東京国際映画祭

日本で毎年開催される映画祭

東京国際映画祭(とうきょうこくさいえいがさい、英語: Tokyo International Film Festival)は、毎年10月日本東京都にて開催される映画祭公益財団法人ユニジャパンが主催する国際映画製作者連盟(FIAPF)公認の国際映画祭であり、アジア最大級の映画祭となっている。略称は、TIFF

東京国際映画祭
Tokyo International Film Festival
第35回東京国際映画祭の様子
イベントの種類 映画祭
通称・略称 TIFF
正式名称 東京国際映画祭
開催時期 毎年10月下旬~11月上旬
初回開催 1985年
会場 日比谷有楽町銀座地区ほか
東京都内の各劇場及び施設・ホール
主催 公益財団法人ユニジャパン
共催 経済産業省
国際交流基金アジアセンター(アジア映画交流事業)
東京都(コンペティション部門)
協賛 日本コカ・コーラAmazon Prime Video(オフィシャルパートナー)
三井不動産タカラベルモント(プレミアムスポンサー)
大和証券グループ、アイム・ユニバース、バンダイナムコホールディングスハイアット リージェンシー 東京ベイ(スポンサー)
ほか各社
プロデューサー チェアマン安藤裕康
公式サイト
備考
1985年1987年1989年は隔年開催。1991年より毎年開催。ただし1994年のみ「東京国際映画祭・京都大会」。

概要 編集

日本で唯一のFIAPF公認のコンペティティブ長編映画祭(Competitive Feature Film Festival)である。

1985年昭和60年)のつくば万博開催を受け、通産省(現・経済産業省)からの誘いがあり、日本映画製作者連盟(以下、映連)会長・岡田茂東映社長や、瀬島龍三らの尽力で創設された[1][2]

1985年のスタート時は隔年開催で渋谷の映画館を中心に開かれていたが、1991年第4回に岡田映連会長の指名で徳間康快がゼネラル・プロデューサー(GP)就任後は[3][4][5]、毎年開催されるようになった[3][5]1994年平安遷都1200周年記念として「京都国際映画祭 / 第7回東京国際映画祭 - 京都大会」という名称のもと京都市で開催された[6]

国際審査委員が最優秀作品賞である“東京グランプリ”を選出する「コンペティション」や世界の映画祭で話題になった作品を日本公開前にプレミア上映する「ガラ・セレクション」、長編3作目までのアジアの新鋭監督の作品に焦点を当てた「アジアの未来」、まだ日本での配給が決まっていない世界の注目作品を紹介する「ワールド・フォーカス」、海外に紹介されるべき日本映画という視点で選考された作品を上映する「Nippon Cinema Now」などのメイン企画をはじめ様々な企画が毎年開催される。2004年には世界の映画界に貢献した映画人をたたえる賞として「黒澤明賞」が新設された[7]。黒澤明賞が設けられたのは2008年まで。2005年には映画祭最高賞の名称が「東京グランプリ」から「東京 サクラ グランプリ」 に変更された [8]が、2014年に「東京グランプリ」に戻された。 2014年、第27回東京国際映画祭ラインナップ発表会の際に、比類なき感性で常に時代を切り開き続けている人の実績をたたえる賞として「サムライ“SAMURAI”賞」が新設された[9][10]2017年まで)。2021年には商業経験のない作家を対象とした短編コンペの「Amazon Prime Videoテイクワン賞」が設立された。

2015年、上海国際映画祭との協力連携が発表される[11]

コンペティション部門への応募作品は2021年には113カ国・地域から1533本に上り、「アジア最大級の国際映画祭」へと成長している[12]

