メインメニューを開く

三里塚闘争

新東京国際空港(現・成田国際空港)の建設・存続に反対する闘争
成田国際空港 > 成田空港問題 > 三里塚闘争

三里塚闘争(さんりづかとうそう)は、千葉県成田市農村地区である三里塚とその近辺で発生し継続している、成田市・芝山町の地元住民および新左翼活動家らによる新東京国際空港(通称:成田空港、2004年4月1日以降の正式名称は成田国際空港)の建設または存続に反対する闘争(紛争)。成田闘争(なりたとうそう)とも呼ばれる。

三里塚闘争
NaritaAirportHelmet.jpg
日時 1966年6月22日 - (継続中)
場所 千葉県成田市および芝山町
北緯35度45分55秒 東経140度23分08秒 / 北緯35.76528度 東経140.38556度 / 35.76528; 140.38556座標: 北緯35度45分55秒 東経140度23分08秒 / 北緯35.76528度 東経140.38556度 / 35.76528; 140.38556
原因 日本政府が地域住民らとの合意形成を無視または軽視して、空港建設を強硬に推進したこと。
手段 デモ活動座り込み暴動テロ
参加集団
指導者
死傷者数
死者


警察官4人
東峰十字路事件(3人)
芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件(1人)

工事作業員2人
東鉄工業作業員宿舎放火殺人事件

収用委員会会長1人
千葉県収用委員会会長襲撃事件の後遺症を苦にした自殺

航空機メーカー役員の家族1人
日本飛行機専務宅放火殺人事件

反対派活動家3人
東山事件(1人)
成田空港管制塔占拠事件(2人、うち1人は刑事施設での拘禁反応で発症した精神疾患による自殺。)

反対派農民1人

→自殺

目次

概要編集

三里塚闘争は、空港の建設地が現在の位置に決定するまでの経緯ならびに空港用地内外の民有地取得問題および騒音問題などにより空港建設に反発する地元住民らが革新政党指導の下で結成した「三里塚芝山連合空港反対同盟」による反対運動をその源流とする[1][2][3][4]。反対運動はやがて開港を急ぐ日本政府による機動隊投入などの強硬策に対抗するため新左翼党派と合同することとなり、過激化した[5]。「ボタンのかけ違い」と呼ばれる政府側と反対派のすれ違いの連続の結果、激しい闘争によって開港が当初予定より大幅に遅れただけではなく双方に死者を出す惨事となった。

開港後も過激派によるテロゲリラ事件や強固な反対運動が継続し空港の拡張が停滞したため、一時は世界屈指の国際空港の地位にあった成田空港も各国間の空港開発競争の中で次第に劣勢となっていった[6][7][8]。また、地域社会にも住民間の対立をはじめとする爪痕を残すなど現在に至るまで大きな影を落としている。さらに、この闘争は公共事業のあり方についても国内外で大きな波紋を呼んだ[9][10][11][12]

空港計画浮上前の三里塚周辺編集

成田国際空港周辺の地区
  古村を中心とした地区
  戦後開拓を中心とした地区
  明治・大正開墾を中心とした地区
 
1930年当時の宮内省下総御料牧場
 
芝山町の谷津田(2009年4月)
 
開拓農家の例(1974年度)それぞれの家ごとに四角い区画を有しているのが特徴である

御料牧場編集

千葉県の北部は『続日本紀』で「諸国ニ牧地ヲ定メヲ放ツヲ令ズ」とある700年(文武天皇4年)から続く馬の牧用地()として知られており[13]源平合戦では東国源氏軍馬を供給していた[14]江戸時代には小金五牧および佐倉七牧が設けられ、軍馬の飼育生産が行われる[15][16]

20世紀に入り、殖産興業を推進していた明治政府は佐倉七牧の一つであった取香牧付近に近代牧畜による羊毛自給を目指して牧羊場を設けた。この牧羊場が後に宮内庁下総御料牧場(以下、御料牧場)となる[16]

三里塚の街は牧場関係の商売で潤い、八百屋魚屋仕立て屋といった商店は飛ぶ鳥を落とす勢いだったという[16]。しばしば御料牧場を訪れる皇族も住民らにとっては身近で親しみを感じる存在だった。裕仁親王(後の昭和天皇)成婚を記念して植えられた竹の美林に隣接する御料牧場には春先になると遠方からも大勢が花見に訪れる日本有数の桜並木があり、三里塚は千葉県随一の景勝の地と言われた[15]

また、高村光太郎が『春駒』と題する「三里塚の春は大きいよ」から始まる詩で在りし日の御料牧場の様子を詠んでいる[17]。「御料牧場を知らない奴は空港に反対する根拠がない」「本当のとこをいうと、(空港建設で)御料牧場がなくなるっていうんで、ここらの人はみんな気がおかしくなったのだ」と地元住民が後に語ったほど、御料牧場は近隣で生活を営む住民にとって物心両面で欠くことができない存在だった[16]

古村編集

下総台地が削られてできた谷地では谷津田と呼ばれる湿田で古くから農作が行われていた。そこで農業を営む江戸時代から続く集落は古村(こそん)と呼ばれ、強固な村落共同体が形成されていた。芝山の集落の多くがこの古村であり、成田側でも取香駒井野がこれに該当する[注 1][20][21]

なお、駒井野には水野葉舟が居住しており、開墾の様子を「我はもよ野にみそきすと しもふさの あらまきに来て土を耕す」と謳っている[17]

この地は下総上総分水嶺に位置し、江戸時代は天領代官の管轄区域の末端となっていたために強力な支配権が及ばず、権力に反抗的な風土が培われていたともいわれ[13]1914年には農民組合が組織されていた芝山町(当時は千代田村二川村に分かれていた)では農村の階級支配に対し過去数々の争議が行われてきており、県内でも農民運動が最も盛んな地域だった[22]

開拓部落編集

第二次世界大戦敗戦直後の1946年に戦後開拓の一環として御料牧場の敷地のうち約1000町歩農地として開放されたほか[15]、県有林の一部だった土地が払い下げられたことで入植が始められた。天浪木の根東三里塚古込東峰など成田側の耕作地の多くはこのときに開墾が始められたものである。当時の入植者は、「新窮民」と呼ばれる、敗戦によって生まれた引揚者沖縄戦による荒廃と米国による統治などにより帰郷ができなくなってしまった沖縄県出身者、長男でないために家督を継げない農家の子息などで占められていた[13][16]。なお、払下げの価格は一反当り80円(ショートピース2缶相当)程度だった[23]

「新窮民」の多くはほとんど身一つでこの地で開墾を始めたため、その暮らしぶりは極めて貧しかった。「新窮民」らの開墾は困難を極め[注 2]、昼間は古村での小作で収入を得て、その後は月明かりの下で1本で開墾作業を行った。炊飯の頻度を最小限にして少しでも開墾に時間を充てるため、4日分のをまとめて松葉などで炊き空気に触れて腐りやすい部分を削いで食べながら「オガミ」と呼ばれる電気水道も通らない三角形の粗末な藁小屋で原始的な生活をしていた[注 3][13][27][24][28][29][30][31]

農家としての生き残りをかけた土地争いも発生した入植地では、過酷な環境に耐えられなかった入植者が次々に脱落していった。結果としてこの地に残ったのは、脱落者から農地を買い取り生計を立てられるだけの規模を確保した者たちだった[注 4][21][28]

それ以前にも1923年に宮内省御料牧場の2000町歩が払い下げられるなどしており[15]天神峰横堀十余三など、明治・大正期に原野を開墾して成り立った部落もあった。それらの地区で行われた開墾の中でも特に古いものとしては、三井八郎右衛門富豪の出資によって設立された開墾会社によるもの(東京新田)がある[13]。この開墾を行ったのは開墾会社に雇われていた明治維新によって職を失った下級武士武家の奉公人・流浪の民などからなる「東京窮民」であり、台風での被害を受けるなどの困難に直面したため苦境に耐えかねて逃亡する者が相次いだ[16]。開墾会社は業績不振で結局解散するが、この地に留まって開墾を続ける「東京窮民」や脱落した「東京窮民」から農地を取得した農民はその後小作料の上納と土地所有をめぐり地租改正で発行された地券を持つ東京豪商と争い、長い裁判闘争を経て入植者の権利の保証を勝ち取った。そのため、この地域の農民には土地に対する執着が深く刻み込まれていた[13][16]

紛争発生の経緯編集

逼迫する航空需要編集

1960年代初頭、急速なジェット化による大量輸送時代の幕開けと高度経済成長によって日本の航空需要は急激に増大しており、旅客需要の伸びと航空機の発着回数の増加傾向がこのまま推移すれば、1970年頃に東京国際空港(通称:羽田空港)の能力が限界に達すると予想された[33][34][35]。しかし、以下のような理由でその拡張性が見込めなかったため、羽田空港のC滑走路整備を進めていた当時の運輸省も、羽田が将来の需要を賄うことについては超音速輸送機が今後主流になることも見すえて「その実現はほとんど不可能といわなければならない」という見解だった[33][36][37]

  1. 北西側部の大田区品川区には人家密集地帯が存在し航空機騒音対策が困難であり、南西側には川崎市石油コンビナート地帯が隣接しており、さらに南側は多摩川河口に面しているため[注 5]拡張できるのは東の東京湾沖合しかないこと[36][39][40]
  2. 当時、東京港には船舶が殺到してパンク状態となっており、沖合への拡張は海上輸送に著しい支障をきたすこと[33][36][39][41]
  3. 当時の港湾土木技術では、水深20メートルにある海床埋め立てが困難だったこと[注 6][33][36][37][40][41][42]
  4. 在日米軍が管理している専用航路・東京西部空域ほか軍用飛行場群が有する管制空域との兼ね合いなどがあり、航空機の出発経路の設定が著しい制約を受けること[注 7][33][36][37][42][43][44]
  5. 建設上の制約で各滑走路を独立運用できるような配置にすることができず、滑走路当たりの処理能力が低下すること[注 8][注 9][40]

そこで、政府(池田内閣)は来るべき国際化にともなう航空(空港)需要の増大に備え、羽田空港に代わる本格的な国際空港の建設計画の策定に着手し1962年11月16日に第2国際空港建設方針が閣議決定された[47]

新空港計画の策定と富里空港案編集

 
新東京国際空港計画案(当初)

新空港の青写真と航空審議会答申編集

1963年6月に運輸省が作成した冊子『新東京国際空港』(通称:青本)で示された「当初計画での新空港」は、超音速輸送機用の主滑走路(4,000メートル)2本、横風用済走路(3,600メートル)1本、国内線用滑走路(2,500メートル)2本を具備し、総敷地面積は約2,300ヘクタールと、当時の羽田空港(350ヘクタール)はおろか世界の主要空港(ヒースロー空港1,100ヘクタール、オルリー空港1,600ヘクタール、ニューヨーク国際空港〈現ジョン・F・ケネディ国際空港 〉2,000ヘクタール)と比較しても先進的なものだった[注 10][36][49][50]

「青本」が出されたのと同じ頃から建設地についても本格的な検討が進められ、候補地としては千葉県浦安沖、印旛沼木更津沖、富里村(現富里市)・八街町(現八街市)付近、茨城県霞ヶ浦周辺、谷田部白井などが挙げられた[51][52]

1963年12月11日に航空審議会綾部健太郎運輸大臣に最も有力な3候補地について以下の通り答申し、富里村付近が候補地として最も適当であるとした。

  1. 浦安沖は公衆の利便の点では最も魅力的であるものの、羽田との管制上の関係[注 11]や埋め立てにともなう造成経費[注 12]が難点であり、気象条件についても臨海工業地帯の造成がさらに進んだ場合はスモッグによる障害が懸念される。
  2. 霞ヶ浦周辺(稲敷台地または湖面)は航空自衛隊百里飛行場の影響がある。
  3. 富里村付近は気象条件により滑走路の方向を弾力的に決定でき、地形・都心との距離の両面において霞ヶ浦沖よりも優れている。

なおこのとき、航空審議会は「この際、中途半端な空港を作ることはかえって将来に禍根を残すことになるので、可能な限り能力の大きい空港とすることを基本的態度として考えるべきである」としている[53]。また、航空審議会の答申の中では土地の取得問題について何ら言及はなかった[35]

建設省・党人派との対立編集

それまで候補地の1つとなっていた木更津付近は羽田空港の進入出発経路の要衝となっているため、上記の航空審議会答申では「最も有力な3候補地」から除外されている[53]。木更津案は建設省河野一郎が推進していたものであり、特に河野は羽田空港を廃止してでも東京湾を埋め立てて新空港を建設するべきだと主張して譲らず、これに田中角栄蔵相や赤城宗徳農相も同調するなど答申後も攻防が続いた[注 13][55][56]

これは運輸省・建設省間の縄張り争いであるだけではなく自由民主党内の官僚派党人派との駆け引きでもあり、さらにその背景には浚渫工事や土地売買を巡って暗躍する業者の存在が噂された[56][57][58][59]。管制の面から下総台地こそが理想の立地であると考えながらも、政治力のない運輸省がこうした実力者の動向に気を遣うあまり地域住民の存在が蔑ろにされたとの指摘もある[47][57][60][61]

