メインメニューを開く

即位の礼

日本の天皇の即位儀礼
即位式から転送)

即位の礼(そくいのれい)または即位礼(そくいれい)は、日本天皇践祚後、皇位を継承したことを国の内外に示す一連の国事行為たる儀式で、最高の皇室儀礼

即位の礼
Ceremonies of the Accession to the Throne
Ceremony of Enthronement3.jpg
高御座の前で万歳三唱する内閣総理大臣海部俊樹
ジャンル 国事行為
(天皇が即位を国の内外に宣言する諸儀式)
  1. 剣璽等承継の儀
  2. 即位後朝見の儀
  3. 即位礼正殿の儀
  4. 祝賀御列の儀
  5. 饗宴の儀
頻度 天皇の即位ごと
(一世一度)
会場 皇居宮殿
会場所在地 東京都千代田区千代田1-1
開催国 日本の旗 日本
前回 〈第125代天皇明仁
1989年平成元年)‐1990年(平成2年)
次回 〈第126代天皇徳仁
2019年令和元年)
参加者
ウェブサイト
www.kunaicho.go.jp
宮殿中庭に並べられた色とりどりの旛や、鉦、鼓、桙

中心儀式の即位礼正殿の儀は、諸外国における戴冠式、即位式にあたる。

即位の礼後に、五穀豊穣を感謝し、その継続を祈る一代一度の大嘗祭が行われ、即位の礼・大嘗祭と一連の儀式を合わせ御大礼(ごたいれい)または御大典(ごたいてん)とも称される。

目次

概要編集

皇嗣が新たに皇位に就くことを「即位」というが、古代では神へ寿詞(よごと)を奏上し、神璽を献納する事を中心とした、簡素なものであったが、平安時代に「皇位の継承」である「践祚(せんそ)」と「即位(そくい)」が別の儀式として行われるようになり、風の儀式が江戸時代まで続いた。即位にかかる儀式全般を即位儀礼というが、これは皇嗣が即位する「践祚の儀(せんそのぎ)」と、即位したことを内外に宣下する「即位の礼」に分かれる。

明治時代の1889年(明治12年)に制定された旧「皇室典範」に属する登極令によって儀式の内容が細かく規定されたが、1947年昭和22年)に、同令は旧皇室典範と共に廃止となった為、現行の新「皇室典範」でも即位の礼を行う定めがあるにも拘らず、内容についての具体的規定は無い。そのため、大嘗祭をどの様に行うのか、昭和天皇崩御前後から、様々な(政治・思想的)立場から論議が起きた。

明治維新による近代化以降の現代に至る、明治時代・大正時代・昭和時代・平成時代と、他の重要な「皇室慶弔行事」と同様に、即位の礼の挙行日は、その年限りの祝日となることが慣例となっている。大日本帝国憲法下で即位の礼を行った大正天皇昭和天皇の時には勅令により、日本国憲法下で即位の礼を行った天皇明仁(現・上皇)の即位の礼の時は法律によって、祝日として定められた。

 
天皇明仁の剣璽等承継の儀。即位の礼はこの儀式から始まる

第125代天皇明仁(現・上皇)以来、即位の礼は「剣璽等承継の儀」、「即位後朝見の儀」、「即位礼正殿の儀」、「祝賀御列の儀」、「饗宴の儀」の5つの儀式から構成され、これらは全て国事行為である。

即位の礼と憲法編集

大日本帝国憲法下において、「即位ノ礼」は登極令に基づいて挙行され、神事との区別も厳格に行われていなかった。日本国憲法下で初となる上皇明仁の「即位の礼」は皇室典範に基づいて行われ、第126代今上天皇の即位の礼もこれに倣う。現在の即位の礼の一連の儀式は全て国事行為である。

国民の一部に、即位の礼への国費支出や即位の礼への都道府県知事県議会議長の参列が憲法の政教分離原則の観点から違憲であるという意見がある[1]。この政教分離の観点から、いくつかの憲法訴訟が起こされているが、訴えは全て斥けられている。これらの原告敗訴は、国費支出が原告に不利益を与えないという判断であったり、知事が参列することが政教分離の目的効果基準に照らして政教分離に反しないという判断によるものである[2]

1977年(昭和52年)7月に最高裁大法廷で下された判決によると、「憲法の政教分離規定は国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものである。」とあり、政府はこれを理由の一つとして即位の礼への国費支出を認めている[2]

ただし、1995年(平成7年)の大阪高裁判例では「平成の即位の礼が既に終了しており、原告に不利益を与えない」との主旨で原告の訴えを斥けながらも、傍論において「平成の即位礼正殿の儀では、政府は、旙(ばん、装飾用の旗)から日本神話において天皇の権威の象徴とされるヤタガラスを取り除いたり、元来内閣総理大臣が紫宸殿の階段の下の宮殿中庭から正殿・高御座の天皇を見上げて万歳三唱するところを、[3]正殿内で万歳三唱するよう修正したりして政教分離、国民主権にも一定程度配慮した」と、政府の政教分離に対する配慮を認めたうえで「憲法違反の疑いは一概に否定できない」と指摘したこともある[4]

