲覧)
  4. ^ 翌シーズンはマンチェスター・ユナイテッドがFAカップを制したため、再び優勝回数が同数となった
  5. ^ “66億円ダブル獲得間近!ヴェンゲル監督も確信を表明”. Qoly. https://qoly.jp/2016/08/27/arsenal-close-to-sign-with-lucas-perez-and-shkodran-mustafi 2018年10月19日閲覧。 
  6. ^ 新加入選手に期待するコシェルニーtheWORLD(2017年8月1日)2018年3月3日閲覧
  7. ^ Welcome Unai” (英語). Arsenal.com (2018年5月23日). 2018年5月23日閲覧。
  8. ^ co.,Ltd, FromOne. “アーセナル、元PSGのエメリ氏を招へい! ヴェンゲル監督の後任に決定 | サッカーキング” (日本語). サッカーキング. https://www.soccer-king.jp/news/world/eng/20180523/762812.html?cx_art=newarrivalcat 2018年8月14日閲覧。 
  9. ^ アーセナル、バルセロナからデニス・スアレスを獲得決定!ローン+買取OP”. Qoly. 2019年2月24日閲覧。
  10. ^ Edu named as our technical director”. Arsenal.com (2019年7月9日). 2019年7月15日閲覧。
  11. ^ Unai Emery leaves club” (英語). Arsenal (2019年11月29日). 2019年12月18日閲覧。
  12. ^ Mikel Arteta joining as our new head coach”. Arsenal (2019年12月20日). 2019年12月20日閲覧。
  13. ^ Nottingham Forest owner Evangelos Marinakis has coronavirus” (2019年3月10日). 2020年3月14日閲覧。
  14. ^ Manchester City match postponed”. Arsenal (2019年3月11日). 2020年3月14日閲覧。
  15. ^ Club statement: COVID-19”. Arsenal (2019年3月12日). 2020年3月14日閲覧。
  16. ^ Premier League statement” (2019年3月12日). 2020年3月14日閲覧。
  17. ^ “[Premier League, FA, EFL and WSL unite to postpone fixtures Premier League statement]” (2019年3月13日). 2020年3月14日閲覧。
  18. ^ 驚きの珍理由も!「チームカラーの決め方が意外だった」ユニフォーム7選”. Qoly. 2020年5月5日閲覧。
  19. ^ Deloitte Football Money League 2014(2014年1月に国際監査法人『デロイト』が公表した2012-2013シーズンの欧州サッカーのクラブ収入ランキング)
  20. ^ 2010-2011シーズンより施行されたルール。選手の国籍は問わない代わりに、1軍登録メンバーに占める22歳以上の選手は最大25名に限られ、そのうち最低8名が21歳の誕生日を迎えるシーズンが終了するまでに少なくとも3年間を国内(ウェールズ含む)のクラブで過ごしていること、というもの。
  21. ^ 彼は2010-11シーズンまでアーセナルでプレーしたため、プレミアリーグにおいては「ホームグロウン」選手である
  22. ^ a b 釜本邦茂(11)名門アーセナルのお株を奪う「アーセナル・ゴール」。メキシコ五輪へ着々と”. 賀川サッカーライブラリー (2009年1月20日). 2012年9月1日閲覧。
  23. ^ 「川崎フロンターレ算数ドリル」完成 - Jリーグ公式サイト・2009年4月28日
  24. ^ http://www.arsenal.com/the-club/sponsors-partners

関連項目編集

外部リンク編集

公式
ニュース
その他