富里案の一時内定編集

 
富里での空港建設内定を報じる、1965年11月18日付の毎日新聞夕刊

1965年11月18日、佐藤栄作内閣は同年に実施されたボーリング調査の結果から霞ヶ浦は候補地として適当ではなかった[注 14][57]として関係閣僚懇談会で空港建設地を富里に内定し、橋本登美三郎官房長官が記者会見で「関係閣僚協で新空港を富里にすることに内定した。あす閣議決定する」と突如発表した[62]。これについては、埋め立て案を強力に推していた河野の急死と内陸案に難色を示していた友納武人千葉県知事の病気療養による不在を奇貨としたのではないかとの指摘もある[62]

巨大な空港の面積は富里村の半分にも匹敵しており、空港周辺に展開されるであろう開発も考慮すれば、その実現は近代牧畜の発祥の地[注 15]であるとともに末廣農場をはじめとする日本の農場経営のモデルケースとされてきた村がほとんど消滅することを意味していた。

当時は2019年現在と比べ航空機の利用は大衆に浸透しておらず騒音などの外部不経済の負担が大きい空港は単なる迷惑施設であるとしか世間は認識していなかったこともあり、すでに空港建設の候補地となっていた各地では反対運動が繰り広げられていた。富里村および八街町でも1963年には「富里・八街空港反対同盟」が結成されており、政府が迷走している間に革新政党が指導する反対運動が浸透していた。さらに突如として一方的に内定を突きつけられたことで地元農家らは「何が候補地として最適だ。地元の調査も挨拶もないうちに一方的に決められてたまるものか。ここは日本一の農耕地だ。農地はわれわれのいのちだ」と激怒した[注 16][注 17][注 18][注 19][64][68]

その結果、富里・八街の地元住民らはさらに激しい抗議活動を展開するようになっただけではなく[60][69]政府発表まで根回しが全くなされなかった地方公共団体[注 20]からも反発が出て、閣議決定はいったん取りやめとなった。千葉県には「富里に決定したら命をもらう」「ベトコン作戦で徹底的に戦う」などの脅迫まがいの電話や直談判が殺到した[71]

また、1960年代の日本は中央政府・地方自治体・住民の力関係が変化しつつある時期にあたっていたが[注 21]、これまで地元の陳情・請願を受けて飛行場を造ることがほとんどだった運輸省当局は[73]用地取得に関する地元住民との話し合いをどうするかも全く決めておらず、住民対策として「用地買収の条件」「代替地」「転業対策」「騒音対策」の4条件を提示して抗議してきた千葉県側に対しても「新東京国際空港公団法を次の国会に提出し、その公団に各省から人を出してもらって相談してもらう」とした。こうした「地元は政府の決めたことに従えばいい」と言わんばかりの運輸官僚の態度はさらに火に油を注ぐこととなった[68][70][74]。なお、後述する1966年7月4日の閣議決定の前夜、農林事務次官に地元農民への対処について問われた運輸事務次官は「運輸省が飛行場をつくるときには上の方で一方的に決め、農民はそれに従うのが一般的原則である。これまでもこの方式で飛行場を建設してきたのであり、一度も問題になったことはない」と答えたと言われる[75][76]

三里塚・芝山の登場編集

水面下の調整編集

 
富里空港反対派県庁乱入事件と全日空羽田沖墜落事件を報じる紙面(1966年2月7日毎日新聞夕刊)
 
三里塚での空港位置検討図。空港レイアウトは富里空港案のものが使われている。(成田空港 空と大地の歴史館展示)

富里空港反対派のデモ隊が千葉県庁に乱入するなど、翌1966年になっても反対運動は収束する気配を見せなかった。さらに同年の2月から3月にかけて大規模な航空事故が日本国内で相次いで発生(全日空羽田沖墜落事故カナダ太平洋航空402便着陸失敗事故英国海外航空機空中分解事故)。特にうち2件の事故は羽田空港の着陸援助能力の低さとの関連が指摘され、安全な航空施設の早急な整備が強く叫ばれるようになった[60][77][78][79][80][81]

これらを受けて空港建設地問題の決着を急ぐ佐藤栄作首相[注 22]の下で、若狭得治運輸事務次官が友納知事と秘密裏に交渉を行った。これと並行して自民党政務調査会交通部会でも代替案の検討が進められ、川島正次郎自民党副総裁の斡旋などを経て、

  1. 空港の規模を大幅に縮小
  2. 位置を約4キロメートル北東に移動させて国有地である下総御料牧場を建設地に充てる(なお、御料牧場は既に富里案での移転農家向けの代替地として検討されていた)

という修正によって民有地を最小限に抑える三里塚案が浮上、水面下で調整がなされた[1][77][84][85][86]。この三里塚案は羽田空港の存続を前提とした技術的な見地を重視する運輸省と「運輸省はじめ航空関係者は空ばかり見て、地に足がついていない」と批判してきていた「現実政治家」との妥協の産物であるともいえる[57][84][87]

なおこのとき、三里塚地区の貧しい開拓農民が相手であるなら「買い上げ価格を相当思い切ってやりさえすれば、空港建設は可能である[注 23][89]」との思惑から古村を避けてなるべく開拓部落に収まるように空港のレイアウトを決めたと言われる[注 24][注 25]

一方、運輸省では富里案こそが理想の新空港の形であり、三里塚案は「つなぎ」「暫定案」であるとの認識が残っていた。すでに三里塚案での調整が政府と千葉県の間で進められていた1966年6月21日に中村寅太運輸相が「新空港は富里・八街以外にない」と記者会見で述べたうえ、空港建設にあたり設立予定の空港公団総裁に指名された成田努が7月12日に「地元農民の賛成があれば(政府案以上に)拡張したい」との談話を出し、地元からの不信感を招いている[68][84][86]

閣議決定と動揺する地域編集

 
佐藤首相と友納知事の会談を写真付きで報じる1966年6月23日付の毎日新聞
 
富里空港・三里塚空港案、1966年当時の羽田空港規模比較図
 
1966年7月4日閣議の資料。公有地やゴルフ場を最大限利用して対象民有地の面積を抑えようとしていることが窺える。(国立公文書館蔵)

中村運輸相が「富里・八街以外にない」と述べた翌日の6月22日に佐藤首相が三里塚・芝山地区での空港建設案について友納知事と協議し、その内容が報道された[注 26]。3日後の6月25日、友納知事は成田市長の藤倉武男へこの協議内容を正式に伝達している[93]

今回は千葉県のトップとは調整が行われていたものの、地元住民の意見聴取はやはり行われておらず、現地には一言の相談もなく空港が押し付けられる形となった。結果、富里での空港建設を対岸の火事と思い、空港建設による経済的恩恵さえ期待していた三里塚・芝山地区の住民らも寝耳に水の状態で空港建設の内定を報道で知ると「一反歩もあるようなもの(航空機)が降りてくんだぞ。そんなもの降りてきたらどうすんだ」「戦争が起きたら爆弾が落とされる」「騒音で牛の乳が出なくなる」などと恐慌状態に陥り富里と同様に猛反発した[注 27][21][95]

革新政党にとっても三里塚への計画変更は意表を突かれるものであったが、巻き返しを図る日本共産党日本社会党の指示を受けて、富里の反対運動を支援していた両党のオルグ団や反対派の富里住民らが直ちに現地に駆け付け、動揺する住民らに対して「富里と同じように闘えば、かならず空港を追い払うことができます」「俺らが勝ったんだから、あんたらも勝てる」と謳った[注 28][68][98][2]

切迫する航空需要を受けて開港を急ぐ佐藤内閣は、空港計画そのものへの交渉行為に応じぬまま、2週間後の7月4日に「新東京国際空港の位置および規模について」[注 29]を閣議決定した。この時の決定内容は2017年までの成田国際空港の基本計画となっている[注 30]。ただし、2018年3月13日に四者協議会(後述)が最終合意した機能強化案はこの範疇に含まれない[101]

新しい空港計画は運輸省が「21世紀にも耐えうる」と自画自賛した富里案の規模に比べ大幅に縮小されてはいたが[87]、それでも空港建設用地は成田市・芝山町・大栄町多古町に跨る1065ヘクタールもの広大なものであり、御料牧場等の面積は空港予定地の4割(国有地は243ヘクタール、公有地は152ヘクタール)に満たず、ここでも民有地(670ヘクタール、325戸)の取得が課題となり、用地交渉の対象者は千数百人に上った[51]

しかし、このとき日本政府は空港建設をまだ楽観視しており、あくまで「5年間で完成させるプロジェクトチーム」として各方面からの寄せ集めの人員で新東京国際空港公団を立ち上げている[注 31][87][103]。後に一律に定められた補償額等の制約や激しい反対の中で、空港公団職員らは必死の用地買収交渉を行うこととなるが、省庁から出向してきた職員らの中には横柄な態度で地権者に接して不評を買った者もおり、「民間業者に任せれば(用地取得は)もっと早かったと思う」と振り返る空港公団OBもいる[注 32][注 33][107]

1966年12月12日に運輸省が空港公団に指示した基本計画では、1971年春に滑走路1本と西側半分の施設(一期地区)で開港することとし(工事を1970年度中完成)、残りの施設(二期地区)の完成目標は1973年度末とされた[108]

開港までの紛争の経過編集

初期の三里塚闘争編集

反対同盟の結成編集

 
反対同盟少年行動隊が用いていた旗(成田空港 空と大地の歴史館展示)

1966年6月25日、成田市立三里塚小学校で「新空港説明会」が開催され、藤倉市長が住民らに新空港建設への協力を要請した[4][93]。しかし、空港建設用地と騒音地域の大部分を占める成田市および芝山町はほぼ空港建設反対一色となった。反対する地元住民らは富里村と同様に政府と対決することを決意し、富里の反対運動組織や現地に団結小屋を建てて常駐した革新政党オルグらの指導を受けながら各地区で反対運動団体を組織した[1][2][3][4]。「三里塚空港反対同盟」が結成されたのは「新空港説明会」から僅か3日後の1966年6月28日のことである[93]

当時、戦後開拓で入植した農民らにとっては、住宅資金や営農資金の返済が終わって農業がようやく軌道に乗り始めており[注 34]、これまでの労苦の成果が実りつつある時期に当たっていた。また食糧不足の東京に農作物を供給し復興を影で支えていたという自負もあり[109][110]、自分たちを標的とした三里塚案に大いに自尊心を傷つけられた[111]。兵役・開拓・空港と国に翻弄されてきた農民からは「三度目の赤紙だ」との声も上がった[30]。したがって、彼らは降って湧いた空港建設計画をこれまでの努力を否定するものと捉え、政府側の期待に反して強く反発した[注 35][注 36]

他にも、古村を開発や騒音から守ろうとする芝山地区等の住民や、皇室ゆかりの御料牧場に強い思い入れを持つ戦前派ら、行政が推進していた東山地区営農改善計画(シルクコンビナート計画)に応じて養蚕用のの栽培を始めたばかりにも関わらず計画を反故にされ憤る農家等、さまざまな背景を持つ者が反対運動に合流した[31][115][116][117]

1966年7月から8月にかけて「三里塚空港反対同盟」および「芝山空港反対同盟」が合同し、「三里塚芝山連合空港反対同盟」(以下、反対同盟。)が結成された[注 37]

初期段階での反対同盟は、農民を中心に用地外も含め約1200戸・約1500人で構成された。各部落には独立性が認められていたが、反対同盟の下部組織として少年行動隊・青年行動隊・婦人行動隊・老人行動隊が組織されたことにより各世代間での横でのつながりが生まれ、反対派の世帯は一家総出で反対運動に臨んだ[119]

条件賛成派の動き、住民間の対立編集

閣議決定に前後して、反対派住民の転向を危惧した反対同盟の妨害などを受けながらも、県・運輸省・新たに設立された新東京国際空港公団(以下、空港公団)等により、空港の意義や移転補償内容について住民説明が行われた[120][121]

このとき県の「国際空港相談所」所長は、買い取りに応じない地権者への強制収用土地収用法による行政代執行)の実施を匂わせつつも、

  • 100万円(相場の4倍から5倍程度であり、当時の国家公務員初任給は2万円程度[122]。)を基準として用地は高額で買い取り、現金で支払う
  • 買取額を代替地購入に充当すれば耕地面積を1.5倍に増やせるように調整する
  • 離農する地権者には廃止補償を出す
  • 家屋建て替えの費用は新築見合いで算出する
  • 騒音地域内の農耕地に対しては、国費で畑地灌漑施設を整備する(成田用水

等と説明をしており[123]、「買い上げ価格を相当思い切ってやる」とする政府側の意向が反映された補償方針が示された[注 38]

また、閣議決定(「新東京国際空港位置決定に伴う施策について」[注 39])においても土地等の補償・代替地の確保・騒音対策・職業転換対策・インフラ整備等を県当局の要望に沿って行うことが掲げられていた。県の要望によって閣議決定の内容に地元との交渉条件が含まれるのは極めて異例な措置であった[51][126]

これを受けて、閣議決定後の数か月で地権者の8割が「国策であるから絶対反対でなく、条件を出して話し合おう[127]」とする条件賛成派に転向し[21][68][111][128]、成田市議会[注 40]および芝山町議会[注 41]もその年のうちに当初可決した反対決議を白紙撤回した[130]。古村では部落の有力者の影響が強い傾向があり、特に成田側の駒井野取香では有力者が条件賛成派に転じると部落全体も宗旨替えをした[20][31]

1968年4月6日には中曽根康弘運輸大臣および友納知事立ち会いのもと、空港公団と条件賛成派4団体との間で「用地売り渡しに関する覚書」が取り交わされ、空港公団は空港用地民有地の89%(597ヘクタール)を確保した[21][131]

