日本航空123便墜落事故

1985年に日本で発生した航空事故

座標: 北緯36度00分05秒 東経138度41分38秒

日本航空123便墜落事故
Japan Air Lines Flight 123
Japan Airlines B747SR-46 (JA8119) at Itami Airport in 1984.jpg
事故機のJA8119(1984年撮影)
事故の概要
日付 1985年8月12日 (1985-08-12)
概要 ボーイングにより修理した圧力隔壁の破損及び垂直尾翼の脱落による操縦機能の喪失
現場 日本の旗 日本群馬県多野郡上野村高天原山の山中(御巣鷹の尾根
乗客数 509
乗員数 15
負傷者数
(死者除く)
4
死者数 520
生存者数 4
機種 ボーイング747SR-46[注釈 1]
運用者 日本の旗 日本航空
機体記号 JA8119
出発地 日本の旗 東京国際空港
(羽田空港)
目的地 日本の旗 大阪国際空港
(伊丹空港)
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日本航空123便墜落事故(にほんこうくう123びんついらくじこ)は、1985年昭和60年)8月12日午後6時56分30秒、東京・羽田空港発、大阪・伊丹空港行の同社定期便だったJAL123便が、群馬県多野郡上野村高天原山の尾根(標高1,565メートル、通称:御巣鷹の尾根)へ墜落した事故。飛行中に機体後部の圧力隔壁が破損、垂直尾翼補助動力装置が脱落し、油圧操縦システムも全喪失、操縦不能に陥り迷走飛行の末、墜落した。1978年(昭和53年)に伊丹空港で起きた同機の「尻もち事故」の際、機体の製造会社であるボーイングが実施した不適切な修理が原因とされる。

この事故では乗客乗員524名のうち、520名が死亡し、日本航空の歴史上最悪、そして単独機で世界史上最悪の死者数を出す航空機墜落事故となった[注釈 2]

目次

概要編集

 
 
伊丹空港
 
羽田空港
 
JA8119型機墜落地点   墜落地点
  羽田空港   伊丹空港

運輸省航空事故調査委員会による事故調査報告書[注釈 3]によると、乗員乗客524名のうち死亡者数は520名、生存者(負傷者)は4名であった。死者数は日本国内で発生した航空機事故では2019年(令和元年)12月の時点で最多であり、墜落事故および単独機の航空事故でも世界最多である。

夕方のラッシュ時お盆帰省ラッシュが重なったことなどにより、著名人を含む多くの犠牲者を出し、社会全体に大きな衝撃を与えた。特にこの事故を指して『日航機墜落事故[1]日航ジャンボ機墜落事故[2]と呼ばれることもある。

1987年(昭和62年)6月19日に航空事故調査委員会が公表した報告書では、同機が1978年(昭和53年)6月2日に伊丹空港で起こしたしりもち着陸事故(後述)後の、ボーイング社の修理が不適切だったことによる圧力隔壁の破損が、事故原因と推定されている。

事故機編集

123便に使用されたボーイング747SR-46型機(機体記号:JA8119、製造番号:20783[a 1])は1974年(昭和49年)1月に製造され、1985年(昭和60年)8月19日付で登録抹消された。本機は日本の航空会社で運航していた同型機が墜落事故によって登録抹消された初のケースである。

墜落前の事故編集

1978年(昭和53年)6月2日、羽田発伊丹行き115便として本機が伊丹空港に着陸しようとした際、機体尾部が滑走路と接触し中破する事故が発生した(日本航空115便しりもち事故)。この事故によって生じた損傷の修理を製造元のボーイング社が行った際、後部圧力隔壁を修理する中で発生した作業ミスが本事故の主な原因と結論づけられている。

1985年(昭和60年)2月から本事故までの間、本機では客室後部の化粧室ドアの不具合が28件発生している。事故調査報告書は、しりもち事故によって生じた機体の歪みによって化粧室ドアの不具合が発生した可能性は否定できないとしている[a 2]

事故の経過編集

事故当日のJA8119番機編集

 
123便の飛行経過、記載されているのは上から順に各地点での時刻、飛行高度、対気速度
  • 事故当日のJA8119番機のフライトプラン:JAL123便として伊丹空港に向けて羽田空港を18時00分に出発、離陸後は南西に進んだのち、伊豆大島から西に巡航、和歌山県東牟婁郡串本町上空で北西に旋回、伊丹空港には18時56分に到着する予定であった。
  • 使用された JA8119番機(就航以来の飛行回数:約18,800回)の当日の運航予定
    • 503・504便で羽田 - 千歳線1往復
    • 363・366便で羽田 - 福岡線1往復
    • 123・130便で羽田 - 伊丹線1往復
      • 123便で5回目のフライト。伊丹到着後に折り返し130便として伊丹発羽田行の最終便を運航する予定であったため、燃料は3時間15分程度の飛行が可能な量を搭載していた。


  • 運航乗務員(年齢・総飛行時間は共に事故当時)
    • 通常コックピットは機長が進行方向左席、副操縦士は右席に着席するが、当日は副操縦士の機長昇格訓練を実施していたことから着席位置が逆である。
墜落地点(詳細地図)
氏名 年齢 出身地 総飛行時間 備考 当日の動き
機長 高濱 雅己[注釈 4]
(たかはま まさみ)
49歳 宮崎県 12,423時間41分 運航部門指導教官 最初のフライト。
副操縦士席で佐々木副操縦士の指導や無線交信などを担当。
副操縦士 佐々木 祐
(ささき ゆたか)
39歳 熊本県 3,963時間34分 機長昇格訓練生
DC-8では機長として乗務
別の機に乗務してからJA8119に乗り換え。
訓練のため機長席に座り、操縦とクルーへの指示を担当。
航空機関士 福田 博
(ふくだ ひろし)
46歳 京都府 9,831時間03分 エンジニア部門教官 羽田 - 福岡線363・366便でJA8119に乗務。
  • 客室乗務員
    • チーフパーサー:波多野 純(はたの じゅん、39歳 総飛行時間10,225時間)以下女性乗務員11人

乗客は509人。搭乗方式はボーディング・ブリッジではなく、搭乗待合室から地上に降りて徒歩でタラップを昇る搭乗であった。

18時04分、乗員乗客524人を乗せたJA8119型機はJAL123便として定刻より4分遅れで羽田空港18番スポットを離れ、18時12分に当時の滑走路15Lから離陸した。

緊急事態発生編集

18時24分(離陸から12分後)、相模湾上空を巡航高度の24,000ft (7,200m) へ向け上昇中、23,900ftを通過したところで緊急事態が発生する。突然の衝撃音とともにJAL123便の垂直尾翼は垂直安定板の下半分のみを残して破壊され、補助動力装置も喪失、その際にハイドロプレッシャー(油圧操縦)システムの4系統全てに損傷が及んだ結果、操縦システムに必要な作動油が全て流れ出して、油圧を使用したエレベーター(昇降舵)やエルロン(補助翼)の操舵が不可能になってしまう[注釈 5]

フゴイドダッチロールを起こした機体は迷走しながら上昇と下降を繰り返すものの、クルーの操縦により17分間は20,000ft (6,000m) 以上で飛行を続ける。18時40分ごろ、空気抵抗を利用する降下手段としてランディング・ギア(車輪などの降着装置)を降ろしたあと[注釈 6]富士山東麓を北上し、山梨県大月市上空で急な右旋回をしながら、高度22,000ftから6,000ftへと一気に15,400ft (4,600m) も降下し、横田基地まで24kmの至近距離にいたる。その後、機体は羽田方面に向かうものの、埼玉県上空で左旋回し、群馬県南西部の山岳地帯へと向かい始める。

JAL123便は衝撃音発生から墜落までの間、破片を落としながら飛行していたようで、相模湾と墜落現場だけではなく、東京都西多摩郡奥多摩町日原でも機体の破片が発見されている。その奥多摩町で一般人が撮影した写真によって、JAL123便が「垂直尾翼の大部分を失った状態」で飛行していたことが、後日明らかとなった。

客室内の状況編集

機内では衝撃音が響いた直後に、各座席に酸素マスクが落下し、プリレコーデッド・アナウンス[注釈 7]が流れた。乗客は客室乗務員の指示に従って酸素マスクを着用したほか、シートベルトを着用し、タバコ[注釈 8]を消すなど非常時の対応を行う。一部座席では着水に備え、救命胴衣の着用なども行われた。

チーフパーサーは全客室乗務員に対し、機内アナウンスで酸素ボトルの用意を指示している。生存者の証言によれば、機内は異常発生直後から墜落までさほど混乱に陥ることはなく、全員落ち着いて行動していたという。その後、乗客は墜落時の衝撃に備え、いわゆる「不時着時の姿勢(前席に両手を重ね合わせて頭部を抱え込むようにし、全身を緊張させる)」をとって、衝撃に備えた。

乗客の中には最期を覚悟し、不安定な機体の中で懸命に家族への遺書を書き残した者が複数いた。これらの遺書は、のちに事故現場から発見され、犠牲者の悲痛な思いを伝えている。一般的に墜落事故では、異常の発生から数分の余裕もなく墜落にいたることが多いが、この事故では18時24分の異常発生から30分以上にわたって飛行を続けることができたため、遺書を書く時間があった稀な航空事故である。

デッドヘッド乗務の生存者は「客室乗務員は終始乗客のサポートをしていた」と証言しており、機体後部に取りつけられていたコックピットボイスレコーダー (CVR)には幼児連れの親に子供の抱き方を指示する放送、身の回りを確認するよう求める放送、不時着を予想してか「予告無しで着陸する場合もある」との放送、「地上と交信できている」との放送が墜落直前まで記録されている。その他、一人の客室乗務員による不時着後に備えて乗客に出す指示を列挙したメモや、異常発生後の客室内を撮影したカメラが墜落現場から見つかり、マスメディアによって公開されている。

地上との交信編集

123便と所沢東京航空交通管制部(以下、東京ACC)との交信は以下の通りであった[a 3][d 1]

