阪神間モダニズム
阪神間モダニズム(はんしんかんモダニズム)とは、日本で1900年代から1930年代(特に大正期から昭和初期[1][2])にかけて「大阪市と神戸市の間」を指す「阪神間」[1]を中心とする地域[注釈 1][注釈 2]において育まれた、近代的な芸術・文化・生活様式とその時代状況を指す。
![]() ![]() ![]() |
なお「阪神間」という地域概念は曖昧であり、その範囲には諸説がある[1]。
概要 編集
1990年代以降、阪急沿線都市研究会編『ライフスタイルと都市文化 阪神間モダニズムの光と影』(1994年)や、『「阪神間モダニズム」展』(1997年、兵庫県立近代美術館・西宮市大谷記念美術館・芦屋市立美術博物館・芦屋市谷崎潤一郎記念館の同時開催)などを機に提唱された、郷土史・地域文化史の概念である。
明治維新から大正・昭和初期を経て第二次世界大戦終結までの77年間に、戦前の近代化過程で起こった黎明期の文化現象を対象とする。その後の戦後復興期や高度経済成長期、バブル期など戦後の時代については通常は含めないが、戦後から現代に至るまでの時代にも阪神間モダニズムの影響を色濃く見ることができる。
関西大手私鉄系グループ(鉄道・不動産)などの企業による観光マーケティングや地域ブランディング、地元自治体によるまちおこしの観点からも注目され、2017年2月からは阪神電気鉄道と沿線の神戸市・芦屋市・西宮市の合同企画事業として「阪神K・A・Nモダニズム」が行われている[注釈 3][2][3][4][5]。
『阪神間モダニズム』の定義 編集
モダニズム(modernism)は一般に「近代主義」と訳され、伝統からの脱却をめざす傾向の総称とされている。モダニズムという語に特定の意味を与える用法は、20世紀ヨーロッパにおいて盛んになったといわれる[注釈 4][6]。時期的には、ルネッサンス以降をさす場合と、18世紀後期の産業革命以降、資本主義社会の形成以降をさす場合とがあり、日本においては、明治維新以後をさす場合が一般的である。いずれの場合においても、都市化を含むものであり、「今日的」、「当世風」であることを強調し、伝統や因習からの脱却を図ろうとする立場をmodernism、あるいは「近代主義」と呼んでいる。
日本においては「西洋風」であることを示す語として、明治中期頃から、“high collar”(=高い襟)を語源とする「ハイカラ」という語が流行し、第二次世界大戦後まで広く用いられた。しかし、1920年代には、「ハイカラ」とは異なる意味で、「モダン」という言葉が使われ始めるようになる。その最も分かりやすい例は、昭和初期の流行となった「モダン・ガール」、「モダン・ボーイ」(モボ・モガ)である。この呼称は当時、時代性や流行を意識し、常に新しさを求める進歩主義[要曖昧さ回避]的傾向をもつ男女を総称するものであったが、特に「モダン・ガール」は、関東大震災以後、昭和戦前期にかけて、タイピスト、電話交換手、バスの車掌など、新しい職業につく女性が目立ち始めた社会の動きに呼応するように広まっていったと考えられる[7]。昭和18(1943)年に発表された谷崎潤一郎の小説、『細雪』に登場する末娘の妙子は、その奔放な性格や伝統にとらわれない自由な生き方から、モダン・ガールの典型として描かれている。また、大阪を本拠地として働く夫たちの留守宅を守る一方で、複数の使用人に家事を任せて、観劇やお稽古ごとに興じる妙子の姉たちの優雅な暮らしぶりからは、戦前の豊かで華やかな「モダン・ライフ」を垣間見ることができる。
「モダン」という語が、伝統からの脱却、あるいは否定という文脈のなかで成立していることはすでに述べた。しかし、ヨーロッパ芸術におけるモダニズムに目をやれば、日本の伝統的な様式美、芸術が色濃く反映されていることは明らかであり、ジャポニスムを取り込んだ西洋文化を「輸入」することで、われわれは再び、自らの伝統と向き合うことになる。そうであるならば、モダニズムを一概に、伝統からの脱却という概念で捉えることはできず、伝統を包含した「近代」を更に超えようとする新たな捉え方が必要となる。
近代主義(modernism)は、それ以前の状態を変革する志向を意味し、それゆえ絶えず新たな「近代主義」を準備する。そして、いつも、今こそ新しい時代に入ったことを言いたがる人々がいる。その意味では、「ポスト・モダニズム」も一種のモダニズムだ。実際、「ポスト・モダニズム」を名のり、また、そのように見なされる今日の主張の妥当範囲は、実は第二次大戦前に起源を見いだせるものが珍しくない。1920年代の動きに、あるいは世紀転換期からの動きにも、同じ傾向を指摘することができる場合も多い。
(中略)逆に、「近代」に、ある特定の内容を与え、それを志向する意志、「近代主義」は、つぎの「近代主義」からは、停滞を志向する反「近代主義」と非難を浴びるだろう。他方、「近代」の状態を克服し、変革する志向を「近代の超克」と呼ぶとするなら、「近代主義」の内には、すなわち、「近代の超克」の意志をはらんで展開しているものもあるだろう[8]。
つまり、このような意味からいえば、モダニズムとは、伝統を否定し、脱却するというよりも寧ろ、伝統との絡み合いであり、せめぎ合いであるともいえる。