事前に行われていた条件賛成派団体との交渉を経て、覚書では反当たりの買取価格が当初の説明よりもさらに上昇しており、畑:140万円、田:153万円、宅地:200万円、山林原野115万円となった[131][132]。また、畑の代替地基準価格は90万円とされ、当初の説明内容に沿う形で代替地の耕作地の価格は買取額の2/3程度に抑えられたほか(他の地目でも同じ比率)、空港公団が用地提供者に対し転職・就職のあっせんを行い、希望者には空港内での営業権を与えることや、代替地を早急に造成し速やかに引き渡す努力をすること等が約された[133][134]

代替地は引き続き専業農家となることを希望する者には優先的に配分されたものの、兼業農家となることを希望する者も多く、希望者に対して必要な代替地自体が十分に確保できなかったために移転先の耕地面積が移転前よりも却って減少するなど、問題がないわけではなかった[133][135][136]。とはいえ、相場以上の土地の買い取り価格をはじめとした補償が提示された結果、9割の地主が一定の理解を示し移転に応じる形となった[5]

用地買収に応じた者の心情として、小川プロダクションの取材で条件賛成派となった農民らが、

  • 共産党や社会党に援農などで恩を着せられると反対運動から抜けるに抜けられなくなるが、このままいったら国や県の援助を得られず代替地もいいところをとられてしまう
  • 圧力を覚悟で声を上げたところ、実は条件賛成派になりたかったが近所手前のことで声を上げられなかったとする者が半数以上いた
  • 既に空港公団との売買に応じていても、反対運動がすごく、下手な口をきいたら殺されてしまうのでみんなに話せなかった
  • 来客があっても自分の塩梅を見に来たと思い、腹の底からじっくり安心して話ができなかった
  • (疑心暗鬼で)ずいぶん辛い思いをした。この精神補償ももらいたいくらいだ
  • 自分は空港反対だが部落がそうなった以上は条件賛成派に入らなければ生活が成り立たない
  • 物価の上昇等も考えると条件賛成派になったのはうまくなかったな(売却を先延ばした方が土地を高く売れた)、という感じはあるものの、自分の身の振り方を考えた時には空港が来てよかったと思っている

等とそれぞれの思いを語っている。なお、この取材記録は同プロダクションの映画作品には使われていない[123]

また、古村を中心とする地権者らが結成した条件賛成派団体である成田空港対策地権者会の会長は、「先祖伝来の貴重な土地を国家要請で売り渡さなければならない農民の気持ちは複雑だった。売った以上は立派な国際空港を一刻も早く作ってほしいと思った」と語っている[137]

移転を機に専業農家を辞めた元地権者らの多くは、空港公団の斡旋を受けるなどして警備業や店舗経営等の空港関連の業種に転職し、取得した代替地にも空港完成後の地価の値上がりが期待された。彼らにとっては新たな生活を営む上で新空港の早期開港が切実なものとなったが、闘争の長期化に伴う開港延期や開港後の空港拡張の停滞によって、さまざまな問題を抱え込むことになる[注 42][21][133][135][138]。また、元地権者の中には空港公団職員や測量や代執行を行う空港公団のガードマンとなった者もおり、反対派として闘争を継続する親族や元隣人と対峙する事態も発生した[注 43][13][21][140][141]

条件賛成派に対する反対派の怨嗟は少なからずあり、上述の地権者会会長は反対派から連日嫌がらせを受けていたほか[142]、支援学生が提案してきた条件賛成派との再共闘が反対派の会議で一蹴されたり、闘争で荒んだ反対派農家が条件賛成派農家の農作物を荒らすことなども起きた[143]。反対同盟の資料では「佐藤内閣のお先棒かつぎ」「警察の犬」等の言葉を用いて条件賛成派が批判されている[144]。闘争初期において反対派が多かった古村で条件賛成派農家への村八分が行われ、その農家が人権擁護局に訴えたこともあった[注 44][147][148]

もともとこの周辺の地域では「香取巡査、山武巡査」と呼ばれるほど警察官となる者が多く、子息が警察官に採用されることは誇られることであった。しかし、成田空港問題は状況を一変させ、反対派の憎悪はこれらの者にも向かった。当初は出身地を考慮せずに成田警備に出動させられたため、勤務中には身内に聞くに堪えない罵声を浴びせられ、私生活においても親の葬儀では誰も手伝いに現れない「村十分」の扱いを受けただけでなく「サツの犬が来た!」と竹槍で追い回され、多くの「山武巡査」がノイローゼに陥ったという[13]

測量クイ打ち阻止闘争と革新政党の離反編集

 
立木トラストの明認札(成田空港 空と大地の歴史館展示)。社会党の佐々木更三成田知巳、三里塚平和塔の建立にかかわった佐藤行通の名前が見える。
 
反対同盟が用いていた連絡用のドラム缶成田空港 空と大地の歴史館展示)。叩く音で同盟員を招集していた。

残りの民有地を有する、政府側の硬軟織り交ぜた働きかけを受けても反対同盟に留まった者達の決意は固く、更なる反対運動が続けられた[149]

反対派は百里飛行場への反対運動等を参考に、用地を細分化して空港用地買収交渉を困難にする目的で、革新政党主導の下で土地一坪を地権者や支援者が相互に売買して登記する「一坪運動」や立木一本一本を売買して表札を掲げる「立木トラスト」を展開した[150]。一坪運動は1966年8月29日から始まり、用地内で33か所の2.1ヘクタールが共有地に充てられ、所有者は1300人余りに及んだ。これらの登記には日本社会党議員も名を連ねている[151][152][153][154]

当初より空港反対運動の組織・指導にかかわっていた革新政党であるが、反対同盟が1967年8月16日に「あらゆる民主勢力との共闘」として敵対する新左翼党派(反代々木派)の受け入れを表明したことで、共産党との関係に亀裂が生じ始めた[150]

8月21日に、友納知事が土地収用法に基づく空港公団による土地の立入調査が行われる旨を通知した。この間に反対同盟は陳情デモ署名運動解職請求などのさまざまな抗議運動を行うが芳しい成果は上がらなかった[155]。このころの反対派住民の中には自民党支持者も多く、自民党議員への陳情も行われたが、陳情後もそれらの議員が空港賛成の言動を継続したため、失望が広がった[2][115]

10月10日の早朝に、外郭測量用のクイを打つため、空港公団職員らが警視庁千葉県警察神奈川県警察機動隊約1500人に守られながら空港建設予定地に現れる。これに対し反対派は進路上での座り込み等による阻止を試みたが、道路交通法違反等として警告を受けた後に機動隊に物理的に排除されてしまう(測量クイ打ち阻止闘争)[156][157][158]。このとき、同盟員の先頭に立っていた共産党と民青の部隊は早々に座り込みをやめて隊列を離れ、労働歌がんばろう」を歌いながら、機動隊と反対派住民らの衝突を傍観した[注 45][160][161]

同盟員は「政府の横暴」と「共産党の裏切り」に驚愕し、憤った。対して共産党は、同年11月14日に大橋武夫運輸大臣および空港公団総裁が反対同盟代表の戸村一作らと座談会を開いたことについて、「同盟の大方針に反するばかりでなく、同盟を一部の人々でひきまわす非民主的なやり方」と糾弾したうえ、その後も反対同盟幹部の寝返りの噂を流して主導権の取り戻しを図ったことで、反対同盟との対立は決定的となった[注 46][150][160][163]

一方、この日は1本でもクイを打ち込めれば成功と考えていた空港公団は3本とも打ち込めた予想外の成果に「空港建設への突破口が開けた」と今後を楽観視し、佐藤首相も「三里塚空港の実測も、羽田事件が我が方有利に働き、第一次を無事に終了」と日記に綴っている[164][165]。しかしながら、それは長期に亘る苛烈な実力闘争の幕開けであった。政府の対応に激怒した反対同盟は、暴力を厭わない実力闘争に舵を切る決意を固めると同時に、12月15日に共産党の支援と介入を排除する声明を発表した[160]。反対同盟の共産党に対する拒絶は、共産党を支持したり共産党員の家族がいる世帯に対する村八分が古村で行われるほど徹底していた[166]

社会党はその後もしばらく支援を続けていたが、闘争開始から3年程度で反対運動の隊列から消えていき、一坪共有運動に参加していた者も反対同盟に通告もしないまま土地を空港公団に売却した[注 47][168][169]

革新政党は反対運動を利用して党勢の拡大を図ったため、反対派住民らに不信感を持たれたとも分析されている[注 48][注 49][172]

新左翼党派の介入編集

 
新左翼党派や反対同盟員が用いたヘルメット等装備(成田空港 空と大地の歴史館展示)
 
皇室を信奉する老人行動隊長が着用していた毛沢東バッジ(成田空港 空と大地の歴史館展示)

折しも反対同盟が機動隊の威力を目の当たりにした1967年は、70年安保と連なる日本の学生運動が勃興しつつある時期と重なっていた。

革新政党の党利党略に絶望しつつも国家権力への対抗を模索する反対同盟は、測量クイ打ち阻止闘争と同時期に発生した羽田事件で機動隊と渡り合った学生ら(新左翼党派)に期待し、「支援団体は党派を問わず受け入れる」という姿勢を取った[注 50][5][161][173]。一方、反国家権力闘争を掲げる新左翼各派にとっても、三里塚闘争はベトナム戦争反戦運動[注 51]や佐藤内閣への反発の象徴的な対象として映り、双方の思惑が一致した[150][175][176]

翌1968年2月26日および3月10日には、成田市内で空港公団分室への突入を図った学生集団と機動隊との間で激しい衝突があり(成田デモ事件)、それまで新左翼に懐疑的であったり暴力行使を懸念していた反対派住民らは、抗争力を発揮した学生らを自宅に招いて歓待した。このことや反対同盟代表の戸村一作が2月26日の衝突で機動隊に殴打されて負傷したことを切っ掛けに、反対同盟は武装闘争路線の新左翼である中核派共産同社青同解放派が主導する三派全学連の全面的な支援を受けることになった[158]。現地では「全学連の健闘をたたえる」との横断幕が各所で張られ、「学生さんだけをなぐらせては……」「ワシがまず血祭りにあがる」と血気にはやる反対派住民らの熱狂ぶりは「おばさんや青年老人たちの間では、農民の為に血を流してくれた闘う中核(派)が大もて」等と報じられた[150][163]

ただし、新左翼党派の中でも階級闘争至上主義の革マル派は三里塚闘争を「小ブルジョア農民の自己保身」と揶揄したほか、内ゲバや地元の食堂での無銭飲食など素行の悪さが目立ったため[177]、1970年1月に反対同盟の幹部会で「現地闘争に主体的に参加せず、他派に対する誹謗のみを目的とした」として、運動から追放された[178]。その後、革マル派は三里塚闘争への妨害活動を続けている[177]

反対同盟は新左翼各派の支援を受けつつ、座り込み・空港公団職員から強奪した調査用具の損壊・投石バリケード構築・空港関係者への嫌がらせなど[注 52][注 53]、さまざまな手段を用いて、空港公団や警察の機動隊を相手に実力で対抗した[121][181]

開港までの闘争では戸村代表の指導の下、共通の敵である政府に打撃を与えるため、現地に乗り込んだ新左翼各派の活動家らと古村・開拓部落の反対派住民[注 54][注 55]らとが互いに協力又は利用し合いながら呉越同舟の形で活動を行っていった[5]

反対同盟は上記のとおりさまざまな新左翼党派を受け入れたことで武闘派の支援者を大動員して政府勢力と対抗することには成功した。しかしそれは後に、新左翼党派間の反目や、新左翼党派との関係性のあり方についての地元住民間の意見の相違を産み、反対同盟の分裂・闘争の泥沼化に繋がっていくこととなる[185][186]

闘争の激化、開港編集

 
闘争で用いられた火炎瓶

一期地区の収用編集

空港公団は移転補償費を算出するため、同意した条件賛成派の不動産に対して「百日調査」と呼ばれる調査を1968年4月20日から7月19日にかけて実施したが、これに新左翼党派だけでなく農民が空港公団職員や機動隊に対して角材をふるったりスクラムを組むなどして抵抗した。このときデモや乱闘で条件賛成派の家屋や畑が破壊されている[121][187]

また、1969年8月18日には御料牧場の閉場式が挙行されたが、反対同盟が乱入して抗議行動を起こしたうえ[注 56]、青年行動隊が会場を破壊し、青年行動隊隊長が全国指名手配されている[189][190]

警察側でも、これらの動きに対して同年11月12日に反対同盟が工事用道路に座り込んでブルドーザーを阻止した際に戸村代表以下13名を逮捕するなど、断固とした措置をとるようになった[191][192]

これらの苛烈な闘争を前に、円満な用地取得は到底不可能と考えられ、空港公団は国家権力を用いた強制収用により残りの土地を入手しようとした[149]。1970年には、収用委員会への強制収用申請に必要な土地調書および物件調書を作成するために、空港公団が土地収用法第35条に基づく未買収地への立入調査を実施した[193]。反対派はこれに対して屎尿クロルピクリンの投擲・投石・竹槍等で対抗した。当初機動隊は測量を行う空港公団職員の背後に控えていたが、空港公団職員が青年行動隊に竹槍で大怪我[注 57]を負わされると前面に出てくるようになった[注 58][27][197]

更に反対派は、強制収用を困難なものにするため、空港公団に買収された土地での不法耕作や条件賛成派の畑からの窃盗で得た農作物を売って得た資金と旧御料牧場から盗み出した材木等を使い、強固な団結小屋である「砦」や地下要塞の構築にも乗り出した[198][199]