2018年(平成30年)12月10日、原告241名が天皇の退位等に関する皇室典範特例法の規定による天皇明仁の退位と新天皇徳仁の即位に伴う「退位の礼」、「即位の礼」、「大嘗祭」などの実施が政教分離を定めた憲法の規定に違反するとして、国を相手取り公金支出の差し止めと損害賠償を求め、東京地裁に提訴した[5]

儀式編集

日本国憲法施行後の「即位の礼」では、5つの儀式(国事行為)が行われる。ここでは儀式を概説する。

  • 剣璽等承継の儀(けんじとうしょうけいのぎ)--- 皇位継承があった当日に行われる儀式。新天皇や男性皇族が宮殿正殿・松の間に入り、新帝の前に置かれた案(机)に三種の神器のうちの剣璽御璽国璽が安置され、新帝が剣璽に挟まれて退出する。大日本帝国憲法下での剣璽渡御の儀(けんじとぎょのぎ)にあたる。
  • 即位後朝見の儀(そくいごちょうけんのぎ)--- 皇位継承当日か、後日行われる儀式。天皇が即位後初めて三権の長をはじめとする国民の代表者と会う。正殿松の間に天皇・皇后や皇族が入場し、天皇の「おことば」の後、内閣総理大臣の式辞がある。明治憲法下の践祚後朝見の儀(せんそごちょうけんのぎ)に相当する。
  • 即位礼正殿の儀(そくいれいせいでんのぎ)--- 天皇が即位を国の内外に宣明する、いわば即位の礼の中心といえる儀式で、戴冠式、即位式に相当し、各国元首首脳らや国内の代表が参列する。皇位継承当日とは日を隔て行われる。宮殿正殿の松の間に高御座、御帳台が設置されて、それぞれ「御装束」に身を包んだ天皇・皇后が登り、諸皇族、三権の長が左右に控える。天皇の「おことば」があり、内閣総理大臣が祝辞である「寿詞」を読み上げ、万歳を三唱して参列者一同がこれを唱和する。
  • 祝賀御列の儀(しゅくがおんれつのぎ)--- 即位礼正殿の儀終了後、天皇・皇后が皇居宮殿から赤坂御用地にある赤坂御所まで御料車でパレードする儀式。
  • 饗宴の儀(きょうえんのぎ)--- 即位礼正殿の儀に参列した内外の賓客に対し、謝意を表してもてなすための宮中晩餐会。即位礼正殿の儀当日に始まり、宮殿豊明殿長和殿にて数回開催される。

奈良〜江戸時代の即位の礼編集

 
孝明天皇の冕冠。即位礼にのみ戴冠した。
 
孝明天皇袞衣。天皇の礼服である。

  

上代は践祚と即位との区別がなかったが、奈良時代末期の桓武天皇からは践祚後に日を隔てて即位式を行う例ができ、貞観儀式の制定に至り区別することになった。儀式内容も元日の朝賀に準じて唐風様式で行われるようになった。装束は律令制度上最高の礼装である礼服を用いた。中国皇帝と同様に天皇が南面して座し、親王以下無位に至るまで、諸臣が朝庭に北面して君臣関係を確認した。

ところが、平安時代中期になると、早くもこの形が崩れ、殿上の擬侍従(平安初期には親王がつとめたので上首を親王代とよび、次席と少納言の3人の構成で左右計6人)に内弁上卿に相当)・外弁(一般参列者の公卿であるが、指名された者のみが立つ。殿上人以下の参列はなくなった。なお外弁の内の一人が宣命使となる。中世から近世にかけて外弁は大納言・中納言・参議各2名というのが一般的であった。)・典儀などの限られた公卿・官人しか即位式に参加せず、その役目を持たない公卿は大臣であっても、高御座の左右に設けられた幔の内側から「見物」している有様であった。

1016年(長和5年)2月7日に行われた後一条天皇の即位式の様子は、当時の朝廷の重鎮であった大納言藤原実資の日記『小右記』に詳しく記されているが、それは実資が即位式の参加者ではなく、見物者として観察出来たことによるものであった[6]。なお、摂政は平安時代後期(堀河天皇以後)以後には高御座の中層または下層、関白は高御座の後方東側(南側から見て右寄り)の北廂東幔内に束帯姿で(礼服でないのは正式な参列でないから)控える例であった(後一条天皇の摂政であった藤原道長もこの位置にいるため、初期の摂政も同様であった可能性が高い)[7]

儀典の会場は、平安時代を通じ、原則的に、朝堂院(八省院)の大極殿が用いられたが、大極殿焼損のため陽成天皇は豐楽殿を使用した。病気のため冷泉天皇内裏紫宸殿で即位し、大極殿焼失のため後三条天皇太政官庁安徳天皇は内裏の紫宸殿を用いた。大極殿は1176年(安元2年)の安元の大火以降廃絶したため、鎌倉時代より室町時代中期の後土御門天皇までのすべての天皇(ただし、京都にいなかった南朝後村上天皇長慶天皇後亀山天皇は例外)は、太政官庁を使用した。応仁の乱後の後柏原天皇は即位礼の経費調達が困難なため、20年にわたり延引を重ねたが、この天皇の即位礼以後は、里内裏の紫宸殿を使用することとなり、近代に及んだ。太政官庁は後柏原天皇の即位の準備が始まった文亀元年の段階ですでに存在せず、再建の予定もなかった。