開催日程&受賞一覧 編集

回数 開催日程 グランプリ受賞作品 黒澤明賞
(第17回 - 第21回)
サムライ“SAMURAI”賞
(第27回 - 第30回)
第1回 1985年5月31日
- 6月9日
台風クラブ』(相米慎二監督)  日本
第2回 1987年9月25日
- 10月4日
古井戸』(呉天明監督)  中国
第3回 1989年9月29日
- 10月8日
『ホワイト・ローズ』(ライコ・グルリチ監督)  ユーゴスラビア
第4回 1991年9月27日
- 10月6日
希望の街』(ジョン・セイルズ監督)  アメリカ合衆国
第5回 1992年9月25日
- 10月4日
ホワイト・バッジ』(鄭智泳監督)  韓国
第6回 1993年9月24日
- 10月3日
青い凧』(田壮壮監督)  中国
第7回 1994年9月24日
- 10月2日
『息子の告発』(巌浩監督)  中国
第8回 1995年9月22日
- 10月1日
該当作品なし
第9回 1996年9月27日
- 10月6日
コーリャ 愛のプラハ』(ヤン・スヴェラーク監督)  チェコ
第10回 1997年11月1日
- 10日
ビヨンド・サイレンス』(カロリーヌ・リンク監督)  ドイツ
パーフェクト サークル』(アデミル・ケノヴィッチ監督)  ボスニア・ヘルツェゴビナ
第11回 1998年10月31日
- 11月8日
オープン・ユア・アイズ』(アレハンドロ・アメナバル監督)  スペイン
第12回 1999年10月30日
- 11月7日
『ダークネス&ライト』(チャン・ツォーチ監督)  台湾
第13回 2000年10月28日
- 11月5日
アモーレス・ペロス』(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督)  メキシコ
第14回 2001年10月27日
- 11月4日
『スローガン』(ジェルジ・ジュヴァニ監督)  アルバニア
第15回 2002年10月26日
- 11月4日
『ブロークン・ウィング』(ニル・ベルグマン監督)  イスラエル
第16回 2003年11月1日
- 9日
『暖〜ヌアン』[13]霍建起監督)  中国
第17回 2004年10月23日
- 31日
ウィスキー』(フアン・パブロ・レベージャパブロ・ストール監督)  ウルグアイ スティーヴン・スピルバーグ
山田洋次
第18回 2005年10月22日
- 31日
雪に願うこと』(根岸吉太郎監督)  日本 侯孝賢
市川崑
第19回 2006年10月21日
- 29日
『OSS 117 カイロ、スパイの巣窟』[14]ミシェル・アザナヴィシウス監督)  フランス ミロス・フォアマン
市川崑
第20回 2007年10月20日 - 28日 迷子の警察音楽隊』(エラン・コリリン監督)  イスラエル デヴィッド・パットナム
第21回 2008年10月18日
- 26日
『トルパン』(セルゲイ・ドヴォルツェヴォイ監督)  ドイツ  スイス  カザフスタン  ロシア  ポーランド ニキータ・ミハルコフ
チェン・カイコー
第22回 2009年10月17日
- 25日
『イースタン・プレイ』[15](カメン・カレフ監督)  ブルガリア
第23回 2010年10月23日
- 31日
『僕の心の奥の文法』(ニル・ベルグマン監督)  イスラエル
第24回 2011年10月22日
- 30日
最強のふたり』(エリック・トレダノ/オリヴィエ・ナカシュ監督)  フランス
第25回 2012年10月20日
- 28日
もうひとりの息子』(ロレーヌ・レヴィ監督)  フランス
第26回 2013年10月17日
- 25日
『ウィ・アー・ザ・ベスト!』(ルーカス・ムーディソン監督)  スウェーデン
第27回 2014年10月23日
- 31日
神様なんかくそくらえ』(ジョシュア・サフディ、ベニー・サフディ監督)  アメリカ合衆国  フランス 北野武
ティム・バートン
第28回 2015年10月22日
- 31日
『ニーゼ』(ホベルト・ベリネール監督)  ブラジル 山田洋次
ジョン・ウー
第29回 2016年10月25日
- 11月3日
『ブルーム・オヴ・イエスタディ』(クリス・クラウス監督)  ドイツ  オーストリア マーティン・スコセッシ
黒沢清
第30回 2017年10月25日
- 11月3日
『グレイン』 Grain (セミフ・カプランオール監督)  トルコ[16] 坂本龍一[16]
第31回 2018年10月25日
- 11月3日
『アマンダと僕』 (ミカエル・アース監督)  フランス
第32回 2019年10月28日
- 11月5日
『わたしの叔父さん』(フラレ・ピーダセン監督)
第33回 2020年10月31日
- 11月9日
新型コロナウイルス感染症の感染拡大に伴いコンペティション部門中止
TOKYOプレミア2020部門観客賞/東京都知事賞受賞『私をくいとめて』(大九明子監督)  日本
第34回 2021年10月30日
- 11月8日
『ヴェラは海の夢を見る』(カルトリナ・クラスニチ監督)
観客賞/スペシャルメンション『ちょっと思い出しただけ』(松居大悟監督)  日本
第35回 2022年10月24日
- 11月2日
『ザ・ビースト』(ロドリゴ・ソロゴイェン監督)
第36回 2023年10月23日
- 11月1日
『雪豹』(ペマ・ツェテン監督)

部門 編集

現在ある部門・企画 編集

  • コンペティション
    • 当初は「インターナショナル・コンペティション」と「ヤングシネマ・コンペティション」に分かれていた。
  • ガラ・セレクション(2021年 - )
  • アジアの未来(2013年 - )
  • ワールド・フォーカス(2013年 - )
  • Nippon Cinema Now(2021年 - )
  • 日本映画クラシックス(2015年- )
  • ジャパニーズ・アニメーション(2019年- )
  • TIFFシリーズ(2021年- )
  • Amazon Prime Videoテイクワン賞(2021年- )

過去にあった部門・企画 編集

日本映画部門 編集

アジア映画部門 編集

その他 編集

会場 編集

2003年までは渋谷のみで開催され、Bunkamuraオーチャードホールシアターコクーンル・シネマ1・2)や渋谷の他の映画館やホールが会場となっていた。 2004年から2008年までは渋谷のBunkamuraと六本木ヒルズが会場となっていた。 2009年以降は渋谷を会場とせず、六本木ヒルズをメイン会場として映画祭が開催されている(2009年と2010年と2013年は六本木のみで開催、2011年は六本木と日比谷、2012年は六本木と日本橋、2014年は六本木・銀座・日本橋・京橋で開催。2015年は六本木・銀座・新宿で開催)。2016年は六本木・銀座で開催された。六本木ではシネマート六本木も会場として使われていた(2008年 - 2014年)。 2018年は、六本木は六本木ヒルズとEXシアター六本木を使用し、東京ミッドタウン日比谷 日比谷ステップ広場でも上映などが催された。 2021年からはメイン会場を日比谷有楽町銀座地区に完全移転し、オープニング会場は東京国際フォーラム(ホールC)で行われ新装開催となった。2022年は東京宝塚劇場でOP開催予定

