メインメニューを開く

ティレル・レーシングTyrrell Racing Organization Ltd.、タイレル)は、かつてF1に参戦していたイギリスを本拠とするコンストラクター。創設者はケン・ティレル。全盛期には同国の英雄的ドライバー ジャッキー・スチュワートにより2度のタイトルを獲得し、名門チームとして名を馳せた。また、野心的技術の先駆者でもあった。

イギリスの旗 ティレル
Tyrrell.png
活動拠点 イギリスの旗 イギリス
サリー州オッカム
創設者 ケン・ティレル
ドライバー スコットランドの旗 J・スチュワート
フランスの旗 P・デパイユ
南アフリカ共和国の旗 J・シェクター
イタリアの旗 M・アルボレート
イングランドの旗 M・ブランドル
イングランドの旗 J・パーマー
日本の旗 中嶋悟
日本の旗 片山右京
フィンランドの旗 ミカ・サロ ほか
参戦年度 1970年 - 1998年
出走回数 430
コンストラクターズ
タイトル
1 (1971)
ドライバーズタイトル 2 (1971, 1973)
優勝回数 23
通算獲得ポイント 621
表彰台(3位以内)回数 77
ポールポジション 14
ファステストラップ 20
F1デビュー戦 1970年カナダGP
初勝利 1971年スペインGP
最終勝利 1983年アメリカ東GP
最終戦 1998年日本GP
テンプレートを表示

若手ドライバーが所属することも多く、ジョディー・シェクターミケーレ・アルボレートジャン・アレジらが初期のF1キャリアをティレルで過ごした。「ホンダ」や「ヤマハ」がエンジンを供給したり、中嶋悟片山右京らを始めとするドライバーが在籍するなど、日本と縁の深かった。

(※1970年代の日本ではタイレルと表記されていたが、これはアメリカ英語に基づいた発音である)

沿革編集

前身編集

 
マトラMS80
 
創設者 ケン・ティレル

材木商として成功し、F3レースに参加していたケン・ティレル1960年FJチーム「Tyrrell Racing Organization」を結成。クーパーのマイナーフォーミュラチームとして活動し、ジャッキー・スチュワートジャッキー・イクスらを輩出した。

1968年には、マトラフォード・コスワース・DFVエンジンを使用するセミワークスチーム、マトラ・インターナショナルMatra International)を発足、ティレルはそのチーム監督として初めてF1に参戦し、愛弟子スチュワートを擁して1969年のドライバーズ、コンストラクターズ両タイトルを制覇した。

しかし、マトラはフォードのライバルであるクライスラー傘下のシムカと提携したため、マトラではフォードエンジンが使えなくなる一方、スチュワートのテストでマトラよりコスワースDFVの方がコンペティティブだとの判断もあり、ティレルはマトラと決別し、新規のコンストラクターとしての参戦を決断した。

1970年のシーズン当初はマーチのマシンを使用しつつ、ティレルはマトラのエンジニアだったデレック・ガードナーに新たなシャーシの設計を依頼し、極秘裏にマシンの開発を進めた。

1970年代編集

 
初代製造マシン 001

1970年の第11戦カナダGPで突然オリジナルマシン001を登場させ、優勝争いに加わる戦闘力をみせて周囲を驚かせた。続けて1971年シーズンに投入された、スポーツカーノーズを採用した003の実力も本物で、オリジナルマシンによるフル参戦初年度のこの年にいきなりダブルタイトルを獲得し、1973年にも005でスチュワートがチャンピオンになった。ケン・ティレルとスチュワートの師弟関係、スチュワートと愛弟子フランソワ・セベールのコンビなど、結束力を武器にF1界の驚異的な新興勢力となる。

しかし、1973年の最終戦アメリカGPの予選中にセベールが事故死し、このレースがちょうど100戦目となるのを機に引退を決めていたスチュワートだったが、決勝レースへの出走を取り止めた。

両ドライバーを失ったことで破竹の勢いは消えたが、ジョディー・シェクターが新エースとなり、パトリック・ドゥパイエと共に優勝戦線で活躍した。1974年は新たにウイングノーズとなった007を第5戦スペインGPから投入、シェクターはモナコGPで2位に入ると、次のスウェーデンGPで優勝。この年イギリスGPにも勝利し、翌1975年の南アフリカGPと合わせて007は通算3勝を数えた。

