オウム真理教

20世紀末に存在した、麻原彰晃こと松本智津夫が設立した日本の新宗教、テロ組織
オウム神仙の会から転送)

オウム真理教(オウムしんりきょう)は、麻原彰晃教祖とするかつて存在した日本新宗教団体。1988年から1995年にかけて、オウム真理教事件を引き起こし、1996年(平成8年)1月宗教法人としての法人格を失ったが活動を継続。2000年(平成12年)2月には破産に伴いオウム真理教という名称は消滅した。

オウム真理教
Aum symbol.png
略称 オウム オウム教 オウム教団
設立者 麻原彰晃
(本名、松本智津夫)
解散 2000年2月
種類 宗教団体テロ組織
目的 (宗教法人規則認証申請書)主神をシヴァ大神[注釈 1] として崇拝し、創始者の松本智津夫(別名麻原彰晃はじめ、パーリ仏典を基本としてシヴァ大神の意思を教学し実践する者の指導のもとに、古代ヨガヒンズウー教、諸派大乗仏教を背景とした教義をひろめ、儀式行事をおこない、信徒を教化育成し、すべての生き物を輪廻の苦しみから救済することを最終目標とし、その目的を達成するために必要なワークを行う[1]
(公安調査庁の見解)教祖である麻原及び麻原の説く教義への絶対的帰依を培い、現行憲法に基づく民主主義体制を廃し、麻原を独裁的主権者とする祭政一致専制政治体制を我が国に樹立すること[2]
本部 日本の旗 日本
東京都江東区亀戸(登記上)
山梨県西八代郡上九一色村(現・南都留郡富士河口湖町)(実質)
静岡県富士宮市(実質)
東京都港区南青山(実質)
会員数

最盛期
日本:15000人[3]
ロシア:35000人[4]

出家信者・1400人(日本国内)
会長 麻原彰晃1995年5月まで)、松本知子(1995年6月まで)、村岡達子(1999年まで)上祐史浩ひかりの輪設立まで)
重要人物 石井久子上祐史浩新実智光松本知子松本麗華村井秀夫(正大師)
主要機関 省庁制
関連組織 真理党Alephひかりの輪山田らの集団ケロヨンクラブ
ウェブサイト aum-internet.org
特記事項 松本サリン事件地下鉄サリン事件などのテロ事件を引き起こした。
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青山総本部(1994年東京南青山にて撮影、2015年4月解体)

破産とほぼ同時に、新たな宗教団体アレフが設立され、教義や信者の一部が引き継がれた。アレフは、後にアーレフを経てAlephに改称され、また別の宗教団体であるひかりの輪山田らの集団ケロヨンクラブが分派した。

概説編集

地下鉄サリン事件を筆頭に、現世人の魂を救済する「ポア」を大義名分として、組織的に数多くの殺人事件を起こした新宗教団体である[5]教祖である麻原彰晃(本名:松本智津夫)は、「ヒマラヤで最終解脱した日本で唯一の存在で空中浮揚もできる超能力者であり、その指示に忠実に従って修行をすれば誰でも超能力を身に付けることができる」、などと謳い若者を中心とする信者を多く獲得した。教義的にはヒンドゥー教仏教、さらにキリスト教といった諸宗教に合わせ、1999年に世界に終末が訪れるとするノストラダムスの予言など、終末論が交錯していた。麻原自身は釈迦の教えを忠実に復元したとしていたものの[6]、実際のところ麻原にとって都合の良いものとなっていた。

当初はヨーガを学ぶ和気藹々としたサークルに過ぎなかったが、次第に常軌を逸した行動が見え始め、出家信者に全財産をお布施させたり、麻原の頭髪や血、麻原の入った風呂の残り湯などの奇怪な商品を高価で販売するなどして、多額の金品を得て教団を拡大させた。内部では奇怪な商品の売付けや過激な修行で懐疑的になって逃走を図った信者を拘束したり殺害するなどして、1988年から1994年の6年間に脱会の意向を示した信者のうち、判明しているだけでも5名が殺害され、死者・行方不明者は30名以上に及び、恐怖政治で教祖への絶対服従を強いていた。

「出家」や高額の布施を要求し信者の親族その支援者と揉め事が多く、当初より奇抜、不審な行動が目立ったため、信者の親などで構成される「オウム真理教被害者の会」(のちに「オウム真理教家族の会」に改称)により、司法行政警察など関係官庁に対する訴えが繰り返されたが、取り上げられることなく、その結果、坂本弁護士一家殺害事件をはじめ松本サリン事件地下鉄サリン事件などのテロを含む多くの反社会的活動(詳細は「オウム真理教事件」を参照)を起こした[7][8] ほか、自動小銃化学兵器生物兵器麻薬爆弾類といった教団の兵器や違法薬物の生産を行っていた[2]

第39回衆議院議員総選挙での真理党の惨敗もあり、最終的には、麻原に帰依しない部外者を「ポア」により「救済」するとして、国家転覆計画すらも実行するようになった。その到達点と言える1995年3月20日の地下鉄サリン事件は、宗教団体が平時の大都市を狙い複数箇所を強力な化学兵器同時多発テロを起こすという過去に類のない事件であり、比較的治安の良い戦後日本で起きたことも含めて、日本国内だけでなく、世界にも大きな衝撃を与えた(海外ではTokyo Attack等と称された)。

1996年平成8年)1月に宗教法人としての法人格を失ったが活動を継続。2000年(平成12年)2月には破産に伴い「オウム真理教」としては消滅した(2009年に破産手続きが終了した)。同時に、新たな宗教団体アレフ」が設立され、教義信者の一部が引き継がれた。アレフは後に「Aleph」と改称され、また2007年(平成19年)5月に上祐史浩を中心とした別の仏教哲学サークルひかりの輪」が、2014年(平成26年)〜2015年(平成27年)頃にAleph金沢支部の山田美砂子(ヴィサーカー師)を中心とした「山田らの集団」と呼ばれる分派(自称ではない)が結成された。また、既に目立った活動はなく崩壊したと見られているが、北澤優子により「ケロヨンクラブ」なる組織が分派して結成されていた時期もある。

2018年には麻原をはじめとした幹部達の死刑が執行されたが、Alephを中心に未だに麻原信仰は根強く、後継組織の施設周辺は抗議の看板が掲示されるなどしている。2020年現在も日本の公安調査庁団体規制法により後継団体の動向を監視している。公安調査庁の調査では、米国政府、欧州連合(EU)、オーストラリア政府、カザフスタンアスタナ市裁判所、ロシア連邦最高裁判所からテロリストの認定を受け、各国で活動を禁止されている[5]

麻原の三女松本麗華は、マスメディアではオウム真理教出家者が高学歴のインテリばかりで構成されていたかのようなイメージで報道されたが、実際は一般社会に居場所を無くした構成員も多かったと語る。例えば、普通に生きていくことに疑問を生じたり、居場所が無かったりした人や、DV被害者、被虐待児、精神疾患発達障害パーソナリティ障害などの社会的弱者が少なからずいたという[9]

名称編集

「オウム(AUM)」とは、サンスクリット語またはパーリ語の呪文「」でもあり、「ア・ウ・ム」の3文字に分解できる。Aは創造、Uは維持、Mは破壊を表しており、三文字の意味は「無常[10]、すなわちすべては変化するものであるということを表している。

また麻原自身の解説によれば「真理」の意味は、釈迦イエス・キリストが人間が実践しなければならないものはこうであるという教えを説いたものであるが、その教えの根本であるものを「真理」と呼ぶ。特にチベット仏教原始仏教の要素をアピールしたため仏教系とされることも多いが、あえて仏教を名乗らなかった理由は、「仏教」という言葉自体が釈迦死後に創作されたものであるからとしている。また真理と密接に関係のあるものが科学である[11][12]

しかし、実は命名には京都の私立探偵目川重治が関わっていたという。目川は「松本智津夫」から天理教の全容の調査を依頼され、その調査結果を松本に手渡した。その際、目川があんりきょう、いんりきょう・・・と「あ」から続けていき、「しんりきょう」に至ったという[注釈 2]。「オウム」は目川の家の向かいにあったオーム電機オームの法則に由来し、目川が「オームなんていいんじゃないか?」と勧めたとされる[13]。後に目川は松本が麻原彰晃であると知った。

時期は目川の手記では1978-1979年頃、ノンフィクションライターの高山文彦および東京新聞記者瀬口晴義の文献によれば1984年春頃とされている(詳細は「目川重治#オウム真理教」を参照)[14]。高山は勢力を拡大し教団名が市の名前(天理市)にまでなるに至った天理教を自分の夢と重ねていたのではないかとする[15][16]

沿革編集

前史編集

思想形成編集

麻原彰晃(松本智津夫)は熊本県立盲学校小学部の時、文句を言わず思い通りに働いてくれるロボットをたくさん作って、ロボット帝国を築くと語っている[17]。左目は緑内障で見えなかったが、右目の視力は0.3-0.4はあったとされ、ソフトボールを受け止めることができた[18]。中等部では、5歳下の下級生を子分とし、金も渡さずに駄菓子屋に菓子や飲料を買いに行かせたり、カバンを持たせたり、殴ったりした[19]。高2の時には光源氏について脚本を書き、麻原が主役を演じた[20]。バンドをつくり下級生に楽器を弾かせ、西城秀樹を歌い、寮祭では西城秀樹の「ちぎれた愛」からタイトルをとった劇を自作自演した[21]。高3時は身長175cm、体重80キロと体格はよく、柔道部でも活躍した[18]。麻原の将来の夢は総理大臣で、田中角栄の伝記を読んだ[20]。高等部(または専攻科)在籍時に生徒会長に立候補した時には、年下の女子生徒を4-5人引き連れて選挙活動をした[22]。盲学校では児童会長、生徒会長、寮長と何度も選挙に立候補したが、一度も当選しなかった[23]。専攻科では、自治会で忘年会や寮母への感謝行事の廃止や、寮祭予算の削減などを主張、議事が混乱した[24]

無許可薬品の販売で漢方薬局を閉鎖したり再開していた若い時期には、気学四柱推命奇門遁甲などの中国運命学、特に仙道を修行し、を体内に循環させ尾骶骨付近に眠っている霊的エネルギーを一気に頭頂に突き抜消させる大周天を習得し、さらに幽体離脱手当て療法などの超能力を身につけたという[25][26]

宗教団体GLAの教祖で釈迦の生まれ変わりとされた高橋信次の全集[27]を読み、また長兄の影響で創価学会や阿含宗の著作にのめり込み[27]阿含宗に入った[28]。教祖桐山靖雄クンダリニーを覚醒させ即身成仏したとし、また意志すれば着火できるとも主張し、信者には千座行によってカルマから解放され、クンダリニー・ヨーガによってチャクラを覚醒し超人になることを説いた[29]。また桐山は大脳生理学深層心理学等も借用し、1970年代オカルティズム超能力国際的ブームに乗って若者に影響を与えた[29]。3年間(阿含宗側は3ヶ月とする[30])在籍した麻原は阿含宗が千座行で毎日金を寄付させるのを後に批判している[31][32]。阿含宗からは仏教・密教以外にも、用語、ヨーガ、超能力、終末観などに関しても麻原は影響を受けたが、オウムでは終末を回避不能とするなど阿含宗とは教義上の違いがある[30]。独立後の麻原は桐山よりもヨーガを重視しヨーガの主神シヴァを本尊とし、ヨーガと仏教を結びつけ、超能力を追求した[29]。また、オウム信者には元阿含宗信者が多く、林郁夫早川紀代秀岡崎一明新実智光井上嘉浩らの教団幹部[33]高橋克也も阿含宗信者だった。オウムの教義や修行法を作ったのも翻訳研究班に所属する元阿含宗信者だった[34]。1990年の石垣島セミナーの参加者500人のうち二百数十人が阿含宗元信者だった[35]

精神科医で予言研究者の川尻徹が書いた「滅亡のシナリオ―いまも着々と進む1999年への道」(1985年、原作=ノストラダムス 演出=ヒトラー[36]を麻原は著者と何度も文通するほど愛読し、自分もノストラダムスの予言に登場する人物であると信じており、麻原を救世主キリストとした一団が、復活したナチス帝国に勝利するとも述べたこともあった[37][38]。ヒトラーの『我が闘争』も愛読していた[39]。麻原はアニメ宇宙戦艦ヤマトデスラー(ヒトラーがモデル)と自分が似ているとも語った[40]

麻原は長兄の影響で毛沢東を近代で最も尊敬すると述べた[41]。一方で共産主義は良い点もあるがもうすぐ潰れると考えており[42]ソ連や中国は「物質主義で宗教を否定し、神の意思に反した悪の国」ともしていた[41]。麻原は1994年に中国に行った時「毛沢東が亡くなったのは神が亡くなったようなものだ。自分が次の毛沢東になるようにという示唆を感じた」と「共産党の歌」を歌い始めたが、その後「でも毛沢東の最後はおかしくなっちゃうんだよな」と言い、以後朱元璋転生というようになった[43]

麻原は天皇を敵視し、日本国を嫌っており、パイロットババにも日本は嫌いだと何度も語った[44]。作家の藤原新也は、こうした麻原の反日的な思想の背景に目の病とその原因として水俣病があったのではないかと思い、麻原の長兄にそのことを質問すると、魚やシャコを大量に食べた幼少期の智津夫ははじめに手が痺れ、そのうち目の病となったため、水俣病患者として認定するよう役所に申請したが却下され、さらに申請したことで「アカ」と噂され肩身の狭い思いをしたと兄は証言した[45]

こうして、武力革命の肯定や反米主義ユダヤ・フリーメーソン陰謀論などをミックスした終末思想を形成していった[41]

のちの上祐史浩大田俊寛との対談[46]によれば、オウムの活動の最終目的は「種の入れ替え」であり、それは教団の上層部において、ある程度共有されていた。麻原の世界観では、人類全体が自らの霊性のレベルを高め、超人類や神仙民族と呼ばれる存在に進化する「神的人間」と、物質的欲望におぼれ動物化していく「動物的人間」の2種類に大別され、現在の世界は「動物的人間」がマジョリティを占めており、他方、「神的人間」はマイノリティとして虐げられている。この構図を転覆しようというのが、「種の入れ替え」であり、オウムでは数々の修行やイニシエーションによって、「神的人間」を創出・育成し、同時に人類の霊性進化の妨げとなる「動物的人間」を粛清する目的で、70トンのサリンを製造し、日本をサリンで壊滅させた後に「シャンバラ」や「真理国」と呼ばれるユートピア国家を樹立しようという最終目標を持っていた[47]

漢方薬局、阿含宗入信、無許可薬品の販売編集

1978年、石井知子結婚し、千葉県船橋市湊町の新居に鍼灸院松本鍼灸院」を開院し、タウン情報誌の広告で「中国で学んだ松本智津夫の中国式漢方総合治療室」と称し腰痛ムチウチ肩こり頭痛で悩む方、「美しく痩せたい方」を募集した[48]。なお、「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律」では医業の広告医業類似行為も規制されており、虚偽誇大広告は禁止されている[注釈 3]。既にこの頃、予備校時代からのブレーンが若者を勧誘して「世直しの集会」を開き、鍼灸師は「仮の姿」と語っていた[49]。同年9月には診察室兼漢方薬局の「亜細亜堂」を開業し、耳つぼにを打って痩せる施術をしたり、こんにゃくミカンの粉末をダイエット食品として販売した[50]。1980年7月、保険料の不正請求が発覚し、670万円の返還を要求され、亜細亜堂を閉鎖したあと、8月に阿含宗に入信した[51]

1981年(昭和56年)2月、船橋市高根台に「BMA薬局」(BMAはブッダ・メシア・アソシエーションの略)開局[52]GLA(ゴッド・ライト・アソシエーション)の影響ともいわれる[28]。この頃、朝鮮人参の皮、みかんの皮、人参などを酢酸エタノールに漬けた無許可の漢方薬やダイエット薬「ビューティー」を製造する「天恵の会」を作り、都心京王プラザホテルなどで3万円から6万円もする「風湿精」『青龍丹』「降圧精」などを「リウマチ神経痛、腰痛が30分で消える」と称して販売し、4千万円を売り上げた[53]。1982年6月、詐欺被害の訴えによって薬事法違反で逮捕、20万円の罰金刑を受ける[54]。これに先立ち、当時熊本で鍼灸院を経営していた長兄もミカンの皮を「体内を浄化する薬」として1回2万円で販売しており、麻原はこれを真似たともいう[23]

逮捕後、ヨーガ・スートラを研究[26]。同1982年、経営塾などをやっていた人物である西山祥雲に弟子入りし「彰晃」の名をもらい「松本彰晃」を名乗る[51]。西山のセミナー「自念信行会」の副教祖にしてくれと懇願した際、麻原が右手で輪を作り、左手を上に向けて膝に置いて、「お釈迦さんだってこんなポーズをとっているでしょう。銭もってこい、と言ってるんですよ」と笑ったため、西山が怒ると、麻原は泣き出した[55]

阿含宗からヨーガ経典へ編集

麻原への阿含宗の影響は濃厚であり、1986年の「超能力秘密の開発法」でも、阿含宗は「システム、創始者の法力は我が国で一番優れている」と称賛し、毎日の修行、入会のしやすさ、マスコミの利用、宗教の研究、創始者の念力などがその優れている理由とした[56]

阿含宗の前身の観音慈恵会では、因縁を変えて幸福になることが「因縁解脱」とされ、准胝観音の力を頼み、真言陀羅尼を千日間唱える供養行を行う(千座行)[57]。特に悩み事がある場合は「お伺い書」を出して、教祖桐山靖雄に面会し、桐山はお伺い書を透視し(因縁透視)、「御霊示」を示す[57]。『幸福への原理』 (1957)では、我や欲を捨て、人を助け、功徳を人に施すことで宇宙の生命力と一体化し、観音エネルギーを充実させることが可能で、法華経での一念三千と説く[57]1970年代になると、『変身の原理-密教・その持つ秘密神通の力』 (1971)や『密教・超能力の秘密』 (1972)で、瞑想による密教・ヨーガ的な身体修行、クンダリニーヨーガ、そして大脳生理学など「新しいサイエンス」と融合した技術によって、超能力を得て超人、ホモ・エクセレンスに変身できると説いた[58]。桐山は「科学と技術はヒトの力を無限に拡大したが、同時に、ヒトの殺戮と搾取と憎悪と闘争をも無限に増大させた。このままでは、まもなくホモサピエンスは絶滅する」といい、ヒトを改造して古い社会体系を解体させる技術によって新しい文明を作を作ろう、「この革命だけが全人類を破滅から救う」と説いた[59][58]。その後大乗仏教を批判し、原始仏教の阿含経を重んじるようになり[60]、1978年に阿含宗を立宗した[61]。桐山は1974年にヨギ・バジアン(Yogi Bhajan)のアメリカ大会に出席したり、コロラド州のナローパ大学にチョギャム・リンポチェを訪問したり、1980年11月に来日中のダライラマが東京道場に来山[62]、その写真をパンフレットなどで華々しく掲載した[63]。1983年8月、ニンマ派ミンリン・ティチン・リンポチェによる戴冠式で桐山は僧位を授受した[64]。1983年に桐山はクンダリニーヨーガのチャクラ説を初めて日本に紹介して日本の密教ブームを引き起こしたのは自分だと自負した[65][66]

毎年二月の「阿含の星まつり」に参加する信徒数は、1977年に5000人だったのが年々増大し(78年8000人、79年2万人、80年5万人、81年20万人、82年37万人)、1983年には50万人と百になり[62]、この急激な成長期に麻原は入信していた[67]。麻原は入信動機として「密教・超能力の秘密」他の本を読んでと書いていた[68]

阿含宗内で麻原を囲むグループは、ヨガ修行を熱心に修行しており際立っていたという[69]朝日新聞1995年5月16日は、麻原は毎月例祭には顔を出し、本部道場へよく奉仕に来るような熱心で若い阿含宗のリーダー的存在だったと報じ、週刊朝日1995年4月7日号は84年秋に麻原は三人の阿含宗信者とともに脱会したと報じたが、桐山はこれらの報道は間違いという[70]。他方、読売新聞1995年5月17日夕刊は、麻原は当時ほとんど姿を見せず、在籍も三ヶ月ほどで、まともな修行はしていないし、教団運営のノウハウを知るのが目的かと報道したが、桐山はこれが真実に近いという[71]

なお、阿含宗ではヨーガや行法の伝授は限られており、12年間信仰した後脱会した廣野隆憲は、桐山が求聞持聡明法を修得したのか、またそれを伝授する意思があったのか疑っている[72][69]

阿含宗で高いレベルの瞑想法を実践できなかったことに不満を抱いていた麻原は、佐保田鶴治が訳したヨーガ・スートラに出会い、『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』、『ゲーランダ・サンヒター英語版』、『シヴァ・サンヒター英語版』を読んでヨーガを独学した[73][74]。佐保田の『ヨーガ根本教典』は、阿含宗の関連企業の平河出版社から出版されており、桐山は著作で「ヨーガによるヒトの改造」を論じる際に佐保田の著作を長文引用している。麻原はヨーガ学派サーンキヤ学派の用語を多用して、真我 (アートマン)は現象界のグナの干渉でニルヴァーナから落下して苦の世界が生じたとし、これを修行によって真我に復帰することを目指した[75]

麻原脱会後も桐山の海外寺院との関係は続き、1988年にはニンマ派のコチェン・トルクによって金剛阿闍梨法冠を授受、1991年にニンマ派仏教大学名誉教授に就任[62]、1992年にスリランカ仏教シャム派、93年にサキャ・ツァル派、94年にミャンマー仏教よりそれぞれ僧位を授受した[64]。サリン事件後の95年、桐山は「私は、日本人として、ただ一人の、チベット仏教の法を伝える大阿闍梨なのである」とグルとしての正当性を主張した[76][77]。桐山は2010年にブータンのテンジン・デンドップ大僧正よりカギュ派伝法灌頂及び「無上瑜伽秘伝タントラ」の法等を授受した[64]

超能力・ヨーガ教室編集

 
チャクラ、ナーディ、クンダリニーが描かれたタントラ行者の図
 
クンダリニー・ヨーガにおける位置。上部の花弁:サハスラーラ・チャクラ、最下部はクンダリニー

1983年(昭和58年)夏(28歳)、阿含宗脱会。東京都渋谷区桜丘に、サイコロジー(心理学)・カイロプラクティック仙道・ヨーガ・東洋医学・漢方などを統合した能力開発の指導を行う学習塾「鳳凰慶林館」を開設[78]、塾生は女性に限定されており、ダイエット美容や健康法が中心だった[79]。松本はこの時「麻原彰晃」と名乗り始める[78]

1984年(昭和59年)2月、「鳳凰慶林館」からヨーガ教室「オウムの会」へと鞍替えした[80]。同年5月28日にはオウム株式会社を設立。この時、長兄に「教祖になってくれないか」と依頼している[81]。当時は超能力の獲得を目指すアットホームで明るいヨガ教室だった[82]

この頃、オカルト系雑誌の『月刊ムー』が、このオウムの会を「日本のヨガ団体」として取材、写真付きの記事を掲載していた[83]。麻原はこれらオカルト雑誌に空中浮揚の瞬間と称する写真を掲載したり、ヒヒイロカネについての記事や、『生死を超える』『超能力秘密の開発法』などの本を執筆するなどして宣伝した。

1985年9月、週刊プレイボーイの超能力担当記者にヨーガによる解脱で核戦争による人類滅亡を乗り越えるのが会の趣旨であると述べる[84]。雑誌『トワイライトゾーン1985年10月号で「2006年までに核戦争の第一段階は終わっている」「核戦争は浄化の手段ですね。だから、私はノアの方舟も信じられます。選りすぐったレベルの高い遺伝子だけを伝えるんです。だけど、人が「自分の分け前をさいて人に与えよう」というように考えない限り、浄化はなくならないんですね。」「私の目指すのは最終的な国なんです。それは、仏教的・民主主義的な国、完璧な超能力者たちの国」[85]、理想郷シャンバラを確立するために神になる修行をした」と取材に答えた[86]。前年には『理想郷シャンバラ』という書籍が刊行されていた[87]。1985年9月には阿含宗が「シャンバラ」を商標登録して、神田にサロン「シャンバラ」を開設、小冊子「シャンバラ通信」を刊行した[88][注釈 4]

1985年12月にヒマラヤの完成者マニクラチューからインドへ来いとの啓示があり、1986年(昭和61年)1月、麻原はインドを訪問し、スワミ・アガンダナンダやパイロット・ババ(Pilot Baba)等と会う[89]

1986年3月に刊行した書籍「ザ・超能力秘密の開発法」では仙道、仏教、密教、ヨーガの集大成として「だれでもこの方法で修行すれば超能力者になれる」と説き、また同書では、全生物の中に仏性・神性を認めそれから学び奉仕するというカルマ・ヨーガを修行に加えたとし、「例を挙げるならば、自分を裏切ったり、悪口を言ったりする人がいても、そういう人たちの行為を認め、自分を見つめ直す機会として学ぶのである。(略)わたしに、このヨーガが必要だったのは、傲慢になりやすい人間だったからである。よくよく自分の性格を分析すると、自分だけが正しいという思い込みがあって、他の人の心の動きを当然のことのように無視してしまうことがあったのだ」とも書いた[89]。また,イニシエーションとして、クンダリニーという霊的エネルギーを覚せいさせて超能力を身に着けることができるシャクティパット等のセミナーを開催した[90]

オウム神仙の会・「最終解脱」(1986-1987年)編集

1986年4月、オウムの会をオウム神仙の会と改称した[89]

1986年5月から6月にかけてヒマラヤに行き「最終解脱」したとし、同時期に雑誌『トワイライトゾーン』(ワールドフォトプレス刊)に「解脱への道」の連載を開始した[89]。麻原は「1986年夏、ヒマラヤで最終解脱した」と宣伝したが、インドのヒマチャル・プラデシュ州マナリ現地の僧侶たちは、「そんな話は聞いたことがない」といい、ヒマラヤ仏教徒協会のヒラ・マルは「小さな街なので、麻原のような目立つ風貌の者が山にこもって修行していたら耳に入るはずだ」という[91]。サムドン・リンポチェ元チベット亡命政府首相は、1986年に空港で日本人女性に「尊師と会って欲しい」と声をかけられたので会うと、麻原はいきなり、ダライ・ラマのイニシエーションを受けられるよう取り計らって欲しいと言ってきたが、サムドン・リンポチェは断っている[92]

当時、麻原が弟子の前で最終解脱できないと悩んでいたのが、帰国直後の説法で最終解脱を発表したので、疑いを持った弟子達がやめた[93][94]。麻原自身が「最終解脱」は最終ではなく、その先に「最終完全解脱」があるが「それは達成できなかった」と自らの説法で述べている[94]。1991年頃、雑誌スパの記者が最終解脱の証拠について質問すると、麻原は「だって、仏陀が大勢現れて祝福してくれたんですよ」と述べるだけで、具体的な証拠は示さなかった[94]。のちに麻原は上祐に「最終解脱は、本当は1986年のヒマラヤではなく、それ以前だが、ヒマラヤと言った方が、イメージがいいからそう行っている」と告白しており、上祐は「最終解脱者」は現地の高僧に認定されたものではなく麻原の自称であり、麻原は最終解脱者を演じていたのではないかという[94]

『トワイライトゾーン』1986年6月号で麻原はヨーガ行者雨宮第二を自分の未来予言を認めた修行者として紹介した[89]。しかし雨宮は、麻原が最終解脱したと雑誌で主張したことを電話で厳しくとがめ、両者は決裂した[89]

1986年6月に出家制度が始まり、最初の出家者は石井久子だった[95]。これはサンガと呼ばれ、半年間修行に専念するため120万円を差し出した[96]

1986年8月の丹沢セミナーでパイロットババを招待した[96]。しかし、麻原は、ババが水中サマディをせず女と金を要求したと不満で、のちの講話でババは嘘つきだと非難した[97][96]

1986年11月頃、青年部を設立(のちボーディーサットヴァの会)、上祐、杉浦実、岐部ら10人がいた[96]。 1987年(昭和62)2月頃、インドから帰国後、麻原は青年部が派手に動くので、青年部とサンガの統合を命じた[96]

1987年(昭和62)1月4日丹沢セミナーで、密教修行者が魚を焼いて殺して食べたが、これは釈迦のいう不殺生だが、その魚の魂を高い世界へ上昇させるポアであり功徳だ、チベット密教では盗賊を殺すことも功徳となるとし、「グルがやれと言ったことすべてをやることができる状態,例えばそれは殺人も含めてだ,これも功徳に変わる」「グルのためだったら殺しだってやるよというタイプの人はクンダリニー・ヨーガに向いてる」とすでに説いていた[90]。他にも「私も過去世においてグルの命令によって人を殺してる」「人を殺すというものはできないものだ。しかし、そのカルマですらグルに捧げたときにクンダリニー・ヨーガは成就する」「グルがそれを殺せと言うときは、例えば相手はもう死ぬ時期に来てる。そして,弟子に殺させることによって、その相手をポアさせるというね,一番いい時期に殺させるわけだね。」とも説いた[90]。ただし、この時点では、殺さない、盗まない、よこしまなセックスをしない、うそをつかない等が「無難な方法」と述べている[90]

麻原と家庭編集

当時は松本家一家は千葉県船橋市に住み、貧しく家族全員で1つの寝室を共有していた。食事野菜中心での代りにグルテンを肉状にしたものを食べたり、ちゃぶ台の上にホットプレートを置き、「野菜バーベキュー」を楽しんでいた。この船橋の家には「瞑想室」があり、宗教画が掛けられ棚には仏像が置かれていた。麻原は日に1度は瞑想室にこもり修行をしていた。棚の前にはちゃぶ台があり、麻原はそれを祭壇と呼んでいた。「形は重要じゃない。心が重要なんだ。私にとっては」というのが麻原の口癖だった。後に教団が大きくなってからも、麻原はそれを祭壇として使っていた[9]

当時、麻原はヨーガ教室を東京都渋谷区で開いていたため、家にいることが少なかった。たまに帰宅すると強度の弱視のためテレビにくっつくように野球中継を見ていた。1986年ころには世田谷区道場に住み込むようになりほとんど家に帰らなくなる。たまに麻原が帰宅すると3人の娘たちが大喜びで玄関まで走って行き、姉妹で父を奪い合うような普通の家庭であった。次女は父の帰宅を「太陽のない世界に、太陽が来た」などと表現していた。しかし、妻の松本知子は麻原が滅多に帰宅しないことから精神不安定であり、麻原に向かってなじるようないさかいがあり、麻原はこれにほとんど抵抗をしなかった。3女松本麗華の目には、知子が麻原の宗教を信じているようには見えなかったが、知子は麻原の著書の代筆を深夜まで行っており、後の麻原の著書のいくつかは、知子が書いたものであった[9]

麻原は子供に向かって「に刺されると痒くていやだね。でも蚊も生きているんだよ」とか「お釈迦様によれば、私たちは死後生まれ変わり、もしかしたら蚊に生まれ変わるかもしれない」などと話していたが、一方妻の知子は蚊を平気で殺していた[9]

オウム真理教の成立(1987-1989年)編集

核戦争から人類を救済する宗教として編集

1987年(昭和62年)6月[90]、東京都渋谷区において、従前の「オウム神仙の会」を改称し、宗教団体「オウム真理教」が設立された。「真理教」の名前は石井久子以外には「いかにも新興宗教」と不評であり、もっと宗教色を隠さないと一般受けしないという意見もあったが、麻原は「救済活動をする為なのだから真理教にする」と拘った[98]。宗教化後は多額の献金を要求するようになり、ワークも増え、会員の三分の一が脱会した[82][99]

1987年には、自分個人の解脱に至る小乗(ヒナヤーナ)の教えから、自己のみならず他人も救済する大乗(マハーヤーナ)の教えを説くようになっていた[90]。1987年7月16日には世田谷道場で「解脱のための一番手っ取り早い方法は,自分の持っているもの 全部を空っぽにし,グルあるいはシヴァ神の求めているものを意思して実行することである」、解脱者を3万人出せば、そのサットヴァのエネルギーによって核兵器が無意味になり、真理は一つになる」と説法した[90]。同年8月に刊行した書籍「イニシエーション」では「1993年までに世界各国に二つ以上の支部ができなかったら、1999年から2003年までに確実に核戦争が起きる」と予言し、「核戦争を回避するためには,オウムの教えを世界に広めていかなければならない」と教団による人類の救済を説いた[90]

麻原は解脱して超能力を身に付けたといい、神秘体験に憧れる若者を中心に組織を急速に膨張させていく。さらに麻原は自らをヒンドゥー教の最高神の一柱である破壊神シヴァ神あるいはチベット密教の怒りの神「マハーカーラ」などの化身だとも説き、人を力尽くでも救済するこの神の名を利用し目的のためには手段を選ばず暴力をも肯定する教義へと傾斜していく。

麻原は自らの権威づけをかねて主要な弟子を引き連れて世界各地の宗教聖地を巡った。1987年、「麻原の前世が古代エジプトのイムホテップ王であった」ということから、同王が埋葬されているピラミッドの視察目的でエジプトツアーを行った[100]。後に麻原は自著において「ピラミッドはポアの装置だ」と述べた[100]。1987年11月にはニューヨーク支部を設立させるが、後に麻原はアメリカは666の獣・悪魔の勢力だと主張し、撤退している[41]

1988年元旦に刊行した著書『マハ一ヤーナ•スー卜ラ 大乗ヨーガ経典』で麻原は大乗仏教ヨーガ哲学を混淆させたうえで、「現代の人間は、まあ大体地獄か、餓鬼か、動物かに生まれ変わる(略)なぜかというと、まず殺生をしますね。盗みもします。邪淫もしますし、嘘もつく。酒は飲むと。これはもう救済の方法がない」と現代社会に対しきわめて否定的で厭世的な見方をした[101][29]

信徒の土地乗っ取り事件と日本シャンバラ化計画(1987-88年)編集

1987年7月に入信した近畿で有機野菜販売会社を経営する在家信徒は、太陽電池をエネルギーとし、学校、病院、ログハウスなどのある村の建設計画を持っており、既に土地を取得したことをオウムに話すと、1988年教団はそのアイデアを流用して日本シャンバラ化計画を打ち立て、ロータス・ビレッジ構想を発表した[102]。その後、知らない内に土地、山林、工場、会社が石井久子名義になっていたため、脱会した上で訴訟となった。1996年4月、和歌山地裁は登記取消を認め、元信徒は勝訴した。[103]

天理教天理市のような宗教都市をモデルとし、1984年春には天理市の調査を探偵に依頼している[104]

ダライ・ラマらチベット高僧を利用した宣伝(1988年)編集

1988年(昭和63年)頃、麻原はチベット亡命政府の日本代表であったペマ・ギャルポに接触し、自分の瞑想体験の成果をチベット仏教の先生に見てもらいたい、というのでギャルポはダラムサラに紹介した[105]。現地の長老たちは、一緒に瞑想すると、かなりの者ということになり、ダライ・ラマに会うことになった[105]。ダライ・ラマ法王サイドは、麻原の傲慢さを察知し、法王の監督の下におければと思い、面会させたともいう[106][94]

当時経理だった中村昇[107]によれば、ダライラマ側には行く前に10万ドル、行った後も10万ドル、その後何回も寄付した[108]。上祐によれば、ダライ・ラマ法王には100万〜150万ドル以上の寄付をしたという[94]。オウムはこうした寄付について一般の信者には隠していた[94]

1988年3月、麻原はカギュ派カル・リンポチェ師を訪問する[94]。同師は麻原が修行体験について質問すると「体験は解脱ではない」と繰り返し戒めるかのように語りながら、「ヴァジラヤーナ(金剛乗)」の教えには、他に手段が無ければ、大きな悪を働こうとしている人を殺すことを肯定する場合があるとも話した[94]。通訳だった上祐によれば、この時以来、麻原は「ヴァジラヤーナ」という言葉を盛んに使い始めた[94]。カギュ派には、グルへの帰依が強調される中で、グルの指示で王族を襲ったとか、他人の物を盗んだとかいう逸話があり、オウムで使われたマハームドラーという言葉もカギュ派の最高の修行法である[94]

1988年7月6日にはダライ・ラマ14世と会っている。麻原側は両者の会談の模様をビデオならびに写真撮影し、会談でダライ・ラマ14世が「ねえ君、今の日本の仏教を見てみたまえ。あまりにも儀式化してしまって、仏教本来の姿を見失ってしまっているじゃないか。これじゃあいけないよ。このままじゃ、日本に仏教はなくなっちゃうよ。」「君が本当の宗教を広めなさい(中略)君ならそれができる。あなたはボーディ・チッタ(仏陀の心)[注釈 5]を持っているのだから」と麻原に告げたとしてオウム真理教の広報・宣伝活動に大いに活用した[109][110]。ダライ・ラマ14世の1989年5月26日付け親書では「オウムは大乗仏教の伝統を引き継ぎ実践しています」と書かれた[111]

また、インドから帰国直後の1988年7月21日に、麻原は元幹部との極秘会話でヴァジラヤーナは救済するために本当に必要な力、仏陀の持つ神秘的な力を身につけることによって一日も早く救済を成功させる道である、「グルのいったことは絶対であるとかね、あるいはグルのためには殺生ですらしなければならないとかね。例えば、大乗の戒において、ここで五百人の衆生が苦しむんだったら、殺されるんだったら、その殺す人を殺しても構わない」と語り、後に実行される殺害行為を正当化することをすでにこの時に語っていた[112]