中世以降(初例は後三条天皇とされているが、恒例となったのは後深草天皇以後とされる)には、即位灌頂と呼ばれる仏教様式の儀式も執り行われた。江戸時代後期まで、その様式は続けられた。

即位式は皇室行事の中でも最も重要な儀式の一つであるが、戦国時代後柏原天皇の時期は皇室財政が逼迫しており、1500年(明応9年)に即位したにも拘らず、儀式を行えず、1521年(大永元年)、室町幕府などからの援助を元に、即位22年目にして即位礼を行った。直接のきっかけは幕府が二万疋を献じたことであるが、実際には文亀年間以来それまでに何度か幕府から献じられていた費用および、朝廷が本願寺などからの献金を得て準備した道具が蓄積しており、その費用だけで実施できたのではない。後奈良天皇は後柏原天皇即位の所用品が多く残されていたにもかかわらず、やはり費用不足で十年ほど即位が延引した。また、正親町天皇の時も皇室財政から即位礼費用の拠出は叶わず、毛利元就の援助を得て挙行した。しかし、多くの困難にもかかわらず、承久の乱のため短期間しか在位できなかった九条廃帝を除き、一代も欠かさずこの儀式は挙行されている。

なお、宮廷儀礼は平安時代より雑人(庶民)の見物の対象であったが、承久の乱後の四条天皇即位では庭上にも見物人が乱入し、これ以後も公家日記に、見物人のため儀式に支障をきたしていたことがうかがわれる記事が散見される。 後柏原天皇即位に際しても「雲霞の如く」見物人が集まったという。こうした伝統を受けて江戸時代には、切手札(観覧券のようなもの)を買うことで、一般庶民も京都御所での即位の儀式を見ることができた事が最近の研究により判明している[8]。なお、後桜町天皇即位のとき、儀礼の役にあたらず、ただ出御した天皇のお見送りだけに参内した野宮定晴は、「武家奴隷(武士の下人)」や「雑人」が多くて一般の公家の多くが儀式を見物できなかったこと、にもかかわらず幕府の使者は非公式ながら紫宸殿に上げてもらって見物できたことに憤慨している。

明治維新により東京奠都し、天皇が国家の最高指導者に位置付けられてからは、旧皇室典範並びに登極令の制定により、天皇の践祚・即位に関わる一連の儀式の様式が定められ、御大礼(即位の礼)は京都で行う旨規定されていた為、大正天皇昭和天皇の御大礼は平安様式に則り京都御所にて執り行われた。

1947年昭和22年)制定の現行の皇室典範では場所については規定されず、平成の即位の礼・大嘗祭は皇居で行われた。この為、従来「紫宸殿の儀」と称していた儀式が「正殿の儀」となった。

儀式は皇室の祖神である天照大神と歴代の天皇へ期日を奉告することに始まり、皇居内の三殿への報告と、伊勢神宮勅使が遣わせられる。時期は登極令によりからとされ、先帝の崩御から1年間は服喪期間として即位の礼・大嘗祭は行われない。なお、この服喪期間を特に「諒闇」という。

即位の礼では最重要の儀式が「正殿の儀」であり、天皇は束帯皇后十二単に身を包む。天皇の束帯は「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」と言い、天皇以外は着用できない。正殿の儀にて使用される玉座は天皇のものを高御座(たかみくら)、皇后のものを御帳台(みちょうだい)と呼ぶ。造りは三層黒塗り継檀の上に八角形の屋根を置き、鳳凰等の装飾がある。高さ5.9メートル、幅6メートル、重さ8トンに及ぶ。

明治の即位の礼・大嘗祭編集

 
明治天皇の伊勢神宮親謁

第122代・明治天皇の即位の礼が行われた当時は、天保暦が用いられており、現在のグレゴリオ暦とは日付が異なるため、天保暦(グレゴリオ暦)の順番で記載する。

慶応2年12月25日1867年1月30日)、第121代・孝明天皇の崩御を受け、儲君睦仁親王が翌慶応3年1月9日(1867年2月13日)に践祚して皇位を継承し、第122代天皇となった。当初は11月に即位の礼を行う予定であったが、徳川慶喜による(徳川家第15代かつ最後の征夷大将軍大政奉還など時勢が急速に変化していく中で、国事多難を理由に見送られた。

明治新政府は、翌年の慶応4年(明治元年/1868年5月に新時代の到来を宣布するため、変化に相応しい新しい即位式の挙行を目指し、津和野藩主で神祇官副知事の亀井茲監をして「御即位新式取調御用掛」に任命した。岩倉具視は亀井に唐風儀式の撤廃と古式復興を命じた。新時代の象徴として、式典において地球儀を用い、皇威を世界に知らしめることを目的とした。孝明天皇即位に使用された高御座は安政元年(1854年)の内裏焼失によって失われていたので、例年の節会などに使う帳台をもって高御座と称した。唐風とみなされた装束や装飾は全廃されたため、礼服[9]は廃止され、平安時代以来礼服に次ぐ正装であった束帯が使用された。庭に立てる儀仗用の旗の類も廃止され、幣旗というがたてられた。