 
F1界初の6輪車 P34

1976年には日本でも有名な6輪車P34を登場させ、再びF1界を驚かせる[1]。だが周囲の好奇の目をよそに、P34は投入直後から確かな戦闘能力を発揮した。デビュー3戦目のモナコGPでニキ・ラウダフェラーリに次ぐ2・3位、次戦スウェーデンGPではワン・ツーフィニッシュし[2]、コンストラクターズ・ポイントで3位を獲得した。

1977年にはシェクターの移籍に伴いロニー・ピーターソンが加わり、新たにシティコープがスポンサーとなったが、6輪車用のタイヤ開発が滞るなどして成績は精彩を欠いた。ピーターソンは1年でディディエ・ピローニへ交代した。

1978年はオーソドックスな008を投入、ドゥパイエがモナコGPを制したが、この年を最後にエルフとシティコープの両スポンサーが撤退、また開発能力に優れたドゥパイエがリジェへ移籍するなどした後のチームの戦力は凋落傾向となった。

1980年代編集

1980年代に入るとターボエンジンへの移行に乗り遅れ、苦戦を強いられた。しかし、ミケーレ・アルボレートが健闘し、DFVエンジンで1982年最終戦のラスベガス1983年のデトロイトの市街地コースで2勝を挙げた。1983年の勝利はチームの最終勝利であると共に、F1界に一時代を築いた名機DFVエンジンの最後の勝利にもなった。アルボレートはこれらの活躍が認められ、フェラーリへ移籍した。

1984年は、前年までF3を戦っていたマーティン・ブランドルステファン・ベロフの2人の新人を抜擢した。アメリカ東GPでブランドルが2位、雨のモナコGPではベロフがフェラーリを抜き3位に入るなどターボ勢に食い込む健闘を見せた。ブランドルはクラッシュで足を骨折したため、代役にステファン・ヨハンソンを起用。しかし後に、車検でティレルのマシンに「水タンク事件」が発覚しチームには1984年シーズンからの失格が通告され、全成績・全ポイントを剥奪された。

 
チーム最初のターボ搭載マシン 014

1985年は開幕を前年同様、フォードDFVエンジンを積んだ012で迎えるが、シーズン途中からルノーターボエンジンを搭載した014を投入する。このティレルの「ターボ化」により、F1に参戦する全てのマシンがターボエンジン搭載マシンとなり、ターボ隆盛の象徴的な出来事となった。しかしチームの成績は以後も平凡なリザルトに終わった。ドライバーはベロフとヨハンソンで始まったシーズンだったが、ヨハンソンは開幕戦を終えるとフェラーリに引き抜かれ、ベロフはF1と並行して参戦していたWECスパ1,000kmでのレース中にオー・ルージュでクラッシュし命を落としたため、前年の負傷から復帰したブランドルとイヴァン・カペリがティレル014をドライブした。1986年はほぼ変わらぬマシンをブランドルとフィリップ・ストレイフが駆り、シーズン途中に改良版015シャシーも投入されたが、最高位は最終戦で記録したブランドルの4位が精一杯であった。

1987年、2年後のターボエンジン禁止に先駆けて自然吸気エンジンへ回帰。フォード・コスワース・DFZエンジン(3000ccのDFVを3500ccへ排気量アップ)に変更した。残留したストレイフと、ザクスピードから移籍加入したジョナサン・パーマーが安定した走りを見せ、自然吸気エンジン搭載車を対象としたドライバーズ(ジム・クラークカップ)、コンストラクターズ(コーリン・チャップマンカップ)の両タイトルを獲得した。

1988年はストレイフが去ったため、新人ジュリアン・ベイリーを起用しパーマーとイギリス人コンビとなる。しかし前年よりも自然吸気エンジンに移行したチームが他にも増え、相対的にティレルの成績は下降していった。

1989年にターボが禁止になり、同時にハーベイ・ポスルスウェイトをデザイナーとして迎え入れたことにより、ティレルは再浮上のきっかけを掴んだ[3]