教団は1988年8月に富士山総本部道場の落成記念イベントにカル・リンポチェ師を招待した[94]。師は、麻原を「偉大な仏教の師」と称賛し、「あなた方のグルに奉仕し、そして彼がするようにといったことは何でもするようにしなさい」と説法した[94]。師の麻原への評価がインドでの評価より格段に高くなったことに麻原は驚き、「私に多くの信者がいることを見たからではないか」と推察した[94]。上祐はじめ多くの信者は師の称賛を理由に麻原への帰依を強めた[94]。中沢新一も「カル・リンポチェ師は簡単にだませる人ではない」とオウムを肯定する根拠とした[94]

ペマ・ギャルポはその後、坂本弁護士一家失踪事件以降に被害者の会と接触し、未成年者の入会、弁護士一家失踪、血のイニシエーションの話を聞いてこれはまずいということになり、チベット亡命政府に麻原と関係を持たないように助言した[105]。これに怒った麻原は雑誌や本などでペマを「妨害した」「卑劣極まる」と雑誌などで非難した[105]。血のイニシエーションについては、チベットの僧侶の誰も仏教の儀式としてそんなものは聞いたことがなく、教団施設にシヴァ神が祭られているのは奇妙であった[105]。ペマは麻原でテレビで共演し、「最終解脱者はダライ・ラマも言っていないし、それを自称するのはおかしい。チベットでも日本でも、最終解脱者を名乗った宗教家はいない。名乗るならば麻原教を名乗ればよく、仏教をやめるのはおやめなさい」、ダライ・ラマ法王は「すべての人々は仏陀になれる。仏性を持っている」と麻原にいったのであり、麻原が仏陀だとはいってないし、そもそも法王も自分が仏陀だとはいっておらず、「ただ一人の僧侶にすぎない」と、いつもいう。その法王があなたのことを仏陀だとおっしゃるはずがない」と言ったら、麻原は怒った[105]。ペマはまた、麻原がテレビ出演の際に修行者が世俗の権威を象徴するような大きな椅子に座っていたことにも疑問を抱いた[105]

1989年マスコミでオウムバッシングが始まった時に、麻原はダライ・ラマ法王にオウムを擁護する公式な書簡を要請したが、法王とオウムは個人的な友人関係での交流であり、組織の活動内容はよく知らない、以前別の日本の宗教団体が法王を利用した苦い経験があることを理由に法王は断った[94]。その後、法王サイドが「オウム真理教は、大乗仏教の伝統を推進し、チベット難民のためにおしみなく援助している」といった公式の簡潔な書簡を作成したが、これは多額の寄付への感謝の意であり、麻原の神秘力などについての言及はなく、上祐も法王サイドは麻原を宗教家として特別視することはなかったという[94]

オウム真理教は教団の権威づけに多くのチベットの高僧やインドの修行者と接触し宣伝材料として利用していたが、事件後に行われたマスコミの取材に対して、オウム真理教から接触があった高僧や修行者は軒並み深い関係を否定している[109]

地下鉄サリン事件後の1995年4月5日に来日したダライ・ラマ14世は記者会見で「(麻原と)会ったことはあるが、私の弟子ではない。彼は宗教より組織作りに強い興味を持っているという印象が残っている。私に会いに来る人には誰でも友人として接している。しかし、オウム真理教の教えを承認してはいない。私は超能力や奇跡には懐疑的だ。仏教は、一人の指導者に信者が依存し過ぎるべきではないし、不健全だ」[注釈 6][109][111]、「麻原を支持したのは、私の無知による間違いだった。これが私が生きた仏ではないことを示している」と語った[94]。江川紹子は「多額の寄付をしてもらえば、普通お礼はするし、多少のリップサービスをすることもある。麻原教祖はそうした相手の反応を利用し、(中略)オウムの権威や信用を高めようとしたのではないか」と推測している[109]。上祐ものちの総括において、麻原はチベット高僧の権威を利用して宣伝に用いたとし、またチベット高僧も麻原も人間であり、盲信してはならないと反省するようになったという[94]

また麻原は著書で「チベット亡命政府宗教大臣カムトゥール・リンポチェからイェシェー(完全な神の叡智)の段階にあると称賛された」と書いていたが、カムトゥール・リンポチェは「信じられないことだ。確かに二度、麻原に会ったのを覚えている。利用されたとすれば残念だ」と後に語っている[113]

暴走の開始(1988・1989年)編集

信者死亡事件、富士総本部建設、麻原の健康不安(1988年下期)編集

1988年(昭和63年)9月22日在家信者死亡事件が発生。この事件に際して麻原は「いよいよこれはヴァジラヤーナに入れというシヴァ神の示唆だな」とつぶやいたという[114]。1988年10月2日、富士山総本部で「いよいよオウムがヴァジラヤーナのプロセスに入ってきた。このヴァジラヤーナのプロセスは善も悪もない。ただ心を清め、そして真理を直視し,目の前にある修行に没頭し,後は神聖なるグルエネルギーの移入によって成就する」「金剛乗の教えというものは、もともとグルというものを絶対的な立場に置いて,そのグルに帰依する。そして,自己を空っぽにする努力をする。その空っぽになった器にグルの経験あるいはグルのエネルギーをなみなみと満ちあふれさせる。つまり,グルのクローン化をする。あるいは守護者のクローン化をする。これがヴァジラヤーナだ」と麻原は説いた[90]

1988年10月頃、富士宮市人穴に総本部道場建設[115]

この1988年秋頃より麻原は体調を崩すことが多くなり、健康面に不安を感じ始め「自分が死んだら、教団をどうするのか」あるいは「私は長くてあと5年だ」「死にたい」などと洩らすようになる。肝硬変肝臓がんだと大騒ぎになったりもする。高弟の前でも「もう死のうかな」と呟き、新実智光は「お供します」、早川紀代秀は「困ります」、上祐史浩は「残って救済活動をします」と答え、妻の松本知子は「勝手にすれば」と言ったという[9]。3女松本麗華は、この頃から「麻原のへの願望は強まった」と考えている。解脱者が多くなりオウム真理教が世界宗教へと変貌し救済ができるとの真剣な思いがあったが、弟子の修行が思うように進まず、通常通りの方法では人間界が救われないという否定的な認識が麻原彰晃に芽生えたと見ている[9]。また岡崎一明も1988年秋頃に麻原が「私が死んだら、多分、マイトレーヤ(上祐)派とX派に分かれるだろうな。お前たち、どちらの派閥に付くか?」と訊いたり、1989年夏頃にも、「(麻原の死後)多分、女性大師のほとんどが自殺するだろうな、そして男性大師は対立するだろう」と自分の入滅後(死後)の教団を憂えたと証言している[116]

1988年11月17日深夜、名古屋支部の信者が自損事故に遭うと、麻原は富士のサティアンから集中治療室にいる信者の意識をコントロールし、「今意識を肉体に戻したぞ」と告げたので、病院に確認すると意識が戻っていた。それから数時間、麻原は意識の出し入れを繰り返した結果ポアと判断、その直後、病院から死亡の知らせが来た。上祐はこの時抗議したが、麻原は「生きていても修行できないじゃないか。功徳が積めないならポアするしかないんだよ」と弁明した[116]

1988年11月に麻原は遠藤誠一に、国家が宗教を禁止して圧力を加えようと警察がきたらどうすると問い、「警察が何人か来るよね」「警察ごと壊せばいい」「本署ごとポアしちゃえばいいんだよ」と、信徒らを破壊活動へ駆り立てるよう述べている[117]

1989年(平成元年)1月、麻原は「大乗だと間に合わない。救済の成功は核戦争を起こさせないことではない。資本主義社会主義をつぶして宗教的な国を作る。オウム信徒以外は生き残らない」などと幹部に語った[118]

信者殺害(ポア)事件(1989年2月)編集

前年1988年9月に起きた信者死亡事件の隠蔽をするため1989年2月10日男性信者殺害事件を起こし殺人に手を染める。この事件の直後に行われた富士山総本部の説教では仏陀の前生の話として、ある悪人が船に乗った300人の貿易商の財産を奪おうとしていたが、仏陀(の前生)はこの悪人のカルマが悪かったのでポア(殺害)した、つまり、高い世界に転生させる為の殺害であると説教して正当化した[119]。また、信者殺害を実行した新実智光が殺害後動揺しているのを知った麻原は、ヴァジラヤーナの詞章を毎日唱えさせた[120]。ヴァジラヤーナの詞章では、障碍(邪魔なもの)を取り除くことは殺生であるが、多くの人を救済するための悪行で地獄に行くことは本望であると唱えられた。

ここに真理がある。そしてその障碍するものを取り除かなければ、真理はすたれてしまう。しかし、障碍するものを取り除くとしたならば、それは悪業、殺生となってしまう。私は救済の道を歩いている。そして多くの人の喜びのために多くの人の救済のために悪業を積むことによって地獄へと至るとするならば、それは本望だろうか。私が救済の道を歩くということは、他のために地獄にいたってもかまわないわけだから、本望である — ヴァジラヤーナの詞章[121]

1989年9月24日には世田谷道場で麻原は、ヴァジラヤーナの教えでは成就者が悪業を積んだ者を殺して天界へ上昇させることは、高い世界へ生まれ変わらせるための善行、立派なポア功徳となると説いた[90]

宗教法人認可を巡る攻防編集

1989年(平成元年)3月1日、教団は宗教法人に適用される税制優遇(布施などが非課税になる[122])や社会的認知を得ようとして宗教法人規則認証申請書を東京都に提出した[90]。しかし、都は、子供が入信後家に帰らない、子供に会わせてもらえないなど信者の家族から苦情が寄せられていたため東京都は受理を保留した[90]4月24日に麻原が信者200人を引き連れ東京都庁に押しかけ、抗議デモを起こした[123]。翌4月25日富士山総本部での説教で、麻原は「役人たちの住む現象界は、教えが実践された真理の時代にあるか、それとも法は廃れ、凡夫外道が一切真理を行おうとしない末法の世だと感じたか」と信徒に問い、「真理が権力に潰されるような事態になるとするならば、君たちは」「真理のために戦うか、逃げるか、真理を捨て去ってこの世に迎合するか」と問うと、信者全員が「戦う」と答え、麻原は「最も早い道で成就することを目指せば、日本そのものがオウム真理教に、仏陀の国に変わる日は近い」と説いた[123]。4月29日には富士山総本部で「例えば国家的な弾圧が真理に対して向けられると。その時に自己の肉体が投げ出せるかと。真理を弾圧する国家にとって真理は当然邪法だろうから悪人呼ばわりされるだろう。その上に身体が傷つき、あるいは生命を捨てなきゃなんないかもしれないと。それに対して平気で捨てると。これが身体を供養するタントラの道と。」と説いた[124]

同1989年5月頃から、後に教団によって殺害される坂本堤弁護士が信者の家族から依頼され、教団と交渉をしていた[90]

教団の弁護士が上申をし,同年5月25日に認証申請が受理された[90]。さらに教団は同年6月1日に東京都知事を被告として同認証申請についての不作為の違法確認訴訟を提起した[90]8月25日、東京都からの交付を受けて宗教法人認可を受けた[90]。なお、この宗教法人認可手続きには被害者の会の家族から依頼を受けた北川石松衆院議員の圧力に対し、教団側は『元弁護士で裁判官だった出家信者』及び『沖縄の参院議員』を利用し、認証手続きを推し進めようとしたことが麻原の第43回公判で明らかになっている[125]

また、次期衆議院議員総選挙への立候補を目指して同年8月16日、政治団体真理党の設立届を提出した[90][126]

オウムバッシングと坂本弁護士一家事件(1989年下期)編集

1989年10月にはサンデー毎日10月15日号で「オウム真理教の狂気」特集がスタートし、以降11月26日号まで7週間にわたって、血のイニシエーションや、布施、信者が家族から隔離されているなどオウムバッシングが始まった[127][90]。10月2日、麻原らは編集部に押し掛け教団側の話も聞いてほしいと抗議したが受け入れてもらえなかった[90]。麻原はオウムバッシングの背景には創価学会内閣情報調査室やアメリカがいると語り[128]、1989年11月にはフジサンケイグループをバックとした政治家あるいは宗教団体が動いていると語った[129]。サンデー毎日11月5日号(10月23日発売)では、教団の出版物で、麻原の血液中のDNAに秘密があり、これを体内に取り入れると、クンダリニーが上昇し、「計り知れない霊的向上をもたらす」ことが京都大学医学部の研究で分かったと記載されていたことについて、当該大学に照会したら、そのような研究は行われてはない、また同学部助教授が「科学的にもそのような効果はない」と明言したという記事が掲載された[90]。この研究は「血のイニシエーション」の根拠であったが、坂本堤弁護士がその証拠資料を求めても青山吉伸弁護士は持ってこなかった[130]。教団は、10月中旬から同月下旬にかけて編集部に連載中止と謝罪を要求し、編集部のあるビルや編集長の自宅付近でビラを巻いたり、街宣車で抗議したり、毎日新聞社ビルを爆破するための下見をした[90]。10月25日には教団は毎日新聞社を相手に名誉毀損による損害賠償請求訴訟を提起した[90]

10月21日には、坂本弁護士の支援の下でオウム真理教被害者の会が結成された[90]。10月26日にはワイドショー3時にあいましょう』のスタッフが、坂本弁護士へのインタビューを放送前にオウム幹部に見せたことで、9日後に起きた坂本弁護士一家殺害事件の発端となったとされるTBSビデオ問題が起きていた[131]。この事件はTBS側は否定していたが、1996年3月になって認めた[132]11月4日マスコミ等でオウム批判をしていた坂本堤弁護士とその一家が殺害された中川智正が殺害の際プルシャ(オウムのバッジ)を落としたためオウム犯行説が一時広まるが、任意の失踪の可能性があるなどとされこの頃はまだ事件性すら確定されていなかった。

麻原は、1989年11月に富士山本部で、このけがれきった世の中に対して二つのアプローチがあり、一つは選挙で議席をとって徳の政治に変える。もう一つは、武装して日本をひっくり返して真理でないものを潰して救済する、と述べた[133]。11月10日には大阪で「私は最後の救世主だ」「間違いなく第三次世界大戦はやってくる。それまでの間に、オウム真理教以上の宗教は現れないだろう」「あなた方は選ばれた魂であるということもできる。そして、あなた方は義務を持った魂ということもできる」「オウム真理教にアットホームはいらない。オウム真理教に必要なのは救済だ」と説教した[134]。また、1989年冬ごろには、教義強化部長の選任にあたり、麻原は「マイトレーヤ(上祐)しかいないだろう。オウムの教義については、討論したら、多分、私の方が負けてしまうよ」と述べた[116]

一方、宗教学者の中沢新一は雑誌SPA!同年12月6日号で初めて麻原と対談、麻原は事件には一切関わっていないと公言、二人は宗教論で意気投合し、中沢は週刊ポスト同年12月8日号の「誰も言わないバッシングの構造を明かす オウム真理教のどこが悪いのか」で、麻原を高い意識状態を体験している宗教家であると絶賛した[135][136]。(詳細は後述#中沢新一へ。)また、女性セブン1989年12月21日号も教団に好意的な誌面作りをした。

教団の武装化 (1990年)編集

衆議院選惨敗編集

1989年参院選マドンナ旋風が沸き起こったことから、1990年2月に行われる衆院選に、当初麻原は石井久子をはじめとした女性信者を出馬させる構想を立てた。その後麻原自身が徳によって政を行い、地上に真理を広めるために1990年(平成2年)には真理党を結成して第39回衆議院議員総選挙へ麻原と信者24人[注釈 7] が集団立候補。選挙に立候補するかどうかはオウムとしては珍しく幹部による多数決が採られた。結果は10:2で賛成派が勝利。反対した2人は上祐史浩岐部哲也であった[137]

選挙活動の際には信者が麻原のお面やガネーシャの帽子をかぶり、尊師マーチなど教祖の歌を歌うといった派手なパフォーマンスなど奇抜な活動が注目を浴び、修行の様子なども雑誌やテレビ報道され、徐々に知名度が上がっていく。この時には公職選挙法で定められた時間帯を大きく超える16時間/日に及ぶ街頭宣伝運動を繰り広げ、麻原彰晃の写真入りビラやパンフレット、雑誌を選挙区中に撒き、麻原そっくりのお面を大量に作って運動員に被らせた[138]。これは違法で警視庁から警告を受けたが、運動にかり出された元信者は「もしも誰かから注意されたりしたら、『これは布教活動です』と言って逃れるように」と指示を受けていた[138]。また他の候補者のポスターを剥がす、汚損するなどを麻原自身が勧め、深夜に信者を使って他の候補者を中傷するビラを配布させた[138][139]

しかし、2月18日の選挙の結果は、最も得票の多かった麻原でさえ1,783票[139] で惨敗だった。当時立候補者1人あたり200万円だった供託金として計5,000万円が没収される[140]。選挙敗北で脱会者が続出し、麻原は「教団はもう無理かな。お金もないし」と呟いた[141]

選挙翌日の2月19日の富士山総本部道場での説教では、社会・国家に負けたとし、選挙管理委員会のトリックによって1万数千票あったはずの票が出されず千数百票になったことが「国家に負けた」ということだ、つまり「票に操作がなされた」と説教した[142]。さらに「オウムは反社会・反国家である」と宣言し、私腹を肥やす大企業は餓鬼・地獄へ落ちていくが、「ドブ川の中で美しく咲く蓮華のようにあり続けるためには、反社会でなければならない。よって国家・警察・マスコミ、これ全て、これからも敵に回っていくだろう」、その後さらに、1989年9月に「ドンと妙なエネルギーが入ってきた。そして、イエス・キリストになれという言葉があった」と告白し、これは「さらし者になれ」という意味で、サンデー毎日のバッシングを指すと説教した[143]。麻原は幹部上祐にも「自分は、弾圧されるが、戦って勝利するキリストだ」と語っていた[144]。選挙での惨敗が麻原の被害者意識をより一層高め、非合法活動を更にエスカレートさせたといわれている。

ボツリヌス菌テロ計画編集

1990年3月11日、ワシントンのホロコースト記念博物館が建設されることについて「いよいよユダヤ人、フリーメーソンが表面に出てきた」とし、彼らのオウムへの攻撃の目的はオウムの崩壊であると説く[145]。この3月頃にはボツリヌス菌培養計画を実施させていたが,同年4月、教団幹部に「今回の選挙は私のマハーヤーナにおけるテストケースであった。その結果、今の世の中は,マハーヤーナでは救済できないことが分かったので,これからはヴァジラヤーナでいく。現代人は生きながらにして悪業を積むから,全世界にボツリヌス菌をまいてポアする」、中世ではフリーメーソンペスト菌をまいたが、今回は「白死病」と呼ばれるだろうと無差別テロ計画(オウム真理教の国家転覆計画)を宣言した[90]。教団内ではかねてから、現代人は死後三悪趣(地獄・餓鬼・畜生)に転生してしまうためこれを防がなくてはならない[146] などと教え込まれていたため、信者は麻原に従って武装化に協力していった。

石垣島セミナー編集

1990年4月16から18日にかけて石垣島セミナーを開催した[147]。これは、「オースチン彗星英語版接近で日本は沈没するが、オウムに来れば救済される」と宣伝し、在家信者だけでなく家族まで参加させ行き先も伝えないまま石垣島に連れて行った[148][149]。東京、大阪、福岡の信者ら参加者1200人が船でやってきた[150]。セミナーの当初の目的は、オウム真理教が計画をしていたボツリヌス菌ボツリヌストキシン散布によるテロから、オウムの信者を守ることであった。しかし村井秀夫遠藤誠一らはボツリヌス菌の培養に失敗をしたためテロは実行されなかった[151]。セミナーの参加費は30万円であったが、海岸のテントが宿泊先で、夜は豪雨でテントが飛ばされるところであった[150]。翌日、「現在の東欧動乱は、1986年のハレー彗星の影響であり、今年のオースチン彗星の接近によって何かが起こる」と25分間の麻原の講話があっただけで帰路についた[150]。帰りの船では「出家するのは今日は、一ヶ月以内か、半年以内か」と聞かれ部屋割りされ、「出家しない」という選択肢はなかった[150]

この石垣島セミナーで入った資金は3億円[147]とも数十億円とも言われる[150]。このセミナーで多数の出家者と資金を獲得し、教団蘇生に成功した。これはその後「ハルマゲドンが起こる、オウムにいないと助からない」と予言を用いて危機感を煽って信者や出家者をかき集める方法の原点になった[148]

波野村の攻防 (1990年5月〜10月)編集

1990年(平成2年)5月、日本シャンバラ化計画の一環として熊本県阿蘇郡波野村(現在の阿蘇市)に15ヘクタールの土地を購入し「シャンバラ精舎」を建設するために進出する。「シャンバラ」とは、チベット仏教の理想の仏国土の名前で、オウムには以前より「日本シャンバラ化計画」という日本全国の主要都市に支部道場を作る計画や、「ロータスヴィレッジ構想」という仏教に基づいた理想郷を建設する計画があった[152]。また、波野村進出の目的のひとつはここを武装化の拠点として確保することであった[151]。波野村では、ヴァジラヤーナのための軍事兵器の開発が計画されていた[153]。当時は生物兵器ボツリヌス菌とそれを散布するための風船爆弾を数千個単位で製作する計画だった[154]

しかし村民はオウムの進出に反発し、右翼団体暴力団を雇って反対運動を行うなど対立が激化した[152][155]。波野村に送り込まれたのは、石垣島セミナー後に出家した新人がほとんどであり、耐えられずに逃走する者も少なからずいた[152]

1990年7月に熊本県大分県で大水害が起きた[156]。7月2日午前9時から12時までの波野村の雨量は193mm(1時間64mm)だった[157]。麻原はオウムに不利益を与えた者は「カルマ返し」を受けるとしており、今回波野村が水害にあったのは「神によって悪業を清算させられたとしか言いようがない」とビラで主張、村民は激怒し、また「オウム関連のカルマ返しの例」として「坂本弁護士一家の神かくし」と記載されていた[158]

この頃に麻原はパーリ語仏典翻訳に力を入れはじめていた。最初は『阿含経』など北伝の経典翻訳を試みたが、ブッダ本来の教えとは思えない内容だと感じたらしく、南伝の経典を翻訳することに方向転換し、編集部から多くの人材を経典翻訳部門へまわして、『南伝大蔵経』をパーリ語の原典から翻訳するチームが結成された。教義編纂の中心だった編集部から主要な人材を移動させるほど、麻原は『南伝大蔵経』の翻訳を重要視した[152]

波野村のシャンバラ精舎に幾棟かのプレハブ棟が建つ頃には、富士山総本部の多くの部署が波野村へ移動することになった。富士山総本部から波野村への移動には、ワゴン車が使われ、富士山総本部を出る時刻は、何時何分何秒まで正確に決められていた。これは、オウムで開発した「大宇宙真理占星学」で割り出した、吉日・吉時・吉方位によるものである。建設途中のシャンバラ精舎は過酷な環境だった。夜は富士より寒く、昼間は蒸し暑く、火山灰を多く含む土地は、雨が降ればひどくぬかるみ、乾けば砂が舞い上がった。この細かい火山灰の砂が、『南伝大蔵経』翻訳チームのパソコンのハードディスクを次々と故障させた[152]

シャンバラ精舎には多くの部署に分かれており、一番人数の多い「建築班」をはじめとして、洗濯と食事を担当する「生活班」、水道がないため、毎日タンクローリーで水を汲みに行く「水班」、動物を飼育する「動物班」、石垣島セミナーの出家で増えた子供で構成される「子ども班」、「修行班」、「南伝翻訳チーム」などがあった。隔絶された環境であるため、食堂の一角には食の戒律が守れないサマナのために、頼めば食べたいものを作って提供する場所が設けられていた。麻原はそこを「動物コーナー」と命名して許可し、利用する信者もこっそりと利用するという感じだった。ひどくぬかるんだ道を長靴姿で歩くサマナの姿は、修行者というよりも開拓民のようであったという[152]

強制捜査前日の1990年10月21日、教団は代々木公園で「守ろう!信教の自由」集会を開き、麻原は「(中東への自衛隊派遣に触れて)私が予言したように再軍備が始まった。国民を靖国神社に参拝させるような国家神道の道を歩ませるしか軍国主義はとれない。このような国家の意図からすれば、オウムは反国家的団体であることは間違いない。権力者にとってオウムは邪魔で、どうしてもつぶしたい宗教である」「キリスト、モハメッドへの弾圧、仏陀釈迦牟尼に対する誹謗中傷。世界的に発展した宗教は、必ず国家の弾圧を受けている。そして今、オウム真理教への弾圧が行われている。私も近々逮捕されるだろう。だが、これを機にオウム真理教は世界的に名を残す宗教へと発展していく」と演説した[159]

翌日10月22日、オウム真理教は、波野村の土地売買に関する国土利用計画法違反事件強制捜査を受け、早川紀代秀満生均史青山吉伸石井久子大内利裕など教団幹部が続々と逮捕された。しかしオウムは熊本県警内の信者から情報を入手しており、強制捜査も1週間延期されていたものだったので、武装化設備を隠蔽することができた[160]。強制捜査後、麻原は「戦前の状況(大本教弾圧 [161])とそっくり。まさに宗教弾圧」と批判し、信者二人が公務執行妨害容疑で逮捕されると「オウムが社会に迷惑をかけることをしたか。何か法に触れることをしたか」と言った[162]

後の1994年、結局波野村はオウムが5000万円[163] で手に入れた土地を和解金という形式で9億2000万円[164][165] で買い戻すことで合意、オウムの大きな資金源となった。

武装化の中断編集

国土法違反事件の影響で、1991年(平成3年)〜1992年(平成4年)はホスゲンプラント計画や生物兵器開発などの教団武装化を中断、テレビや雑誌への出演や文化活動などに重点を置いた「マハーヤーナ」路線への転換を図った[166]

だが1992年頃より、「宇宙衛星から電磁波攻撃を受けている[167]」などといった麻原の妄想幻聴が現れ始める。「シヴァ大神の示唆では仕方ないな」とつぶやき、「内なる声」が自らの進みたい道とは違うことに苦しみ始め「いっそ死んでしまいたい」と言ったのを3女麗華が聞いている。麗華は麻原を統合失調症などの精神疾患に罹患していたのではないかと推測している[9]

1992年11月12日には、釈迦が菩提樹の下で悟りを開く瞑想に入ったとされる聖地、インドブッダガヤ大菩提寺にある「金剛座」に座り、地元の高僧に下りるように言われたが従わなかったため、警官に引き摺り下ろされた[168]。麻原は日本では盛んにテレビ・ラジオ番組に露出し、雑誌の取材を受けたり著名人との対談などを行った。このほか講演会開催、ロシア東南アジア諸国・アフリカ諸国などへの訪問や支援活動、出版物の大量刊行などを行った。

また、図書館への寄贈・納本も行っており、麻原の著書を初めとするオウム真理教の出版物は現在も国立国会図書館等に架蔵されている。特に若い入信者の獲得を企図し、麻原が若者向け雑誌に登場したり、1980年代後半から行っていた大学の学園祭での講演会を更に頻繁に開催するなどした(東京大学京都大学千葉大学横浜国立大学等)。1992年(平成4年)にはサリン事件後広範に知られるようになるパソコン製造などを行う会社「株式会社マハーポーシャ」を設立し、格安パソコンの製造販売を行うようになった。

ロシア・旧ソ連地域への進出(1991-1994)編集

オウムとロシアとのコネクションは、池田大作モスクワ大学講演を実現した斡旋業者が500万円の費用で提案してきたことで始まった[169]

1991年ソ連8月クーデターが起きると、早川幹部は1991年秋、ボリゾフ・ニコラエヴィッチ一等書記官に接触し、ボリス・エリツィン政権の財政難を救うために衣料品やコンピュータなど5000万ドルの援助を申し出た[170]。1991年末、ソ連崩壊1992年2月、来日したオレグ・ロボフロシア連邦安全保障会議書記は日本の政財界に資金援助を求めたが全て断られた中、オウム真理教が500万ドルの資金援助を申し出、最終的には教団は1000万ドル(約10億円)を送金し、ここにオウムとロシアのルートが形成された[171][172]。ロボフは「苦しい時にオウムに助けてもらったことは忘れない」と語っている[173]

当時ロシアには50近い新興宗教団が活動していた[174]。1992年3月、教団は300人の信者を引き連れモスクワ訪問、ハズブラートフ最高会議議長やルツコイ副大統領と面会した[175]。麻原はロシアの各大学でヨーガ教室を開き、科学アカデミー・ノーベル賞受賞の物理学者でレーザー光線の研究者バーソフと接触、3月13日にはモスクワ物理工科大学で講演会を開いて1000人の学生が集まった[176]。同大学の主任研究員やクルチャトフ研究所研究員にも信者を獲得した[177]ロシア正教教会には聖書用の紙8万ドルを寄付した[176]

1992年4月、ラジオ局マヤークと、年間80万ドルで一日2回、各25分の放送枠を獲得、テレビ局2×2では毎週日曜日午前中の30分の放送枠を獲得し、日本向けのラジオ番組も開始した[178]。教団は、年間11000ドルというそれまでの25倍の契約料で専属オーケストラキーレーン」を結成し、布教に利用した[179][180]

麻原は1992年4月の取材に対してロシア人は「共産主義を経験でき、本当の意味での自由を経験でき」たことは幸せだったとし、「共産主義のイデオロギーを持ってる人たちが仏教の本質を理解できたら、それはそれでまた素晴らしい国ができるんじゃないでしょうか」と答えている[181]。1992年4月1日にはラジオ番組「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス(オウム真理教放送)」(直訳すると「王国の福音」)を開始した[182]。7月には宗教法人として認可され、9月にモスクワ支部を開設[175][183]

1993年12月にはモスクワ郊外に66万平方メートルの土地を入手し、道場、病院、学校、アパート、パスタ工場などの「ロータスビレッジ」を建設し、衣料品店の経営にも乗り出した[175]サンクトペテルブルクニジニ・ノヴゴロドウラジオストクハバロフスク、ほかウクライナベラルーシモルドバ北オセチアなどでも支部設立準備を進め[184]北オセチア共和国の首都ウラジカフカス支部を1994年1月開設し、ウクライナには兵器や情報通信機器の貿易を行なうマハーポーシャ・ウクライナを設立した[185]。ロシア各地に7つの支部を作り[170]、ロシアの信者数は最大5万人に上った[186]。崩壊直後のソ連ではソ連と共産主義が否定される中、トヨタパナソニックなど日本製品への品質への信頼があり、オウムも日本の宗教ということで信用され受け入れられていった[186]。当時のロシアでは新興宗教、迷信、UFOなどが流行した[187]

早川紀代秀幹部はロシア軍基地で信者に対して自動小銃機関銃バズーカ砲の実射などの軍事訓練を行なった[188]。ロシアではLSDの原料となる酒石酸エルゴタミン5kgを2500万円で購入したり、大型ヘリコプターも購入[188]

教団の再武装化(1992-1995)編集

兵器開発 (1992-1993年)編集

1992年(平成4)、麻原は「またヴァジラヤーナを始めるぞ」と話した[90]。1992年には油圧シリンダー等を製作する年商40億のオカムラ鉄工の社長がオウム在家信者で、社長が教団に経営難を相談すると、経営陣に麻原らオウム幹部が就任、乗っ取りに成功した(オカムラ鉄工乗っ取り事件[90]

1993年(平成5年)前後から再び麻原は教団武装化の「ヴァジラヤーナ」路線を再開[90]新アメリカ安全保障センター(CNAS)[189]によれば、1993年初め頃には、「オウム軍」創設のための会議が開かれ、X線兵器、プラズマ兵器、UFO、核兵器などの開発も提案された[190]。このほか、AK-74の生産を試みたり(自動小銃密造事件)、NBC兵器の研究を行うなど教団の兵器の開発を進めた。

1993年2月、インテグラル・ロケット・ラムジェットなどの兵器情報収集のために信者らはロシアに赴き,軍施設や研究所で兵器の説明を受け、さらに自動小銃AK-741丁を入手し、帰国後AK-74を模倣した自動小銃の製造に取り組んだ[90]

 
アメリカの新興宗教団体ブランチ・ダビディアンマウント・カーメル・センターは1993年4月19日の政府の強行突入ウェーコ包囲で炎上した。麻原は次はオウムが襲撃されると述べた[191]

この頃、アメリカにおいて新興宗教団体ブランチ・ダビディアンに対して1993年2月28日に警察が強制捜査に入り、銃撃戦となり膠着した。政府は4月19日に強行突入、ほとんどの信者は焼死し、81名の死者が出た(ウェーコ包囲)。麻原はブランチ・ダビディアンの次にオウムが襲撃されると説法で述べており、この事件を強く意識していた[191]

1993年4月10日、福岡支部で麻原は「この93年から2000年にかけてハルマゲドンは必ず起こるし、そしてそれへの準備をしているものが勝利する」、ハルマゲドンで使われる兵器は光の波の合致によって生じる電圧の力によって生じるプラズマを用いたプラズマ兵器であり、既にアメリカは湾岸戦争で使用し[192]、湾岸戦争で亡くなったイラクの兵隊は10万人、死体が発見されたのは8000人、9万2000人の死体はプラズマ兵器によって蒸発されたと説いた[193]。麻原によれば、プラズマ兵器は電子レンジの強烈なもので、体の水元素にプラズマを発生させ、体を蒸発させる。第三次世界大戦で使われるのは原爆でも生物兵器でも化学兵器でもなく、プラズマ兵器。アメリカのプラズマ兵器は、人工衛星でプラズマを反射させるプラズマ反射衛星砲である。これに対して、ロシアは恒星反射砲で、3kmの鏡を宇宙空間に打ち上げて太陽エネルギーを地上に反射させる。第三次大戦のスケールからすれば、人類が三分の二消滅するのも不思議ではない、という[193]。『宇宙戦艦ヤマト』に反射衛星砲が登場する。ニコラ・テスラが原理を発明したとされるプラズマ兵器では人工衛星とアメリカ本土から発信された電波とが焦点を結び、至る所に自由にプラズマを発生させる[194]。低い周波数体系の場合は炎となり、高い周波数体系の場合は水元素、人間で言えば人間の水元素が蒸発するが、これが第三次世界大戦の様相であると麻原は説いた[195]。1993年春、オカムラ鉄工所のプラズマ切断機を参考に麻原は、マイクロ波を発生させて物を溶かすプラズマ兵器の製造を指示した[90]

1993年4月に核兵器の材料ウラン鉱石の国内調査を実施[90]。さらにウラン発掘のためにオーストラリア西部の土地購入を井上らが開始[190]、購入した牧場地で1993年9月8日から18日までウラン採掘調査をしたが発見できなかった[90]

1993年5月にもロシアに赴き、弾丸の製造法や火薬プラント、自動小銃の金属表面への窒化処理法について調査、窒化炉の図面等を入手、帰国後設計を始めた[90]

1993年以降は麻原がオウム真理教放送等を除くメディアに登場することはなくなり、国家転覆を狙った凶悪犯罪の計画・実行に傾斜してゆく。

土谷正実中川智正滝澤和義らによって、サリンなど化学兵器の合成にも成功した。1993年6月頃、第1サティアン4階でサリンの生成実験を始め,ダミー会社が購入したメチルホスホン酸ジメチルの反応を得て、1993年8月にサリンの生成に成功した[90]。麻原はこのころ「私の今生の目標は最終完全解脱と世界統一である」と話し、第7サティアンに70tのサリンを生成するプラントの建設を指示した(サリンプラント建設事件[90]。サリンをヘリコプターで散布しようとして信者を1993年9月にアメリカに派遣しヘリ免許を取得させた[90]。1993年10月18日には広報技術部の名称を真理科学技術研究所に変更した[90]

サリンが完成したため、麻原が敵視していた創価学会池田大作を標的とし、1993年11月と12月18日に池田大作サリン襲撃未遂事件を起こした。また、坂本弁護士の業務を継承した滝本太郎弁護士を狙った滝本太郎弁護士サリン襲撃事件も1994年5月9日に起こし、敵対者の暗殺を試みた。

生物兵器の開発も再開し、遠藤誠一が炭疽菌を開発した[190]。1992年から猛毒の炭疽菌ボツリヌス菌などの研究室を作り、1993年5月には8階建ての亀戸道場内に大量培養施設を建設、同年6月28日と7月2日に屋上から周辺に炭疽菌を噴霧。高圧で菌が死滅したため殺害には至らず異臭騒ぎにとどまった(亀戸異臭事件[90]。その後,炭疽菌培養施設を第二上九に移転し、1993年7月8月、東京都内で噴霧車から細菌を散布した[90]

違法薬物密造に成功したのはLSDメスカリン覚醒剤で、PCPブフォテニンマクロマリンコカインを研究し、一部は完成した[196]。サボテンに含まれる天然物質メスカリンは警察の捜査に備えて、「儀式に使っただけで、麻薬成分があるとは知らなかった」と言い逃れをする予定だった[196]