所謂、「阪神間」とは、大阪と神戸に挟まれた、六甲山を背景とする地域をさし、行政区域としては、武庫川以西の西宮市、芦屋市、そして神戸市東部までを含めた地域と考えられる。これらの地域は、明治後期、政府が推進した近代化政策を背景に、次々に鉄道が開通し、主として大阪の企業家たちが競って住宅や別荘を建築したことから、著しい都市発展を遂げてきた。近代資本主義の発展とともに、大阪は、産業化が進展し、西日本における経済活動の中心地となっていった。また、神戸では、明治期、外国人居留地を拠点に貿易が始まり、西洋文化が早くから浸透したことによって、国際都市として独自の発展をみた。したがって、居留地を窓口に西洋文化を受容し、発展させてきた港湾都市・神戸と、上方の伝統文化を継承しつつ発展してきた商都・大阪との間に位置する阪神間は、革新と伝統、西洋と日本が交錯しつつ都市発展を遂げ、新しいライフスタイルが築き上げられた地域であるということができる。とくに、1920年代から1930年代にかけては、阪神間において新たに住宅地が開発されるとともに、西洋料理を中心とした食文化の浸透、和装から洋装への変化、ゴルフやテニスなど近代スポーツの広まりなどがみられ、人々のライフスタイルが大きな変化を遂げていった時期でもあった。
以上のことから、「阪神間モダニズム」とは、明治後期から大正期を経て、太平洋戦争直前の昭和15(1940)年頃までの期間において、阪神間の人々のライフスタイルを形成し、地域の発展に影響を与えてきた、ある一つの文化的傾向である、と捉えることができる[9]。
経緯 編集
19世紀末の大阪は、東京を上回る日本最大の商業都市であった(いわゆる大大阪時代)[10]。また、神戸も東洋最大の港湾都市へと拡大していた。
当時の近畿地方では、アメリカ合衆国の例にならったインターアーバン(都市間電車)路線の建設が相次ぐ。阪神電気鉄道本線(1905年開業)を嚆矢とし、続く箕面有馬電気軌道(後の阪急宝塚本線、1910年開業)、阪神急行電鉄神戸本線(1920年開業)といった各線の開通によって、未開拓な後背地であった神戸近郊・北摂近郊の農村地帯が注目される。こうして、風光明媚な六甲山南斜面の鉄道沿線である阪神間で、快適な住環境創造を目的に郊外住宅地の開発が進められた。したがってこの地区の都市的・文化的な発展と、関西私鉄資本の導入は不可分の関係にあったといえる。
まず明治期に、阪神の豪商等の豪壮な邸宅が、旧住吉村[注釈 5]に陸続と建築され、このエリアに居住する富豪数が日本最多となった[11][12]。
大正期には、実業家に加え当時の新興階級であった大卒のインテリサラリーマン層、すなわち無産中流階級の住宅地として発展し、文化的・経済的な環境が整ったことから芸術家や文化人などが多く移り住んだ。この流れと併行して、19世紀末から六甲山上および緑豊かな市街地となった山麓に、ブルジョワと呼ばれる富裕層を対象とする様々な文化・教育・社交場としての別荘・ホテル・娯楽施設が造られ、西洋式の大リゾート地が形成された。
このようにして、西洋文化の影響を受けた生活を楽しむ生活様式が育まれていった。なおこれらの地域は、現代でも高級住宅地やブランド住宅地として全国屈指のエリアとなっている。
また首都圏においても、田園都市株式会社(東急の前身)によって建設された田園調布などの東京近郊の高級住宅地などに、阪神間モダニズムの影響を見ることができる。
初期の大阪の郊外住宅地 編集
大阪周辺の郊外住宅地は、元々、別荘地の開発から始まった。
「明治の半ば頃、船場・島之内の旦那衆の間に上町の桃山あたりに別荘をつくり、客を招待したり閑日にのんびりすることが流行した[13]」
というように、富裕層によって比較的環境の良い手近な所で始まったそれらが鉄道の開通とともに、さらに環境の良い天下茶屋・浜寺など大阪南部、あるいは阪神間へと広がっていった。 特に阪神問では、1907年に大谷光瑞が現在の神戸市東灘区に「二楽荘」と名付けた別荘や、当時の大阪府立高等医学校校長の佐多愛彦が芦屋山手に結核予防に良い保養地として別荘(松風山荘住宅地の前身)の建設を行い、人々に注目されるようになった。
こうした富裕層の別荘地から多くの人々が居住する郊外住宅地になったのは鉄道敷設による都心へのアクセスの改善によるところがおおきく、中でも阪神間は山側の阪急電鉄からJR西日本、浜側の阪神電鉄と3本の鉄道路線があり、大阪郊外の他の地域に較べ、極めて交通条件の恵まれた地域であった[14]。
阪神間における沿線開発 編集
阪神電鉄の住宅地開発 編集
阪神電鉄は、明治42年(1909年)、住宅地経営を開始し、鳴尾で貸家経営(西宮市、1910年)、御影(神戸市、1911年)及び、甲子園(西宮市)で分譲住宅販売(1928-30年)というように、住宅販売事業を拡大していく。その一方で、沿線にスポーツ・アミューズメント施設を建設する構想も立て、多角的な土地利用計画を推進していった。その代表は、阪神甲子園球場である。その他にも、甲子園ホテル、阪神パークなど、沿線にホテルや遊園地を建設しリゾート関連事業を手がけていった。
リゾート開発の一環として、阪神電鉄は六甲山の開発にも力を注いだ。緑が濃く、豊かな自然が残された六甲山は格好の避暑地であり、別荘地としての要件を充分に満たすものであった。リゾート地としての六甲山に最初に注目したのは、イギリス人貿易商、A.H.グルーム(Arthur Hesketh Groom)をはじめとする神戸在住の外国人たちである。彼らはまず六甲山に別荘を造り、ゴルフ場を建設し、六甲山の豊かな自然のなかでゴルフや登山、クリケットなどの近代スポーツに興じた。また同時に、機関誌『INAKA』を発行し、それらのスポーツの紹介や登山記録、旅行記などを掲載した。その後も、多くの外国人が六甲山に別荘を建て、六甲山は日本におけるゴルフ発祥の地、近代スポーツと娯楽の地として広く知られるようになる。