  • 18時24分47秒:JAL123便が緊急救難信号スコーク77 (7700)」の無線信号を発信、信号は東京ACCに受信された。
  • 25分21秒:123便機長がトラブル発生の連絡とともに羽田への帰還と2万2千フィート(高度約6700メートル)への降下を無線で要求、東京ACCはこれを了承。JAL123便は伊豆大島へのレーダー誘導を要求した。管制部は、右左どちらへの旋回をするか尋ねると、機長は右旋回を希望した。羽田は緊急着陸を迎え入れる準備に入った。
  • 27分2秒:東京ACCが123便に緊急事態を宣言するか確認し、123便から宣言が出された。続いて123便に対してどのような緊急事態かを尋ねたが、応答はなかった。このため、東京ACCはJAL本社に123便が緊急信号を発信していることを知らせる。
  • 28分31秒:東京ACCは123便に真東に向かうよう指示するが、機長は「But Now Uncontrol(操縦不能)」と返答。東京ACCは、このとき初めて123便が操縦不能に陥っていることを知る。管制室のスピーカーがONにされ、123便とのやり取りが管制室全体に共有される[3]
  • 31分2秒:東京ACCからの降下が可能かの問いに対し、123便は降下中と回答。東京ACCは羽田より近く旋回の必要も最低限で済む小牧市名古屋空港に緊急着陸を提案するが、123便は羽田への飛行を希望する。航空機と地上との無線交信は英語で行われているが、管制部は123便の機長の負担を考え、母語である日本語の使用を許可。以後の交信では、123便は殆ど日本語での交信が用いられている。
  • 33分頃:JALはカンパニーラジオ(日本航空の社内無線)で123便に交信を求める。
  • 35分33秒:123便から R-5 のドアが破損したとの連絡があった後、その時点で緊急降下しているので、後ほど呼び出すまで無線を聴取するよう求められ、JALは了承した。
  • 40分44秒:東京ACCが、123便と他機との交信を分けるため、123便専用の無線交信周波数を割り当てし、123便にその周波数に変えるよう求めたが、応答はなかった[注釈 9]
  • 41分54秒:逆に123便を除く全機に対してその周波数に変更するよう求め、交信は指示があるまで避けるように求めたが、一部の航空機は通常周波数で交信を続けたため、管制部は交信をする機に個別で指示し続けた。
  • 45分36秒:航空無線のやり取りを傍受していた在日米軍横田基地 (RAPCON) が123便の支援に乗り出し、英語で123便にアメリカ空軍が用意した周波数に変更するよう求めたが、123便からは「Japan Air 123、Uncontrollable!(JAL123便、操縦不能!)」との声が返ってきた。東京ACCが「東京アプローチ(東京国際空港の入域管制無線)と交信するか」と123便に提案するが、123便は「このままでお願いします」と返答した。
  • 47分10秒:123便は千葉県木更津市レーダーサイトに誘導するよう求め、東京ACCは真東へ進むよう指示し、「操縦可能か」と質問すると、123便から「アンコントローラブル(操縦不能)」と返答がきた。東京ACCは管制官は「ああっ」という123便のコクピットで挙げられた叫び声を聞いた[3]。その後、東京ACCは東京アプローチの無線周波数へ変更するよう求め、123便は了承した。
  • 48分54秒:無言で123便から機長の荒い呼吸音が記録されている。
  • 49分:JALがカンパニーラジオ(日本航空社内専用の無線)で3分間呼び出しを行ったが、応答はなかった。
  • 53分30秒:東京ACCが123便を呼び出した。123便から「アンコントロール(操縦不能)」と無線が入ってくる。東京ACCと横田基地の RAPCON が返答、RAPCON は、横田基地が緊急着陸の受け入れ準備に入っていると返答。東京ACCも東京アプローチの無線周波数へ変更するよう求め、123便が了承する。
  • 54分25秒:JALも呼び出しを行ったが応答はなかった。123便から現在地を尋ねられ、東京ACCが羽田から55マイル (100km) 北西で、熊谷市から25マイル (45キロメートル) 西と告げる。
  • 55分5秒:横田飛行場航空管制官が、この時だけ「日本語にて申し上げます」と前置きして、東京アプローチから「羽田と横田が緊急着陸準備を行っており、いつでも最優先で着陸できる」と知らせ、航空機関士が「はい了解しました」と返答、これが123便からの最後の交信となった。その直後に東京アプローチが123便に対し、今後の意向を尋ねたが応答はなかった。その後も56分前まで東京アプローチと横田の RAPCON が123便に対して呼び出しを行ったが、応答はないままだった。
  • 57分:横田の RAPCON が123便に対し、「貴機は横田の北西35マイル(65キロメートル)地点におり、横田基地に最優先で着陸できる」と呼びかけ、東京アプローチも123便に対して、横田基地に周波数を変更するよう求めたが、既に123便は御巣鷹の尾根に墜落していた。

コックピットと機体の状況編集

衝撃音がした直後、機長は航空管制官への無線交信で羽田空港への引き返しを要求している。

その際、管制官の「右と左のどちらへ旋回するか?」という問いに対し機長は、羽田空港へは遠回りになる「右旋回」を要求している。コックピットボイスレコーダーの解析によると、異常発生から墜落まで、操作不能状態の操縦桿やペダルなど油圧系の操作は副操縦士、進路の巡視・計器類などの監視・パネルの操作・管制官との交信・クルーへの指示などは機長、エンジンの出力調整・緊急時の電動によるフラップとギアダウン、JALとの社内無線交信、さらに副操縦士の補助は航空機関士がしていたと推測されている。異常発生直後から油圧操作の効果がほとんどないにもかかわらず、繰り返し操縦桿での操舵を試みるなど、クルーは操縦不能になった理由を最後まで把握できていなかった模様である。ボーイング747の機体形状の関係で尾翼部分はコックピットからは目視できないため、パイロットは油圧系統全滅を認識しながらも油圧での操縦を試みている。

ボイスレコーダーには18時24分12秒から18時56分28秒までの32分16秒間の音声が残っている。2014年、オリジナルに近い音声テープで元同僚パイロット協力のもと解析した結果、不明だった部分のうち16箇所が明らかになった。始めに残っていた音声は「最初の衝撃音」直前の客室とコックピットとのやり取り[注釈 10]だった。本来当時のコックピット・ボイスレコーダーは30分の1/4インチ・エンドレステープレコーダー(始点と終点のない輪になったテープを巻いて用いるもの)であったが、30分を超える録音が残っているのは、テープに余分があったためである[4]

18時24分35秒頃、ボイスレコーダーに何らかの衝撃音[注釈 11]が録音され、続いて機長の「まずい、なんか爆発したぞ」という発言が記録されている。直後にオートパイロットが解除され機体(エンジン、ランディング・ギア等の表示)の点検が行われ、4つのエンジン、ランディング・ギア等に異常がなかったが、航空機関士が「ハイドロプレッシャー(油圧機器の作動油の圧力)を見ませんか」と提案する。25分、機長はスコーク77を発信し東京航空交通管制部に羽田へ引き返すことを要求した。無線交信の後、機長が副操縦士に対し「バンク(傾き)そんなにとるなマニュアル(手動操縦)だから」「(バンクを)戻せ」と指示する声が記録されている。しかし、副操縦士は「戻らない」と返答した。その際、航空機関士が油圧が異常に低下していることに気づいた。27分、異常発生からわずか3分足らずで全ての油圧の喪失を示したとみられる「ハイドロプレッシャーオールロス(油圧全て喪失)」という航空機関士の音声が記録されている[注釈 12]

同じころ、客室の気圧が減少していることを示す警報音が鳴っているため、とにかく低空へ降下しようとした。しかし、ほとんどコントロールができない機体にはフゴイド運動ダッチロールが生じ、ピッチングヨーイングローリングを繰り返した。そのため、墜落の瞬間まで頻繁に「頭(機首)下げろ」「頭上げろ」という指示が記録されている。

31分ごろ、航空機関士に対し客室乗務員から客室の収納スペースが破損したと報告が入る。33分、航空機関士が緊急降下(エマージェンシー・ディセンド)と同時に酸素マスク着用を提案[注釈 13]、35分、羽田空港にある日航のオペレーションセンターとの交信では航空機関士が「R5のドア(機体右側最後部のドア)がブロークン(破損)しました」と連絡している。

37分、機長がディセンド(降下)を指示するが機首は1,000m余りの上昇や降下を繰り返すなど、不安定な飛行を続けた。38分頃、これを回避するためにランディング・ギアを降ろそうとするが、油圧喪失のため降ろせなかった。40分、パイロットはランディング・ギアの自重を利用してギアを出すバックアップシステムを用いてこれを降ろした。この操作によって機体は右に大半径で旋回しながら降下し、同時にロール軸の振幅が縮小して多少安定した。

46分、機長の「これはだめかも分からんね」との発言が記録されている。やがて機体は山岳地帯上空へと迷走していき、47分頃からは彼らの中でも会話が頻繁になり、焦りが見え始めていた。右、左との方向転換が繰り返し指示される中で、操縦している副操縦士に対して機長が「山にぶつかるぞ」と叫ぶなど、緊迫した会話が数回記録されている。この時機体は6,000ft (1,800m) 前後をさまよっていた。48分ごろには航空機関士が、操縦する副操縦士に「がんばれー」と励ますとともに、たびたび副操縦士の補助をしていた様子が記録されている。この頃からエンジン出力(パワー)の強弱で高度を変化させる操縦を行い始めたと思われる。機長の機首下げの指示に対して副操縦士は「今舵いっぱい」と返答している。

49分頃、機首が39度に上がり、速度は108kt (200km/h) まで落ちて失速警報装置が作動した。このころから機体の安定感が崩れ、何度も機首の上げ下げを繰り返した。この間、機長が「あーダメだ。終わった。ストール(失速する)」と発言するまでに追い詰め<られながらも、諦めることなく「マックパワー(エンジン出力全開)、マックパワー、マックパワー」などと指示し続ける音声が残っている。50分、「スピードが出てます スピードが」と困惑する副操縦士に機長が「どーんといこうや」と励ます音声が残っている。機長の「頭下げろ、がんばれがんばれ」との励ましに対して副操縦士は「今コントロールいっぱいです」と叫んでいる。この頃速度が頻繁に変化し、不安定な飛行が続いていたために、副操縦士が速度に関して頻繁に報告をしている。51分、依然続くフゴイド運動を抑えるために電動でフラップが出され[注釈 14]、53分ごろから機体が安定し始めた。

54分、クルーは現在地を見失い[注釈 15]、航空機関士が羽田に現在地を尋ね、埼玉県熊谷市から25マイル西の地点であると告げられる。その間、しばらく安定していた機体の機首が再び上がり、速度が180kt (330km/h) まで落ちた。出力と操縦桿の操作で機首下げを試みたが機首は下がらなかった。55分01秒、機長は副操縦士にフラップを下げられるか尋ね、副操縦士は「はいフラップ-10(今10度下がっているという意味)」と返答し、フラップを出し機体を水平に戻そうとした。

しかし55分12秒、フラップを下げた途端、南西風にあおられて機体は右にそれながら急降下し始める。55分15秒から機長は機首上げを指示。43秒、機長が「フラップ止めな」と叫ぶまでフラップは最終的に25度まで下がり続けた。45秒、「あーっ」という叫び声が記録されている。50秒頃、機長の「フラップみんなでくっついてちゃ駄目だ」との声に混じって副操縦士が「フラップアップフラップアップ」と叫び、すぐさまフラップを引き上げたがさらに降下率が上がった。この頃高度は10,000ft (3,000m) を切っていた。56分00秒頃、機長がパワーとフラップを上げるよう指示するが航空機関士が「上げてます」と返答する。07秒頃には機首は36度も下がり、ロール角も最大80度を超えた。機長は最後まで「あたま上げろー、パワー」と指示し続けた。

墜落編集

 
墜落したJA8119型機の残骸

クルーの必死の努力も空しくJA8119機は降下し続け、18時56分14秒に対地接近警報装置(GPWS)が作動。同17秒ごろにはわずかに機首を上げて上昇し始めたが、同23秒に右主翼と機体後部が樹木と接触し、衝撃で第4エンジンが脱落した。このとき、機首を上げるためエンジン出力を上げたことと、急降下したことで、速度は346kt (640km/h) に達していた。

接触後、水切りのように一旦上昇したものの、機体は大きく機首を下げ右に70度傾いた。同26秒には右主翼の先端が稜線に激突し、衝撃で右主翼の先端と垂直・水平尾翼、第1・第2・第3エンジンが脱落、さらに同28秒には機体後部が分離した。機体は機首を下げながら前のめりに反転してゆき、18時56分30秒に高天原山の斜面にほぼ裏返しの状態で衝突、墜落した。18時56分28秒まで録音され続けていたボイスレコーダーには23秒と26秒頃に衝撃音が残されていた。23秒の衝撃音の直前には“PULL UP (上昇せよ)”との警告音に混じって機長の「あーダメだ」もしくは「もうダメだ」とも聞き取れる叫び声が記録されていた。ボイスレコーダーに録音されていた音声はのちに活字で公表されたが、この叫び声は判読不能とされていた。