フロントサスペンションのダンパーを通常の2本から1本に変更した「モノショック」を採用した018は、非力ながら軽量なコスワース・DFRエンジンと合わせ軽快な操縦性を備えていた。メキシコGPでは、6年ぶりにフェラーリから戻ってきたミケーレ・アルボレートが3位表彰台へ上がり、018のポテンシャルの高さを証明した。第7戦のフランスGPからキャメルのスポンサーを得たため、マールボロの支援を受けていたアルボレートが離脱し、代わりに国際F3000に参戦中の新人ジャン・アレジが起用され、デビューレースで4位に入賞し注目を浴びる。アレジがF3000に出場する際の代役としてジョニー・ハーバートも018をドライブしたが、足の負傷を抱えており結果が残せなかった。シーズン終了後、チームを3年間支えたパーマーがマクラーレンとテストドライバー契約を結び移籍していった。

1990年代編集

1980年代末から1990年代前半まで、バブル景気を背景にF1界にジャパンマネーが流れ込んだ。ティレルは日本のドライバー、エンジンメーカー、スポンサーを積極的に導入し、体制の向上を目指した。

 
F1界初のハイノーズ型マシン 019

1990年、ポスルスウェイトがデザインし、中嶋悟ジャン・アレジがドライブした019は、現在のスタンダードであるハイノーズアンヘドラル・ウイングと呼ばれるアイデアを実現したものであった。また開幕戦の直前にタイヤを参戦以来使用していたグッドイヤーからピレリへ変更し、アイルトン・セナらとバトルを繰り広げたアメリカGPモナコGPでアレジが2位を獲るなど荒れた路面では強みとなったが、シーズン全般でタイヤパフォーマンスに苦しんだ。中嶋もコンスタントに入賞を重ね、アレジと中嶋の2人で計16ポイントを獲得した。

1991年にはブラウンがメインスポンサーとなり、前年マクラーレンのダブルタイトル獲得の原動力となったホンダV10エンジン(ホンダRA101E)の供給を受け、大きく期待されるシーズンとなった。初戦のアメリカGPでは、フェラーリに移籍したアレジに代わって移籍したステファノ・モデナと中嶋がダブル入賞を果たしたほか、サンマリノGPではモデナと中嶋が中盤まで3位、4位を維持し、カナダGPでモデナが2位になる活躍もあったが、シャシーとのバランスが悪く、駆動系のトラブルにも苦しんだ。またピレリタイヤも安定した性能を発揮せず、夏場以降は下位に低迷し12ポイントの獲得に留まった。メインスポンサーのブラウンとホンダのエンジン供給はこの年のみで終了し、中嶋はこの年をもって現役を引退した。

1992年はエンジンをイルモアV10に変更し、ドライバーはアンドレア・デ・チェザリスオリビエ・グルイヤールとなった。前年のホンダよりも小型・軽量なエンジンを搭載したマシンはバランスが良く、また駆動系のトラブルも大幅に減った。ブラウンや中嶋の引退に伴う日本企業の撤退(カルビークラブアングルは継続)が響き資金難に陥る。昨年末にはチーム売却と言われたが、資金面で折り合いがつかず破談となる。グルイヤール(エルフ、マルボロ等)とチェザリス(マルボロ)の持参金により何とかシーズンを終えることができた。シャシーは前年の020をイルモアエンジン用にモディファイしただけの020Bであったが、デ・チェザリスが8ポイントを獲得した。

 
最初のヤマハエンジン搭載マシン 020C

1993年ラルースより片山右京が移籍。この年から4年間ヤマハからV10エンジンの供給を受け、日本たばこ産業キャビン)など日本企業のスポンサーも獲得して資金事情は改善されたが、ハイテク競争の開発費には十分ではなかった[4]。シーズン中盤まで3年落ちのマシン(020C)で戦うが、ニューシャシー021も失敗作となり、ノーポイントに終わった。