対国家戦争の準備 (1994年)編集

1994年(平成6年)2月22日から数日間、麻原は信者80名を引き連れて中国へ旅行し、自分の前生とする朱元璋ゆかりの地を巡った[90]。旅の途中、ホテルで信者に対し、善のために財を使うならば盗み取っていい、悪業を積んでいる魂は長く生きるほど地獄での苦しみは大きくなるので早くその命を絶つべきだといった五仏の法則について説き、「1997年、私は日本の王になる。2003年までに世界の大部分はオウム真理教の勢力になる。」と予言し、「真理に仇なす者はできるだけ早く殺さなければならない」と説いた[90]。 帰国直後の2月27日、麻原は「私や教団が毒ガス攻撃を受けている。このままでは殺されるからホテルに避難する」と言って都内ホテルに移動、「このままでは真理の根が途絶えてしまう。サリンを東京に70tぶちまくしかない」と言い、サリンによる壊滅後の日本を支配して、オウムが生き延びるための食糧調査の必要を訴えた[90]。その翌2月28日,千葉市内のホテルに移動し、自動小銃1000丁を1,2か月で完成させ、また自衛隊を取り込むために自衛隊員の意識調査、及び東京壊滅後の理想社会を作るための作業としての日本社会の調などを信者らに指示した[90]

1994年3月10日、麻原は幹部に対して「警察官全員をポアするしかない。警察組織がある限り、救済は成功しない」「ゲリラで警察を全滅させよう」と語った[197]。翌3月11日に仙台道場において麻原は「日本を闇からコントロールしている組織やそれと連動する公安」が毒ガスを富士山総本部、第2・第6サティアンに対し噴霧し続けてきたと述べ、「オウム真理教がこのままでは存続しない可能性がある。オウム真理教が存続しなくなるとするならば、この地球は、そしてこの日本は完全なる壊滅の時期を間もなく迎えるであろう。私の弟子たちや信徒は立ち上がる必要がある。皆さんの周りの多くのまだ無明に満ちた魂をしっかりと真理に引き入れ、この日本を、この地球を救う必要がある」と説き[90]、「もともと私は修行者であり、じっと耐え、いままで国家に対する対決の姿勢を示したことはない。しかし、示さなければ私と私の弟子たちは滅んでしまう」と対国家戦争に言及した[198]。3月中旬には沖縄で「もうこれからはテロしかない」と麻原は言い、自衛隊出身や武道経験のある出家信者十数名に軍事訓練キャンプをさせた[90]

1994年4月6日から数日間、沖縄での軍事訓練を受けた信者から選抜した約10名をロシアに派遣し、ロシア軍特殊部隊スペツナズ指導[199]の厳しい軍事訓練を受けさせた[90]。この中には平田信も含まれていた[199]。帰国した信者らに対して、訓練を撮影したビデオに表れた浮ついた態度に腹を立てながら「お前たちはこれから死んでもらう,オウムから抜け出したら殺す」と言った[90]。1994年9月にもロシアでの射撃訓練は行われた[90]。1994年5月には映画のエキストラと称し募集したホームレスを「白い愛の戦士」部隊として編成し、1994年10月まで山間部の施設で訓練を施した[200]。    

1994年頃には、アメリカからも毒ガス攻撃を受けていると主張するようになり[201]、車には空気清浄機を付け、ホテルでは大真面目に隙間に目張りをしていた。ヘリコプターが通過すると毒ガスだと言って車に駆け込み退避を命じた[9]中川智正によるとこの被害妄想1993年10月頃に第2サティアンの食物工場から二酸化硫黄を含む煙が出た事故を、毒ガス攻撃と思い込んだことから始まったという[202]。1994年10月25日の清流精舎説法で、この1週間教団は毒ガス攻撃を受けたと麻原は述べる[90]

1994年内に幹部の早川はロシアから一時帰国した際、「尊師が大変なんですよ。過激で」と上祐に語っている[203]

布施・洗脳の強化編集

1994年、五仏の法則の「徳のためには他人の財産を盗むことは正しい」という教えに基づき強引な布施集めが激化し、ハルマゲドンから救済されるには出家か、在家なら全財産をお布施するかと問うた[204]。出家でも全財産を差し出すので、いずれでも財産の提供が求められた。「オウム銀行に預金する」との名目でお布施を信者の親から出させる場合もあり、また「ハルマゲドンで銀行は倒産するから返済しなくて良くなる」と説いて銀行に借金させる場合もあった[204]。この1994年頃には、全国各支部の担当者が「身ぐるみ剥ぎ取って丸裸にするぞ!」「徹底的にお布施させるぞ!」という決意の詞章を唱え、教団法務部は「国家に税金は払わないぞ!」と決意していた[204]。資産家の信者で1億円の布施を出した事例もあった[204]

過激化とともに社会との軋轢が増すにつれ、教団内部に警察などのスパイが潜んでいるとしきりに説かれ、信者同士が互いに監視しあい、密告するよう求められるようになる。麻原は信者に対して「教団の秘密を漏らした者は殺す」「家に逃げ帰ったら家族もろとも殺す」「警察に逃げても、警察を破壊してでも探し出して殺す」と脅迫していたという[205]。教団内の締め付けも強くなり、男性信者逆さ吊り死亡事件(1993年6月)、薬剤師リンチ殺人事件(1994年1月)、男性信者リンチ殺人事件(1994年7月)などが発生した。

1994年から教団が密造した違法薬物のLSD覚醒剤[196]をつかったイニシエーションを在家信者に対して盛んに行われた(LSDは麻原自身も試している)[206]。費用は100万円であったが、工面できない信者には大幅に割引され、5万円で受けた信者もいる[207]。「キリスト」と呼ばれたLSD[196]を用いた「キリストのイニシエーション」は出家信者の殆どに当たる約1200人と在家信者約200〜300人が受けた[208]覚醒剤は「ブッダ」と呼んで[196]、LSDと混ぜて「ルドラチャクリンのイニシエーション」として在家信者約1000人が受けた[208]

また、林郁夫によって「ナルコ」という儀式が開発された。「ナルコ」は、チオペンタールという麻酔薬を使い、意識が朦朧としたところで麻原に対する忠誠心を聞き出すもので、麻原はしばしば挙動のおかしい信者を見つけると林にナルコの実施を命じた。麻原は林に、信者達の行動を監視するよう命じ、信者が自分の仕事の内容を他の信者へ話すことすら禁じていた。[要出典]林郁夫はさらに自白剤に用いられるチオペンタールナトリウムを投与後電気ショックを加える「ニューナルコ」を開発した[209]。字が書けなくなったり記憶がなくなっている信者が見つかっている[209]。他にも、村井秀夫によりPSIという奇妙な電極付きヘッドギアが発明され、教団の異質性を表すアイテムとなった。

洗脳は出家信者の子どもにも及び、PSIを装着させたり、LSDを飲ませたり、オウムの教義や陰謀史観に沿った教育をしたりしており、事件後に保護されたオウムの子どもたちが口を揃えて「ヒトラーは正しかった、今も生きている」などと語っている光景も目撃されている[208][210]

麻原本人は言葉巧みに若い女性信者を説得し、左道タントライニシエーションと称して性交を行っており、避妊も行っていなかったため妊娠出産に至る女性も数多く現れた[211]

テロの実行 (1994-1995年)編集

省庁制発足と松本サリン事件 (1994年6月)編集

1994年5月ころ,オウムでも日本や米国のような省庁制、及び日本壊滅後のオウム国家の憲法草案を起草するよう青山吉伸に指示し、1994年6月ころの草案「基本律」には,主権は神聖法皇である麻原に属し、国名は太陽寂静国とされた[90]。1997年に年号を「真理」として、真理元年となるとした[212]

1994年6月27日、東京都内のうまかろう安かろう亭省庁制発足式が開かれ、これにより教団内に「科学技術省」「自治省」「厚生省」「諜報省」などといった国家を模したような省庁が設置された。3女松本麗華によれば、1994年6月に麻原の体調が悪化し、教団運営ができなくなる恐れが出たために、省庁制が敷かれたという。各省庁の責任者や大臣が大きな権限を持つようになり、3女は、11歳にして法皇官房長官に任命される。任命時に麻原は麗華に「お前はもう11歳だから大人だ」と言ったが麗華がふてくされていると「法皇官房は、私のことを一番に考える部署なんだ。お前は長官だから、私の世話をしっかり頼む」と言った。

同日、オウムの土地取得を巡る裁判が行われていた長野県松本市において、裁判の延期と実験を兼ねてサリンによるテロを実行。死者8人、重軽傷者600人を出す惨事となる(松本サリン事件)。当初はオウムではなく第一通報者の河野義行が疑われ厳しい追及が行われるなど、後に捜査の杜撰さが指摘された。またマスコミによる報道被害も問題になった。教団は松本サリン事件はフリーメーソンやアメリカの仕業だと主張[213]

連続拉致監禁・毒ガス攻撃編集

1994年(平成6年)と1995年(平成7年)には特に多くの凶悪事件を起こす。そのうちいくつかの事件では当初より容疑団体と目され、警察当局の監視が強化された。オウム内ではビデオ「戦いか破滅か」や雑誌「ヴァジラヤーナ・サッチャ」などで危機感を煽った[214]。ビデオ「戦いか破滅か」で教団はアメリカに毒ガス攻撃を受け弾圧されているとし、またフリーメーソンがハルマゲドンを起こそうとしていると説法した[215]

「信徒用決意」という決意文にはこうある。「泣こうがわめこうがすべてを奪いつくすしかない」「身包み剥ぎ取って偉大なる功徳を積ませるぞ」「丸裸にして魂の飛躍を手助けするぞ」「はぎとって、はぎとって、すべてを奪い尽くすぞ」[216]。さらに、決意Ⅲ-2にはこうある。「たとえ恨まれようと、憎まれようと、どんなことをしてでも、真理に結び付け、救済することが真の慈愛である」「救済を成し遂げるためには手段を選ばないぞ」「そして、まわりの縁ある人々を高い世界へポワするぞ」[217]

1994年には教団は拉致監禁を平然と連続して行うようになった。1994年3月27日には宮崎県資産家拉致事件、1994年12月には鹿島とも子長女拉致監禁事件(1994年12月5日〜1995年1月23日)とピアニスト監禁事件(1994年12月10日〜1995年3月22日)などの拉致監禁事件を起こし、サティアンに作られた独房や監禁用コンテナ、一日中麻原の説法テープを聞かせる部屋(ポアの間)に被害者を監禁した。

1994年8月頃には早川が担当した皇居サリン散布計画のために、千代田区平河町に5箇所、中央区銀座に3箇所、港区赤坂に2箇所のテナントやマンションを借りていた[218]井上嘉浩によれば、目的は武力クーデターによる政権奪取で、皇居周辺の国家中枢の破壊を狙っていたと証言した[219]

さらに1994年夏に土谷正実が猛毒VXの合成に成功し、これを用いた襲撃を計画し、実行していった。同年9月に滝本太郎弁護士VX襲撃事件、12月には駐車場経営者VX襲撃事件会社員VX殺害事件、1995年1月4日にはオウム真理教被害者の会会長VX襲撃事件を起こした。

1994年9月20日にはオウムを追っていたジャーナリストの江川紹子が何者かに毒ガスホスゲン攻撃を受ける(江川紹子ホスゲン襲撃事件)など、オウムと毒ガスの関係性が噂され始めた。

麻原は「100人くらい変死すれば教団を非難する人がいなくなるだろう。1週間に1人ぐらいはノルマにしよう」「ポアしまくるしかない」などと語っていた[200]

松本サリン事件後に「サリン事件は、オウムである」などと書かれた「松本サリン事件に関する一考察」という怪文書が出回っている。1994年11月には強制捜査接近の噂迫が教団内に流れ、サリンプラントの建設を中断するなどの騒ぎとなっていた。

サリン疑惑から地下鉄サリン事件へ (1995年1月〜3月)編集

 
住民によるオウム真理教追放運動。各地で住民との摩擦が表面化し時にはヒステリックなまでにエスカレートした。

1995年(平成7年)1月1日読売新聞上九一色村サティアン周辺でサリン残留物が検出されたことを報じ、オウムへのサリン疑惑が表面化した。教団は「上九一色村の肥料会社が教団に向けて毒ガス攻撃をしているため残留物が発見された」と虚偽の発表をするとともに、隠蔽工作に追われた[220]

1995年1月8日、教団ラジオで「占星学で予測する95年」と題して、麻原は村井との対談を放送、1月から4月にかけて前哨戦が始まり、11月に宗教戦争(武力革命)が発生すると予測した[221]。1995年1月、麻原は信者らに「この中に警視庁に突っ込んで、警視総監の頭を殴ったり首根っこを捕まえて振り回せる奴はいるか」と問い、信者の一人が名乗り出ると、「今すぐやるということではない。やる時には私が耳元で囁くから」と述べた[222]。地下鉄サリン事件の実行後にも「11月には戦争だ」と麻原は上祐に語っている[223]。後に発見された井上ノートには「11月Xデー」とあり、自衛隊(現役・退役)信者50人、信者特殊ゲリラ部隊200人、資金援助している暴力団や過激派グループの協力を得て、完全防護服着用のゲリラ工作隊で首都を占拠し、新潟からは医師を装ったロシア軍特殊部隊強襲揚陸艇で上陸、ゲリラ部隊と合流するなどの計画が記録されていた[224]

また、この1月8日の放送で教団信者が神戸で地震があると予言[225]1995年1月17日阪神・淡路大震災が発生すると、教団は予言が的中したと宣伝した。

麻原は震災で強制捜査が立ち消えになったものと考え[90]1995年2月28日、東京都内で公証人役場事務長逮捕監禁致死事件を起こす。この事件で教団信者松本剛の指紋が発見され、警視庁は全国教団施設の一斉捜査を決定した。3月15日には霞ケ関駅で自動式噴霧器が発見された。これを受けて3月19日には警視庁機動隊員300名と捜査一課捜査員20名が陸上自衛隊朝霞駐屯地に派遣され、毒ガスによる抵抗を想定して防護服の装着訓練を受けた[226][注釈 8]

しかし教団は警察より早く動き、1995年3月20日地下鉄サリン事件を決行。13人の死者と6000人以上の負傷者が発生する大惨事となった。この事件は強制捜査を遅らせるためともされる一方、地下鉄サリン事件が決定されたリムジン謀議の内容を詳細に証言している井上嘉浩によると「サリンをまいても、強制捜査は避けられないという結論で、議論が終わっていた。しかし松本死刑囚は、『一か八かやってみろ』と命じた。自分の予言を実現させるためだった」[227]、「『宗教戦争が起こる』とする麻原の予言を成就させるために、事件を起こした」と証言[注釈 9]しており、麻原は自身の「ハルマゲドン」の予言を成就させるために事件を起こしたという説もある[228]

ナチスドイツによって開発されたサリンはその後、ソ連や米国で生産されながら実際に使用さなかったが、イラン・イラク戦争末期の1988年、イラクがイラン側に協力したとの理由でクルド人を攻撃したハラブジャ事件で使用され、3200人〜5000人が死亡、7000人〜1万人が負傷した[229]。オウムによる連続サリン事件はハラブジャ事件に次ぐものとなった[29]

強制捜査から麻原逮捕まで編集

いずれにせよ強制捜査延期には至らず、事件2日後の1995年(平成7年)3月22日には、山梨県上九一色村(現・富士河口湖町)を中心とした教団本部施設への一斉捜索が行なわれた。サリンプラント等の化学兵器製造設備、細菌兵器設備、散布のためのヘリコプター、衰弱状態の信者50人以上等が見つかり[230]、オウム真理教の特異な実態が明らかになった。また、富士山総本部の金庫から7億4600万円と金の延べ板10キロが見つかった[231]

翌日の3月23日に滋賀県安土町で逮捕された信者の車からは、信者名簿、教団の科学技術者名簿、暗号放送、自動小銃、サリン自動噴霧装置、火炎放射器、ロシアプラズマ兵器、ジェット戦闘機水爆トリウム爆弾、原子炉用レーザー技術、三菱重工業のCOレーザーなどのデータや設計図、各企業の特許技術データが入ったMOディスクが発見され、印刷すると200万ページを超えるこれらの資料は教団の武装化を裏付けるものだった[232][233]

以降、同事件や以前の事件への容疑で教団の幹部クラスの信者が続々と逮捕された[230]

強制捜査の際、どこの現場でも「捜索令状をじっくり読む」「立会人を多数要求する」「警察官の動きをビデオや写真に撮る」という光景が見られた[234]。また報道陣に対してもしつこくカメラを向け、突然の捜索に驚き慌てる様子は全くなく、事前に準備され訓練された行動のようであった[234]。実際に弁護士で信者の青山吉伸から「絶対に警察の手に渡ってはいけない違法なものに限り持ち出し、露骨な持ち出しをしないように」「令状呈示のメモ及び録音で時間を稼ぎ、私服警察官に対しては警察手帳の呈示を求める」「水際で相手を嫌にさせて、捜索意欲をなくさせる」「排除等の暴行に及んで来たらビデオで記録化する」「施設の電源を落とす」「内鍵をして立て篭る」「勝手に触ると修法が台なしになると主張する、ほとんどのものを修法されているとする」という通達と、警察との想定問答が極秘に出されていた[234]。もちろんこれは刑法104条の証拠隠滅罪に該当する[234]。オウムの犯罪行為は一部の信者以外には秘密であったうえ、「オウムは米軍に毒ガス攻撃されている被害者」「不殺生戒を守り虫も殺さぬオウム信徒が殺人をするはずがない」と教わっていたため、事件を陰謀と考える信者の抵抗は大きかった。

強制捜査後、上祐史浩らがテレビに出演して釈明を続け、サリンはつくっていないなどと潔白を主張した。一部の幹部は逃走し、八王子市方面に逃げた井上嘉浩中川智正らのグループは村井秀夫から捜査撹乱を指示され、4月から5月にかけて新宿駅青酸ガス事件都庁爆弾事件を起こした。また、その村井秀夫は1995年4月23日に東京南青山総本部前に集まった報道陣を前にして刺殺された(村井秀夫刺殺事件)。

この他、4月15日予言などオウムに関するデマも飛び交った。同年3月30日には警察庁長官狙撃事件が発生し、オウムの関与が疑われたが、2010年に公訴時効が到来した。同年4月19日には、教団とは無関係の模倣犯による横浜駅異臭事件が発生したが、異臭原因物質は不明だった[235]

また、事件後の95年4月に出版された著書で麻原は自分のポリシーは社会党に近く、村山富市首相に期待すると述べ、ときの首相に言を弄した[162]

1995年5月16日には再び、自衛隊の応援を得て付近住民を避難させた上で、カナリアを入れた鳥かごを持つ捜査員を先頭に、上九一色村の教団施設の捜索を開始。第6サティアン内の隠し部屋に現金960万円と共に潜んでいた麻原彰晃こと松本智津夫(当時40歳)が逮捕された。また、証拠品の押収や、PSI(ヘッドギア)をつけさせられた子供たちを含む信者が確保された[236]

麻原逮捕後編集

逮捕後の取調で麻原は「目の見えない私がそんな事件をやれるでしょうか。信じてもらえないでしょうが……。」と語るなどし、1995年5月27日に取調室を出る際には「武士は言い訳しないものだ」と武士道のようなことを呟いた[237]

刑事裁判編集

東京地検麻原彰晃こと松本智津夫を17件の容疑で起訴した[注釈 10]。1996年1月18日時点で、一連の事件に関与して逮捕された信者は403名、そのうち起訴183名[238]

1996年(平成8年)4月24日東京地方裁判所で初公判が行われた。麻原はこの初公判で各事件の罪状認否について「いかなる不自由、不幸、苦しみに対して一切頓着しない、聖無頓着の意識。これ以上のことをここでお話しするつもりはありません」と述べただけで、事実については語らなかった[239]。1997年4月の第34回公判で麻原は、地下鉄サリン事件については「自分は止めたが、結局弟子に負けた形になった」、元信徒薬剤師殺人事件は「弟子たちが直感的に殺した」と責任を弟子に転嫁した[198]。一審弁護団はオウム事件は「弟子の暴走」であって麻原は無罪と主張した[240]

教団への解散命令編集

教団は村岡達子代表代行と長老部を中心として活動を継続していたが、1995年(平成7年)10月30日東京地裁により解散命令を受け[241]、同年12月19日の東京高裁において、即時抗告[242]、翌1996年(平成8年)1月30日の最高裁において特別抗告がともに棄却され[243]、宗教法人法上の解散が確定した。

1996年(平成8年)3月28日、東京地裁が破産法に基き教団に破産宣告を下し[244][245]、同年5月に確定する。1996年(平成8年)7月11日公共の利益を害する組織犯罪を行った危険団体として破壊活動防止法の適用を求める処分請求が公安調査庁より行われたが、同法及びその適用は憲法違反であるとする憲法学者の主張があり、また団体の活動の低下や違法な資金源の減少が確認されたこと等もあって、処分請求は1997年(平成9年)1月31日公安審査委員会により棄却されている。

教団の活動再開から休眠宣言まで編集

破防法処分請求棄却後により教団も活動を継続し、「私たちまだオウムやってます」と挑発的な布教活動や、パソコン販売による資金調達などを行った[246]。一方、一連の事件については「教団がやった証拠がない」とし、反省や謝罪をせず、被害者に対する損害賠償にも応じなかった。

この頃教団は、当時黎明期であったインターネット上に 公式サイト を開設 (1999年、休眠宣言により事実上閉鎖。初期版/中期版/後期版)。麻原が毒ガス攻撃を受けていた、坂本弁護士一家殺害事件は弁護士事務所の者が怪しい、だんご三兄弟ヒットはフリーメイソンの陰謀などと主張したり、麻原や上祐が出てくる探索ゲーム「サティアン・アドベンチャー」、オウム×新世紀エヴァンゲリオンの二次創作があったりとやりたい放題の内容であった[247][248]。さらに一部の熱心な信者は一般人を装って、ネット上にオウム事件陰謀説を流布していた[249][250]

教団の姿勢は社会の強い反発を招き、長野県北佐久郡北御牧村(現・東御市)の住民運動をきっかけに、オウム反対運動が全国的に盛り上がりを見せ、国会でもオウム対策法として無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律(いわゆる「オウム新法」)を制定するに至った。

予言されたハルマゲドンもなかったことから、教団は1999年9月に「オウム真理教休眠宣言」、12月1日は「正式見解」を発表し事件を形式的に認めた[251]

12月1日教団正式見解

9月末の休眠宣言以来、教団として、一連のいわゆるオウム事件に対する見解を発表すべく検討を重ねてまいりました結果、本日以下の見解を発表できる ことになりました。

いわゆるオウム事件に関して、教団として現在まで裁判の進行を見守ってきた結果、当時の教団関係者の一部が事件に関わっていたことは否定できないと判断するに至りました。

長老部のメンバーを代表とする現教団の信者たちにとって、一連の事件は知らないところで起こったこととはいえ、当時の教団にあって同じ団体に属した者 として、現在裁判で明らかになりつつあることが起こったことは大変残念であるとともに、被害に遭われた方々をはじめ、ご家族の方々に対し、心からお詫びを申し上げたいと思います。
(省略)
最後になりますが、現在「オウム新法」といわれる法律が成立しようとしており ます。わたしたちの関係者が関与した事件によって、憲法で保障された基本的人権を侵害する法律が制定されようとしていることは、大変遺憾なことであり、また国民の皆さまに対して申し訳なく思う次第です。

この法律が、もし成立するとするなら、わたしたち以外の団体に決して適用されることがないよう心から願ってやみません。

— 1999年12月1日 教団代表代行 村岡達子[252]

その後、後継教団が複数ある(#後継教団)。

死刑判決編集

2004年(平成16年)2月27日東京地方裁判所は麻原彰晃に死刑判決を言い渡した[90]。弁護側は即日控訴。東京高裁は2005年1月11日を控訴趣意書の提出期限とした。しかし、弁護人の松井武らは接見ができず無理だとして、高裁は2005年8月31日まで延長。弁護人は麻原は心神喪失の状態で訴訟能力がないという主張にこだわり、期限日に控訴趣意書を持って行ったが提出せずに持ち帰った[240]。刑事訴訟法386条では「期間内に控訴趣意書を差し出さないときは、決定で棄却しなければならない」とあり、滝本太郎弁護士は「ここで提出していれば、なんの問題もなく2審は始まっていた」、これはチキンゲームだったと後に述べている[240]。麻原の弁護人はのちに弁護士会から弁護過誤だとして懲戒処分を受けた[240]

2006年9月15日最高裁判所特別抗告を棄却、麻原の死刑が確定した[253]。地裁での裁判は7年10カ月をかけて257回の公判を行い、証人は522人召喚され、1258時間の尋問時間のうち1052時間を弁護側が占め、検察側証人に対しては詳細な反対尋問が行われ、さらに麻原には特別に12人の国選弁護人がつけられ、その費用は4億5200万円だった[239]

2018年7月6日、麻原は、早川紀代秀井上嘉浩新実智光土谷正実中川智正遠藤誠一とともに死刑執行、7月26日、岡崎一明横山真人林泰男豊田亨広瀬健一端本悟らも死刑執行された[254]。これによりオウム真理教事件を処理する事は刑事上では終息した。

「弟子の暴走」論の登場と麻原主犯説に関する論争編集

事件後、メディアのオウム真理教の描き方が善悪二元論的、画一的であるとして批判したのが映像作家の森達也であった[255]。森は「弟子の暴走」論に立脚した書籍を出版し、死刑執行直前の2018年6月4日には、森、宮台真司田原総一朗想田和弘香山リカ山中幸男鈴木邦男高橋裕樹雨宮処凛らが「オウム事件真相究明の会」を立ち上げ、麻原は重度の意識障害にあり、またサリン事件の動機解明も不十分などと訴えた[256]

これに対してジャーナリスト江川紹子は裁判を通じて多くの事実が明らかになっているとし、「麻原の弁護人や検察官、裁判官だけでなく、かつての弟子たちが、全身全霊をかけて語りかけ、血がほとばしるように説得をしても、彼(麻原)は頑強に真実を語ることを拒んだ」、さらに著名人の利用はオウムの得意技であり、教団の勢力回復に貢献してしまうリスクについて「真相究明の会」は無自覚だと批判した[239]

死刑執行後に森達也は「それでも麻原を治療して、語らせるべきだった」「意識を取り戻した麻原を徹底的に追い詰めて、公開の場でとどめを刺すべきだった」などと江川に反論した[257]

これについて被害対策弁護団の滝本太郎弁護士は「公開の場でとどめを刺すべき」というのは制度上ありえず、新制度としても憲法上の黙秘権保障や人民裁判禁止に反したことでデマゴギーだと批判[240]。また、森はリムジン謀議のことばかり言うが、つまり地下鉄サリン事件の2日前の1995年3月18日リムジンの中で麻原の指示を受けたという井上嘉浩の証言があって、井上が後でそれを否定していることから、麻原主犯説の根拠はないと論じるが、リムジン謀議だけで共謀共同正犯は立証されるわけではなく(同乗した他2人は不起訴)、同じ3月18日に麻原が遠藤誠一にサリン生成を指示したことや、事件当日の3月20日未明にはサリンの入った段ボール箱に麻原は『修法』という儀式を行ったことなど、ほかのこともすべて絡んで麻原は主犯とされている、したがって森は判決を読んでいないと言えると反論した[240]。また、訴訟能力を争いたいのならば、控訴審、高裁、最高裁まで争えば良かった、「森氏は裁判所に責任があるように言っているけど、弁護人のチキンゲームで一審だけで終わってしまった」と反論した[240]。また、滝本も理事をつとめる日本脱カルト協会は、麻原の弟子の12名に関して死ぬまで事件への自らの関わりを分析・反芻させること以外に償いはないとして無期懲役刑に減刑する恩赦申請を提出したが、一方、「真相究明の会」は弟子12名の死刑囚には触れてないと批判している[240]

このほか、森が第33回講談社ノンフィクション賞(選考委員の一人は中沢新一)を受賞した『A3』において一審弁護団の「弟子の暴走論」支持を表明したことに対して、日本脱カルト協会と滝本弁護士、青沼陽一郎藤田庄市らは裏付けもなく事実関係を歪めていると抗議した[240]

未解決事件編集

麻原らの死刑執行直後の2018年7月11日に発売された週刊新潮7月19日号では、これまで知られていなかった女性信者殺害事件が報じられた[258][259] [260]。この事件は、1990年か1991年頃に女性信者が金銭の横領を疑われ殺害(ポア)されたもので、遺体は焼却後、本栖湖に流され、麻原は殺害後「彼女は魔女だったよ」と言った[258]。この事件は立件されないまま、時効となった[258]

このように未解決事件も未だ残っており、教団関係での行方不明者は50人を超える[261]

ロシア編集

ロシアでは地下鉄サリン事件以後、「国家の安全及び社会秩序を乱す宗教団体」を禁止する内容の信仰自由法改正案が出された[262]。ロシア正教会司祭で当時下院議員だったヤクーニンは、オウムが活躍した責任の一端は、ロシア正教が形骸化しており、魅力を失っていたことにもあると指摘する[263]。1997年宗教法では、ロシア正教の役割が明確化され、またオウムの出家制度が念頭に置かれ、財産の教団への譲渡の強制などが禁止された[264]

教義編集

教義の作成編集

オウムの教義や修行法は、翻訳研究班に所属[265]した阿含宗元信者が主に担当して作ったもので、阿含宗の教義や修行法を真似たものだった[266]。この信者は、高学歴エリートが続々入信してくる中、理論武装に苦労したといい、「が鋭くて何でもお見通しの麻原がなかなか認めてくれないので、大変でした。逆に、エリート信者たちは何も聞かず何も考えない指示待ち人間になっており、『疑問を抱くことは心の汚れ』とか『教祖の指示は救済であり、その通り動くことが解脱の道』などと言えば、素直に絶対服従するから驚いたほどです」と後の取材で答えている[267]

当時教義作成にあたって特に使われたのはヨギシヴァラナンダ(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ)「魂の科学」(たま出版、1984)・「実践・魂の科学」(たま出版、1987.2.1.)と、ラマ・ケツン・サンポ、中沢新一共著『虹の階梯』(平河出版社、1981年)だった[268]。麻原自身も1986年11月30日の説法で『虹の階梯』から修行のヒントを得たと述べている[269][270]。教団の翻訳研究班では各種経典の翻訳も行っており、例えば「カーラチャクラタントラ」を英文から翻訳し配布していた[271]

  中沢新一とオウム真理教との関係については、#中沢新一を参照。

オウムの教義では、オウムを離れると地獄に落ちる、特にグルを裏切れば無間地獄に落ちるとされ、教団は常にハルマゲドンや無間地獄の恐怖をちらつかせて信者をせき立てた[272]

シンクレティズム編集

 
1995年当時のオウム真理教横浜支部道場

オウム真理教の教義は、原始ヨーガを根本とし、パーリ仏典を土台に、チベット密教[注釈 11]インド・ヨーガの技法を取り入れている。日本の仏教界が漢訳仏典中心であるのに対しあえてパーリ仏典やチベット仏典を多用した理由は、漢訳は訳者の意図が入りすぎているからとしている[274]

そして、「宗教は一つの道」として、全ての宗教はヨーガ・ヒンズー宇宙観の一部に含まれる、と説く。その結果、例えばキリスト教創造主としての梵天(オウム真理教では“神聖天”と訳す)のことである、等と説かれる。オウムでは、世界の宗教の起源は古代エジプトにあり、アブラハムの宗教もインド系宗教もエジプトから始まったとし、万教同根シンクレティズム的な宗教観を持つ[275]

従って、オウム真理教に於いては世界中のありとあらゆる宗教・神秘思想を包含する「真理」を追求するという方針がとられた。結果として、キリスト教の終末論も、ヒンズー教的な「創造・維持・破壊」の繰り返しの中の一つの時代の破滅に過ぎない、として取り込まれた。すべての宗教および真理を体系的に自身に包括するという思想はヒンズー教の特徴であり、麻原はそれを模倣した。

具体的な修行法としては、出家修行者向けには上座部仏教七科三十七道品、在家修行者向けには大乗仏教六波羅蜜、またヨーガや密教その他の技法が用いられた。特にヨーガにはかなり傾倒しており、その理由として釈迦もヨーガを実践していたからとする[276]

麻原自身は逮捕後、こう語っている。

オウム真理教が三乗の教えについて、例えばパーリ三蔵をパーリ語から翻訳しなければならないと考え、それに対して労力、人材、時間を使っている理由は、まずその根本であります上座部仏教、北伝では小乗仏教といわれていますが、この上座部仏教を検討しない限り仏教は語れないと考えているからでございます。(省略)

では、なぜ原始ヨーガという言葉が入ってくるかということについて説明をしなければなりません。もともとヨーガと仏教の関係は、10世紀前後あたりから非常に密接な関係が生じました。そして例えばヘーヴァジラ・タントラなどの場合、これは仏教徒も修行しますし、あるいは非仏教徒であるヨーガ修行者も修行するという形をとり、結局その原典の完全な復元をなすためには、ヨーガ、仏教を問わず、あらゆるインドに伝わった教えを検討し、そしてそれから原典を復元する以外にないということがあるわけです。(省略)
そして、それらの教団、それらの経の完全な復元こそが、私は、この日本人に大きな最高の恩恵を与えるものと確信し、今までやってきました。

したがって、このオウム真理教の教義そのものが麻原独特の教えであると公安調査庁が断定するとするならば、公安調査庁の言っている本当の仏教とは何か。それをここで明示すべきでございます。 — 麻原、破防法弁明において[6]

また、オウム真理教の教義には、ヘレナ・P・ブラヴァツキーに始まる近代神智学の影響も指摘されている[注釈 12]。ブラヴァツキーの死後、神智学の組織である神智学協会はインドに本部を構え、ヨーガ理論とその実践による霊性の向上と霊能力開発を強調するようになったが、社会学者の樫尾直樹や宗教学者の大田俊寛は、こういった面を含めて近代神智学の構えはオウム真理教の諸宗教の編集の仕方に非常によく似ており、その影響が伺われると指摘している[277]。たとえばオウムの世界観で用いられた「アストラル」「コーザル」は神智学の用語である[278]。麻原が神智学の原典から直接学んだのか、麻原が一時はまったというGLAなどの新宗教の経典や出版物[279]、オカルト雑誌などから間接的に教義を構築したのかは定かではない[277]

麻原は宗教の教えと科学の理論をごちゃ混ぜにして話すことを得意とし、空中浮揚からビッグバンに至るまで疑似科学理論で説明していた。最先端の科学でも難しい「ビッグバン直後の世界」などのことでも、適当に誤魔化して説明できてしまうことから、多くの理系信者が惹きつけられた[280]

救済・信徒・凡夫編集

オウム真理教の「救済の3つの柱」としては、「人々を病苦から解放する」「この世の幸福をもたらす」「解脱、悟りへと導く」があり、これらを総合し、すべての魂を絶対自由・絶対幸福の世界であるマハーヤーナへ導くことが救済の究極の目的とされた(1988年時点)[281]

しかし、その後、信徒以外の「凡夫」と信徒との間には価値の差があると説かれるようになる。信徒は「救済のお手伝い」をする「光の戦士」となるが、信徒以外の一般社会の人々を「凡夫」として蔑んだ[85]。1994年3月11日に仙台支部で麻原は「もともと魂の価値は等価ではない。人間から低級霊域、動物、地獄へと至るパターンを繰り返している魂と、私や真理勝者サキャ神賢(釈迦)や聖者キリストのような天の世界やニルヴァーナを多く経験し、ボーディサットヴァとしての人生を歩いている魂と、それから一般の人間とでは、そのコーザルにおける意識の広がり、空間の大きさというものは全く違い、ユダヤ教の教えでもあるが、宗教を実践している者とそうでない魂とでは千倍の価値、一万倍の価値がある」「例えばアリが十億匹いたとして。ある魂が火炎放射器を持っていたらどちらが強いか。これ(武力の差)はまさに魂の価値を意味する。彼らの魂の価値は、凡夫の魂の価値よりもすぐれているのである」と説いた[282]

無常・ニルヴァーナ編集

オウム真理教では、修行による苦悩からの解放を説き、無常である欲望煩悩から物理的に超越することを「解脱」、精神的に超越することを「悟り」と呼ぶ。

「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」というフレーズは「教本」では1991年2月12日、阿蘇シャンバラ精舎説法で登場した[283]。麻原は「皆さんが肯定しようとも否定しようとも、必ず死ぬ。そして死は修行によってのみ乗り越えることができる」「この現世のたかだか40年、50年にいろんな保険をかけているが、それと同じように死後の世界に保険をかけたらどうか」と説いた[284][285]。こうした死と無常、生死の超越の強調は、阿含宗や佐保田の著作には見られないオウムの特徴で、現世否定、現世離脱、現世超越が際立つ[286]

また、麻原も熟読した「虹の階梯」では、「人は一歩一歩死に向かって歩んでいく、あなたが今この時死なないという保証はない、死が訪れれば家族や友人に恵まれ尊敬されていても、権力を持っていても、なんの役にも立たない。死に備えて必要なのは瞑想修行であり、今すぐはじめなけれならない」と説かれ、常に死についての瞑想を行い、無常の自覚があらゆる修行の基礎であるとされており[287]、オウムの教義と通じる[288]

自己の煩悩を超越し、無常を越えた状態が、ニルヴァーナ(涅槃、煩悩破壊)である。また、そこに留まることなく、更に全ての魂を苦悩から解放し絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の状態に導くことによって自身も絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜のマハーニルヴァーナ(大完全煩悩破壊)、あるいはマハーボーディニルヴァーナ(大到達真智完全煩悩破壊)へと至る。

