銚子市(ちょうしし)は、千葉県北東部の関東最東端に位置し、日本列島で最も早く初日の出が昇る[注 1]。日本屈指の水揚量を誇る銚子漁港を擁する国内最大規模の水産都市[1][2]江戸時代元和年間より続く醤油の銘醸地でもあり[3]ヤマサ醤油ヒゲタ醤油を中心に醤油産業の一大集積地を形成している。1933年昭和8年)に市制施行した東総地域の中核都市である[4]

ちょうしし ウィキデータを編集
銚子市
銚子市旗 銚子市章
1934年(昭和9年)1月15日告示
日本の旗 日本
地方 関東地方
都道府県 千葉県
市町村コード 12202-5
法人番号 6000020122025 ウィキデータを編集
面積 84.12km2
総人口 53,871[編集]
推計人口、2024年3月1日)
人口密度 640人/km2
隣接自治体 旭市香取郡東庄町
茨城県神栖市
市の木 サザンカ
市の花 オオマツヨイグサ
市の魚 イワシ
銚子市役所
市長 越川信一
所在地 288-8601
千葉県銚子市若宮町1-1
北緯35度44分05秒 東経140度49分36秒 / 北緯35.73464度 東経140.82678度 / 35.73464; 140.82678座標: 北緯35度44分05秒 東経140度49分36秒 / 北緯35.73464度 東経140.82678度 / 35.73464; 140.82678
地図
市庁舎位置
外部リンク 公式ウェブサイト

銚子市位置図

― 政令指定都市 / ― 市 / ― 町 / ― 村

ウィキプロジェクト

概要 編集

 
犬吠埼からの日の出

太平洋に突き出した半島状の地形をなし、三方を海に囲まれており、日本列島で最も早く初日の出が昇る街である[注 2]関東地方の最東端であり、江戸時代には「ほととぎす銚子は国のとっぱずれ」の句が詠まれた[5]。北側には日本最大の流域面積を持つ大河利根川が流れ、銚子から太平洋に注いでいる[6]。沖合は南からの黒潮と北からの親潮が交わる好漁場であり[7]、世界三大漁場の一つに数えられている[8]。太平洋に臨む巨大な外港を備える銚子漁港特定第3種漁港)は、全国各地から多数の漁船が入港して活況を呈し、水産物流通基地として揺るぎない地位を確立しており[9]、日本屈指の水揚量を誇っている[1]。広大な後背地には、卸売市場、水産会社、水産加工場、水産缶詰工場、冷凍冷蔵施設、製氷貯氷施設、関連運送業者・鉄工所・造船所、水産物・加工品販売施設等が集積し、国内最大規模の冷凍・冷蔵能力を有しており[2]、全国の消費地と直結可能な地理的優位性もあって[9]、名実共に日本随一の水産都市として発展している。銚子沖で手釣りによって漁獲される「銚子つりきんめ」は、千葉ブランド水産物第1号に認定された高級魚である[10]。魚市場周辺の商店街には、鮮魚店や老舗寿司店が点在している[11]。江戸時代元和年間に創始され、関東風濃口醤油が発祥した醤油の銘醸地でもあり[3]、街の中心部には、全国トップクラスの大手醤油メーカーであるヤマサ醤油(業界2位[12])、ヒゲタ醤油(業界4位[12])の主力工場が立地操業し、製造品出荷額800億円を超える醤油産業の一大集積地を形成している[13]。各社では、蓄積されたバイオテクノロジー技術を応用し、核酸関連物質を利用した医薬品化成品等の研究開発を進めている[14]明治時代から東総地域の中核都市として発展を続けており[4]公共交通ネットワークの拠点である銚子駅を中心として、国・県の出先機関金融機関の本店・支店、商業・業務施設等の高次都市機能が集積し、千葉県東部で最大規模の人口集中地区を形成している[15]。市の財政力指数は0.61(令和3年度)であり、県東部地域において最も高い財政力を有している[16]

銚子半島に人が暮らし始めたのは約1万5千年から2万3千年前の旧石器時代であり、海上台地の密林を背景に三方を太平洋に臨むこの地では、数千年の間狩猟と漁労を中心とした生活が営まれ[17]、市内の粟島台遺跡や余山貝塚からは多くの縄文土器骨角器が出土している[18]歴史時代に入ってから、半島に続く広大な下総丘陵一帯は下海上国造の所領として繁栄し、その区域は香取郡南半から匝瑳郡の大部に及んでいた。後に郡郷時代となっても、海上郡は15郡の大郡であった[17]。下って平安時代末期、武士が勃興する頃になると、中央貴族桓武平氏の末孫で房総の大族となった千葉氏の支流、東氏・海上氏が銚子地方を領有するようになり[17]、船木郷には海上氏の居城として中島城が築城された[18]。海岸の犬岩や千騎ヶ岩には、源義経(九郎判官義経)にまつわる伝説が残されている[18]

江戸時代、東廻り海運と利根川水運の中継港となったことで、海運関連業を中心に、上方から紀州移民によって伝えられた鰯漁や醤油醸造、各種商工業が盛んとなり、東国屈指の河港都市として繁栄した[19]坂東三十三観音札所である飯沼観音を中心として、花街や興行街も発達した[17]。利根川河口の航海の難所を望む川口明神は、銚子港の守り神として漁民の信仰を集め、付近の丘には漁船遭難の犠牲者を供養した千人塚が築かれた[20]。幕末、豊漁を祝って川口明神に奉納された「銚子大漁節」は、銚子を代表する民謡として広く喧伝されている[21]明治維新後は、文明開化が急速に進展する中で、犬吠埼灯台銚子測候所銚子無線電信局が相次いで開設した[17]。利根川には蒸気船が就航し、次いで総武本線銚子遊覧鉄道成田線の各鉄道が開通した[17]。都市の発展に伴って多くの企業・銀行が設立され、図書館映画館カフェー等の文化娯楽施設も充実した[19]大正時代末期からは銚子築港工事が開始され、銚子港は天然の泊地から東洋一の近代漁港へと大きく転換することとなった[19]。築港促進運動の中、各町村の協力一致による大銚子市建設の機運が高まり、1933年昭和8年)2月11日銚子町本銚子町西銚子町豊浦村の3町1村が合併して市制を施行し、千葉市に次ぐ千葉県第2の市として銚子市が発足した[18]1937年(昭和12年)には、高神村海上村の合併が実現した[19]

太平洋戦争末期、B29の大規模空襲により、市街地は壊滅的な被害を受けた[19]。戦後は戦災復興都市計画事業に基づく土地区画整理と道路・公園等の整備が実施され、近代都市としての都市基盤施設の整備が進められた[19]。さらに船木村椎柴村豊里村豊岡村の編入により、市域・人口規模は大幅に拡大した[19]高度経済成長期には、銚子大橋の開通、銚子漁港の総合漁業基地化、外川漁港の改修、名洗港臨海工業用地の造成、食品加工産業の発展、海岸地域の観光開発、豊里ニュータウンの建設等が進んだ[19]平成に入ってからは「総合保養地域整備法」に基づく「房総リゾート地域整備構想」の重点整備地区に指定され、観光拠点施設や広域幹線道路の整備が推進された[19]。銚子駅から飯沼観音に至る主要商店街の景観整備も順次実施された[19]。名洗港(地方港湾)は国の「海洋性レクリエーション拠点港湾」の指定を受け、千葉県内最大の収容能力[22]を有する「銚子マリーナ」を中心とした滞在型マリンリゾートとして開発され、あわせて隣接地に海浜緑地公園や海水浴場が整備された[19]。西部地区には風力発電施設が多数建設され、関東最大規模のウィンドファームを形成している[23]。近年は、子育て支援サービスの充実に加え、多極ネットワーク型コンパクトシティの構築等による持続可能な都市づくりが推進されている[24][25]

銚子半島の海岸一帯は水郷筑波国定公園の中心的地域であり、太平洋に臨んで白亜の灯台が屹立する犬吠埼英国ドーバー海峡ホワイト・クリフ)になぞらえて「東洋のドーバー」と称される[26]断崖絶壁が続く屏風ヶ浦日本の渚百選に選定された白砂青松の君ヶ浜、地球の丸く見える丘展望館が建つ北総最高峰の愛宕山等、風光明媚な景勝地を有する千葉県随一の観光都市である。歴史文化遺産が多数存在する古都でもあり[23]、外川の歴史的町並みや伝統工芸品、漁業にまつわる祭祀や信仰は日本遺産に登録されている[27]。犬吠埼には化石海水源泉が湧出し[28]、海岸沿いに温泉宿が建ち並んで犬吠埼温泉郷を形成している。毎年8月には、銚子の夏の風物詩である「銚子みなとまつり」が開催され、利根川河畔に約5000発の花火が打ち上げられる花火大会[29]、約1000人の担ぎ手による銚子銀座通りの神輿渡御、伝統芸能「はね太鼓」の演舞が行われて銚子の街は祭り一色となる。年間を通じて約250万人の観光客で賑わい、東京・銚子間には特急列車しおさい」が運行されている[21]。港町の佇まいや海岸風景は多くの映画ドラマのロケ地となっており、「銚子フィルムコミッション」による積極的な支援活動が行われている[30]。市では、豊富な地域資源や立地条件を活用したシティプロモーションの展開により、移住・定住や長期滞在・交流型ワーケーションを促進している[31]

現役の西洋型第1等灯台の中では日本最古の灯台である犬吠埼灯台は、1866年慶応2年)に江戸幕府が英仏蘭米4国と締結した江戸条約に基づき、横浜北米間航路の重要な灯台として、その設置が明治政府と米国公使の間で商議されたのが最初であった[17]1872年(明治5年)、工部省招聘の英国人技師ブラントンの設計施行のもとに起工され、1874年(明治7年)に完成・初点灯し、文明開化の先駆けとなった[19]。造営にあたっては国産煉瓦約19万枚が使用され、耐震性を高めるため世界的に珍しい二重壁構造が採用された[32]。レンズはフランス製のフレネル式第1等8面閃光レンズであった[19]1910年(明治43年)に建設された霧信号所は、鉄造ヴォールト屋根の霧笛舎としては当時最大規模を誇り[32]、20馬力の吸入瓦斯発動機を原動力としてサイレンを吹鳴した[17]。歴史的価値の高さから国の重要文化財近代化産業遺産に指定され[32]世界灯台100選日本の灯台50選にも選定されている[19]。参観者数は国内の灯台の中で最多である[33]

銚子半島は奇岩怪石・断崖絶壁・白砂青松・怒涛等、変化に富んだ海岸美を有し、江戸時代の文化文政期には江戸在住の文人墨客が相次いで銚子の磯巡りに訪れ、和歌・俳諧・漢詩等に雅趣を述べている[17]。明治時代に鉄道が開通して以降は避暑客や海水浴客が増加し、東京近郊の別荘地として発展を遂げた[21]1905年(明治38年)、宮内省により犬吠埼に伏見宮貞愛親王御用邸「瑞鶴荘」が造営され、親王は毎年避暑・避寒にこの地を訪れた[34]。また、著名な知識人や国内外の文学者も避暑に訪れ、海辺の旅館や貸別荘に滞在して執筆活動を行った[35]竹久夢二の代表詩「宵待草」は、明治末期の海鹿島海岸での長谷川カタとの悲恋を詠ったものである[36]濱口梧洞が設立した財団法人公正会の活動拠点となった公正会館は、公正図書館や公正学院を備え、銚子を中心とした文化の殿堂として発展した。公正会が主催した講演会や音楽会には各界の文化人が招かれ、銚子の文化的風土が形成されている[19]。文豪・国木田独歩の出生地であり[37]、海鹿島海岸の松林には「独歩吟」の一節である「なつかしき わが故郷は 何処ぞや 彼処にわれは 山林の児なりき」を刻んだ碑が建てられている[38]

銚子は古くから野球が盛んであり、関根知雄田中達彦木樽正明杉山茂町田公雄渡辺進根本隆篠塚和典八木政義石毛博史窪田淳澤井良輔榊原翼等、数多くのプロ野球選手を輩出している。1900年(明治33年)創立の千葉県立銚子商業高等学校は春8回、夏12回という千葉県最多の甲子園出場記録を保持する高校野球の名門校であり[39]1965年(昭和40年)と1995年(平成7年)に準優勝、1974年(昭和49年)に全国優勝を果たしている[40]。「黒潮打線」の異名を持ち、相馬御風作詞の校歌は広く全国に知られる[35]

銚子は千葉県唯一のジオパーク認定地であり、日本列島の地質構造を大きく二分する東北日本西南日本の境界断層付近に位置している[21]。銚子半島は愛宕山を中心として局所的に隆起しており、東関東で唯一、古生界基盤岩が露出している[21]。愛宕山・犬岩・千騎ヶ岩を構成する愛宕山層群は、中生代ジュラ紀に形成された砂岩泥岩からなる付加体で、千葉県最古の地質時代の岩石である[21]。愛宕山層群の上部には白亜系の銚子層群があり、アンモナイトトリゴニア等の恐竜時代化石を多産する[21]。犬吠埼周辺は漣痕化石等の浅海特有の堆積構造や生痕化石が観察できる場所として貴重であり[19]、国の天然記念物に指定されている[41]。さらに、愛宕山層群と銚子層群を覆う中新統が川口・黒生・長崎に分布しており、日本列島が形成された時代の古銅輝石安山岩からなる溶岩流を含む千人塚層と海成シルト岩からなる夫婦ヶ鼻層に二分される[21]。長崎の礫岩層からは、鮫の歯、鯨の骨、象の臼歯等の多様な化石が発見されている[21]。銚子半島南側の海岸線に広がる屏風ヶ浦の海食崖は、下総台地の地下構造が観察可能で、下位から犬吠層群、香取層、関東ローム層に区分される[21]。屏風ヶ浦は江戸時代から景勝地として親しまれ、地質学上、また観賞上の価値が高く、国の名勝及び天然記念物に指定されている[42]

銚子の年間平均気温は15度、最高気温と最低気温の差は6度前後であり、夏涼しく冬暖かい快適な気候である[43]。多くの自然が残る緑豊かな土地であり、人手の加わっていない極相林や多種多様な海岸植物が見られる[21]。君ヶ浜国有林は「銚子ジオパークの森」として、林野庁と銚子ジオパーク推進協議会の共同による保全・活用の取り組みが進められている[44]。近海には20種を超える野生のイルカクジラが生息しているほか、利根川河口付近は世界有数のカモメ探鳥地となっている[21]ミネラルを豊富に含んだ土壌と温暖な気候を生かした農業も盛んであり、主にキャベツダイコン等の露地野菜が栽培され、首都圏における生鮮野菜の供給基地となっている[45]。銚子の春キャベツは「灯台キャベツ」と名付けられたブランド野菜であり、生産量は全国1位である[45]。また、銚子メロンは糖度の高いことで知られ[4]、品質等が市場や消費者から高く評価されて、第16回日本農業賞を受賞している[19]

2020年(令和2年)7月、「海洋再生可能エネルギー発電設備の整備に係る海域の利用の促進に関する法律」(再エネ海域利用法)に基づき、銚子沖が洋上風力発電事業を推進するための促進区域に指定され、2021年(令和3年)12月には促進区域における洋上風力発電事業者として三菱商事等の共同事業体「千葉銚子オフショアウィンド」が選定された[46]。促進区域内には13メガワットの大型風車31基が建設され、2028年(令和10年)9月に運転を開始する計画であり[24]、漁場実態調査や名洗港の建設補助・維持管理拠点港湾としての整備が進められている[47][48]。市は2021年(令和3年)2月、2050年(令和32年)までに温室効果ガスの排出量を実質ゼロにすることを目指す「ゼロカーボンシティ」を表明し、官民協働で再生可能エネルギーの導入を促進している[49]。市では、「銚子市ゼロカーボンビジョン」に基づき、地域新電力「銚子電力株式会社」と連携した再生可能エネルギーの地産地消システム(マイクログリッド)の構築、ICTを活用した漁場の可視化や藻場の育成による海洋環境の保全、AI(人工知能)やロボットを活用したスマート農業の推進、災害時の移動電源としても活用されるEVPHEVFCVの市内導入、都市緑化やブルーカーボン生態系による二酸化炭素吸収源対策等を進め[49]、豊かな自然環境と共生したエネルギー産業の先端都市の実現を目指している[50]

地理 編集

 
利根川河口と銚子市街地

本市は千葉県北東端、関東平野の最東端に位置する。市域は東西に約16.2キロメートル、南北に約12.8キロメートルへと広がり、面積は84.20平方キロメートルである。市域の北部は利根川を経て茨城県と相対し、東と南側は太平洋、南西側は九十九里平野に続いている。東京から約100キロメートル、千葉市からは約70キロメートルの距離である。地形は、平坦な台地とそれを刻む谷津、利根川沿岸の段丘化した低地からなっており、太平洋に突き出した半島部分は、千葉県内で最も古い中生代ジュラ紀から白亜紀の地層が露出している。太平洋に面した海岸は海食崖と砂浜が繰り返され、屏風ヶ浦等の海岸美がみられる。東端の海食崖上には犬吠埼灯台が設置されている。気候は海洋性気候であるため多雨で、夏涼しく冬暖かい[4]

海洋性の温暖で湿潤な気候、下総台地と利根川低地、更に海食と堆積による複維な海岸地形をもち、太平洋の沖合に好漁場が存在することが、本市の産業を特徴づけてきた。たとえば太平洋に面して温暖な台地上には野菜の特産地が形成された。また、海岸観光は本市の観光の中心となっている。土地利用を見ると、海岸の防風林や台地縁の斜面林等の山林を除けば、市域の約7割が農地及び宅地となっている。産業は、農業漁業醤油製造・水産加工を主とする製造業商業サービス業がそれぞれバランスよく成立している[4]。銚子は近世に東北地方江戸を結ぶ東廻り海運と利根川水運の中継港となり、紀州から移住した漁民や醸造業者によって都市が形成された。1933年昭和8年)には、銚子町本銚子町西銚子町豊浦村の3町1村が合併して市制を施行した。千葉市に次いで千葉県内で2番目の市制施行であった。更に1937年(昭和12年)に高神村海上村の2村が合併し、1954年(昭和29年)から1956年(昭和31年)にかけて船木村椎柴村豊里村豊岡村の4村を編入した。漁港・商工業地として千葉県下有数の都市となった本市は、千葉県東部全域から茨城県南部に及ぶ広大な地域を勢力圏内に含め、東総地域の中核都市としての強い独立性をもって発展してきた。古くから本市と茨城県鹿島郡波崎町を結ぶ利根川渡船が運航され、1962年(昭和37年)には銚子大橋が開通した[4]

銚子半島は、拳のような形で北側の鹿島灘と南側の九十九里浜とを分けるように太平洋に突き出している。鹿島灘の海岸と九十九里浜のいずれも緩やかな曲線を描く砂浜が、銚子半島では屈曲のある海岸線に変わり、短い砂浜と、切り立った海食崖の組み合わせがこの半島を特徴づけている。地形地質的には、海岸部が複雑で、その後方の利根川と九十九里浜とに挟まれた内陸地は、標高40から50メートルの関東ローム層を載せた平坦な第四紀層の台地とそれを刻む谷津、利根川に沿う低地とで成り立っている。市内で最高地点である愛宕山(73.6メートル)の丘陵及び海岸の所々にある岬と島には、千葉県内でも最古の中生代のジュラ紀から白亜紀の地層が露出している。これらの地層は硬く海食が進まず、複維な海岸線による海岸美が生み出された。銚子半島が中ほどでくびれた形になっているのは、突端部が全体として浸食されにくかったからである。住宅地のほとんどは利根川沿いの低地に連なり、また、本市の海岸観光は、複雑な海岸線と地形をその資源としている[4]

地勢 編集

本市の地勢の特性は、丘陵性台地の発達と、これに伴う小規模の坂と谷との錯綜である。西方より延び来たった下総台地は、名洗・新生を結ぶ半島くびれ部の低地帯に終末を告げるが、先端部には最高73.5メートル(愛宕山)の34.5メートル(笠上町西端)内外の丘陵が連亘して、一帯の高台を形づくっている。この台地の飯沼に接する辺は、和田山・浅間山・前鬼山等の高地となり、清水坂・浅間坂等の傾斜を見せている[17]

一方利根川に沿う低地帯は、安是ノ海時代の名残りを思わせるような砂地で、松本・本城から松岸・余山にかけてのあたりには砂丘が残存する。これに対し、南方に急崖をなして迫る海上台地は50メートル内外の高原をなしているため、至るところに急坂が見られる。そしてこれらの台地の諸処に、浸食によってできた細い谷が帯のように深く入り込んでおり、いずれも耕作水田が営まれている。水田に恵まれない当地方にあっては、これらの谷が利根川沿いの地帯に次ぐ重要な米作地であり、最大限に利用せざるを得なかったのである[17]

南北狭小な地形のため、利根川以外にはこれといった河川は見られず、僅かに各々の谷から流入する細流があるだけである。その小川も太平洋側に流れるものは少なく、ほとんど利根川に注いでいる。半島で太平洋に入るものは、屏風ヶ浦の通蓮洞に注ぐ磯見川と、名洗から海に流れ出る小畑川の2川だけである。利根川に流入する河川は、東より滑川、清水川、八幡川、高田川、忍川等であるが、流路最長の高田川でも僅か7〜8キロメートルの長さである[17]

地形 編集

 
屏風ヶ浦

本市の地形は台地と低地に分類され、更に台地は東側の半島部と西側の本土部に分けられる。半島部の西の端は名洗の谷と呼ばれ[43]、幅が狭く、くびれて低い谷部に連なり、谷は更に延びて本土部とのつねぎとなっている。本土部の三角形の北辺の利根川に沿ったJR総武本線までの幅約1.5キロメートルにわたる沖積地一帯は標高10メートル以下の平坦な低地帯で、ここに市街地が形成され市の中枢地帯となっている[43]

半島部は西から東に向かって突き出した拳のような形をなし、東西3.5キロメートル、南北6キロメートルの低い平坦な台地状をなしている。平坦上には残丘状の愛宕山が中央南寄りにあり、海抜73.6メートルの高さをもつ。飯沼観音を経て黒生に至る道路に沿った35.7メートルの高地が愛宕山に次いで高いところである。これは大きく見れば台地平坦面の一部であるが、愛宕山と共に銚子半島を東と西に分ける脊梁のようなものである。これより東は太平洋に向かってゆるく傾斜し、西は名洗の谷を隔て、本土の方の台地へ面している。太平洋に向かう部分は、元来25メートルから30メートルの高さであった平坦な台地が浸蝕されて、ゆるい谷が出来たものと考えられる。半島の西半、即ち榊町の平坦台地は関東地方一帯によく発達している段丘地形と全く同じ性質のもので、海抜25メートルから30メートルある。この台地は海の浸蝕作用によって出来た平坦面上に、成田層(砂礫層)及び関東ローム層(火山灰)が堆積したもので、広く千葉・東京・茨城方面に広がる武蔵野段丘の一部である。高神原町及び名洗町の北には、この段丘を浸蝕してできた新しい谷があり、泥炭を含む沖積層を堆積し、水田として耕作されている。谷に面し、少し低くなった段丘の端には、旧石器時代の人類遺跡がある。武蔵野段丘の生成は成田層を被うローム層によって示されるように洪積世後期であり、新しい谷が出来たのは沖積世である[17]。半島部の犬若から名洗を経て本土部に続く海岸線は高さ40メートルから58メートルの屏風ヶ浦の絶壁で、太平洋の波浪の海蝕作用により海岸線が大きく後退したものである[43]

名洗より西方は、本土部の関東平野の東端にあたり、九十九里浜と利根川に挟まれて三角に広がっている。利根川南岸に沿う幅1.5キロメートルの間は、幅10メートル以下の沖積平野であるが、それ以外に大部分は武蔵野段丘に相当する極めて平坦な台地である。この台地は半島西半の台地と全く同時代に、同じ成因によって出来たものであるにもかかわらず、その平均の高度が半島部よりも高い。かつ太平洋側の急激な海蝕作用のために、屏風ヶ浦が陸地に向かって後退するため、利根川と屏風ヶ浦との間の分水嶺は著しく南に偏っている。したがって、台地上の最高点は屏風ヶ浦の崖に接する[17]

半島東海岸の夫婦ヶ鼻から長崎に至る海岸は安山岩や白亜紀の砂岩古生代粘板岩等に保護されているため、第三紀の軟らかい地層の南海岸のように海蝕が著しくはないが、やはり険しい崖が発達している。武蔵野段丘形成後の河蝕は、利根川に向かうものと太平洋に向かうものの2系統に分かれる。谷壁は急傾斜の段丘崖を形成し、川と川の間には広い平坦面が残されており、武蔵野段丘を浸蝕しはじめた幼年期の地形を示している。この浸蝕作用が始まって間もなく陸地が沈降したために谷の下流の部分が沈水し、沖積層が堆積して、谷ごとに低い細長い平野が出来ている。愛宕山山麓の小畑池は、谷の下流が君ヶ浜の砂丘の発達によってせきとめられて出来たもので、昔は小畑・小畑池・君ヶ浜という方向に流れていたものである[17]

銚子半島沖では、海底の傾斜は60分の1内外であるが、陸岸から約4キロメートル離れた深さ20〜50メートルの部分に、直径2〜5センチメートルで丸く滑らかに水磨された礫が存在する。これよりも岸に近寄った部分には細砂ばかりの地帯が幅3キロメートルも続いているが、沖合遙かにはこのような礫や細かい砂がある。すなわちこれらの礫や粗砂は、波浪や海流等で現在の海岸から運搬されてきたものではなく、過去の産物が沈水したものである[17]

地質 編集

 
犬吠埼 砂岩泥岩互層

銚子は地質研究の宝庫と呼ばれる[51]ほど、各時代の地層が市内随所に見られる。愛宕山を中心に局所的に隆起しており、東関東で唯一、古生界の基盤岩が露出している。また日本の地質体を大きく二分する「東北日本」「西南日本」の境界付近に位置し、この境界の東端はまだ確定していないため銚子の地層がその解明を担うものとして学術的に注目されている[21]。太平洋に突き出た半島状の独特の地形、そして犬吠埼や屏風ヶ浦等の地質資産を核として大地の成り立ちが比較的容易に、そして安全に学べる場所であることから、2012年(平成24年)に日本ジオパークに認定され、市域全体を活動のエリアとして「銚子ジオパーク」活動を推進している[21]

本市は地質学的にみても、東の半島部と西の本土部に分けられる。すなわち半島部には、古生代二畳紀層・中生代白亜紀及び頑火輝石安山岩を基底とする新生代第三紀層並びに第四紀層が存在するが、本土に属する部分には、新生代の地層以外には古い地層の露出が知られていない。愛宕山を中心として残っている古生層は、白亜紀の地層を堆積する時にその物質を供給し、更に新生代の地層が堆積を始めた時には、この古生層が白亜紀層と共に島のような形をしてそびえていた。本土方面の第三紀層は、この昔の島の西側に堆積し、非常にゆるやかな傾斜をもって西方に傾き、漸次上位に地層を重ねている[17]

愛宕山や犬岩、千騎ヶ岩は愛宕山層群と呼ばれ、約2億年前に形成された付加体である。愛宕山(標高73.6メートル)は北総台地最高峰となっており、硬く侵食されにくいため海に突出するような高台が形成されている。東海岸に露出する白亜系の銚子層群は礫岩砂岩泥岩からなる約1億年前の地層であり、アンモナイト等の化石を多産している。犬吠埼付近は浅い海の堆積構造や生痕化石がよく観察できるため「犬吠埼の白亜紀浅海堆積物」として国の天然記念物に指定されている。この銚子層群の砂岩は「銚子石」と呼ばれ、古くから建材等に利用されてきた。銚子の中新統は火山礫凝灰岩からなる安山岩の溶岩流を含む千人塚層と海成シルト岩からなる夫婦ケ鼻層に二分され、いずれも日本海が形成された時代の地層である。千人塚層の安山岩は利根川河口の川口、黒生、長崎に露出しており、銚子漁港整備に伴い取り除かれた安山岩はその一部が古銅輝石安山岩公園に保存展示されている。また、かつて夫婦ヶ鼻層は本市北東端の夫婦ヶ鼻から海岸沿いに黒生付近まで連続して露出していたが、銚子漁港建設工事により銚子ポートタワー下にわずか6メートル程度が露出するのみとなっている[21]

下総台地の平坦面はかつての海岸近くの海底面で、隆起と汎世界的な海水準変動の結果、基本的に4段面の後期更新統の海成段丘が分布する形となった。この台地には谷がいくつも刻まれており平坦面は農業や畜産業に利用されている。本市の南の海岸線は、犬若から緩やかに湾曲し、屏風ヶ浦と呼ばれる海食崖が広がっている。この崖は下総台地の東端にあたり、常に波浪によって侵食が続いている。屏風ヶ浦では下総台地の地下断面が観察でき、地層は下位から犬吠層群、香取層、関東ローム層の3つに区分することができる。屏風ヶ浦は江戸時代後期以降、景勝地として著名となり、国指定名勝および天然記念物として指定されている[21]

土地利用 編集

 
銚子大橋前交差点

本市の主要な市街地は2020年令和2年)国勢調査による人口集中地区がほぼこれにあたり、利根川沿いに銚子駅・飯沼観音・銚子漁港を中心として形成された地区で、面積9.6平方キロメートル、人口31947人(総人口の約50パーセント)、人口密度1平方キロメートル当たり3338.2人となっている[52]。市南部の外川漁港を中心とした地区にも人口が集中している。この2地区を連絡する主要道路・鉄道の沿線には、市街地の周辺部及び高神地区等の集落があり、国道356号沿いとその南側の台地の一部には、海上・船木・椎柴・豊里の各地区の集落が形成されている。また国道126号沿いには市街地の周辺部を経て豊里地区の集落がある。

商業地は市街地内に住居地と混在しているほか、郊外の国道126号沿いに大型商業施設(イオンモール銚子)が立地している。工業地は醤油製造等の工場が内陸部に、造船・機械製造修理・缶詰製造・水産加工等の工場が利根川沿岸及び銚子漁港周辺に立地しているほか、名洗港臨海工業地域、銚子漁港域内の水産物産地流通加工センター及び小浜工業団地等がある。高度経済成長期以降、市街地、特に利根川沿岸の中心市街地が世帯の細分化、産業活動の進展、地価の高騰等を背景に、主に国道126号、国道356号、県道銚子公園線県道外川港線及び銚子電気鉄道線沿線等に沿って拡大している。農業地は、利根川沿岸の平地水田地帯と東部及び南西部の丘陵性台地畑地帯からなり、その面積は2540ヘクタールで、市域面積の約30パーセントを占めている。このうち農振法に基づく農業振興地域は6868ヘクタール、農用地区域は2109ヘクタールである[52]

本市では、2019年(令和元年)策定の「銚子市総合計画基本構想」に土地・周辺海域利用方針が示されており、その基本方針は「まちの賑わいを育み、人や自然にやさしいコンパクトな都市構造への展開と地域の特性を生かした土地利用の推進」とされている[53]。各種の個別法等による規制としては、「自然公園法」に基づいて、川口町から犬吠埼を経て、屏風ヶ浦に至る太平洋沿岸部の陸域・海域一帯と四日市場町から上流の利根川沿いの陸域・水域一帯が水郷筑波国定公園の第二種特別地域第三種特別地域として指定されている。また、「千葉県立自然公園条例」に基づく屏風ヶ浦一帯と七ツ池を含む内陸丘陵部は県立九十九里自然公園普通地域に、猿田神社周辺の森は千葉県郷土環境保存地域に指定されている。愛宕山頂附近は「銚子市地球の丸く見える丘景観条例」に基づく景観形成地区である。いずれの区域についても法・条例に基づき、すぐれた自然環境の保全・活用を図るために各種開発行為が制限されている[19]

気候 編集

 
日本列島近海の海流
1.黒潮 2.黒潮続流 3.黒潮再循環流 4.対馬暖流 5.津軽暖流 6.宗谷暖流 7.親潮 8.リマン寒流

本市は太平洋に突出し三方を海と河に囲まれ、また、沖合が黒潮と親潮が交わる寒暖流の交錯地点であることにより、日夜の気温差は僅少であり、年間平均気温は15度、最高気温と最低気温の差は6度前後と夏涼しく冬暖かい住みよい気候である[43]。湿度は夏に高く冬は低いが、年平均75パーセント前後と内陸方面に比べて相当高い。いわゆる海洋性気候の土地であり、降雪も降霜も少なく、極めて僅かの量である。年間降水量は1700ミリメートル以上あり、冬は晴天が続く。年間の晴曇は相半ばし、降雨日数は平均約127日であり、千葉県内でも雨が多く、雨と黒潮の影響により濃霧の発生する日が多い地域である。この気候が良質の醤油を生んだ素因であり、また、寒暖流の交錯地点である沖合は全国屈指の好漁場となっている。年間を通して比較的風が強く、無風の日は僅かであり、一日の中でも風向の変転が急激である。例えば、春季の風は北東から南東で、午前中は北東から吹き、午後は南東に転じ、夜間は北東に帰る。夏季は南東から南で、午前中は南東より吹き、午後はやや東に偏り、夜間は南東に転ずる。秋季は北東が多く、午前中は北東より吹き午後は東に偏り、夜間は北東となる。冬季は北西から北で、午前中は北と西の間より吹き、午後より日没までは北から北北東に転じ、夜は北西より吹く、といった具合である[43]

外洋に面しているため、東京湾内に比べて干満の差ははるかに小さくなっている。普通は潮の満ち引きは1日2回起こる。銚子では朔と望、すなわち新月と満月の時はそうであるが、上下弦すなわち月が半分に見える時は、1日1回の満ち引きとなる。これを日潮不等と呼ぶ。そして朔望の時が干満の差が大きく、このうち特に干満差の大きいのが大潮である。また二回潮でも、5月から9月までは昼間の方が夜間より干満差が大きく、反対に10月から4月までは夜間の方が大である。大潮は旧5月または6月15日頃、昼間の干満差が最大に達する時で、銚子では旧暦6月15日に盛大な大潮祭りが行われる[17]

銚子市川口町(銚子地方気象台、標高20m)の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 23.6
(74.5)
24.0
(75.2)
23.3
(73.9)
25.9
(78.6)
29.5
(85.1)
32.0
(89.6)
34.8
(94.6)
35.3
(95.5)
33.7
(92.7)
30.6
(87.1)
25.4
(77.7)
23.4
(74.1)
35.3
(95.5)
平均最高気温 °C°F 10.1
(50.2)
10.3
(50.5)
12.8
(55)
17.0
(62.6)
20.5
(68.9)
23.0
(73.4)
26.6
(79.9)
28.6
(83.5)
25.9
(78.6)
21.5
(70.7)
17.3
(63.1)
12.7
(54.9)
18.9
(66)
日平均気温 °C°F 6.6
(43.9)
6.9
(44.4)
9.7
(49.5)
13.8
(56.8)
17.4
(63.3)
20.2
(68.4)
23.5
(74.3)
25.5
(77.9)
23.4
(74.1)
19.2
(66.6)
14.4
(57.9)
9.3
(48.7)
15.8
(60.4)
平均最低気温 °C°F 2.9
(37.2)
3.3
(37.9)
6.4
(43.5)
10.7
(51.3)
14.8
(58.6)
17.9
(64.2)
21.2
(70.2)
23.3
(73.9)
21.3
(70.3)
16.8
(62.2)
11.1
(52)
5.7
(42.3)
13.0
(55.4)
最低気温記録 °C°F −6.2
(20.8)
−7.3
(18.9)
−4.3
(24.3)
−0.2
(31.6)
4.3
(39.7)
10.2
(50.4)
13.0
(55.4)
15.9
(60.6)
11.2
(52.2)
4.5
(40.1)
−1.3
(29.7)
−4.6
(23.7)
−7.3
(18.9)
降水量 mm (inch) 105.5
(4.154)
90.5
(3.563)
149.1
(5.87)
127.3
(5.012)
135.8
(5.346)
166.2
(6.543)
128.3
(5.051)
94.9
(3.736)
216.3
(8.516)
272.5
(10.728)
133.2
(5.244)
92.9
(3.657)
1,712.4
(67.417)
降雪量 cm (inch) 0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
平均降水日数 (≥0.5 mm) 8.2 9.1 13.0 12.3 11.3 12.3 10.4 7.4 11.8 13.3 10.6 8.7 128.4
平均降雪日数 4.5 6.0 1.7 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.9 13.1
湿度 62 64 68 74 82 88 90 87 84 77 72 66 76
平均月間日照時間 179.8 159.0 168.9 183.0 188.9 142.3 174.0 221.3 159.0 137.9 140.1 163.7 2,017.8
出典:気象庁 (平均値:1991年-2020年、極値:1887年-現在)[54][55]

植生 編集

 
犬吠埼崖地植生群落

本市は海岸一帯を中心に水郷筑波国定公園や千葉県立九十九里自然公園風致地区に指定され、各種法令により開発行為が制限されている。このため比較的多くの自然が残り、貴重な植生や環境に適した変化を遂げた植物を見ることができる。銚子の森は照葉樹林で一年中緑豊かな土地であり、人の手が加わっていない環境の中形成された極相状態にある森林の中で最も広く見られるのは、スダジイタブノキが茂った照葉樹林で、古い寺社の社叢林や丘陵の傾斜地で見ることができる[21]

社叢林のうち「渡海神社の極相林」と「猿田神社の森」が千葉県指定の天然記念物である。南向きの乾きやすい斜面や急な尾根の潮風の影響がやや強い場所はスダジイの林で、林の中にサカキヤブニッケイなど常緑の低木があり、地表にはヤブコウジベニシダ等の草本類が生えている。やや北向きの斜面や深い谷、沢沿いの湿った環境にはタブノキが多く、林の下はアオキが、地表はイノデが主体である。遠望すると青みがかったタブノキの密な樹冠が特徴的である。海岸線の植生も特徴的で、「外洋性海岸砂丘地」の君ヶ浜一帯は、コウボウムギネコノシタハマゴウオオマツヨイグサ等を見ることができる。「犬吠埼崖地植生群落」や「犬若海岸崖地植生群落」では、海岸崖地の厳しい環境下で生育するイソギク、タイトゴメ、ハチジョウススキ、ヒゲスゲ等の植物群落がある。このような「崖地植生」は屏風ヶ浦に面する海食崖付近でも確認できる[21]

利根川の河川敷にはヨシ原が広がり、マコモガマ類、オギ、イソギクカサズゲ等が観察できる。ヨシ原に混じって見られたタチヤナギ群集は、河川改修が進む過程で断片的なものとなっている。利根川沿岸の浜堤上に形成された東光寺には千葉県の県木であるイヌマキがまとまって生育しており、銚子市指定天然記念物である。この地域では、利根川方向から吹く「筑波おろし」の北風を防ぐためにイヌマキを屋敷林として利用する家が数多く見られる[21]

生態系 編集

 
銚子海洋研究所

本市には約150種の鳥類が生息している。利根川河口から長崎鼻までの沿岸部は千葉県内有数の渡り鳥の渡来地で、2012年(平成24年)度から千葉県の「銚子鳥獣保護区」に指定されている。利根川河口では冬になると多くの種類のカモメウミネコウミウ、海洋性のカモ等が飛来する。最も多いのはウミネコやセグロカモメで、外洋性のミツユビカモメも時折見ることができ、本市は日本だけでなく国際的にも有数のカモメのバードウォッチングに適したエリアとなっている[21]。黒生海岸や屏風ヶ浦等では、イソヒヨドリハクセキレイ等が周年生息していることが確認され、屏風ヶ浦の上をハヤブサチョウゲンボウ等の猛禽類が飛行している姿が確認されている[21]

冬や春になると、黒潮の流れにのって様々な海洋生物が沿岸を回遊し、1年を通じて20種類以上の野生の鯨類[注 3]キタオットセイ海鳥等が現れる。中にはアカウミガメの様な絶滅危惧種も含まれている[56]。これらの生物を観察するための観光船による屏風ヶ浦等のクルージングも兼ねたホエールウォッチング業が行われている[57]2020年(令和2年)には絶滅危惧種のセミクジラの親子が目撃されており[58]、これは日本列島の沿岸では36年ぶりで3件目の確認例であり、観光ツアーが親子に遭遇した世界初の事例であった[注 4][59][60]。また、絶滅危惧種であるナガスクジラ回遊も確認されており[61]コククジラ[注 5][62]シロナガスクジラ[注 6][63]の様な非常に貴重な種類が出現する可能性もある[56]

陸棲の哺乳類では、千葉県レッドデータブックに掲載されているアカキツネ(重要保護生物)やニホンアナグマ(要保護生物)、カヤネズミニホンジネズミ(一般保護生物)等の貴重な野生哺乳類が生息していることが確認されている[21]

また、後述の通り明治期まではニホンアシカが沿岸に生息しており、犬吠埼[64]や海鹿島[65][17]等の地名の由来にもなったとする説も存在する[注 7][66]

人口 編集

市人口は1950年代まで増加し、以後は横這いから漸減方向に進んでいる。これは、病気による死亡等の自然減少に加えて、社会増加分を超えて就業や進学等のために転出した社会減少が多かったことによる[19]。世帯数は、共働き世帯の増加、女性の社会進出、核家族の増加等により増加し、近年は2万5000世帯を超えている[52]。通勤通学による流入人口をみると、2020年(令和2年)において本市に流入するのは、茨城県神栖市2516人、旭市2410人、東庄町542人、香取市536人、匝瑳市286人の順で多く、利根川流域、九十九里方面の市町との関連が強い[52]。本市は「銚子市しごと・ひと・まち創生総合戦略」に基づき、生産基盤の整備、人材育成、創業支援、洋上風力発電施設の誘致、シティプロモーションの推進、移住・定住の促進、子育てサービスの充実、地域包含ケアシステムの構築、長期滞在・交流型ワーケーション推進等の施策を進めており、取組にあたっては銚子市総合戦略検証委員会を設置して効果検証を行っている[68]

  • 年齢区分別人口(令和2年国勢調査
    • 総数(年齢不詳を含む) 58431人
    • 世帯数 25544世帯
    • 年少人口(0〜14歳) 4470人(7.7%)
    • 生産年齢人口(15〜64歳) 31241人(53.5%)
    • 老年人口(65歳以上) 22053人(37.7%)
    • 不詳 667人(1.1%)
  • 15歳以上就業人口(平成27年国勢調査)
 
銚子市と全国の年齢別人口分布(2005年) 銚子市の年齢・男女別人口分布(2005年)
紫色 ― 銚子市
緑色 ― 日本全国
青色 ― 男性
赤色 ― 女性

銚子市(に相当する地域)の人口の推移
総務省統計局 国勢調査より


隣接自治体 編集

歴史 編集

地名の由来 編集

 
盃と銚子

銚子の地名の起源は、利根川の形状が酒器銚子に似ているところから生じたものである、というのが定説になっている。徳利を銚子と呼ぶようになったのは近世末期あるいは近代に入ってからのことで、銚子と徳利は元は別のものであった。銚子という器と名称は、10世紀に成立した「和名類聚抄」に既に見られるが、それによると日本名では「さしなべ」といった。「さしなべ」とは注ぎ口の付いた鍋のことで、上には握り用の鐶が付いていた。大きさは普通の鍋より小さく、ものを温めるために使われた。中世になると現代でも神前結婚式で使われている酒器を、銚子と称するようになった。これは両口のものと片口のものがある。そして近世になると提子のことも銚子と呼ぶようになった。このように銚子の形は古代、中世、近世と時代が下るに従って変わってきたが、その共通点は、酒をその中に入れる口と、そこから注ぐ口が別になっていることである。銚子の本体は表面積の広い容器で、蓋の有無にかかわらず、酒を入れるときは直接本体に注ぎ入れる。そして杯に酒を注ぐときは、本体に付いている小さな注ぎ口から注ぐ。これが銚子の形の特徴である。なお徳利と同じ形状の酒器を古代に求めれば瓶子があり、瓶子は神事に用いられている。利根川は内部の川幅が非常に広いにもかかわらず、河口付近が極端に狭くなっている。そこでその狭い河口から河水が外洋に流れ出ている状態が、酒器の銚子の口から酒が注がれる状態に似ているということで、銚子の地名が起こった[19]

銚子地方の上古の地名は不明であるが、銚子地方を含むより広い地域名としては、神話時代紀元前のこととして、既に「総ノ国」の名が起こっている。2世紀頃になるとこの総ノ国は10国に分けられ、銚子地方はその一つである「下菟上国」に属することになった。更に6世紀になると、総ノ国は「上総国」と「下総国」に分けられた。また下菟上国は「下海上国」と書かれるようになった。7世紀大化改新によって国郡里の制度が定められると、下海上国は廃されて「海上郡」となった。この時の里名はわからないが、8世紀に里は郷に改められた。そして10世紀に成立した「和名類聚抄」では、銚子地方は「三前郷」となっている。和語の「みさき」は陸地が海中に突き出したところを意味する。三前郷の範囲は、おおよそ戦前の本市の範囲以内である。古代末期から中世初頭に、銚子地方は荘園になり、三前郷は「三崎庄」と呼ばれるようになった。中世の中期以降になると、時として「海上庄」と呼ばれることもあった。また中世になると、庄より小さい地域の地名も史料の上に現れた。飯沼・荒野・本庄(本城)・垣根・野尻・笹本等である。表記は仮名書きであったり、漢字仮名交りであったりして一定していないが、いずれも近世の村名に一致する。近世になると、銚子地方の村の名は全て明確になる。戦前の市域の範囲では、高神・飯沼・新生・荒野・小川戸・辺田・三崎・松本・本城・長塚・松岸・垣根・芝崎・四日市場・余山・三宅・赤塚の諸村である。それにもかかわらず、近世には銚子という地名が存在しており、少なくとも関東においては、これらの村名よりもはるかに世に知られていた[19]

「正保日本図」は、別名「正保古国絵図」ともいわれる。この地図は徳川幕府1644年正保元年)12月諸大名に令して領内の図を献上させ、それを編成したもので、西欧の測量術により一定の縮尺に基づいて作られた、極めて優秀な地図である。その中に銚子の名を見ることができる。すなわち常陸の府中付近の霞ヶ浦湖面に「銚子口廿里」とあり、また土浦付近にも「是ヨリ銚子口一里廿四丁」と記されている。このほか、房州小湊付近には「常州銚子湊十八里」とある。以上のことから、1644年(正保元年)当時、既に「銚子口」「銚子湊」の名が起こっていたことがわかる。この時期の「銚子湊」という名称はまだ利根川の内水面の呼称にとどまっていて、その後におけるように、沿岸の陸域をも包含した地名にはなっていなかった。同様に「銚子口」も利根川の河口の名称にすぎなかった。慶長年代には、銚子が既に海運上の要地として注目されていた。そしてこれより早い時期から、海運用船舶は太平洋沿岸を航行しており、銚子湊に入港していた。常陸・下総両国の岸が迫ってくる河口を通過して中に入ると、豁然と広い水域が展開する光景は、これらの船舶の乗組員や海運業者に強く「銚子口」の実感を与えた。正保・寛文期の銚子は、東廻り海運の確立と並行して、紀州漁民によって開拓されつつあった漁業が発展し始め、農村から港湾都市・産業都市へと大きく飛躍しようとしていた。そこで「銚子口」に始まった「銚子」という名称も、単に「銚子口」「銚子湊」等水域の名称にとどまらず、やがて沿岸の陸地名として定着した。水上を生活の場とする船舶乗組員にとっては、銚子湊の沿岸地域が幾つもの村に分かれ、それぞれ固有の村名をもっていたとしても、これを一括して捉えた方が、簡単で都合の良い場合が多かった。その場合、銚子湊の沿岸だから銚子となるのは当然であった。江戸との交通が頻繁になるにつれて、この呼称が江戸を中心に各地に伝播し、やがて海運に関係のない者も、この地方を下総の銚子として認識するようになった[19]

銚子とは銚子湊の沿岸地域としての港湾機能を有する地域の名であり、さらにこのことを中心として発展した産業都市的機能を有する地域の名である。したがって、銚子の明確な境界はなく、飯沼・新生・荒野・今宮の4村を中心とし、適宜に周辺の村々をも含めて、銚子と称していた。この汎称は、近代に入って1889年明治22年)4月1日に「市制町村制」が施行された時、初めて行政区画名になった。すなわち飯沼村が単独で町制を施行した本銚子町と、新生・荒野・今宮の3村が合併した銚子町である。それから2年後には、松本・本城・長塚3村合併の伊豆原村が西銚子町となった。そして1933年昭和8年)、これら3銚子町と豊浦村(辺田・三崎・小川戸3村合併)が合併して「銚子市」が発足し、銚子の名は発生以来およそ3世紀を経て、近代の単一都市名に到達した[19]