日本人の受賞 編集

創設経緯 編集

1982年通産省(現・経済産業省)から、岡田茂映連会長に1985年のつくば万博に合わせて国際映画祭をやれないかという要請があった[18][19][20]。岡田に話を持ち掛けたのは小長啓一通産省政策局長とされる[21]。通産省としては衰退の一途を辿る国内映画産業が復活の兆しが見えないため、国際映画祭という刺激を与えることで活を入れたいという話で[18]、つくば万博に合わせ、一週間程度の期間で東京で開く案が有力視され、少なくとも二年に一回の開催とし、定期的な国際映画祭に育てていくという基本的なプランを映連で1982年7月末にまとめた[18]。つくば万博の目玉がないため、映画祭の案が出たものと見られたが[20]、日本政府からの援助は1億2000万円[20]。1983年1月から2月にかけて第二回マニラ国際映画祭に岡田を団長とする映連幹部が参加し、同映画祭の運営の詳細を聞いたところ予算が約4億円で[20]、その金額でも参加65ヵ国、約1000人のバイヤーの費用その他は賄えないと同映画祭を個人的な趣味で始めたといわれるイメルダ・マルコスから聞いた[20]。映画祭の記者会見の席上、現地メディアから「日本で国際映画祭はやらないのか」という質問が出たため、岡田は「通産省からその種のものをやってくれないかという要請は来ているが、とても日本ではこういう映画祭は考えられない」と答えた[20]東洋の国、特に日本は地理的なハンデもあり、国際映画祭を行うと参加国の交通費など欧米と比べて資金が高くつくし、文化的に価値のあるものに金を出さないというお国柄で[20][22]、映画業界にも金はないため、政府援助1億2000万円程度で開催できる筈もなかった[20]。余程強力なスポンサーでも見つけない限り、日本での国際映画祭開催は不可能と見られた[20]

国際映画祭は1970年大阪万博のプログラムの一つとして「日本国際映画祭」と銘打ち、行われたことがあり(1970年4月1日~10日、大阪フェスティバルホール[2][23][24][25]、実務を担当したのは当時の岡田の上司・大川博東映社長だった[23][24][26]。しかし国際映画祭での出品作は未公開作に限るという規定が厳しく[24]、辞退会社が続出[24][27]。当時は日本映画の不況が深刻化した時代で[28]、各社映画祭どころではなく[19]松竹城戸四郎は全くやる気なし、大映永田雅一は会社がおかしくなり、日活堀久作はこんなものはダメだと言うし、東宝松岡辰郎は乗り気でなく、どこも協力してくれず[29][30]。上映は海外も合わせて全部で20本に留まった[25][31]。また欧米の映画祭では自国の法律倫理基準で、他国の芸術作品を測ることはできないという"通則"があり[32][33][34]スウェーデンハードコア私は好奇心の強い女』がノーカット無修正で上映されるのかが、マスメディアに盛んに取り上げられ[2][35][36][37]、同作は過激な裸体・性愛描写が各国で検閲議論を巻き起こし、世界中で「ポルノ解禁」をもたらす引き金になった曰く付きの映画であったが[35]、この影響もあって日本映画はさっぱり話題にならず[23][32]、同作の監督と税関の間に挟まり大川は手を焼いた[36][37](結局45ヵ所の修正、11分間カットされて上映された)[35][38]。「大川は勲章が欲しいからやるんだろう」[29]「あれが国際映画祭か?」などと散々に叩かれ[39]、成果なしに終わり[23]、映画界では国際映画祭はタブーなどと言われた。間もなく大川が亡くなり、残務処理を岡田が引き継いで往生した[19]。映画界にとって何の実利もなく、岡田は最初は乗り気でなく[23]、やらない方がいいという先行的な考えを持っていた[19]

しかし元電通小谷正一が中心となり[19]日本ヘラルド原正人、岡田晃、山本又一朗鹿内春雄がグループを組み、開催実現に向け、岡田に盛んに働きかけた[19]。岡田は通産省やつくば万博のためのイベントだけでは映画界全体にとってメリットがなく、やる意味がないと突っぱねた。映画界のリーダーである岡田を説得しなければ実現は不可能で、小谷らが岡田に連日連夜押し込みを続け、引き受けざるを得なくなった[19][23]。仕方なく岡田が東宝の松岡功、松竹の奥山融、大映の徳間康快にっかつ根本悌二らに頭を下げ、協力を要請し、ようやく開催に向け動き出した[19][40]。先の万博での映画祭は規模が小さかったため、東京国際映画祭が日本初の国際映画祭という認識だった[23][35][41][42][43][44][45]

開催まで 編集

1983年10月25日に最初の会議が開かれ[46]、1983年11月に岡田らとマスコミとの懇談会を開くなど[23]、輪郭を決め、岡田と小谷らで準備委員会を作り、1983年12月に大まかなプランニング発表があった[47]。この後、組織委員会を作る際に岡田と小谷で相談し、日本商工会議所に協力を仰ぐことになり[19]、当時の商工会議所会頭は岡田の後見人を自称していた永野重雄だったが[48]五島昇に会頭をバトンタッチすることが決まっていて、忙しいときに五島に頼むのは無理だろうと、誰かいい人はいないかとなり、岡田も付き合いのある瀬島龍三を候補に挙げたら[19][49]、運輸省も是非と賛成し、岡田と小谷で瀬島に「組織委員会委員長になってくれ」と頼みに行ったら、瀬島から「いきなり組織委員長と言われても、わたしは映画を全然知らない人間だから困る」と断られた[19]。岡田は必ず政府との問題が色々起こって来ると予想し強引に瀬島を口説き、永野重雄からも瀬島に協力要請があり[50][51]、瀬島が渋々引き受けた[19]。瀬島は当時の首相中曽根康弘ブレーンの一人だった。