墜落時の衝撃[注釈 16]によって、機体前部から主翼付近の構造体は原形をとどめないほど破壊され、離断した両主翼とともに炎上した。一方、28秒に分離した客室後部と尾翼は、山の稜線を超えて斜面を滑落していった。客室後部は尾根への激突を免れて、斜面に平行に近い角度で着地し、樹木をなぎ倒しながら尾根の斜面を滑落して時間をかけて減速した。このため最大の衝撃が小さく、それ以外の部位と比較して軽度の損傷にとどまり火災も発生しなかった。これらの要因によって、客室後部の座席に座っていた女性4名は奇跡的に生還できた。だが、その他の者は即死もしくはそれに近い状況であった[a 4]

即死した者も多かったものの、墜落直後の時点では客室後部付近を中心にかなりの数の乗客が生存しており、翌朝に捜索隊が到着するまでの間に次々と息を引き取ったという生存者の証言がある[5]

異常事態発生後のJA8119機編集

JAL123便として飛行していたJA8119機の飛行記録装置 (DFDR) と音声記録装置 (CVR) は、墜落現場から回収された。これらのデータによって、異常事態発生後のJA8119型機の飛行の様子が明らかになった。

パイロットの操縦編集

パイロットたちは、JA8119機に発生した異常についてその直後に感知したが、垂直尾翼や機体後部の損傷状態については最後まで認識できなかった[a 5]

同機に発生したフゴイド運動ダッチロールは、機首上げ角度20度 - 機首下げ15度、機体の傾き右60度 - 左50度の動きを周期的に繰り返すもので、大きな動揺にさらされた。パイロットたちは油圧が失われた状況のもと、エンジン推力を増減し、また、降着装置(ランディング・ギア)を降ろすことで空気抵抗を増大させ、機体の安定を図った。これらの操縦によってフゴイド運動の軽減と高度を下げることに成功した。しかし、ダッチロールの軽減や針路のコントロールはできなかった。

異常発生の20分後には高度7,000ftまで降下したが、そのころ同機は進路を北西に変え、群馬県南西部の山岳地帯へと向かっていた。油圧不動作の代替手段として電動でフラップを展開したが、機体に大きな傾きが生じた。機首を下げて急降下し始めたため、パイロットたちはエンジン推力を増加させ機首を上げようとした。わずかに機首が上がり始めたが間に合わず墜落した[a 6][e 1]

客室内の様子編集

機内では衝撃音が響いた直後に酸素マスクが落下し、プリレコーデッド・アナウンスが流れた[d 1]。乗客は酸素マスク・シートベルトを着用し、救命胴衣の着用なども行われた。生存者の証言によれば、機内は異常発生直後から墜落までパニックに陥ることはなく、ほぼ全員が落ち着いて行動していたという[5]。幼児連れの親に向けての子供の抱き方の指示や、「予告無しで着陸する場合もある」「地上と交信できている」などの放送が墜落直前までCVRに記録されている。

また、墜落までの間に複数の乗客が家族への遺書を残しており、その他にも不時着後に備えて乗客に出す指示をまとめた客室乗務員によるメモや、異常発生後の客室内を撮影した乗客のカメラが墜落現場から見つかり、マスコミによって公開されている[6][7]

事故発生からちょうど29年にあたる2014年8月12日にフジテレビジョンで放送された特番で、生存した女性(夫、長男、長女、次女と搭乗し本人と長女が生還)が当時の状況を手記にしたため紹介されている。その中にあった新たな証言によると、乗客の幾人かは失神した状態だったという。

捜索・救難活動編集

18時28分頃、千葉県愛宕山航空自衛隊 中部航空警戒管制団第44警戒群(通称「嶺岡山レーダーサイト」)でも、123便の緊急事態を表す「スコーク7700」を受信した。ただちに直属部隊である中部航空方面隊に報告され、航空救難で中心的な役割を果たす航空自衛隊の中央救難調整所 (RCC:Rescue Coordination Centre) が活動を開始する。18時56分、123便が嶺岡山レーダーサイトから消えたため、当直司令は墜落したと判断して中部航空方面隊司令部にスクランブル待機中のF-4EJファントムによる緊急発進を提案、19時01分、提案を了承した基地司令官の指示で、百里飛行場よりF-4戦闘機が離陸したとされる。

東京航空局東京空港事務所(羽田)は、123便の緊急事態発生を受けて東京救難調整本部 (Tokyo RCC) を開設し、123便の羽田への緊急着陸体制を整えた。その後、東京管制部のレーダーから消失(18時59分に受領)し、東京救難調整本部は、防衛庁警察庁消防庁海上保安庁などの関係機関に通報(19時03分)し、123便の捜索に当たった[a 7]。一方、レーダー消失直後は、まだ同機が低空飛行を続けている可能性も残されていたため、管制や社内無線からの呼びかけも続けられた[d 1]

事故機の発見編集

 
米軍C-130輸送機

墜落から約20分後の19時15分ごろ、付近を航行していた米空軍C-130 輸送機が横田の米軍基地の指令で付近を捜索、現場付近の山中に大きな火災を発見した。C-130は墜落現場上空を旋回し、横田 TACAN(タカン)方位(305度)・距離(34マイル)を航空自衛隊中央救難調整所に通報する。19時01分に航空自衛隊の百里基地を緊急発進したF-4戦闘機2機も19時21分ごろ墜落現場の火災を発見し、上空位置の横田TACAN方位(300度)・距離(32マイル)を通報した[a 7][8]

「横田TACAN」とは、横田基地に設置された極超短波電波標識(超短波全方向式無線標識)などの電波を受信し、航空機が現在の方位と距離を機上搭載の距離測定装置で計測し計器に表示させる航法援助施設である。これらの設備や機器は航空機の航法用として用いられていたが、この当時はまだGPSが実用化されておらず、正確な位置の計測は難しかった[注釈 17]
 
航空自衛隊F-4戦闘機
 
航空自衛隊救難隊KV-107

墜落から約1時間後の19時54分、航空救難要請が出ないまま、救難・救助のため見切り発進した航空自衛隊百里基地救難隊KV-107ヘリコプターは、墜落から約1時間45分後の20時42分に現場上空に到着した。救難調整本部(東京空港事務所長)から航空自衛隊へ航空救難の要請(災害派遣要請)が行われたのは20時33分だった。当時のKV-107救難ヘリは、両側面のバブルウィンドウ横に救難用ライト4灯を装備しているので夜間救難員が降下しての救難作業も可能だったが、赤外線暗視装置などの本格的な夜間救難装備がないことなどを理由に、事故当夜の救助活動は行われなかったとされる。

アメリカ軍による救難活動中止の報道編集

 
米軍UH-1

週刊文春1995年9月28日号において、アメリカ空軍に所属していた元大尉がアメリカ地元紙に寄稿し、JAL123便墜落事故においてアメリカ軍による救助開始直前に上官より中止を命ぜられた、との記事を紹介した。

記事によると、米軍横田基地の要請により、20時30分米陸軍キャンプ座間の救難ヘリUH-1が発進、20時50分には事故現場に到着。ヘリは現場の木の上空15mまで降下したが、21時20分救助開始直前になって中止を命じられ帰投した。C-130の乗員は横田に到着後、第816戦術飛行隊の副司令より123便関係のことについて口止めされたという[10]

マスコミは「日本側がアメリカ軍の救助協力を断った[11]」として、関係当局を批判した[12][13]

位置情報の混乱編集

航空自衛隊への災害派遣要請が事故機の遭難から約1時間40分後と遅れて出された背景には、運輸省東京航空局東京空港事務所の「位置が確認できないことには、正式な出動要請はできん」という幹部指示や、運輸省から「レーダーから消えた地点を特定せよ」と何度も東京ACC(東京航空交通管制部)に電話が入るなど、所管行政当局である運輸省・航空局隷下組織の地上での位置・地点特定に固執した混乱や錯綜があったとされる[14]。独自に発進した航空自衛隊、朝日新聞社のヘリは21時10分までにそれぞれ墜落現場に到着した[15]が、その位置情報が陸上からの捜索に伝えられることはなかった。

陸上からは、群馬県警察埼玉県警察長野県警察が墜落現場の捜索にあたった。20時21分には、長野県警臼田署(現・佐久署南佐久庁舎)のパトカーが「埼玉県と群馬県境あたりに黒煙が見える」と通報。21時39分には埼玉・長野両県警のパトカーが三国峠の西北西に赤い煙を発見[16]、長野県警は12日深夜、墜落現場は群馬県側の山中であると発表した[注釈 18]

しかし、氏名不詳の110番通報による情報「長野県北相木村ぶどう峠付近に墜落した」や、日本航空広報12日22時に発表した「長野県南佐久郡御座山北斜面(墜落現場から北西10km)」、運輸省は遭難機のレーダー消失地点である「北緯36度02分、東経138度41分(墜落現場から北約3.7km)」の他に「御座山北斜面」[17]、13日午前2時防衛庁からの情報として各新聞社から「現場はぶどう峠から210°/3マイル、長野県の御座山南斜面で山頂から 1km(墜落現場から北西8.3km)」など、情報が錯綜し[18]、これらの情報で地上からの捜索は混乱した。

航空自衛隊第44警戒群からの情報として、遭難当初から東京救難調整本部(運輸省東京航空局東京空港事務所)より公表されていた、遭難機のレーダー消失地点である「北緯36度02分、東経138度41分」は、実際の墜落現場から北約3.7kmの群馬県側になるが、根拠のない情報として「長野県南佐久郡北相木村」、「御座山北斜面」が付加された[17]

その結果、消防・警察や災害派遣要請によって出動した航空自衛隊の地上捜索隊、陸上自衛隊の各捜索隊など、地上からの捜索は13日の朝まで現場に到達することはできなかった。

海上では、事故当初ドアが壊れたとの情報があり、乗客が機外に吸い出された可能性も考えられたことから、東京救難調整本部の通報を受けた海上保安庁巡視艇3隻が、駿河湾周辺の捜索を行った[a 7][19]

実際の墜落位置:北緯35度59分54秒、東経138度41分49秒(事故調資料)

捜索救難活動と墜落地点の測位結果
時刻 発見者・発表者 報告、活動 位置 墜落地点からの誤差
18時56分ごろ 東京救難調整本部
運輸省航空局
レーダー消失地点
18時59分、自衛隊、警察、消防に通報
羽田方位308度59マイル
北緯36度02分、東経138度41分[a 7]
北約3.7km
18時56分ごろ 航空自衛隊 レーダー(千葉県南房総市愛宕山)消失地点 横田TACAN
方位302度36マイル
東約9.4km
19時15分 アメリカ空軍
C-130輸送機
火災発見 横田TACAN
方位305度34マイル[a 7]
北東3km
19時21分 航空自衛隊
F-4戦闘機
炎を確認 横田TACAN
方位300度32マイル[m 1]
南東約6km
20時42分 航空自衛隊救難隊
KV-107ヘリコプター
炎を確認 横田TACAN
方位299度35.5マイル[m 1]
南西4km
20時50分 米軍救難ヘリコプター