原始 編集

旧石器時代 編集

銚子半島に人が住むようになったのは旧石器時代であり、初めて人類がこの半島に住みつき、自然採集経済の生活を営むようになった。海上台地の密林を背に、三方を太平洋に臨む銚子は、狩猟に漁労に定めて彼らの豊かな生活を保障していた。早期縄文式土器の破片が屏風ヶ浦断崖地帯に往々発見され、また旧豊岡村小浜にその包含地が見られる。銚子に最も早く人間の生活した舞台は、波浪によって失われた台地上に及んでいた[17]

縄文・弥生時代 編集

 
縄文時代の銚子半島

縄文時代前期遺跡は愛宕山・西小川町荒野台に、また前期より中期にまたがる遺跡として南小川町粟島台遺跡があり、後期より晩期に続くものとして余山貝塚が挙げられる。台地より低地帯へと下降する縄文人の通則は、銚子においても当てはまっている。前記の遺跡中、粟島台遺跡と余山貝塚は、銚子の先史時代遺跡として重要なばかりでなく、日本考古学上からも特筆される著名な遺跡である[17]

粟島台遺跡は南小川町・県立銚子高等学校の南方、海抜15メートルの台地で、前期から中期にかけての諸遺物を包含する遺跡である。1933年(昭和8年)3月、下総地方の遺物採取をして歩いた好古家吉田文俊が乱掘して、石器土器多数を得たのが最初である。その場所は北側の徳兵衛所有地であったが、当時の遺物は全く所在不明で、僅かに一部が市内に残存している。この地にまず住みついた前期縄文人は、台地の高所に住居を営んだが、当時はその近くまで海水が侵入して、貝類の棲息に適していた。そして当時はまだ台地の西南方には集落の存在が認められなかった。しかしそれから若干の年代を経た前期末から中期初頭にかけては漸次西南方へと居を遷していき、その一部は台地下方の低地に集落を営んだものもあった。本地方にあっては、対岸鹿島郡の砂丘陵地帯にも後期遺跡の分布を見る。古典にいう安是ノ海は浅瀬ノ海の意で、砂洲の発達と利根沿岸の沖積地化は、彼らの生活適地をもたらしていた。したがって集落は相当に発達し、作られた土器や石製品にも豊かな生活が反映されている。粟島台遺跡から採取された石器のうち、硬玉製飾石と琥珀製飾石は異色あるものである。琥珀はこの地に近い外川の石切場からも発掘され、また海岸においても往々採取されており、粟島台は石器時代における琥珀の原産地の一つであった。この地方の縄文人はこれを活用して各種の資源を他からも獲取しており、黒曜石や硬玉が琥珀との交易品であった。イルカクジラの乾肉も、近隣の集落や遠い山手の人々との物々交換材料となった。このように、粟島人は満ち足りた生活を繰り返しながら、数百年を経過していった[17]

 
みみずく土偶(余山貝塚出土)

余山貝塚は高田川に面し国道と成田線鉄路に挟まれた一帯の貝塚で、日本考古学上、大森貝塚東京都品川区大田区)と並んで最も古くから知られ発掘された遺跡である。1897年(明治30年)頃に江見水蔭大野雲外(延太郎)・和田千吉・松村瞭等の来訪発掘が相次ぎ、特に江見水蔭は前後5回にわたって発掘、多くの遺物を採取して帰ったが、その時の模様を「地中の秘密」に著している。また大野雲外も1907年(明治40年)頃2回ほど発掘し、その著「土中の文化」の中に記録している。この風潮は地元にも及び、旧成田町大野市平(旅館主)・吉野長太郎(銚子商業学校教諭)等のマニアを生んだ。両名が余山から発掘採取した遺物は相当量に及ぶも、散逸して明らかでない。吉野は「コロポッグル喰ひ遺したり四千年」の一句を余山原頭コンクリート製の標柱に止めてこの世を去っている。上述の2遺跡は、銚子の縄文時代の二大集落の廃墟であり、一面にまた中期から後期・晩期にかけて大集落が発達し、それ以前には散在生活していたことを示している[17]

次いで西日本より波及してきた農耕文化に同化融合され、弥生式土器時代に入った。銚子には未だこの顕著な遺跡は発見されていないが、その石器と土器片は台地並びに周辺各所から採集されている。これは沃壌の農耕適地に乏しい半島の丘陵地帯のためで、銚子地方の弥生式文化は、絢爛たる花を咲かせることなく、ほどなく次の時代に移っていった[17]

古代 編集

古墳時代 編集

 
和名類聚抄

 
-下総国
-東海道

古墳時代には、いわゆる東国開拓と称されて記紀に載る外来東漸の大氏族が各々進出して逐次勢力を拡大するにつれ、土着の小氏族・住民はその傘下に統合されていった。下総は早くから東国に進出していた武蔵国造を中心とする出雲族の勢力下にあり、常総境辺には香取鹿島両神宮を中心に天神系の中臣が控え、これに安房より北上した忌部氏が繁栄していた。常陸の東南隅のこの地帯は、行政区割が茨城県となっても実質は千葉県銚子に依存してきたが、これが原始時代にあっては下総との相関は更に密なるものがあった。縄文時代の遺跡の分布は利根川西岸及び屏風ヶ浦沿岸から、粟島台遺跡に近い東端部にも及んでいるが、古墳の存在は東端部にほとんどなく、松岸付近以西と旧豊岡村に多く存在する。また集落遺跡として相当に面積の広いところは、三崎町付近と松岸駅付近、旧鹿島郡矢田部若松両村に認められる。「和名類聚抄」に見える三前郷・三宅郷・船木郷は、いずれもそれらの古代集落を基として起こったもので、後の銚子港は三前郷の津として発達し、銚子の起源となっている。各所に散在する土師器散列地は集落すなわち庶民の生活遺跡を示しており、安是ノ海(後の利根川)沿岸の低地帯が庶民生活の舞台であり、鹿島台地と海上丘陵の高燥地は首長の占拠するところであった[17]

古語拾遺」によれば、1世紀余には総ノ国開発は相当に進み、 135年成務天皇5年)には印波武社上菟上・下菟上・菊間・馬来田・須恵・伊甚長狭安房の10国に分けられ、各国造が置かれた。海上郡はこのうち下菟上国にあたり、印波・下菟上両国が後の下総である。下菟上は後に下海上と書かれ、東は安是ノ海を隔てた常陸国鹿島郡南部(茨城県)、北は香取郡の大部、西は匝瑳郡全部、それに海上郡を加えたもので、ほとんど東下総の大半であった。南の方、太平洋に面しては房総第2の大湖「椿海」(江戸期末に干拓されるまでは印旛沼に次ぐ海瀉湖)と湿潤地帯があったが、屏風ヶ浦海上にはまだ浸蝕海没しない陸地が存在していた。銚子の地はこれら海没した集落に北接する農漁村として、下海上国の東隅に偏在していた[17]

飛鳥・奈良・平安時代 編集

大化改新に際し、中央集権を確固たるものにするために諸国には国司、諸郡には郡司が任命された。海上国造が廃されて海上郡司が置かれたのもこの時であった。海上郡家は海上台地に設けられ、葛飾郡の下総国府に属した。郡郷の秩序が備わって地方制度が確立してから、奈良時代の東下総は海上郡15郷、匝瑳郡18郷、香取郡6郷となった。上代の海上郡は旧大倉村あたりから銚子半島へかけて15郷を統轄した上郡であったが、銚子半島の古郷は、大体、石田・石井・橘川・横根・三前・三宅・船木の7郷があてられる[17]

銚子半島は上海上国造の都邑をへだてること東方10里、その中枢から離れていたが、豊かな水産物を供給する重要な経済地帯としてその統治下にあった。西方は椿海(当時は既に淡水であった)に面する農業集落、石井・須賀・横根の各郷が連なり、東方は安是ノ海(後の利根川であるが、当時は全く海水であった)に沿う漁業を主とする集落が多く、その間に皇室直轄の三宅や特殊職業に従う船木部の郷が交じっていた。したがってこれらと交渉がある中央政府(大和)や地方官衙の役人の来訪もあり、文化の波及も全くの僻地農漁村とは違っていた[17]

  • 三前郷 - 本市東半部が該当する。市内に三崎町があり、旧豊浦村大字三崎の後身で、その遺名である。半島の地形によって上代より名付けられたものであり、中世に三崎庄55郷を包括していた。安是ノ海に面した半農半漁の集落に端を発し、後には三崎ノ津としての機能も加わって発展した[17]
  • 三宅郷 - 本市三宅町(旧海上村大字三宅)が遺称で、屯倉より起こった地名である。王朝時代に海上国造が大和朝廷に帰属した際、すぐにここに皇室御料の収納倉庫が置かれた。以後、鎌倉時代に至ってもここは中央貴族の所領であった[17]
  • 船木郷 - 船木町(船木村大字船木台)・小船木町(椎柴村大字小船木)が遺称で、両村一帯がその故地であった。相接する旧豊岡村大字塙に船木権現と呼ぶ古社があり、そのあたりまで域内であった。内海、外洋に面し、造船の用材を扱う船木部の旧地で、他の諸国にも多い地名である。光仁天皇紀に、776年宝亀7年)、安房・上総・下総・常陸4か国に命じ、軍船50隻を造らせて陸奥に送るとあり、この時この船木部は大いに活躍した[17]

万葉集」には、常陸の国司高橋虫麻呂が中央から派遣されてきた検税使大伴卿を送って、常陸鹿島郡刈野橋に別れる時詠んだ歌がある。その歌に三宅滷とあるのは、当時この沿岸は海に面して干潟が諸所にあり、その一つの三宅郷につづく干潟を指称したものである。これが常陸への渡津となっており、更には常陸から遠く蝦夷地陸奥への要津ともなっていた。そのため造船も行われ、船木部の集落が栄えていた。三前・三宅・船木の3郷が市域に該当し、奈良朝の残存戸籍に基づいて銚子付近3郷の人口を算定すると、3900人と推定される。松岸町に土師器を伴う貝塚が多く、また各所に遺物が発見されているが、これらの庶民の生活した集落の面影を止めるものである。また旧船木村内に散在する小古墳や横穴は、船木部の首長との関連を示している[17]

平安朝に入った頃の銚子には、まだ仏寺らしいものはなく、ようやく中世以降から現れ、当初は天台宗系寺院であった。常世田の常燈寺新義真言宗であるが、当初は天台系であり、東下総最古の藤原時代作になる木造阿弥陀如来坐像を伝えている。常世田は常陸から安是ノ海を渡って三宅・三前各郷を通り、横根郷から匝瑳へ行く枢要な往還の中間に位置し、相当繁昌していた微証をのこしている。市内切っての古刹円福寺や野尻の東光寺等も、その頃前後してできた天台系の仏寺であり、平安朝から鎌倉へかけては念仏道場として殷盛を極めた。両寺が新義真言宗となっているのは、中世の真言宗振興活動による改宗の結果である[17]

中世 編集

鎌倉・室町時代 編集

 
千葉常胤

1185年文治元年)、源頼朝は各地に守護地頭を設置し、以後の各時代の封建制度の基礎をなした。この時代に、下総国守護として銚子地方に君臨した武士は、千葉常胤であった。常胤は鎌倉幕府にひときわ忠勤した重臣であり、頼朝の信任が厚かった。彼は6人の子を下総各地に分封したが、その子孫は後世までながく房総の名族となっている。それは全く頼朝との緊密な主従関係の賜物である。本地方は東ノ庄に属する海上ノ庄(旧三崎庄)に該当するが、6男胤頼がこの庄を拠点として東氏を称し、その孫胤方が海上ノ庄を与えられて海上郡船木郷中島城を居城に海上氏を名乗り、それぞれ権威を振っている。いずれも鎌倉幕府にひときわ忠勤した重臣で、「吾妻鏡」に散見するところによって、いかに頼朝の信任が厚かったかを知ることができる[17]

海上氏の信仰であるが、彼らはこの地を領すると、まず海上八幡を崇敬し、社殿を営み神田を寄せて海上50余郷の総鎮守とした。鎌倉時代の武家信奉の神社は、特に関東にあって八幡宮が多い。これは頼朝が石清水八幡宮を勧請して、鎌倉鎮守鶴岡ヶ八幡とした関係から、麾下の武将が競って領内の八幡宮を盛んにし、あるいは勧請したためである。千葉氏は祖宗以来妙見信仰を奉じ、その一族は必ず城内邸地にその祠を置く慣習となっていたが、海上氏もその例に洩れない。本城町の海上氏館址には妙見宮が遺存して、字名も妙見の称となっている。妙見を氏神として、別に八幡宮を領内鎮守としたのは、鎌倉との関係によるものである。千葉氏は早くから時宗の熱心な帰依者であったが、後には一族に禅宗を信じる者も多くなったのも、鎌倉の影響によるものである。海上氏についても、その微証が認められる。岡野台等覚寺付近から発掘された金銅経筒は、海上胤方が悲母禅尼のため埋納したもので、彼の母も禅宗の帰依者であった事実を示している。胤方が禅宗を信奉していたかどうかは不明であるが、平安期に盛行し鎌倉時代に全く衰微した埋経思想が下総の一隅に遺っていたことがわかる[17]

社会不安に帰趨を失った農、庶民の心を捉え、その精神生活の拠りどころとなったのは、折しも勃興した新仏教の浄土思想であった。阿弥陀観音勢至の来迎三尊をはじめ、薬師地蔵等の現世利益の思想は村から村へ広まり、これらを安置する仏堂も各所に設けられ、人々はこれを中心としてを結ぶようになった。この講は村落結合の地域団体として、その後の村生活の改革向上に寄与するところが大であった。銚子に伝わる各種講のうち、念仏講等はこの時の名残りである。浄土教は鎌倉時代に入って法然一派の弥陀浄土極楽思想によってますます隆盛となり、下総各所に遺る在銘無銘の当該時代三尊は20数躯に達している。銚子にあっても野尻の東光寺が著しい例で、室町時代末期に真言宗に改宗するまでは、阿弥陀信仰の念仏道場としてこの地方の中心をなしていた。東光寺の支配下にあった真言宗円福寺も、同じく念仏道場として栄えていた。東光寺では、真言宗になってから江戸期にいたるもなお盛んに弥陀念仏が行われていた。当代の仏像として現存するものには、長塚の円勝寺に木造薬師如来像があり、鎌倉期の製作として優秀である。その頃の衆庶の信仰礼拝する薬師堂にあったものが、後世に遺留されて円勝寺に伝わったと見られる[17]

こうした信仰の所産として鎌倉中期から供養塔婆の造立が盛んとなり、武蔵の青石塔婆と並んで下総地方に銚子産硬砂岩の板碑が盛行したが、これは武士や土豪等の上層階級に止まった。次の室町時代末頃からは庶民の共同造立が現れてくる。この下総式板碑は鎌倉時代中頃から香取郡を中心に、北限は利根川沿いに印旛郡下に及び、また西は匝瑳郡にわたって分布している。海上・香取・印旛・東葛飾の各郡では、この石材を使った組立式石棺あるいは石槨が盛んに発掘されている。下総の古墳や板碑に使われている黒色の砂岩は、中生代白亜紀の生成で、黒生の銚子寄りの産である。かつての黒生瓦の原料砂土は、この岩石の風化土壌であった。石に恵まれない東下総一帯において、岩石に富む銚子半島は重要視され、早くからこの方面で採石されたものが舟や筏によって水辺沿いの東下総地帯に供給されていた。下総式板碑はこれら古墳の材石と全く同じもので、これを利用した可能性も高い。同じ砂岩でも赤褐色の軟砂岩(これも白亜紀砂岩でこの方は化石を伴う)は、後も盛んに発掘されていた。この石は、室町末期から江戸時代にかけて、五輪塔宝篋印塔に盛んに使われている。海上・香取・匝瑳の郡下各寺院に、その遺品は夥しくあって、当時の銚子にはこの石工に携わるものが相当あり、一つの大きな産業となっていた。かつては犬吠埼灯台の付近一帯からもこの石が切り出されていたが、昭和初め以降は風致保全のために禁止となり、諸所に採掘跡をのこすだけとなっている[17]

この時代の民衆信仰と銚子について特筆されることは、坂東三十三観音霊場が新設され、第27番札所に銚子の飯沼観音が指定されたことであった。その理由は、鎌倉幕府に重きをなした東氏・海上氏の支持するところであるのみならず、その推挙があったためである。飯沼観音に巡礼者や納経者が諸国から集まるようになると、門前町は次第に活況を呈し、まず発達したのは旅宿と遊女屋であった。そしてこれまで他からの影響感化をほとんど受けることがなかった水辺の村が、外来者による影響を受け、その生活の上にも変化を来たしていった。第26番の常陸国筑波清滝寺から十数里の行程であり、陸路によるも水路によるここに一泊を余儀なくされた。またここから第28番の滑川観音へも十数里と恰好の仲継宿であり、これが銚子市街の起源となった[17]

銚子の地形から、交通運輸の路線は水上と陸路の両者にあった。鹿島郡軽野あたりは下海上国に属し、この地への安是ノ海を渡る交通路が早くから開けていた。この交通路は野尻の渡津から古道が一つは西へ香取神宮から香取郡家の方面へ、他の一つは海上郡家(香取郡東庄町今郡)より海上国造の地(同郡旧古城村から大寺あたり)へ、更にもう一つは猿田から常世田を通って横根(旧飯岡町)を経て匝瑳郡家(旧八日市場市生尾から中村方面)へと通じていた。また一方、常陸国府石岡市)や板来(潮来)方面への水上交通も相当盛んであった。降って鎌倉時代に入ると、関東地方には鎌倉幕府直参や恩顧の武将豪族が割拠しており、いわゆるいざ鎌倉の時に馳せ参ずる鎌倉街道が放射状に各地に達していた。頼朝の忠臣千葉常胤の6男胤頼に始まる東氏と、その分流海上氏は永くこの地方を領有して鎌倉幕府譜代に功臣であり、鎌倉指しての往来も繁かった。当時この地方の鎌倉街道は、匝瑳・山武市原の3郡下を抜けて君津郡木更津市に至り、そこの渡海面と遺名ある津から金沢に渡って鎌倉に入っていた。市原から君津郡下にかけては、鎌倉みちと呼ぶ古道が断続しつつも何本か遺っており、八日市場・成東・東金・士気等の古い宿場を通って、それらの古道と連絡していた。垣根に長者伝説があり、四日市場の遺名があるのは、古い交通路に由縁している。次にこの時代に坂東三十三観音霊場が撰定され、銚子の飯沼観音が第27番札所に加えられたことは、当地方の交通史上に特筆される。これによって信仰庶民すなわち順礼者の往来が盛んになり、26番札所常陸筑波山大御堂から当地へ、当地から28番札所滑川観音への交通路が栄えた。この経路は多く水上を利用したが、物資の交流もまた遠隔地とはほとんど水路によっていた。当時輸送するものは、漁獲物と犬吠埼特産の銚子石が主たるものであり、他から仰ぐものは、衣食住の足らざるものという程度であった。水上交通機関としては古く独木舟が使われたが、歴史時代に入ってからは木造船技術の進歩に伴って、それぞれの用途による様々な船が造られるようになった。銚子石のような重量物は、小形のものは車や馬背によって運搬されたが、大形の場合は筏を組んでこれに載せて運んでいた。古墳石室の巨石や大型下総式板碑の分布が、利根川や印旛沼沿いの地帯に限られているのは、こうした物理的必然からの事情を反映するものである[17]

安是ノ海と呼ばれた入海時代の漁業が盛んであったことは、香取神宮に伝えられる古記が示している。漁獲物は、少なからざる部分が香取神宮関係の需要を充たしていた。まず特筆されるのは、神宮祭事と漁獲物の関係である。1207年建永2年)の神宮御下文によると、年中行事は90余度と見えており、これに附属の小祠や末社の祭祀を加算した場合、年間百数十度に及び、これらの祭典に要した供進した海の幸は莫大であった。10月30日の大饗祭に備える苴敷鮫・鮭ノ鳥羽盛・鯖ノすいり・筋子・肴大根等に見るも、往古の需要を偲ぶに足るが、またこれらが内海から銚子にかけての漁業を維持していた。香取神宮の大禰宜家は、その漁業権を掌握して子孫相伝の財産としていた。「香取文書」の1368年応安元年)の海夫註文に、飯沼くわうやの津(飯沼知行)・かきねの津(海上知行)がみえ、沿岸随所には漁夫居住の津があり、註文の対象となっていた。海夫は海人とも書き漁夫を指す。海夫の註文というのは、漁業の運上を香取神宮に祭典に料に納めさせたことである。当初は神宮の経費に充当するための運上であったが、次第にこれが大禰宜家の私有財産として世襲されるようになった。銚子の場合、飯沼荒野の漁業権は飯沼氏、垣根の漁業権は海上氏が知行していたが、その他の水上は香取神宮の大禰宜の領有であった。しかし、武士の勢力が増大するにしたがってこれはその手中に侵略収奪されるようになり、「金沢文庫古文書」は、これが武士の知行となったことを示している。それによれば、利根川沿岸を入海浦と呼び、その漁業権が千葉支族である東盛義の私有財産となっている。また1400年応永7年)の「香取文書」は、海上筑後入道が神宮漁業権横領を企つと、時の政府に訴えている。海上筑後入道とは、当時の本地方豪族で兼ねて円福寺別当職か、あるいは大檀那であるが、これは香取神宮と円福寺の間の勢力争いでもあった。この頃の円福寺は、海上氏最大の氏寺として半島最大の大地主であった。銚子の漁業は内海の豊富な漁獲に始まり、その拠点は飯沼・荒野と垣根より利根上流に至る沿岸にあった。怒濤さかまく外海に出漁して近海漁業の開拓に第一歩を記したのは、江戸時代初期の紀州漁民の東漸であった[17]

 
藤原定家

「和名類聚抄」の海上郡三前郷は、鎌倉時代に三崎荘という荘園となり、片岡常春荘官となって支配していた。これは殿下御領とあって、実際は関白近衛基通になっていたが、1186年(文治2年)3月12日年貢を納めないで催促されている。事由が争乱による農地疲弊のための不作か、荘官の横領によるかは明らかでない。片岡常春が支配したのは、このうち船木・横根であったが、三崎庄全体としては他に本城・松本・今宮・荒野・新生・飯沼・高神・小川戸・辺田から猿田、飯岡の一部にわたる一帯が包括されていた。そして頭書の2ヶ所も、後に片岡常春の手を離れて、全域が千葉常胤の領有に帰してからは、西方に東ノ庄(初めは橘庄といった)、半島部に三崎庄(後に海上庄とも呼ばれ両者は混称されている)と自ら2庄に分かれて対立し、一族が分領してこの地方に栄えたものである。すなわち東ノ庄の東氏、海上庄の海上氏、いずれも千葉常胤の裔である。「千葉系図」(鏑木本)に「文治元年頼朝卿下総国海上郡三崎庄五十五郷を常胤に賜う、是を以て胤頼に授く」とある。胤頼は常胤の第6子で、東氏・海上氏の祖である。ところが「明月記1199年正治元年)7月の条には、「下総国三崎庄を賜う。政所御下文種々の恩を蒙る。是奉公之本意也」と見えて、近衛基通の所領を納めて藤原定家に賜ったように記されている。邨岡良弼の「下総荘園考」は、これを「定家は将軍実朝卿の和歌の師なれば特に此事ありしか。胤朝も定家に学びて子孫世々歌学に深く、其後常縁に至りて所謂る古今伝授を奏上せしなど、必ず縁由ある事と知らる。」と考証している。次いで同書に「また建長二年の関白道家荘園処分記に、新御領下総国三崎庄地頭請所と見ゆ。この頃は再び関白家に属せしなり。香取神宮寛元元年の御造営記に、宣旨に依り作料を支配せる国中の庄々、並に済否の事。(中略)三崎庄八十斛、同加納横根八十斛、同加納須加三郷七十斛、先例を勤仕せず云々対捍とあるは、権門の私威を仮りて御造営の作料を出さざりし者と見ゆ」とあって、その変遷ははげしかった。「千学集」には、「海上庄は三郷なり、舟木郷千貫、本庄郷千貫、横根郷千貫、以上三千郷の所を海上庄といふ。本庄三郎常高、海上太郎常幹の弟なり。本庄郷に住する故、本庄殿と申也、此時海上三郷第一の人といはれし」とある。本庄郷は庄の中心地(本郷)で早くより開け、土地も広く人口も多かった。海上氏はこの本庄郷を基盤として栄え、室町時代にその一族支流が付近一帯の各地を分領して繁栄した。鎌倉時代から室町へかけての古文書を多く所蔵することにおいて円福寺は房総有数であるが、それはほとんど海上氏との特殊の連関を物語っている。寺領は本庄・辺田・高上等、同族の所領にわたり、半島沃地の相当広い面積を領有した大地主として、本庄氏が最も権威があった[17]

当地方はいち早く王政の地方制度衰微を見、武家の支配するところとなり、荘園の発達は著しかった。またこれを地方文化中心の移動という点から考えると、奈良朝まで上海上国造の居地として栄えた旧古城豊和両村の文化は、次いで旧橘村今郡の地域に移り、後に香取神宮を中心とする地帯に転じている。鎌倉時代に武家文化の余波は、海上庄を中心として銚子にも及んだが、東下総の中枢をなすまでには至らなかった。ただ飯沼観音の門前町と、本城の海上氏居館を中心とする武家屋敷・商家が、街衢らしい景観を呈していた。銚子が地方文化史上、特異な発展の緒に就いたのは江戸時代以降のことである。このように見れば、東下総の文化の中心は東漸を続けて、ようやく銚子地方に至ったといえる[17]

群雄割拠して天下の乱れた戦国時代は、房総にあっても各処で武将が鎬をけずって戦乱に明け暮れていた。その兵乱は、豊臣秀吉の全国統一前をもって最高潮に達し、海上・香取の地方にあっても遠く上総夷隅郡正木氏に侵略蹂躙されている。「海上郡誌」に「永禄九年里見義弘の家臣正木時忠下総を侵す。海上城(海上郡椎柴村)見広城(同郡鶴巻村)伊達城(同郡豊岡村)中島城(同郡船木村)共に陥落す。猿田神社亦兵火み係る」とあるのは、猿田神社社伝にも見える。正木時忠の下総侵略の具体的事実を示す史料として、「香取文書纂」巻五に収録されている香取神宮大禰宜置文が挙げられ、猿田神社の社殿が海上城攻略の折に焼かれたことが見える[17]

近世 編集

安土桃山時代 編集

海上氏は応仁の乱の頃まで有力な武将であったが、これより20〜30年経過する頃から次第に凋落していき、「千葉伝考記」や「鎌倉大草子」は飯沼落城のことを記している。すなわち1479年文明11年)正月、千葉孝胤太田道灌の戦に千葉側の諸城が相次いで落ちたが、その中に臼井・庁南と並んで「下総国飯沼も落城して海上備中守も亦降参したり」と「千葉伝考記」に見える。松戸市小金城は千葉氏の分流高城氏の拠ったところであるが、その旧記として伝わる「高城家由来記」には海上氏の名が散見し、室町末期の同地方争乱に参加していることが知られる。特に小田原城総攻撃には、北条方に馳せ参じて敗滅の運命を負ったが、これは宗家の千葉氏が籠城軍であった関係からも宿命的なものであった。千葉氏の滅亡については、諸書の伝えるところに異同があり、ただ小田原北条氏に加担していたことを主因とする点は一致している。鎌倉以来、下総各地に繁栄した千葉氏の宗家も、またその支流末葉も、多くはこの戦をもって没落した。永い間、銚子半島に権威を振った海上氏も、こうして終焉を告げた。その居城は船木村大字中島にあったが、城跡の畑に要害の小字名が伝えられている。「海上郡誌」に、中島城址として「天正十八年九月海上蔵人胤保の時、中島城落ち僅かに名残を止むるのみ。現今猶大手・馬場先・本丸跡及塹壕等粗々其形蹟を遺せども、皆耕地となれり」と記されている。落城の9月9日を領民は深く悲しみ、以来その日の節句を廃すと伝え、この地方の遺習となっている[17]

江戸時代 編集

 
徳川家康

1590年天正18年)に入ると、秀吉は諸将に命じて小田原北条氏征伐の準備を進め、3月1日みずから兵を率いて京都を発した。この時、房総の諸城は相当の大軍をもって攻撃され、海上氏の拠った海上郡佐貫城も落城し、房総全土は完全に平定された。6月28日、秀吉は武蔵江戸を家康の城地と定め、北条氏の故地関東8国を与えた。家康は譜代の家臣に数万の兵を付して、この年8月1日江戸城に入った。海上氏の旧領地にあたる銚子半島は、飯沼を中心に付近2千石の地が松平外記伊昌の支配するところとなり、近隣は諸藩領地や旗下知行地の細かく錯綜する地となった。江戸時代初頭にかけ、銚子地方を領地した松平外記の初代、伊昌は徳川家康の関東領有とともに飯沼2千石を封ぜられたが、当初は香取市貝塚の浄土宗来迎寺を居館とし、後に飯沼陣屋に移ったと伝えられている。落城したばかりの飯沼城(館)は破壊毀損が激しく使用に耐えず、これが構築されるまでの滞在であった。松平外記は、初代伊昌より忠実・忠宜(伊燿)・忠益・忠明に至る5世、108年間にわたって当地方を領地した。松平外記家は代々信仰心に厚く、領内であった銚子を中心に寄進の名をとどめる遺物が多くのこされている。常世田薬師の棟札をはじめ、竜蔵権現(後の銚港神社)石鳥居や円福寺梵鐘等に寄進の名が見えるばかりでなく、円福寺所蔵の宝物中にも法華経8巻・金剛経・小経、以上各1巻と琥珀製珠数1連を収めた古雅な箱があり、そこにも忠実の孫が母(忠実の娘)の遺愛品を施入するということが記されている[17]

銚子が高崎藩領となったのは1717年享保2年)9月11日からで、以後明治に至るまで10世の間、150余年の長きに及んでいる。東北廻船の要地として軍事上、また経済上に等閑を許すことのできない銚子は、江戸の発展に伴って益々重要度を増したため、長く親藩の手に委ねられた。銚子領は飯沼・新生・本城・高神・荒野・小川戸・長塚・三崎・岡野台・垣根・四日市場・野尻・今宮・小舟木・後草・蛇園・見広の17か村であるが、高は5010石、僅かに5千石を出ていた。藩は飯沼に陣屋を置き、郡奉行1人と代官2人を主役として駐在させ、これらが治世に当たった。幕末の飯沼陣屋詰役人は、奉行永井市左衛門・代官片柳善之助・目付八木条平であった。これらの役人が、肝煎名主(1郷1名で郷中名主に触頭)や問屋年寄等を支配統轄した[17]

1591年(天正19年)、豊臣秀吉によって採られた六十六か国人掃国勢調査)を契機として、近世村落が発足した。本市に入っているこの時の村の多くは利根川沿いと丘陵地帯に分布して突端部に少ない。これらの村は明治の町村制実施以後、多くは大字となって残り、市内でも町名として遺存している。飯沼・高神・小川戸・辺田・三崎と半島突端部が他を圧して石高が多く、利根川沿いの長塚・柴崎等がこれに続いていた。これは人も多く、新田開発がよく行われていたためであるが、また水田が可能な低地に比較的恵まれていたことにもよる。新市域の各地が、野尻・高田・柴崎の各村を除いて微々たるものであることは、海上台地の丘陵性により、山林と畑地のみで米作適地に乏しかったためである。水に恵まれず旱害に悩まされた銚子の村々は、江戸時代に入ってから灌漑用水を設営したが、そのうち代表的なものは、長塚村の七ツ池である。七ツ池には一つ一つ名称があって、塚子森ノ溜池(岩ゼキの直下にあったが田地となっている)・岩ゼキ・ヒルモゼキ・中ゼキ・上ゼキ・江戸ゼキ・新池とそれぞれ呼ばれていた[17]

 
近世利根川水系の水運

幕府は開府早々に利根川の治水事業に着手した。慶長年間、関八州郡代であった伊奈備前守は命を受けて鋭意これに当たり、上流川俣付近の河道の変改と渡瀬川との連絡を成就し、次いで1621年元和7年)その子忠治がこれを継承し、赤堀川の新水路(旧栗橋町より東流して下総国境に至る利根本流)を開墾して1635年寛永12年)竣工した。ここにはじめて利根・渡良瀬の両川は東流して常陸川に入り、銚子に流れてくることとなった。利根川の治水は、江戸を水禍から救うと同時に、沿岸一帯に沃壤の水田を開拓したが、更に大きなことは、流路が太平洋に直結したため関東の人文地理を大きく変貌させたことであった。江戸と常陸・下総から東北地方との舟運が開け、物資の交流や人々の交通に著しい利便を与えるようになったためである。利根川沿いの下総だけでも、いたるところに河港都市が発達した。印旛の木材を積み出す木下河岸の発展、香取の物資を運び出す神崎滑河・佐原・笹川小見川各地の殷賑等が挙げられ、銚子もまたその便益を蒙ること最大なものであった[17]

 
葛飾北斎『常州牛堀』

諸藩による東北地方から江戸へ物資を輸送する海運は、慶長・元和期に始まり、その先駆は仙台藩相馬南部藩がこれに次ぐ。当時の航路は江戸まで直航するのではなく、海路は常陸の那珂湊までであった。那珂湊からは湖沼に入り、湖沼から北浦の北岸まで陸送、北浦から再び水路をとって利根川をさかのぼり、江戸に達した。俗に「外海廻り」と称される江戸直航は、まだ開拓期の域を出ていなかった。これが東廻り海運の第一段階である。したがって時折外海廻りを試みる船舶があり、銚子湊に入ることがあっても、その目的は避難・風待ち程度であった。入港停泊中沿岸の陸地に求めるものも、食糧・薪水の補給程度であった。第二段階は海路を銚子まで延ばし、銚子から利根川をさかのぼって江戸に達するのが、主たるルートになった時期である。荷物は川船に積み替えたが、第一段階と比較して積み替え回数が少なく、陸送部分もないため、はるかに能率的になった。このルートを俗に「内川廻り」と称した。なお、第一段階の湖沼・河川利用も内川廻りの一つである。銚子湊から川船に積み替えて江戸に陸送するためには、江戸までの輸送を引き受ける川船業者が必要となる。そしてそのような積み替え輸送を行うには、積み荷を一時陸揚げして保管する倉庫や荷役労働力が必要となる。さらに陸揚げ荷物の一部を放出する必要が生じた場合、それを取り扱う商人も必要である。したがって沿岸はこのような要求にこたえる地域でなければならず、銚子湊は単なる避難や待機のための掛り水域から、沿岸一体となって海運業務に機能するための、本格的な港へと前進しなければならない情勢下に置かれるようになった。銚子には次第に穀宿・廻船問屋・仲買・船宿・引船・川船等、各種の営業が成立するようになり、また荷役である諸藩自体も、蔵屋敷の設置等を行った。そして第三段階は外海廻りすなわち江戸直航である。外海廻りが東廻り海運の主たるルートとなっても、銚子から先の航路の安全性が確立されたわけではないため、内川廻りは衰微することなく併存していた。銚子湊が外海と内川の中継地として本格的に利用され、発展してくるのはこの後のことである。そして明治維新によって幕藩体制が崩壊するまで内川廻りの東廻り海運は銚子の基幹産業となっていた[19]

こうして仙台はじめ東北各地の米殻の江戸廻送の多くが江戸経由となり、また外洋廻りも必ず銚子に寄港したので、その賑わいと繁昌は一段と増すこととなった。承応年中には、仙台藩では荒野村に陣屋を置いて藩吏を駐在させている。相馬藩がここに廻米するようになったのは1631年(寛永8年)が始めである。幕末には、ここに仙台藩2棟・米沢藩1棟・磐城3棟・笠間藩1棟の米蔵が立ち並ぶという盛況であった。利根川の各地には高瀬船が置かれ、往来の船が絶え間なく行き交うようになった。飯沼に49艘、高田に38艘、野尻に41艘の高瀬船がひしめくという賑やかさで、問屋は飯沼は10余軒に及んだ。高瀬船は500から600俵積の小型から900俵の大型まであり、12反帆をあげて舟子4人から6人で帆走した。当時は江戸通いのこれらの船を指して「利根の直船」と呼んだ[17]

 
江戸日本橋

その頃銚子で漁獲した鮮魚は、常陸土浦・潮来・牛越から佐原、小見川、更に遡って利根中流の布佐布川・木下方面まで運んで売り、一部は木下から陸行して船橋まで急送した。その運搬方法は速力のはやい猪牙舟で夜通し運び、これを生漕と呼んだ。また鮮魚輸送用の「なま船」や「いけ船」があった。なま船は勢のよい船頭3人で力漕し、銚子を夕方出て明け方の布佐か布川の魚市に間に合わせるという速達船である。いけ船は生簀仕立で、主として夏季生魚を関宿経由の上、日本橋魚河岸へ運んだ。また陸上を持って行くものは、小荷駄馬かあるいは人足が徹夜で急行し、これを生駄賃または生担ぎと称した。この販路はあまり遠方へは達せず、八日市場・太田・成田(後の旭市)等までであった。銚子にはこうした船の他に、各醤油造家の持船もあり、年貢米を賃運送する百俵積の「ぼうちょう」船等もあって、非常に繁昌した。水運が開けたことで、諸物資の集散、水産物の中でも特に銚子に集まる干鰯等、江戸深川の問屋や関東各地への輸送に便利となった。川沿いに仙台米の御用蔵が建ち、廻船問屋もできて、仙台河岸の称が生まれたのもこのためである。一方、江戸深川には銚子専用の船着場ができて、銚子河岸の名をのこしている。市内浄国寺の檀家が旧深川区内に多いのは、この由縁があって銚子から移住した子孫が多いからである。1775年安永4年)の円福寺旧記に「道中取次、古座弥三郎・利根川問屋、野崎小平次」の名が見え、檀家有力者となっていることからも、この頃には利根川水運による大きな商業資本家が成長していたことがわかる。特に野崎小平次は後の和田町あたりに居住し、その富力は相当大きなものであった。また最も活況を呈したのは、大消費地の江戸と直結することができた造醤油屋仲間であった。関東各地への製品の輸送、生産原料の移入等、いずれもこの水運によって能率をあげ、利得するところは甚大であった[17]

 
利根川の高瀬船

当時の輸送船は高瀬船で、普通1200樽を積載して利根川を遡行、関宿から江戸川を下り、所要数3日をもって江戸深川に入った。急を要する場合は、途中の布佐あるいは木下に陸揚げして馬によって江戸へ運んだ。木下からの陸路は陸前浜街道我孫子松戸)によらず白井・船橋・行徳の最短コースをとるのが普通であった。したがってこの道は物資ばかりでなく、東下総及び常陸水郷各地と江戸を結ぶ枢要な交通路となっていた。木下宿は船宿として繁栄し、銚子屋の看板をあげた大きな旅館があって、銚子との密接な関係を偲ばせている。香取・鹿島から銚子へ来遊した幾多の文人墨客は、多くはここに宿泊するか、またここから乗船した。一方、利根水路の変更がもたらした自然の大変化に、銚子川口の浅くなったことが挙げられる。この大河の運ぶ莫大な土砂が、河底を浅くし洲をつくり、ひいては流路を変更したりなどして、河船交通を変貌させた。このことから、江戸の初期には、かなり上流まで大きな船が遡行していたことがわかる[17]

 
平手造酒

利根川水運の発達は必然的に、沿岸諸所の地方物資の集散する町村を河港都市へと育てていった。佐原・小見川・笹川はその最たるもので、これに漁港であり商工業も盛んな銚子や水産物の集散に栄える飯岡等が加わり、東下総に連鎖のごとく河港都市が発達を遂げた。これらの諸都市はおのずから地方経済の一単位をなすに至り、諸国からの商人や出稼人の往来が激しい中で、いつしか任侠無頼の徒、いわゆる博徒渡世の温床を醸成していった。佐原喜三郎笹川繁蔵・銚子五郎蔵・飯岡助五郎・勢力富五郎等、いずれもそれぞれの地を縄張りとして名を売った博徒の親分である。特に銚子は、絶えず飯沼観音の縁日があり、人の出入りが最も激しく、したがって金も動いたことで、博徒の恰好の稼ぎ場所であった。円福寺本堂には、青銅製の一斗入り大茶釜と竈があり、飯岡助五郎と銚子五郎蔵が献納の銘が鋳出されている[17]

利根川河口の北岸は鹿島灘砂浜の先端が一大長堤をなしており、南側は一の島・ニノ島を主として一帯に岩礁が隠見しているのに加え、太平洋の怒濤がさかまいて利根の流水と激することから、澪筋も変動が激しく、難破転覆の惨事が絶えなかった。「銚子川口てんでんしのぎ」の俚言はこれから起こったもので、他地方から来た不馴れな船舶は、専ら水先案内人を雇って出入の安全を期した。また、仙台藩では自藩回船の安全のため、千人塚南東の丘陵に汐時袋を設けたことがある。これより先、1698年元禄11年)には江戸日本橋馬喰町の石塚伝四郎が、銚子新生と荒野の村境から半島を横断して高神村名洗に至る堀割工事を出願している。利根川内と太平洋を結ぶ運河開墾であるが、その目的は、北東の強風を受け河口出入が危険なため、別に静穏な港口をつくって船舶の安全を図るためであった。後に着手の運びとなったが、成功を見ることなく中止されている。滑川はその時の開墾工事の痕跡である。運河が不可能とわかってからは、内港施設として和田川及び唐子川が重視され、これが永く河港としての役割を果たしている。両者共に新川と呼ばれ、主として河船の避難と荷役を目的としていた。創設は前者が寛文・延宝頃、後者が江戸末期に近い頃である。常時外洋往来のいわゆる五百石船が碇泊したのは、殆ど河口を遡る本城・松本が多く、両地はこれらの来泊船や地元の漁船で賑わった。松本の後方にそびえる海上台地の小高い地点を加曽山と呼ぶが、その頃は老木もあって船の好目標となっていた。彼らはこれを崇敬し、同町の熊野神社境内には、「加曽山」松本浦船手と刻した大きな石祠がその名残りとして存在している。一方、沿岸漁業の小漁船は飯貝根・和田川等、その他の沿岸に発着していた[17]

 
昇亭北寿『下総銚子浦鰹釣舟之図』

阿波の沖をかすめて北上する黒潮は、紀州熊野灘より伊豆半島の先端を流れて房総に至る。その時速は1浬、黒潮に乗る民族移動は遼遠の太初にさかのぼる。以来、千有余年の間、数次にわたる大小の移動があって、最後に江戸時代の紀州人東国進出に及ぶ。特に銚子には集団したが、これより以前に伊豆半島へ、また房総半島へと移り来ていた。しかし至便佳良の地は既に先来の紀州人が占拠しており、残されたのは怒涛岩礁に砕け散る銚子半島だけであった。こうして後続部隊はここに居を据え、ここを活動の舞台とした。銚子は紀州人に残された最後の入植地であった。銚子に入植した紀州人は、この地の漁業と醤油醸造と商業に貢献したが、これは後に至っても銚子発展の基盤をなしている。紀州人が最初銚子半島に来たのは、文禄慶長の頃であった。目的は大抵漁業のためで、他の商売のためのものは稀である。降って元和・寛永の頃から集団的にやって来て、釣漁(カツオその他)をしたり、任せ網と称する方法で漁労をした。この頃は専ら漁獲物があればすぐ帰ったが、あるいは止まって漁を更に続け、干鰯を造ったりした。大体において春来て秋帰るという方法を繰り返していたが、郷里と銚子との往復が次第に頻繁になるに従って、銚子の地に移住する者も増えてきた。1650年慶安3年)には、摂州西ノ宮の漁夫惣左衛門が船子67人を率いて来た事があり、1652年承応元年)には飯貝根に多数の商店ができた。翌年には紀州の青野五右衛門が、漁夫多数を引き連れて来てカツオ漁等の漁をした。寛文、延宝の頃には、既にカツオ船が50艘を数えた。この頃の漁の方法は任せ網を用いたが、次第に八手網を用いるようになっていった[17]

 
歌川広重『下総銚子の濱外浦』

当初は外浦長崎・外川・犬若に盛んであった漁業は、後には川口の飯貝根・飯沼に移っていったが、この外浦各地の発展は、外川開発者である崎山次郎右衛門の力によるものである。紀州日高郡由良の出身で、後に有田郡広村に住み、寛永・正保の頃浦づたいに漁業をしつつ房総半島に来て、1656年明暦2年)飯沼村に移り住んだ。後に今宮村に移り、任せ網の漁法を始め、1658年万治元年)に高神村外川浦を開き、1661年(寛文元年)この地へ移住した。彼が第一に力を注いだのが築港事業であり、僅か6年間に外川築港を完成させている。次いで外川市街の区割を決定し、西方寺を建立し、自己の邸宅を構え、大井戸を掘削し、干鰯場を開き、漁港としての設備を全て具備するに至り、名実共に関東一の外川港を実現した。その間僅か20年である。彼は郷国から多くの漁夫を呼び寄せ、漁業と海運を営んで巨富を積んだ。このため当時の外川浦は千戸以上に達し、その築港と市街整備は「外川千軒大繁盛」の口碑をのこしている。彼が開基となって建立した西方寺は廃絶し、その本尊阿弥陀如来像と崎山夫妻木像、彼の事績を記した「外川由来記」1巻は、共に末寺であった宝満寺に移されていたが、太平洋戦争の空襲によって炎上亡失している。崎山が銚子で成功活躍したことは郷里紀州に喧伝されて異常な刺激を与え、紀州人の銚子出稼熱をあおった。漁夫や商人は陸続として来銚し、後に醤油醸造を興して財を成す者も多く、富裕商人の大部分は彼らが占めることとなった。銚子の商店街には、湯浅屋・広屋・紀ノ国屋あるいは印南商店・美呂津薬局等、紀州地名ゆかりの名が多い。いずれも父祖出身地を示すもので、銚子という都市の性格を大きく反映している。紀州人の分布は、旧時代の西銚子町・銚子町・本銚子町から高神村外川にかけて密で、豊浦村・海上村等の西部農村地帯に疎である。漁業に商工に、この水辺地帯は紀州人の屈強の入植地であった[17]

 
江戸深川万年橋

銚子の漁業は、江戸時代に入ってから紀州漁民の開発によって勃興したが、江戸時代を通じて銚子の漁業を支えたのはイワシ漁業であった。初期のイワシ漁業に用いられた網は任せ網であったが、その後間もなく八手網に替わった。イワシは肥料にするのが主目的であって、食用は微々たるものでしかなかった。肥料としては、そのまま乾燥させた干鰯、煮て圧搾した〆粕に作られた。〆粕製造過程では灯火用の魚油がとれた。干鰯は近世農業の最高の肥料であり、全国先進地帯の需要が増大して、当時の成長産業となっていた[19]。深川の高橋河岸に銚子場と俗称するところがあって、そこに大きな干鰯問屋岩出屋があったことから、江戸へ莫大な量が移出されていたと見られる。イワシを乾燥するには広い面積の土地を必要とするが、この干鰯場は主として飯貝根から黒生等の海岸地帯が使用され、後に至っても同地域は、イワシの煮干や魚粕等の乾燥加工が盛んである。銚子の豪商宮本屋太左衛門・行方屋庄次郎・柳屋仁平次・田中玄蕃の連名の「魚粕並干鰯直段付」と題した文書が残されているが、連名の4人はいずれもその頃の銚子経済界を支配した豪商で、宮本屋・行方屋は干鰯その他海産物の大問屋、柳・田中は後の造醤油の大店である。これは醤油醸造の巨商となる以前、当時最も有望株であった干鰯事業に投資していたことがわかる。田中玄蕃はこのため、1695年(元禄8年)9月より伊勢地浦に船着場の普請工事を始め、同海岸の開発をとげ干鰯場を設けている。玄蕃はヒゲタ醤油によって産をなしたというよりも、干鰯産業による金融資本の蓄積の方が大であり、醤油による家業の盛運は江戸中期の文化・文政以後に属する。黒生浦は元禄の頃、北川治郎右衛門によって開発されているが、これも目的は干鰯事業にあった。上記の海岸一帯は当時干鰯景気に繁昌し、紀州人の相次ぐ来銚はこの干鰯ラッシュに浮かされたものでもあった[17]

イワシは回遊性の魚であるから、その漁況には何年かの間隔で豊凶の繰り返しがある。江戸時代の銚子のイワシ漁業も、漁況の豊凶による盛衰を繰り返していた。最も衰えたのは明和から安永の間で、それまで銚子最大のイワシ漁業基地として、「外川千軒」の繁栄を謳歌していた外川浦では、50張余もあった八手網が僅か3張を残すだけとなり、ほとんどの網方や商人が転退してしまった。崎山次郎右衛門の2代目が、郷里に引き揚げざるを得なくなったのもこのときのことである。しかしこの不漁も寛政年間には漸次回復に向かい、文化年間には飯沼村の八手網は約70張を数えるようになり、外川浦もまた復興してきた。そして弘化安政の頃に江戸時代最後の豊漁期を迎え、1864年元治元年)には大漁節が生まれるような豊漁をみることとなった。江戸時代の銚子では、イワシのほかにもカツオ漁業やクジラ漁業、あるいは小漁に属する漁船には縄船や猪牙舟の名がみられ、タイヒラメホウボウ等が漁獲されていた。これらは釣漁であるが、そのほか雑網漁業も行われていた。このほかに利根川における内水面漁業も行われていた。その主なものはサケ漁とスズキ漁であったが、シラウオハゼウナギ漁等も行われていた[19]