阪神電鉄は、このようなリゾート地・六甲山に早くから注目し、電鉄の集客増員 をねらって開発を計画していた。そのためにはまず、交通手段の整備が必要であると考え、大正14年(1925年)に摩耶ケーブルを、昭和2年(1927年)に表六甲ドライブウェーを、さらには、昭和7年(1932年)に六甲ケーブルを完成させ、大都市に近接した別荘地・六甲山の販売を開始した[15]。
このように、阪神電鉄では、電鉄の集客増員を図るため、沿線の住宅地開発に力が注がれると同時に、その沿線の付加価値を高める装置として、球場、ホテル、遊園地などのスポーツ・アミューズメント施設が建設され、沿線地域を総合的に開発するという経営戦略がとられた。
阪急電鉄の住宅地開発 編集
私鉄による住宅経営には、阪急電鉄も名乗りをあげた。小林一三の経営方針によって、阪急電鉄による活発な沿線住宅地の開発が行われた。住宅販売にあたっては、「郊外に居住し、日々市内に出でゝ終日の勤務に脳漿を絞り、疲労したる身体を其家庭に慰安せんとせらるゝ諸君・・・[16]」すなわち、中堅サラリーマンを対象とした販売戦略をとっていた。
阪急電鉄が最初の住宅開発を始めたのは、明治43年(1910年)、宝塚線・池田室町の住宅地であった。33,000坪の土地を碁盤の目に区切って221区画とし、1区画120坪程度を標準とし、木造二階建てもしくは平屋建ての和風住宅(建坪約20坪)を建設した。その後、大正9年(1920年)7月16日に神戸線が開通、大阪-神戸間が約42分で結ばれることになったが、この神戸線の開通によって始まったのが、岡本住宅地(現・神戸市東灘区)の分譲であった。神戸線開通の翌年、大正10年(1921年)、阪急岡本駅周辺を含む17,557坪の土地の分譲が開始された。
阪急電鉄の住宅経営で注目されるのは、和風建築が多い点である。小林一三は、「阪神間高級住宅においてすらも、純洋式の売家には買手がない。いつも売れ残って結局貸家にする。(中略)寝台的設計よりも畳敷が愛されて、純洋式は不評である[17]」と自叙伝のなかで述べ、一般大衆が好む和風建築を中心に住宅販売を展開した。また、阪急沿線の開発ポテンシャルをさらに高めたのは、当時、珍しかった住宅の「割賦販売方式」であったことも特筆すべきである。
これ以後、岡本に次いで、甲東園(西宮市、1923年)、稲野(伊丹市、1925年)、塚口(尼崎市、1934年)、武庫之荘(尼崎市、1937年)が次々に開発され、本格的な住宅販売事業が展開された[18]。
三つの鉄道路線が敷かれ、交通アクセスが整備されたことは、阪神間への人口集中を促した。その背景には、隣接する商業都市・大阪の住環境悪化があった。大阪は企業が集中し、西日本の経済・産業の中心地として発展を遂げていた。それに伴い人口も次第に増加し、大阪は「東洋のマンチェスター」と称されるほどの勢いで工業都市に変貌していった。しかし、そのことは同時に、大気汚染や騒音、水質汚濁などの公害を生む要因となり、急速な産業の発展に伴う生活環境の悪化は、大阪市民の生活に脅威を与える深刻なものとなり、水都・大阪は「煙の都」とまで呼ばれるようになる。このような大阪市を中心とした生活環境の悪化を社会的背景にして、電鉄会社を中心に、阪神間の住宅地開発が本格的に展開する。
郊外生活のすすめ 編集
阪急・阪神の両電鉄会社は、「健康に恵まれた郊外生活」、あるいは「市外居住のすすめ」というキャッチコピーを掲げ、住宅地開発を展開する。その開発戦略のキーワードは、「緑」、「郊外」、「健康」であった。両電鉄会社が謳った田園生活の要素の一つである「緑」とは、六甲山の緑を指す。阪神間の西部に位置する六甲山は、標高932メートルの山で、六甲山麓の南斜面を形成する台地は起伏に富み、北から南に向かって広がる雛壇型の台地は、住宅造成地に適していた。緑が深く、眺望に優れ、瀬戸内海に面した温暖な気候とともに、自然環境にも恵まれたこの地域は、住環境の要件を充分に満たしていたということがいえる。加えて、六甲山から流れ出る中小の河川は、阪神間における町の景観にさまざまな変化を与え、親水空間を創出している。阪急・阪神の沿線を流れる夙川、住吉川、芦屋川、武庫川は、緑豊かな六甲山系を背景に、美しい河川景観を形成し、人々に安らぎを与えてきた。しかし、沿線の田園地帯は美しい自然こそあれ、都心からは離れ、居住者もまだまばらで、決して認知度が高いとはいえなかった。そこで、電鉄各社は、田園生活の素晴しさをPRするため、数々の情報誌を発行する。
まず、阪神電鉄は、明治41年(1908年)、『市外居住のすすめ』を刊行した。この『市外居住のすすめ』の刊行後、大正3年(1914年)、月刊誌『郊外生活』(大正3年1月~大正4年11月)を発行している。これには、郊外生活の利点は勿論のこと、花の育て方や栽培など、今でいう、ガーデニング関連の記事を中心に、随筆や評論などが掲載された。