UH-1

現場上空に到着するも帰還を命じられ救助活動は行わず
21時10分 朝日新聞社ヘリコプター
「ちよどり」
報道取材で現場上空に到着、炎を確認 羽田方位304度60マイル[20]
23時35分 朝日新聞社ヘリコプター
「ちよどり」
報道取材、自衛隊が運輸省に通報した御座山付近には墜落の形跡がないことを確認[21] 羽田方位304度60マイル[22]
01時00分 航空自衛隊救難隊
KV-107ヘリコプター
地上の捜索隊(警察)を誘導しようとしたが失敗 入間TACAN
方位291度36.3マイル[m 1]
南南西2km
04時39分 航空自衛隊救難隊
KV-107ヘリコプター
捜索、墜落現場確認[a 7] 三国山西約3km
扇平山北約1km[m 1]
南西3km
05時00分 陸上自衛隊
HU-1Bヘリコプター
捜索 三国山北西約2km[m 1] 南南東1km以下
05時33分 航空自衛隊
KV-107ヘリコプター
捜索 三国峠方位340度3km[m 1] 北北東1km
05時37分 長野県警察
ヘリコプター
捜索、墜落現場確認[a 7]

早朝からの事故機確認と救難活動編集

墜落後、米軍の輸送機や航空自衛隊の戦闘機・救難ヘリが山中の炎を確認していたが、前述のレーダーやTACANの測位位置の誤差に加え、事故当日は月齢25.1の闇夜[23]であり、墜落現場の特定は困難を極めた。13日午前4時30分、航空自衛隊救難隊による墜落機体の再確認が行われ、続く5時10分の陸上自衛隊ヘリによる機体確認、5時37分の長野県警ヘリによる墜落現場の確認と、各自衛隊や警察のヘリによって、次々と墜落現場の状況が確認された。群馬県上野村の黒沢丈夫村長(当時)は、テレビ報道の映像を見て、現場が村内の「スゲノ沢」であると判断し、土地鑑のある消防団員に捜索隊の道案内をするよう要請した[24]。現場までは熊笹の生い茂る、傾斜角30度の急斜面で、約2kmの道のりに1時間30分もかかる難路だった。

墜落からおよそ14時間後の8月13日午前8時半、長野県警機動隊員2名がヘリコプターから現場付近にラペリング降下、地上からは午前9時に陸上自衛隊第13普通科連隊が現地に到着するとともに第1空挺団(指揮官:岡部俊哉(第35代陸上幕僚長))員が現場に降下して救難活動を開始。陸路からは、上野村消防団、群馬県警機動隊、警視庁機動隊、陸上自衛隊、多野藤岡広域消防本部藤岡消防署の救助隊が現場に到着、ようやく本格的な救難活動が開始された[25]

生存者の救出編集

 
事故機の残骸

8月13日午前11時ごろ、上野村消防団が「スゲノ沢」で尾根を300m滑り落ちた機体後部の残骸を発見。その中に4名の生存者がいた。4人とも重傷を負っており、上野村消防団を中心に長野県警機動隊・自衛隊は、ヘリで引き上げが可能な尾根まで急ごしらえの担架で生存者を引き上げた。尾根に来ていた日赤群馬県支部の医師の要請で、陸上自衛隊のヘリコプターが上野村臨時ヘリポートまで搬送、4人のうち2人は東京消防庁のヘリに移し換えられて群馬県藤岡市内の病院に運ばれた[a 7][26]。生存者発見からヘリの引き上げまで2時間を要した。

事故調査報告書によれば、4名の生存者以外は即死もしくは、それに近い状況だったとしているが[a 8]、救出された当時12歳の生存者は後のインタビューで「墜落した直後は周囲から『がんばれ』という励ましや『早く助けに来ないのか』などという話し声が聴こえていたが、次第に静かになっていった」と語っており、救出が早ければ、さらに多くの人命が救えたのではないかという意見もある[5]

三国山脈(みくにさんみゃく)茂来山(もらいさん)御座山(おぐらさん)高天原山(たかまがはらやま)甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)小川山(おがわやま)金峰山(きんぷさん)秩父山地(ちちぶさんち)野辺山駅(のべやまえき)野辺山高原(のべやまこうげん)金ヶ岳(かながたけ)富士山(ふじさん)横岳(よこだけ) 
八ヶ岳横岳より見た秩父山地と墜落地点

放射性物質編集

事故機には、貨物として医療用ラジオアイソトープ放射性同位体)92個積載されていた。これらは8月14日から16日の間に64.8%が回収された[a 9]

また、機体には振動を防ぐおもりとして、一部に劣化ウラン部品も使用されていた。これらの放射性物質が墜落によって現場周辺に飛散し、放射能汚染を引き起こしている可能性があった。このため、捜索に向かっていた陸上自衛隊の部隊は、すぐ現場へ入らずに別命があるまで待機するよう指示されたという[27]

関係機関の連携体制編集

航空自衛隊 百里基地F4戦闘機による事故直後の緊急発進(19時01分)、百里救難隊による最初の救難捜索機 MU-2S の出動や救難ヘリ KV-107 の出動(19時54分)は、航空自衛隊への東京空港事務所長からの災害派遣要請(20時33分)が出される前に行われた。陸上自衛隊も群馬、長野の部隊が19時30分ごろから出動態勢を整え、派遣要請を待っていた。羽田RCC(東京救難調整本部)は、19時03分には防衛庁警察庁消防庁海上保安庁などの関係機関に通報していたが、すでに現場に到達していた航空自衛隊への災害派遣要請は航空自衛隊からの再三の要請督促を受けた後の20時33分となり、陸上自衛隊に対しては航空自衛隊への要請が済んでいたため、要請の必要性を知らずに21時30分ごろになったとされる[28]

縦割り行政の弊害編集

当時の東京消防庁航空隊には、サーチライトを搭載したアエロスパシアル製救助ヘリコプターが2機配備されており、事故当夜は関係省庁からの要請に備えていつでも出動できるように待機していた。羽田RCC(東京救難調整本部)は19時03分には消防庁へも通報していたが、東京救難調整本部から東京消防庁への出動要請は行わなかった。のちに運輸省・防衛庁・警察庁はこのヘリの存在を知らなかったことが明らかになり、緊急時における縦割り行政の問題点が浮き彫りになった[29]。この消防ヘリについては事実の誤認があり、着陸灯を探照灯(サーチライト)と間違えた可能性がある[17]。なお、東京消防庁航空隊は、13日に陸上自衛隊が事故現場よりヘリで搬送した生存者4名のうち2名を上野村臨時ヘリポートで降ろした際に、同乗した前橋赤十字病院医師の判断で、救急車から消防庁の幹部移送のために駐機中の消防ヘリに載せ替えて搬送している[17]

報道編集

時事通信
19時13分、「東京発大阪行きの日航123便がレーダーから消えた」とのニュース速報を配信[30][31]
NHK
NHK総合テレビジョンは19時26分、19時の定時ニュースの終了直前に短く第一報を伝えた。
19時30分から『NHK特集 人間のこえ 日米独ソ兵士たちの遺稿』が始まるが、番組中にニュース速報があり、「羽田発大阪行き日航機 レーダーから消える 日航機には乗客497人が乗っている 運輸省に入った連絡では日航機から 緊急事態が起きたとつたえてきた」(原文)という内容が放送された。その後、19時35分に同番組を打ち切り、報道特別番組を終夜放送した。キャスター木村太郎ら。
翌13日にも朝から通常番組を休止し、臨時ニュースを継続した。事故関連ニュースはラジオ第2放送でも続けられた。
日本テレビ (NNN)
19時30分ごろ、『大きなお世話だ!』の冒頭にてニュース速報(テロップ)で第一報を伝えたのち、20時からの『ザ・トップテン』の放送中にアナウンサーの小林完吾が随時最新情報を伝えた。20時55分からの『NNNニューススポット』、22時からの『やす・きよのスター爆笑Q&A』を休止して『NNN報道スペシャル』で続報を伝え、23時の『NNNきょうの出来事』以降、事故関連ニュースを終夜放送した。
翌13日朝にも『ルンルンあさ6生情報』以降、特別編成で夕方まで詳報した。
TBS (JNN)
19時30分ごろ、『クイズ100人に聞きました』放送中にニュース速報(テロップ)で第一報を伝えた。20時54分からの『JNNフラッシュニュース』は21時30分まで延長し、21時32分から『月曜ロードショー』での映画『東京裁判』の放送中にもテロップ速報を随時挿入した。
映画終了後、翌13日0時02分から『JNNニュースデスク』は内容を変更し、1時30分まで延長。以後6時30分まで関連ニュースを終夜放送で伝え、6時30分からの『JNNおはようニュース&スポーツ』以降も、報道特番またはそれに準ずる態勢で夕方まで詳報した。
フジテレビ (FNN)
19時30分すぎ、『月曜ドラマランド』開始直後のニュース速報(テロップ)で第一報を伝えた。その後21時台の『夜はタマたマ男だけ!!』まではテロップ速報のみで対応したが、22時からの『三枝の愛ラブ!爆笑クリニック』を休止して『FNN報道特別番組』を開始し、その後はCM全面カットで約10時間詳報した。
13日6時30分『FNNモーニングワイド』以降、報道特番またはそれに準ずる態勢で詳報した。
13日11時30分『FNNニュースレポート11:30』で、墜落現場に到着した中継スタッフから生存者発見の一報を受け、生存者救出映像を、御巣鷹の尾根現場から唯一生放送し、独占スクープとなった[32](他局は生中継機材が間に合わず、録画取材[33])。正午からの『笑っていいとも!』は12時3分ごろから12時30分すぎに一時中断し、生存者救出の生放送を中継した[注釈 19]。また、『ライオンのいただきます』以降の番組を休止して、夕方まで報道特番もしくは準ずる態勢で詳報した。
テレビ朝日 (ANN)
19時30分ごろ、『月曜スペシャル90』の冒頭にてニュース速報(テロップ)で第一報を伝えたあと、番組を中断して『ANNニュース速報』をニュースデスクから伝えた[34]。20時55分の定時ニュースに続き、21時からの『月曜ワイド劇場』を休止して『ANN報道特別番組』を放送した。23時から『ANNニュースファイナル』を30分拡大し、以降終夜放送で詳報した。
翌13日にも『おはようテレビ朝日』以降、『モーニングショー』などで報道特番もしくは準ずる態勢で夕方まで詳報した。
ニッポン放送NRN・AMラジオ)
通常放送の生番組(『ヤングパラダイス』など)の中で随時速報した。
13日午前1時からの『中島みゆきのオールナイトニッポン』は休止となり、その日の2部を担当していたアナウンサーの上柳昌彦が午前5時までの4時間、全国ネットで詳報した。
毎日放送(MBS テレビラジオ
当日22時からのラジオ番組『MBSヤングタウン』は内容のほとんどを関連ニュースに変更し、ニュース以外は音楽を流した[注釈 20]。テレビではキー局TBSとほぼ同一内容の特番体制で詳報した。
新聞各紙
翌朝の新聞一面はこの事故がトップとなったが、夜間だった影響で墜落地点の情報が御座山など錯綜したまま、朝刊締切時間となり印刷され、「長野で墜落」や「長野・群馬県境付近で墜落」などの見出しとなった[35]
上毛新聞
地元群馬県の上毛新聞社は、8月14日に御巣鷹の尾根に墜落した事故機を、世界で初めてカラー写真で一面トップで掲載した。
写真週刊誌など
最初に現場へ到着したカメラマンは、『FLASH』(光文社)が専属契約をしていた大学生アルバイトだった。カメラマンらの撮影した遺体を含む現場写真の多くが、『FOCUS』(新潮社、休刊)や『Emma』(文藝春秋、休刊)、『FRIDAY』(講談社)などの写真週刊誌に無修正で掲載された。

乗客編集

乗客の国籍の最終集計
国籍 乗客 乗員 合計
  日本 488 15 503
  アメリカ合衆国 6 0 6[36]
  香港 4 0 4
  インド 3 0 3
  韓国 3 0 3
  イタリア 2 0 2
  中国 1 0 1
  西ドイツ 1 0 1
  イギリス 1 0 1
合計 509 15 524
 