 
銚子組造醤油仲間

海運・漁業と並ぶもう一つの大きな産業は醤油醸造である。銚子醤油の歴史は、伝説によれば1616年(元和2年)の江戸時代初頭にさかのぼる。この地の里正であった田中玄蕃が、摂津国西ノ宮出身の江戸豪商真宜九郎右衛門の教示により、溜醤油の醸造をはじめたのが起こりである。真宜は造酒と海産物問屋をもって巨富を積んでおり、干鰯その他の海産物取引の関係上、しばしば銚子に来て、当初は干鰯等で田中玄蕃と接触交渉を持つようになった。こうして玄蕃の創始したのが、ヒゲタ醤油である。これより30年程遅れて1645年(正保2年)、紀州広村の濱口家が荒野村に来て、同じく醤油醸造を始めたと伝えられている。すなわちヤマサ醤油がこれである[17]。濱口は当初、高神村の外川で雑貨商を営んでいたが、荒野村に移り、白幡明神の東隣に借地して店を構えた。荒野村での開業当初は味噌・醤油・大豆小麦や、上方からの下り物を、江戸から仕入れて銚子周辺に販売していた。なお荒野村濱口家の周囲には同じ紀伊国出身の醤油醸造業者や廻船業者が軒を並べていた[4]。「濱口梧陵伝」を見ると、1700年(元禄13年)に濱口知直が銚子店の開祖となって初代儀兵衛を名乗るとあり、本格的な事業はこの時に始まる。広村は本邦醤油史上に最も早く見える湯浅醤油の地に隣接するところで、その技はすぐれたものがあった。次いで銚子に来た岩崎重次郎も、ヤマジュウ醤油をもって知られた。両者ともに広屋を屋号とし、玄蕃と並んで銚子組造醤油仲間に重きをなした。1754年(宝暦4年)には銚子醤油組合ができ、広屋儀兵衛、広屋重兵衛、田中玄蕃、田中吉之丞、広屋庄右衛門、飯田久四郎、塚原吉兵衛、広屋理兵衛、宮原屋太郎富岡屋清兵衛、滑川彦右衛門の11人の組合員と、6733石の醸造高を有した。これが20数年後の1780年(安永9年)には、業者18軒、醸造高8949石に上昇、発展の緒についた。本国の紀州で衰微した湯浅醤油の正統が銚子に繁栄結集した光景は、他に類例を見ない。関東各地の醤油醸造は、銚子と相前後してその緒についたものである[17]。銚子は醤油醸造に適した自然条件を備えており、(1)夏期の高い湿度が香気の発散を防いで芳香を保つ、(2)夏涼しく冬暖かい温和な気候が麹菌の活動を平準にして有害な雑菌の繁殖を防ぎ、諸味の成熟を早める、(3)水質が石灰水を含む硬質である、(4)空気が清澄でオゾンをふくみ、雑菌を減じて醤油菌の活動を助ける、といった利点があった。また、利根川河口に位置する銚子は、原料調達にも向いていた。流域の常陸・下総地方は大豆や小麦の有力な産地であり、その輸送が水運によって容易であった。また、製品を江戸に運ぶにも、鉄道輸送が本格化するまでは利根川の舟運が利用された。幕末の1884年(元治元年)には、銚子のヤマサ・ヒゲタ・ヤマジュウ・ジガミサが幕府から「最上醤油」の称号を得た。これは、百数十年に及ぶ経営や技術の蓄積の成果であり、この最上醤油が江戸・東京市場で有利な位置をしめることになった[4]

 
ヒゲタ醤油商標

江戸時代末期の銚子経済界を代表した田中玄蕃は、ヒゲタ醤油の醸造元として早くから巨富を積み、その存在は諸国にまで広く知れ渡っていた。歴代の領主もこれを重視し、特に幕末高崎藩では経済上の支援を少なからず仰ぎ、御用達頭取である彼に、苗字帯刀はもとより御祐筆次席格・非常鑓御免の特別待遇を与えている。庄屋・名主あるいは郷士といえども稀であり、封建時代の地方町人としては最高の身分地位が保証されていた。当時の銚子庶民の間には、「銚子でサマの付くのは観音様に玄蕃様」と口ずさまれたほどである。初代は1556年弘治2年)、また2代は1561年永禄4年)の没であり、その頃から基礎が出来上がった富農である。ちょうどその前後は、海上氏の庇護によって半島最大の大地主となっていた円福寺の力が、少しずつ崩壊していく時代であった。それが少なからずこの新興富農に移動し、次いで干鰯産業や江戸の興隆に順応した企業の醤油醸造により、揺るぎない商業資本を蓄積していった。中興は4世(寛文5年没)か5世(享保12年没)あたりである。一介の地方豪農が醤油企業を創業して、遂に江戸時代関東醤油の覇者となったことは、房総産業史上特筆すべきことである。1717年(享保2年)には今宮村に醸造所を増設するほど発展しているが、次いで分家田中吉之丞に、醸造石高の中から316石を割いて分与し、更に今宮醸造所と醸造高1316石を、別家の常右衛門に分けている。吉之丞家は明治になる前に廃業したが、一時は本家と並んで栄えていた。9世と10世は同家の最盛時代の当主であった。9世玄蕃は名を通喬といい、成田村(後の旭市)の旧家西村家から入って養嗣子となった人で、田中家を隆盛に導いた功労者である。10世玄蕃は通喬の長子で、幕末多難の折、よく家業を経営して盛運の維持に努めた。百略と号し、江戸文雅の士とも交遊が多かった。同家に伝わる旧記中、「先代集」(5代繁貞首記の写がある)と「後代記」及び「玄蕃日記」95冊は、銚子郷土史料としてばかりでなく、日本の近世商業史研究の上からも貴重な資料である。特に「玄蕃日記」は、10世貞矩と11世憲章がその家を治めた61年間にわたり、父子継承して続けられてきた日記で、気象にはじまり家事のメモから社会の事象まで、1日欠かさず書きとめられている。実に1812年(文化9年)から1872年(明治5年)に及んでいる膨大な記録で、地方庶民史料としては全国的にも珍稀なものである。明治・大正年代にかけての当主、12世玄蕃(幼名直太郎・のち直衛・また謙蔵と称す)もよく家業を守り、特に醤油の歴史に興味をもち、「醤油沿革史」や「醤院座神・高倍神考」等の好書を金兆子の名のもとに編纂発行している[17]

正保・寛文期に始まった港湾都市・産業都市への歩みは、元禄期に醤油醸造の産業化という新しい要素を加えて、享保に至るまでには、既に発展の一段階を達成していた。およそ半世紀を要したということにはなるが、「先代集」は、松平外記伊昌が入部した天正・文禄期の飯沼村の百姓数を27軒とし、それが1720年(享保5年)には「飯沼村家数千四百九拾弐軒、人数合六千八百九人」になったことを記している。そして「近代当地の繁昌なり」と言い切っている。このころ、城下でもない地方の村で、7000人近い人口を有するところは、関東では他になかった。しかも飯沼村は銚子の一部分でしかなかった。そして銚子の発展はこの時期だけにとどまらない。海運・漁業・醤油に関連して、その他の商工業も盛んになり、都市化が進展して、文化・文政期に最盛期に達する。この時期、飯沼・新生・荒野・今宮の4村だけで、人口は1万3千余を数え、連続した市街地を形成して、殷賑を極めるようになる。1841年天保12年)、銚子に遊んだ漢学者安川柳渓は、今宮付近から飯沼観音に至る道筋を「市中の賑ひ、あきびとの見世棚、すき間もなくうちつづき、十まちばかりも来つらんが」と描写し、「市中」という表現をしている。戦前の旧市域でみれば優に2万人を超える人々が生活していた。したがって前述の業種だけでなく、そのほかにもこれらの人々の衣食住や健康・娯楽あるいは教養・文化を支える様々な業種があった。飯沼村には、1752年(宝暦2年)の時点で既に13人の医師がいた。当時飯沼村の人口は7409人であったから、医師1人当たりの人口は570人である。1956年(昭和31年)の全国統計では人口834人に対して医師1人の割合であるから、このことと比べると、江戸時代の銚子の産業構造は、かなり高度化したものであったことがわかる[19]

銚子花街の濫觴は、飯沼観音を中心として発生した札所順礼相手の宿屋や茶店にある。銚子が港として繁栄の緒についたのは室町末期のことで、それまでは他国と頻繁な交流は無かった。ただ鎌倉時代から坂東札所の一つとなった飯沼観音に参詣する信仰順礼者のみが、わずかに接する他国人であった。この順礼者のために発生した門前町の茶店・旅籠屋等に、いつとなく出来あがった私娼窟が、田中特飲街(赤線区域)の前身で、いわゆる茶店女や飯盛女に端を発するものである。次いで室町末期、西国の漁夫の出稼ぎにより漁港としての姿相を呈するようになり、江戸期に入って干鰯場の黄金時代に、笠上に遊女屋が発生した。次いで和田堀に諸国漁船の碇泊が繁くなった元禄年中、和田町に船乗り相手の売女屋が出来た。諸国いずれの港にも遊女や売女にあるもので、その始めは衣類洗濯をなす女からであった。旧記によると、正徳の初め笠上付近の塩場に遊女屋があったが、これは江戸中期に至って本城町に移っている。外川繁昌と干鰯景気の所産である。利根川の水運が開け、東北米の廻送や銚子の水産物・醤油等によって江戸と緊密に結びつくようになると、本城・松岸が発展繁昌し、両地に今までなかった立派な妓楼が建つようになった。その地は本城の字下町と呼ばれる地で、5軒の遊女屋に25軒の引手茶屋が軒を並べていた。その遊興制度が引手茶屋を伴っているのは、江戸の影響感化による。この制は松岸遊廓も同様であった。本城遊廓の衰運の最大要因は、1840年(天保11年)・1849年(嘉永2年)・1861年文久元年)と3たび火災に罹ったことである。このため幕末の慶応年間に至るもなおかつてのように復興せず、維新後1872年(明治5年)9月の法律改正による貸座敷営業となり、1879年(明治10年)廃業の諭旨を受けるに及んでいよいよ振るわなくなった。結局転業の困難から3年また5年と延期を重ね、1912年大正元年)12月、全廃となった。本城と並び栄えた松岸遊廓は、その開創が本城よりやや古い。この方は明治・大正に及んでも、なお全国に知られて昭和まで存続したが、太平洋戦争の勃発と同時に廃業し、開新楼・大坂屋等の高楼は軍工場の工員寮に徴用された。1889年(明治22年)6月、千葉県知事宛に提出した松岸遊廓の営業規約には、貸座敷5軒・引手茶屋15軒の名が見える。この頃から大正年代へかけての松岸遊廓は、大利根の流れに映える不夜城の灯火と野趣に満ちた大漁節をもって、その名は広く全国に喧伝されていた[17]

怒濤さかまき暗礁乱立する銚子近海は、一朝暴風雨となれば航行の船舶は頗る危険にさらされ、難破するものが絶えなかった。難破船の中には少なからず外国船も入っており、その遺物が市内に存在している。異国船婦人像は、江戸時代中期あたりに、沖合はるか人知れず難破沈没した外国船から脱落し、海岸に漂着して拾い上げられたものである。円福寺本坊の前庭一隅に「竜王殿」と呼ぶ小堂に安置されている大きな外国婦人の立像がそれである。この像はかつて観音堂裏の花街、田中町一帯に住む娘子の信仰を一手にあつめていた。異国船の銚子漂着で最も古い記録は、円福寺所在の田中玄蕃第9世「皓岳清器居士」墓銘に見える1798年(寛政10年)琉球商船の難破である。彼は高崎藩の命によってこの難船を処置し、藩侯から御褒めの言葉を賜っている。同墓銘には、つづいて1807年(文化4年)清国商船が漂着し、乗組員88人が滞銚したことを記録している。この時は彼の嗣子第10世玄蕃の貞矩がこれを処置し、同様に藩侯の嘉賞を受けている。この時銚子陣屋では彼ら一同を手厚く扱い、後に長崎へ送り届けている。また滞銚中、2名の乗組員が病没したが、これも懇ろに威徳寺に葬って墓石を建立した[17]

江戸との商取引関係が深く、しかも富裕な商人が多かった銚子と佐原には、江戸座俳諧との密接なつながりが出来上がっていった。「新撰俳諧年表」に基づいて両地の俳人を拾い出すと、寛政頃から文化・文政前後にかけて多くの俳人が挙げられ、東下総において最も盛んなところであった。銚子の俳人であった存亜は無物庵と号し、常陸から両総にかけて多くの門弟があり、その流は明治まで続いた。桂丸(銚子の豪商行方屋、大里庄治郎家第6代で名は富文)も銚子俳諧の興隆に功績があった指導者である。1808年(文化5年)5月、一茶来銚の手引や世話をしたのも彼で、特に佐原の恒丸と共に、東下総の俳諧に貢献するところが少なくなかった。銚子の豊かな商家の主人や妻女達の間には蕉風の俳諧が普及し、大きな文芸グループを形成していた。田中と野崎の両豪商が俳諧に親しみ、江戸の豪商の俳人仲間との交流があったことは、円福寺境内のほととぎすの句碑からもわかる。それには、「ほととぎす銚子は国のとっぱずれ」とあって、俳趣味の江戸豪商夫妻が、この地に遊んで詠んだ句であることを示している。この句は、銚子を代表するものとして人口に膾炙している。銚子の俳人は蕉門の流れを汲む鳥酔の門下ないしその系統が多かった。その直流の松露庵社中は盛大であり、後には松露庵6・7世は銚子の俳人の占めるところとなった。柳居・鳥酔の衣鉢をつぐ松露庵の末流は銚子の俳人達に継承されて多くの門弟を育成し、俳諧社中が出来上がっており、江戸末期に及んでもなお銚子の俳諧は衰微していなかった。市内各寺院の墓地には、庶民の墓石に辞世の句、歌を刻したものが少なからずある。これは銚子が他の地方町村とは異なり、江戸期の文化水準が高かったことを示しているが、それは商業をもって江戸と密接な関係があったからである。俳諧に比べて和歌は広く庶民には親しまれなかったが、市内の寺院に散在する墓石に刻された辞世の和歌や歌碑がいくつかあって、銚子の庶民がこの方面にも心をよせ、そうした文芸を楽しむ余裕をもっていたことを示している。銚子はまた狂歌の盛んな土地でもあった。江戸の狂歌趣味が早くから移入され、特に1830年(文政13年)十返舎一九の来訪があってから、さらに流行した。廻船問屋の十五屋が肝入りで狂歌会を催し、その伝統は明治・大正にまで及んでいる。明治に入ってからは情歌の称が起こって神社奉納の歌会がしばしば催されている。文化・文政の頃からは、江戸在住の文人墨客が銚子へ相次いで来遊し、和歌に俳諧に漢詩にそれぞれ雅趣を述べている。これらの作品はいずれもこの地の壮大な海洋と波濤の美を讃美したもので、多くの雅人を遊山の旅に送り出す、この時代の泰平を反映するものである。これが銚子の文化に寄与し、この地の文運を高めた効果は大きかった[17]

 
江戸時代の寺子屋

銚子地方の幕末の寺子屋は、「海上郡誌」によると相当な数があり、多くの寺子屋師匠が列挙されている。石毛胖庵・喜助・岩三郎は、父子2代にわたって寺子屋教育に専心した一家で、特に岩三郎は海上村垣根に阿弥陀院に1874年(明治7年)4月長者学舎を開設し、同年12月垣根学舎と改称し、地方子弟120名を集めて教育に従事した。同学舎は1876年(明治9年)3月に垣根学校と改名し、名実ともに私立小学校の先駆をなしている。これは胖庵の開いた寺子屋を継承して、その子が明治維新後の学制に則る学校に改めたものであるが、これより先、幕末から明治へかけ私塾として広く知られたものに、守学塾(銚子町新生)と懐徳塾(海上村柴崎)が挙げられる。守学塾は1846年(弘化3年)に宮内嘉長が開創したもので、経義詩文を講じ、斉家治国の人道を説いて人材を養成することを主眼とした。懐徳塾は1857年(安政4年)正月、海上八幡宮の祠官松本胤雄が創設した私塾で、尊王愛国・敬神崇祖・修身斉家等を綱領とし、専ら幕末から明治へかけての時流に投じるような人物を養成することに努めた。また一方には、高崎藩士が銚子に来て歓徴舎を開いた。銚子における洋学塾として最も早いもので、銚子に洋学思想が早くから流れこんだことがわかる。市内の諸寺院には「筆子中」あるいは「筆弟中」と刻した墓、また神社境内に建てられた頒徳碑等が遺存している。また銚子では幕末の頃、世情険悪を反映して、剣道柔道が盛んであった。銚子の信太鉄之丞は剣客として聞こえ、外川の石黒某は石黒流柔道をもって門人多数を養成していた[17]

 
幕府軍艦隊(左端が美加保丸)

千葉県の生んだ世界的測量学者、佐原の伊能忠敬は幕府の測量方として、1801年(寛政13年)7月18日、房州から九十九里沿岸を測量しながら銚子に入った。田中玄蕃の分家、吉之丞のもとに宿泊して日夜測量に従事し、犬若で待望の富士山実測を果たした。忠敬の測量が終わり、はじめて本邦の科学的地図が出来上がって半世紀、幕末の異国船がしきりに来訪し、国防の急務がしきりに叫ばれるようになった。間もなく内外の風雲いよいよ急を告げる情勢に、1861年(文久元年)、高崎藩は幕府の命をうけて、その領地である銚子海岸の武備を固めることとなり、領民に協力を求めた。田中玄蕃・濱口儀兵衛・岩崎重次郎は代官所から防備についての労役等を命じられている。一方、藩は寺田五右衛門宗有に命じて、川口その他の沿岸に砲台12座を設け、砲術訓練を行い一朝有事の際の備えを固めた。1862年(文久2年)10月2日には対岸の常陸原に異国船の乗り上げがあり、翌年4月22日には外川浦に見慣れぬ外国船現るとの情報が、銚子の人々を驚かしている。陣屋からは即刻兵がくり出されて、川口・荒野・今宮下がかためられた。翌々年の暮にも、常陸原に異国船の難破事件が突発している。この時も陣屋では直ちに警備のため、川口・今宮の両所へ兵を出している。1861年(文久元年)正月には、水戸の浪士が天狗党を組織し下総・常陸に横行、財物を掠奪した。これを筑波山事件、また天狗騒動と俗称するが、このため数年間銚子地方の蒙った実害は、金殻を強請された富裕豪農はじめ、物価高騰のため一般庶民が難渋する等、甚大なるものがあった。1868年(慶応4年)8月には、北海に逃亡を企てた幕府軍艦数隻のうち、美加保丸が飄風のために銚子黒生海岸に難破、その乗員中13名の死者を出し、他は逃亡という事件が起こった。銚子陣屋では多数の脱艦兵逃亡によって周章狼狽し、窮状を鎮将府に訴えている。美加保丸難破から間もなく、9月6日には播州御用船竜野丸が、少し離れた北方の二間の沖に坐礁破船した。この船に乗り込んでいた国木田専八が、文豪国木田独歩の父となる人であった。この年10月、水戸藩脱走の暴徒が来銚し、富商を脅迫しての金品奪取、また宝満寺娘を人質に拉致しての身代金強奪等の狼藉を働き、銚子は物情騒然たる有様となった(銚子事変)。この一隊は間もなく捕縛されて東京に送られ、銚子を混乱におとし入れた幕末最後の騒擾となった[17]

 
濱口梧陵

第7代濱口儀兵衛(濱口梧陵)は、幕末から明治へかけての社会変動期にあって、稀有の人格を完成した紳商であった。1820年(文政3年)6月15日、分家濱口七右衛門の長子として紀州に生まれ、1831年(天保2年)9月、12歳で本家の養嗣子となり、幼名七太を儀太と改めた。そして初めて江戸日本橋小網町の濱口家(吉右衛門)を経て銚子店に移り、家業を見習うこととなった。これより20歳で結婚するまで、数年間銚子に滞在し読書・修養に努め、特に剣道を今宮村目出度町の寛竹に学んだ。後年佐久間象山・三宅艮斎・勝海舟陸奥宗光福沢諭吉等の、当時最もすぐれた学者や経世家と親交を結んだが、その基礎はこの時代に築かれたものである。1854年(安政元年)11月4日広村大津波に際して彼がとった沈着適切の処置が多くの人命を救い、またその後の防波堤築造のため後顧の憂いを絶った事績は、小泉八雲がその著の中で「生ける神」として紹介し世界に知られ、また戦前の国定教科書に採録された。梧陵の銚子における特筆すべき事績は、コレラ防疫に対する処置である。1858年(安政5年)、コレラが流行し、江戸を中心として猖獗を極めていた時、江戸にいた梧陵は銚子荒野村の洋方医関寛斎を当時の大家である林洞海・三宅艮斎の両氏に紹介し、予防及び治療法の研究に関して便宜を図った。寛斎は臨床的にコレラ患者の治療法を学び、また実地について各方面より予防法を研究し、予防薬及び治療に関する薬品・書籍等を購入して銚子に帰った。銚子は既にコレラ流行地となっていたが、寛斎は江戸で学んだ治療及び予防法を応用し、全力を挙げてこの撲滅に従事した。このため、銚子地方はコレラ大流行を見ることはなかった。明治新政府になってからは駅逓頭に任じられ、のち和歌山県大参事・同県会議長等を務めて地方行政に尽くした。1884年(明治17年)5月、欧米視察のため渡米したが、翌年4月21日ニューヨークの客舎に病没した。銚子には1897年(明治30年)1月、勝安房題額・重野安繹撰の紀徳碑が営まれた[17]

近代 編集

明治・大正時代 編集

 
川瀬巴水『犬吠の朝』

新政府は、1868年(慶応4年)閏4月21日新官制を公布し、地方を府藩県に分け、府県に知事を置き、藩は旧による旨を告示した。この時藩以外の旧幕府領地は8府21県に分かれ、海上郡は房総知県事柴山典の管掌するところとなった。1869年(明治2年)2月9日、上総に宮谷県が設置されると、本地方はその管轄下に入り、柴山典は引きつづき任じられた。ところが同年6月17日列藩の請をゆるし、藩主をもって知藩事として藩制を改革し、府県の例にならい政務を行わせることとなった。このため高崎藩主大河内輝声は、同19日小御所において、弁事五辻禅正大弼から辞令が渡され、高崎知藩事となった。銚子は高崎藩である関係によって同知藩事の管するところとなり、旧飯沼陣屋がその支庁と改められ、吏員(旧藩臣であるがこれを官員サマと呼んだ)が赴任してきた。しかしながらこの制も僅かに2年足らずで改変され、1871年(明治4年)には列藩(263藩)を廃して県とする、いわゆる廃藩置県の詔が発せられた。この郡県制によって、本地方には新たに新治県を設置することとなり、海上・匝瑳・香取3郡は茨城県下の鹿島・信太行方河内筑波新治の6郡と共に、その管下に入ることとなった。以後、各地の県廃合がしきりに行われ、1873年(明治6年)6月15日には印旛木更津両県が廃されて千葉県が置かれ、1875年(明治8年)5月7日新治県も廃止、その区域は茨城・千葉両県に分合された。こうして海上郡は香取・匝瑳の2郡と共に千葉県管下に入り、ここに初めて現行の県制となった。1878年(明治11年)7月22日府県会規則が定められると同時に、郡区町村編制法が制定され、郡長・区長・書記を置いて地方政治に当たらせることとなった。続いて同年11月11日よりこれが実施され海上郡は匝瑳郡と連合し、各町村もいくつか連合して戸長役場を置き所管事務を掌理することとなった。こうして初めて、海上匝瑳郡役所が銚子荒野村に置かれた。この時、これらの各村に町村会議または区会議の開設が許されたが、のち1888年(明治21年)4月1日市町村制発布となり、1889年(明治22年)4月1日に施行された。郡下各町村は新制度に基づいて町村長および町村会議員を選定し、村治の事を司ることとなった。当時の銚子の町村編成は次のように定められた(○は役場所在地)[17]

本銚子町(○飯沼)、銚子町(○荒野・新生・今宮)、伊豆原村(○本城・長塚・松本)、豊浦村(○辺田・小川戸・三崎)、高神村(○高神)、海上村(○垣根・四日市場・赤塚・余山・三宅・松岸・高野・柴崎)、船木村(○高田・芦崎・岡野台・船木台・三門・中島・正明寺・九ヶ村新田・白石鶏沢新田)、椎柴村(○小船木・野尻・塚本・忍・猿田)、香取郡豊浦村(○諸持・下桜井・富川・下森戸・宮原・東笹本)

このうち伊豆原村は1884年(明治17年)7月本城・長塚の両村が連合して出来た戸長役場に、1889年(明治22年)8月松本村を加えて誕生したもので、村名の由来はこの地につづく海上台地の高所一帯を伊豆原と総称したことに因んだ。これが2年後の1891年(明治24年)9月には、西銚子町と改称している。銚子の中心はこの時から市制施行に至るまで、3町1村(施行後順次6村が併合された)で発展してきた。豊浦村は旧幕時代に小川戸村が海高(後の漁業税)を有した縁由により豊浦港といったという伝説に基づき、海上村は海上郷旧社である海上八幡宮に因み、船木村は和名抄の船木郷に依り、椎柴村は村の台地高原を古来椎柴野と呼ぶところから採る等、それぞれ郷土の伝統を重んじて付けられている[17]。銚子町・本銚子町・西銚子町をあわせた戸数、人口は共に県庁所在地千葉町を大幅に上回り、銚子は明治後期に至るまで千葉県内最大の都市であった。また、1890年(明治23年)の千葉県会が可決した県税予算のうち商工業活動を対象に賦課する県税の営業税・雑種税や漁業税等を見ると、本銚子・銚子町は合わせて3568円の負担額となり、千葉町より600円近くも多く負担している。千葉町は政治行政の中心都市であったが、人口・商工業の集積度では銚子に及ばなかった[4]。東京となってからは日本の発展とともに周辺に大都市が発生したが、江戸の頃には銚子が最大の衛星都市であり、その名残りは明治期まで続いていた。1896年(明治29年)5月、府県制及び郡制が施行され、これの実施を1896年(明治29年)9月よりと決定した。このため海上・匝瑳の両郡は分離することとなり、海上郡役所は銚子町に、匝瑳郡役所は福岡町(後の八日市場市)に分置され、各々郡会議員選出のもとに郡自治の運営はその緒についた。以後、海上郡役所の管下にあること25年に及んだが、1922年(大正11年)4月12日郡制廃止法が公布され、翌年4月1日これが実施となった。そして事務整理を完了した1926年(昭和元年)7月1日、海上郡役所は廃止され、ここに長い郡治の歴史に終止符を打った[17]

 
藤島武二『犬吠岬の灯台』
 
リチャード・ヘンリー・ブラントン

明治に入って、銚子にも相次いで文明開化の新施設が見られるようになり、犬吠埼灯台の建設、蒸気船の出現、測候所の創立、電信線の架設をはじめ、鉄道が開通し無線電信塔が聳立する等、その変貌は目まぐるしいものがあった。銚子で新文明のトップを切ったものは、犬吠埼灯台である。これより太平洋通いの船舶は、行くも来るもこれを目標とし、また沿岸航行の船舶もこれによって安全を得ることとなった。この種施設としては本邦最古の一つで、以後、銚子はこれによって象徴されるようになり、宣伝印刷物や商品の図案には必ず灯台が添えられている。1866年(慶応2年)9月英国公使サル・ハーリー・パークスが旧幕老中松平周防守等に建言しこの年5月に英仏蘭米4国と締結交換したいわゆる江戸条約(其第11条、日本政府ハ外国貿易ノ安全ノ為メ燈明台、浮木、瀬印木ヲ備フベシ)に基づいて、犬吠埼へ西洋型第1等灯台を建設することが明治政府と米国公使との間に商議されたのが起因となった。灯台をここ犬吠埼の断崖に定めたのは、1872年(明治4年)3月工部省招聘の技師英国人リチャード・ヘンリー・ブラントン等一行が、灯明台視察船テーポール号に搭乗して上陸査定した結果である。灯台の起工は1872年(明治5年)9月28日、竣工は1874年(明治7年)11月15日、造営に当たったのは、ブラントンに工事係中沢孝政・道家紋太郎等と器械取付方の英国人ジェームズ・オーストレル・大工棟梁松本久左衛門(銚子の人)等であった。造営材料は、香取郡産の木材・茨城県筑波郡北条町小田山産出の花崗岩・高神村産銚子石・香取郡高岡村製造の煉瓦を使用し、セメント・硝子板・金属器具・灯明器械類は外国産であった。材料中、最も多量を要するのは煉瓦であり、これを国産品に求めるか外国産のものにするかは、工事費に至大の関係があった。中沢技師は本邦産を用いることとしたが、ブラントンは英国製でなければ適せぬと主張して譲らなかった。中沢技師は海上郡余山にその製造を試みたが品質粗悪で到底用いようがなかった。中沢技師は本邦産が必ずしも適せぬ理由がないと、自説を翻さず種々腐心した。たまたま香取郡高岡村大字高岡に良土があることが発見されたので、土地の旧藩士等に製造法を伝授して焼かせたところ、これが外国産に比較試験して決して遜色のない逸品であることが確かめられた。こうして同技師の主張が貫徹して全部本邦産を使用したために、公費を節減できたことは甚だ大なるものがあった[17]。初期には逓信省、運輸省等に所属していたが、1948年(昭和23年)海上保安庁に伴って移管され、1953年(昭和28年)に犬吠埼航路標識事務所が発足した[19]

銚子は海上交通の要衝にあったことから、銚子汽船株式会社取締役と海上郡長ほか有志が、気象災害防止のため、1886年(明治19年)9月1日、荒野村銚子港字下富田屋町に私立測候所を開設した。この私立測候所が1888年(明治21年)4月、千葉県銚子二等測候所となり、1912年(明治45年)1月に千葉県銚子一等測候所に昇格し、1938年(昭和13年)10月には国営に移管して中央気象台銚子測候所となり、以後、文部省運輸通信省運輸省と移管された。1957年(昭和32年)9月1日には銚子地方気象台となり、国土交通省(旧運輸省)の外局である気象庁の地方支部局として、千葉県の気象業務を行うことを任務としている[19]

銚子地方では、1872年(明治5年)5月、野尻郵便局が開設されている。次いで同年7月、海上郡荒野村に銚子荒野郵便局が設置され、1886年(明治19年)4月三等局となり、1888年(明治21年)12月銚子郵便局と改称した。銚子で電信業務が開始されたのは1885年(明治18年)のことで、同年9月15日に荒野村に銚子電信分局が開局した。工部省はこの年12月に廃止され、電信の主管庁は逓信省となった。この分局は、当時の新生村・荒野村戸長石上忠平を総代とする有志による献納置局であった。献納置局とは、当時は政府予算だけでは電信分局の設置要望に応じられなかったので、地方の経済的負担により敷地・建物を献納して設置した局のことである。同局は1889年(明治22年)9月に銚子郵便局と合併して銚子郵便電信局と改称、1903年(明治36年)4月に再び銚子郵便局となったが、電信業務は行われていた[19]1901年(明治34年)度の電信発信・着信は千葉局を抜いて県下最高を維持していた[17]。銚子での電話開通は、1907年(明治40年)4月3日であった。銚子郵便局内に電話機を設置して、公衆に利用させる電話通話事務を開始した。通話区域は東京・千葉・横浜であった。銚子に電話が開通したのは、当時銚子郵便局長であった松本徳太郎を始めとして、元海上匝瑳郡長の杉本駿、ヒゲタ醤油の田中玄蕃その他山口文右衛門、石上新藤、高橋順五郎というような銚子の有力者たちが奔走した結果であった。これらの先駆者たちは、さらに銚子においても電話交換を実現すべく運動を続け、その結果早くも1908年(明治41年)4月1日から、銚子郵便局において千葉県最初の電話交換業務が開始されることとなった。市外通話で千葉に遅れた銚子は、電話交換では千葉に先んじて県下のトップを切ることとなった。千葉の交換開始は1910年(明治43年)3月21日である[19]

 
日本郵船「丹後丸」

1908年(明治41年)5月16日逓信省が我が国最初の無線電信局として銚子無線電信局を開設した。その位置は、飯沼村時代の字平磯台通称夫婦ヶ鼻であった。ここに日本最初の電信局が置かれたのは、航行中の船舶との無線電信電報業務を行う海岸局の設置位置として銚子が適していたためである。明治・大正から昭和前期にかけて、銚子無線電信局は犬吠埼灯台とともに市民の誇りとなっていた。銚子無線電信局による最初の無線通信は、1908年(明治41年)5月27日横浜港を出港して、シアトルに向けて野島崎沖を航行中の「丹後丸」が受信し、「二時横浜港帆、今銚子より西南六六海里にあり初めて無線通信を開く感度良し」の電報を送った。これが海岸局と船舶局との間における日本最初の無線通信の電報である。初期の無線は、通信距離の拡大と通信内容の充実が進められ、電波帯も中波から短波へと広げられていった。銚子無線電信局跡には、皇紀2600年に当たる1940年(昭和15年)に逓信省が建立した「無線電信創業之地」の記念碑がある。1929年(昭和4年)3月、銚子無線電信局を送信所と受信所に分離して、高神村後新田(後の小畑新町)に受信所を新設するとともに、旧局舎は分室として本銚子送信所と称した。この本銚子送信所は1934年(昭和9年)に川口送信所と改称の後、1939年(昭和14年)8月に椎柴村大字野尻滝ノ台(後の野尻町)に移転、銚子無線電信局椎柴送信所となった。1949年(昭和24年)には逓信省、逓信通信省、逓信院、逓信省と変遷してきた主管官庁が電気通信省となって、銚子無線電報局と改称された。さらに1952年(昭和27年)8月、日本電信電話公社が発足して、公共企業体としての組織となった。戦後は送受信所の設備の改善・拡充が推進され、また運用部門の組織の強化も図られた。開局当時の使用電波は中波1波であったが、短波19波を合わせて20波となり、全世界の海上の航行する船舶と交信した。その結果海岸局としては日本一を誇り、また世界一といわれたイギリスの海岸局とも比肩するに至り、銚子無線電報局の代表的なコールサインであるJCSは、世界のJCSとして知れ渡った。また、日本が初めて南極観測を開始し、オングル島昭和基地に第1次の越冬隊員を派遣した1957年(昭和32年)から、日本では唯一の南極との通信基地として様々な重要な通信を行い、南極観測事業に大いに貢献した[19]

 
蒸気船「通運丸」

明治維新によって幕藩体制が崩壊すると、従来の藩を中心にした物資の流通に大きな変化が起こって東北地方と江戸を結ぶ海運は急速に衰退した[19]。また、銚子川口の水深は満潮時11尺、干潮時は8.9尺に過ぎないため、河港に出入する船舶はおのずから制限を受け、江戸時代から150石積以下に止まっていた。従って明治以降、大船巨舶の発達するにつれ、奥羽地方の諸物資や廻米等は外洋を通過して寄港することなく、銚子港の商港としての役割は大きく後退した。しかし、利根川の水運だけは昭和まで残っており、新文明の花形である蒸気船の登場は、旧来の高瀬船による利根川水運に一大革新をもたらした。1874年(明治7年)、利根川沿岸の輸送交通を掌握して利益を収得する目的をもって、汽船利根川丸が回航されたのを皮切りに、年を追って個人企業の就航汽船数は増加していった。そして同業者間に激しい競争が起こり、互いに賃金を値下げして共倒れの窮境にまで陥る有様であった。そこで1881年(明治14年)12月、これを憂えた町の有志間に銚子汽船株式会社を設立して一本化することが企画され、翌年度1月に開業した。この事業に最も賛意を表したのは明治の先覚者である濱口儀兵衛(梧陵)で、自ら資金数千円を拠出して会社の設立を助けた。こうしてはじめて東京と利根・江戸両川の沿岸並びに北浦・霞ヶ浦の各地を結ぶ交通運輸の便が開かれるようになった。これは従来の小規模な、しかも長時日を要する交通情勢を一変させ、銚子をはじめ沿岸各地の発展に資するところも少なくなかった。総株数800株、上層株主のほとんどが銚子居住者によって占められているが、以下1株の小株主に至るまで、その大部分が銚子の人達であって、銚子人出資の、銚子のための企業体といえ、当時の銚子にあってはこれが最大の企業体であった。銚子から東京まで18時間、午後4時に興野河岸から乗った船が、翌日の午前9時に東京日本橋の蠣殻町に着くというものであった[17]。銚子町の小学校では毎年行っていた鹿島・香取巡りの修学旅行に、この蒸気船を使っていた[19]日本鉄道(後の常磐線)が開通してからは、取手で下船して汽車によって東京に出るものが多くなった。成田線が銚子に延び(佐松線開通)、自動車が発達すると間もなく衰滅し、失業した汽船の機関士が各醤油会社の蒸気機関係に吸収されたりなどしている。大正の終わりから昭和にかけてのことであった[17]

 
1935年(昭和10年)頃の新生駅

明治維新と共に、鎖国の堰を切って流れ込んだ泰西文明の波は、日本の交通機関を根底から変えた。岡蒸気と呼ばれた汽車が登場したためである。1872年(明治5年)の新橋横浜間の開通を皮切りとし、新時代の先端をゆく最も有望な民間事業として、全国各地に鉄道会社が設立されていった[17]総武本線1894年(明治27年)7月20日総武鉄道株式会社市川佐倉間で営業を開始したのに始まり、その後1897年(明治30年)6月1日本所(後の錦糸町駅)・銚子間、1904年(明治37年)4月5日両国・銚子間が開通した。次いで1907年(明治40年)9月1日鉄道国有法」によって国に買収され、以後国有鉄道となった[19]。本銚子・西銚子・銚子の3町有力者は、総武鉄道株式会社の設立と開通のため、終始その努力と熱意を惜しまなかった。濱口梧陵のような先覚者の支援や田中玄蕃はじめ有力者の出資が、この事業を力づけたことは甚大であった。田中玄蕃はこれの大株主であり、1893年(明治26年)7月常議員となっており、この鉄道のために大いに尽くした。また1898年(明治31年)5月銚港神社の社前に、町民各層が拠出して石灯籠一対を作り、記念のため献納している。開通当初の銚子・本所間の所要時間は、約5時間を費やした。国有鉄道となってからは、列車の改善と共に短縮され、1915年(大正4年)の時刻表によると4時間半前後となっている。朝5時20分の一番列車に乗ると、両国橋駅に10時5分着となり、夕方両国橋発6時の終列列車に乗れば、夜10時40分銚子駅に着くから、楽に日帰りが出来るようになった[17]新生駅では、1900年(明治33年)の開業以来、銚子の貨物駅として鮮魚を始め最も多くの貨物を取り扱った[19]

 
銚子遊覧鉄道の敷設工事
 
蒸気機関車の乗り入れ

銚子から犬吠埼・外川方面に至る鉄道敷設は、総武鉄道株式会社によって1901年(明治34年)4月免許が得られ、一部工事に着手されながら途中放棄となった。ようやく明治の末頃から避暑客・遊覧者の増加を見るようになって、土地の有力者間に私設鉄道敷設の議がおこり、1912年(大正元年)12月7日銚子遊覧鉄道株式会社が設立された。これは官線銚子駅を起点として、犬吠に至る3里半の軽便鉄道で、途中、仲ノ町観音本銚子海鹿島の4か所に駅を設置することも併せて認可を得た。工事は翌年6月15日より着手され、その年の12月28日に開通した。ところが1914年(大正3年)6月、第一次世界大戦が勃発すると、鉄材の大暴騰を来たし特にレールの価格は高騰したため、会社は経営の利益より売却の有利を逃さないこととし、これを筑波鉄道に売却し解散した。その後1923年(大正12年)、再び有志らが鉄道敷設の認可を得て、銚子鉄道株式会社を設立し同年7月開通した。路線も新たに犬吠から外川まで延長、敷設された。その後、観光客の来遊も多くまた沿線の住宅増加等によって事業は好調に向かい、駅も1925年(大正14年)7月1日笠上黒生(本銚子・海鹿島間)を置き、更に1931年(昭和6年)6月11日君ヶ浜(海鹿島・犬吠駅間)を新設した。戦後は銚子電気鉄道株式会社と改称した[17]

 
本銚子 - 海鹿島間を行く蒸気1号

成田線は1897年(明治30年)1月、成田鉄道株式会社が佐倉・成田間で営業を開始したのに始まり、翌年には2月3日成田・佐原間が開通し、佐倉・佐原間の鉄道となった。その後1920年(大正9年)に「鉄道国有法」に基づいて国に買収され、9月1日から国有鉄道となった。国有鉄道になってからは、地元住民の要望にしたがって佐原・松岸間に延長工事が実施され、1933年(昭和8年)3月11日に開通した。これによって銚子から佐原・成田回りで両国へ行くことも可能となった[19]。後に近接町村併合によって、沿線の椎柴(旧海上郡椎柴村)・豊里(旧香取郡豊里村)の2駅が、市域に包摂されている[17]。両国・銚子間は総武本線よりも成田線の方が遠回りで、時間も約30分多くかかり、運賃も高くなった。したがって銚子市民にとっての成田線の利用範囲はおおむね成田までであり、両国行きは専ら総武本線を利用した。しかし銚子を含む利根川沿線の町村がようやく鉄道によって結ばれることになり、交通や物資輸送面で多くの利益がもたらされた。なお銚子では、戦前一般的に成田線のことを佐松線と呼んでいたが、正式の線路名称は当初から成田線であった[19]。これら各鉄道の開通は、銚子の千葉県東部の重要産業都市、また漁港としての機能を発揮させ、市勢の発展と文化の向上に大きな役割を果たしている。こうして江戸以来明治に至る長い間、利根川による水運に依存していた銚子は、陸運の発達に恵まれた近代都市へと移行した[17]。また、1926年(大正15年)10月、一等飛行士猿田秀文が、三軒町に大利根飛行場という民間の水上飛行場を設営し、銚子・佐原間定期旅客輸送搭乗料1人片道10円、犬吠半島上空の「海の遊覧飛行」同5円、佐原・潮来上空における「水郷遊覧飛行」同5円を開始したことは、時代の最先端を行くものとして地方人を驚かせた[19]

波崎町は東下村と言った江戸時代の昔から、経済的・文化的に銚子に依存してきた。対岸の地一帯は行政上は茨城県鹿島郡に所属しているものの、渡船を動脈として実質上は銚子の一部か、延長となっているに過ぎず、これが銚子と波崎を結ぶ唯一の重要な交通機関となり、鹿島郡南部の人達が東京に行くのも、これで銚子駅へ出て汽車に乗るのが順路という実状であった。物を売るにも、買うのも、また子女の教育も高等学校からは皆この渡船で銚子へ来ていた。対岸の茨城県鹿島郡との川幅で最も広いところは1700〜1800メートルあって、江戸期より銚子各所に至る渡船連絡が運営されてきた。大正の頃は、市域に当たるところに11ヶ所の渡船場があって、人と貨物の運搬に当たっていた。各渡船は特定の個人がそれぞれ運営していたが、銚子に鉄道が開通し交通が駅に集中するようになり、おのずと興野渡船場が繁盛した。このため1919年(大正8年)、銚子汽船株式会社はこの事業の有利に着眼し、発動機船で波崎側の船着場のいくつかに順次立ち寄る巡航方式で渡船を開始した。後に渡船を指して巡航船と言ったのは、この時の名残りである[17]。しかし、1920年(大正9年)に波崎渡船組合が結成され、1922年(大正11年)には波崎町の伊藤汽船部が夜間渡船を始めて業者間で激しい競争が続いたが、最終的には終戦後の1953年(昭和28年)、波崎町が渡船の管理運営に当たることで決着した。また、その前年の1952年(昭和27年)10月15日に茨城県営の自動車専用渡船が開設され、その運行管理は波崎町に委託された[19]。この現象は、銚子が明治以後急速に発展し、地方都市としての体制が整うに従って波崎町の銚子依存度も向上し、渡船利用率がこれに伴い激増したためである。銚子へ映画を観覧に来ている波崎町民のために、毎日その映画館終業後の午後11時頃、銚子渡船場発の最終便が運航されていたのも、両地の相関がもたらしたこの地ならではの景観であった[17]

 
大正期の銚子港

近代に入ってからも、漁業は依然として銚子の主要産業であった。むしろ漁業への依存度は江戸時代以上に高まり、産業都市銚子における漁業の比重は増大した。それは明治維新によって東廻り海運が急速に衰微し、銚子港の商港としての役割が大きく後退したためである。そのため明治時代に入ってからの銚子は、しばらく往年の活気を失ったが、やがて漁業が文明開化の進展と共に近代漁業へと発展し、銚子港は全面的にその根拠地として、新しい息吹を上げることとなった。漁業発展の要因は漁船の動力化であった。銚子で漁船が最初に動力化したのは1907年(明治40年)以後のことで、この頃建造された銚子の動力船は5艘である。エンジンは電気着火式石油発動機を用いたが、間もなく焼玉エンジンが現れた。動力船は一般に機械船あるいは発動機船と呼ばれ、大正期に入ると急増して、1915年(大正4年)末には早くも71艘に達している。動力化は漁船の大型化を招き、従来の手漕ぎの漁船は大きくても3トン前後であったが、動力船は15トン前後から20トン前後の大きさを持つようになった。また漁具・漁法の変革を促し、さらには航続能力の飛躍的な向上によって行動半径が拡大し、漁場も沿岸から近海・遠洋へと延びて行った。そして他港の漁船が回航してきて、ある期間ここを基地として操業するようになった。いわゆる廻船である。廻船は水揚げを増加させるだけでなく、資材・食糧等の仕込み、乗組員の休養・娯楽等による消費も伴うので、漁港にとっては経済を支える有力な柱として重視された[19]

主力漁業として期待されていたのはイワシ漁業であった。イワシ網は明治前半までは依然として八手網が使われていた。しかし後半になってからあぐり網が入ってきて、江戸時代からの長い歴史をもつ八手網は姿を消していった。1864年(元治元年)に大漁節を生んだ幕末のイワシの豊漁期は、1877年(明治10年)頃に終わって不漁期に入ったが、他方ではその他の漁業自体が質的に向上してきたこともあって、その他の漁業の漁獲高が総漁獲高の中でより大きな比重を占めるようになった。その他の漁業の進展を支える基盤となったのは、鉄道の発達による鮮魚消費市場の拡大、特に東京出荷の日常化の実現であった。この時代のその他の漁業中、最も主要な位置を占めていたのは、マグロ・カツオ漁業である。漁法は一本釣り、はえ縄、ながし網等であった。かつてイワシの銚子とされていた銚子は、大正時代にはマグロの港とさえいわれるほどになっていた。しかし昭和に入ると、漁場が遠くなったことで、銚子のカツオ・マグロ漁業は漸次衰微を余儀なくされた。カツオ・マグロ漁業とは反対に、小物類を対象とする漁業として、大正期から盛んになってきたのは機船底びき網漁業である。機船底びき網漁業に次ぐ小物類の漁業は、タイ・アラ縄漁業であった。1897年(明治30年)頃からは、刺網によるサンマ漁業が盛んになった。これらのほか、小縄と称するはえ縄によって、ヒラメ、ホウボウ、タイ、スズキ、カレイ等が漁獲されており、雑漁業と総称される各種の漁業が行われていた。また利根川では、ハゼ、ウナギボラシジミ等を対象とする漁業が行われていた。なお1907年(明治40年)前後の時代には、主として外来の捕鯨会社によって、銚子を基地とする近海の捕鯨漁業が盛んに行われ、かなりの成果を上げていた。イワシ漁業は、大正から昭和前期にかけての時期に不漁期から豊漁期に転じ、水揚げ高は毎年右肩上がりに増え、1936年(昭和11年)に15万5000トンという史上最高記録を示すこととなった。イワシは搾粕に加工され、同時に魚油も生産されたため、地域経済に対する波及効果が大きく、イワシ漁さえあれば銚子は不景気知らずといわれた。この年を中心にして前後数年間は豊漁が続き、銚子の町は活気に溢れた。1932年(昭和7年)には、あぐり漁労長ら80余人が大新旅館で盛大な大漁祝賀会を開いた[19]