1994年はメインスポンサーがない状況は変わらなかったが、スポンサーブランドをキャビンからマイルドセブンへ変更し、白と爽やかなブルーの配色となった。この年はハイテク禁止と、セナの死亡事故以後に車体レギュレーションが変更されたが、022はしばしば上位を掻き回す活躍を演じた。特に右京は予選で度々上位に進出し、ドイツGPの序盤に2位を走行した。またスペインGPでは1991年のカナダGP以来、ヤマハエンジンにとっては初めての3位表彰台をマーク・ブランデルが獲得した。マイナートラブルで好機を逸する場面も多かったが13ポイントを得た。ヤマハエンジンは頻繁なアップデートにより通常想定される年間の伸び幅を大幅に上回るパワーアップを果たした[5]が、後半戦はトラブルが増えた。

1995年は、右京のチームメイトにミカ・サロを迎え、サロの母国のフィンランドの大企業のノキアがメインスポンサーとなった。ハイドロリンクサスペンションを搭載した023を投入したが、期待に反して熟成に手間取り、元の仕様に戻すなど5ポイントの獲得と低迷した。ポルトガルGPでは右京がスタート直後に大クラッシュを起こし、ヨーロッパGPではテストドライバーのガブリエル・タルキーニが代役で出場した。ノキアはこの年のみでスポンサーを撤退した。

1996年には重量95kgといわれる超軽量コンパクトなヤマハ・OX11Aエンジンを搭載するも信頼性とパワー不足に悩まされ、ドイツGPでは空気抵抗を減らすため全輪にフロントタイヤを装着するという奇策にトライした。メインスポンサーが無い状況では十分な開発とテストが出来ずに、年間5ポイントに終わった。この年をもってヤマハエンジンとの契約が終了し、翌年以降は再びフォード・コスワースのカスタマーエンジンを使用する事になる。右京はミナルディへ移籍した。

消滅編集

 
高木も乗車した最後のマシン 026 (1998年)

1997年にはチームとして「ティレル2000」と銘打って2000年までに勝利とチャンピオンを獲得することを目標として中嶋企画と提携し、代表の中嶋をスポーティング・ディレクターに起用した。また高木虎之介とテストドライバー契約を結び、日本からの資金導入でチームの活性化を図った。エンジンもパワーは乏しいものの信頼性のあるフォードEDエンジンに変更されたが、モナコグランプリミカ・サロが他のチームのリタイアに助けられ5位入賞した以外はノーポイントに終わり、これがティレルとして最後の入賞となった[6]。またダウンフォース不足を少しでも補おうと、シーズン途中でサイドポンツーンの上にウイングを取り付け「Xウイング」と呼ばれた。

1998年のシーズン前に、ブリティッシュ・アメリカン・タバコ (BAT) などによる買収が発表された。この買収は新チームブリティッシュ・アメリカン・レーシング (BAR) の参戦権確保を主目的にしたもので、一部の人材を除いてティレルの資産は引き継がれなかった。チーム代表にBARのクレイグ・ポロックが就任し、高木とリカルド・ロセットをレギュラードライバーに起用したが、ケン・ティレルはヨス・フェルスタッペンが採用されなかったことに激怒してチームを離脱した[7]。ポスルスウェイトやマイク・ガスコインら主要スタッフも相次いで離脱し、開発資金が乏しい上に、スペインGPよりXウイングが禁止されたためエアロダイナミクスのバランスが崩れてしまった[8]

最終年はポイントも挙げることなくその歴史に幕を下ろし、翌1999年よりBARへと移行した。ティレル公式サイトの、別れを告げるあいさつの文末には、「sayonara(さよなら)」と記されていた。

F1撤退後編集

 
ピットにて(中央:ケン・ティレル)

ポスルスウェイトはホンダのワークス参戦計画に参加し、ホンダ・レーシング・ディベロップメント (HRD) でホンダ・RA099をデザインしたが、 1999年にテストで訪れていたスペインバルセロナで急逝、2001年にはチーム創設者のケン・ティレルもすい臓癌で死去した。

ケン・ティレルの死去から数年後、ケンの遺族やジャッキー・スチュワートら元ティレル・レーシング関係者達は、競売に掛けられていたティレルの初期のF1マシンのいくつかを買い戻し、「チーム・ティレル」という事業とティレルミュージアムを設立した。現在は各地のヒストリックカーイベントに参加し、ティレル・001を始めとする初期の名マシンのデモ走行などを行っているという。