シヴァ大神編集

オウム真理教の主宰神は、シヴァ大神である。オウム真理教に於けるシヴァは「最高の意識」を意味し、マハーニルヴァーナに住まう解脱者の魂の集合体であり、またマハーニルヴァーナそのものと同義としても扱われる。当時の教団内で麻原彰晃はこのシヴァの弟子であるとともにシヴァの変化身とも称されていた。ヒンドゥー教(インド神話)にも同名のシヴァ神があるが、これはシヴァ大神の化身の一つに過ぎないとされる。

四無量心編集

仏教で四無量心とはの四つの利他の無量心を指すが[289]、麻原はこれを「聖慈愛、聖哀れみ、聖称賛、聖無頓着」と言い換え、聖慈愛は「すべての魂の成長を願う心」、聖哀れみは「今なお悪業をなし、高い世界へ至ることのできない魂に対する哀れみ」、聖称賛は「自分より徳の修行で長けている者への称賛する心」、聖無頓着は「今に一切頓着しない最終段階の心」とされる。このうち聖無頓着は「金剛心」というヴァジラヤーナの教えにも通じる[290]

輪廻転生・カルマ編集

教団では輪廻転生が信じられていた。麻原は自らの出版物を通して、徳川家光朱元璋など多くの前世を持つと称していた[291]。中でも意識堕落天の宗教上のは直前の生であったため、その世界で麻原に帰依していた人たちが多く転生し、現在の信者になっていると教団内では信じられていた。また、道場では「宿命通」というアニメビデオを放映し、麻原のエジプトでの前世の物語を展開していた。ジェゼル王の時代に彼は宰相のイムホテップとして王に宗教的指導を施し、最古のピラミッドである「ジェゼル王の階段のピラミッド」を造ったとしている[292]
輪廻転生と関連してカルマの法則も信じられていた。虫500匹を殺すカルマが人1人を殺すカルマに相当する、接触しただけでカルマが交換される、スポーツやグルメを楽しむとカルマを負って低い世界に落ちるなどといった独特の教義があった[293]

気(霊的エネルギー)編集

オウムでは霊的エネルギー()を実在すると考え、これを強めるためとして様々な修行をしていた。麻原の爪や体毛を煎じて飲んだり、麻原の風呂の残り湯を飲んだりするのも「エネルギー」を高める目的があった[294][295][296]

シャクティパット編集

シャクティパットはインドのタントリズムにおいてグルが弟子に触れることでクンダリニーを覚醒させ精神的変容をもたらす行為のことである[297]。オウムでは教団初期に弟子のクンダリニー覚醒のために行われ、1988年8月には麻原はシャクティパットを終了し、高弟に委ねた[298]

宗教学者の正木晃は、このシャクティパットは真光系手かざしやハンド・ヒーリング、セラピューティック・タッチなどと基本原理は同じであると述べている[299]

ポア編集

タントラ密教における歴史的な用語としてのポア(ポワ)(pho ba)は、ナーローパの六法において、体の火を燃え上がらせるトゥンモの修行、幻身の修行、夢の修行、光明の修行、中有の修行に続いて最後の修行とされる転移・遷有の修行のことであり、意図的に自己または他者の意識を移し替える技法のことをいう[300]。タントラ密教におけるヨーガ体系においては、殺害とか、他者の魂を奪う意味はない[300]

オウム真理教においても「ポア」また「ポワ」は「魂の転移」を意味する言葉であるが、成就者が弟子に命じて将来悪業を積む可能性のある人間の殺害も「魂の転移」となり、被殺害者も殺害者にも益となる、と説かれた[301]。「オウム神仙の会」の時代だった1987年1月4日の丹沢セミナーで麻原は「例えばグルがそれを殺せと言うときは,例えば相手はもう死ぬ時期に来てる。そして、弟子に殺させることによって、その相手をポアさせるというね,一番いい時期に殺させるわけだね。」とすでに殺人を肯定する意味で「ポア」の用語を使った説法をしていた[90]。元教団幹部の中村昇によれば、中沢新一の「虹の階梯」を読んでいた弟子の方から、ポア(意識の移し替え)を殺人を含めた隠語として使い始めた[302]

男性信者殺害事件直後の説教では、船上で300人の貿易商を殺害しようとしていた悪人を仏陀(の前生)はこの悪人のカルマが悪かったのでポア(殺害)したと説教されたが、宗教学者渡辺学はここで麻原が言及しているのは善巧方便経にあると指摘している[303]。善巧方便経では、500人の商人が乗る船で1人の悪人が全員を殺害して財宝を奪おうとしていたが、釈迦の前生である船長は 、悪人が商人を殺して地獄におちること、反対に計画を知った商人が悪人を殺し地獄に落ちるのを防ぐには、 この悪人を私が殺す以外に方法はない」と大悲の心をおこし、その善巧方便によって悪人を殺した[304]。渡辺学はこれは釈迦が生まれる前に行ったという話であり、釈迦と同じ心境になった人間が同じことをしても構わないという話ではなく、麻原の解釈には飛躍があり、また麻原は自分が最終解脱者であり、神に等しい存在であることを証明し、殺人行為を救済と結びつけるためにこの物語を利用したと述べている[305]。元高野山大学学長の藤田光寛は、仏教における「慈悲の心と善巧方便にもとづく殺生」 について、「本生譚説話、 また歴史的 ・社会的な出来事などによる例証を示して説かれたこのような話は、私どものような凡夫に信知させるために用いられた象徴的比喩である。文字どおりに殺生などを実行して良いという意味ではない。」と明言する[304]

オウムは人々の救済を説く一方、「ユダヤフリーメイソンに支配され物欲に溺れ動物化する人々、三悪趣に落ちる人々」と「霊的に進化する人々」を二分し、前者を粛清しようとする思考に陥っていたとされる[306][307][308]

修行編集

修行の「4つの柱」として「教学,功徳,行法・瞑想修行,イニシエーション」が挙げられている[309]。修行の外見はヨガや仏教の形態をとるが、その内実はすべてグル(麻原)への霊的隷従、グルのクローンになるシステムであった[310]

マハームドラー編集

マハームドラーとは、グルが弟子を成長させるために行う修行で、オウムでは殺人もマハームドラーであると説教された[120]。林郁夫はサリンを撒くこともマハームドラーの修行であり、サリンによる死者も真理を守ることになると考え、人を殺すということにも心を動かされないことが阿羅漢と同じレベルになると考えていたという[311]

マハームドラーと称して非合法活動を実施した時に麻原がよく用いたのが、次のようなミラレパの伝記だった[312]。マルパの一番弟子ゴクパは、ミラレパへのイニシエーションとして、食料を盗む村の悪人たちに魔術で雹の嵐を起こして彼らに攻撃したら伝授するとした。その後、ミラレパは「これからやることは犯罪だ」と村人に伝え攻撃し、死んだ小鳥や羊を集めてゴクパに会いに行った。ミラレパは「罪人である私を哀れんでください」といって泣くと、ラマ・リンポチェは「秘密の詞章によって罪人も瞬間的に解脱できる」と言って指を鳴らして死体を蘇らせた[312]

イニシエーション編集

当初は、専らヨーガの手法を用いた修行が行われていた。その後、本来「秘技伝授」を意味する宗教用語であった「イニシエーション」という言葉を、オウム独自の「解脱者のエネルギーを伝授することで弟子を成就、解脱させる」という意味で使う[313]ことで信者を増やしていった。

また、教団ではフリーメーソンによる3S、すなわち、Screen(スクリーン、映画)Sports(スポーツ)Sex (セックス)が悪とされ、それらを用いたサブリミナル煩悩による洗脳から脱却するために、全てをグルに明け渡すことが大切だとされた[314]

さらに麻原は終末思想を煽り、1994年前後には違法薬物や電気による様々な洗脳施策を取るようになった[315]。1994年以降は石川公一を中心として薬物と催眠術を用いたシステム化が完成され、信仰心がない人でも教団に連れ込めば洗脳してしまうシステムが確立した[314]

ヒナヤーナ・マハーヤーナ・タントラヴァジラヤーナ編集

オウム真理教では、修行の内容を3種類または4種類に分けて説く。小乗(ヒナヤーナ)、大乗(マハーヤーナ)、真言秘密金剛乗/秘密真言金剛乗(タントラ・ヴァジラヤーナ)で、厳密に説かれるときはタントラヤーナとヴァジラヤーナを分ける。ここでは4つの修行体系に分けて述べる。ただし、顕教が大乗を説くのに対して密教は金剛乗(ヴァジラヤーナ)を説くことは多いが、通常の仏教語の定義とは異なる。

また、麻原は年によって話す説法と衣服を変えており、1988年はヒナヤーナで黄色い服、1989年はマハーヤーナで白い服、1990年はタントラ・ヴァジラヤーナで紫の服を着た[316]

ヒナヤーナ
ヒナヤーナ(小乗)とは、外界とは離れて、自己の浄化・完成を目指す道である。ヒナヤーナはすべての土台である。
マハーヤーナ
マハーヤーナ(大乗)とは、自己だけでなく他の多くの人たちをも高い世界に至らしめる道(衆生済度、救済)である。教団全体はマハーヤーナと規定される。ただし、完全なる自己の浄化(ヒナヤーナの完成)がなければ、真の意味でのマハーヤーナは成立しないともいう。オウム出版発行の機関紙の名前にも使われている。
タントラヤーナ
タントラヤーナはセックスによって、最も低い次元にある性エネルギーを上昇させる修行である[317]。煩悩に巻き込まれながら救済活動をなすタントラヤーナは、政治倫理が説かれる現代、例えば教祖と女性問題が取り沙汰されるような現代では、合わない修行とされる[318](1994年頃の発言とされる)[317]。また、初期の『超能力秘密の開発法』では幽体離脱を獲得するために頻繁な性交渉や頻繁なオナニーが奨励された[29]。同書では房中術が詳細に述べられており、例えば、セックスの相手は男性でも女性でも年下で美しく、気立てがいい人を選ぶ。射精後は最低6時間眠り、ツァンダリー、つまり性的エネルギーの火が燃え上がるのを観想する。相手が終わったら、男性は陰茎をピクピク動かしながら(女性はを締め付けながら)、愛液が赤いエネルギーを発していることを観想し、赤いエネルギーを陰茎で吸い上げる気持ちを持ち、そのエネルギーをムーラダーラ・チャクラから頭頂のブラフマ孔へ到達させ、蓄える。これを3回繰り返す[319][320]。こうしたセックス修行は1990年春以降、信者への説教では見られなくなる[321]。しかし麻原は左道タントライニシエーションなどとして性行為を行っていた[322]
ヴァジラヤーナ
ヴァジラヤーナ(金剛乗)とは密教徒が自らの密教を自称することばで、バジラ(金剛)はインドラの武器を意味する[323]。金剛乗とは顕教に比して絶対なる乗り物(教え)を意味し、『金剛頂経』や無上瑜伽タントラにおいて用いられる[323]。金剛乗はグルと弟子との1対1の関係においてのみ成り立つ道である。グルが弟子に内在する煩悩を突きつけ、それを理解できる状況を作り出し、その煩悩を越えさせるマハームドラーなどの激しい方法が含まれる。麻原はカール・リンポチェと会ってからヴァジラヤーナを説くようになった[324]
オウム真理教におけるタントラヴァジラヤーナの教義の中には、「五仏の法則」と呼ばれるものがあった[325]
これは「一般的な戒律に反する行為・言動」が、完全に煩悩なく、完全に心において利他心のみであるときには認められるとするもの。「天界の法則であって人間界においてはなし得ない」という注釈のもとで説かれたこともあった。
麻原は空海真言宗でも同じことを言っているとした[331]。日本では金剛乗は真言密教を指す[332]。真言宗の経典の一つである金剛頂経は仏教学的分類においてはタントラ密教経典に分類される。金剛頂経は全十八会からなり[333]、その内初会「真実摂経」のみが日本に伝わっているが、ニ会以降の内容では後期密教との過渡期の内容に踏み込み、上記の五仏の法則に近いと言える内容も実際に存在する。経典『秘密集会タントラ』第五分[334]には、殺人などの大罪を犯す者、嘘つき、他人の財物を欲しがる者、常にセックスを求めて性行を悦楽する者は、梵行を行っている行者に等しいと書かれており、麻原の教義とこの経典との間に表面上の矛盾はないが[325]、一方でダライ・ラマ14世はこの箇所は文字通り解釈してはならないと注意を促している[335]
麻原は、五仏の法則やヨハネの黙示録のような最終戦争についての言及のある時輪タントラもヴァジラヤーナ路線に利用したが、時輪タントラはイスラム教インド仏教を衰退させていく時代に成立したもので正当防衛との解釈も成り立つが、現実に軍事的な圧力を受けてもいないのに教団が弾圧されていると陰謀論を主張したのは事実に反していたと上祐史浩は総括している[335][336]
警視庁はオウム真理教のヴァジラヤーナの教義は殺人を正当化するものと解釈、オウム後継教団は現在もこの教義を根幹に据えていると見ている[337]

予言編集

1985年に麻原はアビラケツノミコト(神軍を率いて戦う光の神)を任じると天から啓示を受け、その後、マイトレーヤ弥勒菩薩)であると守護神から教えられたと語り、1988年にはシヴァ大神の指示でヨハネ黙示録を読み解き、自分をハルマゲドンで現れるキリストだとした[338]。アビラケツノミコト、マイトレーヤ、キリストは全て戦う神(軍神)とされた[339]

麻原は、神の預言とは、自ずと実現する予言ではなく、神を代行して実現する計画であると語っている[338]立花隆は、麻原はヒトラーと同様に本気でノストラダムスの予言を信じ、「自分の予言が外れると困るからハルマゲドンを起こそうとしたのではなく、ノストラダムスがそう予言したからには、歴史はその通りに動くにちがいないし、また自分は、歴史をそのように動かす歴史的使命を与えられていると思い込んだのではないか」と指摘している[340][341]

予言と終末観の変遷編集

宗教学者の武田道生は、オウム真理教における予言終末観の変遷を、初期の終末回避期(1985-1987年)、終末回避不能・救世主出現期(1988-1990年6月)、救世主確立期(1990年8月-1992年10月)、終末切迫期(1992年10月-1995年)の四つの時期に分ける[30]。初期には個人の魂が救済され、次いで人類の救済、 次いで超人類の生き残りへと終末観が変容していった[30]

終末回避期:1986〜1987年

「オウム神仙の会」発足直後の1986年 『トワイライトゾーン』6月号 では「87〜 88年の富士山噴火 90年からの日米貿易摩擦、93年の再軍備、99年〜 2000年の核戦争」を予言[30]

1987年には核戦争が99年か2003年となり 、 運命の日が1999年8月1日に特定される[342]。 この時期は 、成就者が宇宙エネルギーの流れを変えて終末を回避できると予言した[343]。 阿含宗の終末論に類似した楽観的な全面的回避とい う救済が展開する[30]

終末回避不能・救世主の出現期:1988〜1989年

『トワイライトゾーン』1988年1月号では、日本沈没SDI兵器による米ソ・イスラム・日本の戦争という水と火の洗礼を予言し、出口王仁三郎やノストラダムスを用いて、ハルマゲドンは回避できず、 成就者・解脱者などの新人類が生き残り、新しい王国を築くという選民思想が出現する[30]。しかし、日本沈没は300人の解脱者で回避できるとした。1988年4月から大宇宙占星学の連載開始[30]。同88年12月には富士山の噴火を「水中エアータイト・サマディ」によって回避できたとして、成就者を出して全滅亡を回避しようと説教[30]

1988年12月13日の富士山総本部における説法では、ヨハネの黙示録の教えには人類滅亡後に生き残る人の条件は、仏教を守ることと禁欲、そしてシヴァ神あるいはグルへの帰依であると説かれており、これは「タントラ・ヴァジラヤーナの精髄」で、「今,世界のどこを探しても そのことを最も激しく実践しているのは,オウム真理教の信徒だけだ」と述べた[90]

1989年2月著書『滅亡の日』では 『ヨハネの黙示録』はシヴァ大神が麻原を終末時の救世主と命じるためにヨハネに書かせたとし、シヴァが行う天変地異による悪のカルマおとしが効果を挙げなくなった時、人間の最終戦争によってカルマおとしを行うという[30]。シヴァ神から「オウム真理教の救済計画を固めよ」との神託を受けたとする麻原は「力で良い世界をつくる。これこそ,タントラ・ヴァジラヤーナの世界だ。シヴァ神はシヴァ神への強い信仰を持ち続けたタントラ修行者が諸国民を支配することを望んでいらっしゃる」と説いた[90]

同89年4月には、 ノストラダムスも救世主として麻原の出現を予言していたと述べ、 成就による超人類が誕生するために終末は避けられないと 終末を肯定した[30]

1989年5月発行の書籍「滅亡から虚空へ」では「ハルマゲドンは回避できない。 しかし,オウムが頑張って多くの成就者を出すことができれば,その被害を少なくすることができる。ハルマゲドンで死ぬ人々を,世界人口の4分の1に食い止めることができる。残りの4分の3の人口の中のどれだけが生き残れるかは,オウムの救済活動次第だ。」と説いた[90]。また、第二次世界大戦でわざと負けたヒトラーは未来予知の力を持つ予言者であり、「20世紀末の大破局が救いの超人や神人を生み出す」と予言していると書いた[344]

救世主確立期:1990〜1992年

1990年8月にはノストラダムスの予言するモーゼは麻原であるとし、1991年9月の『人類滅亡の真実』では転輪王獅子吼経を通して、終末後に麻原が真理勝者 マイトレー ヤ(弥勒)転生すると語られる[30]。 同91年12月の『キリスト宣言』で、 真理の御霊である麻原は、キリストとして再臨すると語られる。1992年9月2日のノストラダムスの勉強会で、予言にあるキリストとは「孤児とか、親元を離れて生活をしてる、親と縁が非常に薄いことを表すフランス語」であると解釈し、麻原自らの体験を持ち出して、自分がキリストであると述べた[345]。このほか、麻原は古代エジプトのアメンホテプでもあり、またフリーメーソンを敵視しているが、フリーメーソンを作ったのも自分であるとも述べた[346]

1992年9月から10月にかけてノストラダムスが救済者麻原の出現と弾圧を予言しているとし、また超古代の救世主ヘルメスとしても再臨すると語る[347][30]

終末切迫期:1992〜1995年

1992年10月以降各地の大学で行われた講演から、悪の具体化と終末時期の前だおしが始まった。 日本への核攻撃は96年から98年1月にかけて行われ、 人口は10分の1になるとした[30]

1993年1月31日第8回大説法祭で麻原はヒトラーのカルマと自分のカルマは似ているかもしれないと述べ、ノストラダムスのいうユピテル、マイトレーヤ、クロノス太陽メルクリウスマルス、これが同一人物であるとする[344]。麻原は自分がマイトレーヤとして再臨することを予言しているため、ここに挙げたギリシア神話ローマ神話の神々も自分と同一人物であると言っている。

1993年3月21日には杉並道場で麻原は、ノストラダムスが1997年ハルマゲドンを説き、麻原をキリストとして予言している以上、「私が世の中の中心に引っ張り出され、主役を演じなければならない時代が来ることは間違いないだろう」と予言した[348]。同年4月18日には杉並道場で「(教団が)叩かれることが予言だった。叩かれることは、予言として成就しなければならなかったのである。その叩かれた中でこの1600倍に拡大した教団の道場の空間は、間もなく2000倍になろうとする。」と述べた[349]

1993年には兵器開発が強化されたが、1993年6月に上九一色村で「第三次世界大戦をとめることができるのは、世界においてただ一人、私しかしない」と宣言した[350]。1993年7月の著書『麻原彰晃 戦慄の予雷』でユダヤ・フリーメーソン陰謀説が登場し、終末は成就修行の目標とされた[30]

1994年3月以降はさらに陰謀説を強めた。3月11日に仙台で麻原は「私の生命もこのまま彼ら(フリーメーソン)の攻撃を受け続けるならば、一ヶ月ともたない。今まで私は毒ガス攻撃に対してツァンダリー、トゥモで対決してきた」、3月13日には大阪支部で「1989年から世界を統一しようとしているグループがアメリカを使い、アメリカの配下のJCIA(内閣情報調査室)、公安を使い、オウムを弾圧してきた。この弾圧は、フリーメーソンの手先である創価学会や小沢一郎というラインのその背景に大きな力が働いている」と陰謀説を述べた[351]。3月15日には杉並道場で白蓮教による紅巾の乱を挙げ、これは(朱元璋が)明王朝を打ち立てるきっかけとなった宗教戦争であり、「このきっかけを有することのできるような教祖こそがカルト宗教の教祖」であるとする[191]。また、1993年にブランチ・ダビディアンFBIによって滅ばされたが、それを動かしたCIAは次に麻原を「本当の意味での反米、つまり属国から開放され、日本が独立国として動き出そうとする時の中心人物」として恐れているがゆえに、マスタードガスやVXなど毒ガス攻撃を1988年から続けていると説いた[191]

1994年春以降、「国家公安、つまりフリーメーソンらは『省エネ原爆(サリン)』で我々を狙っている。近く東京23区は全滅する」と度々講演し、第三次世界大戦の狙いは、第一段階で都会が完全に死滅させ、第二段階では無政府状態をつくり、第三段階は地球の統一的な政権を作る、と説いた[352]

こうして教団は、ユダヤによるマインドコントロールや地震兵器、毒ガス細菌兵器攻撃を強調、 <物質主義=ユダヤ=悪=闇>と<精神主義=オウム真理教=善=光>という対立を設定し、外部社会との敵対的闘争へと展開、救済者像の強化が熱狂的に行われ、積極的に終末を迎えた[30]

ハルマゲドン(最終戦争)とユダヤ人・フリーメーソン編集

ハルマゲドンとは聖書ヨハネの黙示録において神が悪魔と戦う世界最終戦争の場所である[353]。麻原は転輪王経ヨハネの黙示録ノストラダムス酒井勝軍出口王仁三郎らの予言[354]占星術(大宇宙占星学)などをミックスし、第三次世界大戦ハルマゲドンが迫っていると盛んに主張した。現代の人類は悪業を積んでいてこのままでは三悪趣に転生してしまうので、ハルマゲドンは回避できないと説いた[90]。麻原はオウム真理教以前のヨガ教室「オウム神仙の会」を開催していた1985年頃には竹内文書酒井勝軍の影響から終末思想ハルマゲドンについて述べており、雑誌「ムー」1985年11月号には岩手県五葉山の調査報告として、20世紀末にハルマゲドンが起きて「神仙民族」だけが生き残り、天皇とは違う指導者が日本から出現するとの黙示を酒井が五葉山で神受されたとの伝聞を地元の古老から聞いたと書いていた[355]

1980年代は米ソ冷戦の最終局面で、レーガン大統領が「悪の帝国ソ連を倒すためにSDI(宇宙戦争)を唱えていたことも時代背景としてあった[356]

1990年3月にユダヤ人フリーメーソンの目的はオウムの崩壊と説く[145]。同年4月に、フリーメーソンペスト菌をまいたように、全世界にボツリヌス菌をまいてポアするとヴァジラヤーナを宣言[90]。 同年7月には「悪魔の本性は物質である」。なぜなら、悪魔はこの欲界を支配している、欲界の最も低次元のものは物質であるから。現在の世界を支配しているのは物質主義であり、金を持っていれば偉くなれる。物質主義や資本主義はペストの発生でフリーメーソンやユダヤ人が台頭したことによって広まった。ペストはフリーメーソンが仕掛けたと述べた[357][358]。なお、ユダヤ人・フリーメーソンを敵視する反ユダヤ主義大本教世界救世教にも見られる[358]

麻原によるとハルマゲドンの原因は、フリーメイソン物質主義派とユダヤ勢力が物質崇拝やオウム迫害を広めてカルマが溜まっていることと、キリストと人類の進化を求めるフリーメイソン精神主義派及び米・中・露のバックにいるものたちの計画であり、大戦は中東の石油危機をきっかけとして1997年に始まり1999年8月1日ごろ激化する。この他、ナチス残党の第四帝国も参戦する。日本は不況のためファシズムに傾倒し東南アジアに侵攻、さらにアメリカと対立しNBC兵器プラズマ兵器、電磁パルス攻撃などで蹂躙され殆どが死ぬが、「神仙民族」であるオウムが生き残り、2000年に日本から「6人の最終解脱者」が登場、オウムは地球を救い、旧人類を淘汰して超人による世界をつくるという、オカルトなどから影響を受けた、アニメ漫画的ともいえるストーリーであった[90][359][360][361]。また、ニューエイジ的な「アセンション」による精神革命論の影響も指摘される[362]

とはいえ麻原はソビエト連邦の崩壊予言できず(当初は1995年にソ連があることになっていた)1999年を迎える前から予言は破綻していた[361]。石垣島でもオースチン彗星でも予言を外し、念力で食い止めたと麻原が述べるなどしたため、一部の信者では麻原への尊敬の念が薄れていったともいう[363][364]

麻原は逮捕後の1996年破防法弁明手続において「1995年11月にラビン首相の暗殺によって世界の首脳がイスラエルに集まったため、これをもってハルマゲドンに集まったというプロセスは終了した」「私たちはハルマゲドンに出会うかもしれない。出会わないかもしれない。ハルマゲドンが起きるなどということはその中でも一言も言っていない」と予言を半ば撤回した[365]

大宇宙占星学編集

麻原の予言は、諸葛孔明が用いた奇門遁甲の「完璧な再現」である「大宇宙占星学」に基づくとされた[366]。1991年12月には書籍「大宇宙占星学」刊行。1992年1月に販売されたビデオ「麻原彰晃尊師の大宇宙占星学」ではキャッチコピーに「戦慄の的中率 1992年あなたの運命はこうだ!」「磁場の影響を受けなくすれば運命は変えられる!」とあり、「異次元の世界の導師マニクラチュー」から伝授された大宇宙占星学は、ペルシャ湾情勢、水害、日航機墜落事故なだしお事件第二次世界大戦関東大震災などすべて知っていたとされた[367]

世界観編集

この世界は、熱優位の粗雑な物質による愛欲界、音優位の微細な物質の世界である形状界、光優位のデータの世界である非形状界が重なり合っているとする[368]

愛欲界
(現象界、欲界
形状界
アストラル界、色界
非形状界
コーザル界、無色界
大到達神智完全煩悩破壊界
(マハー・ボーディ・ニルヴァーナ)
大完全煩悩破壊界
(マハー・ニルヴァーナ
上位非形状界
(上位コーザル)
非認知非非認知境
無所有境
識別無辺境
空間無辺境
上位形状界
(上位アストラル)
清潔居住天 超越童子愛欲本質神天 中位非形状界
(中位アストラル)
善現象愛欲神天
善安楽愛欲神天
超燃焼愛欲神天
超空間愛欲神天
偉大果報愛欲本質天
美天 総美愛欲本質神天
無量美愛欲神天
かすかな美しさの愛欲神天
美愛欲神天
光天 無量光愛欲神天
かすかな光の愛欲神天
光愛欲神天
神聖天
梵天
大神聖天
神聖臣天
神聖代議愛欲神天
神聖衆愛欲神天
戯れ堕落天
天界
第6天界(為他神以神通創造欲望満足従事天 下位形状界
(下位コーザル)
下位非形状界
(下位アストラル)
第5天界(創造満足天
第4天界(除冷淡天
第3天界(支配流転双生児天
第2天界(三十三天
第1天界(四天王天
東 - 堅固王国天
西 - 成長天
南 - 統治変化自在天空天
北 - 守庶民外傷天
意識堕落天(阿修羅
人間
低級霊域(餓鬼界)
動物
地獄

チャクラと五大エレメント編集

チャクラ(チァクラ)と五大(五大エレメント)の理論を融合した形で導入している。体の上部にあるチャクラほど高い次元につながっているとされた[368]。子供向けの自慰行為防止説法で、麻原は以下のように語っている。

心臓と、おしっこするところは、どちらが上かな?もちろん、心臓のほうが頭に近いから、上だよね?体の下の部分に、心が集中するとね、その子は下の世界に生まれ変わるんだって。やだねえ (良い子の真理 3巻)[369]
元素 対応する体の構成要素 対応するチャクラ(チァクラ) 対応する感覚器官
空間(肺など) ヴィシュッダ 聴覚
呼吸 アナハタ 触覚
体温 マニプーラ 視覚
血液などの水分 スヴァディスターナ 味覚
肉・骨 ムーラダーラ 嗅覚

組織編集

1989年(平成元年)3月、東京都に対し宗教法人の認証を申請。6月、東京都は受理を保留したため、オウム真理教は鈴木俊一東京都知事を相手取り、行政の不作為の違法確認訴訟を東京地方裁判所に提起した。8月、東京都が宗教法人として認証。

宗教法人規則認証申請書の記載内容編集

設立
1989年8月29日
主たる事務所の位置
東京都江東区亀戸
目的
主神をシヴァ神として崇拝し、創始者の松本智津夫(別名麻原彰晃)はじめ、真にシヴァ神の意思を理解し実行する者の指導のもとに、古代ヨガ、原始仏教、大乗仏教を背景とした教義をひろめ、儀式行事をおこない、信徒を教化育成し、すべての生き物を輪廻の苦しみから救済することを最終目標とし、その目的を達成するために必要な業務を行う。
規則
  • 代表役員は、9人の責任役員の互選により選任され、オウム真理教を代表し、その事務を総理する権限を有する。
  • 責任役員は、信徒および大師のうちから、総代会の決議をへて、代表役員が選任する。
  • 総代会を組織する総代は、信徒および大師のうちから、責任役員会の議決を得て、代表役員が選任する。
  • 信徒とは、オウム真理教の教義を信奉する者で、代表役員の承認を受けたもの。
  • 大師とは、オウム真理教の教義を信奉する者で、信徒を正しく指導できると、代表役員が認めたもの。
役員等
  • 代表役員:松本智津夫(麻原彰晃)
  • 責任役員:松本知子、石井久子、大内早苗、上祐史浩、都澤和子、飯田エリ子、新実智光、大内利裕
  • 監事:満生均史、別所妙子

施設編集

  • 富士山総本部:富士宮市人穴[370]
  • 東京総本部:港区南青山(1Fはマハーポーシャ事務所)
  • 世田谷道場(世田谷区赤堤)
  • 杉並道場(杉並区下井草)
  • 支部:札幌、仙台、水戸、高崎、船橋、横浜、藤枝、松本、名古屋、金沢、福井、京都、大阪、堺、和歌山、広島、高知、福岡、那覇、ニューヨーク、ボン、スリランカ、モスクワ [370]

公称信徒数編集

グラフの数字は信徒人数。特記なければ日本国内のみ[127][371]。ロシアの信者数は最大3万人[372]から5万人に上った[186]

'85年12月 15
'86年10月 35
'87年2月 600
'87年7月 1300
'88年8月 3000
'90年10月 5000
'95年3月 15400
'97年 1000
'99年 1500

※1995年3月は出家1,400人、在家14,000人[3]

後継団体
  • 2000年 - 1,115人(教団が公安調査庁に報告した数)
  • 2002年 - 1,650人
  • 2003年2月 - 1,251人(教団が公安調査庁に報告した数)
  • 2005年 - 1,650人
  • 2008年 - 1,500人
  • 2009年 - 1,500人(Aleph出家450人、在家850人。ひかりの輪出家50人、在家150人)[373]
  • 2011年 - 1,500人
  • 2014年 - 1,650人
  • 2016年 - 1,650人(出家300人)+ロシア460人

信者の構成編集

出家制度は1986年6月に始まった[95]。最初期の出家者はオウム真理教以前の「オウム神仙の会」に出家しており、後に脱会した者もいたが、多くは教団幹部となった。「オウム神仙の会」以前のヨーガ教室鳳凰慶林館は女性を対象としており[79]、オウム神仙の会も当初は女性ばかりであり、最初の男性として入会したのは大内利裕だった。以下、出家順。また、出家番号は管理番号ともいう[374]

  • 石井久子:出家番号1番:1984年6月オウム神仙の会に入会、1986年6月出家[95]
  • 山本まゆみ:出家番号2番:1984年オウム神仙の会に入会、1986年9月出家[374][375]
  • ○○:出家番号3番:法人格取得前に脱会のため欠番[376]。ホーリーネームはラーマクリシュナナンダ[377]
  • 杉本繁郎:出家番号4番:1986年4月入信[378]
  • 新実智光:出家番号5番:1986年1月入信、1986年9月オウム神仙の会に出家[379][376]
  • 中村昇:出家番号6番[376]
  • 岡崎一明:1986(1985)年6月[380]または9月出家[381][380]。(岡崎は1985年と言っているがはっきりしないと述べている[380])
  • 大内利裕:1985年12月、オウム神仙の会最初の男性として入会。1986年10月出家[382]。早川紀代秀、井上嘉浩、村井秀夫らを出家させる[383]
  • 上祐史浩:出家番号13番:1986年8月「オウム神仙の会」に入会、1987年5月出家[384][94]
  • 岐部哲也:1986年9月オウム神仙の会入信、青年部に参加。1987年6月出家。
  • 村井秀夫:1987年4月、入信。1987年6月夫婦で出家。
  • 平田信:1987年8月出家。
  • 飯田エリ子:出家番号33番:1984年1月に鳳凰慶林館入会し、会社の同僚石井久子を誘いオウム神仙の会に入会。1987年10月、出家[385]
  • 野田成人:1987年10月頃出家[386]
  • 早川紀代秀:1986年6月丹沢セミナーに参加。1987年11月出家。
  • 井上嘉浩:出家番号63番:1986年オウム神仙の会丹沢セミナーに参加。1988年出家。
  • 中川智正:1988年2月出家。
  • 林泰男:1987年(昭和62年)5月入信。1988年12月6日出家。

教団幹部には難関大学の卒業者も多く、教団の武装化を可能にした村井秀夫土谷正実遠藤誠一など理系幹部を多く抱えていた。また弁護士資格を持つ青山吉伸公認会計士資格を持つ柴田俊郎、上田竜也、医師免許を持つ林郁夫中川智正、芦田りら、佐々木正光、平田雅之、森昭文、小沢智、片平建一郎など社会的評価の高い国家資格を持つ者も多くいた。麻原の勧誘方針は「女は若くて美人、男は理系の高学歴」というものだった[387]

他にも山形明丸山美智麿など自衛隊員、建設会社出身で教団の不動産建設やロシアとの交渉を手がけた早川紀代秀、元暴力団員の中田清秀松任谷由実のアルバム制作にも関わったことのあるデザイナーの岐部哲也彰晃マーチなどを作曲したミュージシャンの石井紳一郎、盗聴技術を持っていた林泰男、元日劇ダンシングチーム鹿島とも子など幅広い層の信者を有していた。信者平均年齢は若いが、最高齢信者は88歳の女性だった[388]

以下に示すのは教団がオウム事件発覚後の1995年6月28日に行った出家修行者対象のアンケートデータである[389]

 
旧・青山総本部(東京・南青山、2011年)
  • 性別
    男 459人(41%)
    女 661人(59%)
    計1120人
  • 年齢
    平均 30.1歳
    最多 26歳(102人)
  • 他の宗教団体への入信経験
    あり 35%
    なし 65%
  • 学歴
    大卒 37.8%
    短大卒 7.0%
    専門学校卒 16.7%
    高卒 25.2%
  • 入信動機
    1位 本を読んで 273人
    2位 勧誘 171人
    3位 出家者・修行者の姿を見て 61人
    4位 教義に納得して 52人

運営システム編集

教団の運営システムは、インドの宗教団体の東京支部で修行を積み、出家生活の経験もあった元信者によって多くが作られた[390]。この元信者は、入信した1986年2月から、麻原の最終解脱宣言に疑念を抱いて1987年4月には脱会するまでの1年2ヶ月程の在籍期間中に、密告・相互監視制度、出家制度、寄進制度など、教団の制度の多くを作った[391]。このほか、信者の生活スケジュールの徹底管理制度や、外部の情報遮断、また成就者にはホーリーネームを授け、理系エリートには高額機器を揃えるなどのシステムが構築されていった[387]

コーザルライン(密告制度)編集

教団施設には「コーザルライン」という密告するための目安箱が置かれ、教団では信者同士が相互監視する密告社会が築かれた[392]。信者の間では、「目が不自由な教祖は常に心眼で信者を見ているという潜在意識があった。心の中まで見透かされているという恐怖心が、知らないうちに信者たちを支配していた」と教義等を担当した元古参信者は指摘している[393]

実際には、村井秀夫幹部が「お目付役」として信者の会話や生活態度を細かくチェックし、麻原に密かに報告していた[393]

サンガ(合宿・出家制度)編集

この元信者のチームは、参加費用120万円のサンガという合宿制度を作り、これは後に全財産を「お布施」として寄進させる出家制度となった[394]。このチームは「どこかに何かを残していれば、簡単にそこに逃げるから、すべてを処分して退路を断った方がいい」と全財産の寄進制度を提案した[394]。信者に「修行を放棄しない」という誓約書を書かせる案も出された[394]。実際に、出家信者には自分の遺産は全て教団に寄贈するという遺言状に署名捺印をさせた[395]。また、肉親、友人等など現世における一切のかかわりを断つことも求められ、「親族とは絶縁する。(教団に)損害を与えた場合には一切の責任を取る。すべての財産は教団に寄贈する。葬儀等は麻原が執り行う。事故等で意識不明になったときはその処置、及び慰謝料や損害賠償もすべて麻原に任す。」という誓約書を書かされた[90]