こうした反対闘争が高まる中、政府は一貫した非妥協の姿勢で建設計画を遂行し、「二、三日のうちに景観が一変してしまうほど[200]」の急ピッチで工事が推し進められ、未買収地への収用手続きも並行して行われた。1971年2月22日から3月6日にかけて、取得が困難な団結小屋や一坪共有地などを対象に第一次行政代執行が実施され、反対同盟・支援党派と作業員・機動隊が衝突した。その後、反対派が立てこもる地下壕や「農民放送塔」が撤去された[27][201]。なお、この年の8月には青年行動隊等によって日本幻野祭が開催され、多くの若者が現地を訪れている[202]

同年9月16日から再び建設予定地で第二次行政代執行がなされた。9月20日、この日は代執行をしないとの友納知事による9月19日の発表に反して、突如警察の機動隊と作業員らが現れ、庭で脱穀をしていた小泉(大木)よねを排除して住居を撤去した。空港建設での行政代執行としては最初で最後となる民家への実施をもって、第二次行政代執行が終結した。この出来事は、権力の強制力によって生活の基盤を奪われることが現実のものになったとして、その後の反対闘争のシンボルとなる[201]

第二次行政代執行中に警備にあたっていた臨時編成の機動隊の3名が死亡(東峰十字路事件)した他、これらの激しい闘争では双方が多数の負傷者を出しており、同年10月1日には、青年行動隊の中心メンバーであった三ノ宮文男が「空港をこの地にもってきたものをにくむ。」「私は、もうこれ以上、たたかっていく気力を失いました。」などと記した遺書を残して自殺し、反対同盟内に衝撃が走った[201][203]

膠着期編集

 
岩山鉄塔の鉄塔跡

1972年3月15日、反対同盟はA滑走路南端、アプローチエリア内の岩山地区に高さ60.6メートル鉄塔(通称:岩山大鉄塔)を鳶職の協力のもと建設し、飛行検査を中止に追い込んだ。更に千葉港から航空燃料を空港に輸送するためのパイプライン建設が経由地での反対運動や技術的問題によって停滞し、代替としての鉄道輸送(暫定輸送)も自治体との調整が難航した。そのため、滑走路等施設の建設は進められたものの、開港自体は先延ばしが続いた[204]

反対同盟側も代執行阻止闘争での大量逮捕により打撃を受けており、反対同盟結成時に320戸あった用地内反対派農家は代執行前後には45戸、1976年には23戸にまで減少していた[204]

一方、この期間に戸村代表の第10回参議院議員通常選挙出馬や有機農業(ワンパック運動)の導入などの取り組みがあった[204]

妨害の中での開港編集

 
一期地区のみでの運用が続く成田空港(1989年)

1977年1月11日、「さあ働こう内閣だ」と自称した福田赳夫内閣閣議で年内開港を宣言し、1月17日には関係閣僚協議会が開かれて閣僚からは積極的発言が相次ぎ、福田首相も「年内開港を目指す。『有言実行』を唱える福田内閣が言った以上は実現しなければならない」と改めて決意を述べて大号令を発した[205]

同年1月19日には、航空機の飛行を敢然と拒む岩山大鉄塔を撤去するため、重機を運び込む道路の延長工事が始まるなど当局は早速空港建設に向けて動き出した。これに対して反対派も4月17日に闘争史上最大となる1万7500人[注 59]を結集して「空港粉砕,鉄塔決戦勝利,仮処分粉砕全国総決起集会」を三里塚第一公園で開催した[207]

同年5月2日、空港公団は航空法第49条1項違反として、鉄塔撤去の仮処分申請を千葉地方裁判所に提出。5月4日千葉地裁は書面審理のみで仮処分を決定。5月6日午前3時ごろ、2,100人の機動隊が鉄塔周辺を制圧した。4時過ぎ現場に到着した北原鉱治事務局長に、千葉地裁執行官が鉄塔の検証終了と鉄塔の撤去を通告、反対派を周辺から排除し午前11時過ぎ鉄塔の撤去を完了。航空法違反部分だけでなく、鉄塔を根元から切断撤去した[208][209]

この日の午前5時ごろから反対派と機動隊の衝突が続き、5月8日には大規模な衝突が発生。「臨時野戦病院」前でスクラムを組んでいた支援者A(27歳)が頭部にガス弾の直撃を受けて意識不明の重体となり、2日後の5月10日死亡。Aの両親は「機動隊の催涙ガス弾が原因」として、政府と千葉県に約9,400万円の損害賠償を求めて提訴した(東山事件[210]

5月9日には、これに対する報復と見られる襲撃により、警察官1名が死亡した(芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件[210]

上記のような過程を経て一期地区工事は推し進められ、滑走路1本の片肺ではあるものの新東京国際空港は翌1978年3月30日に漸く開港することとなった。しかし、政府の威信を賭けた開港を目前に控えた3月26日に、第四インターナショナル(略称:第四インター)、プロレタリア青年同盟戦旗・共産主義者同盟等が空港を襲撃した。前日から地下に潜伏していた別働隊がこれに呼応して空港敷地内のマンホールから飛び出して、対応に追われる警備陣の隙をついて空港管理ビルに突入、更にビル内の管制塔を占拠して各種設備を破壊した(成田空港管制塔占拠事件)。このため開港は延期を余儀なくされ、政府は更なる警備強化を実施するとともに、いわゆる成田新法を制定するなどして秩序の回復を図った[209]

この開港遅れの期間中であった5月5日に、納車されたまま定期運用が無い状態だった京成電鉄スカイライナー用車両放火される事件が起きた(京成スカイライナー放火事件)。さらに5月19日にも京成本線で同時多発列車妨害事件、運輸省航空局専用ケーブルの切断事件を起こすなど、新左翼党派らによる闘争は先鋭化していった[211]

管制塔襲撃から2ヶ月後の5月20日、関連施設への襲撃、運航への妨害(妨害用の気球の浮揚・古タイヤの燃焼)、警察部隊との激しい衝突が行われる中で、新東京国際空港は漸く開港を果たした。このときの関係者の思いは、福永健司運輸大臣が式典で述べた「難産の子は健やかに育つ」との言葉に凝縮されている。この時点で未成の二期地区内には反対派農家17戸が残され、うち15戸が反対同盟で占められた。開港に前後して過激派によるゲリラ事件も頻発したが(18日から21日までの間に、反対派が空港周辺で使用した火炎瓶は約1,700本、押収された火炎瓶は約3,160本にのぼった)、翌21日に一番機が反対派が燃やす古タイヤの煙を掻い潜って空港に着陸すると、関係者からは拍手と歓声が沸き上がった[212][213][214][215]

開港後の動き編集

 
成田空港の検問所(2012年)。検問は2015年3月に廃止された。
 
成田を拠点にしたノースウエスト航空の747-200
 
混雑する成田空港

日本の表玄関となった成田編集

開港時点においてもなお反対運動が活発であったことから、来港者全員に対する検問が実施され[注 60]、当時としては世界でも稀にみる警備体制が敷かれる空港としてスタートした新東京国際空港であったが、開港翌年の1979年には日本人出国者数が前年比14.6%増の403万8298人を記録し、初めて400万人を超える等、最新設備を具備した大型空港が開港したことで日本の国際化は大きく進展した[217]。開港から10年目の節目である1988年度には成田の国際線日本人旅客数が1000万人の大台を突破している[218]

2002年に至るまで滑走路一本のみで運用されたとは言え、空港には世界各地から2階建ての超大型機ボーイング747が飛来し、限られた発着枠の配分を待つ乗り入れ希望の航空会社が引きも切らない状態が続いた[219][220][221]。本邦社のみならずノースウエスト航空等の以遠権を行使するアメリカの航空会社が太平洋路線とアジア路線の結節点として成田をハブ空港にしたことから、成田は国際線の拠点として長らくアジアの中でも中心的な役割を果たしていった[74]

周辺地域には空港関連事業で働く多くの労働者とその家族が流入し、地元住民やその親族の多くも経済的に空港へ依存するようになったことや、自治体もその財政を空港によって得られる税収や交付金に頼るようになったため、反対運動に対する世間の関心が薄れていく中、反対派は地域においても「空港との共生・共栄」の声に押されて次第に孤立していくこととなる[注 61][注 62][注 63][注 64][214][226][227]

反対同盟の分裂と過激化する新左翼編集

「開港絶対阻止」をスローガンに活動を進めてきた反対運動は、空港開港により当初のスローガンを「空港廃港・二期工事阻止」に転換せざるをえなくなった。反対運動の中心人物であり精神的支柱でもあった戸村代表の病死とともに空港の存在が既成事実化するにつれ、条件闘争への転向者や反対同盟から離脱者が続出した。初期の反対運動を牽引していた地元農民らは次第に実力闘争から離れていき、反対同盟の支援者であったはずの新左翼党派が運動を掌握するようになり、ときには学生らに反対同盟員が糾弾され暴力を振るわれることも起きるようになった[109][226][228]

反対同盟幹部らは事態を危惧し、過激派等の攻撃から運営中の空港を守りながら強制収用を実施することは不可能と考える警備当局や空港公団関係者らからも二期地区の整備を絶望視する声があったことから、開港と前後して反対派と政府側との間で水面下での交渉が模索された。中には覚書の締結にまで漕ぎつけたものもあったが、情報漏洩により不成功に終わった[109][229]。政府との交渉が新聞に暴露されると、話し合いを行っていた反対同盟幹部の家には連日新左翼の街宣車が押し掛けて早朝から日没まで大音量で”謀略”を罵り、交渉の是非や幹部の処遇を巡って紛糾した反対同盟は大混乱に陥った[229][230]

そのような中で、二期地区内の未買収地での一坪運動をさらに進める「一坪再共有化運動」を巡る反対派住民同士の対立に加えて、支援党派の主導権争いが目立つようになり、反対同盟は1983年3月8日に北原鉱治事務局長を中心とする「北原派」と熱田一行動隊長を代表とする「熱田派」とに分裂した。北原派は一坪再共有化運動に反対の立場であり、空港用地内の農家が多く、中核派革労協共産同戦旗派等が支援した。熱田派は一坪再共有化運動推進の立場であり、空港用地外の農家が多く、第四インター戦旗・共産同プロ青同等が支援した[109][226][228][231][232]。北原派も熱田派も空港建設の見返り事業である成田用水を認めないこととしたため、用水受け入れを訴えていた用地外にある古村の農民の多くが「用水派」として反対同盟から離脱し、条件交渉に移った[228][232]。1983年時点では、北原派が約30戸、熱田派が約70戸、用水派が約100戸であった[228]。1987年9月4日には、北原派から支援党派の介入に反発する「小川派」が分離する[233]

一方で、開港後においても10.20成田現地闘争を始めとする新左翼活動家らによる暴動・破壊行為だけでなく、東鉄工業作業員宿舎放火殺人事件千葉県収用委員会会長襲撃事件のような関係者を標的とした左翼テロ[注 65]が横行し、更には反対運動を断念して空港公団に土地を売却し移転した農家への放火等嫌がらせや新左翼党派間での内ゲバも発生した[注 66][231][236][237]。成田が開港した1978年から2017年までに発生した成田関連のゲリラ事件は511件にも上り、この期間に全国で発生したゲリラ事件(919件)の半分以上を占める[238]

和解と現状編集

 
処理能力が限られた成田は、一度に多くを運べるボーイング747が機材割合の過半数を占める、世界でも稀な空港であった[239]

平成の到来と冷戦終結とともに、B滑走路を含む二期工事を進めたい政府と反対運動の風化を懸念した反対同盟熱田派のメンバーの間で話し合いの機運が生まれ、合意形成の場として成田空港問題シンポジウムおよび成田空港問題円卓会議が開催された。この中で「ボタンのかけ違い」と称して政府側と反対派のすれ違いがこれまで連続してきた経緯について議論がなされ、運輸省からは「空港の位置を決める前に、地元のコンセンサスづくりを十分にやらなかったのは私どもの努力不足であり、深く反省している」「空港づくりを急いだ結果、地域社会に混乱と深い傷を生じさせてしまった」、空港公団からは「地域のコンセンサスづくりについて二十数年前にもっとやるべきことがあった」とそれぞれ謝罪の言葉が述べられた[240][241][242][243][244]

それらを契機として、1995年平成7年)に当時の内閣総理大臣村山富市が行った反対同盟に対する謝罪をはじめ、政府・官僚・空港公団が過去の過ちを認めたことや、空港東側の住民への補償として芝山鉄道線の建設が約束されたこと[245]により、木の根地区の地権者らが、集団移転に応じることとなった[227]

空港公団の民営化に伴い成田国際空港に空港名を改められた現在においても、当初B滑走路建設の予定地とされていた東峰地区[注 67]の農家や一坪地主などの用地買収に応じていない地権者が若干名残っている状況である。空港公団の後身である成田国際空港株式会社(以下、空港会社)によると、2016年8月末の空港用地内の未買収地は、敷地内居住者2件1.7ヘクタール、敷地外居住者4件0.6ヘクタール、一般共有地3件0.5ヘクタール、一坪共有地2件0.1ヘクタールで、合計2.9ヘクタールとなっている[246]

現在の成田では、国・県・空港周辺市町・空港会社で構成される四者協議会や、空港対策協議会・騒音対策協議会・自治体連絡協議会など、話し合いと問題解決の仕組みが設けられているとされる[231]。また、2011年6月23日に三里塚闘争を後世に伝えるための施設として空港会社が「成田空港 空と大地の歴史館」を開館している[247]。対して、もはやごく僅かとなった反対同盟を他の地域に居住しながら未だ支援し、地域を犠牲にしてでも政治闘争や反権力闘争を続けようとする新左翼党派については、元反対派の地元住民らからも批判の声が上がっている[248]