変遷表編集

エントリー名 車体型番 タイヤ エンジン 燃料・オイル ドライバー ランキング 優勝数
1968年 マトラ・インターナショナル(ティレル) マトラMS10 D フォードDFV エルフ ジャッキー・スチュワート
ジョニー・セルボ=ギャバン
3 3
1969年 マトラ・インターナショナル(ティレル) マトラMS80 D フォードDFV エルフ ジャッキー・スチュワート
ジャン=ピエール・ベルトワーズ
1 6
1970年 ティレル・レーシング・オーガナイゼイション マーチ701
001
D


F
G

フォードDFV エルフ ジャッキー・スチュワート
フランソワ・セベール
ジョニー・セルボ=ギャバン
- 0
1971年 エルフ・チーム・ティレル 001, 002, 003 G フォードDFV エルフ ジャッキー・スチュワート
フランソワ・セベール
ピーター・レブソン
1 7
1972年 エルフ・チーム・ティレル 002, 003, 004, 005, 006 G フォードDFV エルフ ジャッキー・スチュワート
フランソワ・セベール
パトリック・ドゥパイエ
2 4
1973年 エルフ・チーム・ティレル
* Blignaut Lucky Strike Racing (004)
005, 006 G フォードDFV エルフ ジャッキー・スチュワート
フランソワ・セベール
エディー・ケイザン
クリス・エイモン
2 5
1974年 エルフ・チーム・ティレル
* Blignaut Embassy Racing (004)
005, 006, 007 G フォードDFV エルフ ジョディー・シェクター
パトリック・ドゥパイエ
エディー・ケイザン
3 2
1975年 エルフ・チーム・ティレル
* Lexington Racing (007)
007 G フォードDFV エルフ ジョディー・シェクター
パトリック・ドゥパイエ
イアン・シェクター
ジャン=ピエール・ジャブイーユ
ミシェル・ルクレール
4 1
1976年 エルフ・チーム・ティレル
* Scuderia Gulf Rondini (007)
* OASC Racing Team (007)
* Heros Racing (007)
* Lexington Racing (007)
007, P34 G フォードDFV エルフ ジョディー・シェクター
パトリック・ドゥパイエ
イアン・シェクター
アレッサンドロ・ペゼンティ=ロッシ
オット・ストゥッパッシャー
星野一義
3 1
1977年 エルフ・チーム・ティレル
* Muritsu Racing Team (007)
P34/2 G フォードDFV エルフ ロニー・ピーターソン
パトリック・ドゥパイエ
高橋国光
6 0
1978年 エルフ・チーム・ティレル 008 G フォードDFV エルフ パトリック・ドゥパイエ
ディディエ・ピローニ
4 1
1979年 キャンディ・ティレル・チーム
チーム・ティレル
009 G フォードDFV エルフ ディディエ・ピローニ
ジャン=ピエール・ジャリエ
ジェフ・リース
デレック・デイリー
5 0
1980年 キャンディ・ティレル・チーム 009, 010 G フォードDFV エルフ ジャン=ピエール・ジャリエ
デレック・デイリー
マイク・サックウェル
6 0
1981年 ティレル・レーシング・チーム 010, 011 M