慶応4年8月17日(1868年10月2日)に、10日後の8月27日(1868年10月12日)に即位の礼を行うことを発表し、同月21日から関連儀式を執り行った。殊に崇徳天皇に勅使を遣わし命日である同月26日に霊前で宣命を読み上げた翌日27日、即位の礼当日は、宣命使が宣命を読み上げ、参列者中、筆頭位の者が寿詞を読み、古歌を歌われた。そして「拝」と一同唱和し、式典が終了した。

  • 明治の大礼…総費用4万3800両
    • 伊勢神宮へ勅使発遣の儀 慶応4年8月21日(1868年10月6日)
    • 神武天皇陵・天智天皇陵・前三代天皇陵へ勅使発遣の儀 同年8月22日(同年10月7日)
    • 紫宸殿・清涼殿御殿洗 同年8月23日(同年10月8日)
    • 即位礼 同年8月27日(同年10月12日)
  • 大嘗祭 明治4年11月17日(1871年12月28日)東京で行われた。

大正の即位の礼・大嘗祭編集

 
大正天皇の即位の礼

旧皇室典範登極令制定後、初めての挙行となった第123代・大正天皇即位の礼は、1915年大正4年)11月10日京都御所紫宸殿で行われた。本来は1914年(大正3年)に挙行される予定だったが、同年4月に昭憲皇太后の崩御により1年延期された。明治天皇の即位時には新調できなかった高御座等が新調された。また、この時から高御座の隣に皇后の御座である御帳台(これは江戸時代以前の帳台と異なり、高御座に準拠して考案された新儀である)が設けられたが、貞明皇后は懐妊中であった(後に第四皇男子の澄宮崇仁親王を出産)ために欠席した。

この時に帝国議会上院の貴族院書記官長を務めていた柳田國男も大正天皇の御大礼に出仕しており、後に大嘗祭についての提言を残している[10]礼服は復活せず、束帯が使用されたものの、高御座は江戸期の様式が復活し、その他、旗の類も神話にちなむ刺繍を入れたものの、榊はやめて綾や錦を使うなど、総じて江戸時代以前の様式と明治の即位を折衷したような形式になっている。明治よりも神事性が後退したかわりに、賢所大前の儀が新たに制定され、即位の前提に神道があることを強調する儀式構成になった。男性の束帯は近世の故実を参照してあまり変更を加えず、女性の十二単は近世以前の資料によりつつも、松本真弦らが中心となって、新たに定められた。

即位礼ノ勅語編集

朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ惟神ノ寶祚ヲ踐ミ爰ニ即位ノ禮ヲ行ヒ普ク爾臣民ニ誥ク
朕惟フニ皇祖皇宗國ヲ肇メ基ヲ建テ列聖統ヲ紹キ裕ヲ埀レ天壤無窮ノ神勅ニ依リテ萬世一系ノ帝位ヲ傳ヘ神器ヲ奉シテ八洲ニ臨ミ皇化ヲ宣ヘテ蒼生ヲ撫ス
爾臣民世世相繼キ忠實公ニ奉ス
義ハ則チ君臣ニシテ情ハ猶ホ父子ノコトク以テ萬邦無比ノ國體を成セリ
皇考維新ノ盛運ヲ啓キ開國ノ宏謨ヲ定メ祖訓ヲ紹述シテ不磨ノ大典ヲ布キ皇圖ヲ恢弘シテ曠古ノ偉業ヲ樹ツ
聖徳四表ニ光被シ仁擇陬に霑洽ス
朕今丕績ヲ續キ遺範ニ遵ヒ内ハ邦基ヲ固クシテ永ク磐石ノ安キヲ圖リ外ハ國交ヲ敦クシテ共ニ和平ノ慶ニ頼ラムトス
朕カ祖宗ニ負フ所極メテ重シ
祖宗ノ神靈照鑑上ニ在リ
朕夙夜競業天職ヲ全クセムコトヲ期ス
朕ハ爾臣民ノ忠誠其ノ分ヲ守リ勵精其ノ業ニ從ヒ以テ皇運ヲ扶翼スルコトヲ知ル
庶幾クハ心ヲ同シクシ力ヲ戮セ倍々國光ヲ顯揚セムコトヲ
爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

昭和の即位の礼・大嘗祭編集

 
1928年11月、即位の礼の昭和天皇

1928年昭和3年)11月6日、第124代・昭和天皇は即位の礼を執り行う為、宮城を出発し、京都御所へ向かった。京都へ向かう天皇の行列は2名の陸軍大尉を先頭に賢所の神鏡を奉安した御羽車、昭和天皇の乗る6頭立て馬車(鳳輦)・皇后の乗る4頭立て馬車・皇族代表・内大臣牧野伸顕)・内閣総理大臣田中義一)の馬車と続いた。全長600メートルにも及ぶこの行列は、1分間に進む速度が86メートルと決められていた。