1984年2月24日、東京国際映画祭準備委員会が総会で準備委員会を「組織委員会」に発展改組し[52][53]、実施運営の総括組織として「実行委員会」を発足させ、組織委員会会長に瀬島龍三、実行委員会実行委員長に岡田茂、ゼネラル・プロデューサーに小谷正一が就任[52][53]。組織委員メンバーとして他に、天野房三渋谷区長、井川博日本商工会議所専務理事、大島渚日本映画監督協会理事長、岡道明東急エージェンシー常務取締役、加戸守行文化庁次長、川口幹夫NHK専務理事、小長啓一通産省政策局長、坂倉芳明西武百貨店社長、並木貞人商店会・全振連会長、古川勝巳外国映画輸入配給協会会長、三浦守東急百貨店社長、三宅和助外務省情報文化局長、八住利雄日本シナリオ作家協会理事長を選出した[23][40][52]。構成メンバーの追加は岡田実行委員長を中心に人選すると発表した[52]。メンバーは全員無償のボランティア[31]

国際映画製作者連盟から公認映画祭と認定を受け、1984年4月4日、ホテルキャピタル東急で正式に東京国際映画祭開催の決定発表があり[50][51][54]、東京国際映画祭組織委員会、実行委員会が映画祭の概要を発表した[55]。岡田茂実行委員長を補佐する副委員長には松岡功が選出された[54]。当時国際映画製作者連盟から公認された国際映画祭は八つで[46]、東京は九番目であった[46]

1984年のカンヌ国際映画祭に岡田茂東京国際映画祭実行委員長ら代表団と内田宏フランス大使が出席し[40][56]、期間中の1984年5月19日の夜、当地のホテルマルチネで、東京国際映画祭開催の公式発表が行われた[56][57]。カンヌには世界の映画祭関係者が集まるため、極東の遠い都市での映画祭に好奇心がそそられ[57]、36ヵ国から800人のジャーナリストが集まり、記者会見に用意した椅子も足りずに立ち見が出る盛況ぶりで、各国の東京国際映画祭に対する関心の高さがうかがえた[58][56]。アジア最大の映画マーケットである日本で、これまで国際映画祭が開かれなかったことが不思議という感想を持たれた[59]。後述の理由で期日を反対された敵地での会見になったが[56]、会見後はジャン・マレーミレーヌ・ドモンジョなど、俳優、監督、プロデューサーらが「ぜひ東京に行きたい」と岡田実行委員長を祝福した[56]

1984年7月26日、ホテルニューオータニで、第2回実行委員会が開かれ、総合調整委員会実行委員長・岡田茂、ゼネラルプロデューサー・小谷正一、アソシエ―テッドプロデューサー・原正人、岡田晃、海外渉外委員会委員長・古川勝巳、副実行委員長兼広報委員会委員長・松岡功、上映委員会委員長・奥山融、作品選定委員会委員長・徳間康快などが決まった[60]。各映画会社の社長に責任者になってもらう形をとった[61]。渋谷地区の委員会も結成され、渋谷の街ぐるみの映画祭とすると申し合わせがあった[54]。また部会は「映画企画」「一般企画」「科学万博」「ニューメディア」の4部会があり、「映画企画」の総合プロデュースが山本又一朗で[60]、山本が自身のプロデュース作『Mishima』の上映問題で後に騒ぎを起こした[62]。1984年11月、各企画の上映作品や開催場所、期間など具体的な内容も決定した[63]。1984年12月25日、在京テレビ局各社に対し映画祭の説明会を開き、協力を要請[54]。若者向けの企画も多く組まれ、映画の素晴らしさをファンにPRする絶好の機会となり[64]、「どうしたら映画離れを食い止めることができるか」という長年映画人に課せられた映画再興という問いの答えを示す意地の舞台になった[64][65]

1985年5月7日、内幸町日本プレスセンターで、岡田茂実行委員長より、映画祭の全ての企画の全容が発表された[66][67][68]。また徳間康快作品選定委員会委員長が「すべての上映作品は国際映画祭規約に準じて上映される」と、間接的発言ながらヘアも無修正のまま上映されることを正式に認めた[68]

