ジャック・ラフィット
- フランスのF1ドライバー。本稿で記載。
- 19世紀フランスの銀行家・政治家。彼についてはジャック・ラフィット (政治家)を参照。
ジャック=アンリ・マリー・サバン・ラフィット(Jacques-Henri Marie Sabin Laffite, 1943年11月21日 - )は、フランス生まれの元F1ドライバー。フランス語読みで「ジャック・ラフィー」と呼ばれることもある。
ジャック・ラフィット | |
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![]() ファン達にサインをねだられるラフィット (※:写真左から2人目の人物。1988年) | |
基本情報 | |
フルネーム | ジャック=アンリ・マリー・サバン・ラフィット |
国籍 |
![]() |
出身地 | 同・パリ |
生年月日 | 1943年11月21日(77歳) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1974-1986 |
所属チーム |
'74-'75,'83-'84 ウィリアムズ[1] '76-'82,'85-'86 リジェ |
出走回数 | 180 (176スタート) |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 6 |
表彰台(3位以内)回数 | 32 |
通算獲得ポイント | 228 |
ポールポジション | 7 |
ファステストラップ | 7 |
初戦 | 1974年ドイツGP |
初勝利 | 1977年スウェーデンGP |
最終勝利 | 1981年カナダGP |
最終戦 | 1986年イギリスGP |
プロフィール編集
モータースポーツのドライバーとしてはスタートが極めて遅く、1973年に30歳でフランスF3チャンピオンを獲得。翌年に30歳を超えてからのF1デビューであった。1974年・1975年とF1に参戦初期の弱小チームだったウィリアムズから参戦。
1976年、F1に新規参戦したリジェのエースドライバーなる。1977年スウェーデングランプリで自身にとってもリジェにとっても初となるF1勝利を挙げる。
1979年にパトリック・デパイユが加入し、リジェは2カーエントリーとなった。ニューマシン、リジェ・JS11の戦闘力は高く、ラフィットは開幕から2連勝を挙げてチャンピオン争いに絡んだ。年間ドライバーズランキングは4位、コンストラクターズランキングでは3位と躍進のシーズンとなった。
1980年、移籍したデパイユに変わりディディエ・ピローニが加入しチームメイトとなる。改良型のJS11/15をドライブしドイツGPで優勝、年間ランキング4位を獲得。コンストラクターズ選手権では2位とリジェの最高順位となる結果を残した。
1981年のリジェ・JS17でも1勝を挙げ、同年は最終戦で優勝すればワールドチャンピオンを獲得できるポジションに付けていたが、ランキング4位で終了。3年連続でドライバーズランキング4位につけるなど安定した年間成績を残した。同年のスペインGPでは、予選終了時刻前に自身のタイムアタックを終えると最終結果を確認せずに切り上げてゴルフに出かけてしまった。結果はポールポジションを獲得し、決勝ではわずか0.211秒差及ばず2位となっている(このレースの優勝者はフェラーリのジル・ヴィルヌーヴであるが、1位から5位までがわずか1.231秒の差でフィニッシュする接戦であった。3位はジョン・ワトソン、4位はカルロス・ロイテマン、5位はエリオ・デ・アンジェリス)[2]。1982年オフに7年過ごしたリジェからウイリアムズに復帰。
1983年はケケ・ロズベルグと共にFW08Cを駆り、最終戦南アフリカGPでは同年にF1復帰していたホンダがV6ターボエンジンをウィリアムズに供給開始時のドライバーとなった。
1984年アメリカグランプリの際にはサーキットにパジャマ姿で現れるというエピソードを残した。このレースは猛暑とアメリカ国内でのテレビ中継、ヨーロッパとの時差を考慮し通常より3時間早い午前11時スタートと設定され、その関係でウォームアップランが午前7時開始となったため、それに対する皮肉を込めたラフィットのジョークであった。その姿を見たチーム関係者たちは皆爆笑したという。元F1メカニックの津川哲夫は著書「F1グランプリボーイズ」の中でラフィットを「サーキットのコメディアン」と称している。
1985年、リジェに復帰。チームメイトはアンドレア・デ・チェザリス。ラフィットは3度表彰台に登壇するなどランキング9位を得る。