世界有数の市場である首都圏を後背地に持つ成田空港は、処理能力のハンデを負いながらも、かつて世界屈指の国際旅客取扱量と世界一の国際貨物取扱量を誇る一大国際航空拠点であった[74][249][250][251]。しかし、超大型空港の整備が各国で進められ、特に韓国が国家を挙げて日本の航空市場への攻勢をかける中で、富里での抵抗により規模を大幅に減じられた上に根強い反対運動により三里塚案での基本計画の完遂すらままならなかった成田空港の国際的な地位は相対的に低下していった[6][7][8]。羽田空港の再国際化を経た2019年現在においても成田はなお日本国内において第1位の国際空港であり、またLCCの定着と増大する訪日外国人旅行の後押しもあってその取扱量は増加傾向を維持しているものの[252]、2016年には成田空港の国際線旅客取扱量は第18位にまで世界順位を下げている[253]

三里塚闘争の公共政策への影響編集

成田空港建設における日本国政府の失策と、それにより発生した三里塚闘争があまりにも悲惨な結果をもたらしたため、公共事業等を巡って紛争が起きている現場では、「合意形成の努力をしないまま力に頼って事業を進めれば力による抵抗を生む」「左翼の介入を許すと泥沼になる」という2つの自戒を込めて、『成田のようにならないようにしよう』が合言葉になった[254]

内陸に空港を建設したため、用地取得や騒音の問題が顕著に発生した成田で三里塚闘争による甚大な損失を招いた教訓から、以降日本国内の空港はそれらのハードルが低い海上や遠隔地で建設されることが多くなった。そのことは日本の空港利便性低下やコストの増大をもたらしている[注 68][注 69][257][258]。また、土地収用や代執行も慎重に実施されるようになり、日本の公共事業全般に少なからぬ影響を与えた[9][231][259]

上述の「成田空港 空と大地の歴史館」は、国家公務員総合職初任者や成田空港会社の新入社員の研修に組み込まれ、『第2の成田』を作らないために、教訓を生かす取り組みに用いられている[231][260]

一方、開発に反対する住民側においても実力闘争から住民投票などに闘い方を変える転機になったともいわれ[259]、特に長期に亘る闘争を経て行われた成田空港問題シンポジウム・成田空港問題円卓会議は、それ以降の公共事業実施の際のモデルケースとされ、長良川河口堰の問題でも円卓会議方式が採用されたほか、八ッ場ダムの反対運動をしていた住民がシンポジウムを勉強しに訪れるなど、日本の全国各地で行われていた住民運動の参考事例とされた[261]

日本国外でも、管制塔占拠事件等は大きく報じられ、闘争の様子は映画や音楽等の作品でテーマとして用いられたほか、公共事業の失敗事例として大きな注目を浴びた。例えば西ドイツでは、成田と同時期に計画があったミュンヘンでの空港建設にあたって成田空港問題について徹底した研究分析が重ねられた。1969年に空港建設を決定していたバイエルン州政府は、20年の紆余曲折を経ながらも259回に及ぶ公聴会を開催するなど反対派を十分に説得した。その結果新しい空港は、空港周辺の環境との両立を図るため計画の一部縮小を経ながらも、着工から5年後の1992年5月にフランツ・ヨーゼフ・シュトラウス空港として供用を開始し、今日では欧州の空港の一角をなしている[10][11][12]

資料画像編集

脚注編集

[ヘルプ]