諸問題 編集

公認問題

日本で初めて開かれる大規模な国際映画祭で、諸問題が山積で大揺れ[69][70][71]。変更を余儀なくされていくケースがたくさん出た[23]。国際映画製作者連盟から公認映画祭と認定はされたが[31]仮免許のようなもので「グランプリ」という名称は使えず[31]。第二回からは「グランプリ」という名称が許されて映画祭の本命である東京グランプリを競う作品のコンペティションが出来るということで[31]、第一回は「グランプリ」を選出するコンクールがないため[72]、いろんな催しが企画され苦心のプログラムが組まれた[72]。プログラムの超目玉が「ヤングシネマ85」(1945年以降に生まれた監督作品のコンペ)であった[2][73][74]。内外の新進監督のコンクールで、最優秀作品に次回作品の製作資金として150万ドル(当時は3億8000万円に相当)[31]を提供するという世界の映画祭でも前例のない高額賞金で、ヨーロッパの各国から「本当か?一桁間違えてないか?」と心配されたが[31]、「さすが経済大国」と改めて感心された[31]。国際映画祭では初めての賞金つきコンクールと書かれたものがある[75]。同プログラムのチーフプロデューサー・佐々木史朗ATG社長がカンヌでいきなり「150万ドル出す」と発表したもので、隣にいた岡田が「大丈夫か、わしはそんな金知らんぞ」と思わず声を上げた[19]。どこの国の若手監督も製作費に悩んでいるため、カンヌでの記者会見では作品の管理はどうするのだ等、若手監督らが代表団を質問責めに遭わせた[56][74]。150万ドルはフジテレビCSKが出資した[76]。CSKグループには、セガ・エンタープライゼスぴあが参加しており[77]、ぴあは東京国際映画祭を皮切りに、新しく立ち上げた「ぴあ基金」制度を仲介として、各種文化イベントに資金援助していくと発表した[77]。当時の社会主義国のほとんどを含む世界40ヵ国から519本の応募作品が殺到し[78]、世界中から注目される良い切っ掛けになった[31][74]。当時映画製作の主要国は54ヵ国といわれ[31]、日本で上映されるのは10ヵ国以下で、70%がアメリカ映画、あとの30%が5、6ヵ国といわれた[31]。「ヤングシネマ85」の最優秀作品は、519本の中から予備選で16作品が上映され、大手映画会社から無視され続けお蔵入りしていた[79]相米慎二の『台風クラブ』が選ばれた[80][81][82]。審査の席上で「少しでも多くの監督にチャンスを」などと[83]妙な策略が行われ[2][84]、賞金は150万ドルではなく、75万ドル(1億8000万円)に突如変更され[2][84][85]、二位の『At』と三位の『止った時間』に残りの金額を分配した[83][86]。相米は「次回作は武田泰淳の『富士』をやります」と話したが[76]、賞金を『光る女』の製作に充てた。「ヤングシネマ85」は国内外の映画人から高い評価を受け[72]、審査委員長だったデヴィッド・パットナムも「世界の若手を育てるために賞金を出すという発想に、これぞ時代を感じさせる映画祭だと感心した」と評した[75]。企画は「映画企画」の部会のメンバーの中に映画祭の否定論が多く[46]、やるなら「何かユニークな目玉がないか」となり、メンバーで話しているうち、誰かがこの企画を挙げたという[46]

資金調達

岡田が1980年に渋谷を本拠に置く東急レクリエーション社長にも就任しており、渋谷を文化都市、文化エリアとして大いにイメージアップを図ろうと渋谷を開催地に決めた[19]NHKホール使用の許可も取り、連動すれば大きなイベントを組めると構想し、町ぐるみで映画祭に参加してもらうことになった[19]。岡田の予想通り、開催に向け動き出すと外務省から「通産省主導型の映画祭はおかしい」とか、文化庁は「映画祭、フェスティバルという名前はわれわれの所管だ」などとクレームを付けてきたが[19]、これらは瀬島でないと解決できない問題であった[19]カンヌベルリンヴェネツィア世界三大映画祭は、政府から物心両面の手厚い支援を受けていたが[22]、日本政府にそれは期待できないため[22]、独力で民間から資金を集めた[22]。このため大部分は企業の協力に依存せざるを得ず、スポンサーの名が目立つ商業主義などと批判された[22]。映画祭を国際的に宣伝するためには、できるだけ多くの映画人、ジャーナリストを招待することが必要で、財政が充分でないと招待者数を限定せざるを得なくなり「これでは国際映画祭ではなく、国内映画祭だ」と陰口をたたかれるからである[22]。事務局で働く人の大半を映像の関係者にボランティアをお願いした[22]。運営資金は5億円と算段し[23]、資金調達の目途はついたが、寄付金などは税金を取られて実際は2億5000万円ぐらいしか使えないことが分かり、それなら財団でやろうと考え、東京都が財団を持っていることを知り、これを使おうとしたら政治問題化する可能性があると都の副知事から反対された[19]。このため新しく独自の財団を作ったが、許可が降りるまで一年以上かかるとされたが、これも瀬島の力を借りて短期間で許可を降ろさせた[2][19]。この財団を作るのに一億円以上かかった。5億円の資金調達は岡田と瀬島で相談し[19]、岡田が各映画会社、各テレビ局丸井の青井忠雄ら、渋谷地区の大きな流通関係に協力を仰ぎ、東急グループ1億円、2億円とも[87]西武グループ7000万円[88]鈴木俊一東京都知事にも頼みに行き、5000万円の予算措置をつけてもらい、通産省は最初の話より金を出さなかったともいわれ、予算額の5億円は調達した[19]。5億でも足らないことが予想されたため、電通東急エージェンシーで更に金を集めた[19]。1985年に第一回理事会を開き、各映画会社社長、各テレビ局社長に全員理事で入ってもらった[19]