A
G

フォードDFV バルボリン エディ・チーバー
ケビン・コーガン
リカルド・ズニーノ
ミケーレ・アルボレート
9 0
1982年 チーム・ティレル 011 A フォードDFV バルボリン ミケーレ・アルボレート
スリム・ボルグッド
ブライアン・ヘントン
6 1
1983年 ベネトン・ティレル・チーム 011, 012 G フォードDFY バルボリン ミケーレ・アルボレート
ダニー・サリバン
7 1
1984年 ティレル・レーシング・オーガナイゼイション 012 G フォードDFY シェル マーティン・ブランドル
ステファン・ベロフ
ステファン・ヨハンソン
マイク・サックウェル
-(水タンク事件) 0
1985年 ティレル・レーシング・オーガナイゼイション 012, 014 G フォードDFY
ルノーEF15
エルフ マーティン・ブランドル
ステファン・ベロフ
ステファン・ヨハンソン
イヴァン・カペリ
フィリップ・ストレイフ
9 0
1986年 データ・ジェネラル・チーム・ティレル 014, 015 G ルノーEF15、EF15B エルフ マーティン・ブランドル
フィリップ・ストレイフ
7 0
1987年 データ・ジェネラル・チーム・ティレル DG016 G フォードDFZ エルフ ジョナサン・パーマー
フィリップ・ストレイフ
6 0
1988年 ティレル・レーシング・オーガナイゼイション 017 G フォードDFZ エルフ ジョナサン・パーマー
ジュリアン・ベイリー
8 0
1989年 ティレル・レーシング・オーガナイゼイション 017B, 018 G フォードDFR ユニパート ジョナサン・パーマー
ミケーレ・アルボレート
ジャン・アレジ
ジョニー・ハーバート
5 0
1990年 ティレル・レーシング・オーガナイゼイション 018, 019 P フォードDFR エルフ 中嶋悟
ジャン・アレジ
5 0
1991年 ブラウン・ティレル・ホンダ 020 P ホンダRA101E シェル 中嶋悟
ステファノ・モデナ
6 0
1992年 ティレル・レーシング・オーガナイゼイション 020B G イルモア2175B エルフ アンドレア・デ・チェザリス
オリビエ・グルイヤール
6 0
1993年 ティレル・レーシング・オーガナイゼイション 020C, 021 G ヤマハOX10A エルフ アンドレア・デ・チェザリス
片山右京
13 0
1994年 ティレル・レーシング・オーガナイゼイション 022 G ヤマハOX10B BP 片山右京
マーク・ブランデル
7 0
1995年 ノキア・ティレル・ヤマハ 023 G ヤマハOX10C Agip 片山右京
ミカ・サロ
ガブリエル・タルキーニ
9 0
1996年 ティレル・ヤマハ 024 G ヤマハOX11A エルフ 片山右京
ミカ・サロ
8 0
1997年 ティレル・レーシング・オーガナイゼイション 025 G フォードED エルフ ミカ・サロ
ヨス・フェルスタッペン
10 0
1998年 ティレル 026 G フォードZETEC-R エルフ リカルド・ロセット
高木虎之介
10 0

*枝がついているチームに車体を供給(括弧内に供給した車体の型番を記載)
*斜体になっているドライバーはスポット参戦など

ティレルが導入した技術編集

6輪車編集

 
P34の前輪

ティレルが1976年1977年に使用したF1界初の6輪マシン(通称「6輪タイレル」)であるP34。後輪2本のタイヤは通常サイズだが、前輪はリム10インチの小径タイヤを左右4本装着していた。

ハイノーズ編集

 
アンヘドラルウイング型マシン 020

1990年モデルの019で採用された、フロントノーズを高く持ち上げる空力的な車体形状。これをきっかけに、F1マシンデザインはハイノーズへとシフトすることとなり、ティレルのエポックメイキングな発明として評価されている。

ウイングカーの禁止後、前後車輪間の車体下面を平滑面とする「フラット・ボトム規定」下で、デザイナーはダウンフォース獲得策を模索していた。マシンのノーズ部分を若干高くして車体下面に気流を流しこむ「ハイノーズ」のアイデアは、エイドリアン・ニューウェイが設計したマーチ881や、ジョン・バーナードが設計した640でも(外見ではわからないように)試みられていた。

空力専門家のジャン・クロード・ミジョーは、1989年モデルの018での同様の試みを経て、翌年の019で周囲を驚かせる大胆なハイノーズ化を行った(特に019の形状はイルカの頭部に似ていたことから「ドルフィン・ノーズ」とも呼ばれた)。車体下面のプレートを延長する「抜け道」でフラット・ボトム規定をクリアし、高く持ち上げたノーズからコクピット下まで広い空間を作り、気流の「吸入口」としたのである。また、フロントウイングも路面との距離を保つため、ノーズマウント部から斜めに下げていく形状とした。これは、アンヘドラル(下反角)ウイングと命名され、またF4U戦闘機の逆ガルウイングになぞらえて「コルセアウイング」とも呼ばれた。