注釈編集

  1. ^ 後に代執行で住居を収用されたことで知られる小泉よねは、取香地区の住民であるものの夫とともに移り住んできた開拓者であり、古村の住民として扱われていなかった[18][19]
  2. ^ 開拓地のほとんどは耕作向きの土地ではなかったが、特に困難だったのが地下茎が張り巡らされていた竹林が分配された東峰地区だった[24][25]
  3. ^ 下総台地の分水嶺にあたる高所にある天浪や木の根では水を確保するのにも大変な労力を要し、風呂の水の交換もままならなかった[26]
  4. ^ 「早稲田大学成田闘争支援の会」の機関紙『ヴィ・ナロード』には、「木を切り倒し、竹を切り出して柱を立てた上に屋根を作ったような家に住みました。もちろん、雨が降ればもり、風が吹けば吹き抜けます。冬の寒い夜は一晩中、火を焚いて過ごしたこともありますし、また(土地争いで)放火されて、米や家を全部焼かれて、一年まるまる遅れたような生活をして、やっとここまできたのです。...当時の様子を話しても、おそらくあなた方にはよくわかってもらえないと思います。毎日がただ働くだけでした。次の年までどうやって種を残すかで精一杯でした。初めて自分たちの植えた作物が実ったときは、もう、ほんとに涙が出たものです。こうして生きてきた私たちが、結局頼りにできるのは自分以外ない、と思ったのも当然と思います」との天浪入植者の声が載せられている。闘争初期に外部から支援に入った者の多くは、このような開拓者の苦労話を聴いて「あれだけ苦労してきたのだから(土地を)手放すはずがない」と解釈して闘争の永遠性を夢みたが、福田克彦は過酷な環境下での営農で培われた「人間不信の精神」が「頼りにできるのは自分以外ない」との言葉に現れたものと分析し、支援者らはそれを見抜けなかったのだとしている[32]
  5. ^ 2010年、最先端の土木技術と約6000億円を投じて埋立・桟橋ハイブリッド構造のD滑走路が河口付近の海上に設置された[38]
  6. ^ 加えて1970年代に東京都から「ごみ戦争宣言」が出され、浚渫土の投棄が行われたことで「羽田マヨネーズ層」と呼ばれる極めて軟弱なヘドロの堆積層が形成され、強固な地盤が要請される空港の建設はよりいっそう困難なものとなった[39]
  7. ^ 運輸官僚として空港建設地検討に携わった手塚良成は、慶應義塾の機関紙「三田評論」が企画した座談会で、「羽田を沖合に埋め立て拡張できれば、最も理想的だということは一致した意見であった」「(1978年)現在のところ、現実に羽田空港沖合移転の話があり、これは恐らく将来実現化するだろうし、利用者としてもぜひやってもらいたい」としながらも、計画当時それができなかった理由として空域問題を挙げている[37]
  8. ^ 手塚良成は、「当時の需要予測からは新空港としてはどうしても1本につき17万5千回のもの4本というキャパシティ(計70万回)が必要であった」としており、2019年現在の羽田空港の能力でもこの要件は満たせていない[37]
  9. ^ 当時より管制技術がはるかに高度化した2019年現在でも、4本の滑走路が井桁状に配置された羽田空港では狭隘なターミナル空域で他の滑走路の運用の合間を縫うようにして離着陸が行われるという世界でも類例を見ない運用が行われており、やはり処理能力において著しい制約を受けている[45]。今後更なる能力増強のための運行体制見直しによって、羽田空港は風向きに関わらず滑走路を3本ずつしか使わなくなる予定である[46]
  10. ^ この壮大な構想は運輸省の中でも全省的な理解を得られていたわけではなく、「あれは一担当者のハッタリで、急にでてきたものだ」という幹部もいた[48]
  11. ^ 新空港の能力を優先すると羽田空港の年間限界能力が1/6程度にまで低下し、風向きによっては使用不能となる[53]
  12. ^ 近接する人家密集地帯の騒音対策で2キロメートル沖に埋め立て地点を選ばざるを得ないとすれば、内陸の場合に比較して用地造成経費が2倍以上となる[53]
  13. ^ 同時期に産業計画会議も勧告として河野と同様の案を出している。これに対して運輸省は国内線用空港として得難い貴重な存在である羽田の廃港は「非常識で無謀な意見」であるとして勧告内容を否定した[54]
  14. ^ 手塚良成によれば、霞ヶ浦の湖底に塩が固まった地層が在り、埋め立てのためにこれが撹拌されると水利や漁業に影響を与えることが「霞ヶ浦埋立の致命傷だった」としている[37]
  15. ^ 大久保利通が取香牧で牧畜を行うことを決めたのが現在の富里市両国といわれる[63]
  16. ^ 富里農家の平均耕地面積は県平均の約1.5倍であり、農業粗収入も51万5千円と県平均(36万9千円)を大幅に上回っていた[64]
  17. ^ 農民らは先祖代々耕作を続けてきた畑には草(雑草)の種がなく、他の土地には代えられないと訴えていた[65]
  18. ^ 1964年9月18日に富里村が行った調査では敷地該当地域の51.7パーセントが絶対反対であり、同年9月25日の調査では八街町では絶対反対が45.71パーセント、無条件賛成が12.17パーセント、富里村では無条件賛成4.3パーセントだった[66]
  19. ^ 大内力は「富里は日本でいちばん農業に適した土地だ。ここの農業が成功しないようでは日本の農業はダメだ」と述べていた。空港用地には古村の立沢・高松・高野および開拓部落の七栄・十倉が含まれていた[67]
  20. ^ 1965年2月に佐藤首相は「事前に相談する」としていたが、胃潰瘍手術の病後療養のため熱海温泉にいた友納知事や千葉県選出で早期から空港問題の調停にあたっていた川島自民党副総裁は事前の相談もなく内定を知らされ激怒した[70]
  21. ^ 友納知事は「むかしはね、中央官庁の課長がくるとなればちょっとした田舎町の話題。地方紙なんかも『○○課長来訪』と取りあげるし、町役場ではお手植え松を用意しかねない空気でしたよ。ところがいまはどうですか。銚子の公害課長あたりが運輸省の局長クラスをどなりあげる。いいか悪いか知らないが、今日では住民に近いほうの立場ほど強い。大臣より知事、知事より市町村長、といったぐあいにね」と語っている。また、柴田等・友納両知事の施政下で行われた官民共同の埋立事業(千葉方式)が成功し財政再建団体から脱した千葉県と国との力関係は逆転しつつあった[72]
  22. ^ 『佐藤栄作日記』で、佐藤首相はこの年の1月末時点では「(川島正次郎副総裁と)富里問題を相談し、大体の見通しはいゝ」と悠長に構えていたが、カナダ太平洋航空402便着陸失敗事故と英国海外航空機空中分解事故が連続で発生した直後の3月6日には「航空事業は当分赤信号か。富里空港の装備〔ママ〕を急ぐ」として新空港建設を急ぐ方針に転換していたことが確認されている[82]。友納知事と若狭事務次官の交渉もこの頃から行われている[83]
  23. ^ 1990年11月8日の事業認定取消訴訟控訴審での若狭得治証言[88]
  24. ^ 『文藝春秋』1971年6月号掲載の千葉県企画部空港調査室長の証言によれば、自民党政調会交通部局の案を千葉県が手直しし、取香などの古村を避けるように敷地を削ったとしている[90]
  25. ^ 三里塚での空港建設の見通しについて問われた友納知事は以下のように語っている。「富里でもね、名前が挙げられた初めの一年ぐらいは協力ムードだったんだが、その後、政府がぐらぐらしてしかも誠意のない態度が続いたでしょ。そのあいだに、ああなっちゃた。こんどは打つ手は早いし、具体的に話が決まっているし、富里でおたがいに勉強したからねえ。もちろん、今後ああなる危険はあるよ。こういうことでは、政府と県に対する不信感がいちばんいけない。(中略)ムリを承知で内陸部につくろうというのだから、誠心誠意なるべく犠牲を少なくしなきゃねえ」[68]
  26. ^ 6月23日付の朝日新聞朝刊では、「(政府は)友納知事に、強行すれば流血の惨事も起こりかねないという現地(富里)の情勢を聞いたうえで、国有地を活用し移転農家を最小限にとどめ、これによって紛糾を避けるという道を選んだ」と三里塚案に理解を示す記事を掲載している[91][92]
  27. ^ 例外として、日本航空界のパイオニアの一人であり東峰に入植していた伊藤音次郎は、空港が来たことを大歓迎したと言われる[94]
  28. ^ 社会党は機関紙『社会新報』で米軍専用航路・空域や横田・立川・厚木等の米軍基地を返還させて新空港を建設することを主張した。しかし、米軍からの返還可能性はおろか、超音速機受け入れ用の4000メートル滑走路を建設すると人家立ち退きが生じるため実現困難なことが判明し、極めて実現性の低いものであったため立ち消えとなった。党内でも「新空港は軍事利用につながる」とする者から新空港の必要性自体は認める者までおり、結局社会党は具体的なビジョン・対案を出すことないまま、黒い霧事件で対立する佐藤政権への攻撃材料として反対運動支援をつづけた[57][96][97]
  29. ^ (1)新東京国際空港の位置は、千葉県成田市三里塚町を中心とする地区とする。(2)新東京国際空港の敷地面積は、1,060ヘクタール程度とする[99]
  30. ^ ただし、横風用滑走路については、「航空機の飛行性能が著しく進歩し、成田空港の運用実績においても横風を含む強風等の理由で他空港へダイバートした便の比率は過去10年間で0.03%と極めて少ないことから、(中略)必要性は低くなっている」として成田国際空港株式会社が2016年(平成28年)に事実上取り下げている[100]
  31. ^ 弾丸列車計画で獲得した用地を活用した東海道新幹線は着工から5年で完成している[102]
  32. ^ 空港公団の権限は理事が「公団は、空港敷地を一歩出たら、一個人より弱い」と嘆くほど新東京国際空港公団法で厳しく制限された。運輸省の官僚の中には、空港公団のことを厄介ごとを押しつけるための「防波堤」と言って憚らない者や、空港公団職員に面と向かって「君たちは石ころなんだ。現場でしっかりやってくれさえすればいい」という者もいたという[104][105]
  33. ^ 「成田空港の生みの親」と言われる運輸官僚の丸居幹一は、2年程度で異動してしまう役人では大空港のプロジェクトはできないとして、新東京国際空港建設では公団方式を採ることを強く主張していたが、「母体が20名ほどであれば、全体は素人の集団のようなものだった」として成田の公団化の効果はあまりなかったことを認めている[106]
  34. ^ 1966年は1946年に入植した開拓農民の「開拓営農資金」の返済(5年据え置き15年払い)が完了し、農家としてようやく自立するはずの年であった[28]
  35. ^ 岩山地区の農民は運輸政務次官であった佐藤文生に「先生、ミミズを知っていますか。あれが住みつく土を育てるのに43年かかった。親子二代がかりです。その間のしんぼうといったら大変なものですよ。政府はそこのところが分かっていて、立ち退けというんですかね」と訴えた。なお、佐藤が「私と一緒に土とミミズも代替地に運んでくれますか」という要求を呑んだためその農民は移転を決意し、移転に反対する長年常駐していた学生に「俺に小学生の孫がいるだろう。その孫が学校で"千葉県民の敵"といわれているんだよ。それを聞いたときはショックだった。なぜ俺の孫が県民の敵なんだよ。孫のためにも敵などといわれない土地に移らなければならんのだ」と言って一緒に新天地で農業をすることを提案したが断られたという[112][113]
  36. ^ 開港後に反対派との極秘交渉を行っていた加藤紘一に対して、反対派農民が「戦後開墾された土地はやせている。だから補償金を積めば手放すだろうと思っているだろう。それは逆だ。やせた土地は、耕して使えるように苦労したからこそかわいいんだ」と述べたという[114]
  37. ^ 三里塚・芝山の両空港反対同盟は、7月10日に「閣議決定粉砕総決起集会」を共同開催し、8月22日に組織的統合を行うことで合意。やがて「三里塚芝山連合空港反対同盟」と改称した[118]
  38. ^ 比較として、1945年9月21日に行われた羽田空港の拡張では、終戦間もない頃にGHQが出した指令によるものとはいえ、1200世帯・3000人の住民が48時間で立ち退きを強いられた。住民への補償も行われないまま、住居は米軍のブルドーザーに取り壊されたという[124][125]
  39. ^ 「新東京国際空港の位置および規模について」と同日付[99]
  40. ^ 成田市議会の空港設置反対決議は、反対派による直談判や議場包囲などの圧力を受ける中で7月4日の閣議決定の数時間後に保守系議員を含む17人の賛成により(反対5、棄権3)可決されたもので、藤倉武男市長は「なんという軽率なことをやったのか」と頭を抱え込んでいた[68]
  41. ^ 芝山町の初期の反対運動は農協を中心に展開され、一時は寺内元助町長以下町役場職員が「空港絶対反対」の鉢巻きを巻いて執務をしていた[129]
  42. ^ 条件賛成派の成田空港店業対策協議会局長は、「開港予定は次々と延期され、ターミナルビル内に出店契約をした者は、契約金を収めても開店できず、他の仕事で食いつなぐ状態でした。その時の私たちの気持ちは、筆舌に尽くしがたい苦労と悔しさでした」と語り、漸く成田が開港を果たした後も厳戒な空港の警備態勢が引かれる中で「地元の店は閑古鳥が鳴く有様」であったという[135]
  43. ^ 代執行中に反対派農民はこれらの者を見つけると「裏切り者のガードマン帰れ」とヤジを飛ばした。元条件賛成派のガードマンは「ほんとうはね、こんなことになるとは思っていなかった。こんな警備をするなんて考えもしなかったんだ。よそもんが入ってきたのが悪かったのよ」と述べている[139]
  44. ^ 村八分にあった家は隣人から口もきかれず、物も売ってもらえない状態となった。本来村八分は葬式と火事を例外とするが、その家の家人が死亡した際、たまたま反対同盟からの動員がかかったこともあり、故人は長らく地域の小学校の校長等を務めた人物であったにも関わらずその家の葬式には誰も訪れずに出棺もままならず、更には「葬家の犬」と大書きした嫌がらせの看板が出される始末であった。結局、人権擁護局も手出しができず、その家は追われるように村を離れた[145][146]
  45. ^ 共産党員らは反対派住民に対し「警察の挑発に乗るな」などと訴えたが、土地の防衛に必死な彼らが応じるはずもなかった[159]
  46. ^ 共産党との絶縁を宣言した、1967年11月15日の反対同盟の声明文によれば、共産党は「同盟幹部が運輸大臣に会談を申し入れたとか」と幹部らが日和見をしているかのように喧伝し、「同盟幹部が条件派になつた」「富里村二重掘に同盟幹部二人が四町八反の土地を購入した」と反幹部工作を行ったという[162]
  47. ^ 社会党は1970年代にも県と反対派の間での斡旋を行うなどしていたが、1980年代には成田空港問題から事実上手を引いた。その社会党に対しては、条件賛成派は当初反対運動を積極的に支援していたことを、反対派は自分たちを置き去りにして撤退したことを、それぞれが批判している[167]
  48. ^ 反対派農民は、共産党について「党機関紙『赤旗』を売りつけるなど党勢拡張の運動ばかりしているので追い出した」、社会党についても「何の力にも、なってくれねえ」と述べた[170]
  49. ^ 友納知事が地元を訪れた佐々木更三日本社会党中央執行委員会委員長に対し「この空港問題は、地元にとっては極めて深刻な問題なので、政争の具としないでほしい。国会議員は、国会の中で議論してほしい。政党間の政争を、そのまま地元に持ち込んでは本当に困る。一体あなたは新空港は必要であると思うのか。思うならどこが良いと思うのか」と質したところ、佐々木は「私は、新空港は必要だと思うが、場所は政府与党でないから、野党は考える必要はない。知事のいうことはもっともだと思うが、今日は私が説得されに来たのではないので…」と言って帰ってしまったという[171]
  50. ^ 羽田事件には青年行動隊の複数人が参加し、新左翼学生の実力闘争を目の当たりにしている[161]
  51. ^ 新左翼は新東京国際空港が「日帝の海外侵略基地」・「軍事空港」であると決めつけて闘争対象とした[174]。開港以降の使用状況を考えると突飛な主張に見えるが、ベトナム戦争当時は羽田空港に多数の米軍のチャーター機が飛来していたことも事実ではある。運輸省と空港公団は共産党系の地元団体と軍事使用の否定を含むそれぞれの主張を確認する覚書を交わしており、現在でも燃料不足を理由として米軍チャーター機が臨時着陸した際には詳細の明示と軍事不使用の再認を空港会社が求められるなど、強い監視下にある。また、反対同盟北原派は現在でも第3滑走路建設の動きを軍事転用のためのものであるとして集会参加を呼びかけている。
  52. ^ 夜から早朝にかけて空港公団職員宅の濡れ縁に座り込んで「さっさと○○(出身地)に帰ればいいのに」「妻も子供も可愛いだろうに」と大声で話し続ける、住宅の近くからあからさまな監視をつづける、「土地泥棒」「このままではすませないぞ」などと電話をかける等、嫌がらせは本人だけでなくその家族をも疲弊させるものだった。更に後年になると玄関先に動物の死骸や人糞を投げ込むなど嫌がらせはより陰湿なものとなっただけでなく、玄関先に灯油缶を置き「家を爆破するぞ」「子供はかわいいだろう」「クルマに乗るときは気をつけろ」などと脅迫電話をかけ、家族に直接危害を加えることもほのめかされた[179]
  53. ^ 開港前、空港従業員のために空港公団が手配した送迎バスがあったが、外観からそれとわからないよう行先表示もなく、中が窺えないよう特殊な窓ガラスが施されており、乗り場は人目につかない場所で、乗車できるのは事前に購入した切符を持つ者だけだった。これらは反対派の標的となるのを避けるための措置であり、ルートや乗降場も頻繁に変更するほどの念の入れようであったという[180]
  54. ^ 空港問題が持ち上がる前は保守的な農民が多く、反対派の中には過去に自民党の票集めをしていた元自民党員もいた。保守的な農民と新左翼の組み合わせの象徴として、1968年4月18日に宮内庁請願が行われた際、「明治大帝の偉業達成せし下総御料牧場の存続を訴う」という横断幕を持ち、「南無遍照金剛」と書かれたたすきをかけ、襟元に新左翼から配られた毛沢東バッジをつけた老人行動隊長のミスマッチな出で立ちに学生らが衝撃を受け、唖然としたり嘲笑したりしたというエピソードがある[182][183]
  55. ^ もともと古村からの開拓部落に対する差別意識があり、用地内に分布する開拓部落でも用地外の古村に対して「自分たちこそが当事者・主人公」という意識が次第に向けられるようになった[184]
  56. ^ この時、老人行動隊長が宮内庁へ陳情に行ったときに取り付けたとする「用地内で反対者が一人でもあった場合には、政府、公団といえども牧場地内に一歩も踏み入れさせない」との言質を持ち出して抗議し、戸村代表は「美しい三里塚が、天皇陛下の財産が、佐藤自民党政権によって乗っ取られたんですよ。天ちゃんは今もう何も言うことはできない。そこに佐藤政府が暴力行為をやっている。我々に暴力をやっているんじゃない。天皇陛下の財産を乗っ取るという……〔ママ〕御料牧場を乗っ取るということ、戦前だったらどうだ、佐藤栄作以下為政者たちは真っ先に死刑の断罪に処せられたんですよ。そういう佐藤自民党政権の圧政に対して、我々が闘わないでおられようか。ここに集うみなさん、我々のやることが果たして、国家に対して弓を引く国賊か。過去において立派な功績を果たした下総御料牧場というものが、佐藤自民党政権によって奪われるということを、みなさん許してよいか。それに対して日本人として怒りを感じておらないか。(御料牧場職員に対し)あなた方は宮内庁に仕えた人間として天皇陛下に対して面目がつくか!」と演説した[188]
  57. ^ 測量や代執行で暴行を受けた空港公団職員の中には、歯を6本折られるなどの生涯残る怪我を負ったり、重い障害を負って退職を余儀なくされる者もいた[194][195]
  58. ^ 闘争がエスカレートしてくると、機動隊員らも水杯を交わして決死の覚悟で現場に赴いていたという[196]
  59. ^ 文献によっては2万人以上とも[206]
  60. ^ 来港者への検問は2015年3月まで実施された[216]
  61. ^ 成田市の2017年度予算では空港会社からの周辺対策交付金が約11億、空港関連の固定資産税が約117億円である[222]
  62. ^ 平成27年度の財政力指数では、成田市は1.26、芝山町は0.97であり、いずれも全国の市町村と比べて非常に高い数値を示している[223]
  63. ^ ちばぎん総合研究所の試算によると、2013年時点における成田空港の千葉県内への経済波及効果は1兆1440億円と、千葉県全産業の生産額(2013 年:39 兆 6,407 億円)の 2.9%に相当する。[224]
  64. ^ 2017年の空港従業員総数は43,271人であり、生産年齢人口に占める空港従業員の割合は、千葉県全体で1.0%、成田市で18.6%、芝山町で7.9%[225]
  65. ^ 公安調査庁は、かつて空港関係の業務に携わったことがあるだけのOB宅にまでゲリラが及んでいることについて、少しでも空港関連業務にタッチすれば終生ゲリラ事件の標的になるという恐怖感を植え付ける効果をも企図していると分析している[234]
  66. ^ 政府との交渉過程での重要人物や闘争を離脱した農家は、「役目は果たした。もうそっとしておいてほしい」「過激派のテロがこわい」と、年月が経過しても口を閉ざし続けることが多い[235]
  67. ^ 現在の成田空港ではこの地区を避けて北側に延長することでB滑走路を2500m化している。
  68. ^ ただし、洋上に建設された関西国際空港においても、中核派が空港建設工事の見学船を放火するテロ事件を起こしている[255]
  69. ^ 関西国際空港一期島の建設の総工費が1兆円であることを初めて聞かされた世界の空港関係者は、余に莫大な建設費に通訳の誤訳ではないかと聞き返したという[256]