開催期日の変更

つくば万博との連動が趣旨だったため、最初は1985年4月の開催を予定していた[19][56]。ところが毎年5月に開催するカンヌ国際映画祭当局が「4月は困る、カンヌの直前にやるなら一切協力しない、やるのなら秋に」とクレームを付けて来た[2][23][56]。カンヌ映画祭当局は国際映画製作者連盟にかなりの圧力をかけた[23]。秋にやっていては効果が薄いと岡田が判断し、カンヌ映画祭当局を説得し、1985年6月開催を決めた[19][23]。渋谷のNHKホールを主会場に、渋谷の映画館、ホールを会場に1985年5月31日~6月9日の10日間の開催を決定した[89][90]。また新しい科学技術のお披露目として『』をNHKホールと筑波万博の会場と同時に映すという宇宙中継(衛星放送)が計画されていたが[46]、『乱』の完成遅れ等の理由で中止になった[46]

ヘア問題

1970年の映画祭でも大きく取り上げられ[90]、これまで幾度となく争われた"芸術か""ワイセツか"問題がここでも起き[74]、"ヘア解禁"がなるのか、大きな注目を浴びた[23][33][91][92]。欧米の多くの国の映画は一般映画でもヌードシーンやベッドシーンで、普通に男女の陰毛を隠さず上映するためで[74][93]、世界に冠たる検閲制度を持つ日本では、明治43年に制定された関税定率法により[71][94]、ヘアも含み輸入すると害があるものは上映してはいけないことになっており[38][71][90][91]、前述のように欧米の映画祭では自国の法律や倫理基準で、他国の芸術作品を測ることはできないという"通則"があるため[32][34][74]、国際慣例に従いノーカット無修正で全ての映画を上映するよう働きかけた[71][91][95]。当時は風営法の改正で大揺れの時期で[23]、さらに貿易摩擦が問題になっていた時期でもあり[33]関税障壁であるとの非難を受ける危険もあった[33]。当初は東京税関も「法は勝手に曲げられません」と態度は固く[74]、悲観的な予想が大半であったが[23]、税関を管理する大蔵省(現・財務省)と折衝を続け[74][90][95][96]、岡田茂と徳間康快の政治力で[71][91]超法規で映画祭期間中に限りヘア解禁を認めさせ[33][91]、国際的なモノ笑いにならずに済んだ[33][46][59][75]。勇気ある第一歩を踏み出したと称賛された[75]。今回の措置は税関が見て通過させたのではなく[97]、特例としてノーチェックで税関と通過させたというものであるが[98]、税関はOKでも警察が鑑賞して猥褻と判断したら取締りの対象となるため(刑法175条[93][98]ハードルは二つあった[93]警視庁保安一課管轄渋谷署と協力し、全てのヘア作品には係官を劇場に派遣して内容をチェックし[97]、全ての作品に「わいせつな感じの表現はなかった」といった内容の報告書を提出し全てセーフになった[98]映倫もこの特例措置を鑑み、東京映画祭上映に限り、審査の対象外とし、カット又は修正をしないオリジナルの形で上映を認め[33]、その後も特例措置を続けている[33]。東京映画祭の「ヘア解禁」以降、捜査当局がヘア解禁を認め、「ヘアが見える程度では検挙されない。仮に検挙されても身柄の拘束はない」という見方が出版業界に広がり[99]、映画祭以降、写真誌のポルノ度がエスカレートし[99]、『ザ・写真』を出版していた東京三世社の社長らが警視庁保安一課に逮捕された[99]。それまで任意での取り締まりはあったが、社長にまで強制捜査が及んだのは全くの異例であった[99]

作品の出来よりも日本初のヘア無修正映画として話題を集めた『1984年』は"ヘア解禁"をスポーツ紙夕刊紙が書き立てたため、上映一週間前に前売り券が売り切れ、その後チケット問い合わせの電話が殺到した[21][100]。「本当にヘアが出るんですか」という問い合わせが多かったという[21]。1985年6月1日、渋谷東急で『1984年』は上映され、劇場は超満員で立ち見も出た[21][98][101]。翌日のスポーツ新聞は「見えた―ヘアに息をのむ」などと歴史的"快挙"を大々的に報じた[21][102]。続いてカナダ映画『ジャックと11月』、イギリス映画『狼の血族』、ブラジル映画『ピショット』、ハンガリー映画『ゲルニカ』などの10作品が[96]、ノーカット無修正で上映され、地味なこれらの映画にも観客が詰めかけた[21][92][103][104]。表現は大人しいものだったが『1984年』のヘアシーンでは報道席にいたカメラマンが、いっせいにシャッターを切る異様な光景が現出した[21]。『1984年』が「ヤングシネマ85」のコンクール対象作品だったため、シャッター音が鑑賞を妨げて公正な審査が出来ないと審査員や同作の監督・マイケル・ラドフォードなどから「審査会場を変えろ」などと抗議の声が上がり[21][102]、二日目からは入場時にカメラがないかボディーチェックを受けるなど厳戒態勢が敷かれた[102]。2019年の今日では映画泥棒などで映画盗撮防止は常識だが、当時は予想外の事態で、渋谷東急前に「お願い 東京国際映画祭にて上映されます映画は国際規約及び国内の法律によって版権が保護されております。従いまして、映画を無断で撮影したり、録音したりした場合は罰せられますので、ご注意下さいますようお願い致します。 東京国際映画祭組織委員会事務局」と手書きで書かれた素朴な立て看板が掲示され[102]、「場内での写真撮影は禁じられています」とアナウンスを流した[102]

同時期に開催されたアジア太平洋映画祭ではヘア解禁を認めなかったため、税関が人間のヘアを差別したと物議を醸した[80][105]