日本資本主義興隆期の大波は、銚子の商業資本家や富豪地主の企業熱をあおり、明治中期以降、幾多に会社創立あるいは工場経営となって現れた。しかもその殆どは、1894年(明治27年)、1895年(明治28年)の日清戦争以後に属している。この戦争の勝利が、我が国の経済界を刺激して飛躍的大発展を遂げさせたのであり、次いでおこった日露戦争の勝利によっていよいよ国際資本主義社会に伍していく基盤は強固となった。その一端はこの銚子にも、両戦役後の会社企業の勃興となって、活発な経済活動を展開している。銚子にいち早く出来た会社は、1881年(明治14年)2月発足の銚子汽船株式会社である。次いで設置されたのが金融機関で、東京の川崎銀行が1893年(明治26年)に銚子支店を設けたのを皮切りに、1899年(明治32年)5月には地元銀行として銚子銀行が創立されている。続いて川崎貯蓄銀行が同年12月に銚子支店を置くと、1901年(明治34年)4月には地元有志による武蔵貯蓄銀行の開業を見、1908年(明治41年)11月に豊国銀行銚子支店が開設となった。また地元の中小商工業者を対象とする金融機関として、銚子信用組合が1910年(明治43年)7月に創立されている。1907年(明治40年)には、大小数多の醤油業者の使う搾袋の製作を主とする利根織物株式会社が興野町砂良神に工場を建設している。また1912年(明治45年)1月、小倉久兵衛創業の麻真田製紐工場も盛大で、市内有数の事業成績であった。漁場が沿岸から近海へ、さらに遠洋へと伸長するにつれて、漁網や鋼の需要が激増したため、これの生産にあたる工場も続々と設立されるようになった。中でも銚子製網所(鎌倉国松)が最大であった。電灯と瓦斯の企業は、前者が1910年(明治43年)2月、後者が1913年(大正2年)7月に会社が設立された。他に特異なものとしては、銚子町の豊田菓子工場が挙げられる。創業を古く1785年(天明5年)に発する菓子老舗で、水戸屋の屋号は銚子はもとより、広く下総一帯に響きわたっていた。昭和のはじめ頃までは「トンボ止まれ、水戸屋の饅頭買ってやっからトンボ止まれ」と蜻蛉釣りの児童にまで唄われていた。水戸屋は江戸の頃から明治・大正へと、幾多の菓子をもって銚子の人々に膾炙し、親しまれていた[17]

日本の各種産業は、維新後急速に近代化していったが、銚子の醤油産業もその例外ではなかった。多くの醸造業者は、まだ小規模の家内工業の段階に止まっていたが、ヤマサ・ヤマジュウ・ヒゲタ等の江戸期以来の大工場は、着々と機械化装備を整えて資本主義興隆期の波に乗った[17]。明治中期からは鉄道が開通して、輸送条件が更に好転した。利根川舟運の発達、総武線の全通、東京市場の拡大や第一次世界大戦期の好況等に促されて、経営は急速に拡大を遂げた[4]。この時代の醤油醸造業者は、銚子・本銚子の両町に10家内外を数えた。旧銚子組造醤油仲間が解体して、1888年(明治21年)9月、新たに銚子醤油醸造業組合が設立許可されているが、それによると本市域に該当する地域に11家の存在を見る。同組合の包括地区は、銚子を中心に下総の東南部から対岸の常陸周辺にわたる、かなり広大なものであって、しかも逐次区域は拡大した。さらに1901年(明治34年)5月17日附の同組合地区変更書を見ると、「海上郡本銚子町・銚子町・船木村・椎柴村・豊岡村・飯岡町・三川村浦賀村・旭町。匝瑳郡福岡町・椿海村豊畑村東陽村。香取郡笹川村・滑川町。茨城県鹿島郡若松村。同稲敷郡鳩崎村」の6町11ヶ村が挙げられている。醸造石高の大部は銚子の生産に係り、年を追って増大した。1904年(明治37年)即ち日露戦争の年から僅少ながら外国への輸出が見えており、躍進日本の片鱗は、銚子の醤油にも現れていた。組合頭取は田中玄蕃(ヒゲタ)・濱口儀兵衛(ヤマサ)・岩崎重次郎(ヤマ十)の輪番であり、3家の東下総醤油界における覇者としての地位は依然として変わっていない。1902年(明治35年)5月に、同組合が農商務省商品陳列館へ提出した届書によると、3家の造高は2万余石となって、全高の2分の1に達している。企業の単一化、大資本への集中は、この頃から進行しつつあった[17]

 
1919年(大正8年)のヤマサ醤油広告
 
濱口梧洞

江戸から明治・大正・昭和と2世紀あまりの間に、興亡盛衰の波に姿を没した銚子醤油の銘柄は多くの数にのぼるが、遂に大をなしたのはヤマサとヒゲタの2つである。実に両醤油は名実ともに銚子を代表するもので、野田のキッコーマンと並んで本邦三大醤油、世に三印の俗称をもって呼ばれた。ヤマサ醤油は1906年(明治39年)12月に濱口合名株式会社に組織変更し、ヒゲタ醤油の会社化と並んで日本屈指の醤油会社となった。その後、1914年(大正3年)8月に合名会社を解き濱口儀兵衛商店に復帰したが、1928年(昭和3年)11月ヤマサ醤油株式会社と組織を改めた。その間ジガミサ、ヤマジュウその他の同業銘柄を合併吸収し、また、第2・第3工場を新設・拡張する等、特に昭和以降は躍進の一途をたどった[17]。第10代濱口儀兵衛(濱口梧洞)は、1901年(明治34年)に組合立の醤油研究所を開設し、醤油に関する理化学的な研究に着手した。これは銚子醤油組合試験所と呼ばれ、ヒゲタ・ヤマジュウらの醸造家とも相談して設立され、内務省衛生試験場長薬学博士田原良純を顧問として発足した[4]。また、1924年(大正13年)には巨万の私財を投じて財団法人公正会を設立し、銚子における社会教育機関としての公民館並びに図書館の最初となった。ヒゲタ醤油は1914年(大正3年)9月、第13代田中玄蕃(直太郎・金兆子と号す)が濱口吉兵衛・深井吉兵衛の同業と合同して銚子醤油合資会社に改めて会社化の一歩を印した。次いで1918年(大正7年)9月株式会社に改組したが、1937年(昭和12年)5月に野田の茂木家資本が入るとともにその傍系会社となり、田中家の手を離れた[17]

銚子における缶詰製造の歴史は古く、その始期は日本の缶詰の濫觴期に属する。1879年(明治12年)、勧農省局長松方正義がフランスから巻締機1台を購入し、同局の事務官成島鎌吉、西久保弘道が水産講習所の生徒を伴って来銚し、イワシ油漬約20箱を製造のうえ、これをウラジオストクに輸出した。これが銚子における缶詰の製造・輸出の最初である[19]。明治から大正時代にかけては、わずかに1904年(明治37年)10月創業の常陸谷缶詰工場、1907年(明治40年)3月創業の斎藤缶詰工場が、併せて4万2000個の魚類缶詰を製造していた程度であった。しかし1929年(昭和4年)から1931年(昭和6年)にかけ、明石缶詰工場に水産講習所教授の木村金太郎が来銚、トマトサージンを試造し、その事業化を図ったことがこの地の缶詰製造業に新生面を開くこととなった[17]。また、1934年(昭和9年)、1935年(昭和10年)の稀に見るイワシの豊漁は、企業家を刺激して缶詰事業に着目するものが続出し、従来よりさらに大規模の漸新工場が相次いで設置され、一躍18工場となり、一大缶詰工業地として急激な発展を遂げた[19]

戦前から戦後の一時期まで、千葉県は全国有数の甘薯生産県であった。また海上郡も県下有数の甘薯産地であった。これらの甘薯の大部分は澱粉の原料とされた。銚子地方においても澱粉工業は、漁業に関連する水産加工業と同様に、農業関連産業として重要な役割を果たしていた。銚子地方における澱粉製造の歴史は古く、天保年間にさかのぼるが明確な時期は不明で、記録によれば1889年(明治22年)小畑町の農家石橋重兵衛が千葉郡蘇我町より講師を招聘して澱粉製造の技術を習得したのに始まる。当時僅かに人力手摺機によって製造する方法であったが、日露戦争後澱粉分離機が考案され、日本工業の発展に伴い蒸気機関、石油発動機の登場を見るようになり、さらに1932年(昭和7年)、1933年(昭和8年)頃より電動機に変わり澱粉製造機の改善と、原料甘薯の品種改良と共に一大飛躍を遂げた[19]

銚子で製品が製造されるようになったのは明治後期からで、大正から昭和にかけて主要な地場産業の一つに成長した。最盛期は大正期の関東大震災後であったが、昭和初期にもなお盛んに製造されていた。主たるものは履物の籐表であり、業者は百数十件あった。籐表を編む作業は多く内職に出された。内職に従事したのは漁民家庭の主婦が多く、不漁時の生計の支えとしたが、一般家庭の主婦たちも少なくなかった。籐製品の産地は全国で銚子・波崎ともう1か所しかなく、銚子独特の産業であった[19]

 
大正期の長崎海岸

製鋼網は1884年(明治17年)鎌倉長松が漁業の副業として事業化し、第一次世界大戦時に銚子製網株式会社を設立した。最盛期の大正年代には大小の製網業者が輩出した。明治中期頃からは機械船と称される大型漁船(20トンから100トン内外)の建造が盛んとなり、各地に造船業がおこったが、銚子では1911年(明治44年)に植松町の金田進治郎が大型漁船の建造に着手して、木造船産業の先駆をなしている。鉄工業は明治以降の漁船の機械化、即ち発動機船の普及にうながされて近代化し、漁船用発動機の製作を主とした。これの供給は北海道から東海地方にも及び、併せて近隣及び市内の澱粉・醤油関係の機会と農耕用機械の需要にも応じた。銚子縮は漁村波崎の家内手工業に端を発し、江戸時代から明治年中にかけて、その名は諸国に聞こえ、生地の堅牢さと染色の優雅さは好評を博して、広く一般に愛用された。明治に入って新しい紡績機を装備して時勢に順応したが、大正を経て昭和に入る頃には衰微した。黒生海岸一帯にかけては、十数件の瓦窯工場があった。もと越前福井県)から移住した柳屋という家があって、これが最古の瓦屋即ち草分けであり、その創始の年代は江戸末期に近い頃である。黒生に瓦が発達したのは、この地の粘土が良質で瓦に最適であったことに由来し、かつて銚子瓦が三州瓦三河国産出)に比肩するとうたわれたのもこのためである。古くから墓石や供養塔に盛んに用いられた銚子石は、明治以降ほとんど建築用と砥石(荒砥)にあてられるようになった。産地は長崎海岸近くである[17]。1936年(昭和11年)12月1日には「商工会議所法」に基づき、千葉県で最初の商工会議所として銚子商工会議所が設立認可された[19]

 
明治末頃の銚子

銚子の町の明るさは、町の中心に控えて一種の風格を与えている観音さまが醸し出す空気によるものであろう。其の後、年を経て「南総里見八犬伝」の犬飼現八や犬塚信乃が古河の芳龍閣の甍の上で切り結んで大利根に逆落しに落ちてゆく場面なぞを読むと、何うも滝沢馬琴は銚子の観音堂を舞台に想像して書いたように思われるし、玉川勝太郎の浪花節「天保水滸伝」の飯岡助五郎と笹川繁蔵の喧嘩出入の場面なぞに思い及ぶと、青い洋々とした大利根や川岸に屹立する観音堂や殷賑な町を背景に、美女や侠客が派手な生活を展開するには、まことに銚子はふさわしい処のような気がするのである。

「銚子の思い出」鱸平助

銚子は江戸時代の中期に既に芝居の劇場ができており、地方の町の割には娯楽施設が発達していた。芝居の劇場は銚子駅前の開新座のほかに、陣屋町に歌舞伎座、新生に銚楽座があった。いずれも明治時代に建てられたものである。木造2階建てで、見物席は平土間のほかに桟席が1・2階にあり、舞台は回り舞台花道を備えていた。寄席も袋町(本通二丁目)に岩井亭、外川町に外盛館、田中町に弘遊館があった。映画館は飯沼観音境内の銚盛館と馬場町の銚子座で、共に前身は芝居小屋であった。銚盛館は戦後もしばらくは営業していたが、映画がテレビに押されるようになってから閉鎖された。銚子座は銚子日活と名を改めて営業を続けていた。1932年(昭和7年)になると清水町に愛宕キネマができ、1936年(昭和11年)には飯沼町に演芸館ができた。銚子には浪花節ファンも多かった。浪花節の公演は芝居の劇場や寄席で行われ、日本の一流の浪曲家がしばしば来銚した。映画館や劇場が本銚子町に多かったのは、飯沼観音を中心にして盛り場が発達したからである。芝居や映画以外にも、撞球場麻雀屋のような遊び場もあった。撞球場は明治時代からあり、いわゆる名士の間で楽しまれていた。そのほか、射的場コリントゲーム場等の遊戯場もあった。松岸・本城・田中の3か所には、江戸時代から花街が発達して昭和に及んでいた。銚子では公娼を相手とするところを女郎屋と称し、私娼を相手とするところを茶屋と称したが、松岸にあったのは全て女郎屋であり、本城は女郎屋と茶屋であった。田中は全て茶屋であった。松岸・本城は衰微期に入り始めていたが、松岸の第一、第二開新楼は三層の建物が豪壮で有名であった。特に第二開新桜は利根川べりにあり、川の水を引いて周囲に堀を巡らせ、門の前に朱塗りの太鼓橋が架かっていて、講談天保水滸伝をしのばせるものがあった。松岸・本城に比べると田中は繁栄期にあり、茶屋の数は90余軒、およそ400〜500人の私娼がいた[19]。田中は飯沼観音裏手から和田町にかけての一帯の俗称であり、古くから観音札所を中心に発生した私娼窟である[17]。銚子は高級料亭から小料理屋蕎麦屋食堂に至るまで飲む場所もまた不自由はなかった。折からカフェー全盛の時代であったので、カフェーも各所に現れていた。旧正月と八日まち(灌仏会)には、飯沼観音境内に曲馬団等の見世物小屋が掛かり、露店香具師が出、近郷近在からの人出で幾日も賑わった。銚子で特に名物になっていたのは、飯沼観音の後、いわゆる堂の下にある佐野屋の今川焼であった。昭和初期、近郷近在から銚子に来る農家の人々や回船の漁師たちは、飯沼観音に詣でた後、この今川焼を食べるのが楽しみの一つで、店頭や店内は常に客でごった返していた。銚子の人々も遠くから買いに行った。味をつけないうどん粉だけの皮と、黒砂糖小豆、そして5センチの厚さのある素朴な味わいが、庶民の人気を呼んでいた[19]

 
濱口吉兵衛

この頃、銚子ではその将来を左右する一大公共事業が、歩一歩と進められていた。それは銚子漁港修築工事いわゆる銚子築港である。この事業を軸に銚子は実質的に前近代から近代へと、大きく転換しようとしていた。江戸時代の銚子湊は、主として商港として興り、商港として発展したもので、漁業根拠地たることは二次的なものでしかなかったが、近代に入ると主客転倒し、やがて純然たる漁港に転身した。しかし、大正期に入ってもその形態はほとんど天然のままで、わずかに沿岸の砂浜のところどころに防波用の合掌枠や桟橋が設けられていた程度であった。利根河口が船舶にとって難所であることは昔からのことであるが、それは漁船が近代化しても解消することはなかった。この点は銚子港の宿命的な欠陥であり、この問題を解決しない限り、銚子の漁業そして銚子漁港の、大きな発展を期待することは困難であった。また港といっても接岸できる岸壁はなく、漁船は岸を離れた深みに停泊し、陸とは伝馬船で連絡する状態であった。その陸上にも漁港施設はあまりなかった。銚子港の修築問題は、大正期に入ると漁業関係者の一致した認識となり、やがて具体的な実現運動に発展し始めた。その結果政府も銚子港の重要性を認め、我が国の水産業の発展という大局的な見地から、一大整備を行うことになり、1920年(大正9年)度予算に調査費を計上した。この予算は、総選挙後の7月に召集された第43回特別議会で成立した。この総選挙には銚子醤油株式会社社長の濱口吉兵衛が立候補して当選した。代議士の立場から築港の促進を図るためで、そのため在任中、政党を動かして議会や政府に働きかけるのに多大の私財を費した。農商務省は、1920年(大正9年)、1921年(大正10年)度に調査を行い、1922年(大正11年)に修築計画書の作成を完了した。この計画書による銚子漁港の規模は外港・中港・内港を有する壮大なものであった[19]。外港は夫婦ヶ鼻東方に突き出す北防波堤と黒生北方に建設する南防波堤で囲み、これと河口側の内港は運河を掘って結ぶというものであった[17]。したがって工事費もまた1000万円という膨大なもので、それを1923年(大正12年)から10か年継続で行う事業計画が立てられた。政府は総工事費の半額は国庫で負担し、残る半額は将来銚子漁港を利用する関係にある府県で分担させようとしたが、各府県の財政事情により実現には至らず、千葉県単独で実施することになった。県会議員であった銚子町の小野田周斎(医師)は議長歴もあり、築港問題については濱口吉兵衛の片腕となって東奔西走していたが、その労が実ったものである[19]

 
今井健彦

しかし内務省は、利根川最下流の沿岸を埋め立てたり、河中に堤防等を構築することは、利根川の流れにとって障害となり、治水上重大な影響を及ぼすとして、農商務省の設計による築港工事を認めようとせず、起債と工事施行の認可は容易に下りようとしなかった。両省間の見解の食い違いは、事が科学的・技術的な問題であるだけに、容易に解決を見ることができず、事業の開始は遅れる一方であった。地元の銚子にとっては、その将来に関わる重大な問題であるだけに、衆議院議員を通じて、内務省や農商務省に働きかけた。そのため濱口吉兵衛は1924年(大正13年)5月の総選挙に再出馬して当選したが、濱口のみならず香取郡から再選された今井健彦をも動かした。今井は両省間を駆け回って調整に務め、彼自身漁港や治水に見識を持っていたので、大いに奏功した。このため戦後名誉市民に推挙されている。ようやく工事認可を見ることができたのは、1925年(大正14年)8月のことであった。ただし全面的に認可されたのではなく、第2漁船渠に関してだけであった。起工式は1925年(大正14年)11月21日に、飯沼魚市場において挙行された。銚子築港実現への過程において、県は合計10か所の魚市場を買収し、かつ整理統合して飯沼・内浜・東浜・新生の4市場とした。そして前年11月に設立された千葉県水産株式会社に、市場業務を経営させることにした。工事には、当時としては新鋭のドイツ製の浚渫船や杭打ち船が配置された。第2漁船渠は新生・飯沼町地先の水域で、陸地に懐深く食い込んだ部分であったが、そのさざ波が寄せる天然の岸辺は年と共に姿を消し、やがて広大な埋立地に生まれ変わっていった。しかし、第2漁船渠工事の着実な進展にもかかわらず、他の工事は依然として認可されず、県は大幅な計画変更を決意した。新計画は総工事費を568万円に縮小し、外港・中港・航路の建設を取り止め、その代わりに龍ノ口(千人塚下)と一の島間に防波堤を構築し、内港に新たに第3漁船渠を設けるというものであった。この計画変更と工事施行は、1932年(昭和7年)6月に認可され、漁業関係者の長年の宿願が果たされた。そしてこの年から、工事は第1漁船渠区域・外港部へと延びていった。なお、この年には既に埋め立てされていた第2漁船渠後背地に東洋一[19]の新魚市場が完成した。この魚市場は戦後の1965年(昭和40年)まで、銚子漁港の中心施設として大きな役割を果たした。1934年(昭和9年)度からは、全長5500mに及ぶ臨港道路の建設が始まった。銚子漁港修築工事により、本城町地先から川口に至る下流約5000メートルの利根川沿岸は、近代的漁港として新しい姿に生まれ変わった[19]。濱口吉兵衛は銚子漁港修築の功労者として、1935年(昭和10年)10月、市の有力者間にその寿像建設の議がおこり、1937年(昭和12年)に完成した[17]

昭和前期 編集

 
初代銚子市長 川村芳次

銚子の市制施行については、1923年(大正12年)頃から度々有識者間において話題となっていた。それは、社会的に一つの圏を形成してきた銚子3町3村が、行政的にも合併して名実共に銚子という一つのより強力な団体を形成することであった。その場合地方制度上市制が施行されることになり、行政水準の向上と地域の発展の可能性を期待することができた。銚子漁港修築工事は本銚子町、銚子町、西銚子町の3町区域に及び、これの起工を目前に控え市制施行の議が台頭したが、時期尚早であるとする論者が多数を占め、実現しなかった。銚子の市制施行がようやく現実の可能性を帯びてきたのは1932年(昭和7年)のことで、その動機は漁港修築工事の促進問題であった。その促進は大銚子市建設によって解決する他ないという議論が起こり、これが動機となって市制施行の好時期であることを一部が唱え始めた。このように世論が関心を持ち始めつつあった中で、町政関係者らは市制施行の意志を陳情の形で県当局に表示すると共に、必要な基礎的調査を要請した。1932年(昭和7年)に入ってから6月まで、銚子町長野口薫・本銚子町長内田為三郎らがしばしば出県して、当局と接触した。また西銚子町長仲内文造・豊浦村長山口幸太郎らも協力した。これに対して千葉県は極めて好意的な姿勢を示し、地方課長川村芳次をもって積極的な指導に当たらせることになった。8月20日、銚子町役場において、本銚子・銚子・西銚子・豊浦・高神3町2村の初の町村長会議が開かれ、県から川村地方課長外職員2人が出席して、市制施行実現に関する基本的事項を協議決定した。この決定に基づき、各町村から大銚子市建設委員と同代表委員が選定されて市制施行の準備体制が作られ、準備事務が進められた。この後9月27日、県は関係町村長を県庁に招集し、岡田文秀知事・川村地方課長らとの協議会を開き、同日付をもって知事の諮問を行った。諮問の内容は、各町村会に対して市制施行の可否を問うものであった。これに基づいて10月15日各町村は一斉に町村会を開いて答申案の審議を行い、銚子町・本銚子町・西銚子町・豊浦村の3町1村が市制施行を可とする答申案を議決した。そして内務大臣から正式な諮問が行われ、各町村会はいずれも異議なく議決答申した。この答申に基づき内務省は1月7日銚子市制施行を告示し、1933年(昭和8年)2月11日をもって銚子市の発足が決定した。千葉県で2番目、全国では116番目の市であった[19]

 
犬吠埼灯台
銚子市制祝賀の歌(藤田千葉縣内務部長作詞)

一、三つ銚子に 豊浦と 四つ揃ふて 大銚子 大和島根の 東海に その名も高き 大漁港 生まれ出でたり 紀元節

二、太平洋の 大しけも 大利根川の 荒波も 築港やがて 出来る時 大船小船の 數々は 河堤に抱かれ 夢まどか

三、春夏秋冬 變りなく エンサエンサの 漁獲船 ヤマサヒゲタの 工場は 日本一よと 氣を吐いて 賑ふ様の 勇ましさ

四、市の長には ピカ一を 市會議員に 一流を 五萬の市民 一となり 鹿島香取に 願かけて 市勢の發展 祈りませう

千葉県は臨時市長職務管掌として、当初より市制施行に力を尽くした地方課長川村芳次を任命し、3月3日最初の市会議員選挙を執行した。同時に臨時助役代理として野口薫・内田為三郎、臨時収入役代理として斎藤国衛が知事の任命を受けた。3月14日から3日間にわたって第1回市会が召集され、市会議長に大里庄治郎が選出され、市長に濱口吉兵衛が推薦された。しかし濱口の受諾を得なかったので、5月8日の市会は川村芳次を推挙した。これより先、川村は銚子市長職務管掌を解かれ、野口薫がこれに代わっていたが、5月14日改めて川村が初代市長に就任した。これに助役渡辺章六・収入役斎藤国衛をもって、新興銚子市の運営が開始された[17]。市制施行祝賀行事の中心行事である祝賀式は、6月3日飯沼町地先の第2漁船渠埋立地に新装された魚市場で挙行され、内務大臣代理以下市内外の関係者千余人の出席を見る盛典となった。その席上で川村市長は、本市の根本的性格を商工・水産・遊覧都市とし、この性格に立った近代的な都市づくりを施政の目標とすることを表明した。市の体制が漸次整うにつれて市政も軌道に乗り始めたが、将来の発展のための基盤として、市が鋭意努力を続けたのは、土木と教育面の建設的事業であった。土木特に道路整備に関する事業は、都市づくりの基本として、川村市長の就任以来常に市政の重点とされ、市内の道路は急速に整備されていった。1933年(昭和8年)5月には銚子観光協会が設立され、県立公園指定に関する陳情と銚子東京間列車時間短縮並びに増発に関する陳情を行った。県立公園指定が実現したのは2年後の1935年(昭和10年)5月であった。1934年(昭和9年)度には観光銚子の玄関の整備に着眼し、銚子駅の増改築と駅前広場の舗装を関係当局に陳情した。その結果、1936年(昭和11年)に銚子駅の全面的な改築が実現して、2階建のモダンな駅舎となった。本市が発足して4年後の1937年(昭和12年)2月11日、高神・海上両村の合併が実現し、近世以来銚子と汎称されてきた地域は、ここで全く一つの行政区画となった[19]

1936年(昭和11年)度には、市立中学校の新設が決定された。銚子にはかつて1900年(明治33年)4月開校の銚子中学校があった。しかし、県の緊縮財政方針のため、この中学校は開校後僅か数年にして、1906年(明治39年)3月に廃止された。だが地元銚子町外2町5村が学校組合(一部事務組合)を作って継承したので、名目が県立から組合立に変わっただけで、事実上は存続した。ところがその組合においても維持が困難となり、1911年(明治44年)4月に廃校が決定した。そしてこの直前の1909年(明治42年)4月に勧業振興のため実業教育の充実を意図した県は、銚子町に県下唯一の県立商業学校である銚子商業学校を新設した。このため、市制施行当時の公立男子中等学校は、銚子商業学校1校であった。そこで市制施行後、市会は県立中学校設置に関する意見書を県に提出し、早期実現を要請したが、県の財政事情から、可能性はほとんどなかった。一方、市民の要望はますます高まっていったため、市は市立中学校の設置を決定した。市立銚子中学校1937年(昭和12年)4月に開校し、仮校舎で授業を開始した。春日町の本校舎に移ったのは1938年(昭和13年)3月であった[19]

 
下志津陸軍飛行学校銚子分教場 女子挺身隊

銚子が市制を施行した時代は、日本が軍事体制の強化を推進しつつあった時代であった。1936年(昭和11年)、銚子に陸軍の飛行場が設置されることになった。飛行場設置の計画は、1935年(昭和10年)5月に、下志津陸軍飛行学校の幹事である後藤広三少将によって市当局にもたらされた。それによれば、同飛行学校の分教場を銚子に設置したいというものであった。銚子が選ばれたのは、訓練に適した地理にあったからである。以後陸軍と市との数次にわたる共同調査の結果、飛行場の位置は春日台の台地すなわち後の春日町から上野町にかけての約15万坪の畑地と決定された。飛行場建設工事は1936年(昭和11年)2月に開始され、年末の12月1日に開校した。常駐の隊員は50人〜60人程度で、常置の飛行機は20機前後であった。当初配置されていたのは八八式偵察機九一式戦闘機で、その後九四式偵察機が主力となり、これに九五式戦闘機が加わった。訓練科目は、偵察機の射撃訓練や戦闘機の戦闘訓練であった。1937年(昭和12年)になると日中戦争が勃発し、これに伴って軍の指導による民間防空監視隊がいち早く設置された。そして1940年(昭和15年)には海軍が防空監視部隊を銚子に常駐させるようになった。これは教育部隊ではなく、海軍の防空監視という戦時任務を担った部隊であった。この部隊は横須賀鎮守府犬吠望楼と称し、犬吠埼に駐屯した。太平洋戦争開戦後の本土防衛態勢は、1942年(昭和17年)4月18日に本土初空襲を受けてから真剣に考慮されるようになった。この空襲の後参謀本部は、当時最新の兵器であった「電波警戒機乙」と称するレーダー2個を、急遽銚子に配置した。愛宕山に陸軍のレーダー部隊が移駐してきて、地球展望台を中心にして付近にレーダーを設置し、終戦時まで対空監視の任に当たっていた。このレーダー部隊は、秘匿名を筑波隊と称し、本部は東京・赤坂の東部第1792部隊であった。兵舎は愛宕山に3棟設けられた。名洗町と高神町の中間と三宅町の2か所に筑波隊の分屯所があり、そこにもレーダーが置かれていた。さらに高神町と長崎町には、低空で侵入する敵機を捉えるため、聴音機器が2台配置されていた。筑波隊が愛宕山に基地を設けてから、これを擁護するため高神小学校に砲兵部隊が駐屯するようになった。この部隊は北村隊と称する砲兵中隊で、砲2門を有していたが、砲は10糎加農砲であった。北村隊は後に川口方面に移動した。筑波隊が愛宕山に移駐してきた1942年(昭和17年)4月に、海軍もまた愛宕山にレーダー基地を設置した。その中心部の跡は後に郵政省犬吠電波観測所になった。海軍のレーダー基地は横須賀鎮守府犬吠電波探信所と称した。レーダー部隊に続いて1943年(昭和18年)に、三崎町三丁目の旧字船ヶ作に千葉陸軍防空学校銚子分校が開校し、その後千葉陸軍高射学校銚子分校と改称した。高射砲訓練を行う、陸軍では唯一の学校であった。銚子分校が設けられたのは、海岸近くで実弾射撃の教育訓練を行うのに適していたからである。分校には高射砲6門が備えられ、1個大隊約320人の隊員が常駐していた。空襲時には対空戦闘を行う任務と戦力が与えられており、後の空襲時には何機かの敵艦載機を撃墜している。防空関係部隊の配置のほかに、陸軍では下志津陸軍飛行学校銚子分教場を舞台に、電波兵器の研究も行っていた[19]1944年(昭和19年)9月には、新生駅横から銚子港魚市場までの間、市街地を横断する臨港線が竣成した。東京都が鮮魚食糧難打開のため、その資材を提供して敷設したもので、戦後も漁獲物の輸送に非常な役割を果たした[17]

 
太平洋戦争末期の日本軍の配置と米軍の侵攻予定図

米軍の日本本土進攻を想定したいわゆる本土決戦の準備に、軍部が本格的に取り組み始めたのは、戦局の焦点が中部太平洋に移ってきた1944年(昭和19年)2月以降のことである。米軍上陸地として予想されるところは何か所かあったが、中でも最も重視されたのは関東沿岸と九州南部沿岸であった。関東沿岸は大別すると相模灘九十九里浜鹿島灘の3か所になり、この内九十九里浜が一番重視された。戦後明らかにされた米軍の作戦計画によると、1945年(昭和20年)11月にまず九州南部に上陸し、次いで1946年(昭和21年)3月に九十九里浜と相模湾に上陸する予定となっており、日本側の予測は的中していた。九十九里浜が重視されるとなると、その東端に近いところに位置する銚子も、決戦態勢の一翼を担わなければならなくなった。事実決戦準備の推進に伴って、海岸地帯を始め銚子近傍一帯に、陸軍の防御陣地や海軍の特攻基地が作られることになり、陸海軍部隊が派遣されてきた。そして末期には決戦部隊も移駐してきて、銚子は一段と緊迫した空気に包まれるようになった。最初に設置されたのは郷土防衛隊と通称される特殊な部隊であった。郷土防衛隊は正式には特設警備隊といい、1942年(昭和17年)制定の「陸軍防衛召集規則」によって召集された隊員によって編成された部隊であった。平常はごく少数の常置員がいるだけで、有事の際だけ隊員を召集して部隊を組織した。隊員は既教育の在郷軍人で、部隊が設置された地域の住民ばかりであった。銚子には1944年(昭和19年)2月に中隊が設置された。固有名は特設警備第26中隊といい、任務は銚子・飯岡地区の沿岸警備であった。中隊本部は後飯町の旧本銚子町役場跡に置かれ、隊長と下士官2が常置員になっていた。7月には高神分屯隊と飯岡分屯隊が設けられた。本格的な決戦準備段階に入ってから銚子に移駐してきた陸軍部隊は、沿岸築城の任務を帯びた近衛第3師団であった。銚子の陣地構築に関係したのは第3作業班と第5作業班で、砲台と歩兵の防御陣地を構築することになっていた。砲台は「銚子拠点強化」と「奇襲上陸防止」のための野砲の砲台と、「鹿島灘側射」と「艦船射撃」のための加農砲の砲台であった。築城が開始されると各地区で住民の労働力が動員されたが、銚子でも1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)にかけて、多くの学徒や一般市民が陣地構築作業に従事した。第5作業班が銚子で担当した陣地の位置は、植松町の通称不動山と台町の通称荒野台であった。陸軍の築城部隊と前後して、海軍もまた新たに銚子に配置されてきた。その一つは横浜ヨット株式会社銚子工場駐在の監督官と舟艇の回航要員であり、常時50〜60人の兵員の駐在がみられた。もう一つは救難艇の派遣である。干潟に駐屯していた香取海軍航空基地所属で、銚子漁港魚市場付近に繁留されていた。艇には対空射撃用の機銃が装備されており、また繁留池付近の陸上にも機銃が据えられており、空襲時にはいずれも対空射撃を行っている[19]

 
特攻艇「震洋」

そしてさらには、特攻基地の建設部隊が派遣されてきた。人員としては前者よりこの方がはるかに多数である。この特攻基地は特攻機の基地ではなく特攻艇の基地である。当時の香取郡豊里村には、既に1944年(昭和19年)4月頃から基地建設部隊が移駐してきて、作業を開始していた。基地建設の主たる作業は特攻艇を格納しておく洞窟を掘ることで、陸軍の築城作業とほとんど同じものであった。豊里に移駐してきた部隊は香取海軍航空隊所属の部隊で、佐藤部隊と称し、隊員は整備兵を主体とする約500人の部隊であった。佐藤部隊は豊里小学校や付近の民家に宿営して、県道銚子佐原線(後の国道356号)に沿う下総台地の縁辺に洞窟を掘り進めた。銚子に基地建設部隊が派遣されてきたのは豊里方面より遅く、1945年(昭和20年)3月下旬であった。この部隊もまた香取海軍航空隊所属の部隊で、豊里の佐藤部隊と同種の部隊であった。部隊名は松宗部隊、隊員は約200人である。松宗部隊は明神小学校に宿営して、弥生町から幸町に至る台地の縁辺に洞窟を掘り進めた。このほか、当時の飯沼小学校、後の後飯町公園内にも掘った。これは特攻艇格納のためのものではなく、特攻要員の居住する濠であった。明神小学校に宿営してこれらの作業をしていたのは松宗部隊の約半数で、残りの半数は外川分遣隊となり、犬吠の暁鶏館に宿営して外川方面で作業をしていた。外川方面の基地は外川四丁目の台地の地下に作られたが、ここは他と違って特攻艇格納庫のほかに火薬庫なども設けられ、かなり複雑な構造になっていた。これらの特攻基地に運ばれたのは、横浜ヨット銚子工場で製作されていた「震洋」であった。豊里や弥生町、幸町の基地では、これを洞窟から利根川に引き出し、河口から太平洋に出て敵艦船に突入する計画であった。外川の基地は目の前が海である[19]

本土決戦準備の最終段階で銚子に進駐してきたのは、米上陸軍を沿岸地帯で撃滅する任務を帯びた陸軍の決戦部隊であった。その兵力およそ5000、主力は歩兵1個連隊で、ほかに砲兵約1000である。この歩兵連隊は第152師団に属する歩兵第437連隊であった。第152師団には護沢という秘匿名が付けられ、歩兵第430連隊は護沢第22603部隊と称した。略して護沢03部隊ともいう。護沢部隊の担任地域は香取郡笹川町付近を要として、北は神栖村神之池南部、南は海上郡飯岡町と旭町の境付近まで広がる扇状の地域であり、銚子が最も重要な地点となった。護沢部隊司令部は海上郡椎柴村猿田に進出すると共に、護沢03部隊を銚子に進出させて銚子地区隊とした。師団司令部の猿田進出は8月早々で、猿田神社神官宅を宿舎とし、神社を中心にして付近に師団各部を配した。護沢03部隊が銚子に進出したのは7月7日であった。連隊本部の位置を県立銚子工業学校に定め、各隊は市内の中学校・小学校・寺院等に分駐した。銚子駐屯時の兵力は約4千であった。またこのほか野砲3個中隊12門、15糎加農砲1個中隊4門、計1000人の砲兵が配置され、隷・指揮下の歩兵・砲兵の総兵力は5000人であった。銚子進駐後の護沢03部隊が開始したのは、部隊の決戦用陣地の構築であった。主たる任務は銚子半島の防衛で、米軍が銚子にも上陸することになった場合、これらの陣地によって決戦を交えることになっていた。また九十九里浜や鹿島灘に上陸の場合は、側面からこれを砲撃することにもなっていた。さらに第52軍は護沢部隊(師団)に対して、米軍が銚子方面に進攻し、利根川を利用して内陸部に進入するおそれが出てきたら、直ちに短時間のうちに河口を閉塞する方法の研究を命じていた[19]

 
グラマンF6Fヘルキャット

マリアナ基地からのB29が初めて関東地区に飛来したのは、サイパン陥落4か月後の1944年(昭和19年)11月1日であった。以後関東地区や中部地区には、連日のように40機から100機のB29が来襲するようになった。B29が関東地区を空襲するようになってから、銚子上空はB29の関東地区侵入口あるいは退出路となった。2月になるとB29ばかりでなく、艦載機までが来襲するようになった。そのことは日本が、太平洋における制海・制空権をほとんど失っていたことを示すものであった。艦載機が関東地区に初めて来襲したのは1945年(昭和20年)2月16日であった。総数は約950機で、機種はグラマンF6FヴォートシコルスキーF4UカーチスSB2CグラマンTBF等であった。日本の海軍には、艦隊を出撃させてこの機動部隊を洋上で制圧するだけの戦力は残されていなかった。これらの艦載機は、午前7時過ぎから午後4時近くまで、7回にわたって来襲した。目標は主として陸海軍の飛行場であった。このうち第1波は鹿島灘・房総半島南端・三浦半島の三方から侵入し、午前8時5分頃まで約50分間にわたり、千葉・茨城両県下の飛行場を攻撃した。銚子にも陸軍の飛行場があったので、第1波の攻撃目標になった。市街地に対しても若干銃撃したが、ほとんど損害はなかった。そして17日にも総数約590機の艦載機が、午前6時42分から同12時40分まで約6時間、4回にわたって関東地区に波状攻撃をかけ、銚子も再び襲撃された。目標はやはり飛行場で、前日と同じように大きな損害はなかった。関東地区防衛の任にあたっていた作戦部隊は敵艦載機迎撃のために出撃し、日本本土の上空で空中戦を展開した。地上の高射部隊も戦った。2日間の総合戦果は撃墜約400機、撃破約百数十機と報告されたが、日本軍もまた100機前後を失った。関東地区に対する米艦載機の攻撃は、この後25日にもあった。時刻は午前7時半過ぎから同10時半頃までで、来襲機数は約600機とみられた。銚子はこの日も目標になった。この日、日本軍の飛行機は出撃せず、応戦したのは高射砲だけであった[19]

 
B29スーパーフォートレス

B29と艦載機を交えた本土空襲はいよいよ熾烈化してきたが、この頃米軍の戦略爆撃は大きく転換しようとしていた。これまでの爆撃は、軍需工場や軍施設等いわゆる特定の戦略目標を主とし、また爆撃方法も高々度からレーダーあるいは目視で、爆弾を投下することを基本としていた。このような爆撃を改め、木造家屋が密集し、かつまた軍需生産力の一端を構成している中小工場の密集する日本の都市そのものを焼夷弾によって徹底的に焼き尽くせば、国民も戦意を喪失し生産も低下し、はるかに大きな効果をあげることができるだろうと考えた。この新しい戦略爆撃は3月9日の夜初めて実行され、銚子は首都東京と共にその犠牲となった。この夜午後12時近い頃、B29の梯団は房総半島南端から続々と本土上空に侵入し、東京を目指して一路北上した。しかし折から関東地区には風速20メートルから30メートルの強い北風が吹いていたため、各地のレーダーは正常に作動せず、これを迅速的確に捉えることができなかった。そのため10日午前零時8分に突然東京の月島付近に第1弾が投下され、それから数分たった午前零時15分にようやく空襲警報が発令された。この一夜の空襲で、東京は従来の爆撃を何倍も上回る致命的な打撃を被った。銚子が空襲されたのは東京とほぼ同じ頃であった。銚子にとってはB29による初めての本格的な空襲であった。また2月の敵艦載機の空襲は陸軍の飛行場が主たる目標であったが、今度は市民の生活の場である銚子の都市地域そのものが目標にされた。この夜のB29は2000〜3000メートルもしくはそれ以下の高度で銚子に侵入し、照明弾を投下しながら栄町・陣屋町・新生・興野・本通り方面に大量の焼夷弾を投下した。この地域は市役所を中心とする市の最も中心部であった。この夜投下された焼夷弾は、100ポンド膠化ガソリン弾(M47)14発、500ポンド集束弾 (M69) 59発、500ポンド・マグネシウム爆弾(M76)105発であった。各所に火災が発生し、折からの強風に煽られて燃え広がり、やがて市中心部は火の海となった。B29が銚子を攻撃していた時間は、30分から1時間の間であった。火災は夜が明けるまで続いた。新生二丁目ではいったん消し止めた火が朝になってから再び燃え上がり、さらに陣屋町・南町・前宿町にまで延焼した。空襲に対する唯一の民間防衛組織は警防団であった。銚子市警防団は本部常備消防部ばかりでなく、各分団も出動し、手挽や腕用のポンプで消火に努めた。対岸の波崎町では、天を焦がすような火災に包まれた銚子の大事を見て、救援の手挽ポンプ車2台を揚操漁船に載せて派遣してきた。市中心部を攻撃したB29は、さらに西部農業地帯の四日市場・余山・高野・三宅の各町にも焼夷弾を投下した。また戦後市に編入された船木・椎柴・豊里・豊岡の各村をも襲った。この夜の損害は、焼失戸数1000余戸、死者47人、負傷者163人であった。市内の主な焼失建物は、銚子市役所・銚子勤労動員署・銚子保健所・財団法人済生会銚子診療所・銚子醤油株式会社銚子事務所・ヤマサ醤油株式会社第1工場・宝醤油株式会社・銚子信用組合・県立銚子高等女学校・白幡神社・宝満寺・大慈寺等であった。人的被害のほとんどは大火災によるものであるが、その中には防空壕の中で4、5人の家族や10余人もの家族・隣人らが全滅するという例もあった。また焼夷弾の直撃を受けた者も少なくなかった。駅前通りの商店街は何一つない焼け野原となり、駅頭から利根川まで見通す状態となった。罹災後の市役所は三軒町の県立銚子工業学校の校舎に移転、次いで4月1日に興野国民学校講堂に移転した。銚子にはその後しばらくB29は襲ってこなかったが、艦載機の空襲は頻繁になった。空襲警報は連日のように発令され、敵機は思いのままに上空を飛び回った。5月2日には、対岸の波崎町別所方面から水陸両用機が侵入し、本城町を中心に爆弾投下や機銃掃射を行った。出漁中の漁船も海上でしばしば襲われた[19]

艦載機が連日のように銚子に来襲していた最中の、6月10日7月6日に2度にわたって、千葉市がB29に空襲されて焦土と化した。千葉県下では銚子に次ぐ2番目の被災であった。そして7月19日の夜間、銚子は3月の規模をはるかに上回る2度目のB29の大空襲を受け、市街地の主要地域はほとんど壊滅した。B29侵入後わずか3分で電話は不通となり、送電は途絶え、そして30分後にはほとんど全市が猛火に包まれた。来襲機数は91機という多数であった。投下した焼夷弾・爆弾の数量は、M69焼夷弾2988発、破砕性爆弾156発、合計629トンである。M69焼夷弾は1発の親弾から48発の子弾 = ナパーム弾が出てくるため、ナパーム弾の総数は実に14万3424発になる。B29は最初に市街地の南端に当たる下総台地の縁辺に焼夷弾を投下し、次いで西側に、さらに東側に投下した。残る北側は利根川であるため、三方に焼夷弾を落とされた場合、四方を囲まれたのと同然であった。B29はそこへさらに焼夷弾を投下し、爆弾・機銃による攻撃を加えた。馬場町の映画館銚子座は鉄筋コンクリート造りの頑丈な建物であったので、付近の人々は誰もが安全と思ってそこへ避難した。しかし当時は狭い路地の奥にあったため、周囲の家屋が燃え上がると全く火に包まれ、逃げ出すこともできず全員が焼死した。愛宕町の通称サンメ(三昧)は、畑に囲まれた凹地の中の墓地であったので、付近の住民が多数逃げ込んだ。B29はそれを機銃掃射したので、多数の犠牲者が出た。警防団はこの夜も消防と救護に奮闘した。また銚子が大空襲を受けていることを知った八日市場町と東金町から、消防自動車各1台が救援に駆け付けた。しかしこの夜の被弾地域は広く、投下された焼夷弾の数も膨大であったので、到底これらの消防能力では及ばなかった。そのうえ3月にはなかった爆弾と機銃の攻撃があったので、消火作業は困難を極め、ほとんど燃えるに任せるしかなかった。警防団の中からも何人かの殉職者が出た。一夜明けて20日の朝が訪れると、全市を挙げての救護活動が行われた。負傷者の救護が急務となり、市内の全医師、全医療機関が動員された。この7月空襲の損害は、焼失戸数3950戸、死者278人、負傷者は808人であった。このうち死者の処置については、市の火葬場が焼失したため、3月の空襲で焼失した宝満寺境内に多数の遺体を収容し、合同の火葬に付した。焼失した公共建物その他主要建物は、銚子駅・銚子警察署・銚子測候所・八日市場区裁判所銚子出張所・銚子税務署・千葉県銚子土木出張所・千葉県銚子漁港修築事務所・市立銚子中学校・市立銚子高等女学校・市立銚子国民学校・市立春日国民学校・市立興野国民学校・市立若宮国民学校・市立飯沼国民学校・銚子商工会議所・銚港神社・峯神社・飯沼観音・浄国寺・銚子市警防団本部常備消防部詰所・市立伝染病院・市営火葬場等であった。焼失戸数は当時の市の全戸数の30パーセント強で、市街地の中枢部は全滅状態であった。そのため焼失地域の市民たちは、当時しばしば自分の家の焼け跡から「御前鬼山が見えるようになった」という言い方をした。御前鬼山は標高わずか26メートル余の小さな丘で、焼失前は市街地から御前鬼山が見えることは、建物に遮られてほとんどなかった[19]

 
玉音放送を告知する新聞記事

B29の2度の空襲で、銚子の街はほとんど廃墟と化した。しかし空襲は依然として止むことがなかった。F6FヘルキャットやP51ムスタングのような戦闘機が連日のように飛来し、横浜ヨットのような軍需工場や愛宕山の軍施設等を銃撃した。そのほか人家や通行人、陣地構築の作業現場、走行中の列車等も目標になった。戦闘機の来襲は、敵機動部隊が絶えず日本近海を遊弋していることを示している。そして8月1日の夜、内浜町を中心にして一部南町や前宿町方面にも及ぶ、B29の3度目の空襲に見舞われた。死者4人、負傷者37人、焼失戸数約350余戸であった。次いで8月5日夜に4度目のB29の空襲があった。負傷者12人、焼失戸数約28戸であった。米軍機の本土空襲は終戦の日の8月15日まで続き、銚子上空から敵機の爆音が消えた日はなかった。8月15日も早朝から艦載機が来襲し、新生駅が銃撃されたり、銚子鉄道の仲ノ町駅に爆弾が投下されたりした。また八幡町のヒゲタ醤油第2工場にも爆弾が2発落とされたが、不発であったので大きな損害はなかった。銚子上空から敵機の爆音が消え去ったのは、終戦を告げる玉音放送がラジオから流れ始めた正午頃であった[19]

 
太平洋戦争の戦域

1937年(昭和12年)に始まる日中戦争を含めた太平洋戦争は、銚子に有形無形の莫大な損害をもたらした。損害の最たるものは人的損害であり、人的損害の主たるものは、兵力として動員された軍人と、これに準ずる軍属の損害である。軍人・軍属の損害すなわち戦没者に関する資料として、市に保存されているのは「支那事変遺族台帳」全1冊と「遺族台帳」全6冊である。これらの台帳は旧市内に戦没者に関するもので、戦後合併した新市域の戦没者に関する資料としては「戦没者名簿」がある。以上の資料に基づいて本市の戦没者数を集計すると、旧市域1726人、新市域476人、計2202人である。戦没した地域は、北はアリューシャン列島満州から、南はセレベスニューギニアソロモンの諸島に至るまで、太平洋戦争の全地域にわたる。1955年(昭和30年)11月20日、前宿町公園に忠霊塔が完成した。戦没者ばかりでなく、戦災死者も合祀されている。12月17日に除幕式と合同慰霊祭が行われ、以後毎年秋に市主催の戦没者追悼式が行われている。なお終戦時まで御前鬼山にあった忠魂碑は撤去され、忠霊塔のそばに再建された。また、1984年(昭和59年)9月の市議会において市民1480人から提出された請願が採択されたことを受けて、同年9月14日に「非核・平和都市宣言」を行い、以後この宣言趣旨に則って、各種事業を展開している[19]