教団では「修行の第一ステージはまず布施に始まる」とされた[396][397]。1990年の石垣島セミナー後、教団本部は「新たに信徒を増やすのはどうでもいい、とにかく今いる信徒を出家させろ」「出家を拒否する者にはとにかくお布施をいっぱいさせろ」と支部に命じ、麻原も機関紙「マハーヤーナ」7月号の出家特集で、「本当に真理に巡り合い、真理を実践したい人は、社会的な条件はどうでもいいから、とにかく出家をして早く至福の生活をしていただきたい」と呼びかけた[398]。1993年以降の信徒用決意では「私がこれまで所有してきたすべての財産は現世的な観念により、あるいは貪りの心によって、汚れた行為により得たものである。その悪行を滅し、偉大な功徳に変えるために、私は極限のお布施をするぞ。」という章句があった[399]

在家信徒と出家修行者(サマナ)編集

教団の信者は在家信徒と出家修行者(サマナ)に分けられる。在家信者は通常の生活を行ないながら、支部道場に赴いて修行したり説法会に参加する。また、休暇期には集中セミナー等も開かれる。このほか名目上の信徒である「黒信徒」がいた。黒信徒の入会金は信者の家族や知人が代わりに払っていたので一応信徒としてカウントし水増ししていた[400]

オウムの修行の最終的な目標は、現実世界を越えた真実に到達することで、サマナと呼ばれる出家修行者らはその目標に到達するために、激しい修行を行った。現実世界を超えるためには、この世界の価値観を超越し観念を壊す必要がある。社会の価値観に重きを置かない点で、最初からオウムは「狂気」の思想を内包していた。当初はこの狂気の割合が低く社会性も帯びていたものが、バッシングなどや終末思想などにより次第に崩壊をはじめ、社会性が薄れていった[9]

ステージ(階級)制度編集

修行の達成度、精神性の度合いを示すものとして「ステージ」制度があり、時期によるが、1995年(平成7年)時点の出家者には、サマナ見習い、サマナ、サマナ長、師補、師(小師、愛師・菩師、愛師長補・菩師長補、愛師長・菩師長)、正悟師(正悟師、正悟師長補、正悟師長)、正大師の各ステージが存在した。師は「クンダリニー・ヨーガ」の成就者、正悟師は「マハームドラー」の成就者で仏教の阿羅漢相当、正大師は「大乗のヨーガ」の成就者と規定され、これらのステージに従って教団内での地位、役職等が定められた。

貢献度の評価編集

信者の「入信の貢献度」は点数化されており、信徒Aが新たに信徒Bを入信させると60点、信徒Bが新たに信徒Cを入信させると(信徒Aに)15点、と一種のネズミ講方式だった[397]。点数はバッジ、腕章、スカーフなどで外から分かるようになっており、「入信の貢献度」49000点以上は「菩薩」で、「極限修行」をすればこの「菩薩」は「必ず解脱できる」とされた[397]

教団での麻原の絶対性編集

信者時代「大師」の肩書きを持っていた元信者によれば、「オウムでは、肝心なことは常に教祖が決めているんです。教祖が知らないなんていうことはありえない」と言っている[148]。幹部であろうとも麻原の指示は絶対であり、オウム真理教附属医院の患者の入退院の判断すら麻原の指示を仰がねばできなかったという[148]。さらに麻原含めた上司の指示は説明無しに従わなくてはならなかったため、信者はいつの間にか事件に関わっていたということが度々あった[401]

公安調査庁は信者の証言を引用して「正悟師以上になると尊師のロボット」「形式上はピラミッド形組織だが基本的には尊師と信徒は1対1の関係」としている[402]

信徒用決意編集

1993年秋以降、麻原は青山吉伸石川公一を重視した[403][404]。その青山と石川が作成した「信徒用決意」は5章あり、以下の3章が重要である[399]

    1. この世は三悪趣のデータに満ちている。従って、普通に生活することはそれだけで三悪趣に落ちる。なぜなら身において殺生し、偸盗をなし、邪淫をなし、口においては妄語・綺語・悪口・両舌をなし、心においては愛着・真理を否定する、邪悪心という三毒をなすからである
    2. 三悪趣を脱し、解脱と悟りに向かうためには、今までの汚れた観念を捨て、グルへの絶対的な帰依を培うべきである。従って私は帰依するぞ。グルに帰依するぞ。徹底的にグルに帰依するぞ。私がこれまで所有してきたすべての財産は現世的な観念により、あるいは貪りの心によって、汚れた行為により得たものである。その悪行を滅し、偉大な功徳に変えるために、私は極限のお布施をするぞ。
    3. 世の中での善悪は観念であって正しくない。これは無智な人間が作り上げた観念である。よって観念を捨断するぞ。いかなる苦しみがあってもハードなカルマ落としを喜ぶぞ。「救済を成し遂げるためには手段を選ばないぞ」と「周りの縁ある人々を高い世界へポアするぞ」のフレーズがそれぞれ3回繰り返される[399]

元幹部によれば、石川はサティアンの放送で信徒用決意を絶叫するように唱えていたと言う[405]

教団の活動編集

日本シャンバラ化計画編集

麻原は1987年、「日本シャンバラ化計画」を発表した。これによると、ゆくゆくは日本主要都市すべてに総本部を設置しそこから日本全土に布教活動をし、いずれは自給自足のオウムの村「ロータス・ビレッジ」を建設するというものだった[90]

財務 (布施の料金体系)編集

1991年以前は、入会金が3万円、月会費が3000円で、入会時には入会金と半年分の会費、入会後のコース料金を全額前納する[397]

  • ヨーガタントラコース:初級クラスは一回三時間(10回)で3万円、中級クラス(10回)は3万5000円、上級クラス(20回)は8万円。
  • ビデオ、カセットテープによる通信講座:第一部・第二部、各7万円。
  • 深夜セミナー:一回6時間で6000円
  • 集中セミナー:一泊7-8千円

これらは単位制で、60単位とると、麻原からシャクティーパットを受けることができる。この時の布施は5万円以上。高弟から受けるシャクティーパットは30単位以上で、布施は3万円以上だった[397]。他の瞑想法などのイニシエーションでも5万円以上の布施が必要[397]

初期には出家時は120万円以上の布施が要求された[406]。のち、全財産の布施が要求された[407][394]。出家すると、まず「布施リストNo.1」を作成し、現金、預金(銀行名、口座番号、預金額、暗証番号を明記)、証券切手テレホンカードオレンジカード商品券など全ての金券退職金生命保険解約時の金額など「将来見込まれるお布施」、土地家屋は評価額を記入し、奨学金の未返済額、クレジット負債などの借金は精算しないと出家できなかった[408]。次いで「布施リストNo.2」を作成し、貴金属電気製品家具衣類、台所用品など、価格の高い物品から書き出す[408]

その後、「たとえ、いかなることが起ころうとも、オウム真理教及び麻原彰晃尊師に、一切責任はない。すべて自己の意思によって修行の道に入り、すべての責任は自己にある」という誓約書、遺産は全て教団に寄贈し、葬儀は麻原によって行うとする遺言状履歴書戸籍謄本住民登録の転出転入届け代理人選任者、国民年金保険料免除申請書、年金手帳、運転免許証のコピー、車検証印鑑証明書などの提出が要求された[408]。信者の中には、親と共同の名義の土地家屋を売り、親を公団アパートに引っ越しさせた人もおり、出家後に相続した場合も教団に布施しなくてはならず、私物はバックと段ボール箱二つ分の衣類と修行用具のみが許された[408]。こうした信者からの布施を原資として、後述する種々の事業を展開していった。

各修行、イニシエーション料金は以下のように設定されていた。

  • シャクティーパット 5万円[409]
  • ミラクルポンド(1L)10万[409]
  • 愛のイニシエーション10万[409]
  • 解脱特別修法プルシャ10万[409]
  • 小乗ツァンダリ30万[409]
  • 大乗ツァンダリ50万[409]
  • 血のイニシエーション:100万円:30名限定で、麻原の神聖血液20ccを飲む[397]
  • 法施(杖のイニシエーション):麻原の著書を大量に買い取り、流布させる布施。第一段階では15万円分の著書を買い取り、これが7つのステージに分かれており、最高ステージに行くまでに150万円。第二段階では1ステージあたり150万円分買い取り、例えば地のステージでは密教食の「丹」毎月1kgを1年分、水のステージではミラクルポンド(麻原の入った風呂の残り湯)を毎月1L1年分受け取ることができた[397]。ほか、教団のチラシを買い取り、ばら撒く布施もあった[397]
  • 説法ビデオは1万円、ヒマラヤ・ヨーガ秘伝ビデオは10万円、音楽テープは1本1万〜3万円、甘露水1.5L二本で4千円[397]
  • 大師によるヨガ指導:一時間1万円[397]
  • 運命鑑定:3万円[397]
  • 麻原に直接相談する「お伺い書」:2万円[397]
  • 1989年元旦午前0時から48時間かけて行われた「尊師最後の特別イニシエーション」では、麻原のDNAを培養した飲料を飲む「愛のイニシエーション」などが行われ、布施は30万円以上[397]
  • 1989年1月6日から10泊11日の富士総本部の集中修行は布施22万円以上[397]
  • 1990年4月石垣島セミナーの参加費は30万円[397]
  • 日本シャンバラ化計画基金では布施一口1万円以上で、3口以上でチベット仏教解脱曼荼羅、6口以上で麻原の写真、10口以上で麻原と一緒に写真撮影、30口以上で大師が10時間以上つきっきりで指導、超純粋甘露水を一ヶ月当たり1.5Lを六ヶ月分郵送の特典がついた[397]

なお、麻原は2千万円のベンツを教祖専用車としていた[231]

事業編集

オウム真理教は、宗教活動のかたわら、多彩な事業を行っていた。業種は、コンピューター事業、建設不動産出版印刷、食品販売、飲食業、さらに家庭教師派遣土木作業員などの人材派遣など多岐におよび、さながら総合商社の観を呈していた。数多くの法人を設立し、ワークと称して信者をほぼ無償で働かせていたため、利益率は高く、特に中心となっていたのはパソコンショップ『マハーポーシャ』の売り上げで、公安調査庁によると年間70億円以上の売り上げ(1999年当時)があり、純利益は20億円に迫る勢いであった。出家信者200人がそこで働いていた。95年11月からは「トライサル」「グレイスフル」「PCバンク」「PC REVO」「ソルブレインズ」「ネットバンク」と名称を変えコンピューター事業を継続した[410]

様々な業種に進出し集まった社員を教団に勧誘したり、オウム系企業グループ「太陽寂静同盟」を結成するという構想もあった[411]

コンピューター関係
飲食業
出版
その他
  • ドゥプニールミリオネール - ロシア射撃ツアーを企画。越川真一が代表[423]。後に株式会社アレフとなる(びっくりドンキーを経営するアレフとは無関係)[415]
    • 神聖真理発展社 - 資産隠し目的[424]
  • マハーサンパッティ[412] - 1992年1月24日設立。宝石屋、弁当屋、テレクラを経営[425]
  • アルス総合建築事務所[328]
  • アルファ企画家庭教師派遣グループ[426]
  • M24 - スーパーマーケット[426]
  • マイトリーバ・ベビーシッター - ベビーシッター派遣会社。二ノ宮耕一が代表[427]
  • ファインウォーター - 浄水器販売[415]
  • シーディーコレクター[415]
  • 日本健康クラブ - 化粧品・医薬品・食料品販売[415]
  • セシン - 建設業の人材派遣[415]
  • ドンファン - テレクラ[420]
  • スーパースターアカデミー(SSA) - エアロビクス教室。鹿島とも子が校長[428]
  • ヴァジラクマーラの会 - 美人信者による修行教室[329]
  • エ・ヴェーユ - 大阪に設立した能力開発塾。派手な化粧をした女性信者で勧誘していた[429]
偽装サークル
  • 日本印度化計画 - 1994年の早稲田大学学園祭に出店。筋肉少女帯の同名の曲や日本シャンバラ化計画との関係は不明[430]
  • 近未来研究所、ヨーガ同好会、中国武術研究会、インド化計画―カレー研究会 -1994年設立の大学ダミーサークル[415]
  • アクエリアスプロジェクト21、マイブーム研究会 - 東京大学[415]
  • 新世紀CIRCLE - 京都大学[415]
薬品・武器関連のダミー会社
不動産取得目的のダミー会社
  • 株式会社オウム - オウム神仙の会設立の年である1984年5月28日に設立。出版業の他、ヨガ教室を開催したりしていた。土地購入のダミー会社としても使用し、これが松本サリン事件の一因となる[438][439]
  • ジェービーテレコム有限会社[440]
  • 世界統一通商産業 - 早川紀代秀が代表[441]

この他、オウムの在家信者が社長を務める非破壊検査会社(95年解散)が信者を化学プラントのほか、原発にも派遣しており、福島第一福島第二原発浜岡原子力発電所などで作業した元信者によれば、各原発には5~10人の信者が入っていて、原発占拠や原発の爆破などは可能だったが、原発が教団に攻撃されなかったのは麻原が攻撃計画としてたまたま気がつかなかったためではないかと述べている[442]。若い真面目な信者は人手不足の原発で重宝され、業務のために内部の極秘情報なども容易に持ち出しせたという[442]

海外

ロシアでは輸入会社などを設立した。早川はロシア、ウクライナの他、北朝鮮にも出入りして兵器貿易を計画していたとの見方もあるが[443]、早川は北朝鮮に出入りしたことはないと逮捕後に語っている[444]

他にもスリランカの紅茶園などを経営していた[413]。1992年のスリランカツアーでは仏跡は訪問せず、買収する工場の見学ばかりしていたという[406]

海外での活動編集

ロシア編集

1991年(平成3年)には、麻原彰晃がロシア(当時はソビエト連邦)を初訪問した。当時のモスクワ放送もこの模様を伝え、クレムリン宮殿で宗教劇の上演が行われたことやアナトリー・ルキヤノフ最高会議議長と会談したことを報じた。モスクワにおいて麻原は、当時ロシア副大統領だったアレクサンドル・ルツコイロシア連邦首相ヴィクトル・チェルノムイルジン、モスクワ市長のユーリ・ルシコフ等、ロシア政界の上層部と接触。翌年には後に安全保障会議書記となるオレグ・ロボフが来日し麻原から資金援助の申し出を受けるなど、オウムのロシア進出に拍車がかかった。モスクワ放送(現・ロシアの声)の時間枠を買い取って「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」(御国の福音)というラジオ番組が1992年4月1日から1995年3月23日まで放送された。またロシアで「キーレーン」というオーケストラを組織。日本からロシアの施設での射撃訓練ツアーがオウム関連の旅行会社によって主催されたり、他にもロシアからヘリコプターなどが輸入されている。またロシアに数ヶ所の支部を開設。ソビエト連邦の崩壊後に精神的支柱が揺らいでいた当時、ロシアの多くの若者がオウム真理教に惹きつけられた。

オウム事件後、オウムはロシア北朝鮮のスパイだという陰謀説がまことしやかに語られるようになった。しかし一連の捜査・裁判により、化学兵器土谷正実が中心となり自力でつくったことが発覚した。新アメリカ安全保障センターも、オウムのサリン合成プロセスはロシアで主流の方法ではなくナチス・ドイツの方法に由来していると分析している[445]。また上祐史浩は「麻原は自分が一番であり、利用することはあっても配下になるタイプではない」とし、ロシア・北朝鮮陰謀説は「(オウム事件を陰謀としたい)Alephを助長している」と批判している[446]

2018年5月1日、ロシアのオウム真理教の中心人物とされるミハイル・ウスチャンツェフが逮捕された[447]

オーストラリア編集

マハーポーシャ・オーストラリアでは、1993年7月に50万エーカーの牧場(バンジャワーンステーション)を約50万オーストラリア・ドル(約3000万円)で購入した。オーストラリア連邦警察の調査で土壌からサリン分解生成物のメチルホスホン酸(MPA)が発見されたことで、教団が薬品類を持ち込み、化学物質を製造し、羊に対する毒性の実験を行っていたことが分かった[448][449][450]。しかし、CNASは、サリンが存在したと決定づけるにはメチルホスホン酸イソプロピル (IMPA) が検出される必要があり、メチルホスホン酸(MPA)は自然分解生成物が吸収された場合でも検出されること、そしてオウム幹部でオーストラリアにおける実験を証言した者がいないことに注目すべきであるとする[448]

訴訟・嫌がらせ編集

教団には弁護士青山吉伸がおり、批判に対し多数の訴訟を乱発していた。毎日新聞西日本新聞熊本日日新聞など初期からオウム報道をしていたマスコミも訴訟のターゲットとなり、事件発覚までマスコミがオウムへの追及を敬遠する一因となった[451]

さらに敵対者や脱会活動に対しては、

などの嫌がらせを行い、これらはエスカレートし数々の襲撃事件に至った。

被害者編集

一連のオウム真理教事件における被害者数は、死者47人、重軽傷者6600人以上[458]坂本弁護士事件死者3人、松本サリン事件では8人死亡、受傷者約600人、地下鉄サリン事件では14人死亡、受傷者は6千人を超えた[458]

教団内に関しては判明しているだけで死者5人、行方不明者は30人以上[7]。一連の事件に関与した教団幹部に対し、刑事裁判では13人の死刑判決、6人の無期懲役判決が出され、2018年7月、死刑囚13人の死刑が執行された[458]

弁護士の中村裕二は「もし、オウムの暴走をもっと早く止めることができていたならば,死刑囚も含め少なくとも60人の命が失われることはなかった」と述べている[458]

年表編集

1983-1986年編集

1983年 麻原彰晃こと松本智津夫、東京都渋谷区桜丘に、仙道ヨーガ東洋医学などを統合した(超)能力開発の指導を行う学習塾「鳳凰慶林館」を開設[459]
1984年2月14日 鳳凰慶林館に代わり「オウムの会」を東京都渋谷区で創設。当初はヨーガサークルであった[139]
1984年5月28日 株式会社オウム設立[439]
1985年9月 オカルト雑誌『ムー』10月号、『トワイライトゾーン』10月号に麻原の空中浮揚写真が掲載される[127]。麻原曰く、「あと1年ほどすれば空を自在に飛べるようになるはずです」[460][461]
1985年10月 麻原、「幻の超古代金属ヒヒイロカネは実在した!?」という記事を『ムー』11月号に掲載。岩手県にヒヒイロカネ探しに行った際、酒井勝軍と行動を共にしたという老人と会い、酒井が隠していたとするハルマゲドン予言を聞く。ヒヒイロカネ50名に読者プレゼント[462][463]
1985年 麻原、「アビラケツノミコト(神軍を率いる光の命)になれ」と啓示を受けたとする[464]
1986年4月 オウム神仙の会」に改称[127]
ステージ制導入[114]
1986年7月 麻原がヒマラヤで最終解脱したと主張する[127]
1986年9月 僧伽(出家制度)発足[127]
1986年 『超能力秘密の開発法』『生死を超える』出版[127]

1987年編集

1月4日 麻原、丹沢セミナーで「タントラ・ヴァジラヤーナ」「ポア」説法[465]
2月 大阪支部開設[139]
2月24日 ダライ・ラマ14世インドで会談[109][461]
7月 インド訪問。麻原、この時に現地の高僧からタントラ・ヴァジラヤーナを伝授されたとする[114]
8月 オウム真理教」に改称[139]。本部を渋谷区から世田谷区に移し、月刊誌『マハーヤーナ』発行開始[139]
富士宮市の土地取得[465]
11月 ニューヨーク支部を開設(初代支部長は上祐史浩[465]

1988年編集

3月 「血のイニシエーション」開始[465]
7月 日本シャンバラ化計画発表
7月6日 ダライ・ラマ14世とインドで会談[109][465]
8月 静岡県富士宮市富士山総本部を開設[139]
9月22日 在家信者死亡事件。富士山総本部に来ていた在家信者が修行中に死亡。遺体は、護摩壇で焼かれた上に、旧上九一色村精進湖へ遺棄
11月 江東区に東京総本部を開設[465]
11月5日 静岡県によるトンネル無断工事で県を告訴[466]
12月13日 富士山総本部でハルマゲドン後に生き残る条件は、を守る、シヴァ神グルへの帰依であると説く[90]

1989年編集

坂本弁護士事件で一時危機を迎えるも、事件が迷宮入りしたことでオウムは生き延びた。

2月10日 教団最初の殺人事件、男性信者殺害事件発生
2月 「滅亡の日」刊行。シヴァ神から「力で良い世界をつくる」タントラ修行者による諸国民の支配という神託を受けたと説く[90]
3月1日 東京都に対し宗教法人の認証申請
4月24日 東京都庁文化庁に麻原と信者約300人が押し寄せ、宗教法人早期認可を求め抗議[114]
5月1日 「滅亡から虚空へ」刊。オウムが頑張って多くの成就者を出すことができれば,ハルマゲドンの被害を少なくすることができると説いた[90]
6月22日 坂本堤弁護士らがオウム真理教被害対策弁護団を結成
8月16日 東京都選挙管理委員会に真理党の政治団体設立を届出
8月25日 宗教法人認可(8月29日設立登記)[139]
10月2日 サンデー毎日が「オウム真理教の狂気」の連載をスタートし、高額な布施未成年出家者に対する親権者監護権侵害などを取り上げ糾弾する。各メディアもこれに追随
10月9日
10月16日
麻原、文化放送の番組「梶原しげるの本気でDONDON」に出演しバッシングに対して反論[467][468]
10月中旬 毎日新聞社本社、文化放送、文化放送プロデューサーなどに対してビラ貼りや街宣車での嫌がらせを実施[469]。麻原、毎日新聞社の爆破やサンデー毎日編集長牧太郎の暗殺を構想
10月11日 麻原、テレビ朝日こんにちは2時」に出演。後の被害者の会代表永岡弘行と論争[461]
10月21日 オウム真理教被害者の会設立[149]
10月26日 フジテレビおはよう!ナイスデイ」でオウムが取り上げられる[461]
10月26日 青山吉伸上祐史浩早川紀代秀が東京放送(現・TBSテレビ)千代田分室を訪れ、取材内容に抗議、放送を中止するよう圧力をかける(TBSビデオ問題
10月31日 夜、青山吉伸上祐史浩早川紀代秀が横浜法律事務所を訪問した。10月29日に申し入れた事前の約束では青山1人の予定だった[470][471]
11月初頭 麻原、坂本堤の殺害を指示
11月4日 坂本弁護士一家殺害事件[471][472]。遺体はオウムが持ち出したため、失踪扱いに。周囲は当初から拉致と見ていた
11月7日 坂本堤弁護士に関して捜索願が提出された[472]
11月15日 坂本堤弁護士に関し公開捜査に切り替えられた[472]
11月18日 坂本堤弁護士に関し教団が記者会見し「(現場に落ちていたプルシャについて)坂本弁護士が被害者の会の親から預かったもの[注釈 13] か、第三者[注釈 14] が故意に置いたと考えるのが自然」「警察からは事情聴取も受けていない」「申し入れがあれば捜査に協力する」と発表[470][472]
11月19日 前夜の会見を受けてか日曜日にも関わらず神奈川県警察は教団幹部に事情聴取を申し入れたが、教団側は「集中修行の期間」を理由に事情聴取を拒否[472][注釈 15]
11月21日 11月19日に幹部事情聴取を拒否した理由である集中修行の期間であるにもかかわらず、幹部がオランダアムステルダムに出国[472]
11月29日 富士宮市議会で社会党の渡辺利光市議がオウム真理教について市当局に質問。富士宮総本部には7月に216人が住民登録されていたが、8月に東京都杉並区宮前のある住所[注釈 16] に向けて一斉に転出が始まり、11月1日までに17人に減ってしまったという[472]
11月30日 教団は西ドイツ(当時)・ボンで会見[472]。坂本堤弁護士失踪は横浜法律事務所が仕組んだ狂言だと主張[470]。一行にはドイツ語を話せるものがおらずボン支部へも道に迷い語学が堪能な記者が見かねて教えたという[470]
12月24日 読売テレビ制作のテレビアニメ「シティーハンター3」第11話に麻原彰晃の顔写真のコマが一瞬挿入される(サブリミナル)。1995年5月2日に発覚。読売テレビは同年5月23日付で郵政省(現:総務省)から「番組基準の遵守を問われるような放送を行い、社会問題を引き起こした」として注意の行政指導を受けた[473]
12月26日 雑誌「SPA!」(扶桑社)に麻原と中沢新一の対談が掲載される[465]
年末 一行はニューヨークから帰国後テレビの生番組にフル出演、その後さらにインドに渡り帰国[471]

1990年編集

選挙で惨敗しいよいよ武装化に着手。熊本に進出し住民との戦いも始まった。

1月7日 麻原自身を含む幹部25名が真理党を結成し中野文化センターにおいて第39回衆議院議員総選挙への出馬表明[471]。ただし演説したのは麻原だけ、他の24人は実質ホーリーネームでの出馬(選挙管理委員会に受理されなかったため、届出は本名で行い、選挙ポスターなどではホーリーネームの方を大きく掲示した)であった[471]。会場では麻原のお面をかぶった運動員が踊り、「ショーコーショーコー」と麻原の名前を連呼する歌を流し、集まった300人以上の信者が手拍子するという状態で、江川紹子は「選挙運動といっても、その実質は教団や教祖の宣伝」としていた[138][471]
2月10日 坂本弁護士一家殺害事件実行犯のひとり、岡崎一明が教団から3億円を持ち出し逃亡。後に3億は早川紀代秀に取り返されるが、岡崎は麻原に事件の口止め料を要求し、麻原から830万円を脅し取る[474]
2月16日 岡崎一明神奈川県警に遺体を埋めた場所を記した匿名手紙を送付。しかし警察は遺体発見に失敗[475]
2月18日 第39回衆議院議員総選挙執行。全員落選。これ以降、社会敵視傾向に拍車がかかる(オウム真理教の国家転覆計画
3月頃 麻原は幹部25人を集め「今の世の中はマハーヤーナでは救済できないことが分かったので、これからはヴァジラヤーナでいく。現代人は生きながらにして悪業を積むから、全世界にボツリヌス菌をまいてポアする。」と宣言。生物兵器ボツリヌス菌ボツリヌストキシンの研究を開始[90][465]
4月 石垣島セミナー。教団の立て直しに成功。ただし当初の目的であったボツリヌステロは実行できず
上九一色村に第2サティアン建設[465]
4月〜5月 首都圏にボツリヌス菌・ボツリヌストキシンを散布するが失敗
5月 日本シャンバラ化計画の一環として熊本県阿蘇郡波野村の土地を5000万円で入手・造成。シャンバラ精舎とする[164]
波野村でホスゲン爆弾計画開始[127]
6月1日 オウム真理教付属医院設立
8月3日 大阪府の父親4人が妻が子どもを連れて出家した事に対し人身保護請求を起こす(9月7日引き渡し命令)[461]
8月16日 オウム真理教国土利用計画法違反事件。熊本県が国土利用計画法森林法違反で教団を告発
広島でシクロヘキサノンを積んだオウムのトラックが乗用車に衝突し炎上、一般人1人が死亡。運転していた信者逮捕[476]
10月22日 波野村の教団施設が熊本県警の強制捜査を受ける。オウムは熊本県警内の信者から前もって強制捜査情報を入手し、隠蔽工作をしたので武装化は発覚しなかった。以後しばらく武装化を中断[127][160]
10月30日 国土法事件で早川紀代秀満生均史が出頭、逮捕
11月 国土法事件で青山吉伸石井久子大内利裕が逮捕[164]
11月21日 熊本日日新聞で特集連載「揺れる山里 ルポ オウム真理教」開始(1991.6まで)[461]

1991年編集

前年末の国土法事件と強制捜査を受けて武装化路線を中断し、文化活動にシフトした。

3月 ダンスオペレッタ「死と転生」公演開始[166]
3月7日 ニフティサーブに「オウム真理教会議室」を開設[461]
5月26日
6月9日
インド訪問[166]
6月 雑誌「03」6月号(新潮社)に麻原と荒俣宏の対談が掲載される[461]
7月3日
7月13日
インド訪問[166]
8月19日
8月26日
チベット訪問[166]
8月26日
8月31日
ラオス訪問。国賓待遇[166]
9月28日 テレビ朝日朝まで生テレビ!」にパネリストとして麻原と教団幹部が出演(#テレビとの関係参照)
9月30日
10月3日
スリランカ訪問[166]
10月 麻原、キリスト宣言。自分をキリストメシア)であるとする[166]
麻原、日本テレビとんねるずの生でダラダラいかせて」出演[461](#テレビとの関係参照)
雑誌「サンサーラ」10月号(徳間書店)に麻原と田原総一朗の対談が掲載される[461]
10月5日
10月12日
インド訪問[166]
11月 信州大学東北大学気象大学校東京大学京都大学、世田谷区民会館で麻原講演会[166]
モスクワにロシア日本大学設立[461]
11月4日 麻原、気象大学校学園祭で宗教学者島田裕巳と対談[461]
12月 雑誌「BRUTUS」12月15日号(マガジンハウス)に麻原と中沢新一の対談が掲載される[461]
12月18日 雑誌「SPA!」12月18日号(扶桑社)に宗教学者井上順孝、フォトジャーナリスト藤田庄市による麻原へのインタビューが掲載される[461]
12月30日 麻原、テレビ朝日ビートたけしのTVタックル」に出演[461](#テレビとの関係参照)

1992年編集

前年同様に文化活動を行っていたが、徐々に武装化を再開。

1月14日 マハーポーシャ設立
1月24日 マハーサンパッティ設立[139][425]
2月 来日したロシア共和国オレグ・ロボフらと会談。ロシア進出のきっかけとなる
雑誌「現代」2月号(講談社)に麻原と島田裕巳小森龍邦部落解放同盟書記長の対談が掲載される[461]
3月7日
3月16日
「ロシア救済ツアー」として約300名がロシア訪問[461][166]アレクサンドル・ルツコイ副大統領と会談
4月1日 オウム真理教放送「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」開始。ロシアから放送[477]
4月 雑誌「別冊太陽 No77 輪廻転生」(平凡社)に麻原と宗教学者山折哲雄の対談が掲載される[461]
5月 スリランカ訪問[477]
5月27日 教団が長野県松本市に取得した土地の地主が、売買賃貸契約の無効と土地の明け渡しを求めて教団を提訴(松本サリン事件のきっかけ)[461]
6月 不動産会社「マハーポーシャ・オーストラリア」を設立、教団の核開発計画のため、直後に500,000オーストラリアドル(約3000万円)で西オーストラリア州パースの北東700kmにあるレオノーラ地区バンジャウォーン(バンジャワン)牧場を購入した[478]
雑誌「BART」(集英社)に麻原とビートたけしの対談が掲載される[461]
6月16日 「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」、英語放送開始[477]
北海道大学、京都教育文化センター、名古屋大学で麻原講演会[477]
7月 インド訪問。ダライ・ラマ14世と会談[477]
スリランカ訪問。チャーター機の機長に機内食がまずいと言いがかりをつけトラブルに[477]
ブータン訪問。国賓待遇。麻原にブータン政府から「最聖」の称号を与えられたと発表[477]
炭疽菌研究開始。以後、徐々に武装化を再開[477]
9月 モスクワ支部を開設(初代支部長は新実智光[139]
麻原が新実智光遠藤誠一豊田亨ら幹部を含む25人の信者を連れてオーストラリアを訪問、バンジャウォーンでウランを探すため約1ヶ月滞在。パース空港到着時、一行が塩酸などの劇薬を所持していたことが明らかになり、遠藤誠一など2人が危険物持ち込みで罰金刑に処せられた。豊田亨は現地に「豊田研究所」と札のついた専門の化学実験室を持っていた[478]
9月14日 オカムラ鉄工乗っ取り事件
パソコン通信のBBS「オウム真理教ネット」開設[479]
10月 コンゴ訪問[477]
11月 キーレーン交響楽団結成
東京工業大学信州大学大阪大学千葉大学横浜国立大学東京大学京都大学で麻原講演会[477]。麻原、講演に同伴した村井秀夫ら信者に「またヴァジラヤーナを始めるぞ」と発言[90]
インド訪問。マハーボディ寺菩提樹の下に座りトラブルに[477]
11月19日 ロシアのテレビ局「ツー・バイ・ツー英語版」でオウムの宗教番組「真理探究」放送開始[480]
11月23日 京都大学で講演し「2000年までに破局が訪れる」と予言[139][注釈 17]
12月10日 南青山に東京総本部開設。同時に亀戸の旧総本部は新東京総本部と改称
12月18日 松本支部での説法で「93年の後半、特に10月以降急激に新しい変化」と予言[139]

1993年編集

生物兵器計画がことごとく失敗していた最中、サリンの製造に成功。

1月 台湾訪問[9]
3月 台湾訪問[9]
3月21日 麻原が杉並道場での説法で「1997年にハルマゲドンがある」旨の発言[139]
村井秀夫土谷正実にサリン製造を指示[481]
4月2日 化学薬品購入目的のダミー会社「長谷川ケミカル」設立[431]
4月8日 麻原が広島支部で説法、この頃から説法に「核兵器」「細菌兵器」「化学兵器」「軍備」という言葉が頻発するようになる[139]
4月9日 麻原が高知支部での説法で初めてサリンに言及[139]
5月 富士清流精舎建設[482]
6月 皇太子成婚パレード炭疽菌散布計画
6月6日 オウム真理教男性信者逆さ吊り死亡事件。遺体は幹部らによって遺棄
6月28日 第1次亀戸異臭事件。新東京総本部から炭疽菌を散布するが失敗
7月2日 第2次亀戸異臭事件
8月 土谷正実サリン合成に成功[482]。同時にサリンプラントの建設を開始(サリンプラント建設事件
首都圏に炭疽菌を散布皇居創価学会に炭疽菌を散布したが失敗[482]
8月4日 化学薬品購入目的のダミー会社「ベル・エポック」設立[431]
9月 インド訪問[9]
岐部哲也がアメリカでヘリ免許取得[483]
10月 麻原、教団が毒ガス攻撃を受けているとの主張を始める[482]
11月 サリン散布に使おうとしていた農薬散布用ラジコンヘリが岐部哲也の操縦ミスで大破[90][483]
第1次池田大作サリン襲撃未遂事件。サリンを使用した初の事例
ロシア訪問[9]
12月 PSI(パーフェクト・サルべーション・イニシエーション)開始(いわゆるヘッドギア)[465]
12月18日 第2次池田大作サリン襲撃未遂事件。現場警備担当の創価学会員数名負傷。実行時に防毒マスクを外した新実智光が重症
時期不明 化学薬品購入目的のダミー会社「下村化学」、ロシアへの射撃訓練ツアーを企画した「ドゥブニールミリオネール」などを設立[139]
神宮球場サリン散布計画