出典編集

  1. ^ a b c 隅谷三喜男(1996)13-15頁。
  2. ^ a b c d 朝日新聞成田支局(1998)26-27頁。
  3. ^ a b 伊藤睦(2017)16-17頁。
  4. ^ a b c 飯高春吉(1976)6-8頁。
  5. ^ a b c d 【利用客10億人突破】闘争と共存共栄の成田空港”. ホウドウキョク (2017年7月29日). 2017年8月3日閲覧。
  6. ^ a b 杉浦一機(1999年)28-33・37-39頁。
  7. ^ a b 地位低下 打開への3案”. 読売新聞 (2016年10月15日). 2018年2月3日閲覧。
  8. ^ a b 原口和久(2002年)215-216頁。
  9. ^ a b 大島悠亮 (2015年8月3日). “【戦後70年 千葉の出来事】成田闘争(下) 公共事業のあり方一変”. 産経新聞 (産経新聞社). http://www.sankei.com/region/news/150803/rgn1508030020-n3.html 2017年8月29日閲覧。 
  10. ^ a b 全国町村会-地域と空港と「真の共栄」を目指して~千葉県芝山町長・相川勝重 (HTML)”. 全国町村会 (2009年6月15日). 2017年8月27日閲覧。
  11. ^ a b 原口和久(2000年)131-132頁。
  12. ^ a b 杉浦一機(1999年)174-178頁。
  13. ^ a b c d e f g h 佐藤文生(1978年)72-84頁。
  14. ^ 隅谷三喜男(1996)3頁。
  15. ^ a b c d 宇沢弘文(1992)70-73頁。
  16. ^ a b c d e f g 福田克彦(2001)29-47頁。
  17. ^ a b 航空科学博物館-成田空港滑走路先端”. 今日は近くの図書館 (2012年2月). 2017年10月9日閲覧。
  18. ^ 大木 よね”. コトバンク. 2017年11月11日閲覧。
  19. ^ 朝日新聞成田支局(1998)46-47頁。
  20. ^ a b 伊藤睦(2017)172頁。
  21. ^ a b c d e f g 大和田武士 鹿野幹夫(2010年)64頁。
  22. ^ 大坪景章(1978年)50-51頁。
  23. ^ 朝日新聞成田支局(1998)20頁。
  24. ^ a b 朝日新聞成田支局(1998)17-20頁。
  25. ^ 福田克彦(2001)59-60頁。
  26. ^ 福田克彦(2001)61頁。
  27. ^ a b c 宇沢弘文(1992)91-97頁。
  28. ^ a b c 福田克彦(2001)35・58-67頁。
  29. ^ 企画展示”. NAA歴史伝承委員会. 2017年8月29日閲覧。
  30. ^ a b 朝日新聞成田支局(1998)284頁。
  31. ^ a b c 隅谷三喜男(1996)3-5頁。
  32. ^ 福田克彦(2001)65頁。
  33. ^ a b c d e 新東京国際空港公団(1987年)18-22頁。
  34. ^ 衣本啓介、「羽田空港の歴史」 『地図』 2010年 48巻 4号 p.4_7-4_14, doi:10.11212/jjca.48.4_7
  35. ^ a b 隅谷三喜男(1996)5-7頁。
  36. ^ a b c d e f 国土交通省. “4 新東京国際空港の建設”. 昭和39年度運輸白書. 2018年1月27日閲覧。
  37. ^ a b c d e f “座談会 成田新国際空港”. 三田評論 (慶應義塾) 779: 4-22. (1978). 
  38. ^ どう変わる?羽田空港”. 時事ドットコムニュース (2010年8月20日). 2017年12月13日閲覧。
  39. ^ a b c 羽田空港の不幸”. 港湾空港総合技術センター (2007年6月4日). 2017年3月閲覧。
  40. ^ a b c 国際空港ニュース社/編; 新東京国際空港公団・企画室(広報) (1978). エアポート・レビュー : 新東京国際空港開港記念特集号 第25号. 国際空港ニュース社. pp. 32-36. 
  41. ^ a b 大坪景章(1978年)16-17頁。
  42. ^ a b 佐藤文生(1978年)56頁。
  43. ^ 新東京国際空港公団(1987年)164頁。
  44. ^ 隅谷三喜男(1996)189-190頁。
  45. ^ 「井げた滑走路」離着陸は複雑に 羽田の新国際線”. 日本経済新聞 (2010年10月21日). 2018年4月11日閲覧。
  46. ^ 新しい使われ方(滑走路と飛行経路)”. 羽田空港のこれから. 国土交通省. 2019年3月1日閲覧。
  47. ^ a b 大和田武士 鹿野幹夫(2010年)105-109頁。
  48. ^ 佐藤文生(1985年)81-82頁。
  49. ^ 大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館『「1968年」-無数の問いの噴出の時代-』一般財団法人歴史民俗博物館振興会、2017年、70頁。
  50. ^ 福田克彦(2001)75頁。
  51. ^ a b c 成田国際空港株式会社『成田空港~その役割と現状~ 2016年度』2016年11月、136-138頁。
  52. ^ 新東京国際空港公団(1987年)278頁。
  53. ^ a b c d 成田空港問題シンポジウム記録集編集委員会(1995年)資料編8-9頁。
  54. ^ 成田空港問題シンポジウム記録集編集委員会(1995年)資料編81-84頁。
  55. ^ 佐藤文生(1978年)31-38頁。
  56. ^ a b 大坪景章(1978年)22頁。
  57. ^ a b c d e 藤田忠『交渉力の時代』PHP文庫、1984年、1427-1579/2884
  58. ^ “興亜建設のxx社長を逮捕”. 朝日新聞(夕刊): p. 9. (1965年11月18日) 
  59. ^ “興亜建設のxx社長 一億円横領で取り調べ”. 毎日新聞(夕刊): p. 7. (1965年11月18日) 
  60. ^ a b c 佐藤文生(1978年)38-43頁。
  61. ^ 朝日新聞成田支局(1998)20頁。
  62. ^ a b 大坪景章(1978年)28頁。
  63. ^ 大久保卿牧羊場選定の碑”. 富里市. 2017年12月13日閲覧。
  64. ^ a b 大坪景章(1978年)21頁。
  65. ^ 加瀬完『寒流暖流―私の国会三十年』崙書房 1982年、198頁。
  66. ^ 加瀬完『寒流暖流―私の国会三十年』崙書房 1982年、205-206頁。
  67. ^ 小川国彦『心は野にありて―回想録』朝日新聞社出版局、2004年、89頁。
  68. ^ a b c d e f g 朝日新聞社朝日ジャーナル編集部(1970年)12-19頁。
  69. ^ 小川国彦『心は野にありて―回想録』朝日新聞社出版局、2004年、89-95頁。
  70. ^ a b 稲毛新聞2004年10月号(2004年10月8日発行)”. www.chiba-shinbun.co.jp. 2018年9月2日閲覧。
  71. ^ 大坪景章(1978年)29頁。
  72. ^ 佐藤文生(1978年)40-41頁。
  73. ^ 大坪景章(1978年)32頁。
  74. ^ a b c 佐藤文生(1985年)63-123頁。
  75. ^ 宇沢弘文(1992)78頁。
  76. ^ 山口幸夫「三里塚と脱原発運動」高草木光一・編『一九六〇年代〜未来へつづく思想』岩波書店 2011年 235頁。
  77. ^ a b 原口和久(2002年)24-27頁。
  78. ^ 衆議院会議録情報 第051回国会 予算委員会 第6号”. 国会会議録検索システム. 国立国会図書館. 2019年2月1日閲覧。
  79. ^ 参議院会議録情報 第051回国会 本会議 第11号”. 国会会議録検索システム. 国立国会図書館. 2019年2月1日閲覧。
  80. ^ 衆議院会議録情報 第015回国会 本会議 第14号”. 国会会議録検索システム. 国立国会図書館. 2019年2月1日閲覧。
  81. ^ 衆議院会議録情報 第051回国会 予算委員会 第22号”. 国会会議録検索システム. 国立国会図書館. 2019年2月1日閲覧。
  82. ^ 佐藤栄作 (1998). 佐藤栄作日記〈第2巻〉. 朝日新聞社. pp. 376・391-392. 
  83. ^ 隅谷三喜男(1996)376頁。
  84. ^ a b c 朝日新聞社朝日ジャーナル編集部(1970年)19-26頁。
  85. ^ 大坪景章(1978年)33-36頁。
  86. ^ a b 福田克彦(2001)74-77頁。
  87. ^ a b c 佐藤文生(1978年)50-53頁。
  88. ^ 成田空港問題シンポジウム記録集編集委員会(1995年)資料編22頁。
  89. ^ 福田克彦(2001)70頁。
  90. ^ 福田克彦(2001)68頁。
  91. ^ 前田伸夫(2005)46頁。
  92. ^ 朝日新聞1966年6月23日(12版)1面
  93. ^ a b c <シリーズ成田市50年> 第四回 新空港決定 新空港に「三里塚」を閣議決定 新しい成田の歴史と厳しい空港問題の幕開け」 (pdf) 『広報なりた』平成15年12月1日号、成田市役所企画政策部広報課、2004年12月、 12-13頁、2019年2月14日閲覧。
  94. ^ 福田克彦(2001)40ページ
  95. ^ 伊藤睦(2017)143頁。
  96. ^ 朝日新聞社朝日ジャーナル編集部(1970年)30-31頁。
  97. ^ 原口和久(2002年)31頁。
  98. ^ 福田克彦(2001)129頁。
  99. ^ a b 新東京国際空港公団(1987年)167-168頁。
  100. ^ 成田空港の更なる機能強化に関する調査報告について(その3)”. 成田国際空港株式会社 (2016年9月27日). 2017年8月15日閲覧。
  101. ^ 2018年3月13日に四者協議会が開催されました。”. 成田国際空港株式会社 (2018年3月13日). 2018年3月14日閲覧。
  102. ^ 恵知仁 (2014年9月26日). “新幹線を悩ませる財源問題 なぜ東海道は5年で完成できたのか”. 乗り物ニュース. 2017年12月15日閲覧。
  103. ^ 前田伸夫(2005)47頁。
  104. ^ 佐藤文生(1978年)176-177頁。
  105. ^ 前田伸夫(2005)64-65頁。
  106. ^ 丸居幹一. 新東京国際空港公団広報部: “空港ができるまで”. Green port report. 国立国会図書館. 2019年3月16日閲覧。
  107. ^ 大和田武士 鹿野幹夫(2010年)[2010年]90-96頁。
  108. ^ 原口和久(2000年)254-255頁。
  109. ^ a b c d 大和田武士 鹿野幹夫(2010年)72-78頁。
  110. ^ 朝日新聞成田支局(1998)20頁。
  111. ^ a b 福田克彦(2001)70-71頁。
  112. ^ 佐藤文生(1985年)120-122頁。
  113. ^ 福田克彦(2001)370頁。
  114. ^ 大和田武士 鹿野幹夫(2010年)111頁。
  115. ^ a b 佐藤文生(1978年)48・59-62頁。
  116. ^ 福田克彦(2001)47-52・390-394頁。
  117. ^ 伊藤睦(2017)170-172頁。
  118. ^ 福田克彦(2001)129頁。
  119. ^ 伊藤睦(2017)173-175頁。
  120. ^ 大坪景章(1978年)52-54頁。
  121. ^ a b c 前田伸夫(2005)70-85頁
  122. ^ 国家公務員の初任給の変遷(行政職俸給表(一))”. 人事院 (2016年8月8日). 2017年4月17日閲覧。
  123. ^ a b 福田克彦(2001)78-86頁。
  124. ^ 羽田の大鳥居|Haneda Otorii”. aoitrip.jp (2016年12月11日). 2017年12月13日閲覧。/地域を語る会”. 公明党 田島和雄 公式ホームページ (2015年12月9日). 2018年1月4日閲覧。
  125. ^ 小関智弘『大森界隈職人往来』岩波書店(2002年)2-4頁。
  126. ^ 新東京国際空港公団(1987年)26-27頁。
  127. ^ 財団法人千葉県史料研究財団(1997)796頁。
  128. ^ 飯高春吉(1976)42頁。
  129. ^ 大坪景章(1978年)51-52頁
  130. ^ 原口和久(2000年)160-161・265頁。
  131. ^ a b “(30年の物語 78成田開港から)開港前夜 用地買収交渉:上 補償 /千葉県”. 朝日新聞/朝刊 千葉・1地方: p. 37. (2008年3月17日) 
  132. ^ 用地売り渡しに関する覚書”. コトバンク. 2017年2月4日閲覧。
  133. ^ a b c 隅谷三喜男(1996)31-34頁。
  134. ^ 新東京国際空港公団(1987年)40-41頁。
  135. ^ a b c 隅谷三喜男(1996)248-249頁
  136. ^ 福田克彦(2001)79頁。
  137. ^ 大坪景章(1978年)91頁。
  138. ^ 御子神晃 (2001). “新世紀に持ち越した成田空港問題”. 治安フォーラム 2001.5: 2-9. 
  139. ^ 1971年2月25日付朝日新聞23面
  140. ^ 新東京国際空港公団(1987年)102頁。
  141. ^ 朝日新聞成田支局(1998)53頁。
  142. ^ 飯高春吉(1976)44頁。
  143. ^ 福田克彦(2001)133-134頁。
  144. ^ 三里塚現地闘争本部 編著『闘いは大地とともに』社会評論社(1971年)210-211頁。
  145. ^ 飯高春吉(1976)45-46頁。
  146. ^ 朝日新聞成田支局(1998)21頁。
  147. ^ 福田克彦(2001)94頁。
  148. ^ “黒い噂に包まれた事件の中身”. 週刊文春 1966年9月19日号: 102-103. (1966). 
  149. ^ a b 隅谷三喜男(1996)35-39頁。
  150. ^ a b c d e 伊藤睦(2017)178-183頁。
  151. ^ 第065回国会 予算委員会 第7号”. 国会会議録検索システム. 国立国会図書館. 2019年2月4日閲覧。
  152. ^ 成田空港反対闘争、煽って逃げた社会党 テロ集団を育てたといっても過言ではない 小川国彦氏の死去に思う”. 産経新聞 (2017年5月28日). 2017年6月24日閲覧。
  153. ^ 北原鉱治(1996)39-40頁
  154. ^ 大坪景章(1978年)62頁。
  155. ^ 朝日新聞成田支局(1998)22-23頁。
  156. ^ 朝日新聞社朝日ジャーナル編集部(1970年)55-59頁。
  157. ^ 飯高春吉(1976)56・57頁。
  158. ^ a b 朝日新聞成田支局(1998)28-30頁。
  159. ^ 朝日新聞成田支局(1998)29頁
  160. ^ a b c 隅谷三喜男(1996)23-25頁。
  161. ^ a b c 佐藤文生(1978年)66-69頁。
  162. ^ 財団法人千葉県史料研究財団(1997)778-779頁。
  163. ^ a b 朝日新聞社朝日ジャーナル編集部(1970年)62-77頁。
  164. ^ 岩垂弘 (2006年2月18日). “第68回 流血の成田空港反対闘争”. もの書きを目指す人びとへ. 2017年10月6日閲覧。
  165. ^ 佐藤栄作 (1998). 佐藤栄作日記〈第3巻〉. 朝日新聞社. p. 150. 
  166. ^ 福田克彦(2001)95-100頁。
  167. ^ 隅谷三喜男(1996)226頁。
  168. ^ 朝日新聞成田支局(1998)200頁。
  169. ^ 北原鉱治(1996)44-45頁
  170. ^ 1971年2月25日付朝日新聞2面
  171. ^ 友納武人(1981)198頁。
  172. ^ 【戦後70年 千葉の出来事】成田闘争(上) さながら白昼の市街戦”. 産経新聞 (2015年8月2日). 2015年8月3日閲覧。
  173. ^ 伊藤睦(2017)1-2頁。
  174. ^ 警察庁『焦点』第269号 第2章
  175. ^ 朝日新聞成田支局(1998)97頁。
  176. ^ 原口和久(2000年)182頁。
  177. ^ a b 北原鉱治(1996)54頁
  178. ^ 三里塚闘争概略”. 2017年8月19日閲覧。
  179. ^ 前田伸夫(2005)70・224-225頁。
  180. ^ 松田 更一 (2017). あの空を取り返せ!: ある航空管制官の歩んだ戦後. 22世紀アート. 
  181. ^ 福田克彦(2001)145-166頁
  182. ^ 福田克彦(2001)51・163頁。
  183. ^ 大坪景章(1978年)43・51頁。
  184. ^ 伊藤睦(2017)94・123-125頁。
  185. ^ 伊藤睦(2017)122-127頁。
  186. ^ 朝日新聞成田支局(1998)82-98頁。
  187. ^ 福田克彦(2001)135頁。
  188. ^ 福田克彦(2001)49-51頁
  189. ^ 福田克彦(2001)141-145頁。
  190. ^ 原口和久(2000年)170-171頁。
  191. ^ 福田克彦(2001)147頁。
  192. ^ 原口和久(2000年)235頁。
  193. ^ 第93回国会(臨時会) 答弁書第三号別表四”. 参議院 (1971年1月16日). 2017年10月14日閲覧。
  194. ^ 多古町「移転共生の会」 瓜生弘道さん 元空港公団職員 前田伸夫さん”. 讀賣新聞 (2018年5月21日). 2018年8月29日閲覧。
  195. ^ 前田伸夫(2005)110頁。
  196. ^ 大和田武士 鹿野幹夫(2010年)37-38頁。
  197. ^ 伊藤睦(2017)45-46頁。
  198. ^ 伊藤睦(2017)45-46頁。
  199. ^ 朝日新聞成田支局(1998)32-34頁。
  200. ^ 日本国土開発株式会社 (1981). 三十年の歩み -躍進の10年-. ダイアモンド社. p. 32. 
  201. ^ a b c 伊藤睦(2017)191-193頁。
  202. ^ 原口和久(2000年)168頁。
  203. ^ 朝日新聞成田支局(1998)50-54頁。
  204. ^ a b c 伊藤睦(2017)202-223頁。
  205. ^ 原口和久(2000年)16頁。
  206. ^ 朝日新聞成田支局(1998)69頁
  207. ^ 大坪景章(1978年)204-206頁。
  208. ^ 成田空港問題シンポジウム記録集編集委員会(1995年)332頁。
  209. ^ a b 伊藤睦(2017)223-225頁。
  210. ^ a b 大坪景章(1978年)213-217頁。
  211. ^ 昭和54年 警察白書”. 警察庁. 2017年10月9日閲覧。
  212. ^ 公安調査庁(1993年)37-39頁。
  213. ^ 原口和久(2000年)104頁。
  214. ^ a b 前田伸夫(2005)186-191頁。
  215. ^ <シリーズ成田市50年>第八回開港「日本の新しい空の表玄関となった成田」”. 広報なりた 平成16年4月1日号. 成田市 (2011年10月17日). 2019年2月14日閲覧。
  216. ^ 成田空港、30日に検問廃止 ノンストップゲート実施へ”. Yusuke KOHASE (2015年3月26日). 2017年10月9日閲覧。
  217. ^ 1980年代に海外旅行が急拡大した理由 -海外渡航自由化50年の歴史”. トラベルボイス (2014年11月11日). 2017年9月7日閲覧。
  218. ^ JATAニュースレター”. 日本旅行業協会 (2014年6月19日). 2017年9月7日閲覧。
  219. ^ 第128回国会 運輸委員会 第1号”. 国会会議録検索システム (1993年10月26日). 2017年10月25日閲覧。
  220. ^ 衆議院会議録情報 第145回国会 法務委員会 第18号”. kokkai.ndl.go.jp. 2018年9月9日閲覧。
  221. ^ 新東京国際空港公団(1987年)50頁。
  222. ^ 機能強化策の陰で/下 広がる周辺9市町の格差 交付金増額で明暗 /千葉”. 毎日新聞 (2017年7月7日). 2017年10月9日閲覧。
  223. ^ 平成27年度地方公共団体の主要財政指標一覧”. 総務省. 2017年11月9日閲覧。
  224. ^ 「成田空港と地方創生」 (PDF)”. ちばぎん総合研究所. 2018年2月3日閲覧。
  225. ^ 2017 年度成田空港内従業員実態調査結果 (PDF)”. 成田国際空港株式会社 (2018年3月8日). 2018年3月10日閲覧。
  226. ^ a b c 朝日新聞成田支局(1998)127-128頁。
  227. ^ a b 大和田武士 鹿野幹夫(2010年)56-63頁。
  228. ^ a b c d 福田克彦(2001)197-198頁。
  229. ^ a b 伊藤睦(2017)80-85・233-239頁。
  230. ^ 大坪景章(1978年)495-496頁。
  231. ^ a b c d e 朝日新聞 (2016年6月30日). “セピア色の成田空港闘争 閣議決定50年”. WEB新書. 2018年1月26日閲覧。
  232. ^ a b 福田克彦(2001)225-291頁。
  233. ^ 原口和久(2000年)184頁。
  234. ^ 公安調査庁(1993年)248頁。
  235. ^ 大和田武士 鹿野幹夫(2010年)142頁。
  236. ^ 朝日新聞成田支局(1998)93-95・107・113-114・158-160頁。
  237. ^ 朝山実 (2017年9月18日). “ドキュメンタリー監督、代島治彦さんに聞く(後編)”. 「ウラカタ伝」. 2018年3月1日閲覧。
  238. ^ 『成田空港~その役割と現状~ 2017年度』 資料編 1(209頁)”. 成田国際空港株式会社 (2017年11月). 2017年12月11日閲覧。
  239. ^ 平成16年度 環境省請負業務結果報告書 航空機騒音に関する評価方法検討業務「3.成田国際航空の概況」”. 環境省 (2005年6月29日). 2018年3月25日閲覧。
  240. ^ 朝日新聞成田支局(1998)286-287頁。
  241. ^ 大和田武士 鹿野幹夫(2010年)113-117頁。
  242. ^ 伊藤睦(2017)116-117・252-264頁。
  243. ^ 隅谷三喜男(1996)78・111・118頁。
  244. ^ 原口和久(2002年)156-185頁。
  245. ^ 朝日新聞成田支局(1998)245-246頁。
  246. ^ 成田国際空港株式会社『成田空港~その役割と現状~ 2016年度』2016年11月、155頁。
  247. ^ “「成田空港 空と大地の歴史館」の開館について” (日本語) (html) (プレスリリース), 芝山町, (2011年7月11日), http://www.town.shibayama.lg.jp/0000001235.html 2017年6月29日閲覧。 
  248. ^ 朝日新聞成田支局(1998)263頁。
  249. ^ 世界の国際線空港ランキング”. 成田国際空港振興協会. 2017年8月29日閲覧。
  250. ^ 2001年世界の空港国際線ランキング(ICAO統計) (PDF)”. 新東京国際空港公団 (2003年5月29日). 2018年2月3日閲覧。
  251. ^ 成田空港問題シンポジウム記録集編集委員会(1995年)393頁。
  252. ^ 2018年度 空港運用状況 (PDF)”. 成田国際空港株式会社 (2019年4月25日). 2019年4月30日閲覧。
  253. ^ ACI releases preliminary 2016 world airport traffic rankings—Robust gains in passenger traffic at hub airports serving trans-Pacific and East Asian routes - Apr 19, 2017”. 国際空港評議会 (2017年4月19日). 2018年2月3日閲覧。
  254. ^ 朝日新聞成田支局(1998)111-112頁。
  255. ^ 立花書房編『新 警備用語辞典』立花書房、2009年、517頁。
  256. ^ 杉浦一機(1999年)59頁。
  257. ^ 谷川一巳『空港まで1時間は遠すぎる!? 』交通新聞社新書(1289-1290/2905)
  258. ^ 轟木一博『空港は誰が動かしているのか』日本経済新聞出版社、2016年、455-466/2516。
  259. ^ a b “成田開港40年 地元農家「闘争の犠牲大きすぎた」” (日本語). 日本経済新聞 電子版. (2018年5月18日). https://www.nikkei.com/article/DGXMZO30692920Y8A510C1CC1000/ 2018年5月22日閲覧。 
  260. ^ 城之内和義 (2016年2月27日). “「空と大地の歴史館」はトリビアに満ちあふれていた 「流血の日々」コーナーには闘争ヘルメットや火炎瓶も…”. 産経ニュース (産経新聞社). http://www.sankei.com/premium/news/160227/prm1602270013-n1.html 2017年3月28日閲覧。 
  261. ^ 大和田武士 鹿野幹夫(2010年)138頁。