123便の座席表。桃色が生存者の座席。機内はほぼ満席であったが、乗り遅れなどで僅かに空席があった。

事故が発生した日は夏休み中で、「お盆の入り」の前日であったため、当日の日本航空や全日本空輸東亜国内航空の各便には出張帰りのビジネスマンのほか、帰省客や観光客が多く搭乗した。最終便が満席で乗れない客が発生することを防ぐ理由もあり、最終便1本前である当便は、ほぼ満席の状態だった。このため、仕事を終えて帰宅しようとした全日空の社員も自社便が利用できず、数名が当便に搭乗していた。

生存者は4人であった(非番だった客室乗務員の26歳女性、34歳の女性と8歳の小学生女児の母子、12歳の女子中学生)。救援隊の到着時に現場で実際何人が生存していたのかについては、情報が錯綜した。女子中学生によれば、目が覚めたとき、父と妹は生きていたという。生存者4名は、発見から数時間は現場からのヘリコプター搬送が行われず、特に34歳女性と8歳小学生女児の母子は大変な重傷で、猛暑の中体力を消耗した。

捜索隊による生存者か遺体かの判別は、呼びかけたり叩いた時に反応があるか、手で触って脈があるかなどで行われていた。生存者発見後に医師・看護師が墜落現場へ、ヘリで派遣、生存者4名が病院に搬送され、それ以外は遺体として藤岡市民体育館(建替え前の施設)へ運ばれた。

著名人編集

搭乗を回避していた著名人編集

遺体収容・検視・身元確認作業編集

 
「日航機墜落事故遭難者遺体安置の場所」の碑(藤岡公民館)

遺族待機所・遺体安置所として、群馬県藤岡市内の小学校・中学校・高校の体育館と校舎が開放された。

遺体の搬出には、陸上自衛隊東京消防庁・近隣各県警・警視庁海上保安庁ヘリコプターが投入された。ヘリコプター発着場所は、藤岡市立藤岡第一小学校・校庭、遺体検視兼安置所は旧藤岡市民体育館に設置された。8月14日午前9時ごろ、墜落現場から直線距離で約45km離れた群馬県藤岡市へ向けての遺体搬出作業が開始された。

地元群馬県警察医師会所属の医師のほか、群馬県内外の医師、群馬大学医学部および東京歯科大学教授陣・法医学者・法歯学者・歯科医師看護婦日本赤十字社関係者などが、身元確認作業に従事した。しかし、墜落時の猛烈な衝撃と火災によって、尾根およびその周辺で発見された犠牲者の遺体の大半は激しく損傷しており、また、盛夏であったこともあり、遺体の腐敗の進行も早かった。当時はDNA型鑑定の技術も確立されていなかったため、身元の特定は困難を極めた。

一方、奇跡的に尾根への激突を免れ高天原山の斜面を滑落していった機体後部は衝撃も少なく火災にも巻き込まれなかったため、谷間で発見された犠牲者の遺体は骨折出血こそあったものの、そのほとんどは生存(気絶)しているのか死亡しているのかが見た目では区別できないほどほぼ完全な状態で発見された。ここから4名の生存者が発見された事もあり、谷間に駆け付けた自衛隊員や上野村消防団員は慎重を期して1人1人の体を揺さぶったりを取るなどして生死を確認したが、4名の生存者以外はすでに全員が死亡していた。そして、着衣や所持品も損傷がほとんどなかったため遺体の識別・確認もスムーズに進み、8月14日までにほとんどの遺体が遺族によって引き取られた。

最終的な身元確認作業の終了までには、約4カ月の時間と膨大な人員を要した。最終的に確認できなかった遺体片は、同年12月に群馬県前橋市の群馬県民会館で執り行われた合同慰霊祭で出棺式が行われ、火葬に付された後に、墜落現場に近い群馬県上野村の「慰霊の園」へ納骨埋葬された。検視に利用された藤岡市市民体育館は、遺体の死臭が抜けず取り壊された[注釈 23]

事故調査編集

運輸省航空事故調査委員会(委員長:事故発生時の八田桂三は任期途中で依願退任、後任は武田峻)は、事故発生後の8月14日に墜落現場に入り、本格的な調査を開始した。調査には事故機の製造国であるアメリカから、NTSB(アメリカ国家運輸安全委員会)の事故調査官ら(調査団代表:ロン・シュリード)が顧問として加わった[a 10]。事故から約1ヵ月後の9月6日、事故機の製造者であるボーイング社が声明を発表し、しりもち事故の際に自らが行った圧力隔壁の修理にミスがあったことを認めた[44]

刑事裁判にて、業務上過失致死傷罪での刑事責任追及を恐れたボーイングの日米の関係者は、黙秘権を行使し、事故調査報告書も、墜落機のトラブルに至る詳しい経緯には踏み込めなかった[45]

2016年(平成28年)8月11日、墜落事故から4年後の1989年平成元年)に、アメリカ合衆国司法省がボーイングに対し、日本の検察の捜査に協力するよう促していたことが分かった。アメリカ合衆国連邦政府が、中核産業のボーイングを擁護したとの見方も根強いが、当時、主任検事を務めたリンダ・キャンドラー弁護士が、東京新聞の取材で初めて証言し、明確に否定した[46]

護衛艦「まつゆき」による垂直尾翼破片の発見編集

 
回収された事故機の尾翼の一部

日本航空123便墜落事故翌日の8月13日午後、護衛艦まつゆき相模湾公試中に、墜落事故の際落下した垂直尾翼の一部を発見し回収した。「まつゆき」は、石川島播磨重工業東京第1工場1984年(昭和59年)10月25日進水し、1986年(昭和61年)3月19日の就役前であった[47]

事故の原因編集

 
ボーイング747型機の後部圧力隔壁(機内側より)
 
不適切な修理の図解

1987年昭和62年)6月19日、運輸省事故調査委員会は事故調査報告書を公表し、本事故の推定原因を発表した。その要旨は以下のとおりである[a 11]

  1. 事故機の後部圧力隔壁がボーイングの修理不手際により損壊し、その損壊部分から客室内の空気が機体後部に流出したことによって、機体尾部と垂直尾翼の破壊が起こった。さらに、4系統ある油圧パイプがすべて破壊されたことで作動油が流出し、操縦機能の喪失が起こった。
  2. 圧力隔壁の損壊は、隔壁の接続部の金属疲労によって発生した亀裂により、隔壁の強度が低下し、飛行中の与圧に耐えられなくなったために生じたと推定される。
  3. この亀裂の発生は、1978年(昭和53年)に起きた同機の「しりもち事故」の際に、ボーイングによる修理が不適切なものであったことに起因する。また、点検でこれらの異常を発見できなかったことも事故原因に関与したと思われる。
    • (正しい修理)修理交換した隔壁の下半分と、交換しない上半分との繋ぎ目に、3列分のリベット穴が開いた結合板を挟み込む。隔壁には上下各2列分のリベット穴が開いており、これにより中央1列を介し、上下各2列分のリベットが利く。
    • (実際の修理)その結合板が途中で2枚(リベット穴2列分と1列分の2枚)にカットされていたため、本来2列必要なリベットが1列分しか利かず、接続強度が不足した状態になった。

また、報告書では調査結果に基づき、大規模な機体の修理を行う場合は、その修理部分を特別に点検項目に加えて継続監視することや、与圧構造が損壊した場合のフェイルセーフ性を耐空基準に追加することなどを勧告した[a 12]

調査報告書をめぐる疑問点編集

 
ボーイング747型機の後部圧力隔壁

垂直尾翼の回収編集

事故調査報告書では、事故機の垂直尾翼のボーイングによる修理の不手際による破壊過程については、尾翼の回収が部分的であるため、その詳細は特定できなかったとしている[a 13]。損壊した垂直尾翼については、事故から2か月以上が過ぎた1985年11月に、海上保安庁の協力を得て相模湾周辺の海底探査が行われたが、何も発見できずに打ち切られており、垂直尾翼の大半は回収されなかった。1986年(昭和61年)4月25日に行われた事故調査報告書の案を検討する聴聞会では、公述人として参加した技術関係者や学識経験者から、事故原因の究明に重要な要素である垂直尾翼の破壊過程が十分に解明されていないという意見が出た。また、尾翼の捜索も不十分であるという指摘もあった[5][7]

垂直尾翼の破壊原因とされる「急減圧」は本当にあったのか編集

事故調査報告書では、圧力隔壁の損壊部分から与圧された客室内の空気が一気に流れ出したことで、機内には相当な減圧が発生したと推定している。事故調査委員会はこの減圧についての計算を行い、異常発生の8秒後には機内の与圧はすべて失われ、気温もマイナス40度にまで低下したことを示唆している[e 2]。これに対して、事故直後から18分間高度20,000フィート(約6100m)以上維持し、機長は急減圧発生時の所定の対応をとっておらず、操縦室では酸素マスクを使用した様子もない。また、生存者が室内温度の低下や急減圧時に発生する強風を否定「耳は軽く詰まった程度」とする証言をしていることなどから、123便には急減圧が発生していなかった(垂直尾翼を内部の空気で破壊するエネルギーは得られず、圧力隔壁の破壊が垂直尾翼を破壊したとのシナリオは破綻している)と指摘する意見がある[48]

この点、運輸安全委員会が事故から26年後の2011年(平成23年)7月に発行した解説書[m 2]では、2009年(平成21年)7月13日に、アメリカ合衆国で急減圧事故を起こしたサウスウエスト航空2294便に搭乗していた非番の機長2名の証言によれば、

私は、すぐに急減圧を知覚したが、耳の苦痛がほとんどないのに驚いた。……ハリウッド映画と違い、何も飛ばされず、誰も穴に吸い込まれることはなかった。座席に置かれた書類もそのままだった。客室がやや冷え、薄い霧を見たが5秒ほどで消滅した。 — サウスウエスト航空2294便に搭乗していた非番の機長2名、事故調査報告書についての解説

を引用したあと、「実際に急減圧が発生した際の機内の状況は、乗務員を含めて一般的な理解とは大きく異なるのではないでしょうか」として検証と解説を行い、

  1. 減圧時の風速は最大でも10m/s程度である
  2. 断熱膨張によって室温がマイナス40度まで下がっても座席などの温度は変わらず、室温もエアコンによって3分程度で回復する
  3. 運行乗務員に低酸素症の兆候が見られることから、酸素マスクを使用しなかったのは操縦を優先するためではないか

としている[m 3]

外部破壊説・他編集

事故調査委員会の「圧力隔壁破壊が垂直尾翼の破壊をもたらした」とする報告書に対して、垂直尾翼の破壊が先に起き、これが圧力隔壁の破壊をもたらしたとする「外部破壊説」を主張する航空機専門家[49]、労働組合関係者[50][51]などがいる。また、「機体構造の不良によるフラッター(異常振動)による垂直尾翼の損壊等が事故の原因ではないか」という主張[m 4]や、「自衛隊が所有する飛翔体が当たって墜落した」という主張[52][53]もある。

これらの主張に対し、運輸安全委員会は2011年(平成23年)7月、事故調査報告書の解説書[m 5]を示した。

JALの事故調査編集

航空事故調査委員会とは別に、JALも社内事故調査委員会を設置して、独自の事故調査を行っている。この報告書は2002年(平成14年)8月にまとめられたが、社内外ともに非公開とされた。同年8月26日、同社の労働組合に対して行われた説明会において、その内容は「基本的には事故調査委員会の報告書と齟齬はない」とされた[54]