現代 編集

昭和後期 編集

 
昭和天皇の地方巡幸

1945年(昭和20年)10月になると、ヤマサ醤油株式会社事務所を接収して、米軍が駐屯するようになった。進駐期日は10月11日で、1946年(昭和21年)7月まで駐屯していた。この米軍の任務は、関東各地に残された旧日本軍の爆弾・砲弾を、銚子漁港から海洋に運び出して投棄処理することにあった。投棄作業は横浜海運株式会社が請け負ったが、戦時中の名残りである銚子市勤労報国隊も動員されている。関東各地の爆弾・砲弾は銚子駅から臨港線によって更に漁港に運ばれて、岸壁に集積された。これを徴用漁船に積載し、米軍の指示する海域に投棄した。投棄作業に従事した漁船は銚子・波崎・片貝方面の漁船であった。爆弾類の投棄処理が終わると、米軍は間もなく銚子を去り、以後米軍の駐留は見られなくなった。バラック建築は終戦直後から始まり、どこからでも御前鬼山が見えた焼け跡にも次第に家が立ち並び、1946年(昭和21年)中には町らしくなってきた。そして大通りに面した家々では商売らしいものも始めるようになった。この時代にはまたヤミ商売が盛んに行われた。業者らのこのような経済活動は、違法なヤミを伴うものであったにしても、一面から見れば旺盛な生活力の発揮であり、それが銚子の地域経済を活発にし、戦災復興の大きな原動力となった。銚子の水産物の主要消費市場は市外・県外であり、業者らの活動が多額の新円を市内に流入させることとなり、それが他の業種にも経済効果を波及した。1946年(昭和21年)6月6日7日には、地方巡幸を行っていた昭和天皇が銚子に行幸した。天皇は6日午後銚子駅に到着し、7日にかけて銚子商業学校、銚子造船所、魚市場、犬吠埼灯台、ヤマサ醤油株式会社を視察し、奉迎の人々に親しく声をかけて激励した。銚子市漁業会からは、タイやエビ等の鮮魚を献上した。夜間、天皇は新生駅まで入れたお召し列車の車中に宿泊した[19]

戦災によって国内の主要市街地の多くが焦土と化し、その復興が急務とされていた終戦直後、最大の課題は市街地の復興であった。国は、1945年(昭和20年)12月30日に、将来の地域発展に即応した都市計画を樹立して土地区画整理事業を急施することが基礎であるとの戦災地復興計画基本方針を示した。市は、この国の方針にそって都市計画事業を円滑に進めるため県に援助を要請した結果、千葉県が主体となって土地区画整理事業を施行し、市は街路事業と公園事業を分担することとなった[19]。都市計画の立案・設計に当たっては、帝都の外廓都市群の一として安定した工業基地の条件を備え、農産・水産加工、農・漁業関係機械工業、造船業等の基地であり、漁港、観光都市、臨海水辺都市の性格を持つ生産・消費兼備の強力都市であることに重点をおき、人口計画については将来10万を想定した[19][17]。1946年(昭和21年)度には街路事業と水道事業の工事が一部開始され、1947年(昭和22年)度には土地区画整理事業における建物移転工事とガス管移設工事が、さらに1948年(昭和23年)度には公園事業の工事が開始された。しかし、土地区画整理事業が土地・建物の権利者の利害に大きく関係するため、権利者との交渉に予想以上の時間を要し、当初計画は整理・圧縮された。その結果、区域面積の縮小、街路・公園事業の変更がなされたほか、第3工区(田中町方面)を戦災復興事業から除外して都市改造事業として別途に執行することになった。工事は変更された期限どおり1959年(昭和34年)度に終了した。戦災復興都市計画事業の施行によって、銚子市街の景観は一新した。広い幹線街路と幹線街路間を結ぶ区画街路によって街区は整然と区画され、戦前の市街との変化は著しいものがある。最も目立った変化は、従来市の中心部に位置してきた宝満寺が、その広大な墓地とともに台町に移転したことで、これによって市街地を東西に貫く大幹線街路が実現した。この後、日本経済高度成長時代を迎え、本市においても商店街を中心とする市街の近代化が著しく進展し得たのは、その基盤がこの事業によって作られていたためであった。戦災復興事業から除かれた第3工区(田中町方面)の土地区画整理は、戦災復興事業の工事終了に引き続いて、都市改造事業として別途に実施された。正式の事業名は銚子都市計画飯沼都市改造土地区画整理事業と名付けられた。事業の大要は、施行区域内の東西に走る2つの幹線道路、すなわち、既に都市計画街路として決定されていた松本町通町線(田中通り)と広小路黒生線(東町通り)を拡幅の上整備するとともに、この2つの幹線街路を結ぶ区画街路を整備して、整然とした街区を作ろうというものであった。土地区画整理に基づく建物の移転、道路・公園等の整備工事は、1959年(昭和34年)度から逐次開始され、10年の歳月を費やして1968年(昭和43年)度に終了した。飯沼都市改造区域は戦災復興事業の第1工区に続く区域であったので、これによって両区域はようやく一体化して整然としたものとなった[19]

国は、国と地方の行政事務の再配分と町村規模の合理化のため、1953年(昭和28年)9月に「町村合併促進法」を、1956年(昭和31年)6月に「新市町村建設促進法」を公布し、市町村合併を推進した。このような背景の中で、本市は1954年(昭和29年)4月1日に海上郡船木村・椎柴村、1955年(昭和30年)2月11日に香取郡豊里村、1956年(昭和31年)4月10日に海上郡豊岡村を編入合併した。この市村合併は、行政区域の規模の適正化により行政水準の維持を図ることを目的としたものであった。なお、豊岡村を除く3村の合併は円滑に進められたが、豊岡村の場合は村内が分裂・対立して極めて難航し、その最終的な決着までには足掛け4年を要した。これらの市村合併により、市の人口はそれまでの7万人台から一挙に9万人台に増加し、市制施行当時の約2倍となった[19]

 
第1次池田内閣
 
実質国内総生産の推移

戦後の日本経済は、1950年(昭和35年)勃発の朝鮮戦争による特需景気が復興本格化のきっかけとなり、1950年代後半からの神武景気1960年代後半のいざなぎ景気を経て、類稀な高度経済成長を遂げた。以後日本は世界の経済大国として歩み始め、僅々30余年の間に有史以来の豊かな時代に到達した。1955年(昭和30年)の「経済自立五か年計画」、1960年(昭和35年)の「国民所得倍増計画」、1962年(昭和37年)の「全国総合開発計画」等によって、日本各地で拠点開発方式の経済産業発展政策が強力に推し進められた。とりわけ、千葉県における東京湾沿岸地帯の工業化の進展は著しいものがあった。首都近郊50キロ圏への産業・人口・都市機能の集中、成田の新東京国際空港の建設、茨城県鹿島開発の進展等、本市を取り巻く環境が大きく変化する中で、市は1961年(昭和36年)に「市勢振興調査」を全国市長会に委託し、既存産業の一層の発展、大工業化・新産業創設の可能性、今後の地方都市のあり方等を重点に調査研究を進めた。この調査結果に基づき、嶋田隆市長は1966年(昭和41年)に、初の自主的・総合的な行政計画として「銚子市長期計画」を策定した。目標年次は1985年(昭和60年)、人口規模は15万人、健康な環境のもと充実した機能を持った理想的地方都市づくりを目指し、経済基盤の確立、生活基盤の充実、市民生活の向上を実現しようとするものであった。1966年(昭和41年)度以降、この長期計画に基づく5か年の「実施計画」によって、各種重要施策の推進が図られた。その後「地方自治法」の改正にあわせて、1973年(昭和48年)に「銚子市基本構想」を定めた。この初の「基本構想」は、市民福祉の増進を目的に、東総地域等における近代的な中核都市として「住みよい豊かな文化・産業都市」を将来像とし、基礎的条件の整備、生活環境の整備と社会福祉等の充実、教育文化水準の向上及び産業の振興を施策の大綱と定めたものであった。同時に、1973年(昭和48年)度から1977年(昭和52年)度までの5か年計画として「銚子市基本計画」を定め、その後、1978年(昭和53年)3月に「第二次基本計画」が策定された。いずれも、3か年の「実施計画」を毎年度見直し補正するローリング方式により、予算編成との整合を図って政策的事業の総合的・計画的推進を期した[19]

銚子・波崎間の交通は波崎町営の旅客用渡船と自動車渡船に依存しており、利根川架橋は明治以来銚子・波崎の住民にとっての念願であった。利根川架橋問題が台頭してきた1950年代後半は、有料道路方式による道路整備に関する法令が着々と整備されつつあった時代で、1956年(昭和31年)3月には「日本道路公団法」が公布され、道路整備事業の新しい主要な担い手として、日本道路公団が設立された。このような情勢に基づいて、市では波崎町に呼びかけ、千葉・茨城両県に働きかけて、利根川架橋の実現の可能性について協議検討を行った。そして前記4者による銚子波崎間利根川架橋建設期成同盟会を結成し、日本道路公団に実現方の陳情を行った。これを受けて、1957年(昭和32年)に入ってから、技術・経済両面からの詳細な調査が本格的に開始された。この調査がほぼ完了するまでには2年を要し、1959年(昭和34年)6月に至って、仮称銚子大橋の架設事業実施は決定的となった。また同年中に架橋地点や橋の規模等も確定した。起工式は1960年(昭和35年)4月4日、波崎町明神前で挙行された。本工事の橋の下部構造である橋脚工事には、潜函工法という当時としては新しい工法が使われ、24時間作業が続けられた。工事は予定通り1962年(昭和37年)12月に完成した。日本道路公団は公募された名称の中から「銚子大橋」を選んで、10月9日正式名称と決定した。開通式は1962年(昭和37年)12月10日に行われた。この日市内は祝賀一色となり、銚子大橋付近や主要な街頭は空前の人出で終日賑わった。開通後の銚子大橋の車両通行量は毎年増加の一途をたどり、建設前の基礎調査における予想を遥かに上回るものとなり、日本道路公団は1974年(昭和49年)に入って全ての経費償還を完了した。同年5月23日から銚子大橋の管理は千葉県に移され、同時に無料化された。開通以来11年半のことで、当初決定された30年の有料期間は約3分の1に短縮された[19]

市内には一般国道が3路線あるが、このうち最も主要な国道は千葉・銚子間を結ぶ国道126号である。これは終戦後はまだ県道であったが、本市と首都周辺を結ぶ唯一最大の道路であったので、市の産業経済に与える影響が大きく、1951年(昭和26年)頃から千葉県に陳情してまず舗装化を図った。次いで国道への昇格を実現した。当時国道は一級・二級に分けられており、国道126号は1953年(昭和28年)5月18日、政令第96号をもって二級国道に指定され同日施行された。後に一級・二級国道の区別は廃止され、一般国道となっている。自動車交通の時代に入って、貨物輸送を始めその他の交通における大動脈としての役割は極めて大きい。国道356号は県道銚子佐原線が、1974年(昭和49年)11月12日に政令第364号で一般国道に指定され、1975年(昭和50年)4月1日から施行されたもので、国道126号に次ぐ市の動脈である。国道124号は銚子大橋のたもとの交差点から銚子大橋上の県境に至るまでの区間が市の区域に属し、水戸市に至る国道で本市と茨城県を結ぶ最大の幹線道路になっている。1960年代初頭、市と市議会は、首都・県都方面に至る広域高速道路の建設促進に取り組み始めた。1960年(昭和35年)7月、銚子市長・市議会代表議員の連名をもって、千葉県知事に対して銚子船橋間の高速道路新設の陳情が行われた。1962年(昭和37年)2月には、銚子市長を会長として3市4町1村が「銚子船橋間高速道路建設期成同盟会」を設立し、以後、沿線市町村は連携して国・千葉県に要望を重ねた[19]

 
1974年(昭和49年)撮影の銚子漁港航空写真

1925年(大正14年)開始の千葉県営事業=銚子漁港修築工事は戦後の1946年(昭和21年)に一応終了した。この第1期工事によって、銚子港は初めて漁港としての近代的な施設と機能を備え、本市の漁業発展の大原動力となった。1946年(昭和21年)度からは、未完成であった一の島防波堤工事が県の公共事業として進められ、1953年(昭和28年)度に竣工した。1948年(昭和23年)11月からは、市や漁業関係者の要請により、導流堤工事が建設省の直轄工事として着手され、1960年(昭和35年)に竣工した。漁港修築が制度的に確立されたのは、1950年(昭和25年)に「漁港法」が制定されてからであり、銚子漁港はこの法律に基づいて、まず1951年(昭和26年)7月10日農林省告示第255号をもって第3種漁港に指定され、次いで1960年(昭和35年)3月21日に政令第37号をもって特定第3種漁港に指定された。このような制度下において、銚子市漁業協同組合や市は、第1期工事に次ぐ銚子漁港の画期的な修築事業である外港計画が実現するよう、水産庁や県に対して要請した。その結果1963年(昭和38年)3月に成立した第3次漁港整備計画において、全国38港の一つとして取り上げられることになった。外港計画の基本構想は、既設の一の島防波堤と夫婦ヶ鼻から、沖合いに向かって新たに防波堤を構築し、その内側の水域を外港とする、この外港から内港すなわち既設の第1漁船渠及び第2漁船渠に通ずる新しい航路を設ける、同時に内港も拡張整備する、というものであった。起工式は1963年(昭和38年)8月3日、東魚市場において挙行された。銚子漁港の抜本的改修ともいわれた戦後の大修築事業はこうして開始され、1964年(昭和39年)4月1日、千葉県は銚子漁港事務所を設置し、事業の執行に当たらせることにした。第3次漁港整備計画の工事は1968年(昭和43年)度で終了となり、未完成部分は1969年(昭和44年)成立の第4次漁港整備計画に繰り越して続行することになった。この計画の目的は、銚子漁港が大型船漁業の基地となれるように整備するとともに、これまで銚子漁港を発展させてきた沖合沿岸漁業の施設を整備拡充することであった。1971年(昭和46年)9月には、利根川を航行しない新航路が暫定的に完成開通し、以後河口付近における漁船の遭難は後を絶っている。この第4次計画の実施過程において、既定計画を大幅に拡大する構想が起こった。具体的には、夫婦ヶ鼻からさらに黒生漁港に至るまでの間をも外港にしようというものである。その大きさは一の島・夫婦ヶ鼻間の外港を遥かに凌駕し、実現すれば銚子の東海岸のほぼ3分の1が漁港化することになる。この計画は、1973年(昭和48年)3月成立の第5次漁港整備計画において採択された。工事はその後の第6次以降の漁港整備計画においても着々と推進され、東防波堤は黒生沖に向かって延び、また夫婦ヶ鼻南の沿岸部も順次埋め立てられた。水産物流通・加工の合理化については、1974年(昭和49年)度以降、銚子漁港整備の進展と連動しながら、水産物産地流通加工拠点づくりのための国庫補助事業として順次実施された。これにより、銚子漁港はもはや利根川の河口港ではなくなり、太平洋に臨む広大な外港とこれに続く内港とによって、近代的漁港として歴史的な変貌を遂げた[19]

外川漁港は、大正年代に入ってから漁船が動力化し大型化してきたため、近代漁業の基地としては機能し得なくなった。そこで地元の高神村では、県費の補助を受けて1922年(大正11年)から全面的な修築事業を開始した。1937年(昭和12年)に高神村が本市と合併したので、以後市が事業を継続し、1943年(昭和18年)に完成した。このようにして近代化した外川漁港も、戦後間もなく漁業の復興発達に伴って狭小になってきたので、市は1948年(昭和23年)9月から大々的な改修工事を開始した。この改修工事は1950年(昭和25年)3月に竣工したが、これ以後毎年のように維持工事・補強工事・災害復旧工事を繰り返さねばならなかった。そのため、1967年(昭和42年)10月21日に市・外川漁業協同組合を中心として、外川漁港整備促進期成同盟会が結成され、同年12月25日に千葉県知事に対し、県移管と第4次漁港整備計画による改修促進の陳情を行った。そして1969年(昭和44年)に至って、第4次漁港整備計画における採択と県移管が実現することとなった。修築計画の大要は、名勝千騎ヶ岩を含めて、外川西浜海岸全体を漁港化しようとするものである。外川漁港修築工事の起工式は、1969年(昭和44年)5月に現地で行われた。後背地の公共用地の埋立造成は1977年(昭和52年)度からの第6次漁港整備計画で着手され、その後、第8次、第9次の整備計画において実施された。この公共用地には、漁港機能施設としての水揚荷捌施設、製氷貯氷施設、漁村センター、漁船漁具保全施設等が整備されている。外川漁港修築の進展に伴って、1977年(昭和52年)10月24日に、銚子市外川漁業協同組合地方卸売市場の開設と卸売業務の知事許可を得て、1980年(昭和55年)4月に市場業務が開始されることとなった[19]

本市南岸の名洗・犬若海岸は、九十九里浜に連なる屏風ヶ浦が、その東端において小さく湾曲したところで、若干天然の港湾形態を備えていたが、ここに近代的な港湾を建設しようという構想は、1950年(昭和25年)1月16日に開かれた市議会議員協議会において、初めて寺井耕一・根本龍治議員らによって提唱された。両議員が打ち出した具体化の方法は、まず第一段階として避難港を建設し、次いでこれを遠洋漁業基地化し、さらに最終的には商港化するというものであった。両議員がこのような構想を提唱したのは、名洗港をもって市の新しい発展の基盤にしたいという考えからであった。両議員の提唱は協議会で全面的に賛同され、3月26日に公正市民館において、大銚子避難港建設期成同盟会が発足した。発足後の期成同盟会は、4月27日に国会と所管官庁である運輸省に最初の陳情を行った。そして5月12日に閣議は名洗港を避難港に指定することを決定し、1951年(昭和26年)1月19日に指定の政令が公布された。避難港指定が閣議決定された後は、運動は運輸省の直轄による施工と早期着工へと向かい、1952年(昭和27年)度に予算化された。起工式は1952年(昭和27年)6月27日に名洗町の海岸において挙行された。避難港指定の2年後の1953年(昭和28年)3月25日、名洗港は、千葉県が港湾管理者となる地方港湾として5月8日に漁港区域指定の千葉県告示がなされた。1965年(昭和40年)度に避難港工事は完了し、1966年(昭和41年)度からは千葉県が国の「港湾整備計画」による整備を開始した。3000トン級船舶・小型船舶が接岸できるように、護岸・岸壁の整備、泊地・航路の浚渫、防波堤の延長が計画され、1968年(昭和43年)度以降も引き続き「港湾整備計画」により整備が実施された。この間、1969年(昭和44年)6月13日に名洗港は地方港湾として供用開始された。名洗港の整備と並行して、市は港湾施設用地の確保と企業誘致による本市産業の高度化を目的とする市単独事業として工業用地の造成を行った。1965年(昭和40年)11月から名洗港港湾区域の公有水面埋立に着工し、第1工区は1967年(昭和42年)9月、第2工区は1970年(昭和45年)11月に竣工認可となった。工業用地への企業の進出については、造成目的に適合したものを受け入れることとし、第1工区は1985年(昭和60年)度中に分譲を完了した。第2工区については、名洗港整備計画との関連をみながら、港湾の発展に有効な土地利用を図るために、当面は分譲することなく市有地のまま保留された。1973年(昭和48年)に入ってからは、名洗港の重要港湾昇格の促進運動が開始された[19]

本市の農業の主たるものは畑作であり、その基幹作物は戦前から甘薯とであった。野菜の栽培は農家の自家用程度にしか行われていなかった。しかし、戦後の経営改善の中で、野菜が甘薯や麦を退けて畑作の主流を成すようになった。野菜はキャベツを中心として多種多様な品目にわたっている。このことが戦後の本市の農業の推移変遷における最大の特徴である。この転換を可能にしたのは時代の変化であった。それは日本の人口の大都市集中と、自動車による貨物運送の飛躍的な発達によって、生鮮野菜の流通圏がほとんど全国に拡大したことであった。銚子の畑作における基幹作物転換の先駆となり、やがてその王座を占めるようになったキャベツの栽培は、高神地区を中心とする東部地区から始まった。その後、各地区で栽培意欲が高まり、産地体制・販売体制の確立を図るため、1957年(昭和32年)に「灯台印」銚子市蔬菜出荷組合連合会を結成し、集団栽培の第一歩を踏み出した。1961年(昭和36年)には千葉県特産地の指定、翌年には国の園芸特産地の指定を受け、続いて1966年(昭和41年)に春キャベツが国の産地指定、さらに1978年(昭和53年)に冬キャベツの産地指定を受けて、全国を代表する春系品種のキャベツ産地を形成している。麦の転作としてのキャベツ栽培の成功は銚子の畑作の大きな転機となり、新しい作物の栽培が積極的に試みられるようになった。そして農業における銚子は、京浜地帯や京葉地帯等の首都東京を中心とする周辺都市への、生鮮野菜の供給基地として位置付けられるようになった。戦後の日本における農業の機械化は著しく、農作業・農業経営の省力化が進んだ結果、労働力の他産業への流出と兼業農家の増加が生じたが、本市においては、機械化による省力化によって、生産性の高い有利な商品作物に重点を置いた農業経営近代化へと向かった。まず、1950年代から、電動機発電機動力脱穀機動力もみすり機、防除機具等の導入が進められた。次いで、1960年代以後のモータリゼーションの進展にあわせて、農用トラックやオート三輪、後に小型四輪貨物自動車が急速に農作業に用いられるようになった。これとほぼ同時期に動力耕耘機が普及するようになった。動力田植機は1960年代後半に導入され、水田稲作における省力化の効果が極めて大であったため、その普及は急速であった。あわせてバインダー等も用いられるようになった[19]

戦後の本市の漁業において最も顕著な変化は、漁港の整備と漁船の機械化である。漁船の機械化において、代表的なものは電波機器の普及である。漁業無線と呼ばれる無線通信機と魚群探知機方向探知機及びレーダーは、大型船から小型船に至るまで、ほとんど全ての漁船が装備するようになった。電波機器以外でも漁船の機械化は進み、網やはえ縄を引き揚げるのも機械化されて省力化され、また潮流や水温等を測定するために各種の計器類が使われ、あるいは曳航中の底びき網の状態を知ることのできる機器も使われるようになった。漁具等の資材の変化も著しく、漁網は綿網から化学繊維の網に替わった。漁船の船体自体もまた変わった。構造においては、いわゆる和船型が姿を消して、船外機付船のようなごく小型のものを除けば、全て西洋型となった。材質については、FRPと略称される強化プラスチック船が造られるようになり、木船の新造はみられなくなった。また漁船の大型化も進んだ。水場高の面から見ると、地元船以外の漁船の水揚高が大きな比重を占めるようになり、銚子の漁業は回船を主体とする漁業へと変化した。資源の面からみると、サンマサバが、イワシとともに銚子の漁業の主たる魚種となった。銚子の漁業は戦前から大衆魚を中心とする漁業として著名であったが、当時の魚種はイワシだけであった。戦後はこれにサンマとサバが加わることによって、一層大衆魚中心の漁業としての性格が強まった。サンマは戦前においても漁獲されていたが、水揚高は少なく、銚子の主要漁業となるまでには至らなかった。これには漁法が刺し網であったことも関係した。それが戦後は火光利用の大型棒受網漁法に替わったため大量に漁獲されるようになり、また銚子沖が好漁場となって、銚子漁港に大量に水揚げされるようになった。銚子沖が漁場になりしかも魚群が濃いときには、銚子沖は多数のサンマ漁船の集魚灯の光で、連日不夜城のようになった。サバも同様で、戦前はあぐり網のイワシに混じって漁獲される程度であったが、戦後は1959年(昭和34年)末に銚子沖で新漁場が発見され、大型のサバが大量に漁獲されるようになった。このためサバ専門の漁業が興隆した。漁法は当初は一本釣りであったが、その後まき網に替わり、ますます大量に漁獲されるようになった。サンマもサバも年によって豊凶があったが、イワシと並んで銚子漁港に水揚げされる大衆魚の3本柱となった[19]

戦後の本市の水産加工業は、生産設備や経営の近代化等が進み、生産額も増大し市の主産業の座を保持し続けた。特に目立つ点は、戦前の銚子の水産加工品の王座を占めていた肥料のイワシ搾粕が、戦後ついに姿を消したことであり、これに代わって冷凍水産物が登場したことである。銚子の一般加工品は、戦前・戦後を通じて、多獲性大衆魚を原料としている点に特徴がある。戦後はサンマ漁業やサバ漁業が発展し、漁期にはイワシ同様、大量に水揚げされるようになった。そのため一般加工品の主原料はイワシからサンマ・サバへと移り、サバを原料とする製品が最も多く、サンマ・イワシがこれに次ぐようになった。またアジも加工原料となった。本市における冷蔵庫の普及・発達は1950年代に始まり、これに伴って原料の移入も始まったが、これらによって年間操業が実現したことは、水産加工業の歴史的な変革であった。冷蔵庫の普及・発達に伴って原料の供給が安定してくると、年間操業へと移行してきたので、労働力の雇用形態も臨時から常時雇用へと前進した。1970年代からは、機械の導入による省力化が図られるようになった。まずコンベアーが使用されるようになり、次いでフォークリフトが導入されるようになった。さらに自動選別機や自動計量機・自動割裁機等が使用されるようになった。冷蔵庫の設置は、水産加工業者の間に年を追って増加し、1980年(昭和55年)には冷蔵庫保有業者数は約150業者、冷蔵能力は約15万トンとなり、1956年(昭和31年)に比べて、冷蔵庫の数は約5倍、冷蔵能力は約22倍になった。このように一地域に冷蔵庫の集中しているところは他に例がなく、本市の冷凍業は、一地域の規模としては全国一に発展した。缶詰製造業においては、サンマ、サバの大量水揚げと冷凍冷蔵設備の整備によって、主に国内向けのサンマ、サバ缶詰製造が盛んになり、新規工場も加えて1956年(昭和31年)末には11社となった。その後はそれまでのサバの豊漁と国内他地からの移入増加、イワシ水揚量の増加によって、輸出向けのサバ缶詰と多種多様な国内向け缶詰の生産が進んだ[19]

戦後の醤油業界の状況を概観すると、生産高は1962年(昭和37年)頃までは全国的に伸びたが、その後の醤油市場は飽和状態になり、次に訪れたのは、業界内での淘汰と大手メーカーへの集中であった[19][4]。そしてこのような状況の中で、大手メーカーは、品質の向上、製品の多様化、容器の改善等、将来の展望に立った新しい積極的な経営に乗り出した。品質の向上は醸造技術によるが、これについてはヤマサもヒゲタも、戦前から独自の研究所を設けて研究を続けてきており、戦後は一段とその機能を充実して、製品の向上を図った。戦前銚子で醸造され出荷されていた醤油は、ほとんど1業者1種類であった。それが戦後は消費者の嗜好の多様化によって、各種の醤油が醸造され出荷されるようになった。その種類は大別すると普通醤油、濃厚醤油、薄口醤油、減塩醤油と特に味の加工をした醤油になる。製品の多様化は醤油以外のものにも及び、めん類のつゆやスープといった各種の調味料も製造するようになった[19]。ヤマサでは、1967年(昭和42年)に「めんつゆ」、1974年(昭和49年)に「そばつゆ」を発売している。これは当時の日本人の食の簡便化に対応したもので、ヒゲタでも同様に、うどん・そばのつゆに用いる「ヒゲタつゆ」を1963年(昭和38年)に発売した。同社は中華麺にも目を向け、同じ頃「冷し中華スープ」、ラーメン用つゆ「ラープ」を発売している[4]。醤油以外の調味料で戦後銚子で開発された画期的なものは、「フレーブ」という商品名で1961年(昭和36年)に発売されたヤマサの新しい化学調味料である[19]。化学調味料は、食品産業界では1957年(昭和32年)頃から開発されるようになったが、醤油メーカーでこの分野で先鞭をつけたのはヤマサであった[4]。「フレーブ」は鰹節うまみの正体といわれるイノシン酸を中心とした複合化学調味料である。ヤマサでは、イノシン酸とグルタミン酸を複合させると、調味料として大きな相乗効果を発することを新たに発見するとともに、その工業化に成功した。これによって日本の化学調味料界に一大革命がもたらされるとともに、国民の食生活にも大きな影響が及ぶことになった。醤油の容器は長い間杉樽とガラスビンであったが、戦後杉樽は缶に代わった。またビンの一部に合成樹脂製のものが使われるようになった。なお銚子醤油株式会社は、1976年(昭和51年)4月1日に、従来の社名をヒゲタ醤油株式会社に改めた[19]

戦後の本市の商業は、大局的にみれば日本経済の復興と共に復興し、1950年代半ばにはほぼ戦前の状態に戻った。小さなバラック建ての店舗から出発した主要商店街も、アーケード街路灯等によって整備された近代的な商店街に生まれ変わり、1956年(昭和31年)の戦災復興10周年を記念する全市的な復興祭には、華やかな装飾で行事に色を添えた[19]。漁期の最盛期には1日で3万人の人口が増加するといわれた銚子港に寄港する漁師が商店街の重要な顧客であり、漁業が市の小売業に大きな影響を与えていた[4]。1960年代になると、日本経済は政府の所得倍増政策に基づく高度成長時代に入り、技術革新大衆消費社会の形成が始まった。同時に本市の商店もようやく本格的な競争の時代を迎え、1960年(昭和35年)12月には、市外資本である株式会社十字屋が新生仲通りに進出した。商店の競争は個々の商店の間だけでなく、商店街同士の間でも行われ、店舗の改造、商店街の整備美化、景品に様々なアイデアを凝らした合同大売り出し等が行われた。この競争で断然他を圧したのは銚子銀座商店街であった。銚子銀座とは戦後地元の商店連盟が命名したものであるが、同所は飯沼観音正面の目抜き通りで、戦前から「観音前」の名で賑わってきたところである。戦後は戦災復興事業の一環として土地区画整理事業が行われて街路、街区が整然となるとともに、地元の商店連盟の活動によって商店街としての整備が他に先行し、市内では自他共に許す第一の商店街となった。その結果1972年(昭和47年)には、在来の衣料品店が本市では初めての「百貨店法」に基づく百貨店にまで成長し、クリハシ百貨店として、銚子銀座商店街の核となった。1970年代に入ると、市内各地区には中小のスーパーマーケットが続々と誕生した。「ミヤスズ」は市内各所及び市外にも店舗を増設し、食料品を中心とするスーパーとしては最大手に成長した。1970年代後半になって、本市の商業環境に大きな動きが生じた。1976年(昭和51年)10月22日、株式会社十字屋が銚子駅前通りの宝醤油株式会社跡地を財団法人銚子市開発協会から取得し、地上5階地下1階の百貨店を開店した。次いで1979年(昭和54年)10月6日、十字屋に隣接する旧市庁舎跡地に、株式会社銚子ショッピングセンターが開店した。地上2階地下1階の百貨店であり、店名をシティオといった。その翌年、銚子市開発協会は、宝醤油跡地の残りと市水道部跡地とをあわせ19区画として、小売店出店希望者に分譲した。これによって、2つの大型店とその間の各種小売店・飲食店が新しい商業集積地区を形づくることとなり、中心繁華街の地位が遷移した。戦前は市内、近隣農村、波崎町を合わせた地域とみられていた本市の商圏は、1960年代から徐々に拡大し、1968年(昭和43年)の「千葉県商圏調査」結果では、市内及び旭市・海上町・飯岡町・干潟町・小見川町・野栄町・茨城県波崎町・神栖町までを含めた人口約22万人の地域となった。本市の商圏がこのように拡大した最大の原因は、モータリゼーション時代の到来による自家用自動車の普及である。また茨城県側については銚子大橋の実現がある。そして、本市は小売店の面からみても東総地域では最も発達した都市であったので、周辺の購買力を吸収し得る力があった。1970年代以降は、佐原市、茨城県側、さらに旭・八日市場方面を含め商圏の競争が生じるようになった[19]

本市は産業都市であると同時に観光都市でもあり、市制施行以来観光の振興のためには、市と関係者の一体となった各種の策が講じられてきた。戦後、1947年(昭和22年)に銚子観光協会は再発足し、1956年(昭和31年)3月28日社団法人銚子市観光協会が設立された。1957年(昭和32年)、「国立公園法」が廃止されて、新たに「自然公園法」が制定された。本市はこれに基づいて1959年(昭和34年)3月3日に、水郷国定公園に指定された。次いで1969年(昭和44年)3月1日には、公園名が水郷筑波国定公園と変わった。国定公園に指定された区域は、犬吠埼を中心とする海岸地帯である。また1964年(昭和39年)6月9日には、千葉県立銚子自然公園が廃止され、長塚町地先の七ツ池周辺が、県立九十九里自然公園の区域に編入された。戦前一般市民が利用していた海水浴場は、海鹿島、犬若、名洗であった。このうち犬若、名洗は戦後港湾工事や浸食防止のための護岸工事のため、海水浴はできなくなった。そこで市は1958年(昭和33年)に、酉明浦の長崎海岸を新しい海水浴場に造成した。戦後の海岸以外の観光資源は、銚子大橋、銚子漁港魚市場、醤油工場、愛宕山、七ツ池等である。愛宕山には戦時中対空監視に使われていた展望台があり、1955年(昭和30年)7月12日千葉鉄道管理局長によって地球展望台と命名された。展望台から見ると水平線や地平線が丸く見え、地球の丸いことが実感できるためである。七ツ池は戦後に桜を植樹して、花見の名所となるように開発したものである。季節からみた場合、本市は主として夏の観光地である。したがって観光行事も夏を中心にして企画され、催されてきた。その中でさらに中心になってきたのは大潮祭りである。銚子で大潮といえば、一般的には旧暦6月15日の大潮を指している。この日は川口神社の例祭日であり、神輿の渡御が行われる。大潮祭りは、戦後この大潮という民俗行事を中心にして、この日の前後に花火大会等の各種の観光行事を加えたものであった。1970年(昭和45年)には、毎年8月の第1土曜日と日曜日を期日とする観光行事「銚子みなとまつり」が始まった。行事の柱は「やっぺおどり」や花火大会及びみこしパレードである。みこしパレードには市内の神社の神輿や町内の子供神輿が20基以上参加し、銚子銀座通りをパレードする。やっぺおどりは銚子の祭囃子の一つである「早打ち囃子」に振りを付けたものである[19]

 
特急しおさい(183系)

観光には便利な交通が必要であるが、1950年代の交通対策は、国鉄の輸送力増強が主たる課題となっていた。その内容は列車の増発とスピードアップであり、これについては市が中心となって国鉄当局に運動を続けた。その結果、ローカル線としては比較的早い時期に、蒸気機関車から気動車化及び電化が実現し、これに伴って準急列車急行列車が運転されるようになった。列車本数も増え、元旦初日の出を迎えるための臨時列車や自然科学列車のような臨時列車がしばしば運転され、観光等の利便が増大した。そして1975年(昭和50年)3月10日から、東京・銚子間に特急列車しおさい」が運転されるようになった。車両はこだま型の車両を改良した183系と呼ばれる最新の車両であった。このほかバスについても戦後、1955年(昭和30年)4月から、成田バス株式会社(後の千葉交通株式会社)によって磯めぐり定期観光バスが運行されるようになった。観光道路についてはやはり1955年(昭和30年)3月に、それまで中断されていた県道銚子公園線の一部犬吠埼・長崎間が完成し、海岸一周が可能となった。また同年7月には愛宕山の観光道路市道愛宕山天王台線が開通した。さらに1972年(昭和47年)7月には、千葉県道路公社によって三崎町二丁目から屏風ヶ浦の台地を通って天王台に至る銚子有料道路愛宕山公園線が完成した。この間1962年(昭和37年)12月には銚子大橋が開通している。これらによって市内の観光道路網は整備され、自家用自動車時代の到来に対応できることとなった。観光施設の面で戦後いち早く問題になったのは、観光客の受け入れ施設すなわち旅館の不足と不備であった。こうした中で一つの契機をもたらしたのは市営国民宿舎の建設である。1962年(昭和37年)、1963年(昭和38年)度にわたる2か年継続事業として、4635万円の予算をもって行われ、1963年(昭和38年)7月24日に銚子市営国民宿舎犬吠ホテルの名で開館した。市は国民宿舎の建設を計画していた頃、一方では民間観光資本の誘致にも力を注いでいた。その結果関東の大手私鉄の一つである京成電鉄が犬吠埼に観光ホテルを建設することになり、国民宿舎と同じく1962年(昭和37年)に工事を開始し、1964年(昭和39年)に開館した。これらのことが契機となり、その後新しいホテルの建設や既存旅館の改築整備等が続き、本市の観光客受け入れ施設は万全の態勢となった[19]

1960年代から、本市においても借家から持ち家への移行、老朽住宅の全面的改築等の住宅事情から新しい宅地需要が生じ、郊外地へと宅地化が進行し、地価が騰貴した。このため市は、財団法人銚子市開発協会による宅地造成事業を促進した。また住宅団地のほかに、1970年(昭和45年)には千葉県開発公社との共同事業により、小浜工業団地(分譲面積16万7640平方メートル)の造成を行った。1979年(昭和54年)10月1日までに41社が進出している。この間、民間においては小規模なものも含めて各地で宅地造成が行われてきたが、1970年代から市の西部地域に豊里団地と呼ばれる大規模住宅団地の造成が行われた。これは、笹本町台地の主要地方道多古笹本線東側の山林部70ヘクタールを宅地造成して、2800世帯、1万2600人が入居するニュータウンを建設しようとする計画であった。事業主体は星和住宅株式会社で、目的は鹿島臨海工業地帯に進出する企業用の大型社宅団地の建設であった。1971年(昭和46年)1月に用地買収を開始、1974年(昭和49年)12月に造成工事着手、団地北側の第1工区は1980年(昭和55年)3月、南側の東部分の第2工区は同年11月、残る第3工区は1982年(昭和57年)10月にそれぞれ竣工し、従来から純農業地域であった豊里地区は大きく変親した。その後の経済情勢の変化によって、企業の社宅用団地という当初の計画は見直しされて、一般住宅向け分譲団地となった。なお、この住宅団地には1979年(昭和54年)8月10日に豊里台という町名がつけられた[19]

本市における戦前の社会教育は、民間の財団法人公正会が担ってきたが、戦後は市がその主導的な位置に立つようになった。この時代の社会教育活動は、銚子文化会を始めとする市民団体が、学問的・啓蒙的な歴史研究や自然科学研究に重点を置いた文化活動を自主的かつ積極的に展開していた。1948年(昭和23年)3月1日、財団法人公正会の活動拠点であった公正会館が市に寄附され、1949年(昭和24年)9月22日に銚子市公正市民館として開館し、1階にあった書庫・閲覧室の図書館部分は、銚子市公正図書館となった。この年、公正市民館ホールにおいて第1回銚子市文化祭が開催された。1946年(昭和21年)9月には前宿町陸上競技場が野球場として開場し、その後1950年(昭和25年)6月に本格的な銚子市営球場が完成した。次いで、1965年(昭和40年)8月には銚子市体育館が開館した。当時市民から要望されていた屋内運動場兼大集会場の実現によって、各種スポーツ教室が開講されるとともに、児童・生徒・学生を含めた市民の多様な体育活動や各種の大会・行事が盛んに行われるようになった。この体育館に隣接して、1971年(昭和46年)には銚子市青少年文化会館が開館した。「都市青年の家」「児童文化センター」及び「市民会館」の総合施設であり、劇場としての本格的な設備を持つ大ホールのほか、中・小ホール、科学展示室、郷土資料室、実験実習室、プラネタリウム等を備え、本市における社会学習や芸術文化の拠点となった。青少年文化会館が開設され、各種社会教育事業が行われるようになったことで、文化団体の活動は一段と活発になった。また一般市民は、歌舞伎文楽オペラ演劇オーケストラバレエ等の舞台芸術を鑑賞する機会を得ることとなった。市民個々の文化活動は学問芸術芸能その他多方面にわたるが、これらのうち比較的盛んとなったのは、美術音楽文学演劇舞踊等の芸術・芸能の分野である。このうち特に学校音楽の興隆は著しく、1960年代には器楽合奏部門が全国的な水準に達し、市立第五中学校の音楽クラブが器楽合奏の全国コンクール中学校の部で、県立銚子商業高等学校の音楽部が吹奏楽の全国大会高校の部で、それぞれ連続優勝を果たしている。このような学校音楽の進歩発展が基盤となって、社会人である一般市民の音楽活動もまた興隆し、社会人の音楽サークルの中からも、全国コンクールで優勝するものが出るようになった。なお公正図書館は、蔵書の増加により施設の狭隘化の解決が課題とされていたことから、市制施行50周年記念事業の一環として新築事業が企図され、1983年(昭和58年)5月1日に開館した[19]

戦前の本市において、野球部を有する中等学校は、県立銚子商業学校だけであった。1938年(昭和13年)夏の千葉県予選では初めて優勝したが、南関東大会で敗れ、甲子園出場は果たされなかった。銚商が初めて念願の甲子園に出場したのは、1953年(昭和28年)の春の選抜大会である。これ以後1977年(昭和52年)まで、春の大会には合計7回出場した。この間の最高成績は1972年(昭和47年)の第44回大会において、準決勝まで進出したことである。夏の選手権大会については、1958年(昭和33年)の第40回大会に初出場し、3回戦まで進出した。これ以後1976年(昭和51年)まで、合計9回千葉県代表として出場し、千葉県下の高校野球に銚商時代を現出した。1965年(昭和40年)の第47回大会においては、決勝戦まで進出して準優勝した。銚子が高等学校硬式野球及び卓球の競技会場に選ばれた1973年(昭和48年)の第28回国民体育大会(若潮国体)秋季大会においては、千葉県代表校として出場して優勝した。1974年(昭和49年)の夏の甲子園大会では、ついに全国制覇を成し遂げた。帰郷に際してはオープンカーでパレードを行ったが、沿道の至るところで歓迎され、市内に入ってからは道路を埋めた大群衆で車が走行できないほどであった。甲子園大会への期待は、このように戦後ほとんど銚子商業が担ってきたが、1970年代後半になると市立高等学校野球部の力量が向上し、市立銚子高等学校が1979年(昭和54年)に、市立銚子西高等学校が1981年(昭和56年)に、銚子商業に代わって甲子園出場の栄冠を勝ち取った。市内の高校が甲子園大会に出場すると、多数の市民が甲子園まで出かけ、華やかな大漁旗を振って応援した。また試合中銚子にいる市民はテレビで観戦するので、街の中は自動車も人通りもまばらになった[19]

1973年(昭和48年)秋の第1次オイルショックの発生によって、日本は1974年(昭和49年)には戦後初めて実質経済成長率マイナスを経験した。以来、我が国経済は高度成長を維持できず、1979年(昭和54年)の第2次オイルショックを経て、低成長・安定成長へと転換した。このような中で、1979年(昭和54年)度に実施された第2次「市勢振興調査」は、本市の地域特性、潜在的可能性を自らの意思と力で最大限に活用していく内発的地域振興を基本とする食品産業文化都市づくりを今後のまちづくりの基本方針とすべきであると提言した。そして、特に名洗港については、どのような地域振興を考え、そのための手段としてどう位置づけるか、という新しい構想が必要であろう、と提言した。この考え方は、一貫してその後の銚子市総合計画における名洗港開発をはじめとした地域振興の根底をなすものとなった。1985年(昭和60年)には、「銚子市基本構想」の目標年次の到来にあわせて、大内恭平市長によって新たな「銚子市新総合計画基本構想」が策定され、同年6月27日に市議会の議決を得た。「新総合計画基本構想」の目指すところは、地域特性を生かし、市民の創意と努力を結集して、東総地区の中核にふさわしい活力と魅力ある地方都市づくりであった。前の構想と比較して、既存の各種産業振興と新しい産業の導入、市民の価値観の変化や地域社会の高齢化への対応、広域における拠点機能発揮とネットワーク形成等に着目した都市づくりの方向性を示したものであった。この構想を受けて1986年(昭和61年)2月に5か年の「基本計画」を決定し、「実施計画」により事業推進に当たった[19]

平成から令和へ 編集

1985年(昭和60年)4月1日から半年間、NHK朝の連続テレビ小説澪つくし」が放映された。大正末から昭和初期の時代の銚子を舞台にした醤油醸造家の娘と網元長男の波乱の愛情物語は、沢口靖子川野太郎の新人コンビの人気も高く、市民が熱中したのはもとより、銚子の名を改めて全国に知らしめることとなった。1980年代前半に180万人台であった本市の年間観光客入込数は232万人を超えた。市はこれを銚子観光振興の機会として、1985年(昭和60年)を銚子観光元年と銘打ち、観光宣伝はもとより、観光レクリエーション拠点の整備等を推進し、新たな都市づくりの主要なステップとする方針とし、「銚子市観光振興基本計画ー海・川・食との出会いー」を策定した。この計画において、愛宕山地球展望館の改築・整備、オーシャンランドの再生、小畑池の観光機能の強化、銚子漁港地区水産ポートセンターの整備、インフォメーションセンター・ゲームゾーン、観光案内標識の設置、PR・イベントの充実等が、当面の短期に実施する事業として掲げられた。また、中・長期における事業として海浜レクリエーション基地、マリンスポーツ基地、海岸遊歩道・サイクリング道路、澪つくし公園、フィッシャーマンズワーフの整備、銚子駅前の景観づくり等が挙げられた[19]

1982年(昭和57年)度から千葉県が港湾計画基本調査を進める過程で、市は1985年(昭和60年)12月に社団法人日本港湾協会へ「名洗港振興調査」を委託した。その結果は、1987年(昭和62年)5月に市に報告された。この調査では、マリンリゾート拠点、物流拠点、エネルギー拠点、研修研究拠点、先端技術産業拠点の5つの導入機能が検討された。その結論として、カーフェリー又はエネルギー港湾に関しては物流やエネルギー需要の伸びが低下している状態から実現の可能性は薄いが、海洋レクリエーション港湾としての実現の可能性は非常に高いとして、名洗港に規模・質において我が国第一級のマリーナを中心とするマリンリゾート拠点を整備すべきであるとの提言がなされた。その整備構想は、クルーザー等1000隻の収容能力をもつマリーナを新設し、既存埋立地にホテルレストラン等のリゾート施設を、マリーナ西側に海水浴場を、既存堤防基部に5000トン級船舶が接岸可能な水深7.5メートル岸壁を新設するというものであった。この構想の実現のために、1987年(昭和62年)8月、千葉県知事、銚子市長、銚子市内5漁業協同組合長が同意する覚書が締結され、10月には「名洗港マリンタウンプロジェクト調査」を委託して、その具体化が進められた。1988年(昭和63年)3月開催の市議会定例会での施政方針において、佐藤幹彦市長は名洗港のマリンリゾート拠点開発を目指すとの所信を明らかにした。1989年平成元年)4月には、「総合保養地域整備法」に基づく重点整備地区として「銚子マリン・リゾート」が指定され、名洗港マリンリゾート、水産ポートセンター、犬吠埼の旧瑞鶴荘が特定民間施設と定められた。同法は、ゆとりある国民生活の実現と地域振興を図るため、スポーツ・レクリエーション施設等民間施設に対する税制上の特例措置、資金支援措置、地方公共団体等の助成によって、民間活力を生かした第三次産業中心の地域振興、内需拡大等を目的とするものであった。この整備構想上の位置づけによって、名洗港マリンリゾート事業等の円滑な実現が期された。1990年(平成2年)3月には名洗港マリーナの全体構想を示す「名洗港港湾計画」がまとめられ、同年8月の千葉県地方港湾審議会で了承された。1991年(平成3年)2月には千葉県知事、銚子市長、銚子市内6漁業協同組合長・海匝漁業協同組合長の「漁業補償契約書」の調印、そして名洗港の「海洋性レクリエーション拠点港湾」指定に至った。このように名洗港整備のための前提条件が整った結果、名洗港マリーナの管理運営に当たる第三セクターの設立、マリーナ後背地開発の事業主体となる民間企業の選定、マリンリゾートづくりにふさわしい港湾環境の整備等が進められることとなった[19]