参考文献編集

  • 『三里塚 : 反権力の最後の砦』朝日ジャーナル編集部三一書房三一新書 697〉、東京、1970年5月。ISBN 9784380700088NCID BN0744089X
  • 飯高春吉『北総の朝あけ : 成田空港闘争と警備の記録』千葉日報社出版局千葉県、1976年8月。ASIN B000J8VURA
  • 大坪景章『ドキュメント成田空港 : 傷だらけの15年』東京新聞千葉支局東京新聞出版局、東京、1978年4月。ISBN 9784808301897
  • 佐藤文生『はるかなる三里塚 : インサイド・レポート成田空港』講談社、東京、1978年4月。ASIN B000J8PGVG
  • 戸村一作『わが三里塚 : 風と炎の記録』田畑書店、東京、1980年3月。ASIN B000J8A3R8
  • 松岡秀雄『成田空港って何だろう』技術と人間、東京、1981年5月。ASIN B000J7VJV8
  • 友納武人『疾風怒濤 : 県政二十年のあゆみ』社会保険新報社、東京、1981年10月。doi:10.11501/9773996ASIN B000J7OZHI
  • 佐藤文生『日本の航空戦略 : 21世紀のエアポート』サイマル出版会、東京、1985年12月。ISBN 9784377306903NCID BN01412290
  • 新東京国際空港公団『新東京国際空港公団 20年のあゆみ』、1987年3月。
  • 公安調査庁『成田闘争の概要』、1993年4月。
  • 宇沢弘文『「成田」とは何か 戦後日本の悲劇岩波書店、1992年2月。ISBN 978-4004302162
  • 成田空港問題シンポジウム記録集編集委員会『成田空港問題シンポジウム記録集』、1995年3月。
  • 隅谷三喜男『成田の空と大地 闘争から共生への途』岩波書店、1996年10月。ISBN 978-4000015462
  • 北原鉱治『大地の乱 成田闘争 三里塚反対同盟事務局長の30年』お茶の水書房、1996年5月。ISBN 978-4275016294
  • 朝日新聞成田支局『ドラム缶が鳴りやんで 元反対同盟事務局長石毛博道・成田を語る』四谷ラウンド、1998年6月。ISBN 978-4946515194
  • 杉浦一機『空港ウォーズ 日本は「大航空時代」に生き残れるか』中央書院、1999年9月。ISBN 978-4887320802
  • 原口和久『成田空港365日 1965-2000崙書房、2000年5月。ISBN 978-4845510672
  • 福田克彦『三里塚アンドソイル』平原社、2001年10月。ISBN 978-4938391263
  • 原口和久『成田 あの1年』崙書房、2002年4月。ISBN 978-4845501779
  • 前田伸夫『特命交渉人用地屋 1965-2000アスコム、2005年7月。ISBN 978-4776202592
  • 『千葉県の歴史 資料編 近現代9社会・教育・文化3』財団法人千葉県史料研究財団、千葉県、2007年3月。
  • 大和田武士、鹿野幹夫『「ナリタ」の物語 1978年開港から』崙書房、2010年4月。ISBN 978-4845501960
  • 伊藤睦 編『三里塚燃ゆ 北総台地の農民魂』平原社、2017年5月。ISBN 978-4938391607
  • 大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館『「1968年」 無数の問いの噴出の時代』一般財団法人歴史民俗博物館振興会、2017年10月。

関連項目編集

外部リンク編集