事故後編集

本事故が起きた昭和60年度には、国内線旅客は前年度の対前年度比9%増から一転して同2.1%減となり、各航空会社とも経営が悪化した。これに対し新幹線旅客は、輸送人員で前年度の対前年度比1.5%増から飛躍的に増加し、同9.8%増となった[55]

羽田 - 伊丹線往路「JAL123便(JL123)」という便名は、1985年(昭和60年)9月1日のダイヤ以降に欠番となったが、後にこの便名と対となる復路「JAL122便(JL122)」も欠番扱いになった。

事故後の日本航空編集

事故当時、日本航空はそれまでの半官半民の特殊会社体制から完全民営化へと移行する方針を決定していたが、本事故の影響による経営の悪化、安全体制や経営姿勢に対する世論からの批判を受けて、日本国政府主導により、抜本的な体制の刷新が行われた[56]

1985年(昭和60年)12月、当時カネボウの会長だった伊藤淳二が副会長に就任(後に会長へ昇格)し、経営体質の改革や長年の懸案であった同社の労働組合問題親方日の丸体質の解決に取り組むとともに、「絶対安全の確立」を新たな経営方針の一つとして掲げ、機付整備士制度の導入や技術研究所の設置などの施策が行われた[57]

事故機の残骸は、警察や検察庁の事故検証のあと、同社の新東京国際空港にある格納庫内に保存された。一時期は機体の破棄も検討されていたが、8.12連絡会が日本航空に請願した結果、機体は日本航空安全啓発センターに展示されることとなった。

機長の娘(事故当時17歳)は、その後日本航空の客室乗務員として採用され、勤務している。事故から30年経った2015年(平成27年)には報道各社のインタビューを受け、当時の心境を語った[58]

CMの自粛編集

またこの事故をきっかけとして、日本航空が当時協賛していたテレビ番組『アップダウンクイズ』(毎日放送制作、ロート製薬提供)が3週間放送休止になり[注釈 24]、同社による協賛はこれをもって終了、ほどなくして番組自体も終了するに至った。事故の前までは、番組開始前のカウキャッチャーとして19時の時報とともにJALグループのCMジャルパックなど)が流れ、その後にロート製薬のオープニングキャッチに入っていたが、放送再開後には時報直後にロートのオープニングが流れるようになった。

さらに毎日放送では、1985年7月下旬から平日帯の17時台に、日本航空が舞台かつ撮影の全面協力・スポンサーだった『スチュワーデス物語』の再放送が行われていたが、再放送途中に当事故が発生したため、事故翌日(8月13日)に放送予定だった最終回を残して放送打ち切りとなった。

747SRの退役編集

 
スペースシャトル輸送機改造後の
元JA8117
2009年9月20日
カリフォルニア州エドワーズ空軍基地

747SRは、日本航空がローンチカスタマーであったが、事故を受けて同型機は747-400Dの導入に合わせ、1988年から1994年にかけて全て売却された。

事故機JA8119と同時期に導入された機材のうちJA8117は、アメリカ航空宇宙局(NASA)が、同時期に発生したスペースシャトルチャレンジャー」の爆発事故を受けて、シャトル輸送機の改造ベースとして購入。N911NAとして、1990年より2012年2月8日の退役まで活躍した。NASAは受領の際、機体の整備技術に敬意を表し、日本航空の整備部に表彰状を贈っている[59]

またJA8118は、ボーイング金属疲労試験機として買い戻した。現在、2階建部分の胴体の一部を輪切りにし、ブリティッシュ・エアウェイズ塗装に塗り直され、ロンドン英国国立科学産業博物館で展示されている。

安全啓発センターの設置編集

2006年平成18年)4月24日東京国際空港整備地区に『日本航空安全啓発センター』が開設された[60]。同センターには、本事故の残存機体の一部(後部圧力隔壁、垂直尾翼前側、後部胴体の一部、座席、フライトデータレコーダ、コックピットボイスレコーダなど)を含め、事故に関する資料が展示されている。

事故前の日本航空社内を知らない社員が9割以上になったことを受け、2012年(平成24年)以降は風化防止のため、JALグループの全社員35,000人に対し、同センターの見学を義務化している。2013年(平成25年)9月30日に一旦閉館後、同年12月10日より、新整備地区にあるJALメインテナンスセンター1内に移転、リニューアルオープンした。JAL社員・関連会社向けの研修施設であるが、一般にも公開されており、事前に申し込みをすれば見学することができる。

遺族会編集

本事故の犠牲者の遺族は、1985年(昭和60年)12月に遺族会「8.12連絡会」を結成した[61]。連絡会は、事故原因の究明や航空安全の推進について、JALやボーイングなどの事故関係者や、社会全般に訴えることを活動目的の一つとしており、会の内部に技術部会を置いて、航空安全に関する独自の研究活動を行った。

この技術部会は、後に「航空安全国際ラリー組織委員会」として独立し、航空安全シンポジウムの開催や、墜落時の衝撃を和らげる座席の開発提言などの活動を続け、2009年(平成21年)3月には、国際的な航空安全に貢献したとして、全米航空惨事被災者同盟 (NADA) の最高賞「航空安全賞」を受賞した[62]

調査資料の廃棄とCVR音声の流出編集

2000年(平成12年)7月ごろには、事故機のコックピット・ボイスレコーダー(CVR)に収録された音声を再録したカセットテープマスメディアに流出した[注釈 25]。その一部音声が8月に入って相次いでテレビ放映され、墜落事故から15年を経て、一般人が墜落直前のコックピットの様子を初めて知ることとなったが、いまだに全ては公開されていない。

2000年(平成12年)8月、運輸省航空事故調査委員会が保管期間の切れた一部の事故調査資料を、すでに廃棄していたことが毎日新聞により報道された。再調査を求める遺族や航空関係者からは、運輸省の対応を批判する声が上がった[63]

装備の更新編集

事故発生直後、事故現場上空で捜索救難活動を行った航空自衛隊百里救難隊所属の救難ヘリコプターKV-107「バートル」は、機体側面の観測窓横に強力な救難用ライト4灯を装備しており、山間部や洋上での夜間救難活動経験もあった。現場周辺を明るく照らす照明弾も装備されていたが「照明弾が地上に落下した後、燃焼熱で山火事を誘発する危険性がある」として、山火事の少ない夏山にもかかわらず使用せず、赤外線暗視装置などの本格的な夜間救難装備がないことなどを理由に、救難活動も行われなかった。

この事故を境に、航空自衛隊航空救難団救難隊には本格的な夜間の捜索救難が可能な赤外線暗視装置を装備したUH-60 ブラックホーク救難・救助ヘリコプターが1990年(平成2年)より順次調達・配備されている。

芸能界・スポーツ界への影響編集

大阪でのレギュラーラジオ番組(MBSラジオMBSヤングタウン」)に出演するために当便を定期利用していた明石家さんまは、当事故以降は東京 - 大阪間の移動には極力東海道新幹線を利用するようになった。

追悼施設編集

 
昇魂之碑(墜落現場)
 
「慰霊の園」日航機123便墜落事故による犠牲者のうち、身元不明の遺骨を収める納骨堂がこのすぐ奥にある(墜落現場から北東へ10km離れた上野村の国道沿いにこれら慰霊の園がある)

墜落現場である「御巣鷹の尾根」には事故の翌年、慰霊碑が建立され[64]、毎年8月11日に18時56分の墜落時刻に合わせて、上野村の神流川灯篭流しが、8月12日には慰霊登山が行われている。

「御巣鷹の尾根」は、公益財団法人「慰霊の園」が地元・上野村の人々を雇用する作業委託で整備が進められた。また地元の人々・警察など当時の関係者・JALの職員や退職者がボランティアの手作業で維持管理しているものも多数あり、群馬県警察の遺体発見場所地図を元に建てられた多数の墓標・みかえり峠の碑・せせらぎを渡る橋・手すりなどがその例である。

事故発生から30年以上が経ち、遺族の高齢化が進んでいることから、事故から21年後の2006年(平成18年)7月より、墜落現場付近を通る国土交通省砂防ダム工事用道路が上野村の村道林道として一般開放された。これにより、墜落現場まで歩く距離が約2.2kmから約800mに短縮された[65]

2016年(平成28年)7月23日午前9時40分ごろ、遺族の慰霊登山に向けてJALの社員7人と登山道の整備などをしていた日本航空安全推進本部ご被災者相談室所属の59歳男性が斜面を滑落、頭を強く打ち、病院に救急搬送されたが、死亡が確認された[66]