 
銚子ポートタワー

名洗港マリーナの整備とあわせて、市内の観光整備も推進された。1988年(昭和63年)には、愛宕山頂に「地球の丸く見える丘展望館」が開館した。市は、愛宕山周辺の良好な景観を市民の財産として守るため、「銚子市地球の丸く見える丘景観条例」を制定し、この条例に基づく景観形成地区及び景観形成に関する基準を定めた。展望館に隣接するオーシャンランド跡地は、地球の丸く見える丘ふれあい広場として一体的に整備された。次いで、1991年(平成3年)6月23日には「銚子ポートタワー」と「ウオッセ21」からなる「水産ポートセンター」がオープンした。ウオッセ21は、銚子市水産観光株式会社(市と地元業界で構成する第三セクター)の管理運営により、地元の専門業者による水産物、水産食品、地元産品の販売を行う施設である。地球の丸く見える丘展望館、銚子ポートタワーについては、市がその管理運営を銚子市観光協会に業務委託することになった。これに伴って同協会は、職員体制を整えて受託事業の執行に当たるとともに、これら施設でのイベント開催を含めて各種観光事業を積極的に実施していった。犬吠埼周辺から君ヶ浜にかけては、「君ヶ浜しおさい公園」として、1986年(昭和61年)度から市が千葉県の助成と国の指導を得て、民有地の土地取得と園地整備・駐車場設置を実施した。園地整備は1988年(昭和63年)度から1992年(平成4年)度までの5か年計画で実施され、有識者等の意見・要望を受けて、自然との調和と環境保護を基本とした公園づくり事業が進められた[19]1995年(平成7年)度には犬吠埼園地の施設が完成した[69]。銚子電気鉄道株式会社では、1989年(平成元年)に株式会社銚電恒産が筆頭株主となってから、観光資源でもある電車の環境整備として、犬吠駅、君ヶ浜駅、観音駅の各駅舎と銚子駅構内発着場をヨーロッパ風に改良整備するとともに、沿線にアジサイ等を植栽して車窓風景の美化を図った。また、犬吠駅2階のレストランを改装して、1999年(平成11年)10月に銚電恒産直営の後藤純男美術館をオープンした。1997年(平成9年)と2000年(平成12年)には、犬吠埼の2つの民間ホテルが続いて温泉掘削に成功し、銚子海岸観光のベストロケーションに天然温泉が実現した。最初は1997年(平成9年)4月8日、犬吠埼観光ホテルが地下1066メートルから温泉掘削に成功した。これに続いて、2000年(平成12年)3月10日、犬吠埼灯台西側の京成ホテルも地下1300メートルから温泉掘削に成功した。周辺のホテル・旅館もこの源泉から分湯を受け共同利用することとなり、両ホテルと合わせて5館が犬吠埼温泉郷を形成し、銚子観光のイメージアップと集客力強化に大きな役割を果たすこととなった。1995年(平成7年)7月1日には、銚子の沿岸から沖合でのイルカクジラ類の乗船ウォッチングが開始された[19]

 
架替事業を完了した銚子大橋

広域幹線道路については、主要地方道銚子海上線東総有料道路、国道356号バイパス、東総台地地区広域営農団地農道等の整備が進んだ。1986年(昭和61年)9月には、本市を含む東総地区3市5町首長会議において東総地域から東金・千葉方面へ至る有料道路の必要性が論議され、1988年(昭和63年)6月7日、「山武・東総地域幹線道路整備促進期成同盟会」(4市12町1村)が設立された。これ以後、国・県・公団・地元国会議員等に対する陳情要望が重ねられ、1994年(平成6年)12月に、首都圏中央連絡自動車道と銚子方面の連携を強化するための「銚子連絡道路」が地域高規格道路として「計画路線」に指定された。さらに、銚子大橋の慢性的な交通渋滞の解消が課題となる中で、1988年(昭和63年)11月、銚子市長と波崎町長は、新年度に期成同盟を結成して新大橋建設実現に連携して取り組むことで合意し、1989年(平成元年)10月11日、銚子市長を会長とし、副会長を波崎町長、監事を旭市長・神栖町長とする「銚子・波崎間利根川新橋建設促進期成同盟会」が設立された。この期成同盟会の設立後、千葉・茨城両県、両県選出国会議員、建設省大蔵省への陳情が重ねられ、1990年(平成2年)12月には千葉県の「新五か年計画」に新橋建設が位置づけされ、1994年(平成6年)2月に大蔵省原案内示により新規事業として採択、同年12月には銚子新大橋有料道路新設の建設大臣許可を受けた。1995年(平成7年)2月7日に起工式が挙行され、以後建設工事が進められた。同大橋の開通記念式典は、2000年(平成12年)3月18日、千葉・茨城両県主催で開催された。橋梁は「人と自然にふれあう躍動感のある橋」をテーマに、カモメの羽ばたきをイメージし、自然と調和する橋を目指し、デザインは地元市町からの有識者も参加した景観検討委員会を設けて決定された。新橋の名称は、公募により「利根かもめ大橋」と決定した。この間、市内主要道路の整備も進み、1989年(平成元年)度から1996年(平成8年)度末にかけて、銚子駅から飯沼観音までの道路が、銚子駅前通りシンボルロード・本通通りマイロード・銚子銀座通りココロードとして整備された。駅前・ポケット広場の整備、車歩道の新装整備、街路灯・信号街路灯の設置、植栽モニュメントの設置、電線類の地中化等により、リゾート都市銚子にふさわしい都市景観・商業空間が整えられた。道路整備とあわせて、商店街の活性化を図るための各種事業も進められた。銚子銀座商店街振興組合・すずらん商店街・観音商店会の共催による毎月18日の「ご縁日」では、坂東三十三観音札所の門前町の賑わいを復活させるため、1998年(平成10年)4月から、飯沼観音周辺でイベント、模擬店等を開催した。2000年(平成12年)1月1日には、長崎町の外周部をまわり犬吠埼方面と外川方面とを結ぶ全長883メートル長崎海岸周遊道路が開通した[19]。なお、銚子大橋は、交通量の増大、車両の大型化、塩害等による老朽化が著しいことから、2003年(平成15年)度から千葉・茨城両県による架替事業が進められ、2004年(平成16年)度に橋脚工事と迂回路桟橋工事が着手された。新銚子大橋は2013年(平成25年)3月7日に全線供用開始となり、同年度中に旧橋の撤去と周辺道路整備が行われて、事業を完成した[24]

 
千葉科学大学

名洗港マリーナの名称は「銚子マリーナ」と定められ、千葉県による公共事業(国庫補助を受ける港湾改修・局部改良事業)、千葉県の単独事業、銚子市単独の埋立土地造成事業を基礎に、第三セクターである株式会社銚子マリーナによる係留桟橋、船揚場、ボートヤード、クラブハウス、修理庫、上下架施設、駐車場等のマリーナ固有の施設整備事業が進められた。1999年(平成11年)4月、銚子マリーナは一部供用開始となった。同年7月18日には、銚子マリーナ完成記念式典が挙行された。名洗港の環境整備のため港湾環境整備事業として、マリーナ泊地の北側に多目的広場、親水護岸、休憩所を備える名洗港海浜公園が整備された。また、屏風ヶ浦における海岸環境整備事業もマリーナ整備にあわせて進められた。名洗港海岸においては、1991年(平成3年)度から、海岸背後の名洗集落のしぶき等被害改善のための海岸防災と屏風ヶ浦の景勝を活かしてマリーナと一体となった海洋性レクリエーション拠点づくりのための海岸環境整備が進められた。1999年(平成11年)7月には「ビーチ利用促進モデル事業」によって造成された人工海浜が海水浴場として一部供用開始された。銚子マリーナの管理運営は、1999年(平成11年)度から株式会社銚子マリーナが市から業務委託を受けて当たることとなった。銚子マリーナでは、オープン以来、マリンスポーツの拠点としてビルフィッシュトーナメント、全日本クラスのディンギーヨット大会が開催されている。また、銚子マリーナの利用促進を図るため、東京有明国際展示場東京ビッグサイト)で開催される東京国際ボートショーでブースを開設してPRに努めた。特に、2001年(平成13年)10月4日から14日まで開催された国際モス級ヨット世界選手権銚子大会には、エントリー45人のうち外国人18人が参加し、レースのみでなく各種のイベント等国際交流事業が実施された[19]。マリーナ後背地は、バブル経済崩壊後におけるリゾート事業に対する厳しい環境状況を受けて、開発計画の見直しが行われた[19]。2004年(平成16年)、市はこの土地に私立の理科系大学である千葉科学大学を誘致し、「文教のまちづくり支援事業」を実施して学生への支援を行った[24]。これによって本市は大学を有する地方都市となり、セミナーシンポジウムの開催、大学施設(体育館・図書館・厚生会館)の開放、地元企業等との共同開発研究、公開講座学会の開催等、大学と住民の交流により、地域の教育・文化の発展向上が期待された[70]。また、市内においては学生の生活基盤となるアパートマンション及び商業施設等の建設が進んだ[71]

銚子市新総合計画は2000年(平成12年)を目標年次とするものであったことから、大川政武市長は、21世紀における銚子のまちづくりの指針となる新たな総合計画の策定を1999年(平成11年)末から進めた。我が国は成長から成熟の時代へと変革する時期にあって、少子・高齢化グローバル化情報化等の多くの課題を抱え、地方行政もまた地方分権の進展等様々な地域課題への対処が求められていた。その中で本市は、その特性と資源を生かして、すべての市民が生きがいと幸せを実感できるような、個性豊かで魅力ある都市づくりを目指し、市民生活の総合的環境を整えることを目標とする新たな総合計画の基本構想を「銚子ルネッサンス2025」と称し、将来像を「ひとがときめき 海がきらめき 未来輝く都市(まち)」と定めた。この新基本構想案は、2000年(平成12年)12月市議会定例会において、同月22日議決された。この新基本構想においては、少子・高齢化の本格的到来を踏まえ、目指す都市像を定住人口の大きさのみで示すのではなく、地域の振興発展に有益な「交流人口」という新しい人口指標を加えることとした。「交流人口」とは、観光や地域交流・イベント参加等の目的で本市を訪れ、様々な独自な活動や市民と共同の地域活動によって、活力や経済効果等を生む地域活性化の担い手となる人々である。あわせて、本市の地理的条件や自然環境を生かしてまちの魅力・活力を増し、交流人口を拡大させるためには、広域的な観光ルートの形成、観光・レクリエーション施設の整備促進、新しい観光資源の開発・発見・活用、観光・交流イベントの充実、観光サービス・宣伝の強化が課題であるとした、2001年(平成13年)度において15か年にわたる「銚子市新観光振興基本計画」が策定された[19]

 
君ヶ浜しおさい公園

本市では、1999年(平成11年)から3年間にわたって世紀越え事業を実施したところ、全国的にも大きな関心を呼び、45万人という多くの来遊者を迎えることとなった。この事業は、日本列島沿岸で初日の出が最も早く見られる地の利を活かし、広く情報発信して銚子をPRすること、民間企業・団体等が展開する各種イベントとの連携による市内外の幅広い交流を促進すること、銚子の自然環境・産業・文化・歴史的遺産等の財産を再評価して21世紀につなげること等を目的とするものであった。事業期間は、1999年(平成11年)から2001年(平成13年)までの3か年であった。具体的には、ミレニアムイベント、世紀越えイベントのほか、カウントダウンボードの設置、「銚子百選」の選定、「銚子の将来像」アイディア募集、「未来の銚子」こども絵画コンクール等が行われた[19][72]。特にミレニアムイベントや世紀越えイベントでは、市内団体の協力により、初日の出客に銚子の食材を使った大鍋が振舞われたほか、市民有志や市内小学校の協力により作られた数千本のペットボトルランタンで君ヶ浜に大きな文字を浮かび上がらせたり、観光客を含めた参加者2000人による懐中電灯を使った光のカウントダウンが行われたりする等、先例のない大きなイベントとなった。また、こうしたイベントだけではなく、民間企業からは「ミレニアム」「世紀越え」にちなんだ、蕎麦、酒、煎餅等の様々な商品が売り出され、テレビや雑誌等にも大きく取り上げられた。厳しい経済情勢の中で、こうした地域の民間企業の活性化につなげることも、この事業の一つの目的であった。当時本市では新たな総合計画の策定が進められていたが、その基本的な考え方は、市民と行政が一体となってまちづくりを行おうとする「協働のまちづくり」であった。この世紀越え事業は、市民が自由に参加できる市民企画委員会を設置し、様々なアイディアを出しながら進められたもので、協働のまちづくりの先駆的な事業となった。なお、この事業は、市民の計画参加、事業の連携実施、情報発信によるPR、多数の来訪者の受け入れ等、まちおこし・まちづくりの先駆的事業として、2000年(平成12年)3月に千葉県優良施策実施市町村表彰を受けた[19]

 
銚子ウィンドファーム

本市における風力発電施設の立地は、2001年(平成13年)から始まる。この年9月に、小浜町に最初の大型風車が建設された。設置した事業者は日本風力開発株式会社の地元子会社(事業会社)である屏風ヶ浦風力開発株式会社である[23]。風車径70.5メートル、中心の高さ65メートルの大型発電機であり、24時間体制で遠隔監視された[19]。定格出力は1500キロワットで、約900世帯分の消費電力を賄うことができ[19]、1000キロワット以下の風車も多かった当時にあってはかなり大型のものであった[23]。この風車は、日本風力開発にとって第1号の風車であった。海岸に突き出た半島でかつ平坦な地形という銚子の地理的特徴は風力発電に適した風況をもたらし、第1号風車は好調な発電成績を積み重ねた。この好成績により、銚子は風力発電の一大適地との認識を得て、他の事業者も含めた銚子での急速な風車立地のきっかけとなった。この後、銚子への風車立地を目指す事業者が相次いで立地に向けた交渉・調整を開始した。2003年(平成15年)10月に日本風力開発が1号機に隣接して2号機を運転開始させたほか、同時期に明電舎株式会社の子会社、株式会社エムウィンズが親田・常世田地区に2基を稼働させた。2005年(平成17年)には日本風力開発が1500キロワット9基を一括して立地・運転開始、さらに2006年(平成18年)には3つの事業者がそれぞれ1基の風車を立地させて参入、日本風力開発も更に6基を稼働させた。2007年(平成19年)に入ってからも株式会社荏原製作所グループ会社、銚子ウィンドファーム株式会社が7基を立地し、銚子は合計29基もの風車を擁する一大風力発電拠点となった。この規模は関東地方で随一のものである。これらは2006年(平成18年)に株式会社台町自然環境エネルギー研究所が台町に設置した1基を除くと、すべて西部の台地地帯に立地している[23]

 
イオンモール銚子

大型店の出店に当たっては、1974年(昭和49年)施行の「大規模小売店舗における小売業の事業活動の調整に関する法律」(大店法)に基づいて、周辺の中小小売店への影響を防ぐための規制を重視して、地域の商業活動調整協議会での地元との調整を義務づけていた。しかし、審議期間の長期化、地元商店街の既得権依存体質、加えて海外からの大型店の参入障壁等の批判や日米構造問題協議における縮小・撤廃要求を受けて、1992年(平成4年)に1000平方メートル未満の店舗出店は原則自由とされた後、「大店法」は廃法となり、2000年(平成12年)6月から「大規模小売店舗立地法」(大店立地法)が施行された。あわせて、出店規制ゾーンの設定という手法を取り入れるための「都市計画法」を含めて関係三法の改正もなされた。これにより、法制度の目的が中小小売店業の事業活動機会の適正確保から、大型店周辺の生活環境保持のための交通対策、騒音対策、廃棄物処理等への適正配慮へと変わった。以後、大規模小売店の立地については、都道府県が自治事務として法に基づく指針による審査に当たって、市町村の意見を求める手続きとなった。小売店を取り巻く環境は変化し、本市とその周辺地域においては、郊外型店舗等の機能集積が進んだ[19]2010年(平成22年)3月16日には、三崎町に「イオンモール銚子」が開店した。13万人、4万4000世帯を商圏とし、核店舗「イオン銚子店」、準核店舗「イオンシネマ銚子」、100の専門店で構成する地上2階建てのモール型ショッピングセンターである[73]。これに先立って、市は2月16日イオン株式会社と「地域振興に関する包括提携協定」を締結した[24]。また、銚子市行政サービスコーナー「しおさいプラザ」を設置し、中心市街地の新たな活性化を見据えた情報発信の場とするとともに[24]、国道126号から県道愛宕山公園線が分岐する交差点の周辺地区を広域交流拠点として位置づけ、広域的な商圏を対象とした商業施設や良質なアミューズメント施設等の集積を促進することとした[74]。中心市街地においては、2007(平成19年)3月28日、次代に拓くまちづくりを進め、賑わいのあるまちの再生を図ることを目標とした「都市再生整備計画(銚子市中心市街地地区)」が国の認可を受け、2007年(平成19年)度から2011年(平成23年)度の5か年で、河岸公園整備事業、清川町第二公園整備事業、まちなか歩き観光案内標識設置事業、市道改良事業、前宿町公園野球場改良事業等が実施された[75]

 
銚子市消防本部・消防署新庁舎

東日本大震災は我が国において戦後最大規模の自然災害となり、本市においても甚大な被害を与えた。2011年(平成23年)3月11日14時46分頃、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の地震が発生した(東北地方太平洋沖地震)。岩手県宮城県福島県・茨城県・千葉県の太平洋沿岸地域を中心に最大震度7を観測し、本市においては震度5強を観測した。気象庁はこの地震を受けて、3月11日14時49分に岩手県・宮城県・福島県に「大津波警報」を発表するとともに、本市を含む九十九里・外房地域では「津波警報」を発表した。その後、15時14分に九十九里・外房地域は「大津波警報」に切り替えられた。本市では、15時13分に第1波が到達し2.3メートルの津波を観測、17時22分には観測最大となる2.5メートルを観測した。本市では死者・行方不明者は発生しなかったが、重傷者2名、軽傷者17名が発生した。また、29世帯の家屋が全壊し、24世帯が大規模半壊、121世帯が半壊する等、大きな被害が発生した。公共施設や産業施設についても大きな被害が発生し、特に漁港や水産加工場施設、銚子マリーナ施設は、津波による浸水被害を受けた。公共施設や産業施設における被害総額は64億7152万円に及んだ。液状化による被害は、市内47箇所で確認された。ライフライン被害では、1万7000戸の停電と2万8000戸の断水が発生した。このうち三宅町と高野町においては、法面崩壊により配管が破損し、4日〜8日間と長期間にかけて断水が続いた。市では地震発生後、直ちに災害対策本部を設置し、「銚子市地域防災計画」に基づく職員配備体制により震災の応急対策活動を開始した。同時に、災害対策本部は市内全域に避難勧告を発令し、防災行政無線による放送を行った。市内26箇所に避難所が開設され、3月11日からの4日間で1万1001人の住民が避難所へ避難した。消防団や警察関係者も地域や避難所を巡回して広報活動や避難者誘導に当たった。震災2か月後の2011年(平成23年)5月31日、市は道路や公共施設の復旧事業を基礎に、被災者の生活再建支援、産業・経済の再生、安全・安心な暮らしの確保を政策の柱とする「平成23年度銚子市災害復旧・復興計画」を策定した[76]。主な施策は、一部損壊住宅の修繕に対する補助制度の創設、産業振興条例の検討、バイ銚子運動の展開、地域防災計画の見直し、防災行政無線・非常時の通信機器の整備、新消防庁舎の検討等であった。さらに、観光キャラバン「銚子の元気つたえ隊」による風評被害払拭活動のほか、銚子漁港第1卸売市場を高度衛生管理型施設に転換整備する事業が開始された。第1卸売市場は2015年(平成27年)4月6日に運用を開始した。公的施設のうち最も損傷の激しかった銚子マリーナも災害復旧工事が完了し、2013年(平成25年)4月1日に本格営業が再開された。2017年(平成29年)1月24日には唐子町の新消防庁舎が業務開始し、本市における新たな防災拠点施設となった[24]

 
犬吠埼灯台(重要文化財)

2011年(平成23年)2月14日、犬吠埼や屏風ヶ浦をはじめとした銚子の地質遺産を体験できる環境整備と、日本ジオパーク正会員への登録を目的とした地元住民の会「銚子ジオパーク推進市民の会」が発足し、教育活動や環境整備・保全活動が開始された。これを受けて、同年10月20日には、産学官一体となってジオパークの推進を図るため、市内24団体で構成する銚子ジオパーク推進協議会が発足した。2012年(平成24年)9月24日、「銚子ジオパーク」は日本ジオパークに認定され、11月2日から高知県室戸市で開催された日本ジオパーク全国大会において、正式な認定証が授与された。市は庁内にジオパーク推進室を設置し、銚子ジオパークビジターセンターやジオサイト周辺の観光施設において情報発信を行う等、ジオパークの知名度向上とジオツーリズムの普及を図った。また、台湾野柳ジオパークとの交流も進められた。次いで、2016年(平成28年)4月25日佐倉・成田・佐原・銚子を舞台としたストーリー「北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み」が文化庁から日本遺産に認定された。このうち銚子は港町と位置づけられ、外川の町並み、川口神社や大漁節、そして水産業や醤油醸造業等がストーリーを語る構成文化財として指定された。千葉県と4市は、共同で広域的な事業を展開するため「千葉県北総四都市江戸紀行活用協議会」を組織し、情報共有や共同事業の実施を行った。本市においては、2017年(平成29年)3月に「銚子市歴史文化基本構想」を策定し、同年9月には独自に「銚子市日本遺産活用実行委員会」を設立して、観光拠点づくり事業と地域文化遺産活性化事業を推進した。2018年(平成30年)5月には「銚子市歴史文化基本構想」に掲げた官民共同で文化財の保護と活用を図ることを目指して、市及び市民・文化財保護団体等で構成される「銚子資産活用協議会」が設立された。協議会では、登録文化財である旧西廣家住宅の一般公開のほか、情報発信事業として、ウェブサイト「銚子時間」の運営等を行っている。2020年令和2年)3月には、本市が目指す将来ビジョンや具体的な事業の実施計画を定めた「銚子市文化財保存活用地域計画」が県内で初めて文化庁の認定を受けた。2022年(令和4年)度からは、歴史文化や自然を活用した「学び」の拠点として「銚子市ジオパーク・芸術センター」が設置されるとともに、新たに「銚子資産を活かした『学び』創出事業」が推進されることとなった[24]

 
洋上ウインドファーム

欧州においては、1990年代から洋上風力発電の導入が進み、特に英国やデンマーク等の北海周辺諸国での導入が進められてきた。銚子沖は、年平均風速7.0メートル毎秒以上と風況に恵まれているほか、水深20〜30メートルの遠浅の海が続き、着床式洋上風力発電の導入に適した自然環境となっている[77]。2013年(平成25年)3月、銚子沖合において、東京電力独立行政法人新エネルギー・産業技術総合開発機構 (NEDO) との共同研究事業として、日本初の洋上風力発電施設による実証研究が開始された。この実証研究の目的は、日本近海の厳しい気象条件等に適した安全で信頼性のある高い風車の確立、基礎の設計・施工方法の確立、運転保守方法の確立、洋上風力発電設備が環境に与える影響の調査等であった。発電設備については、2016年(平成28年)度末に実証実験が終了した後、銚子市漁業協同組合との協議を経て運転を継続することとなり、2019年(平成31年)1月1日から東京電力リニューアブルパワー株式会社による商業運転が行われている[24]。市は庁内に洋上風力推進室を設置するとともに、2019年(平成31年)3月に策定した「銚子市総合計画基本構想」における重点プロジェクトとして「自然(再生可能)エネルギーの活用促進」を掲げた。2019年(平成31年)4月、一般海域での洋上風力発電事業の実施にあたって、海域の長期占用等を可能とする「海洋再生可能エネルギー発電設備の整備に係る海域の利用の促進に関する法律」(再エネ海域利用法)が施行された。同法は、漁業者等海域の先行利用者との調整を図った上で、洋上風力発電事業を推進するための促進区域を国が指定し、公募によって選定した発電事業者に対して最大30年間の海域の占用を認めるものである。同法に基づいて、2020年(令和2年)7月21日に銚子の南沖合の海域(3948.7ヘクタール)が促進区域に指定された。促進区域の指定は、長崎県五島市沖に次いで全国で2番目であった。同年9月16日、市と銚子市漁業協同組合、銚子商工会議所は、洋上風力発電設備の定期点検・部品交換・修繕等を担う「銚子協同事業オフショアウインドサービス株式会社」(C-COWS)を共同設立し、洋上風力発電による地域経済の活性化や雇用創出等の経済波及効果を長期間にわたって地域に還元するための体制構築を進めた[77]

 
クリーンモビリティ

2021年(令和3年)12月には、促進区域における洋上風力発電事業者として、三菱商事エナジーソリューションズ株式会社、三菱商事株式会社及び株式会社シーテックを構成員とするコンソーシアム「千葉銚子オフショアウィンド」が選定され、翌年11月1日に三菱商事株式会社銚子支店が開設された。漁場実態調査等を経て、2025年(令和7年)1月から送電線埋設・昇圧変電所建設等の陸上送変電設備工事が、2027年(令和9年)から洋上工事が開始され、2028年(令和10年)9月に13メガワットの大型風車31基が運転開始する計画であり、総発電出力は403メガワットが見込まれている[24]2023年(令和5年)6月13日、市と三菱商事株式会社は、地域創生に関する連携協定を締結した[77]。促進区域に隣接する名洗港について、港湾管理者である千葉県は、今後の千葉県沖の洋上風力発電の導入拡大を見据え、2022年(令和4年)3月に港湾計画の改訂を行った。2023年(令和5年)度から2027年(令和9年)度までの5年間で防波堤や航路の整備、岸壁の補修等を進め、港湾機能の強化を図るもので、洋上風力発電事業の建設補助・維持管理の拠点港湾としての活用に加え、風車景観とジオパークを調和したエコツーリズム拠点の形成等が示されている。市では、洋上風力発電事業を交流人口の拡大につなげ、名洗から外川に至る南海岸地域の魅力を高めるため、銚子マリーナ、海水浴場、屏風ヶ浦、外川の町並み等の地域資源に洋上風力発電を加えたエリアビジョンの策定を進めている[24]。このような中、市は2021年(令和3年)2月16日2050年(令和32年)までに温室効果ガスの排出量を実質ゼロとする「ゼロカーボンシティ」を表明し、2023年(令和5年)3月には、取組の方針や地域の特性を活かした実効性の高い再生可能エネルギーの導入目標、カーボンニュートラルの構築につながる取組を盛り込んだ「銚子市ゼロカーボンビジョン」を策定した。市はこの計画に基づき、地域新電力「銚子電力株式会社」と連携した再生可能エネルギーの地産地消システム(マイクログリッド)の構築、ICTを活用した漁場の可視化や藻場の育成による海洋環境の保全、AI(人工知能)やロボットを活用したスマート農業の推進、災害時の移動電源としても活用されるEVPHEVFCVの市内導入、都市緑化やブルーカーボン生態系による二酸化炭素吸収源対策等を進め、豊かな自然環境と共生したエネルギー産業の先端都市の実現を目指している[49]

沿革 編集

 
銚子大橋と銚子市街地
海上郡銚子町 C 銚子市
海上郡本銚子町
海上郡伊豆原村 B 海上郡西銚子町
海上郡豊浦村
海上郡高神村 D
海上郡海上村
海上郡船木村 E
海上郡椎芝村 A 海上郡椎柴村
香取郡豊里村 F
海上郡豊岡村 G
A 1891年(明治24年)1月26日
B 1891年(明治24年)8月14日
C 1933年(昭和8年)2月11日
D 1937年(昭和12年)2月11日
E 1954年(昭和29年)4月1日
F 1955年(昭和30年)2月11日
G 1956年(昭和31年)4月10日

市制施行前 編集

  • 1868年(明治元年)
    • 5月 - 美加保丸難破し、死者13名を出す。
    • 10月 - 銚子事変おこる。
    • 維新政府により銚子の天領宮谷県管下に入る。
  • 1871年(明治4年)
  • 1872年(明治5年)
    • 5月 - 野尻郵便局を開設。
    • 7月 - 銚子荒野郵便局を開設し、樋口清七初代局長になる。
    • 7月 - 第16大区警察署出張所を荒野村宝満寺に置く(銚子警察署の始め)。
  • 1873年(明治6年)
    • 5月 - 小学校第1校創立。
    • 7月3日 - 第1大区第30番中学区官立小学校第4校円福寺を仮校舎として開校(明神・清水・飯沼校)
  • 1874年(明治7年)
  • 1875年(明治8年)5月7日 - 新治県を廃し、香取・匝瑳・海上の3郡を千葉県管轄に付す。
  • 1876年(明治9年)
    • 3月 - 垣根小学校、阿弥陀院を仮校舎として創立(海上小学校)。
    • 8月 - 松本校、光厳寺を仮校として創立(本城小学校)。
    • 12月 - 辺田校(春日小学校)創立。
    • 12月16日 - 高神小学校、賢徳寺を仮校舎として創立。
    • 12月 - 銚子北条間の道路県道となる。
  • 1877年(明治10年)2月 - 警察出張所荒野屯所を八日市場警察署銚子分署と改称。
  • 1878年(明治11年)7月 - 海上郡役所を荒野村明神町信太清左衛門方に設ける。
  • 1879年(明治12年)4月 - 銚子中山間の道路県道となる。
  • 1881年(明治14年)2月 - 銚子汽船株式会社創立。
  • 1882年(明治15年)3月 - 銚子汽船東京、銚子間の定期運行を開始。
  • 1885年(明治18年)
    • 2月 - 暁雞館創立。
    • 9月 - 銚子電信分室設置。
  • 1886年(明治19年)2月 - 私立銚子測候所荒野村の銚子汽船株式会社内に開設。
  • 1887年(明治20年)
  • 1888年(明治21年)
    • 11月 - 匝瑳郡八日市場区裁判所荒野出張所を銚子荒野村に置く。
    • 私立銚子測候所県立移管。
    • 漁業組合設立。
    • 本銚子町漁業組合組織される。
  • 1889年(明治22年)
    • 4月 - 荒野村を銚子町と改称。
    • 8月 - 長塚・本城・松本の3村を併合して1村となし伊豆原村と称す。
    • 9月21日 - 銚子郵便局開設。
    • 本銚子町石橋重兵衛澱粉業を営む。海上郡澱粉製造業の始め。
  • 1890年(明治23年)7月1日 - 第1回衆議院議員選挙に、銚子町より岩崎重次郎当選。
  • 1891年(明治24年)8月 - 伊豆原村を西銚子町と改称。
  • 1893年(明治26年)7月 - 川崎銀行銚子支店開業。
  • 1896年(明治29年)
    • 8月 - ヤマサ消防組創立(254人)。
    • 11月 - 銚子税務署を今宮に置き、海上匝瑳両郡の税務を取扱う。
    • 海上郡農会設立。
  • 1897年(明治30年)6月1日 - 総武鉄道銚子佐倉間)開通。
  • 1898年(明治31年)
    • 1月 - 銚子水難救済所設置。
    • 田中・濱口・岩崎の3家共同して薬学博士田原良純に設計を請い醤油研究所を銚子町に新設。
  • 1899年(明治32年)
    • 4月 - 株式会社銚子銀行設立。
    • 12月 - 川崎貯蓄銀行銚子支店開業。
  • 1900年(明治33年)
    • 3月28日 - 銚子・新生間貨物線開通。
    • 4月1日 - 銚子中学校、今宮小学校を仮校舎として開校。
  • 1901年(明治34年)
    • 4月19日 - 郡立銚子工業補習学校を銚子町に設置。
    • 籐表製造始まる(月産千足)。
  • 1902年(明治35年)
  • 1903年(明治36年)5月 - 紀州人移住碑妙福寺境内に建立。
  • 1907年(明治40年)
    • 1月 - 豊国銀行銚子支店、銚子町に開業。10月本銚子町に出張所開業。
    • 飯沼町宮内某機械で網糸製造を始める。
  • 1908年(明治41年)5月 - 銚子無線電信局開設。
  • 1909年(明治42年)3月15日 - 県立銚子商業学校開校。
  • 1910年(明治43年)
    • 2月 - 銚子電燈会社設立。
    • 7月1日 - 私立銚子幼稚園開園。
    • 夏 - 竹久夢二海鹿島に滞在、長谷川カタと出逢う。翌年『宵待草』の詩を作る。
  • 1911年(明治44年)
    • 2月 - 恩寵財団済生会設けられ、済生会病院設立。
    • 3月25日 - 郡立銚子技芸学校を廃止し、新たに郡立銚子実科高等女学校を設置。
    • 4月 - 銚子町消防組創立(220人)。
    • 5月 - 大正天皇東宮の時、銚子利根川河口に行啓。
    • 8月 - 県米殻検査所銚子支所設置。
  • 1912年(大正元年)夏 - 詩人高村光太郎犬吠に滞在し、長沼智恵子と出逢う。
  • 1913年(大正2年)
    • 7月 - 銚子瓦斯株式会社設立。
    • 8月 - 千葉県米殻検査所銚子支所を銚子町に設ける。
    • 12月28日 - 銚子遊覧鉄道開通。
  • 1914年(大正3年) 9月 - 銚子醤油合資会社創設。
  • 1915年(大正4年)
    • 8月 - 帝国実業貯蓄銀行支店開業。
    • 11月 - 勧業貯蓄銀行代理店開業。
  • 1916年(大正5年) 11月 - 近衛師団秋季演習あり、皇太子(昭和天皇)巡覧のため来銚。
  • 1917年(大正6年)8月2日 - 詩人三富朽葉今井白楊、君ヶ浜で遊泳中溺死。
  • 1918年(大正7年) 1月22日 - 文学博士吉田東伍、銚子吉野屋旅館にて急逝。
  • 1922年(大正11年)11月18日 - 銚子漁港修築案を千葉県会可決する。
  • 1923年(大正12年)
  • 1924年(大正13年)
    • 1月 - 千葉県水産株式会社、魚市場業務を統一、買収営業を開始。
    • 8月 - 財団法人公正会設立、図書館併設。
  • 1925年(大正14年)
  • 1926年(大正15年)
    • 3月 - ヤマサ醸造所夜学校、公正会館内に移転し、公正学院を改称。
    • 10月 - 大利根飛行場創設(私立)、銚子佐原間定期旅客運送開始。
  • 1927年(昭和2年)
    • 中秋 - 銚子鉄道株式会社、犬吠の暁雞館で観月会を催す。
    • 銚子合同運送株式会社設立。
  • 1930年(昭和5年)
    • 4月3日 - 私立銚子幼稚園、東岸寺に開園。
    • 9月6日 - 高神村騒擾事件起こる。
    • イワシ豊漁期に入り始める。
  • 1931年(昭和6年)6月21日 - 銚子鉄道君ヶ浜駅業務開始。
  • 1932年(昭和7年)
    • 8月30日 - 市制施行のため、初の3町3村長会議開催。
    • 9月8日 - 第1回大銚子市建設代表委員会開催、以後第4回まで開催。
    • 銚子漁港魚市場完成。

市制施行後 編集

 
銚子市旗
  • 1933年(昭和8年)
    • 2月11日 - 市制施行(銚子町、本銚子町、西銚子町及び豊浦村の全域)。県地方課長川村芳次銚子市長職務管掌となる。
    • 3月11日 - 成田線(佐松線)全通。
    • 3月 - 好古家吉田文俊粟島台貝塚発見、石斧、石皿、独鈷石、土器等発掘。
    • 魚市場営業開始。
    • 3月14日 - 初の銚子市会開会。市会議長に大里庄次郎、副議長に今津徳兵衛。
    • 5月14日 - 初代銚子市長に川村芳次市長就任。
    • 5月25日 - 千葉県銚子土木事務所設置される。
    • 5月27日 - 銚子観光協会設立。
    • 6月3日 - 市制祝賀式挙行。
    • 9月16日 - 銚子市職業紹介所新設。
  • 1934年(昭和9年)
    • 9月1日 - 一ノ島灯台点灯。
    • 10月1日 - 銚子漁港新魚市場業務開始。
    • 11月 - 塵芥焼却場設置。
  • 1935年(昭和10年)
    • 8月 - 西小川町に市営火葬場(聖照殿)竣工。
    • 8月25日 - 銚子漁港河堤(第2漁船渠)施行認可。祝賀灯光行列市主催により行われる。
  • 1936年(昭和11年)
    • 1月27日 - 銚子市歌制定。
    • 4月1日 - 銚子市立銚子高等小学校設置。各尋常高等小学校は高等科を廃し尋常小学校となる。
    • 11月 - 銚子で初めての常備消防設置。
    • 12月1日 - 下志津陸軍飛行学校銚子分教場飛行場開校。
    • 12月1日 - 銚子商工会議所設立。事務所を銚子市役所内に置く。
    • 12月28日 - 初めて風致地区定められる。
    • 銚子駅舎新築。
    • イワシ豊漁、3000万貫突破。戦前の最高記録。
    • 県道銚子停車場線の改良工事竣工。
  • 1937年(昭和12年)
    • 2月11日 - 高神村海上村を合併。
    • 4月5日 - 銚子市立銚子中学校開校。
    • 8月16日 - 春日町に憲兵分遣隊置かれる。
    • 8月 - 銚子市民間防空監視隊設置。
    • 12月24日 - 創設水道工事起工式。
  • 1938年(昭和13年)
    • 前宿町に銚子市立病院(伝染病院)新設。
    • 犬吠地区県立公園に指定。
  • 1939年(昭和14年)
  • 1940年(昭和15年)
  • 1941年(昭和16年)
    • 1月24日 - 愛宕山に展望台落成。
    • 4月1日 - 「国民学校令」により、各尋常小学校を国民学校と改称。
    • 6月3日 - 宝醤油工業株式会社設立。
    • 12月9日 - 対米英開戦に伴い、川村市長全市に諭告を発す。
    • 内浜魚市場(イワシ市場)開設。
    • 妙見町に市営住宅2棟建設。
  • 1942年(昭和17年)
    • 4月 - 陸軍愛宕山に電波警戒機を配置(筑波隊)。
    • 4月 - 海軍、愛宕山にレーダー基地を設置(横須賀鎮守府犬吠電波短信所)。
    • 5月 - 企業合同により、有限会社銚子造船所設立。
  • 1943年(昭和18年)
    • 3月10日 - 千葉県立銚子水産学校、公正会館を仮校舎として設置(4月15日開校式)。
    • 4月1日 - 市内小学校の分離独立を実施。
  • 1944年(昭和19年)
    • 3月 - 前宿町総合運動場整地事業完了、陸上競技場、軟式野球場、野外相撲場完成。
    • 4月 - 香取海軍航空隊所属部隊、豊里地区に震洋特攻基地の建設作業を開始。
    • 9月 - 東京都へ鮮魚出荷のため、新生駅と魚市場間に鉄道線路敷設(臨港線と称す)。
    • 10月1日 - 千葉県銚子保健所開庁。
  • 1945年(昭和20年)
    • 2月16日 - 米軍艦載機、本市を初めて空襲。
    • 3月9日 - 3月10日 - 米軍機B29、本市中央部を空襲(3月大空襲)。
    • 3月 - 香取海軍航空隊所属部隊、幸町、外川町方面に震洋特攻基地建設工事を開始。
    • 5月14日 - 大里庄次郎市長就任。
    • 7月7日 - 本土決戦部隊として護沢03部隊(歩兵第437連隊八日市場町から銚子に進出。
    • 7月19日 - 7月20日 - B29、再度本市を大空襲。市街地の大半が被災(7月大空襲)。
    • 8月1日 - B29夜間東部地区を空襲。
    • 8月5日 - B29による夜間空襲。
    • 8月 - 護沢03部隊(第152師団司令部)佐原町から椎柴村猿田に進駐。
    • 8月15日 - 太平洋戦争終結。
    • 10月11日 - 米軍進駐部隊、銚子に駐屯。宿舎をヤマサ醤油本社屋に置く。
    • 10月 - 米軍監督のもと、旧日本軍の砲弾、爆弾の海洋投棄始まる。
    • 12月27日 - 妙福寺で戦災死者の合同慰霊祭を行う。
  • 1946年(昭和21年)
    • 1月 - 千葉県銚子復興事務所設置される。
    • 4月20日 - 銚子文化会結成。
    • 5月14日 - 銚子市長に加瀬道之助就任。
    • 6月6日 - 昭和天皇、銚子に行幸。
    • 10月 - 銚子市立病院完成。
  • 1947年(昭和22年)
    • 3月1日 - 常陽銀行銚子支店開設。
    • 4月1日 - 「学校教育法」の施行により各国民学校を小学校と改称。
    • 4月1日 - 「学校教育法」の施行により、新制中学校5校を設置(銚子市立第一中学校〜銚子市立第五中学校)。
    • 4月8日 - 「職業安定法」に基づき、銚子勤労署を廃し、銚子公共職業安定所を置く。
    • 4月8日 - 千葉県銚子労政事務所設置される。
    • 5月3日 - 千葉司法事務局銚子支局設置される。
    • 5月3日 - 銚子区検察庁開庁。
    • 5月27日 - 銚子簡易裁判所開庁。
    • 9月1日 - 労働基準監督署開庁。
    • 皇太子(明仁上皇)犬吠瑞鶴荘に宿泊。
    • 12月3日 - 銚子市警察署開庁式。
  • 1948年(昭和23年)
    • 1月5日 - 銚子駅舎新築。
    • 3月1日 - 財団法人公正会解散。図書館を市立公正図書館、その他を市立公正館とする。
    • 4月1日 - 新学制により、中女学校高等学校となる。
    • 6月13日 - 銚子文化協会生まれる。
    • 9月16日 - アイオン台風、最大風速南南東の風48.0メートル以上、死傷者23人、住家全壊147戸。
    • 9月29日 - 外川漁港改修工事着手。
    • 11月11日 - 銚子市文化祭始まる。
    • 12月 - 利根川河口導流堤工事着工。
  • 1949年(昭和24年)
    • 1月1日 - 銚子市消防本部及び消防署設置。
    • 1月15日 - 銚子市公報創刊。
    • 4月1日 - 市庁舎再建。
    • 9月22日 - 市立公正館を社会教育法に基づく公民館とし、銚子市公正市民館と改称。
  • 1950年(昭和25年)
    • 1月5日 - 銚子市立病院(伝染病患者収容施設)内に実費診療所を併設。
    • 1月15日 - 第1回成人式を開催。
    • 3月31日 - 県下中学校対抗銚子半島一周駅伝大会始まる。
    • 3月31日 - 外川漁港の改修工事竣工。
    • 4月1日 - 銚子市立第一保育所設置。
    • 4月1日 - 学校教育法に基づく幼稚園銚子市立興野幼稚園を設置。
    • 6月1日 - 銚子市公益質屋開設。
    • 6月17日 - 銚子市営球場開場式。
    • 7月28日 - 復興祭開催。
    • 8月 - 銚子市営プール竣工。
    • 12月23日 - 銚子市勤労会館開館。
  • 1951年(昭和26年)
    • 4月1日 - 銚子市立診療所設置。
    • 4月23日 - 銚子市長に島田隆就任。
    • 5月24日 - 銚子市母子寮設置。
    • 5月24日 - 銚子市養老院設置。
  • 1952年(昭和27年)
    • 6月27日 - 名洗避難港工事起工式。
    • 4月12日 - 県立公園七ツ池で桜まつりを開催。
    • 7月19日 - 君ヶ浜キャンプ場開設。
  • 1953年(昭和28年)
  • 1954年(昭和29年)
  • 1955年(昭和30年)
    • 2月11日 - 豊里村旭市大字イ椎柴野を編入。
    • 3月 - 県道銚子公園線の一部犬吠埼・長崎間が完成、海岸一周が可能となる。
    • 4月 - 磯めぐり定期観光バスの運行開始
    • 7月 - 愛宕山に観光道路市道愛宕山天王台線開通。
  • 1956年(昭和31年)
  • 1957年(昭和32年)
    • 4月1日 - 銚子市大字塙及び八木の一部区域を海上郡飯岡町に編入。
    • 9月 - 銚子測候所、銚子地方気象台に昇格。
  • 1958年(昭和33年)
    • 6月29日 - 日比友愛の碑除幕式。
    • 7月27日 - 酉明浦の長崎海岸に新海水浴場造成し竣工する。
  • 1959年(昭和34年)
    • 3月3日 - 銚子地域、水郷国定公園に指定。
    • 4月1日 - 精神薄弱児通園施設銚子市立わかば学園開設。
  • 1960年(昭和35年)
  • 1961年(昭和36年)
  • 1962年(昭和37年)
    • 1月9日 - 交通安全都市宣言。
    • 3月13日 - 銚子市民歌を作成、作曲者山田耕作による指導会を開催。
    • 3月 - 笠上団地宅地造成竣工。
    • 8月 - 銚子漁港東魚市場新設。
    • 12月11日 - 銚子大橋開通式。
  • 1963年(昭和38年)
    • 2月25日 - 精神衛生都市宣言。
    • 3月 - 国の第3次漁港整備計画成立、銚子漁港の抜本的整備決まる。
    • 4月 - 近代的な屎尿処理施設として銚子市衛生処理場を設置し、業務開始。
    • 7月25日 - 銚子市営国民宿舎犬吠ホテル開館。
    • 8月3日 - 銚子漁港修築工事(第3次漁港整備計画)起工式。
    • 本格的なスーパーマーケット「ミヤスズ」銚子銀座に開店。
  • 1964年(昭和39年)
    • 3月31日 - 水道第2次拡張事業工事完成。
    • 4月1日 - 千葉県銚子漁港事務所設置される。
    • 4月10日 - 集団操業指導船いぬぼう就航。
    • 6月1日 - 犬吠埼に京成ホテル開館。
  • 1965年(昭和40年)
    • 8月13日 - 銚子市体育館開館。
    • 8月22日 - 県立銚子商業高等学校野球部、夏の甲子園大会で準優勝。
    • 11月18日 - 銚子市臨海土地造成事業起工式。
    • 12月 - 銚子漁港魚市場の中央魚市場改築工事完成。
  • 1966年(昭和41年)
  • 1967年(昭和42年)7月1日 - 銚子市特別養護老人ホーム開設。
  • 1968年(昭和43年)6月26日 - 銚子市学校給食共同調理場、四日市場町に開設。
  • 1969年(昭和44年)
    • 1月10日 - 利根川の埋立工事竣工。
    • 3月1日 - 水郷国定公園に筑波山系が加わり公園名は水郷筑波国定公園と変わる。
    • 3月 - 飯沼都市改造区画整理事業の工事終了。
    • 5月 - 外川漁港修築工事起工式。
    • 7月22日 - 水道第3次拡張事業竣工式。
    • 10月1日 - 銚子市塵芥焼却場を新設完成する。
    • 11月 - 千葉県銚子児童相談所業務を開始。
  • 1970年(昭和45年)
    • 1月 - 小浜町に工業団地造成。
    • 4月1日 - 銚子市民憲章制定。
    • 6月 - 銚子市臨海工業用地造成事業完了。
    • 8月 - 夏の観光行事「みなとまつり」始まる。
    • 9月22日 - 公害追放都市宣言。
  • 1971年(昭和46年)
    • 4月1日 - 精神薄弱児授産施設、銚子市三崎園開設。
    • 9月28日 - 銚子市青少年文化会館開館。
    • 11月6日 - 利根川河口の新航路開通。以後河口における漁船の遭難絶える。
  • 1972年(昭和47年)
    • 8月15日 - 千葉県救護盲老人施設施設猿田荘開設。
    • 11月 - 下水道工事開始。
    • 本市初の百貨店として、クリハシ百貨店開店。
  • 1973年(昭和48年)
    • 3月 - 円福寺観音堂再建。
    • 3月 - 東総広域水道企業団設置。
    • 4月 - 尾永井団地宅地造成(第1次)竣工。
    • 7月 - 銚子有料道路愛宕山公園線完成。
    • 9月5日 - 南小川町に新設の学校給食共同料理場と四日市場町の調理場とを合わせ学校給食センターとし、全市の完全給食が実現する。
    • 10月15日 - 第28回国民体育大会千葉県で開催。本市では高等学校硬式野球及び卓球競技が行われる。
    • 10月15日 - 昭和天皇・香淳皇后行幸啓。
  • 1974年(昭和49年)
    • 5月23日 - 銚子大橋無料化。
    • 7月 - 水道第4次拡張事業工事竣工。
    • 8月19日 - 銚子商業高等学校野球部、夏の甲子園大会で全国優勝。
    • 10月27日 - 総武本線、成田線全線電化。
    • 12月 - 民営の豊里団地造成事業工事開始。
    • 諸持町にカントリークラブ開設される。
  • 1975年(昭和50年)
    • 1月16日 - 銚子市老人憩の家君が浜荘開設。
    • 1月 - 尾永井団地宅地造成(第2次)竣工。
    • 3月10日 - 東京・銚子間に特急列車しおさい」運転開始。
    • 4月1日 - 県道銚子佐原線が国道356号に昇格。
    • 5月1日 - 銚子市民交響楽団結成。
    • 5月6日 - 銚子市新庁舎開庁。
    • 8月 - 銚子みなとまつりに「やっぺおどり」登場。
  • 1976年(昭和51年)
    • 4月1日 - 銚子市立銚子西高等学校、旧猿田小学校を仮校舎として開校。
    • 10月22日 - 株式会社銚子十字屋、末広町に新店舗開店。
    • 12月25日 - 青色申告都市宣言。
  • 1977年(昭和52年)
    • 3月 - 銚子漁港魚市場第3卸売市場No.1完成。
    • 8月30日 - 大谷津団地宅地造成竣工。
  • 1978年(昭和53年)
  • 1979年(昭和54年)
    • 4月1日 - 銚子市小児言語指導センター設置。
    • 6月11日 - 市勢振興調査開始。
    • 8月8日 - 銚子市立銚子高等学校野球部、夏の甲子園大会初出場。
    • 10月6日 - 株式会社銚子ショッピングセンター(シティオ)開店。
  • 1980年(昭和55年)
    • 6月1日 - 銚子老人ホームを長崎町に移転し、銚子市養護老人ホーム長崎園と改称。
    • 6月1日 - 銚子市特別養護老人ホームを銚子市特別養護老人ホーム外川園と改称。
    • 11月16日 - 第1回農水産業まつり開催。
    • 12月3日 - 銚子商工会議所、商工会館落成式。
  • 1981年(昭和56年)
    • 8月8日 - 銚子市立銚子西高等学校野球部、夏の甲子園大会に初出場。
    • 11月12日 - 第1回東総地区広域市長村圏内市町長・議長合同協議会(東総サミット)開催。
  • 1982年(昭和57年)
    • 3月3日 - 東総用水県営事業着工。
    • 2月17日 - 銚子市勤労コミュニティセンター開設。
    • 6月30日 - 銚子駅跨線人道橋完成。
  • 1983年(昭和58年)
    • 2月10日 - 「市制施行50周年記念式典」挙行。
    • 2月10日 - 米国クースベイ市と姉妹都市協定締結。
    • 2月11日 - 市の木に「さざんか」、市の花に「おおまつよいぐさ」を指定。
    • 5月1日 - 銚子市公正図書館新築開館。
  • 1984年(昭和59年)
    • 3月30日 - 銚子市公共下水道供用開始。
    • 3月31日 - 銚子市立総合病院建設1期工事竣工。
    • 4月1日 - 銚子市豊里地区コミュニティセンター開設。
    • 4月17日 - 市立病院新病棟診療開始(7月1日、市立総合病院と改称)。
    • 9月14日 - 非核・平和都市宣言。
  • 1985年(昭和60年)
  • 1986年(昭和61年)
    • 2月27日 - 「銚子市新総合計画基本計画」策定。
    • 4月1日 - 銚子市海上地区コミュニティセンター開設。
    • 8月1日 - 中央みどり公園開園。
    • 8月20日 - 銚子市長に佐藤幹彦就任。
    • 10月1日 - 銚子市清掃センター(西小川町)供用開始。
  • 1987年(昭和62年)
    • 3月 - 銚子漁港魚市場第3卸売市場No.2完成。
    • 4月1日 - 銚子市東部地区コミュニティセンター開設。
    • 8月29日 - 「名洗港マリンリゾート構想」県・市・地区漁協協議会が覚書調印。
    • 10月20日 - 名洗港マリンタウンプロジェクト調査委託。
  • 1988年(昭和63年)
    • 1月1日 - 愛宕山地球の丸く見える丘展望館開館。
    • 4月1日 - 銚子市高神地区コミュニティセンター開設。
    • 6月7日 - 山武・東総地域広域幹線道路整備促進期成同盟会発足。
    • 10月1日 - 銚子市最終処分場供用開始。
  • 1989年(平成元年)
    • 3月 - 桜井堰整備工事竣工。
    • 4月1日 - 君ヶ浜しおさい公園休憩所開設。
    • 4月1日 - 銚子市スポーツコミュニティセンター開設。
    • 4月18日 - 総合保養地域整備法に基づく重点整備地区の指定。
    • 5月22日 - 第1回利根川下流域首長会議(利根川サミット)開催。
    • 7月20日 - 犬吠埼灯台ライトアップ開始。
    • 10月11日 - 銚子・波崎間利根川新橋建設促進期成同盟会設立。
  • 1990年(平成2年)
    • 3月5日 - 「銚子市新総合計画第2次基本計画」策定。
    • 8月7日 - 名洗港港湾計画を県地方港湾審議会が承認。
    • 12月1日 - 銚子市斎場供用開始。
    • 11月15日 - 市立総合病院精神神経科新病棟完成。
  • 1991年(平成3年)
    • 2月1日 - 西部支所新庁舎で業務開始。
    • 2月8日 - 名洗港マリーナ建設に着手。
    • 2月14日 - 名洗港が海洋性レクリエーション拠点港湾として国から指定。
    • 6月12日 - 銚子・東京間高速バス運行開始(千葉交通・京成電鉄)。
    • 6月24日 - 水産ポートセンター開設。
  • 1992年(平成4年)
    • 3月25日 - 第三セクター株式会社銚子マリーナ発足。
    • 3月31日 - 銚子銀座通りココロード完成。
    • 3月31日 - 東部不動ケ丘公園一部供用開始。
    • 4月1日 - 君ヶ浜しおさい公園オープン。
    • 4月1日 - 銚子市衛生センター(三崎町)供用開始。
    • 5月15日 - 名洗港公有水面埋立工事着手。
  • 1993年(平成5年)
    • 3月20日 - 公共下水道唐子ポンプ場完成。
    • 3月23日 - 老人憩の家・地域福祉センター(こも浦荘)開設。
    • 11月7日 - 第1回銚子市産業まつり。
  • 1994年(平成6年)
    • 3月21日 - 地球の丸く見える丘ふれあい広場完成。
    • 3月31日 - 銚子駅前通りシンボルロード整備事業完了。
    • 8月20日 - 銚子市長に大川政武就任。
    • 11月30日 - 福祉作業所のぞみ(春日町)開所。
    • 12月16日 - 銚子連絡道路が「計画路線」に指定。
  • 1995年(平成7年)
    • 2月7日 - 「銚子市新総合計画第3次基本計画」策定。
    • 2月7日 - 銚子新大橋有料道路(仮称)起工式挙行。
    • 4月5日 - 県立銚子商業高等学校野球部が春の甲子園大会で準優勝。
    • 6月29日 - 産業廃棄物最終処分場設置反対・不法投棄しないさせない都市宣言。
    • 7月1日 - イルカウォッチング開始。
    • 8月18日 - グリーンホーム銚子(予冷貯蔵施設)完成。
  • 1996年(平成8年)
    • 4月22日 - 芦崎高齢者いこいセンター開設。
    • 10月23日 - 銚子駅前に自転車等駐車場新設。
  • 1997年(平成9年)
    • 2月7日 - 銚子市共同作業所しおさい(春日町)開所。
    • 3月25日 - 本通りマイロード整備事業完成。
    • 3月31日 - アグリタウン銚子(営農センター)完成。
    • 4月8日 - 犬吠埼民間ホテルが温泉掘削に成功。
    • 4月9日 - 銚子駅前アーケード竣工式挙行。
    • 10月1日 - インターネットに銚子市ホームページ開設。
    • 11月1日 - 新国立劇場舞台美術センターが豊里台に完成。
  • 1998年(平成10年)10月19日 - 銚子郵便局新局舎完成。
  • 1999年(平成11年)
    • 4月1日 - 地方港湾名洗港銚子マリーナ開業供用開始。
    • 7月17日 - 「銚子マリーナ完成記念式典」挙行。
    • 7月20日 - 銚子マリーナ海水浴場オープン。
  • 2000年(平成12年)
  • 2001年(平成13年)
    • 1月1日 - 「世紀越えイベントin銚子」を君ヶ浜で開催。
    • 3月23日 - 「銚子ルネッサンス2025」第1次基本計画策定。
    • 3月 - 小畑池整備工事完了。
    • 8月31日 - 市内初の風力発電機運転開始。
    • 10月7日 - 銚子マリーナ周辺海域で国際モス級ヨット世界選手権大会開催。
    • 11月1日 - 銚子市市民センター開館。
  • 2002年(平成14年)
  • 2003年(平成15年)
    • 2月11日 - 市の魚に「いわし」指定。
    • 3月25日 - 銚子市共同作業所しおさい及び銚子市福祉作業所のぞみ複合施設銚子市ワークセンター完成。
    • 7月23日 - 銚子有料道路無料化。
  • 2004年(平成16年)
  • 2005年(平成17年)
    • 2月18日 - 銚子大橋架換事業着工。
    • 4月1日 - 千葉科学大学マリーナキャンパス供用開始。
  • 2006年(平成18年)
    • 3月25日 - 銚子連絡道路1期区間開通。
    • 4月1日 - 銚子市保健福祉センターすこやかなまなびの城開館。
    • 4月1日 - 興野小学校、若宮小学校が統合し双葉小学校が開校。
    • 8月20日 - 銚子市長に岡野俊昭就任。
    • 12月21日 - 健康スポーツ文化都市宣言。
  • 2007年(平成19年)
    • 3月28日 - 国道356号銚子バイパス(第1期工区)開通。
    • 11月19日 - 「銚子ルネッサンス2025」第2次基本計画策定。
  • 2008年(平成20年)
    • 3月13日 - 双葉小学校新校舎完成。
    • 4月1日 - 銚子市立銚子高等学校、銚子市立銚子西高等学校が統合し、銚子市立銚子高等学校となる。
    • 4月1日 - 千葉県立銚子商業高等学校、千葉県立銚子水産高等学校が統合し、千葉県立銚子商業高等学校となる。
  • 2009年(平成21年)5月18日 - 銚子市長に野平匡邦就任。
  • 2010年(平成22年)
  • 2011年(平成23年)
    • 3月11日 - 東北地方太平洋沖地震発生。震度5強の揺れと最大波2.5メートルの津波を観測し、家屋の倒壊や浸水被害多数。
    • 5月6日 - 河岸公園全面供用開始。
    • 10月20日 - 銚子ジオパーク推進協議会設立。
  • 2012年(平成24年)
    • 5月1日 - 清川町第二公園供用開始。
    • 9月24日 - 「銚子ジオパーク」が日本ジオパークに認定。
    • 10月1日 - 特別養護老人ホーム「外川園」が「松籟の丘」として移転開設。
  • 2013年(平成25年)
    • 1月8日 - 銚子市学校給食センター第一・第二調理場を統合し、新学校給食センター開設。
    • 4月1日 - 第四中学校、第八中学校が統合し銚子中学校が開校。
    • 5月18日 - 銚子市長に越川信一就任。
    • 11月3日 - 銚子半島ハーフマラソン開催(市制施行80周年記念事業)。
  • 2015年(平成27年)3月29日 - 銚子漁港魚市場第1卸売市場竣工。
  • 2016年(平成28年)4月19日 - 佐倉成田佐原、銚子を舞台とした「北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み」が日本遺産に認定。
  • 2017年(平成29年)
    • 1月23日 - 銚子漁港黒生地区-7.5メートル岸壁の一部供用開始式典。
    • 1月24日 - 新消防庁舎完成、業務開始。
  • 2018年 (平成30年)
  • 2019年(令和元年)
    • 3月 - 「銚子市総合計画基本構想」「銚子市総合計画基本計画」策定。
    • 4月1日 - 地域交流センター・銚子芸術村供用開始。
    • 4月1日 - 銚子電力株式会社が一般家庭への電気供給開始。
    • 7月30日 - 銚子沖の一部海域が「再エネ海域利用法」に基づく洋上風力発電の促進区域指定に向けた「有望な区域」に選定。
    • 11月10日 - 旧猿田小学校にさるだ学集館オープン。
  • 2020年(令和2年)
    • 7月21日 - 銚子沖が促進区域指定。
    • 9月16日 - 銚子共同事業オフショアウインドサービス株式会社共同設立。
    • 12月18日 - 銚子市文化財保存活用地域計画が認定。
    • 12月23日 - 犬吠埼灯台が国の重要文化財指定。
  • 2021年(令和3年)
    • 2月16日 - ゼロカーボンシティ銚子を表明。
    • 3月 - 県道愛宕山公園線バイパス開通。
    • 4月1日 - 第五中学校、第六中学校、第七中学校が統合し、銚子西中学校が開校。
    • 4月1日 - 東総地区クリーンセンター稼働開始。
    • 7月1日 - 東総地区最終処分場稼働開始。
    • 12月24日 - 銚子沖促進区域における洋上風力発電事業者選定(千葉銚子オフショアウィンド)。
  • 2022年(令和4年)
    • 1月20日 - 銚子市電子図書館サービス開始。
    • 3月 - 名洗港港湾計画改訂。
    • 5月 - 株式会社銚子漁業共生センター設立。
    • 7月11日 - 台湾・桃園市と友好協定。
    • 12月23日 - 「銚子市子ども未来基金」創設。
  • 2023年(令和5年)
    • 3月12日 - 弦哲也を銚子市名誉市民に推挙。
    • 3月 - 銚子市DX推進計画策定。
    • 3月 - 銚子市ゼロカーボンビジョン策定。
    • 6月18日 - 銚子市制施行90周年記念神輿渡御。
  • 2024年(令和6年)
    • 3月14日 - 県道銚子海上線清滝バイパス全線開通。
    • 3月21日 - 東総台地地区広域営農団地農道全線開通。
    • 3月31日 - 銚子連絡道路2期区間開通。