阪急電鉄は、明治42年(1909年)、住宅案内パンフレット『住宅御案内 如何なる土地を選ぶべきか・如何なる家屋に住むべきか』を発行、こ の冒頭で、「美しき水の都は夢と消えて、空暗き煙の都に住む不幸なる我が 大阪市民諸君よ!」と呼びかけている。公害によって生活環境が悪化した大阪を離れ、田園での優雅で健康的な生活ができる郊外居住をアピールし、沿線の新興住宅地「池田新市街」の住宅案内を行ったのである。また、大正2年(1913年)には、月刊誌『山容水態』が発行された。これは、池田新市街、豊中新市街など、阪急電鉄が開発した住宅地の様子を詳しく紹介した住宅情報誌であると同時に、沿線の名所旧跡の紹介、イベント案内なども掲載され、現在のタウン情報誌としての役割も兼ね備えたものであった。また、阪神電鉄の『市外居住のすすめ』と同様、郊外生活への不安を解消して快適な生活が期待できるよう、飲料水や医療など、健康に関する記事も掲載された[19]。
「健康な田園生活」をキャッチフレーズに展開された、これらの郊外住宅地開発は、国内で早い段階に進められたものであり、澄んだ空気と清らかな水に恵まれた良好な住環境を創出・維持することが「山容水態」の地-すなわち、阪神間のイメージアップに大きく貢献したといえる。また、阪神間における郊外住宅の形成が、その後、東京の田園調布等の高級住宅地開発にも少なからず影響を及ぼしたといわれる[20]。
当時建設された主な施設・邸宅等 編集
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
-
旧小寺家厩舎(相楽園内、国の重要文化財)
- 松山大学温山記念会館(旧新田利国邸)
- 旧芝川邸(芝川又右衛門邸の邸宅、西宮市上甲東園2丁目から明治村に移築)
- 一楽荘(田村駒太郎・二代目田村駒治郎の邸宅、西宮市甲子園)
- 旧松下邸(松下幸之助の邸宅、光雲荘は枚方市パナソニック研修施設に移築、名次庵)
- 高碕記念館(旧諏訪塋一の邸宅、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計)
- ヨドコウ迎賓館(旧山邑邸、フランク・ロイド・ライト設計)
- 芦屋市谷崎潤一郎記念館(富田砕花および、谷崎潤一郎の邸宅)
- 旧安部邸(現・サンアール不動産芦屋寮)
- 滴翠美術館(山口財閥当主、山口吉郎兵衛の邸宅)
- 旧ビクトル・ヘルマン邸(ヘルマンハイツ)
- 六甲山荘(旧小寺家山荘・小寺敬一山荘、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計)
- 旧ハンター住宅
- 白鶴美術館(白鶴酒造、嘉納財閥、嘉納治兵衛の邸宅)
- 香雪美術館(朝日新聞社創業者、村山龍平の邸宅)
- 甲南漬資料館(旧高嶋平介の邸宅)
- 太田酒造貴賓館(旧小寺源吾の邸宅、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計))
- 倚松庵(谷崎潤一郎の旧居)
- 旧平生邸(川崎造船所社長、国務大臣平生釟三郎の邸宅、現在の甲南大学平生記念セミナーハウスの地)
- 二楽荘(西本願寺・浄土真宗本願寺派二十二世門主、大谷光瑞伯爵の邸宅)
- 旧久原邸(久原財閥当主・久原房之助の邸宅、JR神戸線付近~山手幹線の住吉川東岸)
- 旧広海邸(広海二三郎の邸宅、住吉村川向)
- ロイ・スミス館(旧大谷茂邸)
- 旧辰馬喜十郎邸
- 旧乾邸(四代目乾新兵衛の邸宅)
- 旧田辺邸(住友銀行初代支配人田辺定吉の邸宅→住友家住吉本邸の洋館)
- 旧住友家住吉本邸(住友財閥当主、第15代吉左衛門・住友友純男爵の邸宅)
- 旧岩井邸(岩井財閥当主・岩井勝次郎の邸宅)
- 旧野村家住吉本邸(野村財閥当主・野村徳七の邸宅)
- 旧住友分家邸(住友義輝の邸宅、現在の住吉中学校)
- 旧野村分家邸(野村元五郎の邸宅、住吉村観音林)
- 旧伊藤邸(伊藤忠財閥当主・二代伊藤忠兵衛の邸宅)
- 旧辰馬邸(辰馬財閥当主・辰馬吉左衛門の邸宅)
- 旧八馬邸(八馬財閥当主・八馬兼介の邸宅)
- 旧和田邸(和田久左衛門の邸宅、住吉村小坂山)
- 旧阿部邸(阿部房次郎の邸宅)
- 旧鈴木邸(鈴木馬左也の邸宅)
- 旧兼松邸(兼松房治郎の邸宅)
- 旧田代邸(田代重右衛門の邸宅)
- 旧勝田邸(勝田銀次郎の邸宅、現天理教兵庫教務支庁)
- 武田薬品工業武田資料館(銜艸居・武田長兵衛の邸宅)
- 旧小寺敬一邸 (小寺敬一の邸宅、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計、現在の神戸市住吉山手4丁目9)
- 旧小寺敬三邸 (小寺敬三の邸宅、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計、神戸市住吉山手4丁目9)
- 蘇州園(弘世助三郎の邸宅)
- 旧大林邸(大林組社長大林義雄の邸宅、御影上ノ山。現・大林組迎賓館)
- 旧池永邸(紅塵荘、南蛮美術収集家・池長孟の邸宅、春日野会病院旧北館)
- 旧赤尾邸(花莚貿易商・赤尾善治郎の邸宅、神戸市灘区原田通3丁目3 私邸非公開)
- 旧山下邸(熊内御殿)(山下亀三郎の邸宅・後に神戸観光ホテル、現在の神戸市中央区熊内町8丁目)
- 旧川崎邸・川崎美術館(神戸川崎財閥・男爵川崎正蔵の邸宅・日本初の私立美術館、現在の神戸市中央区葺合町字布引山・新神戸駅北側~ANAクラウンプラザホテル神戸駐車場近辺)
- 旧松方邸(松方幸次郎の邸宅、現在の神戸市中央区山本通4丁目19-8~15)
- 旧湯浅邸(湯浅竹之助の邸宅、現在の神戸市中央区山本通5丁目3)
- 神戸市風見鶏の館(旧トーマス邸)
- うろこの家(旧ハリヤー邸)
- 北野物語館(旧M.J.シェー邸)
- 旧シャープ住宅(小林家住宅、ハンター・シャープ→神戸電鉄社長小林秀雄の邸宅、萌黄の館)
- アメリカンハウス(旧ハムウェイ邸)