1994年編集

化学兵器や麻薬を手に入れたオウムはいっそう過激になり、多くの事件をおこした。

1月30日 薬剤師リンチ殺人事件
2月 中国本土訪問[200]
サリン30キロ(青色サリン溶液)製造[127]。後に滝本太郎弁護士サリン襲撃事件松本サリン事件で使用
18歳の少年信者が作業中に機械に挟まれ死亡[484]
2月21日 早川紀代秀村井秀夫渡部和実広瀬健一豊田亨がロシア訪問。AK-74自動小銃をカメラなどで計測[485]
2月27日 麻原、「東京にサリン70トンをぶちまくしかない」と幹部に説法[127][200]
2月28日 村井秀夫らがロシアよりAK-74部品を密輸入。密造計画を開始(自動小銃密造事件[127][200][485]
3月27日 宮崎県旅館経営者営利略取事件、被害者は5ヶ月間監禁され、解放後の9月2日に告訴
4月 富士川河口付近でサリン散布実験[200]
信者らがロシアを訪問し軍事訓練ツアー。化学兵器探知器、LSD原料、小銃弾などを持ち帰る[127]
村井秀夫土谷正実に爆薬サンプル製造を指示[127]
麻原、サリンプラント早期完成を指示[483]
5月1日 LSD密造開始
5月9日 滝本弁護士サリン襲撃事件
6月 村井秀夫土谷正実覚醒剤製造を指示[127]
キリストのイニシエーション、温熱療法、バルドーの悟りイニシエーション、Sチェック開始[483]
6月1日 Mi-17ヘリ到着[127]
6月20日 麻原、松本サリン事件の実行を指示[483]
6月27日 麻原の体調悪化に伴い省庁制の発足式を午前0時から都内うまかろう安かろう亭で挙行。22省庁を開設し大臣と次官を設置。当時の教祖、麻原は神聖法皇に。松本麗華を法皇官房長官とする[9]
夜、松本サリン事件長野地裁松本支部官舎に隣接する住宅街でサリンを噴霧し、8人を殺害。重軽傷600人。当初は被害者の一人であった河野義行に疑惑の目が集まった[486][486]
7月 覚醒剤密造開始
フランス訪問[9]
7月8日 信者が大火傷する騒動。土谷正実イペリットを検出[483]
7月9日 未明、第7サティアンに建設中のサリンプラントで薬品漏れ事故が発生。周辺で異臭騒ぎがあり、治療が必要な人的被害はなかったものの近くのブナなどの葉が褐色に変色、教団側は否定したが地元の人たちは発生源は教団だと確信していた[478][486]
7月10日 オウム真理教男性現役信者リンチ殺人事件。7月8日の騒動でスパイ疑惑をかけられた信者が拷問の末死亡
7月15日 元仙台支部長温熱死事件
夕方、7月9日に続き第7サティアンで再び異臭騒ぎ[478]
7月28日 女性看護師拉致監禁事件
7月30日 河野義行が退院して「顔も名前も出して結構です」として記者会見を開き、自らの無実を訴えた[486]
8月 ロシア訪問[9]
村井秀夫青酸ホスゲン製造を指示[127]
チオペンタールナトリウム密造開始[487]
8月10日 教団「雄叫び祭」を開催。内容は早食い大会やカラオケ大会など[488]
河野義行が病院で書いた手記が文藝春秋9月号に掲載されて発表され、この後徐々に報道の扱いが変化して行く[486]
8月
9月
土谷正実VXの合成に成功[489]
9月 滝本太郎弁護士VX毒殺未遂事件
機関誌「マハーヤーナ」に代わって過激路線の「ヴァジラヤーナ・サッチャ」が創刊される[200]
9月20日 江川紹子ホスゲン襲撃事件
10月7日 長野県警が同年7月に異臭騒ぎのあった第7サティアン付近の土を採取[490]
11月4日 滝本太郎弁護士ボツリヌス菌毒殺未遂事件
11月 10月7日に採取した第7サティアン付近の土を警察庁科学警察研究所で調べたところ、サリンの分解物メチルホスホン酸及びサリン製造の際の副生成物メチルホスホン酸イソプロピルが検知され、松本サリン事件で現場に残留していた副生成物とほぼ一致したことが判明[491][492][493]
強制捜査の噂が流れる[494][495]。強制捜査の噂によりサリンプラント建設を一時中断[494][495]
ニューナルコ開始[127]
サリンプラントで異臭騒ぎ[492]
12月2日 駐車場経営者VX襲撃事件
12月5日 鹿島とも子長女監禁事件
12月9日 大阪における拉致監禁事件。元自衛官を拉致[496][497]
12月10日 ピアニスト監禁事件
12月12日 会社員VX殺害事件
12月28日 三菱重工広島研究所侵入事件。レーザー兵器開発などのためのデータ収集[498]
12月 府中運転免許試験場侵入事件。偽免許証用のデータ収集[496]
時期不明 怪文書「松本サリン事件に関する一考察」が流通

1995年編集

教団の崩壊の年。逮捕者についてはオウム真理教事件#逮捕者を参照。

1月1日 「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」中で麻原彰晃は「95年は、社会的に見ても、世界的に見ても、非常に不安定な時代を迎えるわけだが、オウム真理教にとっては逆に外的な圧力は弱められ、大発展の年になるはずである」と予言したが、これは大きく外れた[499]
読売新聞が上九一色村の第7サティアン周辺でサリンを生成した際の残留物質である有機リン系化合物が検出されたとスクープ[478]、これを受けてサリンプラントを解体しシヴァ大神を祭った神殿に改装するよう麻原が指示。保有していたサリンも処分された
密造していたAK-74が完成
1月4日 上九一色村の教団施設にサリンを噴霧したとして、教団信徒18人が村内の肥料会社社長を殺人未遂罪で告訴。教団は会見を開いて毒ガス攻撃を受けているためサリン副生成物が検出された旨主張、上九一色村のオウム対策委員会副委員長で産業廃棄物処理業を営んでいた人などを殺人未遂罪で刑事告訴した旨明らかにした。これをきっかけに教団とサリンの関係を公然と論評するマスコミも出て来た[478]
オウム真理教被害者の会会長VX襲撃事件
1月8日 教団信者が占星術を用いて神戸で地震があることを「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」内で予言[225]
1月17日 阪神・淡路大震災発生。1月8日の予言的中と宣伝
1月 偽自動車免許証製造[496]
2月9日 1月4日に教団が行なった刑事告訴について、告訴された一人が麻原ら4人を誣告罪名誉毀損罪甲府地方検察庁に告訴、さらに教団と幹部4人を相手に1億円の慰謝料を求めて甲府地方裁判所に民事訴訟を提起[478]
2月28日 公証人役場事務長逮捕監禁致死事件、オウムに拉致された男性が死亡。犯行に使われたレンタカーから教団信者松本剛の指紋検出が報じられる
2月 エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」で「悔いの無い死を迎えようではないか」という麻原の音声の放送が始まる[500]
3月2日 麻原の誕生日に合わせメスカリン密造[501]
3月13日 「オウム真理教被害対策弁護団」の滝本太郎弁護士が警察庁長官検事総長宛に「本当にオウムがサリンを撒く可能性がある」と速達で上申[502]
麻原と信者らがトイザらス岡崎店に出没[503]
3月15日 霞ケ関駅アタッシェ事件。東京・霞ケ関駅構内で、オウムが設置した不審なアタッシェケース(中身は超音波振動による自動式のボツリヌストキシン噴霧器)が発見され、警視庁爆発物処理班が出動する
麻原と信者らが彦根市のファミレスに出没[503]
3月17日 複数の教団幹部のステージ昇格を伝える尊師通達が発令される(当月付けから7月付けまで計23名)
警察庁において警視庁機動隊捜査一課捜査員によるオウム真理教に対する一斉家宅捜索を3月22日に行う決定[491]
3月18日 「オウム真理教から被害者を救出する会」主催による1万人集会
リムジン謀議にて地下鉄サリン事件の実行が決定される
3月19日 脱会希望の大学生を拉致した容疑で大阪府警が教団大阪支部に家宅捜索、信者3名を逮捕
島田裕巳宅爆弾事件東京総本部火炎瓶事件
3月20日 地下鉄サリン事件。東京の営団地下鉄(現・東京地下鉄)でサリンを撒き、13人を殺害、約6000人が重軽傷
名古屋における拉致事件。信者の家族の高齢女性を拉致し資産を強奪[496]
3月22日 警視庁が公証人役場事務長逮捕監禁致死事件でオウム真理教信徒の逮捕状を取り、上九一色村の教団施設など1都2県の施設25カ所を一斉捜査
3月23日 「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」は「悔いの無い死を迎えようではないか」と「エンマの数え歌」(私はやってない~潔白だ~の歌)を放送し閉局[504]
3月30日 警察庁長官狙撃事件。オウム犯行説がある
4月1日 オウム真理教附属医院の佐々木正光医師が麻原について肝硬変Q熱、慢性心不全心内膜炎の疑い、皮膚炎と5つもの病名を挙げて「約1ヶ月の加療及びベッド上安静が必要であると判断する」との診断書を作成したが、5月16日に逮捕された麻原は健康上何の問題もなかった[505]
4月6日 岡崎一明坂本弁護士一家殺害事件の犯行を自供[506][507]
4月18日 ロシア全土における活動禁止命令[465]
4月23日 村井秀夫刺殺事件
5月5日 新宿駅青酸ガス事件
5月6日 林郁夫地下鉄サリン事件の実行を自供
5月16日 東京都庁小包爆弾事件
山梨県上九一色村の教団施設を一斉捜査。第6サティアン内にて麻原彰晃こと松本智津夫を逮捕[499]
6月30日 東京地方検察庁東京都が法人解散請求を東京地方裁判所に申請[508]
9月6日 再捜索で坂本弁護士と妻の遺体発見[509]
10月12日 初の実刑判決(岐部哲也に対し懲役1年)[465]
10月30日 東京地方裁判所宗教法人法に基づく解散命令を決定(同年12月確定)
10月31日
11月1日
米上院政府活動委員会の調査小委員会がこの期間に開いた公聴会で、CIAの調査とサム・ナンの執筆による、100ページ余りの『オウム真理教事件報告書』が提出される[510]
12月14日 村山富市首相がオウムへの破防法適用方針を了承[483]
12月 国会で宗教法人法改正法が成立

1996年以降編集

アレフ(現Aleph)への再編。

1996年1月18日 破防法第1回弁明手続
1996年1月30日 宗教法人オウム真理教解散命令事件宗教法人格を喪失
1996年4月5日 破防法第2回弁明手続
1996年4月24日 麻原初公判
1996年5月15日 破防法第3回弁明手続(麻原出席)
1996年5月28日 破防法第4回弁明手続(麻原出席)
1996年6月 ウェブサイト「オウム破防法適用で民主主義が危ない!」開設[248]
1996年6月19日 麻原に代わり、長男(当時3歳)と次男(当時2歳)の二人を「教祖」とした。麻原の地位は「開祖」に
1996年6月21日 破防法第5回弁明手続
1996年6月28日 破防法第6回弁明手続
1996年8月24日
10月下旬
麻原逮捕後の信者の引き締めを目的とする「観念崩壊セミナー」が、松本麗華が中心となり断続的に行われ、多くの負傷者を出した[9]
1996年10月 公式サイト「INTERNETオウム真理教」開設[248]
1996年12月11日 林泰男玉川上水に隠したVX30~40グラムが発見される[465]
1997年1月31日 公安審査委員会、オウム真理教への破壊活動防止法の適用を棄却
1997年 上九一色村に最後まで残っていた信者達の撤収後、村にあったサティアンの多くは閉鎖、取り壊された(第7サティアンサリンプラントのみ捜査のため残っていた)
パソコン事業で教団維持に成功[511]
1998年 長野県に核シェルター建設開始(後に中止)[512][513]
1998年10月23日 初の死刑判決(岡崎一明[465]
1998年12月 上九一色村に最後まで残った第7サティアンが解体される[461]
1999年4月 東京都内の繁華街で“復活”をアピール[514]
1999年9月29日 オウム真理教休眠宣言
1999年12月3日 団体規制法と破産特別法が成立
1999年12月29日 上祐史浩出所
2000年2月1日 団体規制法に基づく公安調査庁長官の観察処分(3年間)が効力発生
2000年2月4日 「宗教団体・アレフ」として再編
2000年7月1日 ロシア麻原彰晃こと松本智津夫の武力奪還・対日テロを図ったオウム信者逮捕シガチョフ事件
2004年2月27日 東京地裁、麻原に死刑判決
2006年9月15日 最高裁、麻原弁護団の特別抗告を棄却し死刑確定
2011年12月31日 平田信が警視庁丸の内警察署出頭。翌日に逮捕監禁致死の容疑で逮捕
2012年6月3日 菊地直子相模原市内の潜伏先で身柄を確保された[515]
2012年6月15日 高橋克也が東京都大田区の漫画喫茶内で身柄を確保される。これによりオウム関連の特別指名手配者はすべて確保された
2018年1月25日 オウム事件全裁判終結[516]
2018年7月6日 オウム真理教元代表、麻原彰晃こと松本智津夫及び関係者らの死刑執行[517][518]
2018年7月26日 オウム真理教事件に関与した残りの死刑囚の刑が執行された[519]

評価編集

著名人編集

オウム真理教は文化人・有名人と盛んに対談し、著名人の発言を教団が発行する雑誌・刊行物「ヴァジラヤーナ・サッチャ」「本物の時代」「選択」などにおいて、「知識人・有名人も認める」と称し繰り返し紹介した[520]。こうした著名人の評価をきっかけに入団した者も多数いる。教団と交流があった著名人の多くは事件後一変してオウム批判に転じた。

  • 作家の荒俣宏は「私は麻原尊師に限りない好感を抱いた。恐らく解脱した者は幼児のように他愛もないか、あるいは阿修羅のように熱狂的であるかの、どちらかだろう。(略)麻原彰晃がほんものの解脱者として、彼が示す寛大な姿勢は、明らかに前者の例と言える」と雑誌「ゼロサン」1991年6月号(新潮社)で賞賛した[520]
  • ビートたけしは1991年12月30日に放送されたテレビ番組「ビートたけしのTVタックル年末スペシャル」(テレビ朝日)で麻原と対談し[521]、その後雑誌『BART』1992年6月22日号(集英社)で再び麻原と対談した[520]。事件後は否定的な見解を取っている。
  • 思想家の吉本隆明は雑誌「CUT」(ロッキング・オン)1992年5月号において、麻原の著書『生死を超える』の書評を発表し、「この本を読んでいるとヨーガの肉体的な修練が、なぜ仏教的な世界観である生死を超える理念をつくるところにたどりつくかが、一個のヨーガ修熟者の記述を介して『普通の人間』にも実感的にわからせるところがある。この記述は貴重なものというべきだ」と麻原を修行者として高く評価した[520]。その後、オウム事件発覚後の産経新聞1995年9月5日夕刊に掲載された弓山達也との対談で吉本は、「オウムの犯罪を根底的に否定する」としながらも、なお「オウム真理教はそんなに否定すべき殺人集団ではない」「麻原は現存する世界有数の宗教家」などと述べた[522]。仏教学者定方晟は吉本のオウム論を批判した[523]
  • 栗本慎一郎は1992年に雑誌で「麻原さんのように煩悩を越えられた方は非常に素晴らしいし、そこからの教えを説いていっていただきたいと思います」と麻原に語った[524][520]。しかし、サリン事件後は、オウムと統一協会北朝鮮との関係を指摘し[525]、「血のイニシエーション」などの血を飲むと良くなるという血分けの儀式は、朴泰善や統一教会の文鮮明らの朝鮮半島のキリスト教新宗教の影響下にあると指摘した[526][527]

宗教家など編集

  • 一時麻原が師と仰いだパイロット・ババは1980年代から麻原に警告しており、麻原がババから伝授された修行を多額の金銭と引き替えに伝授しているがそれでは破滅すると警告した[89]。またババは麻原は子供の病気を理由に修行を途中で抜け出しており、自分が麻原を導き損なったことに責任を感じると述べている[89]。当時の麻原は行者として優れている面があったが、「私が救済する」と主張、この考え方はプライドなどのエゴで、麻原はプライド等の煩悩が関係するアナハタチャクラのレベルで修行が止まったとコメントした[89]。また、パイロット・ババのグループは、ヨーガの修行では一時的にサマディなどの超常的な瞑想体験をすることがあるが、それで解脱したと錯覚する危険があるため行法を安易に教えることは不適切な場合もある。重要なことはサマディ自体ではなく、その後の人格の向上であり、修行者は真我(アートマン)に返るべきであり、グルは導き手にすぎないとヨーガ修行者に警告している[89]
  • サムドン・リンポチェ元チベット亡命政府首相は、1986年に空港で麻原と会ったことがあるが(前述)、「彼は全く普通の人間に見えた。精神的な輝きは感じられなかった。」と評し、オウム事件に対して「宗教に仕える者が考えることではない。イリュージョンと狂気。考えが、本人にも収拾のつかない方向に暴走してしまったのでしょう」と語った[92]
  • ヨーガ行者雨宮第二(ダンテス・ダイジ)は麻原と親交があったが、1986年に麻原が最終解脱したと雑誌で主張したことに対して「そんなことをすれば地獄に落ちる」と電話で厳しくとがめ、両者は決裂した[89]
  • 麻原彰晃林郁夫らがかつて所属していた阿含宗の教祖桐山靖雄は、信者がオウムに流れていることに対して「あの若造め生意気な」と激怒していた[528]
  • ノストラダムスの大予言』の著者五島勉は2018年週刊文春のインタビューでオウムとノストラダムスとの関係について聞かれると、「オウムとノストラダムスは関係ありません。オウムがノストラダムスの名前を勝手に利用しただけです」「ノストラダムスの予言で危機を起こすと想定されているのは、米ソの核や生物化学兵器など、もっと大きな軍備です。それを一人の変なやつ(※麻原)が命令を下して、しかも権力をやっつけるんじゃなくて、自国の国民にサリンをまいたわけでしょう。そこのところが、どう思うも何も間違いです。」「ただ、それもやっぱり私の本に影響されてあの人たちが何か起こしたというなら本当に私も悪いわけで、それは謝りますけど、よく調べてみると、オウムの麻原たちがよりどころにしたノストラダムスの本というのは私の本と違う」(川尻徹『滅亡のシナリオ』のこと)「でも、ノストラダムスの影響というときにはぜんぶ私のせいになっちゃうんです。今、私がそれを言ってもしょうがないから、あんまり言いたくないんですけど。」と答えている[529]。五島は「(ただの新書を)まさかこんなに子どもたちが読むとは思わなかった。なんと小学生まで読んで、そのまま信じ込んじゃった。(略)当時の子どもたちには謝りたい」と謝罪している[529]

ジャーナリストなど編集

  • 立花隆は、麻原は本人が自分の作り話を真実であると信じきってしまう空想虚言症だったと指摘している[530]
  • フォトジャーナリスト藤田庄市によれば、宗教の根幹には神秘体験、つまり超自然的な存在・力と個人との結び付きがあるが、麻原も自らの神秘体験を強く確信した[531]。オウム事件は救済を目指して起こったのであり、新実智光は人々を救済するために善意で殺したので「菩薩の所業」「慈悲殺人」であるとした[531]。事件の再発を防ぐには、事実関係だけでなく、信者たちの神秘体験・宗教的体験の内面にまで踏み込む調査が必要とする[531]
  • 作家の藤原新也は、熊本県波野村は麻原の故郷の八代まで車で二時間程の距離であり、麻原にとって波野村への定住計画は、故郷回帰または故郷に錦を飾る行為だったのではないか、しかし村から拒絶され追放されたことで、日本世間への怨嗟の感情を選挙での惨敗以上に決定づけたのではないかと推測している[532]
  • 劇作家の山崎哲は、戦後日本は生命に直接触れることを隠してきたが、それを一挙に崩したのがオウム事件の本質であり、江川紹子らは市民社会の正義を絶えず背負うが、それは中流意識にすぎず、親鸞の言い方ではサリンによる殺人者(悪人)も救われる、オウムを産んだのは日本社会であり、この社会についても内省すべきだ、と発言した[533]

CNAS編集

アメリカの新アメリカ安全保障センター(CNAS)代表(当時)で元米海軍長官のリチャード・ダンジグ(Richard Danzig)らは教団元幹部の中川と土谷に面会するなど日本での現地調査を行い、2011年7月20日、報告書Aum Shinrikyo: Insights Into How Terrorists Develop Biological and Chemical Weaponsを公表した。CNAS報告書は「諜報機関と捜査当局は、一見すると奇妙だが無害に見える小さな団体であっても目を光らせる必要がある」と警告した[534]。ダンジグらは、生物化学兵器によるテロを試みたのは世界で唯一オウム真理教だけであるが、徹底的な分析や検証が行われているとは言い難く、日本当局がオウム事件に対して無関心であることが理解できないと警告している[535]

宗教学とオウム真理教編集

中沢新一編集

作家で宗教学者の中沢新一SPA!1989年12月6日号[536]で初めて麻原と対談した[537]

中沢「例の弁護士さん一家失踪という不可解な事件のことです。これについて、本当のところをお聞かせ願えませんか。オウム真理教をいまの時期、弁護しなきゃいけないという義務を感じているものですから(笑)」

麻原「(略)オウム真理教が(そんな事件を)やる意味は、全く見当たらないのです」
中沢「では、「尊師」は「先生」を前に、はっきり否定されるわけですね」
麻原「はい。もちろん否定します」
中沢「それなら、“弁護士”としても気が楽になりますけどね。若い連中が、麻原さんの気づかないところでやっちゃったということも、ないですよね(笑い)」
麻原 「もちろんですよ」

中沢 「管理不行き届きだったりして(笑い)」 — SPA!1989年12月6日号「オウム真理教教祖がすべてを告白 ”狂気”がなければ宗教じゃない」[537][538]

この対談で麻原は「狂気の悟りを目指している」「病理としての狂気と悟りとしての狂気ははっきりと違う」[135]、「オウム真理教は、もともと反社会的な宗教なのです」と語り、中沢は「生命と意識の根源にたどりつこうとするならば、どうしてもそれは反社会性や、狂気としての性格を帯びるようになる」としカギュ派のニョンパ、革命前のロシア正教アッシジの聖フランチェスコにも「聖なる風狂者」、風狂的修行者がいたと述べた[537]SPA!同年12月16日号でも中沢は麻原と対談した。

中沢は週刊ポスト1989年12月8日号「誰も言わないバッシングの構造を明かす オウム真理教のどこが悪いのか」で、麻原との対談をまとめ[539]、麻原を「小学生のおもちゃ」と褒め[540]、麻原を「顔に似合わずとても高度なことを考えている人で高い意識状態を体験している人」と認めた[135]BRUTUS1991年12月15日号でも二人は対談した。

地下鉄サリン事件後、1995年4月から5月にかけて『週刊プレイボーイ』で中沢はコメントを述べた。4月18日号[541] では、文学者も思想家もオウムが日本人の精神史にとって非常に大きな意味を持つことを理解していないと批判し[542]ロシア革命昭和維新連合赤軍などを挙げ、「なぜ彼らは革命を志さなくてはならなかったのか。(略)人類の宗教思想の根源にまで行き着く問題です。」「宗教運動は<社会に生きる自分は本来の自分じゃないという自分の内面の声に従いなさい>ということから始まる。それは当然、<反社会>につながる」と論じた[543]。4月25日号[544]では麻原に自分の本が影響を与えたことを認めながら、しかし宗教を本来の意味で追求するなら教団を作ってはいけなかったとし、「(オウムが)しょせん、宗教でしかなかったところが残念でならない」「宗教学者・中沢新一なんてもう終わりにします。そんな奴は死んだのです」と語った [545]。麻原逮捕直後に販売された5月30日号[546]では、「聖なる狂気(デヴァイン・マッドネス)」という言葉にすばやい反応と正確な理解をしめしたのは麻原がはじめてだったとして、この「聖なる狂気」とは宗教の本質であり、人間には「社会の常識によって囲い込まれた、狭い枠を破っていこうとする衝動」「より高いもの、より純粋なもの、より自由なものに向かっていこうとする衝動」がひそんでおり、「その衝動を、現実の世界の中で実現しようとすれば、まずは社会の常識と衝突することになります。(中略)麻原さんは、日本人の宗教に欠けているのは、そういう反逆のスピリットなのだ、と強調しました。そのときの麻原さんは、宗教家というよりも、革命家のような口調でしたが、私はそのとき、ああ、これで現代日本にもラジニーシのようなタイプのラジカルな宗教家が、はじめて出現することになった」と語り[547]、信者に対しては、オウムに関わったことを否定する必要はないが、魂の修行者に戻る所などない、一人の人間にすぎないグルから自立すべきだと訴えた[548]

1995年5月頃、元信者の高橋英利に対して中沢は、宗教には狂気や凶暴性があり、「(サリン事件の犠牲者が)一万人とか、二万人の規模だったら別の意味合いがあった」と語り[549]、また別の元信者にも「一万人、二万人規模の人間が死ねば、東京の霊的磁場が劇的に変化する」と発言したという[550] [551]。高橋がサリンを正当化できないというと中沢は「君は宗教の入り口にも到達できなかった」と言い、さらに高橋がグルへの絶対帰依を主張するグルイズム及びチベット密教には危険があるのではないかと度々質問すると中沢から絶交を言い渡された [552]

1995年6月広告批評[553]で、橋爪大三郎がオウムがやったのは「ちゃちな勝手な妄想による殺人で、革命とは言わせない」と発言すると、中沢は「でも、今度のことが本当にちゃちなことであったかどうかは、まだわからないじゃないですか。もっと大きな計画の一部だった可能性がある」と反論した[554]

1995年7月には中央大学[555]で、麻原のヨーガはインドの水準でも高いレベルにあると述べ、もしも麻原が殺人者であることを堂々と言ってそれを持続したら、「この自己解体ぶりにおける覚悟のほどは、宗教思想としてはちょっとすごいこと」と評価し、麻原は最初から目的を持っていたとして、それは今回の事件では未遂に終わったハルマゲドンがもっと大きな規模で行われていたら出現してくるものだと述べた[556]

一方、1995年7月の岩上安身との対談で中沢は、麻原を「泥の海の中のちっちゃな宝石」という印象を受けたが、既存の社会倫理を逸脱するようなティローパとナローパ師弟の逸話は、寓話として読むべきなのに、余裕とユーモアの足りないオウムの人々が、字義通りに読んでしまったことが問題だったと述べた[557][558]

諸君!1995年8月号の対談で批評家の浅田彰は、中沢の本を読んで入信した「ユーモアもわからない単なる馬鹿」がいたとして、「書き手はそんな愚かな読者のことまで責任を取れない」と述べ、中沢は笑いのために書かれた本が生真面目に誤読されてしまう不幸はドンキホーテ以来防げないと同意した[559][560]

「宝島30」1996年1月号の匿名座談会では、中沢が「江川紹子は統一教会信者で、在日朝鮮人である」とするデマや、また麻原は中上健次にそっくりで被差別部落出身であり「オウム事件は非差別者による革命だ」「密教はカーストを破棄する革命理論に転化しうる」と吹聴していたと語られており、島田はこれは匿名座談会なので信憑性に問題があるが、この件は他の情報提供者からも確認したという[561]。中沢は「宝島30」記事について事実ではないと否定している[562]

中沢と東京大学宗教学研究室で同門だった島田裕巳は著作やオンライン雑誌などで中沢を批判している[563] 。島田によれば、中沢は「サリン事件の被害者がもっと多かったら別の意味合いがあった」と発言しているが、その背景には暴力革命を目指した武装共産党の影響を中沢が受けているためではないかと指摘している[564]。中沢の父親の中沢厚は日本共産党の市会議員の民俗学者、叔父の中沢護人も日本共産党に所属のち離党した科学技術史家で、中沢は子供の頃、「アカの子ども」と言われていじめを受けており、中沢は根っからのコミュニストではないかと島田はいう[565]。また島田は「虹の階梯」が神秘体験のイメージを提供し、麻原が具体的な修行を提供したのであり、「虹の階梯」なしにオウムの急拡大は不可能だったと指摘する[566]。中沢は麻原と雑誌などで何度も対談し、交流を深めており、中沢には宗教学者としてだけでなく、アジテーターとしての責任もあり[567]、さらに中沢は「オウム真理教の第二の教祖」「隠れた教祖」「隠れたグル」であるとさえ言えると島田はいう[568]。中沢はオウムに霊的革命を実践する運動体として期待をかけ、オウムもその期待に答えた結果、大規模な破壊に基づく暴力のパフォーマンスを実践したのではないかと論じた[569]。このような島田の中沢批判に対して中沢は無反応だった[564]。島田はまた東日本大震災後に中沢が始めたグリーン・アクティブについて、そうした運動をするならば、まずはオウムとの関係や当時の自分の教団や社会への影響を沈黙せず語って総括すべきだとした[564]

脳機能学者苫米地英人も中沢を批判する著作を発表しており[570]、「オウム事件に内乱予備罪や破防法が適用されていたら、十分彼(中沢)も容疑者の一員になってもおかしくない」とも述べ、中沢は石川公一と関係が深かったと述べている[571][572]

大田俊寛は、中沢はエキゾチックなものの探求の末に自民族の精神的古層を崇高とする自民族中心主義を踏襲する「凡庸なロマン主義者」であるとする[564]。中沢は1986年に「チベット仏教を研究するユダヤ人は頭はいいが、東洋人ならわかる微妙なものがわからない」と述べ[573]、1988年には「ゲッベルスだってゲーリングだって、初期のファシズムの思想家は、みんな仏教フリークだった[注釈 18]」「ファシズムは悪だと最初から決めつけるべきではない」と語り[574]、オウム事件以降の『ブッダの夢』(1998)では「ユダヤ教は最初から倫理道徳を立てて神が命令を下すのに対して東洋思想は快不快から出発して幸福を考える」とし、「ユダヤ人は知性は高いが霊性が低い」「資本主義を推し進めたマネーの原理のなかにもユダヤ原理が含まれる」と発言[575]、『日本の大転換』(2011)では、一神教的・ユダヤ的な原子力と資本主義は、生命的な生態圏と精神的な生態圏にたいして外部的なふるまいをおこなうことによって深刻なリスクをもたらすとし、日本の「生態圏」を守るために一神教的・ユダヤ的原理からの脱却が唱えられる[576][577]。このように中沢はオウム事件以前以後も一貫して反ユダヤ・親ナチス発言を繰り返しており、これがオウムと共鳴した原因ではないかと大田はいう[564]

「虹の階梯」とオウム編集

中沢新一は1981年に阿含宗系の平河出版社からラマ・ケツン・サンポ共著『虹の階梯』を出版した。この本は、麻原に多大な影響を与え[288]、おおえまさのり訳編『ミラレパ』(1976年)[578]とともに、オウムでのポア教義の典拠とされ[301][273]、麻原に神秘体験のイメージと具体的な修行を提供したとされる[566]

『虹の階梯』では、ポワには 1.法身のポワ(最高度) 2.報身のポワ 3.変化身のポワ(以上、密教修行者のための技法) 4.凡夫のポワ 5.死者のポワ(バルド(中有)の状態に通じている密教修行者が臨終間際に意識を転移させる) の5つがあり、同書では凡夫のポワが説かれる[579][580]。この「凡夫のポワ」は、十分な修行を行っていない人間や、身近に修行者がいない場合に、死に臨んで実践されるもので、また殺人といった大罪を犯した場合でも、その罪を悔いてポワの修行を行えば、地獄に陥ることは避けられると説かれた[579][581]。また、ラマから教えを得るためには、ラマに全てを投げ出すような純粋な信頼を託して、その教えを瓶の水をそっくり別の瓶に移し変えるような気がまえで学び取る、自分の身体を犠牲にしてかえりみないほどの心がまえがいると説かれた[582][583]

なお、1993年の「改稿 虹の階梯」(中公文庫)では新たにロンチェンパ「三十の心からなる戒め」が追加された。その一部は以下の通りである。

手練手管でたくさんの信者をまわりに集め大いに栄える寺の財産を手に入れる。だが、それもいさかいのもととなり、自我への執着の因となる。ただ一人であること、これこそ、私の心からなる戒めだ。


みずから偉大であろうとして、他人にダルマを説き、たくらみを弄して、富貴な人や素朴な人を、自分の取り巻きにする。粗大なる実体に執着する心は、驕り高ぶった心を生む因となる。遠大な計画を持たないこと。これこそ、私の心からなる戒めだ。 — 「改稿 虹の階梯」中公文庫,p.619-633.

チベット学者の山口瑞鳳は、「虹の階梯」は心地よい哲学的な言葉で書かれているが、矛盾が多く、例えば実体がないと強調されながら、魂が永遠に連続するとされていることは致命的な欠陥だと指摘する[584][585]。中沢の学んだニンマ派は、存在はそのままで悟りを得ていると言う本覚思想に基づく中国禅宗の影響を受けて、修行を不要とする「無修道主義」を唱え、17世紀には無修道主義の「死者の書」が書かれた[586]

島田裕巳編集

作家宗教学者島田裕巳は事件前、オウム真理教に好意的な発言をしていた。島田のオウムに関する最初の論考は1990年7月『別冊宝島』114号に掲載された「オウム真理教はディズニーランドである」で、オウムにはディズニーランドのような演劇的空間という側面があり、信者たちは安っぽい宗教的なグッズを集めて楽しんでいると論じた[587]。島田は1990年12月に波野村の「シャンバラ精舎」を視察し、ヤマギシより立派な活動と評価し[588]、「オウムには狂信的な部分は少なく、信者を強制的に隔離して洗脳を行っているようには見えなかった」と報告した[589]週刊朝日1991年10月11日号では「オウムは特異な集団に見えるが、むしろ仏教の伝統を正しく受け継いでいる」と評価し、朝まで生テレビ出演時には「非常に東洋的な宗教の伝統の上にあるというのは間違いない」と発言した[520]。また麻原と気象大学校で対談した[590][588]。一方、幸福の科学を「実体のないバブル宗教」[591]「宗教的なイニシエーションを果たしていない子どもの集まり」[592]と批判、幸福の科学から激しい抗議を受けたが、こうした幸福の科学や既成仏教に対する批判において、麻原と意見が一致した[588]

1995年1月にサティアン付近でサリンが検出されたという報道されて後、島田は第七サティアンを訪問し、これはサリンプラントでなく神殿であると断言、オウムがサリン生成したというのは「お話」で、また教団がアメリカに攻撃されているのも「お話」であると述べた[593][594]

地下鉄サリン事件直後の1995年3月22日東京新聞で島田は、修行は外部の人には理解できないし、布施には利害が絡むので社会とあつれきを生むのは必然的だが、教団はゆっくり発展していくと論じた。しかし週刊文春3月23日号で江川紹子に「オウムに興味ないもん」と語り、5月22日東京新聞では「(第七サティアンのルポの時)オウムに関心がなかった」、週刊ポスト5月26日号では「僕が見誤っていたとすれば、みんなも見誤っていた」と述べ、新潮45(1995年6月号)「私はオウムに騙されていた」で自分も被害者だと述べ、12月2日スポーツニッポンで「教義には関心がなく、社会と宗教の関わりを調べたかっただけ」と連続して弁解していった[595]。島田は事件へのオウムの関与を否定したとして、江川紹子有田芳生浅見定雄らから批判を受けた[596][597]

2001年に島田はオウムを批判する著作『オウム―なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』(トランスビュー)を発表。また島田は、麻原にはギャルに囲まれながらシャンプーについて話す一面もあり、人間像がひとつに定まらない。そんな麻原の魅力に惹きつけられ、教団に入信した人も多かったと述べる[587]ほか、オウムが宗教研究(宗教学)を利用して組織をつくり上げたということでいうと「宗教学はオウムの何人かいる"生みの親"のひとりであることは間違いない」と述べている[588]。宗教情報センターは島田は著書「オウム」で自分の見誤りについて宗教学の方法論に転嫁している[598]と批判している[595]

山折哲雄編集

宗教学者山折哲雄は坂本弁護士一家行方不明後の1989年12月27日熊本日日新聞で「オウムのような新宗教にはミステリアスな話題も盛りだくさんだ。(略)われわれは敗戦後この方、こうした現象をどれほどみせつけられたか、ああ、またか、という思いにかられる」と嘆息し、1991年4月には「流入者を排除する「村」の掟」と題して波野村で「オウムが袋だたきにあっている」「淫祠邪教退治なんていうドラマは、戦前の話かと思っていたら、ドッコイとんやはそうはおろさなかった」として、これは「ドタバタ喜劇」だとした上で、オウム信者はまことに自由な雰囲気の中で瞑想や修行に打ちこんでおり、信者はかつての家庭や職場にいるときよりはるかに大きく精神の自由を感じ、その生活を心から楽しんでいる、また教祖は盲目で、聞くことに全神経を集中させており、麻原の安定した温顔と悠揚迫らぬ態度はそこから生み出されたとして、オウムは淫祠邪教ではないと断言した[599][600]。また、山折は麻原との1992年4月の対談で、聖者の中には聖フランシス、ロヨラなど盲目、修行で失明した者がいるが、「私は麻原さんをテレビなどで拝見していて、そういう人たちに近い体験をされているのだろうなと思っておりまして」と述べ、さらにイエスや日蓮のように宗教者にとって迫害は必然で、「時代の常識や価値観に根本的に挑戦することではじめて存在理由が出てくる。それをしなければ宗教の意味はない」「宗教集団としては、最後まで俗世間の法律は無視するという手もある」と助言した[601][602]

地下鉄サリン事件後の1995年3月22日朝日新聞で山折は、麻原と対談したころとギャップがある、「教団が別のものに乗っ取られてしまったのではないか」[603]。「諸君」1995年6月号ではオウムの暴走と狂気を、我々がすむ近代社会の中にしっかり位置づけることが必要[604][605]。同年6月28日朝日新聞で、宗教がきれいな面だけでないことを学校で教えるべき。十字軍のように宗教の名の下に戦争をしたり、人々から金を搾り取ったことは歴史にいくらでもある、オウムは特殊ではない、これを異常な例として片付けてしまうと、何の教訓も残らないと警告した。同年7月20日毎日新聞では、西欧近代と日本伝統文化を和魂洋才としてバランスをとってきたが、オウム現象ではそのバランスが決定的に崩れた。8月2日朝日新聞では、宗教は社会への不満から始まる反俗的なもので、世俗の倫理を否定し、別の価値観に基づいて救済を求める。オウムだけでなくキリスト教も仏教も、既成秩序から見ればみな邪宗だと論じた。1996年4月25日日本経済新聞では、専門知識偏重で人間が欠落した教育システムが事件の背景にあるとし、オウム事件は70年代の大学紛争が積み残した問いかけを含むと語った。

このように山折哲雄は一貫して事件前の自分の発言や責任を棚にあげ、日本社会というマクロの問題に論点をずらしたり、比較宗教史的一般化を積み重ねるが、こうした言い方だけでは事件の解明や反省、また予防に資するところはなく、「宗教はどれも反社会的」「宗教による殺人や戦争は歴史でよくある」と言っても、「よくあることだから、現実的な問題や被害は度外視していい」ということにはならないと宗教情報センターは批判する[606]