行政区域変遷 編集

  • 変遷の年表
銚子市市域の変遷(年表)
月日 現銚子市町域に関連する行政区域変遷
1889年(明治22年) 4月1日 町村制施行に伴い、以下の町村がそれぞれ発足[78]
  • 海上郡
    • 銚子町 ← 新生村・荒野村・今宮村
    • 本銚子町 ← 飯沼村が単独で町制施行
    • 伊豆原村 ← 松本村・本城村・長塚村
    • 豊浦村 ← 小川戸村・辺田村・三崎村
    • 高神村 ← 高神村が単独で村制施行
    • 海上村 ← 松岸村・垣根村・四日市場村・余山村・柴崎村・高野村・三宅村・赤塚村
    • 椎芝村 ← 野尻村・小船木村・塚本村・忍村・猿田村
    • 船木村 ← 高田村・芦崎村・岡野台村・船木台村・三門村・中島村・正明寺村
    • 豊岡村 ← 塙村・八木村・小浜村・親田村・常世田村
  • 香取郡
    • 豊里村 ← 下桜井村・富川村・下森戸村・諸持村・宮原村・東笹本村
1891年(明治24年) 1月26日 椎芝村は改称し椎柴村になる。
8月14日 伊豆原村は町制施行・改称し西銚子町になる。
1933年(昭和8年) 2月11日 銚子町・本銚子町・西銚子町・豊浦村が合併し銚子市が発足。
1937年(昭和12年) 2月11日 高神村・海上村は銚子市に編入。
1954年(昭和29年) 3月31日 豊岡村の一部(塙と八木の一部)が飯岡町と三川村と合併し、飯岡町が発足。
4月1日 船木村・椎柴村は銚子市に編入。
1955年(昭和30年) 2月11日 香取郡豊里村は銚子市に編入。
1956年(昭和31年) 4月10日 豊岡村は銚子市に編入。
1958年(昭和33年) 飯岡町の一部(三川の一部)は銚子市に編入。
  • 変遷表
銚子市市域の変遷表(※細かな境界の変遷は省略)
1868年
以前
明治22年
4月1日
明治22年 - 昭和64年 平成元年 - 現在 現在
海上郡 新生村 銚子町 銚子町 昭和8年2月11日
銚子市
銚子市 銚子市
荒野村
今宮村
飯沼村 本銚子町 本銚子町
松本村 伊豆原村 明治24年8月14日
西銚子町
町制改称
本城村
長塚村
小川戸村 豊浦村 豊浦村
辺田村
三崎村
高神村 高神村 高神村 昭和12年2月11日
銚子市に編入
松岸村 海上村 海上村
垣根村
四日市場村
余山村
柴崎村
高野村
三宅村
赤塚村
高田村 船木村 船木村 昭和29年4月1日
銚子市に編入
芦崎村
岡野台村
船木台村
三門村
中島村
正明寺村
野尻村 椎芝村 明治24年1月26日
椎柴村に改称
小船木村
塚本村
忍村
猿田村
小浜村 豊岡村
の一部
豊岡村の一部 昭和31年7月1日
銚子市に編入
親田村
常世田村
八木村の一部
香取郡 下桜井村 豊里村 豊里村 昭和30年2月11日
銚子市に編入
富川村
下森戸村
諸持村
宮原村
東笹本村

政治 編集

施策 編集

次世代エネルギー産業 編集

 
洋上ウインドファーム
 
クリーンモビリティ

銚子沖は、年平均風速7.0メートル毎秒以上と風況に恵まれているほか、水深20〜30メートルの遠浅の海が続き、着床式洋上風力発電の導入に適した自然環境となっている[77]2020年令和2年)7月21日、銚子南沖合の海域(3948.7ヘクタール)が「海洋再生可能エネルギー発電設備の整備に係る海域の利用の促進に関する法律」(再エネ海域利用法)に基づく促進区域に指定され、2021年(令和3年)12月には、促進区域における洋上風力発電事業者として、三菱商事株式会社等のコンソーシアム「千葉銚子オフショアウィンド」が選定された。2028年(令和10年)9月に13メガワットの大型風車31基が運転開始する計画であり、総発電出力は403メガワットが見込まれている。促進区域に隣接する名洗港について、港湾管理者である千葉県は、洋上風力発電事業の建設補助・維持管理の拠点港湾としての活用に加え、風車景観とジオパークが調和したエコツーリズム拠点の形成等を目指し、港湾計画の改訂を行った[24]。市、銚子市漁業協同組合及び銚子商工会議所では、2020年(令和2年)9月16日に「銚子協同事業オフショアウインドサービス株式会社」(C-COWS)を共同設立し、洋上風力発電による経済波及効果を長期間にわたって地域に還元するための体制構築を進めている[77]。こうした中、市は2021年(令和3年)2月16日2050年(令和32年)までに温室効果ガスの排出量を実質ゼロとする「ゼロカーボンシティ」を表明し、取組の方針や地域の特性を活かした実効性の高い再生可能エネルギーの導入目標、カーボンニュートラルの構築につながる取組を盛り込んだ「銚子市ゼロカーボンビジョン」を策定した。市はこの計画に基づき、地域新電力「銚子電力株式会社」と連携した再生可能エネルギーの地産地消システム(マイクログリッド)の構築、ICTを活用した漁場の可視化や藻場の育成による海洋環境の保全、AI(人工知能)やロボットを活用したスマート農業の推進、災害時の移動電源としても活用されるEVPHEVFCVの市内導入、都市緑化やブルーカーボン生態系による二酸化炭素吸収源対策等を進め、豊かな自然環境と共生したエネルギー産業の先端都市の実現を目指している[49]

子育て支援サービス 編集

 
銚子市保健福祉センター・すこやかなまなびの城

本市では、2020年(令和2年)度に「銚子で生まれ育ち良かったと思えるような地域で支える『子育てのまちづくり』」を基本理念とした「第2期銚子市子ども・子育て支援事業計画」を策定し、子育てファーストのまちづくりを推進している[24]。銚子市子育て世代包括支援センター「すくサポ」は、妊娠時から子育て期にわたるまでの相談・支援等を提供する場として、銚子市保健福祉センター・すこやかなまなびの城に設置されている。「すくサポ」では、保健師・母子保健コーディネーター・子育てコンシェルジュ等の専門職が妊娠・出産・産後・子育てに関する相談等に応じるほか、家庭相談員が家庭における適切な児童の養育や児童福祉に関する相談に応じている[79]。また、市では生後4か月までの乳児のいる全家庭を訪問し、子育ての情報提供・不安や悩み等の相談を行う「こんにちは赤ちゃん訪問事業」(家庭訪問)を実施し、乳児の成長と育児の支援を図っている。銚子市保健福祉センター・すこやかなまなびの城では、3か月児、9か月児、1歳6か月児、3歳児を対象とした健康診査等を実施しているほか、予防接種離乳食教室、虫歯予防教室等を開催している。市内では、子育て広場(1か所)、地域子育て支援センター(4か所)において保護者の相談や交流の支援を行うとともに、保育所(11か所)、放課後児童クラブ(11か所)等で働く保護者のサポートを実施している[80]。このほか、市では千葉県内トップクラスの「ふるさと納税」受入額を活用して「銚子市子ども未来基金」を創設し、18歳までを対象とした子ども医療費助成、インフルエンザ予防接種助成、ファミリー・サポート・センター事業、産後ケア事業、出産・子育て応援ギフト(給付金)支給等を実施している[24]2024年(令和6年)度からは学校給食費の無償化を開始し、さらなる子育て支援サービスの充実を進めている[81]

ワーケーション 編集

 
屏風ヶ浦

本市は2017年(平成29年)度から、総務省委託事業として「お試しサテライトオフィスモデル事業」を実施した。豊富な観光資源・食資源・地場産業と都心からのアクセス利便性を活かしたサテライト・オフィス環境の整備、勤務形態に係る多様なニーズに応えるための多種多様なお試し勤務地の整備、地域事業者・人材との交流や観光・開発合宿による地域の魅力体験等により、産業・経済の活性化と若者のための「しごとづくり」を推進するものであった。行政担当職員、地元事業者、再委託事業者が個別に有する都市部企業とのネットワーク等を最大限に活用したことで、順調にお試し勤務企業数を伸ばし、企業数は計48件と目標値を大幅に上回った。IT系コンサルティング系企業のほか、シェアオフィス運営、流通業、製造業、音楽・アニメ製作等、その業種は多岐にわたった。SNSを駆使したお試し勤務状況のリアルタイム配信のほか、地元事業UJIターンのマッチングを促す特設サイト「Seeゴトバ」の構築等、デジタル的なアプローチの充実も、多くのお試し勤務企業の確保につながった。本市では、お試し勤務企業を通じて2社のサテライト・オフィス進出企業を確保した。東京から電車で1本というアクセス利便性に加え、本市が有する独自の地域資源、さらにはそれを運営・管理する地元団体を巻き込んでお試し勤務の誘引を行ったことが、これらの企業確保の大きな要因であった[82]。また、市独自の企業誘致の施策として、2017年(平成29年)3月から「銚子市企業立地等促進事業補助金制度」を実施し、本市に進出する企業に対し、固定資産税相当額の補助や雇用創出に応じた補助金を交付している。また、工場の建替等、一定規模以上の規模の再投資を行う既存企業に対しても補助金の交付を実施している[24]

市役所 編集

 
銚子市庁舎
  • 銚子市役所:銚子市若宮町1番地の1

1933年昭和8年)2月11日市制施行当時、本市は旧銚子町役場庁舎を市庁舎とし、その後これを増改築して使用していたが、1945年(昭和20年)3月の銚子空襲でこの庁舎は焼失した。このため、当時の銚子市三軒町所在の千葉県立銚子工業学校校舎に仮移転し、次いで妙見町の銚子市立興野国民学校講堂に移って執務を行っていた。1949年(昭和24年)4月1日には、旧香取海軍航空隊兵舎の解体材を用いて戦災前の位置に再建した庁舎に移転した。その後、市は新庁舎の建設を事務的に検討し始め、1968年(昭和43年)4月、条例をもって銚子市庁舎建設検討審議会を設置した。市庁舎の位置は、1972年(昭和47年)7月の審議会の答申を受け、銚子醤油株式会社第1工場敷地と決定し、以後用地買収や庁舎の設計に関する諸作業が進められた。着工は1973年(昭和48年)11月19日、竣工は1975年(昭和50年)5月1日であった[19]

市は新しい市庁舎の建設に当たって、市庁舎は住民自治の本拠であるとの基本的な考え方から、市民の利益を本位とする市民サービスセンターとして、市民から親しみをもって利用されることを建設の重点に置いた。その位置は、市街地のほぼ中央の工場跡地で、利根川銚子漁港及び銚子大橋を背景とした環境の中にある。庁舎は鉄筋コンクリート造、地下1階、地上8階の当時市内最高の近代的なビルディングで、庁舎棟、議会棟、付属棟の3棟から構成されている。市民に直接関係する窓口は庁舎棟の下層階に配置し、特に1階には開庁当時の市民課、税務課、会計課、保険年金課、厚生課、福祉課の窓口を集中させ、模写電送装置コンピュータの導入により、窓口事務処理の合理化とスピード化を図ることとした。また、庁舎棟1階には各種相談の窓口としての市民相談センターを設置し、議会棟1階には市民との対話の場として市民ホール、展示ホールを設けた。議場をはじめ議会関係の室は議会棟の2・3階に配置し、傍聴席のほかに、市民ホールにモニターテレビを設置して市議会の傍聴者が多数の場合の便宜を図っている[19]。2022年(令和4年)度には、災害発生時の拠点施設としての機能維持を図るため、SRF工法による耐震補強工事が実施された[24]

出張所 編集

出張所は、市町村がその権限に属する事務を分掌させるため、必要な地に設ける出先機関であり、本市では2か所の出張所を設けている。

  • 銚子市役所豊里出張所

1955年(昭和30年)2月11日の豊里村合併に際して旧豊里村役場に設置された。1984年(昭和59年)4月からは同跡地に新設された豊里地区コミュニティセンター内で執務することとなった[19]

  • 銚子市役所豊岡出張所

1956年(昭和31年)4月10日の豊岡村合併に際して旧豊岡村役場に設置された。その後、1985年(昭和60年)4月に、同跡地に新設された豊岡農村婦人の家において執務を開始した[19]2019年(平成31年)4月には、銚子市地域交流センター内に移転した。

行政計画 編集

市町村における初期の行政計画は、その計画フレームとして、将来人口の規模、地域生産力、所得水準、生活環境の充実度等を掲げ、工業用地造成と企業誘致を主眼とした地域開発型の計画づくりが各地で進められていった。本市においては、1961年(昭和36年)に実施した「市勢振興調査」が、既存産業の一層の発展とあわせて大工業化、新産業創設を提起し、これを受けて「銚子市長期計画」が策定された。その後「地方自治法」の改正にあわせて、1973年(昭和48年)6月に「銚子市基本構想」を定めた。この初の基本構想は、市民福祉の増進を目的に、東総地域等における近代的な中核都市として「住みよい豊かな文化・産業都市」を将来像とし、基礎的条件の整備、生活環境の整備と社会福祉等の充実、教育文化水準の向上及び産業の振興を施策の大綱と定めたものであった。以後、本市は様々な地域振興策を盛り込んだ基本構想を4次にわたって策定してきた。いずれも5か年計画として「基本計画」を定め、3か年の「実施計画」を毎年度見直し補正するローリング方式により、予算編成との整合を図って政策的事業の総合的・計画的推進を期している[19]

  • 銚子市長期計画:1966年(昭和41年)3月策定
  • 銚子市基本構想「住みよい豊かな文化・産業都市」:1973年(昭和48年)6月策定
    • 銚子市基本計画:1973年(昭和48年)6月策定
    • 銚子市第2次基本計画:1978年(昭和53年)3月策定
  • 銚子市総合計画基本構想「活力と魅力ある東総の中核都市」:1985年(昭和60年)6月策定
    • 銚子市新総合計画基本計画「活力と魅力ある東総の中核都市をめざして」:1986年(昭和61年)2月策定
    • 銚子市新総合計画第2次基本計画「人の住むための豊かな都市づくりにむけて」:1990年(平成2年)3月策定
    • 銚子市新総合計画第3次基本計画「活き活きとした温かいまち・銚子」:1995年(平成7年)2月策定
  • 銚子市総合計画基本構想「銚子ルネッサンス2025」「ひとがときめき 海がきらめき 未来輝く都市(まち)」:2000年(平成12年)12月策定
    • 銚子市総合計画「銚子ルネッサンス2025」第1次基本計画:2001年(平成13年)3月策定
    • 銚子市総合計画「銚子ルネッサンス2025」第2次基本計画:2007年(平成19年)11月策定
  • 銚子市総合計画基本構想・基本計画「握手~つながる まちづくりのちから~」:2019年(平成31年)3月策定

2015年(平成27年)10月には、国の「まち・ひと・しごと創生総合戦略」を踏まえた銚子版総合戦略として、5か年の基本戦略と具体的施策をまとめた「銚子市しごと・ひと・まち創生総合戦略」が策定された。「しごとづくり」を第1の目標とし、官民連携、異業種間連携、政策間連携を進めながら、市民をはじめとした多様な主体によるまちづくりを目指すものであった[24]。また、人口ビジョンに掲げた成長戦略を実現し、人口の将来展望を達成するため、「稼ぐ力」所得アップ産業創出プロジェクト、郷土定着・移住促進プロジェクト、「まちの宝」子ども育成・高齢者健康活躍プロジェクト、地域力・市民力応援プロジェクトの4つの基本戦略が総合戦略の柱とされた[83]

2019年(平成31年)3月には、総合戦略を含めた一体的な計画として「銚子市総合計画」が策定された。策定にあたっては、5回にわたる市民ワークショップが開催され、市民参加型の総合計画づくりが進められた。「握手~つながるまちづくりのちから~」が全体を貫くビジョンとされ、市民自治と協働の視点を強く盛り込んだ計画となった。また、生活者である市民の目線に立ち、生活と時間(ライフステージ)、生活と空間(コミュニティ)という2つの視点からまちづくりが捉えられた。重点プロジェクトとしては、銚子の強みを生かした雇用の創出、自然(再生可能)エネルギーの活用促進、質の高い子育て支援と文教都市の形成、多様な主体が支え合いながら安心して生活できる地域づくりの推進、広域幹線道路網の開通による道路ネットワークの確立が掲げられた。計画の期間は2019年(平成31年)度から2028年(令和10年)度までの10年間とされた[84]

市長 編集

市長は市の執行機関として、市を統括代表し、市の事務を管理執行する地位にある。また、1999年(平成11年)度末までは国その他の団体に機関委任事務を管理執行する国等の機関でもあった。市長は銚子市制施行後1943年(昭和18年)までは「市制」に基づいて市会において選挙することになっていたが、同年同法の一部改正が行われて、市会が内務大臣に候補者を推薦し、内務大臣が勅裁を経てこれを選任することに改められた。次いで1946年(昭和21年)に更に「市制」の改正が行われて、選挙民が直接選挙する公選制となった。第1回の公選が行われたのは1947年(昭和22年)である。「市制」によって開かれた市長公選制は、その後「地方自治法」に受け継がれている[19]

 
銚子市長 越川信一
歴代市長

市制施行以来の歴代市長は以下の通りである。なお市制施行の1933年(昭和8年)2月11日から、川村市長就任の同年5月14日までの約3か月間は、正規の市長はまだいなかったが、この間4月30日までは、当時千葉県地方課長であった川村が「市制」に基づく「市長職務管掌」として、また5月1日から13日までは、前銚子町長野口薫が「市長臨時代理」として、それぞれ市長の職務を執行した[19]

  • 川村芳次:1933年(昭和8年)5月14日 - 1945年(昭和20年)5月13日
  • 大里庄治郎:1945年(昭和20年)5月14日 - 1946年(昭和21年)1月7日
  • 加瀬道之助:1946年(昭和21年)2月12日 - 1951年(昭和26年)4月4日
  • 嶋田隆:1951年(昭和26年)4月23日 - 1978年(昭和53年)8月19日
  • 大内恭平:1978年(昭和53年)8月20日 - 1986年(昭和61年)8月19日
  • 佐藤幹彦:1986年(昭和61年)8月20日 - 1994年(平成6年)8月19日
  • 大川政武:1994年(平成6年)8月20日 - 2002年(平成14年)8月19日
  • 野平匡邦:2002年(平成14年)8月20日 - 2006年(平成18年)8月19日
  • 岡野俊昭:2006年(平成18年)8月20日 - 2009年(平成21年)3月29日
  • 野平匡邦:2009年(平成21年)5月17日 - 2013年(平成25年)5月16日
  • 越川信一:2013年(平成25年)5月17日 - 現職

行政組織 編集

市の事務を分掌する部課等の組織を行政組織と呼んでいる。「地方自治法」第158条は「普通地方公共団体の長は、その権限に属する事務を分掌させるため、必要な内部組織を設けることができる」と定めている。この編成に当たっては、当該普通地方公共団体の事務及び事業の運営が簡素かつ効率的なものとなるよう十分配慮しなければならない、とされている。本市においては、戦後の地方自治制度の改革とその後の改正、また、地域実態への対応等のため、行政組織の新設・再編等を行ってきた[19]

銚子市行政組織機構(令和5年4月1日)
  • 市長
    • 会計管理者(会計課) - 会計班
    • 消防長(消防本部
      • 消防総務課 - 総務班 警防班
      • 予防課 - 予防班
      • 消防署
        • 庶務班 予防班 機械班 救助班 救急班 通信情報班
        • 東部分署
        • 西部分署
    • 水道局
      • 管理室 - 管理班 経理班
      • 工務室 - 配水班 給水装置班 建設班
      • 本城浄水場 - 浄水班 水質班
      • 下水道室 - 下水道管理班 下水道工務班
      • 芦崎終末処理場
    • 副市長
      • 秘書広報課
        • 秘書広報室 - 秘書班 広報広聴班
        • 公民連携事業室 - 公民連携事業班
      • 企画課
        • 企画室 - 企画調整班 政策推進班
        • 情報政策室 - 情報政策室情報政策班 情報システム班
        • 洋上風力推進室 - 洋上風力推進班
      • 財政課 - 財政室 - 財政班 行政改革推進班
      • 総務課 - 行政民事暴力対策監
        • 総務室 - 政策法務班
        • 人事室 - 人事研修班
        • 施設管理室 - 施設管理班
        • 危機管理室 - 危機管理班
      • 市民課
        • 市民室 - 戸籍班 市民班
        • 豊里出張所 豊岡出張所
        • 保険年金室 - 国保給付班 国保料班 後期高齢者医療班 国民年金班
      • 税務課
        • 課税室 - 市民税班 固定資産税班
        • 債権管理室 - 債権管理班
      • 社会福祉課
        • 社会福祉室 - 社会班 保護班
        • 障害支援室 - 給付管理班 給付事業班 相談支援班
      • 子育て支援課 - 子育て支援班 保育班
        • 第二保育所
        • 第三保育所
        • 第四保育所
      • 高齢者福祉課 - 資格給付班 認定審査班 高齢者福祉班
      • 健康づくり課
        • 健康・地域医療推進室 - 保健総務班 病院事業班
        • 保健事業室 - 健康づくり支援班 食の健康推進班 子ども家庭支援班
        • 新型コロナウイルスワクチン接種対策室 - ワクチン接種対策班
      • 観光商工課
        • 観光プロモーション室 - 観光振興班 ふるさと納税推進班
        • 産業振興室 - 商工労務班 消費生活班
        • 消費生活センター
      • 水産課 - 水産班 漁政班
      • 農産課 - 農業振興班 基盤整備班
      • 都市整備課
        • 都市整備室 - 都市計画班 建築住宅班 空家対策班
        • 土木室 - 土木管理班 土木工務班
  • 市議会 - 事務局 - 庶務班 議事班
  • 教育委員会 - 教育長
    • 学校教育課
      • 教育総務室 - 教育総務班
      • 学校教育室 - 学務班
      • 学校給食センター
      • 指導室 - 指導班
      • 小児言語指導センター
    • 社会教育課
      • 生涯学習室 - 社会教育班
      • 青少年指導センター
      • 市民センター
      • 公正図書館
      • 青少年文化会館
      • スポーツ振興室 - スポーツ振興班
      • 体育館
      • 文化財・ジオパーク室
      • ジオパーク・芸術センター - 文化財班 ジオパーク班
    • 高等学校・中学校・小学校
  • 選挙管理委員会 - 事務局 - 選挙局
  • 監査委員会 - 事務局 - 監査班
  • 農業委員会 - 事務局 - 農地農政班
  • 固定資産評価審査委員会

財政 編集

銚子市一般会計の歳入決算額において、費目別比率の大きい順にみると、市税、地方交付税、国県支出金又は市債の順である。2021年(令和3年)度では、自主財源の多くを占める市税が78.4億円であるのに対し、依存財源は地方交付税57.4億円、国庫支出金51.7億円、市債22.1億円、県支出金15.7億円となっている。銚子市一般会計歳出決算額における費目別比率は、民生費、総務費、教育費、公債費、衛生費、消防費、土木費の順となっている。歳出の性質別分類は、行政経費の性質に従った分類で、財政運営の状況や特色を判断するために用いられる。2021年(令和3年)度においては、扶助費56.4億円、人件費54.4億円、公債費30億円である。義務的経費は140.7億円であり、物件費、維持補修費、補助費等を加えた経常的経費は195.4億円となっている。物件費は業務委託料等、維持補修費は学校施設、廃棄物処理施設、市営住宅、道路、河川の補修・維持等の費用、補助費等では公営企業会計補助等がその主な内容である。投資的経費は21.3億円である。特別会計は、2021年(令和3年)度においては、国民健康保険事業介護保険事業及び後期高齢者医療事業の3会計となっている。地方公営企業は、2021年(令和3年)度において、水道事業及び病院事業の2事業で、それぞれ事業ごとに特別会計を設置している[85]。なお、本市の財政力指数は0.61(令和3年度)であり、県東部地域において最も高い財政力を有している[16]

銚子市令和4年度当初予算概要
  • 会計別予算額
    • 一般会計 238億6700万円
    • 公営企業会計(3会計) 73億5400万円
    • 特別会計(3会計) 147億1500万円
  • 一般会計当初予算
    • 歳入のうち
      • 市税 78億3828万3千円(32.8%)
      • 地方交付税 56億1492万6千円(23.5%)
      • 国県支出金 43億7896万7千円(18.4%)
    • 歳出のうち
      • 人件費 55億8290万3千円(23.4%)
      • 扶助費 45億5591万5千円(19.1%)
      • 公債費 31億4305万1千円(13.2%)
    • 市民1人当たり市税負担額 13万6117円
    • 市民1人当たり市税受益額 41万4466円

1985年(昭和60年)の国の「地方公共団体における行政改革推進の方針」以来、市は市長を本部長とする銚子市行政改革推進本部を設置し、事務改善委員会をその幹事会とし、行政改革推進に必要な調査審議をするための銚子市行政改革懇談会を置いた[19]。この体制によって、1986年(昭和61年)3月「銚子市行政改革大綱」を定め、以後、7次にわたる行政改革大綱を策定してきた。2017年(平成29年)度から2021年(令和3年)度までの「第7次銚子市行財政改革大綱」に掲げた措置事項は、歳入の確保、歳出の削減、特別会計の健全運営の確保、公共施設等の統廃合・集約化等の促進、広域連携の推進、行財政改革における事業仕分の応用、マイナンバーの活用、職員接遇力の向上、定住外国人・国際化への対応、積極的なアウトリーチの推進、市民参画と地域協働の推進等であった[86]

本市の「ふるさと納税」受入額は千葉県内トップクラスであり、中間事業者・返礼品事業者と連携し、ECサイトでの発信力を強化した結果、2023年(令和5年)度の受入額は約6億円と、2022年(令和4年)度の2倍余りに増加した[81]。市では「ふるさと納税推進ビジョン」を策定し、本市の特性を活かした魅力ある返礼品の企画・開発により、2025年(令和7年)度までに年間10億円を達成することを目標としている[87]

公有財産 編集

地方公共団体の財産とは、「地方自治法」において公有財産物品及び債権並びに基金をいうものとされている。公有財産は行政財産と普通財産とに分かれる。行政財産とは、地方公共団体が事務事業を実施するためみずから使用するための庁舎・消防施設・船舶等の公用財産と、住民の一般的共同利用に供するための学校施設・衛生施設・公園・道路等の公共用財産をいう。普通財産は行政財産以外の公有財産で、直接特定の行政目的に供されるのではなくその経済的価値によって間接的に行政に寄与するものである。物品は、公有財産・基金に属するもの以外の備品、消耗品、材料品、不用品等である。債権は、地方税、使用料、手数料等の公法上の収入債権と物品売払代金、賃貸料等の私法上の収入債権である。基金には、財産維持・資金積立てのための基金と資金運用のための基金があり、その内容は現金預金土地等から成る[19]

広域行政 編集

広域行政とは、2つ以上の地方公共団体がそれぞれの行政の区域を超えて行政事務を広域的に処理することである。戦後の合併によって市町村規模の適正化が図られたが、その後の急激な経済成長や交通手段の発達等に伴って住民の日常生活・経済活動の範囲が拡大し、改めて地方公共団体における行政の広域化の重要性が高まってきた。このため国は、このような地域社会の変動に対応し、住民の要請に応え魅力ある豊かな地域社会を建設するため、1969年(昭和44年)5月に広域市町村圏構想を打ち出し、計画策定に要する経費について補助金を交付する等の財政上の措置を講じ、広域行政を促進した。これを受け、千葉県では、支庁区域単位の広域圏の設定の促進を図っていたが、東総地域については、本市、旭市八日市場市飯岡町海上町光町野栄町香取郡干潟町を加えた3市5町を一つの広域市町村圏として、1971年(昭和46年)7月、千葉県知事によって東総地区広域市町村圏が設定され、同年9月に同広域市町村圏事務組合の設立が許可された。以後、この事務組合では、3次にわたり広域市町村圏計画(基本構想・基本計画・実施計画)を策定し、職員の統一共同採用試験・共同研修の実施、首長・議長合同協議会(東総サミット)の開催等を進めてきた。また、1990年(平成2年)9月には、地域の自立的発展が見込まれる圏域として千葉県内では唯一、ふるさと市町村圏のモデル地域に指定されたのを受け、ソフト事業を中心とした地域振興事業を実施し、圏域の一体的発展を図ってきた。近年は、地方分権とあわせて広域連合等の活用による広域行政の積極的な推進が求められており、また、環境問題等の新しい行政需要に応えるためにも広域行政の新たな展開が必要とされてきたことから、1997年(平成9年)11月に東総地域広域行政検討会が設けられ、既存の事務組合の統合・複合化、新たな広域処理事務事業の調査検討等に取り組んできた[19]。2023年(令和5年)度における主な事業は、銚子連絡道路の整備促進、ごみ処理の広域化に関する事業、職員採用試験合同実施事業、職員共同研修事業、中学生海外派遣研修事業である[88]

また、1989年(平成元年)5月に、利根川下流域市町の共同課題の解決と一体的な地域振興を図るため、古くから経済活動や日常生活が同一圏内であった茨城県波崎町を含め、本市、小見川町東庄町と茨城県神栖町、波崎町の1市4町による利根川下流域首長会議(利根川サミット)が結成された。これは、特定の事務を共同処理するものではないが、県境を越えた流域圏として、利根川新橋の建設促進をはじめ、広域道路網の整備、観光ルートの設定、河川敷の有効活用、利根川の水質浄化等の課題に積極的に取り組んでおり、利根かもめ大橋の建設実現はその成果である[19]

市町村合併 編集

国は、国と地方の行政事務の再配分と合理化のため、1953年(昭和28年)9月に「町村合併促進法」を、1956年(昭和31年)6月に「新市町村建設促進法」を公布し、市町村合併を推進してきた。このような背景の中で、本市は海上郡船木村椎柴村、香取郡豊里村、海上郡豊岡村を編入合併した。この市村合併は、行政区域の規模の適正化により行政水準の維持を図ることを目的としたものであった。1999年(平成11年)7月の「市町村の合併の特例に関する法律」(合併特例法)の改正等により、自主的な市町村合併を支援する制度が拡充されたことから、市町村合併に関する議論や合併に向けての動きが活発化した[19]2004年(平成16年)8月に銚子市・東庄町合併協議会が設置され、協議が行われたが、合併へとつながっていく合意形成には至らなかった[89]。その後、本市において市町村合併は行われていない。

名誉市民と名誉参与員 編集

 
濱口梧洞翁寿像

「地方自治法」上の制度ではないが、本市は市に貢献した者を顕彰するため、銚子市名誉市民と銚子市名誉参与員の制度を設けている。銚子市名誉市民は、1956年(昭和31年)1月12日施行の「銚子市名誉市民条例」に基づき、本市の市民又は本市の関係者で広く社会文化の興隆に功績が卓絶であった者の功績をたたえるとともに市民の社会文化興隆に対する意欲の高揚を図るための顕賞制度である。名誉市民は市長が市議会の同意を得て推挙し、推挙された者には銚子市名誉市民の称号を贈られ、その事績を市広報に登載し、名誉市民台帳に登録して終身その名誉を保有せしめ、名誉市民章を贈る。この他、市の公の式典への参列、死亡の際における相当の礼をもってする弔慰等の待遇がある。この条例の公布・施行により、1956年(昭和31年)3月11日に、市は濱口梧洞今井健彦の両氏の名誉市民推挙式を公正市民館講堂において挙行した[19]

名誉市民 編集

1956年(昭和31年)3月11日推挙。ヤマサ醤油株式会社社長・会長として経済発展に寄与。財団法人公正会の設立と公正会館の建設、図書館の併設、夜間の公正学院の設立等、文化教育の発展に多大な貢献があった。1962年(昭和37年)1月31日逝去(享年89歳)[90]

1956年(昭和31年)3月11日推挙。衆議院議員8期、農林参与官、商工政務次官等を歴任。政治家としての活動中、銚子漁港の建設、佐原松岸間の鉄道敷設、市営上水道の敷設等、本市と中央政官界との連関を図った。1966年(昭和41年)1月20日逝去(享年83歳)[90]

  • 嶋田隆

1983年(昭和58年)2月10日推挙(市制施行50周年記念式典)。銚子市長連続7期在任。戦後の混乱した地方自治行政の処理と戦災復興から、地方財政危機時代、高度経済成長時代を経て、再び地方財源の大幅不足時期等、変転著しい地方行財政の運営責任者として多大に尽力した。2001年(平成13年)9月22日逝去(享年92歳)[90]

2007年(平成19年)6月2日推挙。参議院議員連続4期、同院地方行政委員会委員、懲罰委員会委員長、参議院副議長等を歴任。1998年(平成10年)3月に策定された「新・全国総合開発計画」の中に東総地域の開発を位置づけるため多大な尽力をしたほか、市民の利便性を考慮した銚子郵便局の移転整備の早期実現を図る等、市と中央政官界との密接な連携を図り、本市の発展に尽力した。2010年(平成22年)6月21日逝去(享年90歳)[90]

  • 安藤勇

2007年(平成19年)6月2日推挙。千葉県議会議員連続7期、千葉県議会議長等を歴任。県政においては、銚子を中心とした東総地域の振興を政見の重点として、スポーツや観光の振興とともに、名洗港の整備促進等に積極的に取り組んだ。また、銚子市交通安全協会、銚子市体育協会、社団法人千葉県観光協会、社団法人銚子市観光協会、千葉県水泳連盟の会長等の要職を務め、市と県政官界との密接な連携を図る等、本市の発展に尽力した。2011年(平成23年)11月22日逝去(享年88歳)[90]

  • 西川照幸

2007年(平成19年)6月2日推挙。1949年(昭和24年)から民生委員児童委員1950年(昭和25年)から保護司に就任し、いずれも約半世紀にわたり、慈愛と社会奉仕の精神をもって地域福祉活動及び更生保護活動を推進した。また、人権擁護委員調停委員司法委員等も多年にわたり務めた。特に、1976年(昭和51年)に銚子市社会福祉協議会の会長に就任以来、約30年にわたりその要職を務め、民間における社会福祉活動の基盤づくりと共助社会の構築に尽力した。2020年(令和2年)7月13日逝去(享年95歳)[90]

2023年(令和5年)3月12日推挙。公益社団法人日本作曲家協会会長、一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)会長。石川さゆり天城越え」、石原裕次郎北の旅人」、川中美幸ふたり酒」等、数々の名曲を生み出し、作曲家として活躍している。音楽生活50周年を記念し「犬吠埼・おれの故郷」を発表する等、たえず故郷を思い、音楽活動をとおし銚子の魅力を全国に発信し続けており、本市の発展に力を尽している[90]

名誉参与員 編集

名誉参与員は、1956年(昭和31年)3月10日公布・施行の「銚子市名誉参与員条例」に基づくもので、本市自治振興に寄与し、特に功績が顕著な者を市民の総意による感謝の反映として銚子市名誉参与員に推薦し、永くその功績をたたえ、もって市民の愛市意欲の高揚を図ろうとするものである。名誉参与員は、かつて市議会議員として満12年以上在職した者、また、公共の福祉増進、社会文化の興隆、その他市政進展に特に功績があって市議会の同意を得た者の中から適当と認める者を、市長が推薦する。名誉参与員には推薦状に添え名誉参与員草を贈り、その事績を市広報に登載し、名誉参与員台帳に登録して終身その名誉を保有せしめる。名誉参与員は、市長の招集に応じ市政に関する報告等を受けることができ、また、市政の円滑運営を期するため市長に対し適切と認める助言をすることができる[19]

銚子市民憲章 編集

市民憲章とは、都市宣言の一種であるが、総合的な目標を掲げた市民の守るべきおきてであり、その制定に際しては議会の議決を経る等市民合意に基づく形態をとっている。本市においては、1970年(昭和45年)3月市議会定例会において、既に前年から市長の発意に基づいて制定準備を進めてきた「銚子市民憲章」が市長から提案された。これまでの間、市は市民憲章起草委員を委嘱し、起草委員は市民から募集した草案98点からの入賞作品を基に最終案を作成して、市長がこれを議案として採用したものである。市民憲章には法的拘束力はないが、憲章を尊重する市民の合意を明らかにする必要があるとの考えから、「銚子市議会の議決に附すべき事項を定める条例」に基づく市議会の議決事項に「市民憲章に関すること」を加えるための条例の一部改正が行われ、「市民憲章」の議案を提出したものである。この議案は満場一致をもって可決され、同年4月1日からの施行となった。提案理由は、銚子市民であることの誇りと自覚を持ち、銚子市将来の目標をかかげ、これを実践し、健康で明るい文化都市を築くため、というものであった[19]