- 旧ハッサム住宅(J.K.ハッサムの邸宅)
- みなと異人館(ヘイガーの邸宅)
- 旧大谷光瑞・西本願寺月見山別邸(現須磨離宮公園)
- 旧岡崎邸(岡崎財閥当主・岡崎忠雄の邸宅、現須磨離宮公園の植物園)
- 旧川崎家別邸(川崎正蔵の別邸・現在の須磨区奥山畑町2)
- 旧鈴木邸(鈴木商店の鈴木よねの邸宅・現在の須磨区若木町2丁目)
- 西尾家住宅(西尾類蔵の邸宅、現・神戸迎賓館)
- 旧室谷家住宅(室谷藤七の邸宅、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計、現在の離宮前町2丁目9)
- 旧内田邸(内田信也→小曽根財閥当主・小曽根喜一郎の邸宅、洋館と須磨御殿。現在の須磨区桜木町3丁目2)
- 旧村野邸(村野山人の邸宅)
- 旧デラカンプ邸(デラカンプ商会のチャレス・ランゲ・デラカンプの邸宅、現在の海浜公園テニスコート)
- 旧住友家須磨別邸(住友財閥当主、第15代吉左衛門・男爵住友友純[春翠]の別邸、市に寄贈、現・須磨海浜公園内に址)
- 旧九鬼邸(第13代三田藩主の長男子爵九鬼隆輝の邸宅、現在のマリスト国際学校)
- 旧藤田邸(藤田財閥当主・藤田伝三郎男爵の邸宅、後に藤田ガーデン、現在の須磨区潮見台町2丁目)[21]
- 賀陽宮須磨別邸(現在の山陽電鉄須磨浦公園駅の南)
- 旧山本邸(現・財団法人 山本清記念財団)
- 旧グッゲンハイム邸
- 旧後藤邸(武田常次郎、最後は兵庫日野自動車創業者後藤末二の邸宅)
- 旧牛場邸(牛場卓蔵の邸宅、現在の三菱電機塩屋寮)
- 旧ジョネス邸(塩屋・国道2号線沿い浜側)
- 旧箙(エビラ)邸(ジョーイ・エイブラハム、帰化後は箙(えびら)譲衛の邸宅→塩屋異人館倶楽部、塩屋・国道2号線沿い浜側)
- 旧ジェームス邸(アーネスト・ウイリアムス・ジェームス→三洋電機創業者 井植歳男の邸宅)
- 旧四本邸(四本萬二の邸宅→三菱電機神戸製作所病棟→垂水警察署、お菓子の里丹波に移築、現在の垂水区宮本町)
- 岸本家別邸(泉吉株式会社所有)
- 旧牛尾邸(牛尾健治の邸宅、現在の苔谷公園付近)
- 旧武藤家別邸洋館(武藤山治の邸宅→旧鐘紡舞子倶楽部)
- 孫文記念館(呉錦堂の松海別荘・移情閣、通称六角堂)
- 武庫之荘(尼崎市)
- 西宮七園
- 六麓荘(芦屋市六麓荘町)
- 松風山荘(芦屋市山手町、東芦屋町)
- 芦屋文化村
- 三宜壮
- 深江文化村
- 観音林倶楽部
- 旧甲南病院本館
- 御影公会堂
- 大阪市中央公会堂
- 神戸市文書館(池長孟設立の池永美術館→市立南蛮美術館)
- 神戸市水の科学博物館(奥平野浄水場・旧急速濾過場上屋)
- 旧居留地下水渠(現・ノザワ本社(旧居留地十五番館)に併設)
- 布引五本松堰堤
- 布引水路橋(砂子橋)
- 烏原立ケ畑堰堤
- 淡河疏水
- 山田池堰堤
- 新川運河
- 武庫川浄水場
- ニテコ池貯水池 中池取水塔
- 旧居留地十五番館(旧アメリカ合衆国領事館)
- 兵庫県公館(旧兵庫県庁舎)
- 神戸大学(本館・講堂・兼松記念館・人文社会系図書館・武道場、旧制神戸商業大学)
- 関西学院上ケ原キャンパス(ウィリアム・メレル・ヴォーリズの全体設計)
- 神戸文学館(旧関西学院ブランチ・メモリアル・チャペル)
- 聖和大学(ウィリアム・メレル・ヴォーリズの全体設計)
- 小林聖心女子学院中学校・高等学校校舎本館
- 今津六角堂(西宮市立今津小学校旧校舎)
- 旧制甲南中学校(現・甲南大学岡本キャンパス)
- 旧制灘中学校(現・灘中学校・高等学校)
- 旧制甲陽中学校(現・甲陽学院中学校・高等学校)
- 旧制六甲中学校(現・六甲学院中学校・高等学校)
- 旧制三田中学校(現・三田学園中学校・高等学校)本館・記念図書館
- 神戸女学院岡田山キャンパス(ウィリアム・メレル・ヴォーリズの全体設計)
- 神戸中華同文学校(初代校舎)
- 兵庫県立神戸高等学校校舎(旧制兵庫県立第一神戸中学校校舎)
- 兵庫県立長田高等学校神撫会館(旧兵庫県立第三神戸中学校図書館)
-
奥平野浄水場・旧急速濾過場上屋(神戸市水の科学博物館)
-
神戸女学院大学理学館
-
新川運河
-
神戸大学六甲台本館(国登録有形文化財)
-
兵庫県立神戸高等学校
-
兵庫県立長田高等学校神撫会館
- カトリック夙川教会聖テレジア大聖堂
- 旧神戸ユニオン教会(現・フロインドリーブ本店、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計))
- 関西ユダヤ教会
- 神戸モスク(神戸回教寺院)
- 日本基督教団神戸教会
- 慈眼山長楽寺(関帝廟)
- 尼崎紡績本館事務所(現・ユニチカ記念館)
- 尼崎信用組合本店事務所(現・尼崎信用金庫記念館)
- 阪神電鉄発電所(現・阪神電鉄資材部西倉庫)
- 旧居留地38番館
-
神戸モスク(神戸回教寺院)
-
日本基督教団神戸教会
-
旧宝塚歌劇記念館(現・宝塚ガーデンフィールズ)
-
旧神戸ユニオン教会
-
宝塚大劇場(初代)
-
神戸旧居留地38番館
- 旧内田汽船本社ビル
- 旧八馬汽船ビル
- 多聞ビル
- 武庫大橋
- 旧逓信省芦屋別館(現・芦屋モノリス)
- 新港貿易会館
- 辰馬本家酒造白鹿館
- 辰馬酒造本社ビル
- 旧クリフォード・ウヰルキンソン・タンサン鉱泉株式会社宝塚工場(西宮市塩瀬町)
- 旧東洋リノリユーム本館事務所(現・東リ インテリア歴史館)
- 旧大日本帝國鑛泉株式會社平野工場・旧御料品製造所(現・アサヒビール三ツ矢記念館)