その他の宗教学者の見解編集

  • 島薗進は、新宗教における「隔離型教団」の代表的な例としてエホバの証人統一教会幸福会ヤマギシ会と共にオウム真理教をあげ[607]、他宗教団体と比較した上で、とくに、人生の価値を非常に低く見る点を徹底した教えが説かれていると主張している[608]。自分自身を仏教の系譜上に位置づけ、天皇への崇敬を示すことは全くないが、ハルマゲドンの危機に際し日本主導による未来を説いた[609]。島薗は、オウムに見られる日本中心的な思考については、首尾一貫していないとしている[609]
  • 宗教学者の高島淳は、オウム真理教のようにアートマン(真我)論 と無明の論理が無批判に結合すると、真我の本来の属性であるはずの 「絶対自由」 (意欲作用)を 「無明」として滅していくという矛盾した修行体系になり、また、人格的な絶対者の要素が欠けているため、真の自己の成就を求めると言いながら、 実際には自己の滅却に帰結することになると指摘している[610]。また、シヴァ教での出家は共同体を捨て、 絶対的な個人として自力の道を歩まなく てはならないが、オウム真理教における出家とは、麻原を擬似的父親とする擬制家族への再編入であったとし、「その擬制家族において幼児のように父親の無謬性を信じる弟子たちは、 父親が誤りを犯すたびに、それが誤りではないことを示すための理論を構築しながらますますひどい誤りを積み重ねていったのではないかと指摘している[610]
  • 宗教学者の渡辺学は、麻原のように自己を絶対視する人間の組織においては批判は不可能になるし、「教祖が最終解脱者だと宣言した段階で、彼は全ての批判を超えた存在になっており、それにコミットした人がオウムの信者であるわけですから、もはや制御できない状況」となる[611]。さらに新宗教やカルトにハマる人は伝統とは違ったものを求めていたりするが、「伝統的な宗教や伝統文化への理解がないと、こういう団体のどこがおかしいかということがわからない」とし、仏教、ヒンズー教、その他の基本的な知識があればオウム事件のようなケースは防げたかもしれないと指摘している[612]。また渡辺は、オウム事件によって、統一教会エホバの証人など日本の宗教学者が共感も関心も持たずに放置してきた団体の研究が抜け落ちており、それらの団体の研究はこれまでジャーナリストや反対運動に委ねられてきたという現状が見えるようになったとも指摘している[613]
  • 教団の時代背景として1980年代から1990年代にかけての日本ではチベット密教を無批判に礼賛するブームとなったことが挙げられる。仏教学者の松本史朗は、1960年代のアメリカのヒッピー文化ではチベット仏教の神秘的密教的側面のみが強調され、これを無批判に礼賛する傾向にあったが、日本でも1981年中沢新一の『虹の階梯 - チベット密教の瞑想修行』(平河出版社)によって同傾向が輸入され、1993年秋のNHKスペシャル『チベット死者の書』[614]でこうした「チベット密教ブーム」がピークに達したと言えるかもしれないと述べ[615]、これを引用して仏教学者の袴谷憲昭は、オウム真理教事件もチベット密教ブームのピークの一つを象徴するものであったと述べている[616]
  • 宗教学者の大田俊寛によれば、オウムは思想史的には、近代主流の啓蒙思想に対抗したロマン主義神智学系の反近代主義のカルトであり、近代とその裏側に潜む対抗思想も含め、より総体的な理解を目指すべきとする[531]。また、大田は、オウム教団をマインドコントロール論で説明することが多いが、この理論は世界的には疑似科学と見なされており、オウムの解明にも実質的にほとんど寄与していないと指摘する[531]。大田は、マインド・コントロール論による説明では、カルトへの関与を自身の責任と認めず、すべて団体のせいにしたり、また人々にカルトと接触すれば精神操作されるといった過剰な不安感をもたらして、当該団体との対話が不可能になるなどの弊害があると指摘する[617]。また大田は、中沢や島田らを育てた柳川啓一東京大学宗教学研究室では、宗教の中核にイニシエーション(通過儀礼)をみて、儀礼における聖なるものの直接体験が重視され、宗教への潜り込み調査が奨励されたが、その結果として宗教学とオウムとの共鳴が起こったのではないかとし、イニシエーション論の反省をしなければ総括は完了しないと指摘する[588]。また、大田は、事件後に中沢新一や社会学者の宮台真司[618]らが「新たなグル」のように若者に生き方を示したのは軽薄で大きな問題であり、研究者は安易に状況に介入するのではなく、その事件や現象の歴史的経緯やメカニズム、社会的背景などの客観的説明に努めるべきと批判した[273]
  • 宗教学者の櫻井義秀によれば、オウム事件以降、カルトやマインド・コントロールが批判され、こうしたマインド・コントロール理論は信者の奪回・脱会や脱会信者のリハビリテーションに用いられているが、「騙されていた」と語ることで得られる癒やしは、当該団体によって得られた癒やしと同じ性質のもので、しばしば奪回・脱会の過程が勧誘・入信の過程と相似しており、このような「癒やし」こそが宗教集団による「騙し」 に通じているのであり,この心理状態を越えることが肝要であると指摘している[619]
  • 宗教学者伊藤雅之によれば、日本の宗教研究では研究者が共感できる宗教を選び、そのポジティブな側面に焦点を当ててきた。例えばスピリチュアリティ癒しなどプラスの価値の中での耽溺があり、研究対象とともに楽しみ、高揚感を味合いながら、正当な文化として評価することが慣例であった。しかし、オウム事件によって、宗教における負の側面、場合によっては暴力や犯罪に結びつくことなどが再確認され、これは宗教研究における宗教性善説の解体でもあった[620]。また、日本の宗教研究は当事者の意味世界を重視する対象内在的アプローチが取られ、こうした内在的理解のパラダイムにおいては、当事者の意味世界には学ぶべきものがあると考えられた。しかし、宗教を理解するには、研究者が対象に自分の生を重ね合わせるだけでは不十分であるし[621][622]、オウムのように教団が研究者を宣伝に利用したり、信者が研究者を騙したり、教義と実践に乖離がある場合、また、教団における言葉への解釈が教団の全体的理解につながらない場合には、内在的理解は通用しないのであり、この意味で宗教学のパラダイムとしての内在的理解は終焉を迎えたと指摘する[623]。宗教現象を研究するアプローチとしては、資金源や財政などの「非宗教的」次元への着目、また権力構造(政治的次元)、集団内のダイナミクスや勧誘活動や一般社会との軋轢(社会的次元)などの問題、また信者だけでなく、脱会者のデータも扱う必要がある[624]。また、櫻井や渡辺のマインドコントロール理論への批判は、統一教会の青春を返せ裁判で被告側弁護団によって用いられ、弁護側は櫻井論文を用いて入信はマインドコントロールでは説明できないとして、「騙されて入った」という言い方は教団への偏見に過ぎないと反論し、教団擁護に利用されることもあるということは研究者の課題であると指摘される[625]

サブカルチャーとの関係編集

1980年代・1990年代当時はサブカルチャー系の雑誌が麻原のインタビューを掲載するなど、オウムを面白がる時代の空気があった[626]。音楽家・ライターの掟ポルシェは「当時、オウムってもっと身の回りに普通にありましたしね。身近にあるお化け屋敷みたいな。ただの変わり者みたいな感じで見てましたからね。」と述べている[627]。ライターの吉田豪は宗教が絡む活動に対しては「面白がることがどれぐらい危険なのかという自覚を持った方がいい」「宗教とかが絡むと、みんな警戒したほうがいい」と警告した[627]

テレビとの関係編集

1991年9月28日に「朝まで生テレビ!」(テレビ朝日)にパネリストとして麻原、上祐、村井秀夫杉浦実、そしてオウムのライバルであった幸福の科学幹部、このほか池田昭島田裕巳などの宗教学者も出演し、激論を繰り広げた。幸福の科学が島田に「神を信じない者が宗教を研究してはいけない」と言ったのに対して麻原は「神を信じるか信じないかは置いておいて、宗教学者は客観的に研究をするべきだ」と反論した[587]。麻原が進行が幸福の科学に有利に進められ、発言の機会も幸福の科学の方が多いと司会の田原総一朗に食ってかかると、パネラーの下村満子が「あなたは解脱者を自称するのに、どうしてそんなことで興奮するんですか」とたしなめる一幕もあった。番組では超常現象一辺倒の幸福の科学に対し、麻原は超常体験は通過点に過ぎず、それにこだわることは仏教では戒められると述べ、常連出席者たちは麻原を支持し、さながら一方的な幸福の科学叩きだったと宮台真司はいう[628]江川紹子も番組ではオウム側が優勢であったと評しており、実際にこの番組をみてオウムに入信した信者もいた[629]

1991年10月には麻原は『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』(日本テレビ系、演出テリー伊藤)に出演し、好きな女優は秋吉久美子とか、ベビーシャンプーを使っているとか、宮沢りえヌードについて「脱ぎたい人は脱げばいい」「制約しても意味がない」と世俗的な話題について語ったり、青春とは何かと言う質問については、「青春とは幻影です」「たとえば恋をする。恋というのは相手に対して幻影を抱くプロセスですよね。ただ、青春を経験しない限り、その後の悟り、解脱はない」「みなさん大いに青春を経験なさって、で苦しまれて。苦しみというものを自分の内側に根付かせた状態で、次のステップに入られたらいい」「修行者というのは青春を死滅する、完全に止めてしまうことが課題ですから。本質的な部分に到達した歓喜というのは、青春の喜びの1万倍とも10万倍とも言える喜びがあります」と説いた[630]。当時この番組のディレクターだったテリー伊藤は2012年に逮捕された菊地直子及び菊池をヒロインとして扱う報道を批判[631]、2018年には「空中浮遊とか、バラエティっぽいんですよ。面白いななんて思ってた。僕らもまさか松本死刑囚がここまで悪い人間だとは思わなくて、本当にキワモノだと思って、バラエティには良いんじゃないかと」「まさかこんな悪の集団だとは思わなかった」と釈明した[632]。これに対してデーブ・スペクターは「まさかわからないとテリーさんは言ったけど、あれ(麻原)はどうみても詐欺師なんですよ」「メディアもよくわからないまま、半分面白いと思ったのかやった(放送した)んです」と批判し、「一番狙われるのが大学生なんです。うぶで、なんか世の中に良いことをしたい。初めて実家を離れる。留学生もそうなんです。心細い、なにか嫌なことがあった。それも狙われるんです。本当にターゲットにするんです。ものすごく親しくして、実態がわからないまま、気がついたら入ってしまうという、マインドコントロールの恐ろしさなんですよね」と警鐘を鳴らした[632]

1991年12月30日に放送された『TVタックル』(テレビ朝日系)でビートたけしが「僕としては生きることと同じように死ぬことがいつも背中合わせにある」「死ぬことと生きることを同じ分量で考えないと非常にバランスが悪い」と述べると、麻原はビートたけしの言うことはチベット仏教のマハームドラーという最高の悟りに到達する道の真髄で、これは前世普賢の段階を経験している証拠だとし、「普通の人はそういうことを考えません」「(前世で)神の経験をされていることは間違いない」と述べ、「私に代わって、オウム真理教の教祖をやってもらってもいい」と述べ、たけしは二人だけで朝までトークしたいと述べた[630]。その後、雑誌『Bart』(1992年6月22日号)で対談を実現し、たけしは「宗教からいちばん遠い人のような気もする。非常に科学的でもあるし。いちばん反宗教的なところから来た人のような」「面白いよなあ、麻原さんて」と評した[630]。ライターの久田将義ビートたけしは何かコメントを出すべきじゃないかと述べている[627]

当時教団がテレビに何度も出演したのは、マスコミを利用したい教団と、視聴率のために「時代の寵児」「笑える変人」を出したいテレビ局両者の思惑が合致した結果だったと指摘されている[630]

このほか、サリン事件以後の1995年3月22日から5月15日までの筑紫哲也 NEWS23とワイドショー「スーパーワイド」放送を比較した研究によれば、NEWS23ではオウムとロシア軍、自衛隊との関係など軍事力を持つテロ組織としての側面や、オウムが覚醒剤を製造して暴力団に売り資金源としていたことなどを重視するのに対して、スーパーワイドではサリン事件の被害者の葬儀や、信者の生活実態、覚醒剤を使用された信者への取材などに重点が置かれていた[633]

アニメ・SFとの関係編集

オウム真理教は様々なサブカルチャーからも影響を受けており、中には教義や武器製造にもアイデアを取り入れた。宇宙戦艦ヤマトが元ネタの「コスモクリーナー」、超能力ホーリーネームハルマゲドンなどの漫画アニメSFゲーム的な要素、現実より虚構に重要性が置かれるといった点から、大澤真幸らによってオタク文化との比較が行われた[634]

SF作家トマス・ディッシュはオウムをSFジャンルにおける悪性の千年王国的擬似宗教とそこに究極の真理を見たがった読者との不健全な相互作用の極地であるとした[635][636]

アシモフのSF『ファウンデーションシリーズ』は精神的に進化した科学エリートが文明を再建するため野蛮な時代に地下に潜るというストーリーだが、オウム教団にとっては重要で、教団幹部村井は同シリーズの内容を引用した[636]

仏教・密教との関係編集

初期仏教との比較編集

仏教学者佐々木閑によれば、オウム真理教におけるサンガ組織(出家者が修行する組織)や、「師の言葉は命をかけて守る」という極端な師弟関係の規範(グルイズム)や教義などは、既存の仏教諸派の教義にその源流を見いだすことが可能で、オウムを仏教の一派と見なすことは可能であるとした上で、初期仏教(釈迦の仏教)とオウムを比較した[637]

初期仏教(釈迦の仏教)とオウム真理教の比較[637]
  初期仏教(釈迦の仏教)  オウム真理教
従うべき権威(の有無) 師の権威よりもが優先され(法治主義)、師の命令が律に違背する場合は、聞いてはならない[637] 律のようなはない。統率者の権威によって、上位者が個人的思惑で指示を出した[637]規範には合理的一貫性がなく、例えばゴキブリの殺生を禁じる一方で殺人を強要した[637]
組織運営 各地の僧団はネットワーク式に構成され、中心となる僧団(既成教団でいう「本山」)は存在せず、仏教界全体に指示を下す権威はない[637] 律のない僧団であるため、指導者の思惑に沿って暴走し、組織が左右された[637]
暴力への対処 律では暴力が絶対禁止[637]。相手のためを思っての暴力(愛の鞭)も禁止される[637]。メンバーが暴力を振るった場合は、律の規定により、相応の罰が与えられ、さらに暴力を繰り返す場合には、僧団会議によって謹慎となる[637]。師が暴力の使用を命じても、律が優先されるので従ってはならない[637]。律では、違法な命令を下す権威者に対しては、その違法性への意見が推奨される。 暴力の絶対禁止という律がないので、法ではなく人が権威を持ち、「教団のため」とか「相手の悪行を止めてあげることがその人のため」といった理屈をつけて暴力が許容された[637]。律のない組織は全体として強い暴力性を帯びる[637]
布施 布施の規則はない。出家希望者が財産処理を決め、サンガが口出すことはない[407] 全財産を布施する[407]。布施リスト、遺言状、戸籍謄本、住民登録の転出届・転入届の代理人選任書、年金手帳、印鑑証明等の教団への提供が条件とされる[407]

オウムの最大の特徴は、教祖の絶対権威と、組織の暴力性である[637]。そして初期仏教との違いとしては、の有無が筆頭に挙げられる。初期仏教におけるは、サンガ(出家修行者の集団)の規則であり、入団許可や集会など運営の規則と、修行僧個人の守るべき規則の2種に分かれ、修行僧の守る規則を集めた戒経(波羅提木叉)は最重視された[638]。淫(貞潔の破棄)・盗み・殺人・大妄語の4条は波羅夷罪であり、これを破ると全ての資格を剥奪され、サンガから追放され、再び出家することはできない[638]。在家信者には律はなく、がある[638]。大乗仏教も最初は在家教団であったが、のちに出家教団もでき、部派仏教律蔵を採用した[638]。日本でも律宗による導入があったが、形骸化し、廃れた。

初期仏教では出家の場合、布施は出家希望者の自由であったが、オウムは全財産の提供を出家の条件として求めた[407]。例えば林郁夫マンションと車2台を売却した金からテレホンカードに至るまで布施した[407]。オウムでの布施は出家希望者の納得ずくのことであったが、残された家族からすれば「オウムが家族を財産ごと持っていった」となり、オウムが吸い上げれば吸い上げるほど、社会の反感は強まり、オウムの出家制度は、教団の資産を急激に増加させるとともに世間との関係を急速に悪化させたと佐々木閑は指摘する[639]

初期仏教ではサンガでの師弟関係は、自己鍛錬を進めるという目的のためだけに設定されており、上の者が下の者を権力をもって支配するということも、特定のリーダーが組織を拡大させるということもない[640]。釈迦は、メンバーが律という法体系に基づき同等の権利と義務を有していると考え、サンガでの教師の権限を厳しく制限しており、例えばそこに体罰が用いられることもなかった[641]。僧侶には暴力が絶対に禁止されているが、日本仏教の歴史ではこれが無視されていることがある[641]

佐々木閑は、このように初期仏教を基準にすると、過去の仏教教団の多くが、釈迦の仏教よりオウムの方に近いところに位置づけられるという[637]。例えば、過去には僧兵や宗教一揆による騒乱があり、現在でも発生している禅宗などの僧堂内の暴力的指導がある[注釈 19][637]。また、ミャンマー仏教におけるロヒンギャ弾圧などがある。こうした比較は、「既成仏教教団にとって決して快い方法ではないが、世間から信頼される教団を目指すという現実的方向性から見ても、有効性の高い方法である」と佐々木はいう[637]

大乗仏教編集

一神教においては神の名のもとに暴力が是認される歴史がある[642]ユダヤ教では「出エジプト記」「民数記」でモーセは神の名のもとに異民族を抹殺し、同族でも命令に従わないものは殺害された[643]十字軍においては教皇グレゴリウス9世が軍事力による異教徒の強制改宗を奨励し、場合によっては殺害、略奪、放火なども許した[644]。これに対して仏教には絶対神はいないので、神の名のもとに暴力が正当化されることはないが、その代わりに「正法」の毀損は何人にも許されず、これは殺人以上の最高の悪とされる[642] 。「正法」への毀損者には仏罰が下るとの教えは法華経大乗涅槃教、そして親鸞日蓮にも貫かれている[645]

また、中国華厳宗[646]臨済宗[647]、日本天台宗源信[648]などの仏書においても、殺人是認論が見られる[649][650]。ただしこれは仏菩薩の場合に限って説かれていることに注意する必要がある[650]

瑜伽行唯識学派無著(310‐390年)の「喩伽論菩薩地」戒品では、在家の菩薩が有情に対する思いやりの心をもち利他のための善巧方便として行なうならば、殺生、盗、淫行、妄語などの罪を犯しても許される[304]。戒品では、強盗が、生き物、如来声聞独覚菩薩たちを財物欲しさで殺そうとしているのを見た菩薩が「私がこの強盗の命を奪って地獄に再生するならば、喜んで地獄に再生したい。 この有情が無間業をなして地獄におちることがないように」と考え、(他の方法がないので)、この有情 (強盗) に対する哀慰の心をもって (この有情にとっての利益となることを考えて) この人を殺す場合、違犯にならず、多くの福徳が生じる、とされる[304]

大乗荘厳経論随修品第21偈に「有情たちに利益をなさんがために、そのように貧欲をおこすことは、過犯とならない」とあり、ボーディバドラ(1000年頃在世)は、この箇所は菩薩の有情に対する貪欲は愛情であり憐れみであるからと解釈された[651]。ただし、出家僧はこれらが許容されることはない[304]

優波離所問経(Upāli-Pariprccha)にも「大乗菩薩の貧欲と相応したいかなる過犯もすべて無罪である。善巧方便をもった菩薩は貧欲と相応した過犯を恐れない。 瞑志と相応した過犯を恐れる」とあり、海雲(Sāgaramegha)は清浄意楽(bsam pa dag pa)による殺生は無罪とする[304]

涅槃教編集

大乗涅槃教梵行品では生命を断つことは厳禁されているが、例外として、イッチャンティカ(一闡提)(仏法を誹謗する者)を殺しても三悪道には堕ちないと説かれる[645]。大乗涅槃教梵行品では、蟻をはじめとした生物の生命を断つことは最低の殺生で、殺人は中位の殺生とされ、三悪道に堕ちる。阿羅漢や辟支仏、あるいは菩薩を殺すことは最高の殺生で、無間地獄に堕ちる。しかしイッチャンティカ(一闡提)を殺しても三悪道には堕ちないと説かれる[652]

また、涅槃教金剛身品では「正法」を守ろうとする者は、五戒を受けず、威儀を修せず、刀剣、弓箭などで武装して、比丘を守護すべきだと説かれた[653][654]

「最終解脱者」編集

宗教学者の正木晃は、麻原が名乗った「最終解脱者」というコンセプトは大乗仏教には存在しない。「解脱」はあるが、「最終解脱」はありえない[655]。なぜなら、大乗仏教における解脱は、到達した瞬間に否定され、その先に更なる道程が開かれるように設定されており、そこで終わりという構造にはなっていないからであるという(般若心経「無智亦無得」を参照[656][657]

インド密教編集

インド左道密教[658]のインドラブーティは「ジュニャーナシッディ(智恵成就)」で「生きとし生けるものを悉く殺せ。他人の財貨を奪え。他人の妻を愛欲せよ。虚妄の言葉を語れ。その行為によって人々が無限に近い時間地獄で煮られる。その同じ行為によって、ヨーガ実践者は解脱する。彼にとって非行は存在しない。悪もまた存在しない。」と書いた。ただし、インドラブーティがこれを実行したという記録はなく、「八十四人の密教行者」にも殺人で解脱した例は一つもない[659]

チベット密教編集

チベット密教には性を導入した性的ヨーガがあり、また、不正義な人物がより悪い行為を成さないうちに殺してやることはそれ以上の悪を成さなくても済むので救済となり慈悲となるという教えもあった[660] 。オウム真理教で見られた性と殺の実践は、チベット密教にも存在していた[661]。タントラの王と尊崇される「秘密集会タントラ」にも語られており、ドルジェタクは、敵対者をヴァジュラバイラヴァ(ヤマーンタカ)を主尊とする修行によって呪い殺し、これを慈悲の実践とした[662]。また、河口慧海はチベットの信仰では呪詛による殺害は特殊なことではないとしている[663][664]

チベット密教の研究者正木晃は「ポワ」に類する度脱(呪殺)はドルジェタクによって実践されたが、その後のチベット密教の教理の歴史で完全に否定されており(#呪殺参照)、そもそも、オウム真理教のように無関係の人を無差別に大量に殺害する行為はいかなる基準に照らしても絶対に許されないとする[657]。正木は、オウム真理教は密教の闇の部分を映し出す鏡であったとし、密教にかかわる者はオウム事件を奇貨として再検討する必然性があり、同じことは世界の諸宗教に対してもいえると警鐘を鳴らした[665]

無上瑜伽タントラ編集

三毒は原始仏教以来、否定され、それを除去することで解脱に至る道が開かれるとされてきた[666]。しかし「大般若経」第578巻「般若理趣分」では否定を通じた肯定の表現となり、不空金剛訳「般若理趣経」では一切の人間の欲望が肯定され、欲そのものが清浄な菩薩の位であると表明され、さらに無上瑜伽タントラでは三毒の煩悩が持つ積極性を価値転換させ、大きな生命力として育ててゆく[666]。大乗仏教の煩悩即菩提の理念が無上瑜伽タントラでは、貪・瞋・癡を行ずることによって欲と離欲に住しない無住処涅槃に導かれる[666]。こうして無上瑜伽タントラでは、出世間的な解脱 (moksa) と世間的な欲望 (kama) のいずれをも目的とし、性や殺生、三毒の肯定を説く[304]

松長有慶は「欲を捨て去る努力をなすよりも、欲が本来もつ生命力を、利他のための方便として生かしきろうと努める。人間的な欲を大きな絶対の欲に生まれかわらせることが、タントリズムの貪瞋癡をはじめとする欲望を是認する思想の背景をなしている」と指摘し、タントリズムでは「下層階級や知的水準の低い人たちを教化、摂取するために、卑近な事例をその教説とか実践法のなかにとり入れた。そのためにインド古代人の族制の呪術を多く継承している。したがってそこには近代人の倫理観と対立する点が少なからずみいだされる」とも指摘する[666]

また、無上瑜伽タントラの1つであるヘーヴァジュラ・タントラでは、 護摩の呪殺 (marana) や調伏 (abhicarika) の目的は、妄分別 (vikalpa,rnam par rtogpa) をなくすためとされる[304]

藤田光寛はこのような喩伽 (yoga) の観法に重点をおく仏教のタントリズムがもつ非倫理的、非社会的な点を、皮相的、世間的に理解せず、その会通、昇華、純化された象徴性という観点などからその本来的な意義を評価すべきであると明言する[304]

ほか、最勝楽出現タントラ「智慧を完成する章」でも「人間を含むこの世の生命のあるすべてのものを殺害せよ。他人の財物を奪え。他人の妻と姦通せよ。嘘のみを語れ。大衆はこのカルマによって灼熱の地獄に落ちるが、ヨーガ行者はまさにこのカルマによって悟りを開く」とある[667][668]

秘密集会タントラ編集

無上瑜伽タントラの中の「秘密集会タントラ」では、第9分に「仏の威光を思い、そこで金剛杵をもってあらゆるものを粉砕すべし。身語心の一体化したものは、金剛杵をもってしても破壊されることはない。最上の禅定を観想すれば、心の悉地を達成することになろう。これら秘密金剛によって、一切衆生を殺せ。殺された者たちは、かの阿閦の仏国土において仏子となるであろう」とある[669][670]

秘密集会タントラ』第5分には「に満ちた行者は、無上なる最高の乗において(転識得智によって三つの根本煩悩さえも仏の智慧に変じて)最勝の悉地を成就する。旃陀羅・笛作り等や、殺生の利益をひたすら考えている者たちは、無上なる大乗の中でも、最上の乗において成就をなしとげる。「無間(地獄)悪業をはじめとする大罪を犯した者さえもまた、大乗の大海の中でも[優れた]この仏乗において成就する。しかし、阿闍梨(師)を誹謗するのに熱中する人たちは、どんなに修行しても成就できない。殺生を生業とする人たち、好んで嘘を言う人たち、他人の財物に執着する人たち、常に愛欲に溺れる人たち、糞尿を食物として取る人たちは、本当のところ、成就にふさわしい人たちである。行者が母・妹・娘に愛欲をおこすならば、大乗の中でも最上なる法の中で広大な悉地を得るであろう。」とある[671][325][672]。元四天王寺国際仏教大学教授で国選弁護人として林泰男の弁護をした中島尚志は、大罪を犯す者が梵行を行っている行者に等しいとするこの秘密集会タントラ第五分に見てとれるように、経典の真意を別にすれば、オウムの教義とインド後期密教の経典との間に表現上の根本的な矛盾はないと指摘している[325]。この他にも『最勝楽出現タントラ』『ヘーヴァジュラ・タントラ』でも性行について、また『摂大乗論』には殺害について書かれている[325]

秘密集会タントラ第14分で「阿闍梨を謗ったり、そのほか最勝の大乗を侮ったりする者たちは、努めて殺されてしかるべきである」と「正法」の毀損者の殺害が解かれる[673][674]。また、同第14分でのキーラ真言には「オーム、殺せ、殺せ、一切の悪人を」「オーム、切れ、切れ、破れ、破れ、殺せ、殺せ、焼け、焼け、燃えたつ金剛輪よ」という文言がある[675]

秘密集会タントラ第18分には「瑜伽に入った瑜伽行者は、瞋の輪を出し、忿怒金剛によって仏法を受け入れぬ者を破壊し、智金剛を有する者は、それらを縮小せよ。さらにそれらを拡大して、仏法を受け入れぬ者を正覚に入らせ、そのままもう一度縮小せよ。以上のような瑜伽に習熟すれば瑜伽業者は自ずから瞋金剛となるであろう。三界に住する者をことごとく、殺したり生かしたりする呪力を、一瞬のうちにあらわすことができるようになる」とある[669] 。ここでの「縮小」は死、拡大は「再生」を意味し、仏法を受け入れぬ者を解脱させた上で涅槃に導く、これは慈悲の極みであるという論理である[676]

貧欲行編集

密教・金剛乗の経典には以下のように貧欲行(ragacarya)が記されている。

この如来の三昧耶悉地秘密タントラとは次の如くである。 「汝は三昧耶なり」 と告げて、すべての女性を愛欲すべし。「有情利益を厭うことなかれ」と言って、修法者は仏を愛欲すべし。 と世尊大毘盧遮那が語られた。 — 真実摂経、教理分[677]
厳しい苦行や制戒(niyama)に頼っていては、 成就を得ることができない。その逆に一切の欲の享受に身を委ねるならば、速やかに成就を得ることができる。
貧欲に耽りながら〔五〕智を望む者は、常に五妙楽(Pancakamaguna) に身を委ねるべし。
堅個な心をもつ、〔大印と作す〕12歳の乙女を手に入れてそれぞれの部族別の喩伽によって自らの精液でもって供養すべし。 — 秘密集会タントラ第七品[677]

提婆 (アーリヤデーヴァ)は、などの諸対象は煩悩を生じる因であるから諸罪過の因と説かれているのに 矛盾ではないかとの質問に答えて、『吉祥最勝本初』大喩伽タントラでも三毒は不適切に用いられると毒になるが、甘露としても役立つと説かれ、宝積経でも「般若と方便を等しく具えた菩薩にとっては、諸煩悩もまた饒益となる」「般若と方便を等しく具足した菩薩は煩悩によって堕落させられない」と答えた[677]

呪殺編集

インド後期タントラやチベット仏教における成就法では、息災、増益のほか、敵を征服する制圧(stambhana)、仲間割れをおこさせる離間(vidveṣaṇa)、敵を追い出す駆逐(uccāṭana)、敵を殺害する呪殺(māraṇa)の六種法がある[666][注釈 20]

このうち呪殺(māraṇa)は邪法と見られやすいが、これも仏教的な会通が行われ昇華されており、単に憎悪の念による敵の殺害にとどまらず、敵対する異教徒を慈悲のゆえに殺害し、のち文殊の仏国土に生まれかわらせるという利他行として昇格している[666]

チベット仏教最大の学僧ツォンカパも高く評価した僧ラ・ローツァワ・ドルジェタク(Ra Lotsawa Dorje Drak)は、度脱(呪殺)は利他行であり、救済し難い衆生を利益する最高の大慈悲の行為とする[676]。ドルジェタクは、留守中にドルジェタクの妻を略奪したディキムパに対して、ヴァジュラバイラヴァ(ヤマーンタカ)行法で呪詛を行い、これによりディキムパたちの住む町は微塵に粉砕され、ディキムパたちの身体も粉々に砕かれ、瞬時に文殊菩薩によって浄土に導引された[678]。ドルジェタクは「金剛頂(仏の最高の教え)をもって、ありとあらゆる敵を瞬時に破砕し、生と死の彼方の境地に度脱する。こうすれば、貪りも瞋りも他の欲望も、すべて清浄になる。(略)もし仮に、現世において、この霊力を体現している者がいるとすれば、それはこの私自身にほかならない」「度脱は、慈悲菩提心を発起し、衆生を救済しようという三摩耶(密教の誓約)にもとづく行為である」と語り[679]、「度脱こそ、解脱の近道にして、慈悲の道であり、慈悲の武器」であり、度脱は利他行、「救済しがたい粗野な衆生を利益する、まさに仏の大慈悲である」「勝義においては、殺すということもなければ、殺されるということもない。幻化による幻化の殺はありえない」という[680]

ドルジェタクの師バローもヴァジュラバイラヴァ行法を「タントラの精髄」で「道に外れた大罪障の者たちを、調伏によって成仏させる法」とする[681]

チベットでは霊力による呪殺だけでなく、毒殺も行われており、勝楽タントラの権威ギュ・モンラムタクはドルジェタクの殺害を謀ったが、失敗し、ギュ・モンラムタクは度脱された[682] 。カギュー派のミラレパは、ツァプワ博士によって毒殺された[682]。しかし、その後、チベット史上最高の頭脳と言われるプトゥン戒律なきところに解脱なしと喝破、性的ヨーガの実践を排除し、呪術も拒絶した[683]ツォンカパもプトゥンを踏襲し、呪術、度脱を否定した[684]

日本仏教・密教編集

理趣経編集

日本密教、特に真言宗各派において読誦されてきた理趣経において、性的関係や性的行為によって清浄で菩薩の境地にいたる十七清浄句が説かれ、さらには理趣経第三段「降伏の法門」では「三界有情を殺害するとも悪趣に堕せず、無上正等覚(完全な悟り)をうる[685](金剛手よ、もしこの真理の道を聞いて記憶にとどめ読誦するなどの行為をなすならば、その人は、たとえ三界の生きとし生けるものを悉く殺し尽くしたとしても、地獄には堕ちない。なぜならばその人の行為は、ありとあらゆる煩悩を調伏するための実践にほかならず、それゆえにかえって境地を高める良い行為となって、速やかに無上の悟りを獲得することができるからである)」とあり、理趣経の真意を理解することを条件とした殺害の正当化がなされている[686]

この箇所について栂尾祥雲は、「小乗仏教では動機の如何を問わず、人を殺すが如きは大罪で、国法の死刑に該当する波羅夷罪を構成する」「それが大乗仏教になると、殺生の結果よりも動機に重きを置くようになり、特に般若経などの立場からすると、生死に流転するための悪業といった所でそれは煩悩の結果に外ならない。その煩悩とは貪、瞋・痴と言う心的現象に過ぎないのであるから、心を以てこれを自由にすることができる。故にもし過って多くの人を殺害する等の大重罪を犯した者と雖も、心機一転して、この欲無戯論性の般若の教理を、心から信解し受持する等の十法行をなすと、心がこの無戯論平等の絶待法に安住して、一切の煩悩を調伏することになるから、悪行に随って滅し、それがために再び悪趣に堕することなく、却って速やかに無上菩提を得ることができるということになる」と解釈する[687][688]。さらに栂尾は、十法行をなす人から云えば、たとえ三界の一切の有情を殺害するようなことがあっても、それはその有情が迷界に流転する原因であり、癌である所の三毒の煩悩を調伏せんがための方便たるに止まり、決してその肉身を殺害し、その生命を断つためではない。ただその人の心の眼を開かしむるための善巧方便として、時にその人を威圧し、一時の苦しみを与えることがあっても、それは罪にならない」「毒の煩悩を調伏し、心の眼を開かしむるための善巧方便として、時には正義の戦争をなし、多くの人を一時に殺害するようなことがあっても、それは必ずしも大罪とはならない」とされる[689][690]。栂尾のこの書『理趣経の研究』は1930年に出版されており、2年前には蔣介石国民革命軍山東省済南市の日本人居留民を襲撃した済南事件が発生しており、「正義の戦争」とは当時の日中関係を念頭にした発言とされる[691]

また、松長有慶は、これまでの日本の注釈の歴史では、この箇所は「三毒の破壊」という無難な意味で注釈されてきたが、しかしここは経典読誦の功徳を示した箇所であり、三毒の否定の意でとれば「理趣経」の本来の目的に沿わないとし、この場合、殺害の容認が目的ではなく、経典読誦の功徳を極端な形で提示しようとしていると解釈した[666][692]

大日経・金剛頂経編集

大日経の「受方便学処品」第18「不奪生命戒」では、他人の生命を自己の身に対するが如くせよと述べられたすぐ後で、もし悪行の報いから逃れさせる目的で、怨害の心がなければ、殺生も許されるとされる[666][693]

この箇所について善無畏は『大日経疏』で、方便としての殺生が許される例には、その殺害によって他の多くの人々が救われる場合、殺害によってその人に出離の因縁(迷いの世界を離れる因縁)ができる場合があるとされ、ただし、大悲心が不可欠の前提とされる[666][693]。病人の依頼によって苦痛を除くための殺人(安楽死)も罪とはならない[666]。また、ブッダグフヤ (Buddhaguhya) は「大日経広釈」において、般若と善巧方便を持った在家の菩薩が利他のために不善を行うことは許容されるが、出家の菩薩には許されないと解説する[304]

初會金剛頂経第2章 降三世品では、「有情のために貪欲 (raga) 等により清浄 (suci) をもってなすべきである。一切の有情の利益のために、もし一切の有情を殺しても、彼は罪悪 (papa) に汚染されない」とある[304]

親鸞・浄土真宗編集

親鸞にとっては、正法への誹謗が最大の悪となる。『正像末和讃』で「念仏誹謗の有情は 阿鼻地獄に堕在」と浄土真宗の信仰を否定する者は地獄に堕ちるとする[694]。親鸞は聖徳太子信仰が厚かったが、「皇太子聖徳奉讃」では、仏教を滅ぼそうとする物部守屋らの逆臣に対して、「寺塔仏法を滅破して 国家有情を壊失せん これまた守屋が変化なり 厭却降伏セしむべし」と討ち滅ぼすべきだと論じた[694][695]。なお、日蓮でも謗法した者は地獄に落ちるとされるが逆縁となり成仏もあるとされるが、そうした救済は親鸞は説かない[694]

唯円の著作『歎異抄』第13条で親鸞は、弟子の唯円にこう説く[696]

(親鸞)「たとへば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、仰せ候ひしとき、「仰せにては候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼえず候ふ」と、(唯円)申して候ひしかば、(略)「なにごとも こころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」と、仰せの候ひしは、われらがこころのよきをばよしとおもひ、 悪しきことをば悪しとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることを、仰せの候ひしなり。