事故を題材にした作品など編集

テレビ番組編集

日本放送協会
NHK総合テレビジョン
NHK特集『墜落〜日航機事故調査報告〜』
1985年12月15日放送。
NHKスペシャル『思いをつづった文集-あの日を忘れないで-日航機事故 20年目の遺族』
2005年8月12日放送。
土曜ドラマクライマーズ・ハイ
2005年12月10日・17日放送。2006年9月30日・10月7日再放送。2010年12月には日本映画専門チャンネルにて映画版とあわせて放送された。
特報首都圏『問い続けた30年 日航機事故の遺児たち』
2015年7月24日放送。
NHKスペシャル『日航ジャンボ機事故 空白の16時間 “墜落の夜”30年目の真実』
2015年8月1日放送。行政機関が保有している墜落事故に関する情報を『情報公開制度』を利用し、なぜ墜落場所の特定が混乱したのか、事故報告書で不明とされた部分を、NHKの独自取材をもとに検証・構成した。遺族の1人である吉田由美子の母親が登場し、墜落地点特定までの長野県南佐久郡川上村での目撃証言や、墜落場所とされた御座山に関する情報錯綜を検証した(日航機墜落30年で新資料)。
NHK BSプレミアム
アナザーストーリーズ 運命の分岐点『日航機墜落事故 命の重さと向き合った人々』
2015年8月12日放送。事故当時に日本赤十字社看護婦で救護に携わった人物、事故機の現場写真を掲載した上毛新聞社のカメラマン、遺族と元警察官に、初めてテレビカメラの前に立った人達が登場した[67]
日本テレビ
NNNドキュメント『ドキュメント05.「あの夏…御巣鷹山・日航機墜落それぞれの20年」』
2005年8月15日(14日深夜)放送。
NNNドキュメント『ドキュメント.「夏空の墓標 あの日、御巣鷹の尾根で」』
2014年9月1日(8月31日深夜)放送。2014年の夏、航空業界を目指す東洋大学の大学生たちが、御巣鷹の尾根への登山を試みた。一方で高齢で慰霊登山を断念する遺族もいる。彼らの姿を通して事故を振り返る。
ザ!世界仰天ニュース『若いカップルを引き裂いたJAL123便〜日航機事故で引き裂かれた純愛〜』
2015年12月2日放送[68]。当時佐渡ヶ嶽部屋所属の三段目大相撲力士の琴天旭博且がこの事故で交際していた女性を失う悲劇について描かれた。
TBS
『ボイスレコーダー-残された声の記録-ジャンボ機墜落20年目の真実』
2005年8月12日放送。高濱機長夫人や原因究明に奔走する先輩機長・藤田日出男から見た視点を中心に、事故発生からボイスレコーダー公開に至るまでの経緯について描かれた。
『8.12日航ジャンボ機墜落事故 30年の真相』
2015年8月12日放送。TBSが独自に取材した生存者や親族の証言などをもとに、再現ドラマとドキュメンタリーの2部構成で送った。
テレビ東京
坂本九没後20年ドラマスペシャル『上を向いて歩こう〜坂本九物語〜
2005年8月21日放送。
フジテレビ
ザ・ノンフィクション『15年目の検証』
2000年11月19日放送。ノースダコタ大学航空学科での実験を通じた急減圧発生への疑問、カナダ・セレリス社のデジタル音声分析による公式報告書への疑問(記載されたボイスレコーダの「オールエンジン」というフレーズが実は「ボディギア」ではないかと分析)を放映し、さらに事故調査委員会の委員の中にボーイング747の操縦経験者が一人もいなかったことを指摘した。
金曜エンタテイメント特別企画『8・12日航機墜落事故 20年目の誓い〜天国にいるわが子へ〜』
2005年8月12日放送。2007年12月15日一部地域で再放送。甲子園での高校野球観戦をするため、1人で搭乗し死亡したある小学生の母親から見た視点で描かれている。また合間には、東京航空管制部での対応や生存者をスクープしたフジテレビカメラマンの話も実録ドラマで描かれている。
8.12日航機墜落30回目の夏 生存者が明かす"32分間の闘い"〜ボイスレコーダーの"新たな声"
2014年8月12日放送。よりオリジナルに近いボイスレコーダーの音声を、最新のデジタルリマスター機器で解析し、事故原因の再検証、また聞き取れず報告書で不明とされていた部分を元同僚パイロットとともに解説。そのほか、墜落時刻直前から墜落時刻の黙祷に合わせて現場から須田哲夫(事故直後も現場を取材)が生中継、さらに「事故を語るのはこれが最後」と言う生存者の証言に基づく再現ドラマも放送された。
ザ・ノンフィクション『今だから話せる妻の本音〜日航機墜落事故から30年〜』
2015年8月9日放送。
直撃!シンソウ坂上SP 日航機墜落事故33年目の真相
2018年8月16日放送。番組が4組の遺族に独自取材を行い、33年を経て初めて明かされる壮絶な人生をドラマ化。また、坂上忍が初めて遺族の1人で小学生の息子を失った8.12連絡会・事務局長の美谷島邦子と御巣鷹の尾根に登った。
WOWOW
ドラマWスペシャル『尾根のかなたに〜父と息子の日航機墜落事故〜』
2012年10月7日・14日放送。門田隆将の同名小説をドラマ化。
連続ドラマW沈まぬ太陽
2016年5月8日9月25日放送。同名小説のテレビドラマ化。
ナショナルジオグラフィックチャンネル
メーデー!:航空機事故の真実と真相 シーズン3第3話 「OUT OF CONTROL」(邦題「御巣鷹の尾根」)』
客室乗務員とのやり取りや、酸素マスク着用の必要性を伝える航空機関士の呼びかけに、機長がしばらく応答せずマスクもつけなかったことから、可能性の一つとして急減圧のために操縦士らに低酸素症による一時的な判断力の低下が起こったかもしれないと、クルーが低酸素症でぼうっとしている様子が演じられる。
この番組では、シーズン5から日本語吹き替えを実施しているが、シーズン3のこの放送回のみ先行して吹き替えを実施して放送している。
衝撃の瞬間 シーズン6第5話 「TERRIFIED OVER TOKYO」(邦題「日本航空123便墜落事故」)』
本内容は「事故を検証」する観点で作成されたため、上記「メーデー!」とは内容が異なった。また、この放送では、本便に搭乗し死亡した坂本九の妻である柏木由紀子のインタビューも放送された。
『衝撃の瞬間 特別編「小さなミス」』
ディスカバリーチャンネル
エアクラッシュ2 点検の不備』
上記「ナショジオ」の「メーデー!…」とは、コックピット等機内の再現VTRの内容が若干異なっている。

小説編集

沈まぬ太陽
山崎豊子原作。1995年 - 1999年に週刊新潮で連載。2001年に単行本化。当時の日本航空をモデルとして、社内からの視点で描いたフィクションの作品。2009年に映画化。2016年にテレビドラマ化。
クライマーズ・ハイ
横山秀夫原作。2003年1月、『別冊文藝春秋』に掲載。当事故の報道における地元の上毛新聞社の苦悩を描いた作品。2005年にテレビドラマ化、2008年に映画化。

写真集編集

『4/524』
小平尚典作。1991年。事故現場で撮影したカメラマンによるフォト・ドキュメント。日米同時に刊行された[69]

漫画編集

『御巣鷹山の暑い夏』
小林源文作。自衛隊による事故現場処理の様子を描いたドキュメンタリー形式の劇画で雑誌『PX MAGAZINE』に掲載。『ストライク アンド タクティカル マガジン』2007年11月号にp. 36のセルフリメイクで再掲載。2010年4月単行本化[70]

演劇編集

『赤い鳥逃げた…』
劇団離風霊船1986年に初演。1988年、1989年、1995年、2005年に再演。物語は、事故の生存者と同じ事故に遭ったが自らの死を受け入れられない生存者の家族を軸にしており、役名も実際の生存者の名前を使っている。またラストでは生存者の1人が語ったとされ、メディアでも取り上げられた証言が一言も変えずに使われている。タイトルは、本事故とほぼ同時期にヒットしていた中森明菜の楽曲である「ミ・アモーレ」の異名同曲異歌詞である「赤い鳥逃げた」と当時日本航空の旅客機に描かれていた「鶴丸」に掛けている。
『8・12(はってんいちに)』
劇団裏長屋マンションズ」の座長である赤塚真人が、同事故で親友を失った事実を基に書き下ろした作品。2004年に初演、事故後20年の節目となった翌年には続編(第二章)が上演され、2008年「8・12 〜絆〜」として再演される。物語は、父親との確執を抱えたまま事故機に搭乗した青年の思いを軸に、実在したクラブハウスを舞台に描かれる。同劇団では、作品の上演にあたり毎年御巣鷹山への慰霊登山を実施しているという。
『8・12〜白球〜(はってんいちにはっきゅう)』
劇団裏長屋マンションズ」が、事故から30年を期して2015年初演。同事故で親友を失った座長・赤塚真人が原作、原案。当時、夏の甲子園に出場を果たした息子と、その応援のために123便に搭乗して遭難した元プロ野球選手でもある父親の実話をモチーフに描いた、『8・12』シリーズの新編。来世へと旅立った父親が、自分の年齢になった息子に会うために、現世に舞い戻るというストーリーである。
CVR チャーリー・ビクター・ロミオ
実際に発生した航空事故のCVRを再現した舞台演劇作品。そのうちのひとつが本事故。1999年アメリカ合衆国で初演。日本では燐光群によって2002年に初演。
『操縦不能 UNCONTROLLABLE』
2010年初演。由木事務所。
『ナイス・エイジ』
2000年初演。演劇ユニットナイロン100℃による上演。

映画編集

『御巣鷹山』
渡辺文樹監督作品。自主制作のフィクション。上野村をはじめ全国で上映会。2006年公開。
クライマーズ・ハイ』 - 同名小説の映画化。
2008年7月公開。2012年8月には衛星劇場で放送、2015年第28回東京国際映画祭原田眞人の世界」で劇場再上映され、2016年8月12日夜には日本映画専門チャンネルでそれぞれ放送された。
沈まぬ太陽』 - 同名小説の映画化。
2009年10月公開[注釈 26]

音楽編集

「RAMP IN」「SONG FOR YOU」
1985年11月発売のアルバム『T's BALLAD』に収録された角松敏生の楽曲。歌詞カードには「RAMP IN」が“Dedicated to the stewardesses of JAL 123(JAL123便に乗務していた客室乗務員に捧げる)”、「SONG FOR YOU」が“Dedicated to the souls of the passsengers of JAL 123(JAL123便の乗客の魂に捧げる)”とそれぞれ記載された。また「RAMP IN」は1993年発売のベスト・アルバム『1981-1987』に完全リテイクで再収録。ライナーノーツには改めて“'85年に起きた航空機事故の乗員乗客に捧げた”と記載された。
「Last Flight」
角松敏生の楽曲。2003年発売のシングル「君のためにできること」のカップリング曲として発表。その後アルバム『Summer 4 Rhythm』に収録。

類似事故・事件編集

 
パンナム845便事故当該機
パンアメリカン航空845便離陸衝突事故
ボーイング7471971年。ボーイング747世界初の事故。離陸時に主脚を進入灯に接触させ、4本の油圧配管のうち床下を走る3本を破断したものの緊急着陸に成功した。内田幹樹は著書の中で、この事故後に適切な設計変更がされていれば123便の油圧喪失は防げたのではないかと語っている。
英国欧州航空706便墜落事故
ビッカース ヴァンガード、1971年。圧力隔壁の設計ミスに起因する空中分解。
アメリカン航空96便貨物ドア破損事故
マクドネル・ダグラス DC-101972年。離陸して間もなく、後部の貨物扉が設計・製造時の欠陥により与圧に耐えられず脱落し機体が損傷。操縦が困難な状態に陥った。辛うじて作動した昇降舵と、補助翼とエンジン推力の操作で機体を制御して緊急着陸に成功。機長は油圧のみで操縦する第3世代の機種に不安を抱いており、油圧喪失時の操縦を研究していた。またこの事故では、油圧を完全には喪失しなかった状態が幸いした。しかし、この時の事故での教訓が活かされず、後述の大惨事に繋がった。
トルコ航空DC-10パリ墜落事故
DC-10、1974年。前述の96便で貨物室ドアの改善が指摘されたにも関わらず、製造メーカーの怠慢により、機体の上昇中に貨物室ドアが外れ急減圧が発生。油圧系統を完全に喪失して操縦不能に陥り墜落。123便の事故が発生するまで、単独機航空事故として世界最大の死亡事故だった[注釈 27]
1975年アメリカ空軍C-5サイゴン事故
C-51975年。整備不良のため与圧で扉が外れ操縦系統を損傷し墜落。
タイ航空機爆発事件
エアバスA300-6001986年。後部化粧室内で乗客が不法に持ち込んだ手榴弾の安全ピンを誤って抜き、爆発。圧力隔壁を損傷したため、急減圧が発生し油圧系統を喪失。緊急着陸には成功。
ユナイテッド航空232便不時着事故
DC-10、1989年。本事故の教訓から油圧系統が全滅した場合の操縦方法を研究していたパイロットが非番で搭乗していたため、着地は不完全であったものの緊急着陸に成功。
フィリピン航空434便爆破事件
ボーイング747、1994年。テロリストが爆弾を持ち込み座席下で爆発。床に穴が開き方向舵の操作が困難になった。左右のエンジン出力のコントロールにより緊急着陸に成功。
エメリー・ワールドワイド17便墜落事故
ダグラス DC-82000年。離陸直後、右の昇降舵がメンテナンス不良により制御できなくなりフゴイド運動に陥り墜落。
アメリカン航空587便墜落事故
エアバスA300-600R2001年。離陸直後、方向舵の過剰操作により垂直尾翼が脱落して墜落。
チャイナエアライン611便空中分解事故
ボーイング747、2002年。ボーイング社のマニュアルに沿わない形で行われた、機体スキン(外皮)の不完全な修理のために起きた金属疲労により、急速な破壊により墜落。
ノースウェスト航空85便緊急着陸事故
ボーイング747-400生産第一号機、2002年。巡航中に下部方向舵が左に傾いて動かなくなり機体制御が困難に陥る。操縦桿と左右のエンジン出力のコントロールにより緊急着陸に成功。
カンタス航空32便エンジン爆発事故
エアバスA3802010年。離陸5分後にエンジン爆発が発生、操縦ケーブルが損傷してサイドスティックが操作不能になった。左右のエンジン出力のコントロールにより緊急着陸に成功。
ナショナル・エアラインズ102便墜落事故
ボーイング747-400貨物機、2013年。離陸直後、積み込んだ軍用車が荷崩れを起こして圧力隔壁を突き破り、油圧系統の一部と昇降舵の油圧ジャッキを破壊。操縦不能に陥り墜落。