11月10日、即位の礼当日の参列者は勲一等以上の者665名、外国使節92名他、2,000名以上の参列者があり、式典では内閣総理大臣田中義一が万歳三唱した。

天皇は紫宸殿の儀を終えた後、11月21日伊勢神宮を親拝し、即位の大礼に係る一連の儀式を終えた旨、奉告し、帰京した。帰京後は宮中晩餐会夜会などの祝宴の他、観兵式観艦式等が執り行われた。

悠紀田は滋賀県野洲郡三上村、主基田は福岡県早良郡脇山村から選ばれ、3月に発表された。昭和の大礼の総予算は当時の金額で1968万3637円50銭5厘という。

即位礼ノ勅語編集

※漢字は常用漢字に改めた。

朕惟フニ我カ皇祖皇宗惟神ノ大道ニ遵ヒ天業ヲ経綸シ万世不易ノ丕基ヲ肇メ一系無窮ノ永祚ヲ伝ヘ以テ朕カ躬ニ逮ヘリ朕祖宗ノ威霊ニ頼リ敬ミテ大統ヲ承ケ恭シク神器ヲ奉シ茲ニ即位ノ礼ヲ行ヒ昭ニ爾有衆ニ誥ク
皇祖皇宗国ヲ建テ民ニ臨ムヤ国ヲ以テ家ト為シ民ヲ視ルコト子ノ如シ列聖相承ケテ仁恕ノ化下ニ洽ク兆民相率ヰテ敬忠ノ俗上ニ奉シ上下感孚シ君民体ヲ一ニス是レ我カ国体ノ精華ニシテ当ニ天地ト並ヒ存スヘキ所ナリ
皇祖考古今ニ鑑ミテ維新ノ鴻図ヲ闢キ中外ニ徴シテ立憲ノ遠猷ヲ敷キ文ヲ経トシ武ヲ緯トシ以テ曠世ノ大業ヲ建ツ皇考先朝ノ宏謨ヲ紹継シ中興ノ丕績ヲ恢弘シ以テ皇風ヲ宇内ニ宣フ朕寡薄ヲ以テ忝ク遺緒ヲ嗣キ祖宗ノ擁護ト億兆ノ翼戴トニ頼リ以テ天職ヲ治メ墜スコト無ク愆ツコト無カラムコトヲ庶幾フ
朕内ハ則チ教化ヲ醇厚ニシ愈民心ノ和会ヲ致シ益国運ノ隆昌ヲ進メムコトヲ念ヒ外ハ則チ国交ヲ親善ニシ永ク世界ノ平和ヲ保チ普ク人類ノ福祉ヲ益サム事ヲ冀フ爾有衆其レ心ヲ協ヘ力ヲ戮セ私ヲ忘レ公ニ奉シ以テ朕カ志ヲ弼成シ朕ヲシテ祖宗作述ノ遺烈ヲ揚ケ以テ祖宗神霊ノ降鑒ニ対フルコトヲ得シメヨ

日程編集

 
昭和天皇の即位の礼(京都御所・紫宸殿の儀)
大阪朝日新聞 昭和3年10月1日付挿画
 
昭和天皇の即位の礼
1928年昭和3年)
  • 1月17日 賢所に期日奉告の儀、皇霊殿・神殿に期日奉告の儀
  • 2月5日 斎田点定の儀
  • 6月1日 悠紀田田植式
  • 6月5日 - 7日 主基田田植式
  • 8月5日 大嘗宮地鎮祭の儀
  • 9月16日 悠紀田抜穂の儀
  • 9月21日 主基田抜穂の儀
  • 10月16日 新穀供納の式、悠紀田修祓式
  • 10月17日 新穀供納の式
  • 11月6日 京都に行幸の儀
  • 11月7日 賢所春興殿に渡御の儀
  • 11月10日 皇霊殿・神殿に奉告の儀
  • 同日 賢所大前の儀
  • 同日 紫宸殿の儀
  • 11月11日 賢所御神楽の儀
  • 11月13日 大嘗宮鎮祭の儀・鎮魂の儀
  • 11月14日 大嘗祭神宮に奉幣の儀、皇霊殿・神殿並に官国幣社に奉幣の儀
  • 同日 賢所大御饌供進の儀、大嘗宮悠紀田の儀
  • 11月15日 大嘗宮主基田の儀
  • 11月16日 - 17日 大饗の儀
  • 11月19日 伊勢に行幸
  • 11月25日 明治天皇陵に親謁の儀
  • 11月26日 東京に還幸の儀
  • 11月27日 賢所・温明殿に還御の儀
  • 11月30日 皇霊殿・神殿に親謁の儀
  • 1929年昭和4年)7月16日 大嘗宮地鎮祭の儀


備考編集

先代の大正天皇の際と同様に、大礼記念の表彰として「大礼記念章」が制定された(昭和3年8月1日勅令第188号「大礼記念章制定ノ件」第1条)。授与対象は践祚の式(同第3条1号)並びに即位の大礼及び大嘗祭(同2号)に招かれた者、在所各地に於いて餐餌を賜った者(同3号)、大礼の事務及び伴う要務に関与した者(同4号)であった。