銚子市民憲章

洋々とした大海原、雄大な流れの利根川。漁業の町として、祖先のたゆまぬ努力によって栄えてきたわが銚子市は、あらたに近代都市として、力強くはばたこうとしています。わたくしたちは、この美しい郷土を守り育て、市民として誇りをもって生活できるようにするために、わたくしたちの願いをこめて、この憲章を定めます。

一 仕事をたいせつにし、明るく元気に働きます。

一 老人やこどもをいたわり、人に親切にします。

一 自然を愛し、町をきれいにします。

一 教養を高め、心を豊かにします。

一 力を合わせ、交通安全につとめます。

都市宣言 編集

都市宜言とは、我が国の高度経済成長に伴って生じてきた様々な問題を提起し、目標を掲げて、行政と市民の連携と力の結集によって対処しようとするものである[19]。本市においては1962年(昭和37年)以降、7つの都市宣言を行ってきた。

  • 交通安全都市宣言

1962年(昭和37年)1月9日、市議会臨時会において、議員発議による都市宣言の決議案が可決され、本市最初の都市宣言となった[19]

  • 精神衛生都市宣言

1963年(昭和38年)2月25日、市議会2月定例会において、議員発議による都市宣言の決議案が可決され、第2の都市宣言となった[19]

  • 公害追放都市宣言

1970年(昭和45年)9月23日、市議会9月定例会において市長提案され、可決された[19]

  • 青色申告都市宣言

1976年(昭和51年)12月25日、市議会12月定例会において市長提案され、可決された[19]

  • 非核・平和都市宣言

1984年(昭和59年)9月14日、市議会8月定例会において市長提案され、可決された[19]

  • 産業廃棄物最終処分場設置反対・不法投棄しないさせない都市宣言

1995年(平成7年)6月29日、市議会6月定例会において市長提案され、可決された[19]

  • 健康スポーツ文化都市宣言

2006年(平成18年)12月21日、市議会12月定例会において市長提案され、可決された[24]

銚子市紋章 編集

銚子市紋章

銚子市紋章は、1933年(昭和8年)2月11日の3町1村併合による市制施行を記念して、紋章図案を懸賞募集し、応募総数1127点の中から最終決定し、1934年(昭和9年)1月15日に市会の議決を経て、同日告示された。制定にあたっては、銚子市は本邦東端に位置し、旭日仰ぐは最も早く、即ち市の発展性は旭日と共に力強く、その増大を意味して紋章は之を象徴することとし、旭日を中心にその周囲を丁四(銚子)にて輪郭図案化せるものなり、とされている[19]

銚子市歌 編集

銚子市歌は懸賞募集し応募総数267点の中から三軒町山崎晋道作詞を一等として採用し、1936年(昭和11年)1月27日に市会議決のうえ、同日告示第2号をもって告示された。戦後、小学校等で歌唱指導され、市主催の式典・行事等において演奏、斉唱されている[19]

銚子市歌

一 阪東太郎洋々と 太平洋にそそぐところ 四季に絶えせぬ海の幸 市民の意気はさかんなり 銚子、銚子、吾等の銚子

二 潮花咲く磯つづき 観光の美に富めるところ 犬吠埼の灯台は 文化の光世を照らす 銚子、銚子、吾等の銚子

三 遠く元和の昔より 醤油の香の匂ふところ 水産業の発展は 伸びゆく力世に示す 銚子、銚子、吾等の銚子

市の木・花・魚 編集

 
おおまつよいぐさ

市の木は「さざんか」、市の花は「おおまつよいぐさ」である。1983年(昭和58年)2月11日、市制施行50周年を記念して指定された。いずれも市の風土に適し、市のシンボルにふさわしく、市民に愛され、まちの美化緑化にも役立つような木と花として、市民投票を経て選ばれたものである[19]2003年(平成15年)2月11日には市制施行70周年を記念し、市の魚に「いわし」が指定された[91]

  • さざんか

ツバキ科の常緑小高木で日本特産。花木として庭園に多く植えられ、品種は多種で一重・八重、色も淡紅・濃紅・白等がある。塩害に強く、花は晩秋から初冬にかけて咲き、市民に親しみ深い木である[91]

  • おおまつよいぐさ

アメリカ原産の帰化植物越年草。鮮やかな黄色の花が夕方に開き、銚子では夏の海辺の風物詩である。竹久夢二の「宵待草」の詩のゆかりもあって、市民投票で最も人気が高まった花である[91]

  • いわし

全国屈指の水揚量を誇り、銚子で水揚げされる魚の約半数を占めている。市制施行70周年を記念して一般公募した結果最も応募が多く、「大漁節」にも歌われており、小さくてもみんなで力を合わせて生きているというイメージから、銚子のシンボルにふさわしい魚として指定された[91]

なお、1971年(昭和46年)2月に、千葉国体開催を記念して「国体記念銚子市の木」として「プラタナス」が定められた。これは、市民からの公募により応募総数240通のうち59通と最も多かったプラタナスを選定委員会が選定したものであった。これを契機に、国道356号松岸町付近から国体高校野球会場となった前宿町運動公園までの通りを主に付近の道路等にプラタナスが植され、これ以前の植樹とあわせて、約1000本の街路樹となっている[19]

マスコットキャラクター 編集

  • 銚子100年マスコットキャラクター「超Cちゃん」

「銚子」の「銚」と、とびぬけてすぐれている「超越」の「超」をかけ、様々な問題を跳び「超えて」発展する銚子のイメージと、キャラクターの制作意図でもある形が銚子(Choshi)の「C」に似ていることから名付けられた[92]

議会 編集

銚子市議会 編集

地方公共団体の議会は、住民の直接選挙による住民を代表する機関として団体意思の決定を行い、長との抑制と均衡のもと、地方公共団体の民主的・能率的運営を確保するために、法定の権限の範囲内でその機能を発揮する。議員は、国会議員、その他の地方公共団体の議員、長その他常勤の職員を兼ねることはできない。議員の任期は4年であり、一般選挙の日から起算されるが、4年の任期満了による場合のほか、身分の喪失事由に該当するときは任期途中であってもその職を失う[19]

  • 定数:18名
  • 2023年(令和5年)5月1日〜2027年(令和9年)4月30日
  • 議長:広野恭代(ひろのやすよ)みらい、1期
  • 副議長:石上友寛(いしがみともひろ)新風、1期
会派名 議席数 議員名(◎は代表)
市民クラブ 4 ◎地下誠幸、鎌倉金、石上允康、岩井文男
新和会 4 ◎野平仁人、宮崎光子、桶谷範幸、石神嘉明
新風 3 ◎池田健一、石上友寛、髙根一芳
みらい 2 ◎釜谷藤男、広野恭代
公明党 2 ◎加瀬栄子、塙保
立憲民主党 1 ◎加瀬庫藏
日本共産党 1 ◎笠原幸子
緑の会 1 ◎工藤忠男

※2024年(令和6年)1月31日現在

委員会

地方公共団体の議会には、常任委員会、議会運営委員会及び特別委員会の3種類の委員会を置くことができる。行政の多岐化・専門化に対応して、議会内部の事案調査・審査の徹底を図り、能率的な議事運営を期するためである。常任委員会の数は、1956年(昭和31年)の「地方自治法」改正により人口30万人未満の市は4以内と定められていたが、2000年(平成12年)の「地方自治法」改正により委員会数を定める規定は廃止された[19]。銚子市議会は2023年(令和5年)7月現在、総務企画・教育民生・産業建設・予算・決算の5委員会を置いている[93]

  • 常務委員会
    • 総務企画委員会(6人)
    • 教育民生委員会(6人)
    • 産業建設委員会(6人)
    • 予算委員会(9人)
    • 決算委員会(9人)
  • その他の委員会
    • 議会運営委員会(7人)
    • 議会だより編集委員会(7人)
会議

議会は会議を通じて活動を行う。地方公共団体の長が議会を招集し、招集は開会日前7日までに告示しなければならないが、緊急に招集する必要があるときは短縮することができる。会議には、年4回以内において条例で定める回数を招集する定例会と、必要かつ緊急な場合にその事件に限って付議できる臨時会とがある。本市の「市議会定例会条例」は定例会の回数を毎年4回と定め、定例会規則でその開催時期を毎年3月、6月、9月、12月と定めている。ただし、都合により招集の時期を繰り上げ、又は繰り下げすることができる。議会は長の招集行為によって活動能力を与えられるが、招集後の議会運営は自主的に行われ、会期の決定・延長、開会・閉会は議会が決定する。銚子市議会定例会の会期はおおむね20日程度、臨時会については1日程度である[19]

千葉県議会 編集

  • 選挙区:銚子市・香取郡東庄町で一つの選挙区をなす。
  • 定数:2名
  • 任期:2023年(令和5年)5月1日 - 2027年(令和9年)4月29日
  • 2015年(平成27年)、2019年(令和元年)、2023年(令和5年)と無投票。
氏名 会派名
信田光保 自由民主党千葉県議会議員会

当選回数 6期

宮川太 自由民主党千葉県議会議員会

当選回数 2期

※2024年(令和6年)1月31日現在

国会 編集

議員名 党派名 当選回数 備考
林幹雄 自由民主党 11 選挙区
谷田川元 立憲民主党 3 比例復活

国家機関 編集

 
銚子港湾合同庁舎

国家機関 編集

法務省
財務省
厚生労働省
  • 千葉労働局銚子労働基準監督署
  • 千葉労働局銚子公共職業安定所
 
銚子海上保安部巡視船かとり
国土交通省
裁判所

県機関 編集

  • 千葉県海匝保健所(海匝健康福祉センター)
  • 千葉県銚子児童相談所
  • 千葉県銚子土木事務所
  • 千葉県銚子水産事務所
  • 千葉県銚子漁港事務所
  • 千葉県水産総合研究センター流通加工研究室銚子分室
  • 千葉県旭県税事務所銚子支所
  • 千葉県北総教育事務所東総研修所

経済 編集

 
銚子半島航空写真

本市は豊かな自然環境と首都圏に位置する立地条件を活かし、水揚量と水産物流通加工機能によって全国一の地位にある水産業を中心として、生鮮野菜の一大供給基地となった農業、長い歴史と高度な技術力を有する水産加工業と醤油製造業、東総地域の中核として発展してきた商業、そして犬吠埼屏風ヶ浦等の景勝地に恵まれた観光業等の複合産業都市として発展している[19]。多角的でバランスの取れた産業構造が特徴であり[4]、各産業の性質上景気の影響を直ちに受ける度合いは少なく、安定した経済基盤を有している[19]。また、市では「ゼロカーボンシティ」を表明し、「再エネ海域利用法」促進区域における洋上風力発電事業を推進している[49]2018年平成30年)度の産業別就業者では、第一次産業に10.7パーセント、第二次産業に28.5パーセント、第三次産業に58.4パーセントが従事している[94]

企業・組織 編集

ヤマサ醤油本社
銚子商工信用組合本店
銚子信用金庫本店

市内に本社・本店を置く主な企業・組織 編集

  • 関東警備保障
  • 兆星
  • 飯田商店
  • 銚子プラザホテル
  • ヤマヘイフーズ
  • 嘉平屋
  • 坂本飼料
  • 銚子メディクス
  • 大一奈村魚問屋
  • ヤマニンベン
  • マルヒカリ水産
  • 一政水産
  • マルヤス建設工業所

漁業 編集

銚子漁港第1卸売市場
外川漁港

漁業は本市の経済を根本的に支える主産業である。銚子沖には水深200メートルの大陸棚が広がり、北からの親潮(寒流)、南からの黒潮(暖流)が交錯し、また、利根川からの有機物を含んだ真水の流入等により、全国屈指の好漁場が形成され、我が国三大漁場の一つである。その漁業種類も網漁業・延縄漁業・釣り漁業と多種類で、銚子漁港は水産物の一大物流加工拠点である総合漁業基地として大きく飛躍してきた。銚子漁港に所属する在籍船数は大小合わせ300数隻程おり、代表的漁業は、旋網漁業をはじめ、沖合底曳、小型底曳、サンマ棒受網、大目流網、一本釣り延縄等であり、銚子沖合を主漁場として沿岸沖合漁業が周年操業されている[19]

2022年令和4年)度の銚子漁港の水揚高は、数量23万7028トン(全国1位)、金額228億4840万円(全国4位)である[95]。漁港の魚市場に水揚げされた鮮魚は、そのまま、トラック輸送で京浜市場のほか関東地方各地へ、さらには関西方面へも出荷される。また、市内の水産加工業者によって各種食品に加工される[4]。水揚げされる魚種は、サバマイワシといった多獲性魚のほかに、カツオマグロ等の回遊魚、キンメダイヒラメカレイ等の底魚等、200種類に及ぶ近海の魚介類が水揚げされる。この水揚量の約92パーセントは、マイワシ(79.4パーセント)、サバ(12.9パーセント)、が占め、水揚金額でもこの2魚種が全体の約55パーセントを占める。主要な魚種としては、マイワシ18万8105トン、サバ3万633トン、ブリ類5777トン、カツオ1824トン、ビンナガ1419トンとなっている。銚子漁港に水揚げされる全てのマグロは冷凍ではなく生マグロという大きな特徴がある。また、5〜7月のマイワシは「入梅イワシ」と呼ばれ、特に太って丸みがあり1年の中で最も脂の乗りがよいことが知られている。そのほかにキンメダイは「銚子つりきんめ」としてブランド化されている[95]

水揚数量では、地元以外の廻船によるものが85パーセントを占めており、地元船以外の多くの廻船による銚子漁港への水揚げは、市の産業経済にとって極めて重要となっている[95]。このため、銚子市漁業協同組合は、1979年(昭和54年)以来、市から補助を受けて、廻船誘致対策事業として船籍漁協訪問、新規漁船の入港誘致、入港漁船や廻船乗組員へのサービス提供等を実施している[19]2023年(令和5年)3月に策定された「銚子市ゼロカーボンビジョン」においては、ICTを活用した漁場の可視化と漁業への活用、藻場の育成、船舶の脱炭素化の推進等が掲げられている[49]

漁業経営体 編集

 
銚子漁港第2漁船渠

2018年(平成30年)の漁業センサスでは、海面漁業経営体が106経営体で、うち個人で営んでいるものが97経営体、会社が営んでいるものが8経営体、漁業生産組合で営んでいるものが1経営体で、漁業種類別経営体では、沖合底曳網漁業が2経営体、小型底曳網漁業が6経営体、大中型旋網漁業が6経営体、刺し網漁業3経営体、サンマ棒受網漁業4経営体、延縄漁業13経営体、釣り漁業70経営体、採貝・採藻4経営体、その他の漁業9経営体である[95]

内水面漁業 編集

本市における内水面漁業は主に利根川における漁業である。養殖用ウナギの稚魚であるシラスウナギ漁(12月〜4月漁期)を中心に行われており、全国有数の水揚量となっている[95]

栽培漁業 編集

資源の維持増大による漁業の振興を図るため、マダイヒラメ、フナ、ウナギの種苗放流を実施している。なお、マダイについては、中間育成した後に放流された[95]

漁港 編集

 
銚子漁港航空写真国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成)

銚子漁港は近世において東廻り海運と利根川水運の中継港として発展した銚子港すなわち商港がその始まりであった。明治期に入り、商港の機能が失われて漁港へと転換していったものである。この利根川の河口港を近代的な漁港として整備し、銚子発展の基盤とするため、銚子漁港修築促進運動が台頭したのは大正期であった。全町を挙げての運動が奏功して、1925年(大正14年)11月に第1期の漁港修築工事が開始された。以来、戦後の第3次漁港整備計画からは毎年継続して銚子漁港整備事業が実施されてきた。これにより、銚子漁港は、我が国最大の規模と機能を有する特定第3種漁港となっている[2]。銚子漁港の整備計画で漁港の機能施設としての公共施設用地の埋立造成が盛り込まれたのは、1969年(昭和44年)度からの国の第4次漁港整備計画においてであった。その後の第5次以降の漁港整備計画においても引き続いて計画され、実施されてきた[19]。川口・黒生地区には水産物産地流通加工関係施設、銚子ポートタワー等の観光施設、ウオッセ21等の水産物販売施設等が立地し、漁業関連産業の中心地となっている[4]。銚子漁港では、2014年(平成26年)度に市場食堂、女性部活動拠点施設等を併設した高度衛生管理型の第1卸売市場が、2017年(平成29年)度には第3卸売市場に隣接して新たな製氷工場が完成した[95]。2022年(令和4年)度に策定された「圏域総合水産基盤整備事業計画」においては、第3卸売市場の高度衛生管理型及び前面岸壁の耐震強化の整備を一体的に進め、水産物の品質向上や輸出促進に取り組むとともに、漁船の大型化に対応する岸壁等の整備を実施し、生産流通機能の一層の向上を図ることとしている。第3卸売市場整備にあわせて、タブレットを活用した電子入札の導入が検討されている[96]

外川漁港は、江戸時代明暦年間に銚子に移住した紀州人崎山次郎右衛門によって開発された。大正時代に至るまでこの漁港は外川地区の漁業基地として大きな役割を果たしてきたが、漁船が動力化し大型化してきたことから、1922年(大正11年)以後、高神村が、のちに市が漁港改修を進めた。しかし外洋に直面して漂砂堆積が著しかったため、漁業協同組合、地元住民等が県営移管と国の漁港整備による改修促進運動を進めた結果、1969年(昭和44年)6月に県営移管と第4次漁港整備計画への組み入れが実現し、以後漁港修築事業が進められた[19]2002年(平成14年)4月1日施行の「漁港漁場整備法」により、共同漁業権内における漁港と漁場の一体的かつ効率的に整備することを基本方針とし、資源管理型漁港・つくり育てる漁業への支援、狭隘な漁港形態を解消するための新泊地と埋立用地の整備等、より効率的な流通機能の向上及び円滑な漁業活動と漁家経営の安定を図るための整備を推進している[95]。後背地の公共用地の埋立造成は1977年(昭和52年)度からの第6次漁港整備計画で着手され、その後、第8次、第9次の整備計画において実施された。この公共用地には、漁港機能施設としての水揚荷捌施設、製氷貯氷施設、漁村センター、漁船漁具保全施設等が整備されている[19]。外川漁港にはキンメダイ漁を行うキンメ船団が集結しており、ブランド水産物「銚子つりきんめ」の漁獲、資源管理、PRを行っている。2006年(平成18年)には、外川漁村が「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」に選ばれ、まち歩きをする観光客が増加している[95]

水産物流通と魚市場 編集

  • 銚子漁港魚市場

銚子漁港魚市場は、銚子漁港の築港に伴い、1924年(大正13年)1月に千葉県が従来の生魚商組合による10か所の魚市場と本銚子漁業組合による共同販売所とを改修統合して開設され、千葉県水産株式会社がこれを借り受けて魚市場を開設したのが最初である。1934年(昭和9年)には、銚子市飯沼町に千葉県が設置した魚市場を千葉県水産株式会社が継続借り受けして市場業務が行われた。銚子漁港魚市場は当初から県有民営方式であったが、1972年(昭和47年)2月、千葉県は銚子漁港魚市場を銚子市漁業協同組合に払い下げ、民有民営方式が実現した。なお、この魚市場は、1973年(昭和48年)2月8日、千葉県知事許可により「卸売市場法」に基づく地方卸売市場となった。名称は銚子市漁業協同組合地方卸売市場、市場開設者は銚子市漁業協同組合であるが、銚子漁港魚市場と呼ばれている[19]

銚子漁港には3か所の卸売市場があり、取り扱う魚種はそれぞれ異なる。第1卸売市場では主にマグロ類、第2卸売市場ではサバ、マイワシ等の多獲性魚、第3卸売市場では主にキンメダイやヒラメ、カレイ、ヤリイカ等の底魚を中心に取り扱われる。魚市場は、平日の午前7時から午後5時まで営業している。取引の方法は入札方式で、市場手数料は3パーセントである。買受人は、鮮魚出荷業者、一般加工業者、冷凍業者、缶詰業者、練り製品業者、鮮魚小売業者で212人が登録されている[95]。銚子漁港魚市場に水揚げされた魚類の入札後の流通についてみると、イワシ、サンマ、サバ等の大衆魚は、大部分が加工業者等の工場に運ばれて加工され、水産加工品となってから市外に出荷される。その他の魚は鮮魚として消費されるが、市内の小売店において販売される量は全体からみればわずかで、大部分は市外へ出荷されている。仕向け地は東京都関東各県、東北地方中部地方関西地方である。量的には東京都が最も多く、次いで関東各県である。輸送はトラック輸送である。鮮魚出荷は、銚子漁港魚市場の買付人である鮮魚出荷業者によって行われているが、大衆魚を鮮魚で出荷する場合は加工業者が出荷することもある。いずれにしても生産地である本市においては、水揚げから出荷までの中間業者は、市場の卸売人である銚子漁協と買付人である鮮魚出荷業者や加工業者だけである。市内の小売業者もほとんど買付人になっているので、卸売人と小売業者の間に中間業者が入ることはあまりない。出荷先は仕向地の中央卸売市場や地方卸売市場である[19]

  • 外川漁港魚市場

外川漁港においては、戦前から、旋網漁業によるイワシの水揚げが行われていた。戦後には、1950年(昭和25年)7月、千葉県が新設した「銚子漁港魚市場条例」に基づいて、新設した新生魚市場の開設者として銚子市外川漁業協同組合を承認した。これにより、外川漁港を基地とする旋網漁船のイワシ、サンマがこの魚市場に水揚げされるようになった。その後、1959年(昭和34年)に新生魚市場が閉鎖された後には、銚子漁港魚市場に水揚げされたが、漁業者と水産加工業者との相対取引であった。しかし、外川漁港修築の進展に伴って、1977年(昭和52年)10月24日に、銚子市外川漁業協同組合地方卸売市場の開設と卸売業務の知事許可を得て、1980年(昭和55年)4月にイワシ市場業務が開始されることとなった。イワシ以外の魚種については、戦前は魚商との直接取引、戦後は外川漁業協同組合による共同出荷で、ほとんどがタイ、ヒラメ等の活魚の市外出荷であった。その輸送は、酸素補給の活魚槽の専用トラックによる運送業者委託である。なお、活魚出荷体制を整え、魚価低落時の出荷調整を図るため、1965年(昭和40年)度に沿岸漁業構造改善対策事業によって銚子市がかん水蓄養施設を設置し、その管理を銚子市漁業協同組合外川支所(旧銚子市外川漁業協同組合)に委託している[19]

ブランド 編集

  • 銚子つりきんめ

2006年(平成18年)に「千葉ブランド水産物認定制度」第1号に認定されている銚子つりきんめの漁場は、銚子沖合約50キロの太平洋で、日本近海のキンメダイの生息地の北限である。この辺りは、黒潮と親潮が交錯し、餌となるプランクトンや小魚類が豊富な海域となっている。漁法は底立て縄と呼ばれる手釣りであり、非常に手間がかかるが、魚体を傷めないための最善の漁法とされる[95]。銚子産のキンメダイは、周年脂ののりの良いことが特徴である[95]。2018年(平成30年)開催の「第6回Fish-1グランプリ」のプライドフィッシュ料理コンテストでは、銚子つりきんめ煮炙り丼がグランプリを受賞している[97]

銚子市漁業協同組合 編集

 
銚子市漁業協同組合

水産業協同組合は、1949年(昭和24年)2月15日施行の「水産業協同組合法」に基づき、漁民及び水産加工業者の経済的・社会的地位の向上と水産業の生産力の増進を図るための協同組織である。漁業協同組合という名称は、1933年(昭和8年)の「漁業法」改正によって、それまでの漁業組合が法人としての漁業協同組合となって用いられるようになった。漁業協同組合は、市町村やその内の一定地区を単位とする一般通常の組合を地区漁業協同組合と称し、本市では、沿海地区漁業協同組合として銚子市・銚子市外川・銚子市黒生・銚子市西の4漁業協同組合が、内水面漁業協同組合として下利根・中利根の2漁業協同組合があった。また、組合の地区が市町村区域等を越えて特定の漁業を営む関係者だけで構成する組織を業種別漁業協同組合と呼び、本市では、千葉県鰹鮪・千葉県機船底曳網・千葉県小型機船底曳網・銚子市川口の4漁業協同組合があった。漁業協同組合が行う主な事業は、組合員への資金貸付、貯金等の受入、物資の供給、共同利用施設の経営、漁獲物の運搬・加工・保管・販売等である。また、漁業権の管理も主要な漁業協同組合の事業であり、知事の許可を受けた漁業権行使規則又は入漁権行使規則によってその管理を行う[19]

1996年(平成8年)8月26日、市内銚子地区6漁協と呼ばれた銚子市・銚子市外川・銚子市黒生・銚子市西・千葉県小型機船底網・銚子市川口の各漁業協同組合が対等合併した新銚子市漁業協同組合が発足した。2002年(平成14年)1月には、新漁協のペイオフ対応と経営基盤の強化・健全化のために、信用事業を系統機関である千葉県信用漁業協同組合連合会に譲渡したのち、同年9月1日付けをもって、それまでの旧漁協独立性保持の体制から財務管理・組織管理上の完全統合による実質一体化が実現した[19]

海事事務 編集

銚子海運支局局は、国土交通省(旧運輸省関東運輸局の所掌事務の一部を分掌する海運支局であった。組織改正により2002年(平成14年)7月から銚子海事事務所となったのち、2003年(平成15年)4月からは茨城運輸支局鹿島海事事務所に統合された。本市は「船員法」に基づく指定市とされ、船員手帳の交付、書換等の業務を行っている[19]

水産ポートセンター 編集

 
銚子ポートタワー

水産ポートセンターは、千葉県はもとより我が国を代表する水産都市銚子にふさわしい水産と観光を結びつけた新施設として、1991年(平成3年)6月23日にオープンした。千葉県の「ふるさと千葉5カ年計画」に基づいて、県が事業主体となる銚子ポートタワーと水産関係公共施設、第三セクターによる水産物即売センター(ウオッセ21)の3種の施設が銚子漁港を眼下に展望する高台に建設された。なお、「ウオッセ21」の愛称は市民から公募したもので、ウオ(魚)+メッセ(市場)+21世紀の造語である[19]

  • 銚子水産観光株式会社

銚子水産観光株式会社は、1989年(平成元年)設立の第三セクターで、1991年(平成3年)6月23日にオープンした水産ポートセンターの一角を占める水産物卸売センター(ウオッセ21)を建設し、その店舗賃貸、管理運営、観光物産等の販売斡旋等を事業内容とする[19]

農業 編集

 
キャベツ畑と風力発電所(高田町)

本市は夏涼しく冬暖かい気候であり、気温の年較差は千葉県内で最も小さく、1月と2月の月平均最低気温は0度を下らない[4]。この気候条件と東京から100キロメートル圏内という地理的な利便性を生かし、268億円の粗生産額をもつ農業が展開され、県下有数の農業都市となっている[80]。伸び続けている生産額は、変動しながらも拡大してきた野菜生産によっている。粗生産額全体のうち野菜が152億円で全体の57パーセントを占め、次いで畜産が110億円、が4億円となっている。春キャベツと春ダイコンの作付面積は全国1位を誇り[80]、京浜地帯や京葉地帯等、首都東京を中心とする周辺都市への生鮮野菜の供給基地に位置づけられている[19]

本市の総耕地面積は2540ヘクタールで、うち水田面積は545ヘクタール、畑地面積は1990ヘクタールと約80パーセント近くが畑地であり、畑作中心の営農が展開されている[80]水田は主に、利根川に沿う低地に集落と混在しながら、また台地を刻む狭い谷に谷津田として分布している。土地改良事業により畑が増加傾向にある反面、水田が減少し、また灌漑排水事業により施設園芸が増加し、安定した農業経営の条件が整ってきている[19]。販売農家戸数は1007戸で、うち専業農家が560戸、第1種兼業農家が300戸、第2種兼業農家が147戸となっており、専業農家率は55.6パーセントで千葉県平均の30.6パーセントを大きく上回り、千葉県内トップである[80]

生産額の高い主な品目はキャベツ、、ダイコン、ブタ等である。キャベツは1953年(昭和28年)に作付けが開始され、1957年(昭和32年)に「灯台印」銚子市蔬菜組合連合会が結成されて以来、県や国の特産地指定を受けてきた。銚子のキャベツ栽培は1月から5月に収穫するものであったが、次第に早春の3月から4月の収穫へと変わり、更に新品種導入により、晩秋から初夏までの長期間出荷が可能になった。キャベツは年に2作のキャベツ中心型の経営農家が多い。またキャベツは冬の温暖な気候を利用して栽培されるため、市域東南部の海岸に面した台地に多く作付けされている。京浜市場までトラックで2時間余りという位置と恵まれた自然条件とから、銚子の「灯台印」キャベツは京浜市場で大きなシェアを占めている。ダイコンはもともと自家用として古くから栽培されていたが、1960年代に冬ダイコンの、1980年代に春ダイコンの産地指定を受ける等、急速に生産が増加してきた。ダイコンの作付けは利根川沿いの内陸部に比較的多く、キャベツとは異なった作付分布を示す。また、ダイコンはニンジンジャガイモ等、他の野菜と組み合わせて作付けされている[4]。その他、1970年代から急増したメロン・キャベツを冬作としたときの夏作としてのスイカイチゴ等の果物類も多く生産され、青パパイヤの産地化へ向けた取組もなされている。6次産業化による付加価値生産事業者は少なく、今後期待される食品加工産業分野である[80]

農家1戸当たりの経営耕地面積は230ヘクタールで、経営耕地面積別経営体数では300戸以上の農家が全体の24パーセントに相当する245戸を占める。1戸あたりの栽培面積が増加し農地の集約化が進んだことで、最近20年で3ヘクタール以上の農家数が約2.5倍と大幅に増加していることから、経営規模拡大に対応した農業経営の効率化、労働力の確保、ICTの活用等による農業振興が目指されている[80]。本市においては、圃場・灌漑用水整備事業、東総用水事業、農業用道路・水路の整備、後継者育成対策、地域農業活動拠点の整備、環境対策、農業金融対策等を進めている[19]

主要農産物 編集

  • キャベツ - 作付面積1908ヘクタール(2016年)
  • ダイコン - 作付面積974ヘクタール(2016年)
  • 水稲 - 作付面積471ヘクタール(2016年)
  • ジャガイモ - 作付面積51ヘクタール(2015年)
  • トマト - 作付面積51ヘクタール(2016年)
  • メロン - 作付面積50ヘクタール(2015年)
  • ニンジン - 作付面積26ヘクタール(2015年)
  • スイカ - 作付面積22ヘクタール(2015年)
  • イチゴ - 作付面積12ヘクタール(2015年)
  • 落花生 - 作付面積7ヘクタール(2017年)

野菜指定産地 編集

農林水産省による野菜生産出荷安定法、および本法に基づき本市が指定された野菜[98]

  • キャベツ - 春キャベツと冬キャベツが指定されている。
  • ダイコン - 春ダイコン・秋冬ダイコンが指定されている。
  • トマト - 夏秋トマト・冬春トマトが指定されている。

農業生産基盤 編集

千葉県東部地域では、東総用水事業の県営灌漑排水事業や県営畑地帯総合土地改良事業等により生産基盤整備が集約的に進められてきたが、本市全域、東庄町南部、飯岡町海上町東部における基幹農道網の整備による生産流通の合理化が必要とされ、1994年(平成6年)2月から東総台地地区広域営農団地農道の建設工事が進められている。千葉県が主体となって整備するもので、銚子市長塚町六丁目を起点に新町を経由し、東庄町小南地先の主要地方道多古笹本線に接続する総延長11.8キロメートルの基幹農道である[19]。銚子側の1期地区は2002年(平成14年)度に事業を完了し、同年度から2期区間の整備が進められている。

  • 東総用水事業

東総用水事業は、利根川を水源として、下総台地の本市はじめ1市4町の農地2800ヘクタールへの灌漑用水と、本市はじめ2市4町の約20万人への水道用水の安定供給を行う多目的利水事業として構想された。下総台地における農業は、土壌は肥沃であるが天水に依存していたために干ばつを受けやすく、また、生活用水も一部を除いては浅井戸を利用して水量・水質とも不安定な状況にあったことから、農業経営近代化と環境衛生向上を図るため水源の確保が必要とされていた。このため1978年(昭和53年)3月から水資源開発公団営事業として、東庄揚水機場工事、導水路工事、ファームボンド工事が逐次進められた。あわせて1981年(昭和56年)からは県営事業である灌漑排水事業、畑地帯総合土地改良事業が実施された。1984年(昭和59年)8月には農業用水が通水開始となり、最初に銚子市桜井地区31ヘクタールに通水された。公営団事業については、1989年(平成元年)3月に事業が完了し、以後県営事業による末端施設事業が推進されている[19]

地域農業拠点 編集

  • グリーンホーム銚子(予冷貯蔵施設)

農業センター構想に基づく地域農業活動拠点の一つとして、特産物の鮮度保持と調整機能をあわせ持つ国内最大級の予冷貯蔵施設を建設し、集出荷の効率化と有利な販売促進を図ろうとするものであり、1994年(平成6年)度から翌年度にかけて新町に建設された[19]

  • アグリタウン銚子(地域農業総合管理施設)

農業生産から生産物販売までを1か所に集中した総合管理施設で、1996年(平成8年)度にグリーンホーム銚子と道路を隔てて建設された。野菜生産地としての将来発展を展望して、営農生産指導・農業経営指導の充実、土壌分析による健全な土づくり、農業情報ネットワーク構築による情報発信、蓄積データによる営農指導、各種研修・講習会に活用される[19]

  • 真空与冷庫

1996年(平成8年)度に既設の与冷庫に替わって小浜町に設置され、未成熟トウモロコシチンゲンサイ等を対象とする[19]

  • トマト選果施設

1995年(平成7年)度に新町地内の野菜集出荷所に設置された。これによりトマトの果実の選果が機械化され、出荷・調整作業が大幅に省力化された[19]

農業団体 編集

 
ちばみどり農業協同組合銚子支店

工業 編集

本市は事業所数・従業者数・出荷額等の総体において東総地域最大の工業都市である[99]。本市の製造業の中で、最も本市としての特殊性を有し、かつ本市の経済を支える重要な位置を占めているのは、水産加工品と醤油を双璧とする食料品製造業である。2014年(平成26年)においては、事業所数の60パーセント、従業員数の80.76パーセント、製造品出荷額の90.02パーセントと大きな比率を占めている[80][19]。製造品出荷額等からみた食品製造業に続く業種は、飲料たばこ飼料、金属製品、輸送用機械鉄鋼、生産用機械、繊維プラスチック印刷、汎用機械、ゴム、その他である[85]。市内では内陸部の国道126号沿いの小浜工業団地18.2ヘクタール、名洗港内の臨海工業用地28.2ヘクタールが造成されているほか、銚子漁港外港部の川口・黒生地区に造成された埋立地には水産物産地流通加工センターが形成されている。市の工業振興策としては、立地条件改善のための市内広域交通体系の整備、生産基盤整備のための工業用地・用水の整備、経営体制整備のための経営共同化・合理化の促進、設備近代化の促進、企業診断・経営指導の充実促進、金融対策としては、制度資金利用の促進、市預託融資の充実化等を図っている[19]

醤油製造業 編集

 
ヒゲタ醤油銚子事務所

本市において醤油・食用アミノ酸製造事業所数は4、このうち主に醤油、食用アミノ酸を製造している事業所数は2である[85]1980年代に醤油の製造品出荷額等は400億円台であったが、2019年(令和元年)には800億円を超えている[100]。本市の醤油製造業は、江戸時代の前期に始まる古い歴史を有し、本市における最も主要な産業の一つである。本市には全国の大手醤油メーカーのうち、ヤマサ醤油株式会社ヒゲタ醤油株式会社の2社がある。市内の醤油製造業の全国シェアは大手2社を主に15パーセントを占め、市内における企業としては別格の地位にある[19]。2019年(令和元年)度において、市内の171の製造事業所による出荷額等の約44パーセントが主に醤油を製造している3事業所によって生産されており、市内全出荷額等の約40パーセントを占める水産加工関係工業とともに市工業の基幹をなしている[100]

関連加工品が多い醤油製造業では、つゆ・たれ等の醤油加工調味料の開発・改良が進められるとともに、うま味調味料やだし類も製造されている。つゆ・たれ類には、希釈用の濃縮つゆ、ストレートつゆ、めん類用つゆ、なべ物用つゆ・たれ、魚調理用つゆ・たれ、どんぶり物用たれ、めん類用スープ等がある。国民の食品嗜好や需要の変化に対応して、醤油製造業から発展して関連企業を独立させ、主につゆ・たれ類や水産物佃煮(瓶詰・パック詰)等を製造販売している。また、醤油の付加価値商品化が図られており、多種多様な製品が生産されている。市内で生産される醤油は、主として濃口醤油薄口醤油であるが、その種類は多岐に渡り、特に濃口醤油は家庭用に限ってみてもヤマサ醤油株式会社、ヒゲタ醤油株式会社の2社の商品は20種類を超えている。本市で生産された醤油は大部分が市外に出荷されており、市内で消費される量はわずかである。出荷先は関東地方を主として、全国に及んでいる。なお、ヤマサ醤油株式会社は1992年(平成4年)にアメリカ合衆国オレゴン州セーラム市に関連会社であるYAMASA CORPORATION U.S.A.を設立し、1994年(平成6年)7月に工場を完成させ、アメリカ、カナダメキシコ等に製品を出荷している[19]

このほか、醤油製造会社では、蓄積された研究開発技術により核酸関連物質を利用した医薬品原料、食品添加物化粧品原料、医薬品合成原料、研究用試薬、体外診断用医薬品、また、動物医薬用ワクチン抗がん活性物質抗ウイルス性物質、臨床検査薬、動物薬等の研究開発が進められている[19]

水産加工業 編集

本市における水産加工業は、全市の製造業のうち最も主要な位置を占めて、醤油製造業とともに市工業の基幹をなしている。工業統計調査結果でみると、本市の水産加工品として水産缶詰・瓶詰、海藻加工品、水産練製品、冷凍水産物、冷凍水産食品、その他の水産食料品といった食料品、また、配合・単体飼料、有機質肥料等が挙げられている。冷凍水産物とは、水産物を原料として前処理をせずに凍結設備を使用して採ったままの姿で冷凍したものをいう。また、冷凍水産食品とは、水産物を原料として前処理を施したものや切身、開き、三枚おろしすり身等に加工した後に冷凍し、凍結状態のまま包装したものを指す[19]

戦後の水産加工業の特色は、その主力が肥料用のイワシ搾粕から養殖飼料用の冷凍イワシに替わったことであった。また、サンマ・サバ漁の発展に伴って、食用の一般加工品の原料が、イワシからサンマ、サバ、アジへと推移した。冷凍・冷蔵施設の普及・発展によって市外・県外・国外からの移入・輸入による原料の長期保存が年間均等操業を可能とし、更に最適時期の出荷までの製品の保存を可能にした。そしてこのことが水産加工業者による原料売買という新しい流通形態を生じさせ、製造業経営における商業的要素が大きくなった。原料の安定供給による年間均等操業と経営規模拡大に伴って、従業者の常時雇用制度に移るとともに、機械導入による省力化が進み、コンベアフォークリフト、自動選別機、自動軽量機、自動割裁機等が導入された。1970年代頃から水産加工機器の発達は著しく、大型加工場が多かった銚子地域では冷凍・冷蔵施設の大型化が競って進められた。施設整備、経営近代化と原料の移入・輸入等により、水産加工機器の集積度では日本有数の存在となり、本市製造業の首座にある[19]

銚子産のサバの青切り、サバの開干し、サンマの開干しは、生産高日本一の地位にあった。また、イワシは市内の冷凍・冷蔵施設で処理され、関西・九州方面の魚類養殖用飼料として出荷してきた。しかし、戦後の本市の水産加工の中心であったサバ・サンマの水揚げが減少したため、1980年代からは水産加工の原料魚を諸外国からの輸入によるようになってきた。サバのノルウェーからの輸入は最も早い時期に行われたもので、本市ではサバの輸入量が最も多い。サンマは台湾韓国からも輸入されて、加工原料や解凍して鮮魚として出荷される。また、サケはノルウェー、カナダから、ホッケベーリング海産の輸入である。イワシは、アメリカ東海岸からの輸入で、市内では二次加工を除き大量に加工する業者は少ない。このように原料として輸入魚のウエイトが高まってきた中で、1990年(平成2年)4月、市の保税上屋許可が得られ、原料の入手流通の合理化がさらに進められた。本市での水産加工原料としての冷凍サバ・冷凍サンマ等の輸入魚の量は年々増加傾向にある[19]

近年、国民の健康志向がさらに強まる中で、食生活における水産物そのもの、また、家庭用の調理水産食品や外食用加工水産食品の需要も増えている。この状況のもとで、本市の水産加工業が日本有数の機能集積力を活かしてさらなる発展を目指すためには、中小・零細経営規模の改善、雇用・労働条件の整備、従業者の高齢化対策、漁獲量減少対策と原材料の安定確保、未利用資源の利用、施設整備の改善と環境対策等への対応等が課題となっている[19]。また、水産関連事業者における工場設備では、独立行政法人日本貿易振興機構(JETRO)、独立行政法人中小企業基盤整備機構等の積極的な海外輸出に対応するため、HACCP認証加工設備やISO対応工場を建設し、欧米の市場も視野に入れた販路拡大を目指している。これらの動きは、インバウンド増加による「食のグローバル化」に対応したものである[80]

水産加工品

2018年(平成30年)における本市の水産加工品の生産状況をみると、マイワシの水揚数量の36パーセントが生鮮、練製品、すり身、缶詰等の食用として、残り64パーセントが飼料として使用されている。サバは文化干しフィレー、開干し、青切りが関東を中心に販売されている。塩蔵サバは名古屋大阪京都神戸等の関西方面の大都市への販売が多く、鮮魚とともに関西方面に好まれている[95]

  • サンマ加工品

サンマの水揚高が増加したことと冷蔵施設の普及によって、さんま加工の専門化と製品の鮮魚化が進んだ。開干しや丸干し等の塩干魚は、よく乾燥したもので保存性には優れているが、銚子産のものは乾燥度が低い生干しで、鮮魚と塩干品の中間であった。しかし、1960年代から全く乾燥させない開干しが製造され、主流となっていった。コールドチェーンの発達に伴って、従来の生干しよりも鮮魚化が進んだ製品が生産されるようになった。サンマ開干しの生産量は全国一である[19]

  • サバ加工品

サバの加工品も、1960年代からの大量水揚げに伴って大いに行われ、サンマと同様加工の専門化と製品の鮮魚化も進んだ。製品としては、古くからの開干し、1970年代前半から飛躍的に伸びた青切、その直後に開発された文化干しがある[19]

  • アジ加工品

アジは銚子漁港での水揚高は少量で、それも鮮魚で出荷されるので、1970年代に本格化した加工の原料は移入・輸入の冷凍アジで、開干しが生産されている。その他の水産加工品の開発研究も進められており、近年の新製品としては、アジ開き(頭と中骨を取り除いて甘塩仕立てにした開干し)、サバフィレー(3枚におろして一時塩で調理したもの)、イワシつみれ(イワシのすり身に調味料を加え団子状にして煮沸したもの)、サバ味噌づけ・西京づけ、定塩サケ等がある。定塩サケは、ベニザケギンザケ等を背骨ごと2つ割りにして食塩水に漬ける等の新しい技術によって調味した塩サケで、魚全体に塩をまぶす新巻サケに比べて塩味が均一であることから定塩サケと呼ばれている[19]

冷凍冷蔵業・製氷業 編集

本市における戦後の冷凍冷蔵能力は、1947年 (昭和22年)に11工場であったが、1956年(昭和31年)に28工場へと増加し、その能力も製氷生産133.5トン、冷蔵6832トン、貯氷4006トンとなった。以後も水産加工業者による冷蔵庫の増設が進み、1980年代には冷蔵庫保有業者数は150業者、冷蔵能力は約15万トンとなり、飛躍的な普及拡大を遂げた。この中で、新しい営業形態としての冷蔵業が盛んとなってきた。専業業者はなく、一般加工業者による兼業業務として行われている。主としてイワシ・サバ・サンマを加工原料・飼料用に自家の冷凍冷蔵庫に保存し、そのままの形で冷凍加工原料魚、冷凍飼料として出荷する。自家で冷凍するもののみではなく、他業者の冷蔵庫を利用する場合、既に冷凍済みのものを移入する場合は、市内の他業者が冷凍したもの等を買入れる場合がある。出荷先は、加工原料については多くが市内業者で、市外でも本市近隣地であり、飼料については県外の養殖業者である[19]。2018年(平成30年)においては、冷凍冷蔵工場は69工場で全国3位、1日あたりの凍結能力は3402トンで全国15位となっている[95]

氷は船積み用・鮮魚出荷用その他、水産業における必需品であり、製氷業は冷凍冷蔵業務とは別に専門業者、漁業協同組合、水産業者の製氷工場で行われている。本市で最初に製氷を行ったのは日銚製氷株式会社の工場であったが、その後の変遷があって1945年(昭和20年)12月には日本冷蔵株式会社の製氷工場と変わった。1948年(昭和23年)6月には日本冷蔵株式会社の新工場が操業を開始して、2工場で日産50トンとなった[19]。2018年(平成30年)の製氷工場数は7工場、製氷能力日産778トン、貯氷能力8150トンである。また、製氷工場については、銚子市漁業協同組合が2001年(平成13年)度、2017年(平成29年)度に建設した製氷工場がある[95]

缶詰製造業 編集

 
田原缶詰

本市における缶詰製造の歴史は1879年(明治12年)に行われたイワシ油漬缶詰の試験製造に始まったとされるが、企業としての缶詰生産は明治後期に本格化した。1906年(明治39年)のクジラの豊漁に刺激されたクジラ大和煮缶詰製造、その後、大正期にかけてクジラ以外の水産缶詰製造業定着を経て、昭和初期のイワシ豊漁に伴うイワシの大和煮・トマト煮、油漬製造の増加によって、銚子の缶詰事業は急激な発展を遂げた。戦時中の経済統制下では、市内の18工場をもって銚子合同缶詰株式会社が設立され、追って千葉県合同缶詰株式会社が発足したが、戦後にこの企業合同は解体された。その後、サンマ、サバの大量水揚げと冷凍冷蔵設備の整備によって、主に国内向けのサンマ、サバ缶詰製造が盛んになり、新規工場も加えて1956年(昭和31年)末には11社となった。1980年代半ばまでは、それまでのサバの豊漁と国内他地からの移入増加、イワシ水揚量の増加によって、輸出向けのサバ缶詰と多種多様な国内向け缶詰の生産が進んだ。しかし、この時期を過ぎると次第に円高傾向が強まって、輸出向けから国内向けへと販路の転換を迫られることとなり、水産缶詰製造業者は国内向け缶詰重視、他種兼業等の経営多角化を目指した[19]2014年(平成26年)における業者は2社であり[95]国連WFPを通じた援助物資としても缶詰を生産している[101]

戦前から1950年代まではイワシ缶詰が首位にあったが、これに代わってサンマ缶詰が1960年代まで、その後はサバ缶詰が圧倒的な強さで首位にあった。イワシ缶詰は1965年(昭和40年)末から生産量で第2位に復活している。このほかに、カツオ、マグロ、アジ、イカ、貝、サケ等の水産缶詰も製造されており、また、農産物を原料とする缶詰製造も行われている。本市の缶詰は戦前から東南アジア、アメリカ等へ輸出されていた。戦後は、中近東、アメリカ、ヨーロッパへも輸出されるようになった[19]

肥飼料製造業 編集

戦前の本市の主な水産加工品であった肥料イワシ、搾粕の生産は1950年代に終わり、魚を中心とする飼料生産が行われるようになった。飼料製品は魚粕である。魚体全部又は缶詰・一般加工品製造の際の残滓を蒸煮し、圧搾して水分を除き、乾燥して魚粕を製造する。魚粕は魚粉(ミール)、さらに配合飼料の原料となる[19]

練製品製造業 編集

本市における練製品製造業は明治中葉から始まった。1935年(昭和10年)以降は業者数も増え、新製品開発も行われたが、終戦直後は統制経済と食糧事情の悪化により練製品需要が高まったため、さつま揚げを主にその生産は急増した。練製品とは、魚肉をすり身にして蒸したり、焼いたり、油で揚げたりした食料品で、サメ類とタラを原料とする。種類としては半片蒲鉾鳴門、小魚を使った揚蒲鉾、イワシ・サバ等を原料とするつみれ等である[19]。出荷先は静岡以北で、特に関東・東北各地へ多く出荷されている。おでん種としての利用が多いため、冬期の生産量が増加する[95]

その他の加工業 編集

一般加工品・缶詰・練製品以外にも水産加工品はあり、通常その他の加工品として一括されている。主なものは節類・佃煮類・