- 阪急百貨店うめだ本店
- 元町デパート→三越神戸店
- 大丸神戸店
- そごう神戸店(現・神戸阪急)
- 宝塚新温泉パラダイス劇場
- 宝塚大劇場(初代)
- 宝塚音楽学校旧校舎(旧・宝塚公会堂)
- 旧宝塚文芸図書館(後に宝塚歌劇記念館となり、現・宝塚ガーデンフィールズ)
- 宝塚映画製作所(現・宝塚映像)
- 宝塚女子青年会館
- 宝塚会館ダンスホール
- 宝塚ルナパーク
- 宝塚球場
- 鳴尾球場
- 阪神甲子園球場
- 須磨寺遊園地
- ジェームス山
-
神戸住友ビル
-
大阪商船神戸支店
-
神戸郵船ビル
-
神戸税関
-
海岸通り
- 芦屋国際ローンテニス倶楽部
- 神戸ローンテニス倶楽部
- 鳴尾ゴルフクラブ
- 神戸ゴルフ倶楽部
- 広野ゴルフ倶楽部
- 宝塚ゴルフ倶楽部
- 宝塚ホテル
- 甲子園会館(甲子園ホテル、ライトの愛弟子である遠藤新の設計)
- 六甲山ホテル
- 六甲オリエンタルホテル
- ホテル六甲ハウス
- 六甲登山架空索道(ロープウェイ)
- 六甲摩耶鉄道六甲ケーブル線(六甲ケーブル)
- 神戸すまいまちづくり公社摩耶ケーブル線(摩耶ケーブル)
- 阪急西宮球場
- 甲子園阪神パーク
- 阪神水族館
- 関西競馬倶楽部競馬場(旧・阪神競馬倶楽部)
- 鳴尾運動場
- 鳴尾百花園
- 武庫川浄水場
- 甲子園浜海水浴場
- 香櫨園浜海水浴場
- 打出海水浴場
- 芦屋国際ホテル
- 帝国キネマ蘆屋撮影所(帝国キネマ演芸株式会社の撮影所、芦屋市)
- トアホテル(東亜ホテル)(現・神戸外国倶楽部)
- ミカドホテル(後に鈴木商店)
- 神戸タワー(1924年竣工)
- 神戸オリエンタルホテル(ヤン・レッツェル設計)
- 旧神戸港信号所
- 和田岬燈台
- オリエンタル ホテルズ シーサイド ビラ(ビーチ ハウス ホテルを建替、塩屋)
- 舞子ホテル(旧・日下部久太郎別邸)
- 舞子ビラ(旧・有栖川宮熾仁親王別邸)
- パインクレストアパートメントホテル
- 有馬ホテル
- 有馬鉄道(後・鉄道省有馬線)有馬駅
- 神戸愛隣館
- 聚楽館
- 西宮回生病院
- 旧西宮市立図書館
- 旧芦屋市立図書館分室(現・打出教育文化センター)
- 神戸万国病院(現・神戸海星病院)
- クリスト・ロア病院(現・上ヶ原病院)
- 播州葡萄園
- 神戸阿利襪園
-
旧甲子園ホテル
-
宝塚ホテル
-
大丸神戸店本館、東側コリドール
-
孫文記念館(旧・松海別荘)
-
六甲山ホテル
-
舞子ホテル
-
旧オリエンタルホテル
-
旧トアホテル
阪神間の主な居住者 編集
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
阪神間では、当地に居を移した阪神の富裕層を中心に、多くの芸術家が誕生した。1923年の関東大震災を逃れた東京の芸術家らが移住したこともあり、活況を呈することになった。
芸術家 編集
- 貴志康一(作曲家、ヴァイオリニスト)
- 辻久子(ヴァイオリニスト)
- 片岡仁左衛門 (12代目)(歌舞伎役者)
- 今竹七郎(グラフィックデザイナー)
- 設楽貞雄(建築家)
- 宗兵蔵(建築家)
- 野口孫市(建築家)
- 古塚正治(建築家)
- 安井武雄(建築家)
- 渡辺節(建築家)
- 谷崎潤一郎(作家)
- 朝比奈隆(指揮者)
- 薄田泣菫(詩人)
- 富田砕花(詩人)
- 竹中郁 (詩人)
- 中山岩太(写真家)
- ハナヤ勘兵衛(写真家)
- 小磯良平(洋画家)
- 小出楢重(洋画家)
- 津高和一(洋画家)
- 吉原治良(洋画家)
- 橋本関雪(日本画家)
- 村上華岳(日本画家)
- 花柳芳次郎(日本舞踊)
- 阿波野青畝(俳人)
- 山口誓子(俳人)
- 長谷川一夫(俳優)
- 阪東妻三郎(俳優)
- 野澤吉兵衛(文楽三味線)
財界人 編集
- 安宅弥吉(安宅産業創業者)
- 阿部元太郎(日本住宅社長)
- 阿部藤造(東洋紡関連会社社長)
- 阿部房次郎(東洋紡績社長)
- 井植歳男(三洋電機創業者)
- 岩本栄之助(株式仲買人・相場師、大阪市中央公会堂の寄付者)
- 鋳谷正輔(川崎造船所社長)
- 伊藤忠兵衛(伊藤忠財閥総帥、2代目社長)
- 泉仙介(泉酒造社長)
- 乾新兵衛(乾新治)(日本鉄線・乾倉庫社長)
- 乾豊彦(乾汽船社長)
- 岩井勝次郎(岩井商店店主)
- 内田信也(内田汽船創業者)
- 上野理一(朝日新聞社創業者の内の1人)
- 牛尾健治(姫路銀行頭取・中国合同電気社長・牛尾財閥)
- エドワード・ハズレット・ハンター(範多財閥創設者)
- 榎並充造(阪東調帯護謨(現バンドー化学)創業者・神戸商工会議所会頭)
- 岡崎藤吉(岡崎財閥創業者)
- 岡崎忠雄(神戸岡崎銀行頭取)
- 岡崎真一(同和火災海上社長・現あいおいニッセイ同和損害保険)
- 岡崎忠(神戸銀行頭取)
- 大谷竹次郎(昭和電極社長)
- 大谷哲平(満州大谷重工業社長)
- 大原孫三郎(倉敷紡績社長・大原財閥)
- 大原総一郎(大原財閥総帥)
- 大林義雄(大林組2代目社長)
- 小倉捨次郎(小倉商事社長・川鉄商事)
- 小曽根喜一郎(小曽根財閥創設者)
- 小曽根貞松(小曽根財閥2代目当主)
- 勝田銀次郎(勝田汽船創業者)
- 金子直吉(鈴木商店専務)
- 兼松房治郎(兼松房治郎商店創業者・現兼松)
- 嘉納治兵衛(白嘉納家・白鶴社長・嘉納財閥)
- 嘉納治郎右衛門(本嘉納家・菊正宗酒造社長・嘉納財閥)