昭和大礼記念章
銀製女性用表面
銀製女性用裏面


なお、現在の阪急京都本線の前身である新京阪鉄道と、近鉄京都線の前身である奈良電気鉄道は、この昭和天皇即位大典に間に合わせるようにして、それぞれ暫定開業をしている。

マスコミ関連では、1925年大正14年)から開始されたラジオ放送で中継が実施されたが、行列を直視しながらの実況は禁止されていたので、音とスケジュールだけを頼りに実況した。紫宸殿での式典の際には、新聞などマスコミ関係者はすべて建礼門外に締め出された。唯一、大日本帝国陸軍参謀本部陸地測量部が内部の様子を撮影しており、そのフィルムが後年公開された。

各新聞は京都で撮影された写真を東京の本社にファクシミリ(当時は「写真電送機」と呼んでいた)で送信し、その写真が掲載された号外をその日のうちに発行することができたという。これによって、日本製のファクシミリの技術が大きく進歩するきっかけとなった。

1929年(昭和4年)5月4日-5日、宮城内旧三の丸覆馬場及び済寧館において御大礼記念天覧武道大会が開催され、武道史上最大の催事となった。

平成の即位の礼・大嘗祭編集

 
萬歳旛
 
1990年(平成2年)、大嘗祭

第125代天皇明仁の即位の礼・大嘗祭を巡る儀式は、1990年平成2年)1月23日の期日奉告の儀から始まり、1年間に渉り関連行事が行われた。

政府は国事行為「即位の礼」として、新天皇が即位を内外に宣明する「即位礼正殿の儀」、新天皇・皇后のオープンカーパレードである「祝賀御列(おんれつ)の儀」、即位の礼の祝宴「饗宴の儀」の3儀式を行うことを決定した。

即位の礼にあたり、式典の警備要人警護には先帝・昭和天皇の大喪の礼での3万2000人を大きく上回る3万7000人の皇宮護衛官警察官が動員され徹底した検問などが行われた。この警備の特別予算は54億円に上ったとされる。高御座の輸送に当たっては、過激派テロリストによる妨害を防ぐため、陸上自衛隊のヘリコプター(CH-47J)で隠密に行われた[11]

饗宴の儀は、宮殿豊明殿で11月12日から行われ、15日迄計7回、延べ3,500人の賓客が招かれた。

なお、平成2年(1990年)11月12日は「即位礼正殿の儀の行われる日を休日とする法律」により休日とされたが、次代の令和の即位の礼(後述)とは異なり祝日扱いとはされなかった。

NHKが中継した「即位の礼・正殿の儀」(12時20分から1時間40分放送)は、平均視聴率31.9%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)を記録した[12]

即位礼正殿の儀での「おことば」編集

さきに、日本国憲法及び皇室典範の定めるところによって皇位を継承しましたが、ここに即位礼正殿の儀を行い、即位を内外に宣明いたします。

このときに当り、改めて、御父昭和天皇の六十余年にわたる御在位の間、いかなるときも、国民と苦楽を共にされた御心を心として、常に国民の幸福を願いつつ、日本国憲法を遵守し、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓い、国民の叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。

日程編集

   
1990年(平成2年)、即位礼正殿の儀に際して
1990年平成2年)
  • 1月23日 賢所・皇霊殿・神殿に期日奉告の儀、伊勢神宮・天皇陵等に勅使発遣の儀
  • 1月25日 伊勢神宮神武天皇・前四代天皇陵奉幣の儀
  • 2月8日 斎田点定の儀
  • 8月2日 大嘗宮地鎮祭
  • 9月27日 斎田抜穂前一日大祓(悠紀田:秋田県南秋田郡五城目町
  • 9月28日 斎田抜穂の儀(悠紀田)
  • 10月9日 斎田抜穂前一日大祓(主基田:大分県玖珠郡玖珠町
  • 10月10日 斎田抜穂の儀(主基田)
  • 11月12日 即位礼当日賢所大前の儀
  • 同日 即位礼当日皇霊殿・神殿に報告の儀
  • 同日 即位の礼・即位礼正殿の儀 ※国事行為
  • 同日 即位の礼・祝賀御列の儀(オープンカーでのパレード) ※国事行為
  • 同日 - 15日 即位の礼・饗宴の儀 ※国事行為
  • 11月13日 園遊会内閣総理大臣夫妻主催の晩餐
  • 11月16日 伊勢神宮に勅使発遣の儀
  • 11月18日 一般参賀
  • 11月20日 大嘗祭前二日御禊・大祓
  • 11月21日 大嘗祭前一日鎮魂の儀・同大嘗宮鎮祭
  • 11月22日 大嘗祭当日神宮に奉幣の儀
  • 同日 大嘗祭当日賢所大御饌供進の儀
  • 同日 大嘗祭当日皇霊殿・神殿に奉告の儀
  • 同日 大嘗宮の儀・悠紀殿供饌の儀
  • 11月23日 大嘗宮の儀・主基殿供饌の儀
  • 11月23日 - 25日 大饗の儀
  • 11月24日 大嘗祭後一日大嘗宮鎮祭
  • 11月27日 - 28日 即位礼・大嘗祭後神宮に親謁の儀
  • 12月2・3・5日 即位礼・大嘗祭後神武天皇・前四代天皇陵親謁の儀
  • 12月3日 茶会
  • 12月6日 即位礼・大嘗祭後賢所・皇霊殿・神殿に親謁の儀
  • 同日 即位礼・大嘗祭後賢所御神楽の儀
  • 12月10日 天皇陛下御即位記念祝賀会