『MISHIMA』問題

ポール・シュレイダー監督の『MISHIMA』が三島由紀夫の未亡人と製作者側のトラブルがあり[62][106][107]、1984年末の予備選考の段階で出品作品のリストから落とした[62][70]。映画祭で上映する作品は組織委員会が独自の立場で自由に選択出来るということが国際映連の規定で決められており[31][62]、選考理由を言う必要はないという前提条件があり、問題は本来無かったが、『MISHIMA』のアメリカ側のプロデューサー・トム・ラディが映画祭事務局に「試写も見ないで『MISHIMA』を上映させないのはおかしい。これは国際映画祭の精神に反するものでまことに遺憾。上映できるように再考せよ」と公開質問状を送り付けて来た[62][66][70]。『MISHIMA』の日本側のプロデューサーは、映画祭の「映画企画」総合プロデュースの山本又一朗だったが[60]、山本もこれに同調して映画祭のプロデューサーを辞任した[62][65]。ラディの意見に同調する欧米の映画人も多く[46][70]、ラディが1985年4月からアメリカで「東京国際映画祭ボイコット運動」の署名活動を始め[67]、これにロバート・ベントンシドニー・ポラックウォルター・ヒルロバート・レッドフォードらが署名[107][108]。当初、審査員として来日する予定だった『MISHIMA』のスタッフ・フランシス・コッポラジョージ・ルーカスなどのスター監督らが[67][70]、相次いで来日を取りやめる緊急事態に発展し[67][70]、国際的にも注目を浴びた[46][70]。映画祭当局は声明文を発表したり、アメリカの映画専門誌『バラエティ』1985年5月8日号に「同作品の上映要請はなく、東京国際映画祭の批判は同映画祭だけではなく世界の映画祭を著しく傷つけるもの」という公式見解を掲載したりし[66][68]、対応に大わらわになった[62]。1985年5月7日日本プレスセンターで行われた記者会見で[68]、この騒動に答えて岡田茂がやっぱり腹を立て[68]、「トム・ラディと山本又一朗はもっと署名を集めてカンヌ映画祭でも騒ぐらしい。これまで山本又一朗ごときを相手どってまともにケンカする気にもなれなかったが、もう黙っていられない。映画祭は『MISHIMA』の露払いじゃないんだ。彼らは映画祭の場を『MISHIMA』の宣伝に利用しようとした。実にずるいやり方だ。山本氏には映画祭のプロデューサーを辞めてもらった」などと激しい口調で非難した[67][68][108][109][110]。岡田はかつて山本が小池一夫代理人として活躍していた手腕に関心し[109]、東映内で「山本君に学べ」と号令をかけるなど評価していたといわれ[109]、映画祭の創設メンバーの一人でもあっただけに怒ったものと見られる[19]。山本は岡田から「『MISHIMA』なんかやったら右翼が反対して騒ぎ、第1回目から大混乱になる」と反対されたと話し[111]、山本は「文化的なイベントとしての国際映画祭は右翼に屈服してはいけない。日本は法治国家だから、右翼が来るなら警察を呼んで守ってもらえばいいんです」と反論したと言う[111]。山本は「映画祭側が事実を語っていない」と東京国際映画祭の内部資料を公開[110]。これに対して草壁久四郎事務局顧問は「右翼団体からの圧力があったと言いふらしているのは、宣伝キャンペーンとしか思えない」[108]「右翼の圧力によって落としたという考えは全くの間違いで、三島夫人が映画製作に反対しているのに製作を強行し、仮に上映して何かトラブルがあれば、国際問題になりかねないし、岡田会長も『日本側のプロダクションの代表者に、三島家との問題がクリアされたら、検討します』と伝えており、それをクリアしないで何で上映しないのかというのは言いがかりだ」と反論し騒動が悪化した[31][70][110]。一連の騒動で、欧米映画人の一部と亀裂が深まり、二回目以降の映画祭にマイナス面を残すのではないかとジャーナリストから心配された[108]

フィルム・マーケット

映画祭には世界各国から映画人がやってくる絶好の機会のため、岡田は映画界にメリットのあるフィルム・マーケット(マルシェ、見本市)を開催したいという希望を最初から表明していたが[75]、準備期間が充分でなく第一回では出来ず[19]、フィルム・マーケットの開催は第5回からになった。

トップの変遷 編集

組織委員会委員長は第1回(1985年)から第9回(1996年)まで瀬島龍三であるが[112]、瀬島は記者会見にほとんど出席せず[113][114][115]、第一回から陣頭指揮に当たったのは実行委員長の岡田茂であった[21][116][113]。開催発表会見で真ん中に座るのも第一回から第11回(1998年)までずっと岡田で[68][113]、最初の発言者も岡田で[113]、次がゼネラル・プロデューサー(以下、GP)であった[113]。この間、開催発表会見は4人から7人が出席して行われたが[113]、奇数の出席の時は真ん中が岡田で、偶数の時は岡田とGPが真ん中[113]。京都開催だった第7回(1994年)の開催発表会見は7人の出席で[117]、真ん中が岡田で、岡田の両隣りが徳間康快GPと荒巻禎一京都府知事だった[117]。岡田がトップと周りからも認知されていたものと見られる。

瀬島は組織委員会委員長を第9回(1996年)まで務めて勇退[112]第10回(1997年)と第11回(1998年)の組織委員会委員長は樋口廣太郎が務め[118]第12回(1999年)に第一回から11回まで実行委員長だった岡田茂が組織委員会委員長に就任し[119]、岡田の後任実行委員長には石田敏彦が就いた[119]第13回(2000年)開催の直前に徳間康快が急逝したため、第13回は石田敏彦が実行委員長とGPを兼任した[120]