「千人を殺してみよ。そうすれば往生できる」と親鸞がいうと、唯円は「一人も殺せません」と回答する。親鸞は「何事ものままになるのであれば往生のために千人を殺すだろう。しかし、業縁がなければ一人も殺せない。自分の心が良いから殺さないのではない。殺したくなくても、(業縁があれば)百人でも千人でも殺すのであり、心次第でなんとかなるのではない。 — 『歎異抄』第13条

これについて中村雄二郎は「も物事も自分の意のままに制御できるものではない。従って意思だけに頼る自力の教えは無力だ」を内容とする教えであり、これまで「非現実的なたとえ話」と受け止められてきたが、オウム事件によって現実に発生したとした[697][698]

山折哲雄はオウム事件について同13条の「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなし(兎の毛や羊の毛のさきについている塵ほどの小さな罪でも、過去の報いでないものはない)」「さるべき業縁のもよおせば、いかなる振る舞いもすべし(人間は因縁が促せば、どんなことでもするだろう)」を思いおこしたとし、「気がついたとき、すでに人を殺してしまっていた因縁が、現実に存在する。そのように、いくら人を殺そうとしても殺しえないでいる因縁も、現実に存在する。その殺と不殺のあいだに横たわるあいまいな境界を、人間の知ははたしてきちんと識別することができるのか」と述べた[699]

造悪論編集

評論家の吉本隆明は、産経新聞1995年9月5日で、親鸞の教義には「わざと悪いことをした方が浄土へ往ける事になる」「極悪な者の方が往生しやすい」という造悪論があり、オウムのやったことも造悪論の中に入るもので、「麻原は極悪深重できっと往生しやすい」と述べた[700]。対談相手の弓山達也も、麻原のタントラ・ヴァジラヤーナも造悪論と同じ発想とした[700]

仏教学者山崎龍明は産経新聞1995年9月22日で、吉本はオウムの犯罪は否定するが教義は肯定しているとしており、それでは殺人(ポア)も教義なので肯定できるはずがなぜ肯定しないのか矛盾だとし、そもそも親鸞の悪人論は「悪の深い自覚を持つ者」に基づいており、親鸞は手紙で造悪の者は教えを理解しない者、念仏に志のない者と断じており、吉本は「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」の言葉だけを切り離して「悪人」を肯定する観念論に陥っていると批判した[700]

これに対して吉本は山崎龍明を「官憲とマスコミの流布した市民社会の倫理観・世論に迎合して、親鸞を源信にまで戻した」「今の日本は歴代で一番悪い国家で、それを至上とする倫理に迎合するなら僧侶をやめるべきだ」などと批判[701]、親鸞の造悪論では「極悪であるがゆえに浄土にいちばん近い」のであり、「せっかくこれだけの生々しい造悪論を麻原彰晃は出してくれた」のだから考えるいい機会であり[702]、また親鸞はオウム事件のような問題に現実に直面したのではないかとし、そのあげくに悪をすすんでつくる極悪非道の造悪者を自分の善悪観の中に包括しようとして悪人正機を主張したと主張した[703][694]

吉本と山崎の論争について、仏教学者の定方晟は、なぜ極悪者が地獄でなく浄土に近いといえるのか不明だが、吉本が悪人を「悪をなすもの」と規定するのに対して、山崎は「悪の自覚を持つもの」とするが、定方は山崎の考えに組するとし、親鸞における悪人救済の問題は、ブッダ在世時に父を殺したアジャータシャトル(阿闍世)王の悔恨をめぐってのものであると指摘した[704][700]

山崎龍明はこれに続いて、親鸞は阿闍世王の救済について涅槃経を『顕浄土真実教行証文類』で引用し、罪を傷み悲嘆する人間においてこそ阿弥陀仏の大悲は活現すると論じており、これが親鸞の悪人救済論の真義であり、悪の無限容認などではないと吉本を再批判し、以下の親鸞の言葉を紹介した[700]

なによりも聖教のをしへをもしらず、また浄土宗のまことのそこをもしらずして、不可思議の放逸無漸のものどものなかに、悪はおもふさまにふるまふべしと仰せられ候ふなるこそ、かへすかへすあるべくも候はず


(仏の教えを知らず、浄土宗の真意を知らずに、異常でわがままで恥知らずな者の中に、悪を思いのままに振る舞ってよいと述べるようなことは、重ね重ね、あってはならないのです) — 親鸞、未灯集16[694][700]

仏教学者の末木文美士も、吉本隆明のような、悪は往生の障りとはならないから悪を控える必要はないとする造悪無碍説[705]について、親鸞は造悪無碍説を厳しく批判しており(前掲未灯集16)、また親鸞にとっての最大の悪は正法への誹謗であるとする[694]。また末木は、『歎異抄』13条は親鸞の他の著作と比べて疑問が大きく、唯円独自の問題意識が顕著に見え、『歎異抄』で悪とされているのは、漁師や猟師などの魚や動物を捉える職業や商人、虫を殺す農民について考察されており、人を殺す武士は入っていないことは、唯円の社会的背景であり、造悪無碍は親鸞の意図ではないと指摘する[694]。また、この説法は、アングリマーラ(央掘摩羅)が、外道の師から千人殺害すれば悟りを得られると教えられ、999人を殺害後、千人目に釈尊と出会って自らの過ちを知り、釈尊に帰依したという故事によっているとする[694]

一向一揆編集

浄土真宗本願寺派石山合戦で「進者往生極楽 退者無間地獄(進む者は往生極楽、退く者は無間地獄)」と軍旗に書き、一向一揆享禄・天文の乱では証如が討ち死にされた者は極楽に往生すると述べた[706]

立川流(彼の法集団)編集

中世日本の密教教団として立川流があり、荼枳尼天(ダーキニー)を本尊とする男女和合、陰陽交合思想性的修行や信者殺害などを行なっていたとされる[707]。ただし、現在の研究では立川流とされてきたのは、名称不明の「「彼の法」集団」のものとされる[708]

皇道禅編集

日中戦争では、禅僧が天皇は金輪聖王であるので、慈悲の戦争を行うことは自分と敵の双方に命を与えることと説かれた[709]澤木興道は1942年に「一切のものは、敵も味方もわが子(略)そのわが有の世界の中で、秩序を乱すものを征伐するのがすなわち正義の戦である。ここに殺しても、殺さんでも不殺生戒。この不殺生戒は剣を揮う。この不殺生戒は爆弾を投げる」と述べており[710]、リフトンはこのような慈悲殺人はオウムのポアに近いと指摘する[709]

皇道禅を実践した軍人杉本五郎は「宇宙悉く天皇の顕現にして(略)天皇の御前には自己は無なり。(略)唯々身心を捨て果てて、更に何物も望むことなく、只管に天皇に帰一せよ。(略)誠に至正至純は、宇宙の大と無限の慈とを兼ねたる宇宙最高の大道なり(略)皇国の戦争は聖戦なり、神戦なり、大慈悲行なり」と綴ったが、リフトンは「天皇」を「麻原」に置き換えればオウム信者にも当てはまるとし、こうした極端な精神主義は毛沢東中国共産党員にも見られると指摘している[711]

杉本五郎の参禅の師で、臨済宗仏通寺派管長の山崎益州は、日本は神国で世界の本家で、天皇は宇宙の唯一神、最高の真理具現者であるとし、「支那人を自覚させるには、今度の戦争で苦難を骨身に徹せしめて置くことが肝要」と述べている[712][713]

他の類似宗教・思想との比較編集

日本の終末預言宗教(大本・真光系・阿含宗)編集

終末預言宗教では、現状に絶望し、来るべき世界への期待を高め、破局救済の絶対的契機として待望しながら、一方で破局を回避することで救済への期待が抱き続けられる[30]。日本における終末預言宗教の源流はミロク信仰であり、釈尊入滅から 56億7千万年後、 この世に下生し衆生を救済する弥勒(マイトレーヤ)への信仰は末法思想と共に受容されてきた[30]

以下では、日本の終末預言宗教である大本、真光系教団・阿含宗とオウム真理教を比較する[30]。 4つの教団に共通するのは、 近代の物質文明に侵された人類が自己中心的物質中心的な欲望に侵されたために破滅を迎えようとしているとする、反近代・反物質主義・反科学主義である[30]

オウム真理教が特異なのは「終末の回避」に関しての教義であり、大本、真光系、阿含宗は終末と破局に対して個人の救済に振り替える[30]。一方、オウム真理教の場合は、終末の回避は不可能であることを前提として、解脱や悟りが中心的救済になって終末を待望することに偏し、 最終的に国家社会との全面対決を自ら求めていった[30]

他の終末預言宗教とオウム真理教との比較
  大本  真光系  阿含宗 オウム真理教
理想の世界 西欧文明によって破壊的な文化接触が起こる以前のミロクの世。日本のミロク信仰を受け継ぐ[30] 霊主を中心として高度な科学を駆使する無対立・無私の地上天国。五六七の世[30] 旧人類が持たない特別能力を持った新人類のホモ・エクセレンスが誕生し、宗教と科学が融合する[30] 科学文明を駆逐した、超人類・神人類による精神世界[30]
国家権力は悪魔の大自在天、財力とマスメディアと軍で攻めてくる[30] 審判は霊主文明を失った人類の霊の集合的な曇りである霊障によってもたらされる[30] 人類自身が原因で、破滅のカルマによって世界は破滅する[30] ユダヤ人(ユダヤ陰謀論)、フリーメイソン米国[30]
予言 日清戦争や第一次世界大戦等、ミロクの降臨を予言[30] 岡田光玉は昭和37年に火の洗礼の神の裁きが下されると予言。後継教団は、天変地異が多発し、20紀末か21世紀初頭に核戦争などの究極的な審判を受ける[30] ノストラダムスの大予言による1999年の地球壊滅の危機は仏陀の教えにより救済されると説き、世界の原発が破壊される予言小説を書いた[714] 予言の回数と詳細さ、具体性、リアリティは特異で、予言的中率は95%と称した[715][30]
超越者 日本の正統神・艮の金神が現われ、世を立直す[30] 岡田光玉は昭和37年に、天地創造神から火の洗礼の神の裁きが下されるという「今世警示」を示した[30] 超越者は存在せず、解脱者や超能力者が救済(個人主義)[30] 超越者は存在せず、解脱者や超能力者が救済(個人主義)[30]
救済者 出口王仁三郎弥勒が彼に下生すると宣言[30] 超越者が存在するため預言者岡田に救済者の自覚はない[30] 究極の成仏法が終末時に現れるとするが、 桐山個人の救済者自覚はない[30] 麻原はキリストとなり、弥勒となり、永遠の絶対的救済者になる[30]
終末の回避 終末の大難を人間が防げる飢饉、病気、戦争などに振り替え、応身弥勒の絶対的救済力に帰依し精神界の立替えを行う[30] 手かざしによる浄霊によって人類を浄化し、火の洗礼を乗り越えた真のタネビトを一人でも多く用意する[30] 多くの人々と共に自分の世界の滅亡のカルマを断ち、物質のカルマを動かす[30] 回避不能。解脱や悟りが中心的救済になって終末待望に偏した[30]

ラジニーシ(Osho)編集

インドの瞑想家バグワン・シュリ・ラジニーシ(Osho)タントラ教に基づくセックス修行を通じて超意識へ至る道を説いて[716]「セックスグル」とも言われ、核戦争による世界滅亡も説いた[717]。米国オレゴン州のラジニーシプーラムでは瞑想コース、カセット、本などの教材、修行の各コースが高額で販売され、購入したロールスロイスは90台以上で「金持ちグル」とも言われた[717]。1985年にはラジニーシのコミューンにおける財産横領、ヒ素による殺人未遂、コミューンに不利な裁判記録を隠蔽するための公共施設の放火、近隣レストランでサルモネラ菌を散布し住民約750名が食中毒になった事件が発覚した[718][719]。1986年、ラジニーシは国外退去となり、インドに帰国したあと、日本語の和尚から取ってOshoを称した[717]

麻原はラジニーシに影響を受けている[720]。ラジニーシとオウムの共通性としてはホーリーネーム、服装、出版物、説法などがあり、ラジニーシは麻原にとっての宗教家のモデルになっていると指摘されている[721][719]ニューエイジオーラを帯びたホーリーネームによって信者らは世俗生活から切り離され、強力なオウム自己を獲得した[722]。宗教学者の中沢新一は麻原を「ラジニーシのようなタイプのラジカルな宗教家」と称賛した[547]

チャールズ・マンソン編集

ヒッピーチャールズ・マンソンは、サイエントロジーの分派「最後の審判プロセス教会(Process Church of the Final Judgment)」を拠り所としており、この教会はヒトラーを崇拝し、最後の審判において自分たちが選民として役割を果たすと信じた[723]。マンソンは、交流分析や、火星人の教育を受けた主人公が新宗教を開くが地球人に殺されるという筋のハインラインによるSF小説『異星の客』に影響を受けたほか、カルマ理論やヒンドゥー教の左道タントラに訴え、「死は変化に過ぎない」「魂や霊は死ねない」「善も悪も存在しない」と語った[723]。マンソンは黒人白人を虐殺し、全滅させるという最終人種戦争を確信しており、ビートルズの『ホワイト・アルバム』の曲にハルマゲドンによる革命と救世主マンソンが表されていると解釈した[723]。マンソンのコミューンは、LSDを使用した性的なエクスタシー神秘体験に耽った果てに、金銭問題や信者らの緊張関係、警察からの圧力によって妄想が過激化し、9人を殺害した。殺害されたシャロン・テート宅の壁には黒人の隠語を書いて、黒人の仕業を偽装することでこの事件から人種戦争が始まるとマンソンらは信じていた[723]

人民寺院編集

人民寺院の創始者ジム・ジョーンズ社会主義を神格化し、社会主義の神になると説いた[724]。ジョーンズはマルクス、、スターリンヒトラーガンジーキング牧師エンカウンターグループなどから影響を受け、「使徒的社会主義」を主張したが、リフトンはこれを「ペンテコステ派毛沢東主義」と評する[725]。麻原と共通して社会への怒りを保ち続けたジョーンズは自らを「革命たるキリスト」とし、人種差別と戦うと主張した[726]説教者だったジョーンズは、心霊治療を行なったが、動物の内臓を自分が患者から取り出しただと偽るなど詐欺師としての才能もあった[726]

教団を立ち上げて5年経つとジョーンズは、周囲に敵がいると思い込むようになり、窓ガラスを自分で割って外部から攻撃されたと言ったり、養子の誘拐などを自作自演するようになった[726]。ジョーンズは不安や葛藤が大きくなるにつれ、傲岸不遜になり、誇大妄想を強め、カーター大統領への手紙では、敵がワシントンの橋を爆破するとか水道に毒を入れると主張し、さらに信者を罵ったり、体罰を加え、脱会者や違反者には偽の医療によって薬物を投与した[727]

1973年に8人の脱会信者が教団内での差別や性的放縦を告発すると、ジョーンズは集団自殺を検討するようになった[728]。ジョーンズは米国財務省、FBI、マスコミ、脱会者、信者の家族、内部の不忠を恐れ、自分を困らせる信者に対して「私を殺そうとしている」と責めた[729]。ジョーンズは米国を反キリストと見做し、核戦争によるホロコースト英語版は米国の全ての命の完全な絶滅をもたらす浄化とされ、絶滅後は社会主義の中国が美しい洞窟から蘇ると述べた[730]。また、ジョーンズは信者に「革命の大義を促進するならば、自分の陰茎肛門を差し出す必要がある。もしできなければ献身的な共産主義者とはいえない」として女性・男性問わず信者と性的関係を持った[731]。一方、ジョーンズは「宇宙に愛すべきものがあるとは信じない」と絶望していた[732]。やがてジョーンズは死をもって世界の非人間性に抗議するとして、ブラックパンサー党ヒューイ・P・ニュートンが用いた用語の「革命的自決」を説くようになった[733]。ジョーンズはマサダ集団自決したユダヤ人熱心党ワルシャワ・ゲットー蜂起ロシア革命中国革命公民権運動などでの英雄たちの殉死と教団の自殺計画を同一視するようになり、自分は信者たちを刑務所や強制収容所から救い、そして核戦争から救うために生きてきたと語り、信者たちは「神の選民、前衛、革命の前線」であると説いた[734]

1978年11月17日ガイアナにある人民寺院コミューンジョーンズタウンに人権侵害調査に入った連邦下院議員レオ・ライアンら5人が教団によって殺害され、翌日の11月18日ジョーンズタウンの信者913人(うち子供260人)、及び近郊のジョージタウンで4人がシアン化物を混ぜたジュースを飲み集団自殺を行なった[735]。中にはシアン化物を注射されたものもおり、毒の服用に抵抗したともされる[736]。ジョーンズは「これは自殺ではない、世界の非人間性に抗議する革命的自決である」と集団自決直前の演説でも述べた[737]

リフトンは、ジョーンズの「革命的自決」は殺害を癒しや贖いにするような神学とした点で、麻原の「ポア」と方向は違うが類似しており[738]、また、人民寺院と異なる所も多いが、オウムもまた集団自殺的であったとし、オウムと人民寺院には恐ろしいほどの共通性があると指摘する[739]

ブランチ・ダビディアン編集

ブランチ・ダビディアン最終戦争で信者だけが生き残るとして武装化を進めるなか大量の銃器を不正に入手したとして1993年2月28日強制捜査が行われ、教団との銃撃戦となり警察4人、信者6人の犠牲がでた。さらに籠城した教団に対して4月19日に司法当局は強行突入を決行するが、教団は放火し81名が焼死した[740]。麻原はブランチ・ダビディアンの次にオウムがユダヤ・フリーメーソンに襲撃されると述べており[191]、ブランチ・ダビディア事件を強く意識していることが伺え、この1993年には兵器開発が強化された時期に当たる。

その他の米国のカルト編集

この他にも米国のカルトには、UFOを信じ、グルイズムを形成したヘヴンズ・ゲートがあり、この教団は1997年3月に信者39人が集団自殺をしており、オウムと比較されている[741]

168人が犠牲となったオクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件の犯人ティモシー・マクベイ白人至上主義作家のウィリアム・ルーサー・ピアースの小説「ターナー日記」に影響を受けた[742]。「ターナー日記」ではペンタゴンに小型核爆弾を投下することで白人革命を成就することが描写され、ユダヤ人、黒人、白人の裏切り者が抹殺される[743]。リフトンはこのターナー日記とオウム、ヒトラーを比較している[744]

ナチズム編集

大田俊寛によれば、オウムはナチズムと構造的に類似している。ナチズムではゲルマン民族が「神聖民族」であり、それ以外は下等種族で、特にユダヤ人は排除される。ヒトラーは、人間の運命は神に進化するか動物に堕ちるという二元論で思考していた。オウム真理教は信者を「超人類」に進化させて「神仙民族」をつくり出し、「シャンバラ」や「真理国」を創建するという野望を持ち、そのためにも「畜群粛清」つまり動物に堕ちるしかない魂の抹殺(ポア)が必要とされた[587]。オウムはナチスが発明したサリンを用いた。

ロシア・マルクス主義編集

中沢新一は、ロシアはスピリチュアル・霊的なものが強く、ロシア革命以前に多数いたオウムのような宗教集団がソ連崩壊で一気に蘇ったという[545]ロシア型マルクス主義にはオウムに相通じる要素があり、マルクス主義では資本家労働者二元論的な戦いを想定、オウムはアメリカ文化にアジア型霊性主義を対置する[745][545]

また、中沢によれば1980年代の日本では「霊的ボルシェビキ」(武田崇元による造語[746]、霊的革命が唱えられていたという[545]

千年王国運動編集

11-16世紀に貧困層で繁栄した千年王国運動(ミレニアム)では、ユダヤ人、聖職者、富裕層などの邪悪な者が根絶された後に、苦しみも罪もない聖人(貧者)の王国が設立されるとされた[747]。自由心霊派兄弟団(Brethren of the Free Spirit)[748]は無制限な自由を肯定し、性交だけでなく乱交強姦も人間の堕罪以前の無垢な状態として奨励され、詐欺、窃盗、強盗も肯定された[747][749]。リフトンによれば、自由心霊派兄弟団はオウムに似ているが、世界の終わりをもたらすための組織的暴力には携わらなかった[747]

15世紀ボヘミアのタボル派ローマ教会反キリストとして敵視し、全ての悪の根絶を説いて、30年の活動の間にオウム以上に多くの殺人を犯した[750]。タボル派から派生したアダム派は、さらに強力に終末を強要し、聖戦と称し村に放火したり、住民を虐殺した[750]

石原莞爾編集

中沢新一は、麻原による米国を敵視しての世界最終戦争は、石原莞爾北一輝の思想と酷似していると言う[751][542]。石原莞爾は1940年に『世界最終戦論』を発表している。

血盟団編集

1932年にテロを起こした法華信仰の血盟団事件との類似性も指摘されている[310]。元幹部新実智光は法廷で「最大多数の最大幸福のために殺す」「(オウム)事件は大いなる菩薩の所業である」「一殺多生を肯定した」と述べ、元幹部早川紀代秀も「慈悲殺人」と意味づけた[310]

新実が述べた「一殺多生」は血盟団の言葉であり、血盟団の井上日召は銃撃を「大慈悲心」、血盟団員の小沼日正は「殺人は如来の方便」、血盟団員の古内日栄は自分の行為を「菩薩行」と位置づけた[310]。日召、日正、日栄はホーリーネームだったとも言える[752][310]

日本儒教における誠編集

哲学者中村雄二郎はオウム信者が教祖の言動を絶対視し、さらに明らかな嘘を教団幹部たちが知らないふりをしていたことの背景に日本儒教における「の倫理」の極限を見る[753]。1995年4月にオウムによるサリン製造がほぼ確実になった時に幹部の村井はこれを否定したが、あるテレビの司会者は「村井さんの目は澄んでいた」ので「嘘ではあるまい」と発言した[754]。このように「目が澄んでいる」ことを潔白の根拠とする伝統が日本にはあるが、村井は虚偽の証言をしたのであり、「誠の倫理」の極限には、誠のための嘘をつくことや殺人もあると中村はいう[755]

日本の儒教は当初五経が中心だったが、のち四書となり、さらに伊藤仁斎に至って『論語』『孟子』に絞られ、「」が根本に置かれ、懐徳堂では「誠主義」の教えとなった[756][757]山鹿素行は「誠」を「已むことを得ざるの自然」とし、「自らを欺かぬ」ことを重視した[758][759]西田幾多郎も『善の研究』で「至誠」を重視した[754]相良亨はこうした「誠」「誠実」「誠心誠意」には、真の他者性が自覚されておらず、克服されなければならないとする[760][761]

このように日本儒教では「誠実」が極端な形となり、「自分自身を誤魔化さない」という神秘的な目標となり、嘘をつくことや殺人さえ厭わないような絶対化された道徳的一貫性が要求されるようになったとされるが、リフトンはこの意味で、麻原もヒトラーも同様に誠実ということになる、と述べている[697]

連合赤軍編集

連合赤軍による山岳ベース事件ではメンバー12人がリンチ殺害されたが、その殺害の過程においては、革命的批判と自己批判、毛沢東主義フェミニズムによる思想改造が混ざった「共産主義化」が目指された[762]。指導者の森恒夫は麻原に似て言い繕う技能に長けており、リンチで死亡した被害者は共産主義化を達成するほど強くなかったために敗北と死を選んだと解釈し、殺害を被害者の責任にした[762]

イスラム原理主義編集

正木晃は、オウムとイスラム原理主義は聖典の解釈の仕方に共通性があるとする[763] 。正木は、宗教における暴力の原因を貧困や格差などに求める意見が多いが、宗教に内在する論理や発想も原因となっており、それは聖典の解釈という形で顕在化するという[764]コーラン第9章5節には「多神教徒を見つけ次第殺してしまうが良い。ひっ捉え、追い込み、いたるところに伏兵を置いて待ち伏せよ。」とジハード(聖戦)を呼びかける文言があり、これは暴力の行使の奨励ではないが、宗教を平和主義とみなす日本にありがちな思い込みとは一線を画す[763]IS(イスラム国)ボコ・ハラムはこの箇所を拡大解釈している[765]

性と暴力という点についてイスラムには密教のような発想はないが、原理主義が実行する自爆テロにおいては天国の描写として、「ずらっと列になって臥床に身を、目涼しい美女を妻にいただく」(コーラン52章20節)「眼差しもしとやかな乙女ら、眼ぱっちりした美人揃いで、身体はまるで砂に隠れた卵さながら」(コーラン37章49節)などの文言がテロリストの募集にあたり利用された[766]

後継教団編集

Aleph編集

 
Alephのロゴ

2000年(平成12年)2月4日、教団は破産管財人からオウム真理教の名称の使用を禁止されたため、前年に出所した上祐史浩を代表として「オウム真理教」を母体とした宗教団体「アレフ (のちAleph)」へと名称変更した[注釈 21]。同年7月、アレフは破産管財人の提案により、被害者への賠償に関する契約を締結したが、その支払いは遅々として進んでいない[767]。2010年(平成22年)3月に公安調査庁は、サリン事件当時の記憶が薄い青年層の勧誘などについて警戒を強めている旨を発表した[768]

1995年から2009年までAleph幹部であった野田成人によれば[769]、Alephには「サリン事件は国家権力・フリーメーソンのでっち上げ」という陰謀論や、「グルは必ず復活する、死刑が執行されても絶対死なない」と麻原の不死を信仰する者もいる[769][386][386]。サリン事件への関与をオウムが正式に認めたのは1999年だが[252]、信者は事件に関心もなく、出家信者は修行で高い世界に行けるという理由で、その問題を棚上げしている[386]。近年の勧誘法は、SNSを含むヨガや仏教のダミーサークルを作って、そこで信頼関係を構築してから、その後でアーレフということを明かす。そこで離れていく人もいるが、悪い教団と思っていたのにイメージと違うということで入って確かめようという人もいるという[386]

また、滝本太郎弁護士が担当した事例では、女子大学生が高校の先輩(信者)からヨガに誘われ、初めは自宅、次いで公民館でのヨガ教室に誘われ、そこでインストラクターから「筋が良い」「前世は修行者かも」と絶賛され、数カ月かけて信頼関係を築いた後で、アレフの道場に連れて行かれる[770]。何気なく「書いておいてね」と書類に住所や名前を記入したが、これが入会届だった[770]。この例についてアレフは「会員は信教の自由(憲法20条)を享受する日本国民として、それぞれの判断で自由な宗教活動を行うことが認められている」と述べるが、宗教学者の川島堅二は「だますような形で新たに信者を募るのは信教の自由の阻害だ」と指弾する[770]。滝本弁護士は、アレフは呼吸法などによる神秘体験を麻原の力と刷り込み、信者をマインドコントロールするが、「修行が過激さを増すと、再び危険な活動へとエスカレートする恐れがある」と指摘する[770]。  

ひかりの輪編集

2007年(平成19年)5月にはアーレフから上祐派の信者たちが脱会、新団体「ひかりの輪」を結成した。この団体は麻原の教えからの脱却を志向していると主張し、またオウム被害者支援機構との協定により被害者への賠償金支払いを行っている。なお公安調査庁『内外情勢の回顧と展望』2010年1月版では、その活動が麻原の修行に依拠していることが報告されている[771]

山田らの集団編集

2014年(平成26年)から2015年(平成27年)頃、Aleph金沢支部の山田美砂子(ヴィサーカー師)を中心とした「山田らの集団」と呼ばれる分派が結成された[772]。「山田らの集団」は公安調査庁の定めた便宜上の呼称であり、正式な団体名は不明。

ケロヨンクラブ編集

ケロヨンクラブ」は1995年(平成7年)のオウム事件後に結成された分派。代表の北澤優子が信者の死亡事件で有罪判決を受けた。

偽装脱会者編集

麻原の4女によると、偽装脱会者が「第二オウム」として陰謀論占いスピリチュアル、IT、福祉などを通じ陰の布教を図っているという[773][774]

影響編集

宗教法人法改正編集

オウム事件以前は宗教法人性善説が一般的で、警察も宗教団体が犯罪を起こすことはないという先入観があった[775]。事件後の1995年12月、宗教法人法が改正された[775]。改正に当たっては法律界で様々な論争が起こった[776]

宗教法人オウム真理教解散命令事件で最高裁は、オウムは宗教団体の目的を著しく逸脱したことが明らかで、教団への解散命令は必要かつ適切で、憲法20条1項に違背しないと判決した。

日本のヨガ業界編集

オウム事件以降、ヨガのイメージが悪くなり、他のヨガ教室でも廃業に追い込まれたところも多かった[777]。日本のヨガ業界では、オウム事件のショックから、ヨガから宗教色を薄め、精神世界には立ち入らないようになったという[777]。2000年代のスピリチュアルブームの中、ヨガが再注目され、宗教ヨガとは異なる、現代ヨガが広まった[777]。2017年の調査では、日本のヨガ人口は月1回以上が590万人、年1回以上が770万人と推定されている[778]

関連作品編集

Category:オウム真理教事件を題材とした作品Category:オウム真理教を題材とした作品も参照。

映像作品
小説
  • 煉獄の使徒 - 馳星周による小説作品。新興宗教団体「真言の法」が登場する。
  • カルマ真仙教事件 - 濱嘉之による小説作品[781]。新興宗教団体「カルマ真仙教」やその教祖「阿佐川光照」などが登場する[782]
  • 川の深さは』 - 福井晴敏による小説作品。オウム真理教をモデルにしたと思わしき新興宗教団体「神泉教」が登場し、セムテックスを用いて地下鉄爆破テロを行った。同作者の続編『Op.ローズダスト』にも、名前のみが登場している。
  • 帚木蓬生「沙林 偽りの王国」新潮社 2021/3/26
ノンフィクション・随筆
  • 約束された場所で - 村上春樹によるオウム信者・元信者へのインタビュー作品。
  • 藤原新也黄泉の犬文藝春秋、2006年10月30日。ISBN 4163685308 
漫画
音楽

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 読みは「シヴァたいしん」。オウム真理教におけるシヴァ大神はヒンドゥー教シヴァ神よりも更に崇高な存在であり、ニルヴァーナを超えるマハーニルヴァーナに存在する真理勝者の集合体ですべての根本神であるとする。
  2. ^ なお、当初は「真理教」とする筈だったが「しんりきょう」と発音する宗教団体(神理教)が他に存在していたため商標登録の都合上、オウム神仙の会の名前から取り「オウム真理教」と命名したのではないかという考え方もできる。
  3. ^ 昭和29(あ)2861あん摩師、はり師、きゆう師及び柔道整復師法違反事件、昭和36年2月15日最高裁判所「本法があん摩、はり、きゆう等の業務又は施術所に関し前記のような制限を設け、いわゆる適応症の広告をも許さないゆえんのものは、もしこれを無制限に許容するときは、患者を吸引しようとするためややもすれば虚偽誇大に流れ、一般大衆を惑わす虞があり、その結果適時適切な医療を受ける機会を失わせるような結果を招来することをおそれたためであつて、このような弊害を未然に防止するため一定事項以外の広告を禁止することは、国民の保健衛生上の見地から、公共の福祉を維持するためやむをえない措置として是認されなければならない。」として、(きゅう)の適応型として神経痛、リヨウマチ、胃腸病等の病名を記載したビラの配布を同法7条違反罪が成立した。
  4. ^ のちオウムがシャンバラという建物を上九一色村に建てたため、オープン予定だった阿含宗の道場「シャンバラ」の名称を変えた。桐山1995,p.140
  5. ^ bodhicittaとは、サンスクリット菩提心。本来は「覚りを求める心」を指し、既に「目覚めた者」(buddhaは「目覚める」を意味する動詞√budhの過去分詞形が名詞化したもの)の心のことではない。オウム真理教独自の解釈。
  6. ^ この話はオウム真理教が江川紹子と出版社を相手取り損害賠償請求訴訟を行なった際の争点の一つとなったが、判決は「名誉毀損に当たらない」としてオウム真理教の請求を棄却した。
  7. ^ 立候補者が25名以上の政党には公職選挙法上確認団体と認められる利点がある。
  8. ^ 陸上自衛隊から戦闘用防護衣450着と化学防護衣50着を借用した。
  9. ^ 2015年2月20日高橋克也公判。
  10. ^ 裁判の迅速化を図るため麻原の起訴内容の内LSDメスカリン覚醒剤・麻酔薬等薬物密造に関わる4件に付いては2000年(平成12年)10月5日起訴を取り下げている。
  11. ^ オウム真理教の元代表野田成人は、教団の中では教祖である麻原彰晃の書籍以外は読んではいけないことになっていたが、中沢新一の『虹の階梯―チベット密教の瞑想修行』(1981年、平河出版社)はネタ本として半ば公になっており、教団内にふつうに存在し皆が参照していたと述べている。また、宗教学者の大田俊寛によると、ポアという言葉をオウム真理教に教えたのは本書である[273](ただし、同書にはポアの語は無く、代わりにポワと表記されており整合性に欠けている)。
  12. ^ 近代神智学とは、西洋と東洋の 智の融合・統一を企図したものであるされ、西欧神秘主義の伝統的な諸思想をアジアの諸宗教の用語によって装飾または再解釈したものであるが、チベットの霊的達人により伝えられた秘伝仏教であり、普遍の叡智であるとされた。
  13. ^ これは1個だけであり法律事務所に保管されていたため可能性はない。
  14. ^ 当初の横浜法律事務所との話の中で、教団は創価学会の名前を挙げた。
  15. ^ 11月17日夜にキャンセルされている。
  16. ^ 麻原彰晃が総選挙で出馬する選挙区。
  17. ^ 麻原の予言は自作自演であることから、自白とも取ることができる。
  18. ^ ゲッベルス、ゲーリングと仏教について出所不明であるが、浜本隆志「ナチスと隕石仏像 SSチベット探検隊とアーリア神話」(集英社新書)によれば、ナチス親衛隊(SS)隊長のヒムラーがアーリア神話に基づき、チベット調査隊を派遣し、隕石でできた仏像を持ち帰った。
  19. ^ 日本の暴力的指導の事例としては、正法寺暴行事件があり、2013年に曹洞宗宗務庁は同寺僧堂設置認可の取消し処分を行った[1]。野々村馨「食う寝る坐る永平寺修行記」新潮文庫 2001では永平寺での古参雲水による新来雲水への体罰について記載がある(p26-30,74-75)。
  20. ^ 四種法、七種法もある。德重弘志「Guhyamaṇitilaka における「四種法」について ─第四章の校訂テクストおよび和訳」高野山大学密教文化研究所紀要 第 31 号 p83-100,2018
  21. ^ 2003年(平成15年)には「アーレフ」、2008年(平成20年)にはさらに「Aleph」(アレフ)と改称した。

出典編集

  1. ^ 東京都に提出された宗教法人規則認証申請書より
  2. ^ a b オウム真理教について | 公安調査庁
  3. ^ a b 東京キララ社 2003, p. 27.
  4. ^ 東京キララ社 2003, p. 139.
  5. ^ a b オウム真理教 | 国際テロリズム要覧(Web版) | 公安調査庁”. www.moj.go.jp. 2019年1月26日閲覧。
  6. ^ a b 仏教経典に忠実なオウム真理教の教義 オウム真理教公式サイト(ウェイバックマシン)
  7. ^ a b 『生きている不思議 死んでいく不思議』-某弁護士日記「死刑執行回避署名のお願い」
  8. ^ 目次 オウム真理教 反社会的な本質とその実態(警察庁)
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 松本麗華『止まった時計』 p.37
  10. ^ オウム、その名の由来は あの頃飛び交った用語振り返る朝日新聞2018年7月6日 19時29分
  11. ^ 麻原彰晃モスクワラジオ電子自動制御大学講演会説法集説法集「宗教を科学する‐5大エレメントと分子運動」1992年4月25日
  12. ^ 『尊師に聞く1』AUM PRES 1992年 p.44
  13. ^ 有田芳生女性自身「シリーズ人間」取材班『「あの子」がオウムに!』 p.63
  14. ^ 瀬口晴義『検証・オウム真理教事件』 p.83
  15. ^ 高山文彦 『麻原彰晃の誕生』 文藝春秋、2006年、170-173頁
  16. ^ 目川重治 『目川探偵の事件簿』 データハウス、1995年、16-18頁
  17. ^ 一橋 2018, p. 48.
  18. ^ a b 毎日新聞 1995, p. 32-34.
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  21. ^ 毎日新聞 1995, p. 37-8.
  22. ^ 毎日新聞 1995, p. 36.
  23. ^ a b 朝日新聞2004年2月26日朝刊紙面「オウム教祖判決 傷あと 「麻原」判決を前に 5:教祖 失意重ね、一線越す
  24. ^ 毎日新聞 1995, p. 39.
  25. ^ 麻原の著書「超能力秘密の開発法―すべてが思いのままになる!」(1986年)
  26. ^ a b 高山 2018, p. 91-92.
  27. ^ a b 一橋 2018, p. 121.
  28. ^ a b 高山 2018, p. 92.
  29. ^ a b c d e f 渡邊学「サリン攻撃の後で オウム真理教と日本人」南山宗教文化研究所第6 号 1996年
  30. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as 武田道生「現代の終末予言宗教 ・オウム真理教の終末論研究の意味と課題」宗教と社会1997 年 2 巻 Suppl 号 p. 66-72
  31. ^ 著書「超能力秘密の開発法」
  32. ^ 高山 2018, p. 93.
  33. ^ 瀬口 2019, p. 39.
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