用語編集

賢所大前の儀及皇霊殿・神殿に奉告の儀
天皇が賢所・皇霊殿・神殿(合わせて宮中三殿と呼ぶ)に祀られている天照大神・天神地祇・歴代の天皇に即位の礼を行うことを告げる(神々に告げることを奉告という)儀式
斎田(さいでん)
大嘗祭の使用する新穀を作る田。田の選定は古代から亀卜(きぼく)により、京都以東以南の地方から選ばれる「悠紀田(ゆきでん)」と、京都以西以北の地方から選ばれる「主基田(すきでん)」の2つが定められる。
前四代天皇陵
上皇明仁の前四代天皇は孝明天皇、明治天皇、大正天皇、昭和天皇。

平成の即位の礼に参列した各国要人編集

  • 国家元首級:70カ国
  • 皇室・王室:20カ国
  • 副大統領級:15カ国
  • 首相級:20カ国
  • 閣僚級:35カ国

アジア編集

ヨーロッパ・北アメリカ編集

ラテンアメリカ編集

オセアニア編集

アフリカ編集

国際機関編集

招待状を送付したが各国の事情により参列しなかった国編集

開催地編集

近代に入ってからの天皇3代の明治天皇大正天皇昭和天皇においても、正式な高御座が常設されている京都御所に於いて「即位の礼」が行われていた(※厳密にいえば、高御座は即位および大嘗祭後の節会だけのもので、近世には通常は紫宸殿には白い帳のかかった四角い御帳台-大正以降の即位礼で皇后が使用するものとは同名異物-が置かれていた。また戦前の古写真でも紫宸殿内に帳台がおかれた写真があり、高御座が常設されるようになったのは比較的近年のことのようである-といっても半世紀以上は経つが)。

1989年(平成元年)、上皇明仁の代には即位の礼・大嘗祭の開催地を巡り、「東京都」と「京都府」で議論となったが、最終的に東京都千代田区皇居内で開催された。これには時代の変遷により止むを得なかった事情がある。前3代と異なり、平成の天皇即位の礼(即位礼正殿の儀)においては、一連の式典に外国の要人も多数参列し、京都に比べ東京のほうが警備がしやすく、かつその費用も抑えられた[13]。当時はまだ関西国際空港が建設中で、京都迎賓館もなく、関西では要人の大規模な受け入れ態勢が十分には整っていなかったのである。

専門家による「伝統を守るべき」との主張[14]もあり、京都側は京都商工会議所が懇談会を設置する等、京都での開催が多方面から主張された。また、平安京以来1000年余に渡り“天皇”の存在が当たり前だっただけに、京都近辺の市民の落胆ぶりは大きかったといわれる。そういった事情への配慮もあり、皇居での「即位の礼」関連行事をほぼ終え、三重県伊勢市伊勢の神宮内宮奈良県橿原市神武天皇陵に親謁し、先帝四代ののうち京都府京都市にある孝明天皇陵東山区)・明治天皇陵伏見区)に親謁に伴い、同市上京区にある京都御所において各地方公共団体の首長や関西経済同友会など近畿の各種団体の代表、経済界の首脳陣らを招いて大規模な茶会[15]が催された。

令和の即位の礼・大嘗祭編集

 
天皇徳仁

第126代天皇徳仁は、2019年(令和元年)5月1日に即位した[16]。これに先立つ2018年(平成30年)3月、政府天皇退位特例法の成立を受けて、以下の5つの儀式を「第126代天皇」の国事行為たる即位の礼として指定した[17]

  1.  剣璽等承継の儀
    2019年(令和元年)5月1日10時30分から[18]10分程度〔宮殿 正殿〕
  2.  即位後朝見の儀
    同日11時10分から[18]10分程度〔宮殿 正殿〕
  3.  即位礼正殿の儀
    2019年(令和元年)10月22日〔宮殿〕〈予定〉
  4.  祝賀御列の儀
    同日〔宮殿 - 赤坂御所〕〈予定〉
  5.  饗宴の儀
    同日、25日、29日、31日〔宮殿 豊明殿・長和殿〕〈予定〉
 
徳仁の大嘗宮の案(模型)

さらに閣議第4次安倍内閣)で、新天皇の大嘗祭が皇室行事として行われることを口頭了解した。宮内庁では、新天皇の大嘗宮の規模を1990年(平成2年)のそれより縮小し、8割程度とする案が出ている。大嘗祭の中心儀式・大嘗宮の儀は2019年(令和元年)11月14・15日に行われる予定。

「天皇の即位の日及び即位礼正殿の儀の行われる日を休日とする法律」により、即位の日である2019年(令和元年)5月1日と即位礼正殿の儀の行われる日である10月22日が祝日扱いの休日となる。祝日法により5月1日の前後、即ち4月30日と5月2日も国民の休日となるため、2019年(平成31年/令和元年)のゴールデンウィークは10連休となる企業・学校もあった。