GPを最初から岡田茂とする文献も見られるが[121]、GPは、第1回(1985年)が小谷正一第2回(1987年)、第3回(1989年)が石田達郎第4回(1991年)から第12回(1999年)までが徳間康快[112]京都で開催された第7回(1994年)は、徳間でなく、京都に縁のある高岩淡奥山融が二頭GPを務めた[117][122][123]第13回(2000年)が石田敏彦第14回(2001年)、第15回(2002年)が川内通康第16回(2003年)から第20回(2007年)までが角川歴彦。角川が第18回(2005年)で、GPをチェアマンと改称[124]第21回(2008年)から第25回(2012年)までのチェアマンは依田巽第26回(2013年)からチェアマンの代わりの役職として新設されたディレクター・ジェネラルに椎名保が就任。2017年3月10日、ディレクター・ジェネラルからフェスティバル・ディレクターに役職名を変えた役職に、元ワーナーブラザース映画副代表であり、松竹で常務取締役などを務めた久松猛朗が就任した。2019年7月からは元駐イタリア大使の安藤裕康がチェアマンに就任している。

1991年の第4回から徳間康快がGPに就任した経緯は、それまでGPを務めていた石田達郎が体が悪いのにカネ集めで苦労しており、岡田茂実行委員長から「徳さん何とか協力してやってくれないか」と頼まれていた徳間が「映画祭はよく知らないから」と断っていたが、1990年7月に石田が突然亡くなり、徳間「どうせオレに声をかけるんだからゼニだろう」岡田「実はそうなんだ」徳間「じゃあ、一生懸命やるよ」と引き受けることになった[125]。徳間「で、第3回はいくらでやったんだ?」岡田「6億だ」徳間「発展させるには従来の倍のカネをかければいい。今回はキリのいい10億円でやろう」と、二人の話で「隔年開催では効果が薄いから毎年定期的に開催しよう。西のカンヌ、東の東京と銘打ってやろう。映画人が力を結集して映画界全体でやろう」と決まった[125]。第2回と第3回は石田達郎がGPを務めていた関係から、フジサンケイグループがバックアップをした[115]。このため東映以外の映画会社はあまり協力的でなかったが[125]、徳間の就任でようやく映画界全体で協力をしようとなり[125][115]松岡功東宝社長が広報委員長に就いた[126]。記者会見の時は「アジアを中心に意義と価値のある重要な映画祭にし、カンヌ、ベネチアと並ぶ三大映画祭にしたい」と発表した[115]。徳間の自宅の四軒隣りが鈴木俊一東京都知事宅で、第3回のときに徳間と岡田で鈴木宅を訪れ1億円出してもらっていたが[125]、徳間はGPに就任すると今度は鈴木に「毎年8億円出してくれ」と頼み、鈴木から「どういうことだ?」と言われたから「"東京"国際映画祭なんだ。カンヌでもベルリンでもベネチアでもみんな市がやっている。だから東京都が前面に立ってやってもらわないと困るんです。でないと"日本"国際映画祭になっちゃうから」「とりあえず今年は4億出してくれ」などと説得[125]通産省にはそれまでの1億5000万円だった助成金を2億円にアップさせた[125][115]。徳間は中国に強いパイプを持つことで知られるが、台湾にも参加してもらって然るべきと岡田と二人で台湾に行って台湾の参加を正式に決めた[125]。またカンヌのように世界中からバイヤーを集めるようにするには、短期的な方策としてはいいだろうと入賞作品の賞金を増額させた[125][126]バブル崩壊があり、資金集めが苦しくなったが[127]、第5回から日本で初めてフィルム・マーケットが開かれた[127][128]。GPに就任するとスポンサー集めに奔走しなければならず、岡田が第2回のとき、鹿内春雄に頼んだが断られ[129]、徳間以降のGPはたいたい1回か2回で辞めている[130]。2001年から二年務めた川内通康も「おまえ、石田のオヤジがやってたじゃないか。おまえ、その愛弟子じゃないか」と岡田から痛いところを突かれての就任[131]。2003年も岡田がいろんな人にあたったが全員に断られ、角川歴彦は「この場で受けてもらわないと今年の開催ができない」と岡田から強い説得を受け、渋々承諾し第16回から六代目GPに就任している[130][132]

トラブル 編集

2010年(平成22年)に開催された第23回において、映画祭に招かれていた中華人民共和国中華民国からの招待者の間で「台湾」表記をめぐって論争が生じ、一部の監督、俳優が開幕式をボイコットした[133][134]。また、中国、台湾政府も反応し、双方のインターネット上では騒動になった。

脚注 編集

注釈 編集

出典 編集

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  109. ^ a b c 松島利行「角川映画の十年―面白い映画が勝利する―」『シナリオ』1985年7月号、日本シナリオ作家協会、38頁。 
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参考文献 編集

  • 東京国際映画祭組織委員会/広報委員会『第一回東京国際映画祭 公式プログラム』東急エージェンシー、1985年。 
  • 「東京国際映画祭 ぴあフィルムフェスティバル ハンディマップ&スケジュール表」『ぴあ』1985年5月3日号、ぴあ。 

外部リンク 編集