- 神社柳吉(倉敷紡績社長)
- 川崎正蔵(神戸川崎財閥創設者・男爵)
- 川崎芳太郎(神戸川崎財閥2代目当主)
- 川田順(住友本社理事)
- 川西清兵衛(川西航空機・日本毛織・兵庫電気軌道社長)
- 岸本豊太郎(岸本銀行頭取・神戸商業会議所会頭)
- 北風正造(七十三銀行頭取)
- 北川与平(北川商店創業者・現兼松)
- 木水栄太郎(十合百貨店社長)
- 日下部久太郎(日下部合資会社創業者・十六銀行頭取)
- 久原房之助(久原財閥創設者)
- 神田兵右衛門(神田銀行頭取・初代神戸市会議長・初代神戸商業会議所会頭)
- 小泉新助(小泉製麻創業者)
- 小泉良介(小泉製麻社長)
- 小寺源吾(大日本紡績社長)
- 小寺謙吉(三田学園設立者・衆議院議員・神戸市長)
- 小寺壮吉(小寺洋行社長)
- 後藤勝造(後藤回漕店社長)
- 小林秀雄(神戸電鉄社長)
- 才賀藤吉(才賀電機商会社長)
- 笹岡茂七(又新紡績代表)
- 佐藤国一(佐藤国汽船創業者)
- 芝川又右衛門(実業家、大地主)
- 柴田音吉(柴田音吉洋服店創業者)
- 白井松次郎(松竹創業者)
- 白洲退蔵(三田県大参事、横浜正金銀行頭取)
- 白洲文平(白洲商店創業者)
- 白洲次郎(実業家)
- 杉道助(八木商店社長・元大阪商工会議所会頭)
- 鈴木馬左也(住友本社第三代総理事)
- 鈴木岩治郎(鈴木財閥当主)
- 住友友純(住友財閥15代目当主・男爵)
- 高嶋平介(高嶋平介商店・二代目)
- 瀧川辨三(東洋燐寸社長・神戸商業会議所会頭)
- 滝川儀作(帝国燐寸社長・神戸商業会議所会頭)
- 武田長兵衛(武田薬品工業6代目社長)
- 武田二郎(武田薬品工業副社長)
- 竹田義蔵(武田薬品工業副社長、吉富製薬社長)
- 田代重右衛門(大日本紡創業者)
- 辰馬喜十郎(南辰馬家初代当主)
- 辰馬吉左衛門(辰馬商会・辰馬財閥当主)
- 田中三郎(キネマ旬報創立者)
- 田中正之輔(大同海運創業者)
- 田辺貞吉(住友銀行初代支配人)
- 寺田甚吉(南海鉄道・岸和田紡社長・寺田財閥)
- 田路舜哉(住友商事創業者)
- 豊田善右衛門(豊田産業社長・衆議院議員)
- 中村準策(太平洋海上火災保険会社社長)
- 中山悦治(中山製鋼所創立者)
- 中山半(中山鋼業社長)
- 永田良介(永田良介商店創業者)
- 西尾類蔵(貿易会社社長)
- 野村元五郎(野村銀行社長)
- 野村徳七(野村財閥当主)
- 長谷川佳平(日華製紙社長)
- 八馬兼介(八馬財閥当主)
- 肥田昌三(虎屋・三和信託代表)
- 平生釟三郎(川崎造船所社長、国務大臣)
- 弘世助三郎(日本生命創業者の1人)
- 弘世助太郎(日本生命社長)
- 広海二三郎(広海商店主)
- 広岡恵三(加島屋・広岡財閥、神戸市東灘区 現 甲南女子大学)
- 藤澤友吉(藤澤友吉商店社長・藤澤薬品工業)
- 前田又吉(料亭常盤花壇、常盤ホテル(現・京都ホテル)創業者)
- 松方幸次郎(川崎造船所社長・神戸川崎財閥総帥)
- 松下幸之助(パナソニック創業者)
- 三木瀧蔵(三共生興創業者)
- 宮地民之助(宮地汽船社長)
- 武藤山治(鐘淵紡績社長)
- 村野山人(関西の鉄道の経営に参画、衆議院議員・学校創設)
- 村山龍平(朝日新聞社創業者)
- 室谷藤七(室谷商店社長)
- 山内顯(倉敷レイヨン社長)
- 山口吉郎兵衛(山口財閥当主)
- 山下亀三郎(山下汽船創業者・山下財閥)
- 山本唯三郎(松昌洋行社長)
- 山邑太左衛門(山邑酒造)
- 湯浅竹之助(湯浅商店創業者)
- カール・ユーハイム(ユーハイム創業者)
- エリーゼ・ユーハイム(夫カールと共にユーハイム創業者・社長)
- クリフォード・ウヰルキンソン(クリフォード・ウヰルキンソン・タンサン鉱泉創業者)
芸能人 編集
その他 編集
参考文献 編集
- 阪急沿線都市研究会編『ライフスタイルと都市文化 阪神間モダニズムの光と影』東方出版、1994年。ISBN 4-88591410-8
- 阪神間モダニズム実行委員会編『阪神間モダニズム 六甲山麓に花開いた文化、明治末期‐昭和15年の軌跡』淡交社、1997年。4-47301575-0
- 竹村民郎・鈴木貞美編『関西モダニズム再考』思文閣出版、2008年。ISBN 4-78421379-1
- 『竹村民郎著作集 III 阪神間モダニズム再考』三元社、2012年。ISBN 978-4-883033164
- 藤村郁雄著・松尾稔写真『阪神間モダニズム 近代建築さんぽ』神戸新聞総合出版センター、2011年。ISBN 978-4-343006233
- 戸田清子. “「阪神間モダニズムの形成と地域文化の創造」” (PDF). 奈良県立大学. 2014年1月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年5月19日閲覧。
脚注 編集
注釈 編集
- ^ 神戸市(東灘区、灘区、須磨区)、芦屋市、西宮市、宝塚市、伊丹市、川西市など。[要出典]
- ^ のちにはスプロール(都市拡大)に伴い、阪神間東部の豊能地域(箕面市・池田市・豊中市)にも拡大した。[要出典]
- ^ 名称はそれぞれの頭文字を取ったもの。