儀式は平成の例を踏襲する方針である。政府は、日本が国家として承認している195か国の元首などを招くことを決定した[19] 。2019年8月21日現在、参加者を明らかにしている国は以下の通りである。

ギャラリー編集

脚注編集

  1. ^ 金子勝『日本国憲法の原理と「国家改造構想」』1994年
  2. ^ a b 平成の御代替わりに伴う儀式に関する最高裁判決 首相官邸
  3. ^ 大正天皇、昭和天皇の即位の礼はこの形式で執り行われた。「陛下」も参照。尚、明治以前の孝明天皇の時代までは宣命使が紫宸殿の中庭より高御座に登った新天皇に即位の宣命を伝える形式で、新天皇が即位時に勅語を発することは無かった。
  4. ^ 即位の礼・大嘗祭国費支出差止等請求控訴事件 裁判所
  5. ^ 大嘗祭に税金使うのは「違憲」 政教分離原則に反すると提訴2019年1月21日閲覧
  6. ^ 藤森健太郎『古代天皇の即位儀礼』(吉川弘文館、2000年)所収の、第二部・第六章「十~十二世紀の[天皇即位儀]」より
  7. ^ 末松剛『平安宮廷の儀礼文化』(吉川弘文館、2010年)所収の、第一部・第一章「即位式における摂関と母后の高御座登壇」より
  8. ^ 天皇即位式、江戸時代は庶民の人気行事 ニュース 列島いにしえ探訪 文化 伝統 関西発 YOMIURI ONLINE(読売新聞)
  9. ^ 礼服は、朝賀が中絶した平安中期以降即位だけに使用する装束であった。
  10. ^ 山下紘一郎『神樹と巫女と天皇 初期柳田国男を読み解く』(梟社、2009年)と、『柳田国男の皇室観』(梟社、1990年)に詳しい。
  11. ^ 読売新聞 1989年5月30日 「即位の礼用の高御座を隠密空輸 京都から自衛隊ヘリを使用」
  12. ^ 引田惣弥『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』講談社、2004年、182頁、247頁。ISBN 4062122227
  13. ^ 読売新聞 1989年4月4日付「天皇「即位の礼」は皇居で 京都の警備に難点 「大嘗祭」と分離も/宮内庁」
  14. ^ 読売新聞 1989年5月3日付「伝統のある大嘗祭は閑静な京都御所で」所功(寄稿)
  15. ^ なお、即位10周年の1999年(平成11年)秋、20周年の2009年(平成21年)秋、30周年の2019年(平成31年)春にも同様に関西に赴き、京都御所で「茶会」を催している。
  16. ^ 2019年(令和元年)5月1日内閣告示第2号「皇位継承に関する件」
  17. ^ 2018年3月30日付 毎日新聞「政府:「即位礼」来年10月22日基本方針を決定」
  18. ^ a b 2019年(令和元年)5月22日宮内庁告示第7号「剣璽等承継の儀を行われた件及び即位後朝見の儀を行われた件」
  19. ^ “新天皇「即位礼正殿の儀」 195か国の元首など招待”. NHK. (2019年8月13日). https://www.nhk.or.jp/politics/articles/lastweek/15596.html 
  20. ^ 米、副大統領参列で調整 10月、天皇即位の礼”. 2019年8月13日閲覧。
  21. ^ 英皇太子が10月訪日 天皇陛下の即位関連儀式に”. 2019年8月13日閲覧。
  22. ^ バチカン、天皇陛下の即位の儀に枢機卿を派遣”. 2019年8月13日閲覧。サンパオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂の名誉主席司祭であるフランチェスコ・モンテリージ枢機卿。枢機卿は法王に次ぐ高位聖職者。
  23. ^ 習主席の盟友 即位の礼参列へ 国賓招待に向け環境整備も”. 2019年8月13日閲覧。
  24. ^ 西森ルイス下議=G20でボウソナロ大統領と訪日=日本とのEPA締結に熱意=「社会保障改革、税制改革通す」”. 2019年8月13日閲覧。
  25. ^ “ウクライナ大統領、初来日へ=3年ぶり首脳会談も-10月即位礼”. 時事通信. (2019年8月14日). https://web.archive.org/web/20190814020538/https://www.jiji.com/jc/article?k=2019081300615&g=int 
  26. ^ 「知日派」韓国首相、10月に開かれる即位礼正殿の儀に出席か”. 2019年8月18日閲覧。
  27. ^ ドイツ大統領、即位の礼出席へ=2年連続で訪日”. 2019年8月21日閲覧。
  1. ^ 1990年11月の即位礼には米国から当時のブッシュ大統領ではなくクエール副大統領が参列したことを受け、米国は前例に従えば今回も副大統領の派遣が妥当との認識を示している
  2. ^ 前回の即位礼では、中国から共産党政治局員の呉学謙副首相(当時)が参列した。王副主席は最高指導部の政治局常務委員を務めた経験があり、呉氏よりも格上として位置づけられる。

関連項目編集

外部リンク編集