1986年もリジェに残留し、ルネ・アルヌーとフランス人コンビを組み、ルノー・ターボエンジンを搭載するリジェ・JS27をドライブとオール・フレンチ体制となった。開幕戦ブラジルGPで3位表彰台に立つ滑り出しを見せる。第9戦イギリスGPでは、当時のF1最多出走記録であったグラハム・ヒルの出走数176に並んだ。しかし、決勝レースがスタートしタイ記録が達成された直後、多重事故によりラフィットはコース右側のグリーンに押し出され、カードレールに突っ込んでしまい両足の複雑骨折を負った[3]。以後F1への復帰を目指しリハビリテーションに励み、「松葉杖も要らなくなったし、あと2年はグランプリで走る自信がある」とF1復帰を望んでいたが[4]、この86年イギリスGPが最後のF1出走となった。
30歳以上でF1デビューしたドライバーの中でもっとも決勝出走回数が多いドライバーで、前述のヒルの記録に並んだ時には既に42歳になっていた。F1決勝出走176GPのレコードは、1989年にリカルド・パトレーゼが更新するまで(ヒルと並んで)F1最多出走記録であった。
1987年、ディジョンで開催されたWTC第3戦でレース復帰。アレッサンドロ・ナニーニとのコンビでアルファロメオ・A75ターボの第2ワークスカーを駆って予選14位・決勝9位でレースを終えた[5]。
以後、フランステレビ局のF1レース中継解説者としてサーキットを訪れている。
ラフィットのヘルメットデザインは、黒地の無地ヘルメットに、勝利したグランプリのウィナーズステッカーだけが貼られたシンプルなものがトレードマークとなっていた。 同時期にルノーなどで活躍したF1ドライバージャン=ピエール・ジャブイーユとは、義理の兄弟(互いの妻が姉妹)である。またゴルフ好きで知られ、同じくゴルフ好きだったナイジェル・マンセルと親交がある。
F1での主な記録編集
- 1974年 ウィリアムズからF1初参戦。
- 1975年 シーズンランキング12位。
- 1976年 リジェに移籍、シーズンランキング8位。初ポールポジション。
- 1977年 シーズンランキング10位。初優勝。
- 1978年 シーズンランキング8位。
- 1979年 シーズンランキング4位。2勝。
- 1980年 シーズンランキング4位。1勝。
- 1981年 シーズンランキング4位。2勝。
- 1982年 シーズンランキング18位。
- 1983年 ウィリアムズに移籍、シーズンランキング11位。
- 1984年 シーズンランキング14位。
- 1985年 リジェに移籍、シーズンランキング9位。
- 1986年 イギリスグランプリで事故により負傷し、以後F1を欠場。シーズンランキング8位。
カーナンバー (F1)編集
- 21 (1974年第11戦~1975年第3戦.5.6.8~14戦)
- 26 (1976年~1982年第3戦.5~16戦.1985年~1986年第9戦)
- 2 (1983年)
- 5 (1984年)
レース戦績編集
ヨーロッパ・フォーミュラ2選手権編集
年 | チーム | シャーシ | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1974年 | BP Racing France | マーチ・742 | BMW・M12 | BAR Ret |
HOC 10 |
PAU 2 |
SAL 1 |
HOC 2 |
MUG Ret |
KAR 3 |
PER 7 |
HOC 18 |
VLL 3 |
3位 | 31 | ||||
1975年 | オートモービル・マルティニ | マルティニ・Mk 16 | EST 1 |
THR 1 |
HOC Ret |
NÜR 1 |
PAU 1 |
HOC 1 |
SAL NC |
ROU Ret |
MUG Ret |
PER 1 |
SIL Ret |
ZOL Ret |
NOG Ret |
VLL 2 |
1位 | 60 | |
1976年 | フレッド・オペル・レーシング | シェブロン・B35 | BMW | HOC | THR | VLL | SAL | PAU 2 |
HOC | ROU | MUG | PER | EST | NOG 2 |
NC | 0‡ | |||
Willi Kauhsen Racing Team | マーチ・762 | ハート | HOC Ret |
||||||||||||||||
1977年 | フレッド・オペル・レーシング | シェブロン・B40 | SIL | THR | HOC 7 |
NÜR | VLL | PAU 10 |
MUG | ROU | NOG Ret |