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 「46」は日本航空に割り当てられたボーイング社のカスタマーコード
  2. ^ 2019年8月現在。戦時下の事故や航空テロ事件を含むが、地上で多数の死傷者が出たアメリカ同時多発テロ事件を除く。
  3. ^ 事故調査報告書は本誌と付録で構成される。また、2011年(平成23年)7月に解説書が示された。
  4. ^ 高濱機長は海上自衛隊から富士航空・日本国内航空を経て1966年(昭和41年)12月にJALに入社。
  5. ^ エンジンと電気系統は無事だった。
  6. ^ 油圧系統は全く使えないことで、ギアレバーによる降輪も不可能であった。そのため航空機関士の提案で、オルタネート方式(電動ロックを解除)による車輪の自重でのギアダウンを行った。
  7. ^ Pre-Recorded announce。予め録音してあって緊急時に自動的に流れる、男性の声で乗客にシートベルトの着用やマスクの装着を指示した音声。
  8. ^ 当時は機内で喫煙が可能であった。
  9. ^ ほぼ同時刻の41分頃、機長の「あたま(機首)下げろ、そんなのどうでもいい」という発言が記録されている。
  10. ^ これに関しては、シートベルト着用サイン点灯中に、乗客が「トイレに行きたい」と申し出たという説と、現在はハイジャックやテロの防止の観点から禁じられているが、当時は禁じられていなかったコックピット見学を乗客が申し出たという説の2説に分かれている。
  11. ^ 報告書には「ドーン」という爆発音が一度で表されているが、音は「ガコン」に近い音が連続して3度記録されている。
  12. ^ 事故調査報告書では、異常発生後1分足らずで油圧喪失に陥ったとしている。
  13. ^ 酸素マスク着用を促す航空機関士に対して機長、副操縦士が同意するが、3名とも墜落まで着用した形跡はない。その理由については不明である。
  14. ^ 電動は油圧システムに比べて応答が遅いため、機体のバランスを崩しやすい。
  15. ^ JA8119に搭載されていたラジオ磁気指示計(RMI)のVOR受信アンテナは垂直尾翼の頂上付近に埋め込まれており、垂直尾翼が破壊された際に回線が切断されたと推測されている。
  16. ^ 後の調査によれば、機体の大部分に数百Gの衝撃が加わったとされている。
  17. ^ そもそも航空機には「○○山から○○メートル」というような正確な位置情報はほとんど必要がなく、TACANの計測は誤差がつきものだったという[9]
  18. ^ 実際の墜落現場も三国峠から北西に2.9kmの群馬県側であった。
  19. ^ 13日の『いいとも!』は『テレフォンショッキング』のみの放送となった。
  20. ^ 番組出演の明石家さんまは当便に搭乗予定だったが、後述の事情があって搭乗を回避し難を逃れている。
  21. ^ 当時の司会のうつみ宮土理が夏休み休暇中のため、代役を務めた。
  22. ^ 同行していた坂本のマネージャーの小宮勝廣(マナセプロダクションマネージャー)も犠牲になった。
  23. ^ 跡地は藤岡公民館となり敷地内には「日航機墜落事故遭難者遺体安置の場所」の碑が建てられた。
  24. ^ 休止期間中はプロ野球中継に差し替えられた。
  25. ^ 国際民間航空条約第13付属書により、事故調査資料は関係者以外には公開されないと定められている。なお『隠された証言』の著者である藤田日出男の元にも、音声テープや調査官のメモ等の資料が提供されたという。
  26. ^ なお、当事故で父親を失ったダイアナ湯川が演奏する曲がこの映画の間奏曲として流れている。
  27. ^ 2018年現在でも、ニューデリー空中衝突事故に次いで4番目に大きい航空機事故である

公式記録(事故調査報告書)出典編集

事故調査報告書

  1. ^ 事故報 1987, p. 17–19 (2.7 航空機に関する情報)
  2. ^ 事故報 1987, pp. 101–104 (3.2.2 昭和53年大阪国際空港における事故による損壊の修理作業並びにその後の事故機の運航および整備点検について)
  3. ^ 事故報 1987, pp. 6–8 (2.1 飛行の経過)
  4. ^ 事故報 1987, pp. 24–25 (2.13 医学に関する情報)
  5. ^ 事故報 1987, p. 114 (3.2.7 異常事態における運行乗務員の対応)
  6. ^ 事故報 1987, pp. 77–83 (3.1.7 DFDRに基づく事故機の飛行状況及び飛行経路について(関係資料付録6))
  7. ^ a b c d e f g h 事故報 1987, pp. 25–28 (2.14 人の生存、死亡又は負傷に関係ある捜索、救難及び避難に関する情報)
  8. ^ 事故報 1987, pp. 121–122 (3.2.10 乗員・乗客の死傷についての解析)
  9. ^ 事故報 1987, p. 63–64 (2.16.8 放射性物質に関する調査)
  10. ^ 事故報 1987, p. 3 (1.2 航空事故調査の概要)
  11. ^ 事故報 1987, p. 128 (4.2 原因)
  12. ^ 事故報 1987, p. 129 (5.1 事故後に講じられた措置)
  13. ^ 事故報 1987, pp. 69–70 (3.1.2.4 破壊順序の推定)

事故調査報告書 付図

事故調査報告書 写真

事故調査報告書 別添

  1. ^ a b c 事故報 1987, pp. 309–343 (別添6 CVR記録)

事故調査報告書 (付録)

  1. ^ 事故報(付録) 1987, pp. 95–130 (付録6 DFDRに基づく事故機の飛行状況及び飛行経路について)
  2. ^ 事故報(付録) 1987, pp. 73–74 (付録4 付図-4 (b)客室、コクピット温度変化)

事故調査報告書についての解説

  1. ^ a b c d e f 事故報(解説) 2011, p. 19 (表3 各航空機の測位結果)
  2. ^ 事故報(解説) 2011
  3. ^ 事故報(解説) 2011, pp. 2–3 (2.最近の急減圧の事例)
  4. ^ 事故報(解説) 2011, p. 16 (8.その他の要因が関与した可能性について)
  5. ^ 事故報(解説) 2011

出典編集

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  2. ^ 朝日新聞社会部 1990.
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  4. ^ 鶴岡・北村 1991.
  5. ^ a b c d 吉岡忍 1989.
  6. ^ 朝日新聞社会部 1990, pp. 286–294.
  7. ^ a b 藤田日出男 2006.
  8. ^ 朝日新聞社会部 1990, p. 35.
  9. ^ 朝日新聞社会部 1990, p. 79.
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  29. ^ 昭和60年8月28日「第102回国会 交通安全対策特別委員会」議事録中ほどにある、当時の衆議院議員・坂井弘一委員と運輸省航空局管制保安部長・中村資朗の質疑応答
  30. ^ 安達功 (2016年1月13日). “御巣鷹の真実~日航ジャンボ機墜落事故~”. 時事通信. https://www.jiji.com/jc/v4?id=ostakanoshinjitu201601130002 
  31. ^ 朝日新聞社会部 1990, pp. 21–22.
  32. ^ 朝日新聞社会部 1990, pp. 184–187.
  33. ^ JAL123便墜落報道(2)
  34. ^ キャスターの名前は表示されなかったが、『ANNニュースレーダー』の当時のメインキャスターである萩谷順が伝えた(2015年11月12日 19:00 - 20:54 BS朝日『ザ・ドキュメンタリー 坂本九 〜幸せを売る芸人〜』放送 より[出典無効])。
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  50. ^ 123便事故調査報告書にある事故隠しとは・・”. 日本乗員組合連絡会議. 2019年12月17日閲覧。
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  69. ^ 小平尚典『4/524』新潮社、1991年7月。ISBN 978-4103816010
  70. ^ 小林源文『ゲンブンマガジン別冊Vol.1 御巣鷹山の暑い夏』カンプグルッペ・ゲンブン、2010年4月5日。ASIN B003ET1GXO

参考文献編集

公式記録(事故調査報告書)編集

航空事故研究編集

  • 加藤寛一郎
    • 加藤寛一郎『壊れた尾翼 日航ジャンボ機墜落の真実』講談社〈講談社+α文庫〉、2004年6月18日(原著1987年)。ISBN 978-4062568548(原著 技報堂出版 ISBN 4-7655-4337-4
    • 加藤寛一郎『爆発JAL123便―航空機事故、複雑怪奇なり』大和書房〈だいわ文庫〉、2006年6月。ISBN 978-4479300335
  • 杉江弘『機長の「失敗学」』講談社、2003年4月。ISBN 978-4062118002
  • 山本善明
    • 山本善明『墜落の背景―日航機はなぜ落ちたか』上、講談社、1999年9月。ISBN 978-4062098847
    • 山本善明『墜落の背景―日航機はなぜ落ちたか』下、講談社、1999年11月。ISBN 978-4062099196
    • 山本善明『日本航空事故処理担当』講談社〈講談社プラスアルファ新書〉、2001年3月1日。ISBN 978-4062720649
  • 藤田日出男
    • 藤田日出男『あの航空機事故はこうして起きた』新潮社〈新潮選書〉、2005年9月21日。ISBN 978-4106035562
    • 藤田日出男『隠された証言―JAL123便墜落事故』新潮社〈新潮文庫〉、2006年7月28日(原著2003年8月12日)。ISBN 978-4101293516 (原著 ISBN 978-4104620012

関係者および報道による記録編集

  • 『日航ジャンボ機墜落―朝日新聞の24時』朝日新聞社会部、朝日新聞社〈朝日文庫〉、1990年8月1日(原著1985年12月)。ISBN 978-4022606068(原著 ISBN 978-4022554413
  • 飯塚訓(群馬県警察高崎警察署身元確認班長)
    • 飯塚訓『墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便』講談社〈講談社+α文庫〉、2001年4月29日(原著1998年)。ISBN 978-4062565158(原著 ISBN 4-06-209259-X
    • 飯塚訓『墜落現場 遺された人たち―御巣鷹山、日航機123便の真実』講談社、2001年。ISBN 978-4062107464
  • 河村一男(事故対策本部長として事後処理に当たった当時の群馬県警警察本部長
  • 新藤健一『映像のトリック』講談社〈講談社現代新書〉、1986年2月。ISBN 978-4061488045
  • 鶴岡憲一、北村行孝『悲劇の真相―日航ジャンボ機事故調査の677日』読売新聞社、1991年6月。ISBN 978-4643910599
  • 西村匡史『悲しみを抱きしめて 御巣鷹・日航機墜落事件の30年』講談社〈講談社+α新書〉、2015年7月22日。ISBN 978-4-062729055
  • 日本赤十字社『救護体験記 : 85・8・12日航機墜落事故現場から』日本赤十字社、1986年。全国書誌番号:99015336
  • 吉岡忍『墜落の夏―日航123便事故全記録』新潮社〈新潮文庫〉、1989年7月27日(原著1986年8月)。ISBN 978-4101163116(原著 ISBN 978-4103630012
  • 米田憲司『御巣鷹の謎を追う-日航123便事故20年』宝島社、2005年6月23日。ISBN 978-4796646673

遺族による記録編集

  • 門田隆将『風にそよぐ墓標-父と息子の日航機墜落事故』集英社、2010年8月5日。ISBN 978-4087805765
  • 川北宇夫『墜落事故のあと』文藝春秋、1992年2月。ISBN 978-4163462103
  • 美谷島邦子『御巣鷹山と生きる―日航機墜落事故遺族の25年』新潮社、2010年6月1日。ISBN 978-4103254218

関連項目編集

外部リンク編集