- ^ その用法は、宗教と芸術という二つの領域で分かれる。まず、宗教においては、カトリックなどのキリスト教において、科学・歴史に矛盾しない教義を求めようとする運動をいう場合がある。いわゆる、ヨーロッパにおける「近代」は、キリスト教会が強大な権力をもち、支配していた中世封建社会からの解放から始まる。それゆえ、伝統宗教の世俗化やプロテスタンティズムの台頭を意味する場合に、modernismが用いられる。一方、芸術においては、印象派、象徴主義、アール・ヌーボーの流れにおいて呼ぶ場合、未来派、構成主義、表現主義などから抽象絵画が生み出される過程において呼ぶ場合、第一次世界大戦中のダダから戦後のシュールレアリスムへの流れを呼ぶ場合などがあり、総じて伝統的な価値観や様式を拒絶し、否定するところから始まる運動を、modernismと呼ぶ。
- ^ 現在の神戸市東灘区住吉各町および灘区六甲山町東部。
出典 編集
- ^ a b c 阪神間モダニズム 公益財団法人 西宮市大谷記念美術館
- ^ a b 「阪神K・A・Nモダニズム」~インスタグラム投稿キャンペーンを開催~ 神戸市、2018年11月9日、2021年2月14日閲覧。
- ^ 阪神K・A・Nモダニズム 知る・見る・巡る 阪神KANお散歩マップ 阪神電気鉄道、2021年2月14日閲覧。
- ^ 阪神K・A・Nモダニズム 芦屋市、2021年2月14日閲覧。
- ^ 阪神K・A・Nモダニズム 神戸、芦屋、西宮と阪神電鉄が地域の魅力を共同発信 20日からスイーツスタンプラリー/兵庫 毎日新聞阪神版、2018年2月11日、2021年2月14日閲覧。
- ^ 鈴木貞美「モダニズムと伝統、もしくは『近代の超克』とは何か」、竹村民郎・鈴木貞美編『関西モダニズム再考』思文閣出版 2008年 所収 386-399頁)
- ^ 鈴木貞美「モダニズムと伝統、もしくは『近代の超克』とは何か」 394-395頁
- ^ 鈴木貞美「モダニズムと伝統、もしくは『近代の超克』とは何か」 552頁
- ^ 戸田清子「阪神間モダニズムの形成と地域文化の創造」『奈良県立大学研究季報』第19巻第4号、2009年3月、49-77頁、ISSN 1346-5775、CRID 1050001338809378048、2023年6月6日閲覧。
- ^ [1][リンク切れ] 大阪市経済局
- ^ 山本ゆかり, 萬谷治子, 加藤拓郎「旧住吉村の住宅地開発とその特徴」『住宅総合研究財団研究論文集』第31巻、住総研、2005年、91-102頁、doi:10.20803/jusokenold.31.0_91、ISSN 1880-2702、CRID 1390001205297186560、2023年6月6日閲覧。
- ^ 日本一の富豪村
- ^ 大阪市都市住宅史編集委員会編「まちに住まう大阪都市住宅史」平凡社 pp.328. 1989年.
- ^ 土井勉, 河内厚郎「鉄道沿線における郊外住宅地の開発と地域イメージの形成」『土木史研究』第15巻、土木学会、1995年、1-13頁、doi:10.2208/journalhs1990.15.1、ISSN 0916-7293、CRID 1390282679305557760、2023年6月6日閲覧。
- ^ 坂本勝比古 「郊外住宅地の形成」 『阪神間モダニズム 六甲山麓に花開いた文化、明治末期ー昭和15年の軌跡』1994年、所収、36頁
- ^ 坂本勝比古 「郊外住宅地の形成」30頁
- ^ 坂本勝比古 「郊外住宅地の形成」31頁
- ^ 猿渡彬順「むらからまちへ~阪神間の住宅開発」、阪急沿線都市研究会編『阪神間モダニズムの光と影―ライフスタイルと都市文化』、1994年、所収、131頁
- ^ 坂本勝比古 「郊外住宅地の形成」30-31頁
- ^ 坂田清三・土井勉「阪神間の都市構造」、阪急沿線都市研究会編『阪神間モダニズムの光と影―ライフスタイルと都市文化』、1994年、所収、145頁
- ^ 長沢伸一 (2019年6月25日). “幻の社交場、藤田ガーデン 神戸・須磨にあったその面影探る”. 神戸新聞NEXT. 神戸新聞. 2021年5月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年11月15日閲覧。
関連項目 編集
関連項目が多すぎます。 |
- 阪神間
- 近代建築
- 近郊 / 郊外 / 郊外化
- 高級住宅街
- 西宮七園
- 阪神財閥
- 大正デモクラシー / 大正ロマン / 昭和モダン / モボ・モガ
- 五代友厚: 大阪市の本邸跡は大阪科学技術館、日本銀行大阪支店になっている。
- 岩崎弥太郎: 三菱財閥初代総帥。大阪市の本邸跡は石碑が建てられている。
- 住友家:住友財閥。大阪市の本邸跡は大阪市立美術館などになっている。
- 鴻池家:鴻池財閥。大阪市の本邸跡は 大阪美術倶楽部 になっている。
- 淀屋: 大阪市の本邸跡は石碑が建てられている。
- 小林一三:阪急東宝グループ(現阪急阪神東宝グループ)創始者。池田市の本邸跡は逸翁美術館になっている。
- 阪急電鉄(阪急電車)
- 阪神電気鉄道(阪神電車)
- 設楽貞雄:明治時代から昭和初期にかけて関西で活躍した建築家。
- 田園都市:エベネザー・ハワードの都市思想。上記の阪急の小林一三、渋沢栄一・五島慶太(東急田園調布・東急田園都市線・多摩田園都市ニュータウン)へ影響を与えた。
- ユートピア思想(1910年代~1930年代)
- 大屋霊城:甲子園花苑都市構想。
外部リンク 編集
- 阪神間モダニズム - 公益財団法人 西宮市大谷記念美術館
- 「阪神間モダニズム紹介動画」の配信開始について - 兵庫県
- 阪神K・A・Nモダニズム 知る・見る・巡る 阪神KANお散歩マップ - 阪神電気鉄道
- 阪神K・A・Nモダニズム - 芦屋市