PER | MIS | EST | DON | NC | 0 | ||
1978年 | マウブランク・レーシング・サービス | マーチ・782 | BMW | THR | HOC | NÜR | PAU 11 |
MUG | VLL | ROU | DON | NOG Ret |
PER | MIS | HOC | NC | 0 |
F1編集
ル・マン24時間レース編集
年 | チーム | コ・ドライバー | 使用車両 | クラス | 周回 | 総合順位 | クラス順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1972年 | オートモビルス・リジェ | ピア・モブラン | リジェ・JS2-マセラティ | S 3.0 |
195 | DNF | DNF |
1973年 | ギ・リジェ | S 3.0 |
24 | DSQ | DSQ | ||
1974年 | アラン・セルパッジ | S 3.0 |
310 | 8位 | 5位 | ||
1977年 | エクィップ ルノー エルフ | パトリック・デパイユ | ルノー・アルピーヌ・A442 | S +2.0 |
289 | DNF | DNF |
1978年 | グランド・ツーリング・カーズ Inc. | ヴァーン・シュパン サム・ポージー |
ミラージュ・GR9-ルノー | S +2.0 |
293 | 10位 | 5位 |
1990年 | ヨースト・ポルシェ・レーシング | アンリ・ペスカロロ ジーン・ルイス・リッチ |
ポルシェ・962C | C1 | 328 | 14位 | 14位 |
1993年 | ジャカディ レーシング | ミシェル・メゾンヌーブ クリストフ・デチャバンネ |
ベンチュリ・500LM-ルノー | GT | 210 | DNF | DNF |
1994年 | ラルブル コンペティション | ジャックス・アルメラ ジーン・マリエ・アルメラ |
ポルシェ・911 Carrera RSR | GT2 | 94 | DNF | DNF |
1996年 | チーム・ビガッツィ SRL | スティーブ・ソパー マルク・デュエツ |
マクラーレン・F1 GTR | GT1 | 318 | 11位 | 9位 |
ドイツツーリングカー選手権編集
年 | チーム | 使用車両 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1990年 | ビガッツィ M チーム | BMW・M3 Sport Evolution | ZOL 1 6 |
ZOL 2 4 |
HOC 1 Ret |
HOC 2 DNS |
NÜR 1 3 |
NÜR 2 Ret |
AVU 1 4 |
AVU 2 Ret |
MFA 1 7 |
MFA 2 Ret |
WUN 1 14 |
WUN 2 Ret |
NÜR 1 1 |
NÜR 2 8 |
NOR 1 8 |
NOR 2 Ret |
DIE 1 18 |
DIE 2 4 |
NÜR 1 2 |
NÜR 2 6 |
HOC 1 14 |
HOC 2 5 |
7位 | 107 | ||
1991年 | ソノバック S.A. | メルセデス・ベンツ 190 E 2.5-16 Evo | ZOL 1 21 |
ZOL 2 Ret |
NÜR 1 5 |
NÜR 2 9 |
WUN 1 5 |
WUN 2 6 |
AVU 1 15 |
AVU 2 21 |
WUN 1 4 |
WUN 2 5 |
NOR 1 13 |
NOR 2 8 |
DIE 1 3 |
DIE 2 Ret |
NÜR 1 3 |
NÜR 2 3 |
ALE 1 DNS |
ALE 2 DNS |
HOC 1 12 |
HOC 2 12 |
BRN 1 13 |
BRN 2 Ret |
DON 1 5 |
DON 2 7 |
11位 | 81 |
1992年 | MS・レーシング | ZOL 1 9 |
ZOL 2 14 |
NÜR 1 18 |
NÜR 2 10 |
WUN 1 8 |
WUN 2 6 |
AVU 1 9 |
AVU 2 4 |
HOC 1 7 |
HOC 2 6 |
NÜR 1 11 |
NÜR 2 9 |
NOR 1 11 |
NOR 2 11 |
BRN 1 Ret |
BRN 2 13 |
DIE 1 18 |
DIE 2 8 |
ALE 1 10 |
ALE 2 8 |
NÜR 1 Ret |
NÜR 2 Ret |
HOC 1 Ret |
HOC 2 DNS |
13位 | 43 |