このハイノーズマシンは1990年のサンマリノGPでデビューし、ジャン・アレジによってモナコGPで2位を獲得したのを頂点に、中嶋悟とともにチームがコンストラクターズランキング5位を獲得する原動力となった。翌年以降、各チームが多種多様なハイノーズを登場させたが、アンヘドラルウイングは中央空間のウイング面積が減ることがネックとなり、やがてベネトン・B191で採用された2点吊り下げ式ウイングが主流となった。

Xウイング編集

1997年にデザイナーマイク・ガスコインが発案した子持ちウイング(ウイングレット)の一種で、サイドポンツーン上の垂直支持板に取り付けられた。レギュレーション上では空力付加物が規定されていない空間を利用したもので、SF映画スター・ウォーズ・シリーズ』に登場する架空の戦闘機Xウイングに準えて、こう呼ばれた。低速コースでダウンフォースが必要なアルゼンチンGPで初投入された。ガスコインは小型エアロパーツを追加する手法を好み、2006年まで在籍したトヨタでも用いている。

1998年から他チームも同様のデバイスを採用し始め、フェラーリなどのトップチームにも広まった。しかし、同年のアルゼンチンGPザウバージャン・アレジがピットイン時にエアホースを引っかける事故が起きると安全性に問題があり、さらには翌戦のサンマリノGPでフェラーリが初めて使用していくのを見てマシンの美しさが損なわれることを懸念し、その次のスペインGPを前に突然使用禁止処分が下った。なお、1998年は、X型でなく1本あるいは2本のステーで支える形式になった。

水タンク事件編集

1984年のアメリカ東GP後の車検で、ティレルのマシン(012)の水タンクからなどとともに微量の炭化水素が検出された。

これらのことよりレギュレーション違反を問われた。ティレルは控訴し出走を継続したが、第13戦オランダGP終了時点で裁判所から控訴棄却の裁定が下り、これによって、このシーズンのティレルチームと、所属ドライバーステファン・ベロフマーティン・ブランドルステファン・ヨハンソンの、ティレルから出走した記録・ポイントが全て剥奪され、第14戦イタリアGP以降の残り3戦を出走除外となった。この事件は「水タンク事件」と呼ばれる。

ギャラリー編集

  • 楔(ウェッジ)型(1970年 -1972年, 1974年 - 1976年, 1978年 - 1990年)
  • スポーツカーノーズ型(1971年 - 1974年, 1976年 - 1977年)
  • ハイノーズ型(1990年 - 1998年)

脚注編集

  1. ^ 同マシンは日本において折からのスーパーカー・ブームとも相まって、ラジコンミニカースーパーカー消しゴムなどになり莫大な版権料をチームにもたらした
  2. ^ その後もドイツGPまでの3戦と北米・日本のラスト3戦で2位に入り、出走した13戦中8戦で2位以上に入賞している。
  3. ^ ポスルスウェイトは一時ザウバーに移籍したが、その後復帰しチームの消滅まで仕事を続けた。
  4. ^ 車高調整システムも他のチームの様な「油圧式」ではなく「電動式」の為に、レース途中で車高システムの電源を落として走る事もあった。
  5. ^ GRAND PRIX Special 特集ヤマハ・エンジン「撤退10年後」の真実シリーズ 全5回
  6. ^ シーズン前は「信頼性のあるフォードエンジンでより多く入賞できるはずだから、車体は冒険をしないデザインで」とシーズンに臨んだが、むしろエンジントラブルが原因でのリタイアが多かった。
  7. ^ ケン・ティレルは高木のチームメイトに、フェルスタッペンとの契約を更新するか、当時ティレルのテストドライバーだったトム・クリステンセンをデビューさせるか迷っていたが、結果的にスポンサーもち込みのリカルド・ロセットが採用された。
  8. ^ フォードZETEC-Rエンジンは前年のEDエンジンとは全くの別物で、カスタマー仕様であったが充分過ぎるほど強力なエンジンだったため、トップスピードだけは上位という事態が起こった。

関連項目編集

外部リンク編集